
長編ミステリー【偽りの玉座】3話

深夜2時
国会議事堂の重厚な御影石(みかげいし)の輪郭を見下ろす総理大臣官邸の執務室は、昼間の喧騒が嘘のように、完全に切り離された静寂に包まれていた。
デスクの端に置かれたクリスタルグラスの中で、丸く削られた氷がかすかな音を立てて融けていく。
カランッ
注がれたスコッチウイスキーの琥珀(こはく)色が、デスクスタンドの淡い光を反射して、まるで生き物のように怪しく揺れていた。
内閣総理大臣・新田毅(ニッタ ツヨシ)は、革張りの背もたれに深く身体を預け、防弾ガラスの向こうに広がる東京の夜景を凝視していた。
52歳。
政治家としては最も油が乗り、権力の頂点に立つ男。
その顔からは、昼間の記者会見や国会答弁で見せる隙のない微笑は完全に消え去り、代わりにこの国の命運を背負う者特有の、深く冷たい孤独の影が刻み込まれていた。
その新田の斜め後ろ、部屋の入り口に近い壁際に、影のように微動だにせず佇む男がいた。

内閣総理大臣首席秘書官
刈谷 昭三 (カリヤ ショウゾウ)
刈谷は今年でちょうど還暦(60歳)を迎えた。
仕立ての良いチャコールグレーの三つ揃いスーツに身を包んでいるが、その痩躯からは、かつてシベリアの凍土で過酷な抑留生活を生き抜いた、戦後の日本政界の怪物「瀬島龍三(せじま りゅうぞう)」を思わせる。
無駄な脂肪を一切削ぎ落とした顔立ち、深く刻まれた深い皺、保持された鋭い眼光、そして何よりも、すべてを見通しながらも決して己の感情を外に出さない、硝子のような眼。
刈谷は、新田が20代で初当選を果たしたその日から、私設秘書として、影として、その歩みを支え続けてきた。
永田町という、欲望と裏切りが渦巻く伏魔殿において、新田にとって刈谷は単なる有能な部下ではない。
自らの政治的理想を共有し、新田の全ての信頼を与る唯一無二の「半身」であった。
デスクの上には、本日正式に決裁された極秘報告書が広げられている。

『国家情報保安局
完全稼働に関する進捗報告』
新田はグラスに手を伸ばし、一口含むと、喉を焼くアルコールの熱さを噛みしめるように、静かに呟いた。
「…ついに、ついにここまで来たな、刈谷。
日本国軍の法制化、そして国家情報保安局の稼働……。
私が初めてバッジをつけたあの日から、この国を縛り続けてきた見えない鎖を、ようやく一本ずつ断ち切ることができている。
戦後体制の呪縛から、この国を解き放つ瞬間が近づいているのを感じるよ」
刈谷は音もなく一歩前へ出た。
その声は、深夜の執務室の空気を一切震わせないほどに低く、しかし確かな響きを持っていた。
「…はい、総理。足掛け10年。
先生が総理になられたあの吹雪の日、私が事務所で申し上げた通りの景色でございます。
日本は今、半世紀以上にわたる歪みを正し、あるべき真の姿を取り戻そうとしております。
すべては先生の揺るぎない御意志と、それを後押しする天命の賜物(たまもの)でございます」
「……天命、か・・・・。」
新田は自嘲気味に微笑み、グラスを置いた。
その視線は、デスクの脇に置かれた一冊の高級な漆塗りのファイルへと移る。
それは、数日後に控えた皇居宮殿での『国事行為』に関わる、内閣の署名書類の束だった。
新田はファイルをめくり、内閣が閣議決定した政令や、各省庁の最高幹部の人事案が記された書類を一枚ずつ確認していく。
ここに総理大臣である新田が署名し、内閣の連署を以て皇居へ送り、天皇陛下の『御名御璽(ぎょめいぎょじ)』を賜ることで、初めて法律や人事の効力が完成する。
環境や時代が変わろうとも、憲法第7条に定められた国事行為という重みは変わらない。
それは、政府という世俗の実務機関が、歴史と伝統という絶対的な権威によって承認される、厳かで神聖な儀式だった。
新田の脳裏に、10年前に自身が総理大臣に就任した際、皇居宮殿の「松の間」で執り行われた『総理大臣親任式』の光景が鮮明に蘇る。

現在の天皇陛下――
「宗仁(むねひと)」陛下。
その御前に跪き、総理大臣としての任命を受けたあの瞬間、新田の背筋を走った戦慄は、今でも忘れることができない。
宗仁陛下は、お若くして即位されて以来、常に国民の安寧と世界の平和を祈り、一切の政治的偏向を持たず、ただ純粋な
「祈りの存在」として国を照らし続けておられた。
その佇まいから放たれる圧倒的な気品と慈愛。
しかし、その平穏な微笑みの裏には、かつて陛下が背負わされてきた、あまりにも深く残酷な傷痕があることを新田は知っていた。
「……刈谷、私はね、陛下を心から崇敬している。
陛下の御前に立つたび、自分の私欲や永田町の泥臭い権力闘争がいかに矮小(わいしょう)で、汚れたものであるかを思い知らされるのだ。
あの澄んだ瞳に見つめられると、この国を過ちへ導くことは決して許されないという、凄まじい厳粛さに包まれる。
我々政治家は、陛下の信託を受けて大政を預かっているに過ぎないのだ」
刈谷は頷き静かに返した。
「総理の皇室への真摯なる思いは、必ずや陛下にも届いているかと存じます。
大政を奉還し、内閣が実務を担う現代において、最高権力者がこれほどまでに皇室の正統性を重んじることは、国益そのものでございます」
新田は深くため息をつき、書類を閉じた。
「……だが、その聖域が今、歴史上未曾有の危機に瀕している」
新田の言う危機とは、現代日本が直面している構造問題――
「皇位継承問題」と「皇族数の減少」であった。
2019年 今は亡き前天皇(故・上皇陛下)が、江戸時代の光格天皇以来、実に約200年ぶりとなる歴史的な「生前譲位」を行われた。
この節目を経て、宗仁陛下に皇位が継承され現在の「令和」へと改元されたのだ。
あの時は日本中が新たな時代の幕開けを祝福するムードに包まれ、誰もが安泰を信じた。
だが、その華やかな祝祭の裏で先送りにされ続けた制度の歪みが、現在まさに限界を迎えようとしている。
皇室典範の規定では、皇位を継承できるのは「男系男子」のみ。
目下、次世代の皇位継承資格を持つ若き皇族は、現陛下の甥にあたる智久(ともひさ)様お一人のみという、薄氷を踏むような状況が続いている。
さらに、女性皇族が婚姻によって皇籍を離脱するため、皇室全体の人数は減少の一途をたどり、宮中祭祀(さいし)や公務の担い手すら不足しているのが厳然たる事実だった。
宗仁陛下がまだ東宮(皇太子)であられた頃、后である美子(みこ)さまとの間に授かられたお子は、長女の百合子(ゆりこ)内親王お一人だけだった。
「男系男子の伝統」を盾に、男子の誕生を頑なに求め続けた宮内庁の古参官僚たち。
そして、その意を汲むかのように連日過熱していった世論とメディアの無遠慮な報道は、実質的なバッシングとなって美子さまの心身を徹底的に追い詰めていった。
世継ぎのプレッシャーという、目に見えない無数の刃。
宮中という閉ざされた聖域の中で、お二人がどれほど孤独な戦いを強いられ、涙を流してこられたか、世間は何も知らなかった。
伝統の守護者を気取りながら、その実、前時代的な因習で自らの主をすり潰そうとする宮内庁という組織を、新田は心の底から蔑んでいた。
特権意識に胡坐(あぐら)をかき、事なかれ主義で時代に逆行するあの役人どもに、もはや皇室の未来を委ねるわけにはいかない。
新田が国家情報保安局を完全稼働させた狙いの一つは、いずれ宮内庁の持つ情報と権限をすべて剥奪し、あの閉鎖的な牙城を内側から完全に解体・再編することにあった。
新田は、この美しい権威、宗仁陛下こそが日本の国体そのものであり、命に代えても守り抜かねばならない聖域だと、魂の底から誓ったのだ。
「……国会では、女性宮家の創設や、旧宮家の男系男子を養子に迎える案などが議論されているが、どの党も伝統派と改革派の板挟みになり、世論を恐れて腰が引けている。
皇室典範の改正は、国家の根幹を揺るがす劇薬だからな、、、。
だが、、、誰も手をつけずに座して死を待つというなら、私がやる。
この圧倒的な政権基盤を用いて、宗仁陛下の御代のうちに、皇室の永久なる存続のための法改正を成し遂げてみせる・・・。」
新田は拳を固く握りしめた。
国軍を組織し、アメリカから自立した強い国家を作るためには、その中心に絶対的な正統性を持つ皇室がなければならない。
それが新田の揺るぎない国家観だった。
「……しかし、かつての我が正道党には、その神聖なる存在すらも、己の権力拡大の道具にしようとしていた不埒(ふらち)な輩がいた」
新田の口調が、急激に冷え切った。
思い浮かべているのは、14年前に消えた、あの男の顔だった。
2022年(令和4年)
当時、38歳の中堅議員だった新田にとって、日本正道党の最大派閥の長であった若林は、超えられない巨大な壁であり、同時に最も忌むべき「政治の膿」そのものだった。
若林は、卓越した選挙戦術と圧倒的な資金力、形成されたネットワーク、および冷酷な人事権で党内を牛耳っていたが、その政治手法は極めて利己的で強欲だった。

若林は新田の持つクリーンなカリスマ性と、高い国家理念を危険視し、徹底的に冷遇した。
「若造が国家を語るな」
それが若林の口癖だった。
若林は新田の表舞台への登用をことごとく握りつぶしてきたのだ。
新田はふっと鼻で笑い、ウイスキーのグラスを揺らした。
「……あの男が唯一、国家に遺したまともな『功績』があるとすれば……
上皇陛下が譲位の御意向を示された際、それを認めるための『皇室典範特例法』を強引に通したことぐらいだな。
約200年ぶりという歴史的な大事業の受け皿を作った。それだけは認めざるを得ん」
「…左様でございますね。あの特例法のスピード決着は、若林先生の剛腕あってこそのものでございました」
「だがな、刈谷、、、」
新田は吐き捨てるように言った。
その目は軽蔑に満ちている。
「……あの男が、上皇陛下の御身体や、皇室の将来を純粋に案じて動いたと思うか??
違う、断じて違う。
若林はただ、自分の代で歴史に大きな『爪痕』を残しておきたかっただけなのだ」
声の怒気が強まる
奴は『200年ぶりの生前譲位を成立させた最高権力者』という、不滅の肩書きが欲しかっただけだ。
神聖なる皇室の歴史すら、己の薄っぺらな自己顕示欲を満たす道具に利用したのだ。
私はあの男の底の浅さが、どうしても許せなかった・・・。」
当時、若林の周辺は黒い噂に塗れていた。
その最たるものが、系列の学校法人への不正な国有地払い下げを巡る『徳風学園問題』
だった。
政治の権力を私物化し、特定の身内に不当な利益をもたらしたとして、連日メディアや野党から激しい追及を受け、若林は総理への道を絶たれる形で派閥のトップからの退任へと追い込まれかけていた。
さらに、それ以上に新田が激しい嫌悪を抱いたのは、若林が裏で深く繋がっていたとされる新興宗教団体『神聖光輪会(しんせいこうりんかい)』との癒着だった。
「若林は、あの『神聖光輪会』の組織票と莫大な資金を背景に、党内の多数派を形成していた。
信者たちの盲信と困窮を吸い上げて作られた権力・・・。
私は、あの男が日本の政治の中心に居座り続けることに、激しい危機感を覚えていた。」

刈谷も表情を歪ませながら頷く
「……永田町でもまことしやかに囁かれていたあの話ですね・・」
「……ああ、そうだ・・・。
噂では、若林はあの教団のネットワークを利用して、皇室の利権や、伝統的な支持基盤にまで手を伸ばそうとしていたという。
もしそれが本当なら、万死に値する不敬、この国への裏切りだっ!!」
荒ぶる新田の声に、刈谷は影のように表情一つ変えず冷静に返す
「若林先生の政治手法は、前時代的な利権誘導と数合わせに終始しておりましたからな。
新田先生の目指す『高潔なる国家』とは、対極にある存在でございました」
新田は小さく顎を引くと、手元でグラスをかすかに揺らした。
重厚なピートの香りがふわりと立ち上り、執務室の冷たい空気に溶けていく。
「……そうだ、だが……あのような結末を迎えるとは、当時の私は夢にも思わなかった」

====ドンッッ!!!!!
2022年夏の、あのじっとりと暑い午後。
京都四条烏丸交差点での街頭演説の初中、乾いた二発の銃声が響き渡り、若林は血の海に沈んだ。
国家の最高権力者の一人が、白昼堂々、暗殺されたのだ。
犯人としてその場で取り押さえられたのは、沼田という、およそ政治思想や過激なイデオロギーとは無縁に見える、しがない一般人の男だった。

「…議員会館でニュースを聞いた時、私は耳を疑った。
プロのテロリストでも、野党の過激派でもない。
ただの一般人が、手製の粗末な銃で、権力者を撃ち抜いたのだからな。
そして、その後の捜査で明かされた動機を知り、、、さらに戦慄した」
沼田の母親は『神聖光輪会』の熱心な信者であり、教団への度重なる巨額の献金によって、沼田の家庭は完全に崩壊していた。
父親は自殺し、沼田自身も極貧の中で人生を狂わされた。
その沼田の憎悪の矛先が、教団を日本国内で拡大させ、広告塔として癒着し続けていた若林へと向かった
――それが、報道が伝えた「事実」だった。
「……一般人の私怨が、結果として国家の癌細胞を取り除いた。沼田の凶行は決して許されることではない。
テロは社会の敵だ。だが……
私はあの事件の全貌を知った時、不謹慎ながらも、人間の意志を超えた『巨大な力』の存在を感じざるを得なかったのだ」
新田に水を向けられ、刈谷はゆっくりと目を細めた。
「……私も総理と同じように感じておりました。世間はそれを単なる一個人の凶行、あるいは偶然の私怨と呼びますが……
歴史が必要とする瞬間には、なぜか舞台装置が完璧に整うものでございます。
引き金を引いた男の背景に、何があったのか……
…それを知るのは、天のみでございますから」
新田は刈谷の言葉の重みを噛みしめるように、小さく息を吐いた。
「フッ、天の采配か・・・」
「左様でございます。まさに先生は天に、、
時代に選ばれたのでございますよ」
刈谷が先程から繰り返し放つ「天」という言葉に高揚感を覚えつつ、新田はさらに記憶を巡った
「あの事件」のあと、総理を続投したのは若林の同期であり、長年激しい火花を散らし続けてきた不仲のライバル、穏健派の川田(かわだ)総理だった。
川田が総理に就任したのは若林が殺害される1年前の2021年。
若林政権が不祥事により崩壊した後、その大混乱を引き継ぐ形で誕生した。
川田政権は、若林の負の遺産を清算し、国民の信頼を回復することを期待されていたが、その実態はあまりにも不甲斐ないものだったと、新田は回想する。
川田総理は人柄こそ誠実だったが、内政においては財務省の緊縮財政路線に完全にひれ伏し、外交においてはアメリカの意向を100%追従するだけの、「灰色の政権」だった。
そして、その川田政権もまた、永田町の歴史に残る「怪事件」によって崩壊することになる。
「……今思えば……川田総理の、あの主要国首脳会議後の記者会見……あれもこの国の泥を世界中に晒す、決定的な悲劇だった」
新田は琥珀色の液体を口に含み、その強烈な薫香を味わうようにゆっくりと目を閉じた。
スコットランド・アイラ島が育んだシングルモルト、ラガヴーリンの16年。
強烈なピート香と、泥炭の奥深くで眠っていた歴史そのものを思わせる重厚なスモーキーさが特徴の、硬派な銘柄だ。

若林事件から4年の月日が経過した2026年。
第二次川田政権は、可もなく不可もない、大した功績もないが、大きな不祥事を起こすこともない、比較的穏健な政治体制と支持率をなんとか維持していた。
しかしそれは、ある日突然瓦解する。
世界中のメディアがカメラを向ける中、共同記者会見の席に現れた川田総理は、明らかに異常だった。
目がうつろで、言葉は完全に呂律が回らず、質問に対して朦朧(もうろう)とした状態で的外れな受け答えを繰り返したのだ。
世界中から「泥酔会見」と冷笑され、日本の国際的信用は文字通り失墜した。
支持率は数日のうちに一桁台まで急落し、川田総理は退陣へと追い込まれた。
そして数か月後
川田が自宅の寝室で薬を服用し死亡しているのを妻が発見した。
「……当時、永田町では様々な噂が飛び交った。
『川田総理は、消費税増税の延期を画策したことで財務省にはめられたのだ』とか。
あるいは、『独自の防衛外交を進めようとして米国の諜報員に薬物を盛られ、社会的に抹殺されたのだ』とか……。
お前はあの噂をどう見た?」
刈谷は静かに首を振った。
「……永田町の噂話に真実が混ざることは稀にございます。
しかし、結果として得をしたのが誰であるかを考えれば、自ずと構造は見えてまいります、、、。
あの当時、我が国はアメリカから提示された年次改革要望書をそのまま受け入れ、安全保障においても、自国で独自の新型戦闘機一機すら開発することを許されず、すべての軍事的な制約を押し付けられておりました。
……川田総理のように、曖昧な態度で現状を維持しようとする指導者では、あの巨大な圧力には耐えられなかった。それは確かでございます。」
「……成程な。いずれにせよ、、不幸なことだ……」
新田は立ち上がり、執務室の窓ガラスに近づいた。
夜景の中に、かすかに自分の顔と刈谷のシルエットが反射している。
「故人を悪く言いたくはないが、、アメリカの顔色を窺い、財務省の奴隷となって、国民に増税を強いるだけの総理など、この国には必要ない。
日本のための、日本を中心とする、強い政権を作らねばならん。
あの会見の夜、テレビ画面に映る川田総理の無惨な姿を見ながら、私は激しい怒りとともに、固く心に誓ったのだ、、。
この国の舵取りを、私が取らねばならないと」
その川田総理の失脚によって、正道党内で圧倒的な次世代リーダーとして浮上したのが、他ならぬ新田毅だった。
若林という巨大な重石が消え、川田という旧態依然としたリーダーが自滅した永田町において、新田の掲げる「まっとうな日本を取り戻す」という苛烈な正論は、国民と党員を熱狂させた。
2026年、新田は総裁選を圧倒的な票数で制し、その後の総選挙でも、正道党を歴史的な単独過半数、いや三分の二に迫る大勝へと導き、総理大臣の椅子へと駆け上がったのだ。
「……しかし、不思議なものだな・・。」
新田は窓ガラスを見つめたまま呟いた。
「私は、自分が総理になるために陰謀論を巡らせたわけではない。
若林の死も、川田総理のあの異常な失脚も、すべては私の意図の外で、偶発的に起こった出来事だ・・。
まるで、見えない巨大なエスカレーターに乗せられるように、私はこの場所に押し上げられた。
これを『天命』と言わずして、何と言う」
「その通りでございます、総理」
刈谷は新田の口から先程自分が口火を切った「天命」という言葉が出たことに舞い上がりそうになりながら
その気持ちを抑えつつ
新田の力強い背中に向けて一礼した。
「……そして今、国際情勢は完全に我が党の、我が政権の追い風となっている」
新田は指を一本ずつ立てながら、現在の世界の力学を説明し始めた。
「欧州における戦火の泥沼化、中東における諸勢力の大規模な全面衝突。
影を潜める大国の思惑……。
もはやアメリカ単独で『世界の警察』を気取り、地球上のすべての紛争を抑え込む余裕など、あの国には残されていない」
新田はまるで講演会演説のような振る舞いで続けた。
「……だからこそ、彼らはアジアの防衛権を、日本に肩代わりさせる必要に迫られた。
かつては我が国の軍備拡張を最も警戒していたアメリカ自身が、今や『日本よ、独自の軍事力を持て。自立した盾となれ』と、背中を押さざるを得なくなったのだ。
歴史の皮肉というほかないな」
新田の分析は極めて正確だった。
2036年現在、世界は多極化し、アメリカの覇権は陰りを見せている。
新田はその隙を完璧に捉え、悲願であった「日本国軍」の法制化を成し遂げ、国内外のあらゆる情報を一元管理する「国家情報保安局」を完成させたのだ。


「……すべてが、私がこの国の舵取りを担うための地鳴りだったように思えるよ、、。
これで日本は、本当の意味でアメリカから自立し、独自主権を持った大国として再生できる、、、。
戦後体制の終わりが、すぐそこに見えている!
日本と皇室の未来は、私がこの手で必ず守り抜く!!」
刈谷はこの政治演説を特等席で、直立不動のまま聞き入っていた。
「先生のその揺るぎないヴィジョンがあったからこそ、この混沌とした国際情勢をチャンスに変えることができたのでございます」
刈谷はそう言って、新田のグラスに新しいスコッチを静かに注いだ。
新田はグラスを持ち上げ、長年の忠臣を見上げた。
その瞳には、深い信頼と、微かな労いの色が浮かんでいる。
「……刈谷……お前が、、、私がまだ永田町の右も左も分からない若造だった頃から、ずっと影として支えてくれたおかげだ。
お前がいなければ、私はここまで歩けなかった。感謝しているよ、刈谷」
刈谷は一歩下がり、衣服のシワ一つ立てない完璧な所作で、深く深く頭を下げた。
その姿は、主君のためにすべてを捧げることを誓った武士そのものだった。
「滅相もございません。
私はただ、新田毅という政治家こそが、この日本を再興できる唯一の存在だと信じて疑わなかっただけでございます……。
お供できて光栄でございます、、、総理」
新田は満足げに頷き、最後のウイスキーを口に運んだ。
官邸の窓の外では、夜明け前の最も深い闇が東京を包み込んでいる。
自らを天命に選ばれた絶対の指導者と信じて疑わない総理と、その純粋な光の足元で静かに見守る老秘書。
2人はこの夜、互いの絶対的な信頼関係を再度確認した。
その足下で
国家の存亡をも揺るがす
大きなうねりが生じていることを
知ることもなく。
カランッ!!
グラスの中の氷がまた不気味な音を立てて
崩れ始めた。
第4話へ続く
※本作品に登場する人物、団体等はすべてフィクションです