
【小説】七不思議の怪 #08
殺人鬼は、泥のような意識から無理やり現実へと引き戻された。
脂汗にまみれた顔を上げると、粉砕された左手の激痛が脳に響く。そこは薄暗い体育館の裏手であった。先ほどまでいた空間とは全く違う。一体誰が、どうやってここまで自分を運んだのか。さっきからおかしなことばかり起こっている。もはや潜伏よりも逃走よりも、あるいは「殺人」よりも、「この場所にいたくない」という生理的な嫌悪感に体をつき動かされていた。
血に塗れた左手を庇いながら立ち上がると、背後から突然声がした。
『あーあ。タイミング悪いなあ』
後ろを振り返ると、鏡に映った「自分自身の姿」が、ニヤリと唇を歪めていた。
声帯の震えすら伴わない、脳に直接響くような不気味な声。
『せっかく、彼をこっち側に招待しようと思ってたのにさ』
殺人鬼の全身から、一気に血の気が引いていく感覚があった。自分の意思とは全く無関係に、鏡の中の自分自身が、少年のような口ぶりで喋っている。彼の発狂スレスレの精神は、目の前で起こっている現実を受け止める余裕がなかった。
恐怖を怒りにすり替え、手に持っていたハンマーを全力で振り上げる。
「ふざけんな……ッ」
ハンマーのヘッドは、大きな姿見へと吸い込まれていった。
しかし、響くはずの鈍い破砕音は訪れなかった。
バシャッッッ!!
ハンマーのは、ガラスの鏡面がまるで深い湖の水面であったかのように、黒い飛沫を上げて「鏡の中」へと呑み込まれたのである。
「なっ……!?」
驚愕する暇もなかった。突如として、殺人鬼の周りの、いや、世界の重力が「真横(90度)」へと回転したのである。
「アァァァッ!?」
足場を失った殺人鬼の巨体は、そのまま真っ逆さまに「水面」へと落下していった。
冷たく泥濘んだ闇の中へと沈んでいく刹那、彼の視界は、水底で蠢く悍ましい光景を捉えた。
そこには、人間の形すら保てていない不定形の肉塊や影――かつて噂に魅入られ、歪められ、欠落を埋めるために配置された「怪異たち」が、新しい生贄を待ち構えるように無数の手をこまねいていたのである。
そして、そのおぞましい有象無象の中心。
底なしの闇に浮かんでいたのは、先ほどまで追いかけ回していた中学生の姿をした「何か」であった。
*
――語られぬ七番目の不思議。
その正体こそが、この姿見に巣食う「彼」だったのである。
元来、この学校に「純粋な怪異」と呼べるようなものは彼しか存在していなかった。彼は永遠に続く孤独と退屈に嫌気がさし、暇つぶしに「七不思議」の噂を学校中にバラ撒いた。そして噂に引き寄せられた人間たちを次々と鏡の中へと引きずり込み、不器用で哀れな怪異として仕立て上げていたのである。
しかし、何年経っても、どうしても最後のピースだけが揃わなかった。
だからこそ、恐怖に怯えながらも毎日自分に会いに来る、あの欠落だらけの愛おしい少年「湊」を、永遠のコレクションとして、本物の「七番目」として取り込むつもりだったのである。
それなのに、あろうことか自分が創り出したポンコツの怪異たちが徒党を組んで、彼を逃がしてしまった。
『しょうがないなあ』
底に沈んでいく殺人鬼を見下ろし、鏡の奥の「彼」は酷薄で、どこか無邪気な笑みを浮かべた。
『君で我慢してあげる。一緒に遊ぼうよ』
水面が完全に閉じる音と共に、殺人鬼の絶望の悲鳴は、深淵の底へと永遠に飲み込まれていった。
*
あの日を境に、湊が旧校舎へと足を踏み入れることは二度となかった。
彼らに対して負い目を感じていたからなのか、それとも、極限の恐怖を通り越したことで、自分の中の歪な熱狂がすとんと冷めてしまったのか。湊自身にも、その理由はうまく説明できなかった。
湊の足が遠のいたことに呼応するように、学校からは怪異たちの噂が鳴りを潜めていった。女子トイレから爆音の『音姫』が響くことも、音楽室から『千本桜』の不器用な早弾きが聞こえることもなくなり、夕暮れの階段の段数が変わるという噂もパタリと消えた。
彼らが完全に沈黙し、消滅してしまったのか。それとも、単に深い休息についているだけなのか。それについて深く考える暇も与えられないまま、湊は慌ただしい日々に流され、気がつけば卒業の日を迎えていた。
ポンッ、ポンッ。
教室のあちこちで、卒業証書の入った丸い筒の蓋を開けてふざけ合うクラスメイトたちの音が響く。湊はその明るい喧騒に背を向けるように、教室の外へ出た。透き通った陽光の照らす廊下を抜けると、彼は一人、静まり返った図書室へと入っていった。
湊には卒業する前に、この学校で最後にやるべきことが残されていた。
彼は書架に並ぶ膨大な蔵書の中から、あえて人が手に取らなそうな古い本を何冊か選び出す。そして、巻末にある色褪せた空白のページを開き、おもむろにペンを走らせた。
そこに書き記したのは、彼自身がこの目で目撃し、共に気まずい時間を過ごした『学校の七不思議』たちの姿であった。
自分がこの学校からいなくなり、あの日々が過去のものになっても、いつか、次の世代の誰かがこの本を見つけ、その噂を広めるかもしれない。彼らが「語る」ことで、学校という空間に再び畏怖と好奇心が満ち、彼らが力を取り戻すかもしれない。
脳裏に浮かんだのは、耳を塞ぎたくなるほどの爆音の流水音や、凄まじいBPMのピアノ、そして、あの不器用なバケモノたちの騒がしい声だった。彼らが二度と、暗い校舎をさまよい、孤独を持て余すことがないように。
(……もう、あんな顔はしないでくれよ)
彼ららしい、めんどくさいプライドや見栄が、いつまでも続いていくように――。
そんな歪で純粋な祈りを込めて、湊は静かに本を閉じた。
図書室の窓から差し込む春の陽射しが、古い本の表紙を淡く照らしている。少年は今年、高校一年生になる。
【完】