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退屈な彼女の謎解きメシ ~手作り餃子と消えた引きこもり男~

    【あらすじ】
     千葉県警の受付で退屈な日々を送る契約社員の市川晶子は、定年間際の閑職警官・舟橋から、7年前の「流山ひきこもり男性失踪事件」という未解決の密室ミステリーを持ちかけられる。3年間自室から一歩も出ず、4箇所の内鍵が閉まった窓のない部屋から忽然と消えた18歳の息子。この不可解な謎に、晶子はおごられ飯を条件に鋭い洞察力で再捜査に協力。
     現地を訪れた晶子は、改装された家屋の間取りの不審な点に気づき、関係者の母親から執拗に事情を聴きとろうとするが、こともあろうに依頼人の舟橋の妨害に合う。
     どうやらこの再捜査の背景には、一人息子を失って哀しむ美魔女奥様の前で、イイ格好して気を引きたいという舟橋のしょうもない下心があるようだった。様々な思惑を持ちながら食べつつダベりつつ、なんだかんだと捜査する街ブラ地元グルメ系ミステリー。

    #0
     千葉県の県庁所在地はどこか? あたりまえだが千葉市だ。
     では、県庁所在地の千葉市は千葉県のどのへんにあるか? 頭の中に地図をイメージできる人は少ないはず。県の南と東の境界はなんとなく半島のように思い浮かべられても、西と北のラインは曖昧になる。この問題を解決すべく二〇二〇年に森田知事は県の形を模したマスコットキャラクター『チーバくん』を登場させた。犬のような狐のような不思議なこの動物を右向け右させて、三十度反り返らせた、その首のあたりに千葉市はある。
     分かりにくい。
     地図を見ると、実際の千葉県はもっとエッジが尖っており哺乳類というよりむしろ虫的で機械的。むしろエヴァンゲリオンの初号機の頭部に似ている。もともと千葉は日本書紀の時代にできた安房・上総・下総の三つの国から成る。あわせて「房総」と呼ぶ。関係ないがエヴァ初号機はすぐ「暴走」する。
     このように千葉県は大きく三つの地域に分かれていていた上、西部は東京のベッドタウン、北部は茨城南部と合併分離を繰り返し、南部は神奈川の三浦半島に近い。全国人口ランキング六位の巨大千葉県はこのように歴史・文化的にも多様な地域だ。交通ルートも総武線、常磐線、京葉線、京成線、東武線ほかが走り、道路は東西南北整備され、アクアラインを使えば木更津から二〇分で川崎に出られる。だから県庁所在地の千葉市を通らなくても県外脱出ルートはいくらでもある。
     だから千葉県民の大半は県庁所在地の千葉市に何の関心もない。そんな千葉市の『中央区』に森田知事のいる『千葉県総合庁舎』と、『千葉県警察本部』がある。



    #1
     県警の一階フロア受付を担当する市川晶子は朝から憂鬱だった。
     原因は昨夜の合コンだ。
     同僚の野田真紀から「すごい真面目な人ばっかり来るから」と千葉中央駅前の居酒屋へ人数合わせで誘われた。やがて「真面目な大学生」三人が登場。晶子もお酒は嫌いじゃない方なのでマイペースにクイクイやっていた。明らかにチャライ男どもが「今年、東大に入って現在本郷に通っている」とか、「慶応大学に京王線で通っている」とか、「千葉大医学部の三回生で今は病院研修が大変だ」などと、聞き流すのも下手すぎる嘘を連発した。晶子は頭に来て、『全員が偽学生だ!』とみんなの前で学歴詐称を暴いた上に、そのうち一人は警察受付で見かけた逮捕歴のある闇AVメーカーのスカウトマンであることもバラしてやった。
     最後には酔った勢いで「私は千葉県警に勤める晶子。嘘つくならもっと考えてから来いや――」とタンカを切るわ、男どもは逃げ帰るわ、支払いは残された女持ちになるわ、真紀は怒るわ、と散々な結果。
    強烈な二日酔いで目が覚めた。
     今日は朝から雨が降っていて「濡れたくないな」とボンヤリ思ったため、「千葉モノレール」に乗ってしまった。ほとんどの人には関係ないがこの乗り物、未来的な見た目とは違い大層揺れる。小さな遊園地のアトラクションなら楽勝で越える揺れ具合に、晶子は乗り物酔いになった。終点の「県庁前」で下車し、濡れた階段を降りる際、足を滑らし腰を強打した。二日酔いで乗りモノ酔い、足も腰も痛いし、雨は降るし、普段以上の不愉快さでもって今日も退屈な受付業務が始まった。

     こういう日に限って様々な問い合わせや訪問客がやってくる。
    「あーぁ早く帰りたい」と何十回も心で唱えていると、最も会いたくない男が受付にニコニコと現れた。
    「市川ちゃん、お疲れ様、今ちょっと時間あるかな?」。
     防犯課次長の舟橋保男(五十八)だ。警察人生の大半を現場一筋で来たにもかかわらず、世渡り下手で今や定年を待つただの閑職警察官。受付に来ては無駄話をして時間をつぶしていく。
    「こっちは、めちゃくちゃ忙しいです。あっち行ってください」と晶子は舟橋を邪険に追い払った。
    「そうかぁ? そんなに、忙しい様子に見えないけどな」
    「たった今まで空前の忙しさだったんですよ。一瞬の静けさが訪れただけです」
    「そうなんだ。ふーん分かった」と言いながらも舟橋は受付脇のベンチに腰かけて、自動販売機のインスタントコーヒーを飲みながら一向に立ち去らない。以前に一度、捜査協力をして以来何かとちょっかいを出してくる。
    「そういえば、この前の『浦安回転ずし殺人事件』でのお前の推理と検証は見事だった。俺たち『現場の鬼』百人掛かりでも分らなかった未解決事件の真相を土曜の午前中だけで解き明かしたんだもんな。悔しいが見事という他ない。モズバーガーの優待券貰ったんで、今日はお礼に市川に渡そうと思って来たんだ」
     そう言うと舟橋は封筒を晶子に差し出した。
    「えっ私がモズバーガー好きってどこで知ったんですか?」
    「世の中にモズバーガー嫌いなやつがいたら会ってみたいよ。どうぞ、中開けてみて」
     晶子は正面から見えないように手元で封筒を開けると、五百円優待券三枚ともう一つ茶封筒が入っていた。
    「これ、なんですか?」
    「いいから、開けてみて」
    「もしかして協力御礼の現金ですか? えーっ、こういうのは本当に困るんですが」
     定年間際のポンコツ親爺だが「舟橋、意外といいヤツなのかも」と思いながら、茶封筒を開くと一枚のコピーが現れた。
    「何だこれ」
     晶子がコピーを開くと『東葛・流山 消えたひきこもり男性!』という見出しの事件記事だった。
     朝から憂鬱な晶子は今日一番の不機嫌顔で舟橋に言いかえした。
    「舟橋さん、何すかこれは?」
    「いやー、この前のお前の推理に感心してな、また相談に乗ってもらえないかと思って……、思い切って今日来てみた。どう、この事件興味あるだろ? これは俺の現役時代最後のとっておきの未解決事件だ」
    「一体いくつあるんですか、あなたの未解決事件」

     そして昼休み。
     県警本部七階にある職員食堂に晶子が行くと、先に舟橋と受付同僚の真紀が二人で何か話し込んでいた。真紀は晶子に気付くと手を挙げて「こっちこっち」と呼んだ。昨日散々な合コンだったわりに機嫌はなおっているようだ。
     晶子がテーブルにつくと真紀は勢いよく話し出した。
    「舟橋さんって見た目は老けてて怖そうな人だけど、本当はチョーいい人だね。私にモズバーガーのチケット三千円分もくれたよ。晶子にお世話になってるからって」
     真紀は合コンでの晶子の狼藉も忘れてくれたようだが、舟橋の術中にも取り込まれていた。でも私がもらったタダ券よりも金額が多いっていうのはどういうことだ。
    「朝、言ってた件なんだけど、ちょっとでいいから付き合ってくんないか?」
     舟橋は不自然な笑顔を作って言った。
     元ヤンの真紀も事情を理解しないで口を挟む。
    「舟橋さんも今独身らしいから、晶子ちょっとぐらい付き合ってみたら。ものは試しで」
    「いや、あんた絶対勘違いしているから、この人が言ってるのはそんな事じゃないの」
    「えっ、男女話じゃないんすか?」
    「この人はね、自分が解決できなかった事件をあっちこっちで言い廻ってヒマつぶしているだけだから、真紀も巻き込まれないように気をつけてね」
    「市川、そこまで言わなくったっていいじゃないか! 私はただ君の類稀な洞察力をこのまま埋もれさせるのは惜しい。千葉県の治安向上の為に役立てたいと純粋に思っているだけだ。千葉県民としてこれほどの栄誉はないよ」
    「何か舟橋さんの言ってること正しいような気がするなぁ」と真紀も同調。
    「いや、それはあんたがタダ券で買収されただけ」と断言する晶子だった。

    「今日の市川は棘があるな。そうだった、この前の回転ずし事件の慰労会していなかったな、ごめん約束忘れてたわ」
    「何か食べ物の恨みみたいに聞こえますけど、この間の事件で私も精神的にどっと疲れがたまっているんです。その埋め合わせはきっちりしてもらいますよ。舟橋さん」
    「そうか、悪かった、その埋め合わせはもう考えてある。出来たばかりのイタリアンレストランを予約しようと思っていたところだ」
    「それって、もしかして千葉そごうの裏にある『食べ六』でポイント三・五とかいうお店ですか」
    「そうだ、その『食べ六』で評判の店だ」
     真紀も便乗しようと「私も行きたい。晶子さんと舟橋さんの仲を取り持ってあげるから」と前のめりになる。
    「君にはバーガー券あげたじゃないか、俺は市川と大事な仕事の話があるからまた今度ね」「仕事! やっぱり事件の話じゃないですか」
    「まぁ奢るからいいじゃないか、今週金曜日あたりでどう? 酒はほどほどにな」
    「真紀、何かこのおじさんに話した?」
    「いいや何も……」
     こうしてまた食べ物につられる形で、晶子は舟橋の未解決事件の話を聞くことになった。


    #2
     三日後の夜七時。舟橋が予約した千葉駅そばのイタリアンレストラン『ボッタクール』に三人が揃った。
     三人というのは何故か捜査一課のヒマ刑事・宇田川が付いてきたからだ。「どこかで再捜査の噂を聞きつけて強引に割り込んできたんだよ」というのが舟橋の説明だった。
    「どこでそんな噂聞くんですか、どうせ店の支払いを押しつけるつもりで呼んだんでしょ」金持ちの宇田川を巻き込んだ舟橋の魂胆はお見通しだ。
    「市川、男と男の約束はあまり詮索しない事がいいよ」
    「市川さん違いますよ。ぼくは自から進んで支払いを申し出ました。それにこちらのお店、思ったよりはるかにリーズナブルな感じですね」と宇田川は屈託なく言った。
    「お前は相変わらず余計なこというね」
     舟橋は疲れた笑いで席についた。
     二人の雑な会話を聞き流して晶子はテーブルのメニューを開いた。
    「リーズナブルって言いましたね、じゃあ私この高そうなワイン頼んじゃいます」
     メニュー後半にある赤ワインをいきなりボトルで注文した。
     宇田川もメニューを眺めて「僕は泡を頂こうかな、すいませんこちらのスプマンテをグラスで下さい。舟橋次長課長はどうされます」とブルジョワ刑事ぶりを見せつける。
    「おれは庶務課次長だよ。じゃあ俺も泡の出るビールもらうわ。あとつまみ盛り合わせ適当に」と舟橋も居酒屋的に注文を終えた。
    「早速なんだが酔う前に言っておく、これからお前が知ることになるのは千葉県警の歴史で最も不可解な未解決事件だ。『ニーニー』と密かに呼ばれている」
     そういうと舟橋は足元のカバンから当時の捜査資料を取り出して市川に渡した。
    「舟橋さんまたヤバい捜査機密情報を持ち出してますね。カバンなんかにいれてるとそのうち失くしますよ……で『ニーニー』って何ですか、もしかして横山秀夫の『ロクヨン』みたいな意味ですか」
     ヒマがあるとサスペンスドラマばかり見ている晶子は連想した。
    「そう、その通り。さすが勘が良い! 平成二十二年に起こった未解決事件なので通称ニーニーね」
    「ゴロも悪いし、あんまり昔じゃないですね、捜査を諦めるの早すぎじゃないですか?」
    「責めるなよ。それくらい難事件で当時は手も足も出なかった……概要はこうだ」
     舟橋は奇妙な事件の説明を始めた。

    「今から七年前、俺はそのころ千葉県警流山署の主任刑事だった」
     流山市中心部にある個人宅から午後七時十分「子供部屋から悲鳴と怪しい物音がする」と一一〇番通報が入った。通報を受けた最寄りの流鉄駅前交番から巡査が現場に駆けつけたのが、午後七時二十分。到着するとそこに居住者の斉藤憲和とその妻彩華が顔面蒼白で立ちすくんでいた。
    「現着した巡査がこの二人から聞き取った報告書にはこう書かれている」
     午後七時頃に子供部屋からさけび声と物音がしたため、別室で内職をしていた母親が驚いて部屋のドアをノックしたが内部からは返事が無かった。不審に思いドアを開けようとしたが、部屋に鍵がかかっておりドアが開かない。『中にいる息子の身に何かあったにちがいない』と近くの工場で勤務中だった夫に連絡をとり、相談のうえ警察に通報することにしたということだ。
    「ちょっとストップ」晶子が止めた。
    「子供部屋から『悲鳴と物音』がしているのに、警察官の到着まで三〇分以上も両親が何もしないで待っている時点で、何かおかしくないですか?」前菜を食べながら引っかかった部分を聞いてみた。
    「お前のことだからこの辺で質問あると思っていたよ、この子供部屋はちょっと特殊だったんだ」
    「特殊って何がですか?」
    「まず子供部屋のドアには鍵がかけられていたが、これが両親が持っている鍵とは別のモノに変えられていた。駆けつけた巡査も緊急を要すと判断しドアを蹴ったり、体当たりして部屋をこじ開けようとしたらしいんだがビクともしない。スチール製でとても頑丈にできていた。鍵を壊すにもドアノブ鍵のほか内鍵が部屋の中から複数箇所付けられていたそうだ。そこで流山消防署と連絡をとり消防活動で使う特殊な工具を持ってきてもらうことにした。八時七分に到着した消防車両から建物の隙間をこじ開ける時に使う『バールのようなものをうまく二つ組み合わせたような工具』を使ってようやく部屋のドアを開けることに成功したんだ」
     ここで宇田川が手を挙げた。
    「あのぉ、バールのようなものを二つ合わせたようなものって何ですか?」
    「お前がここで質問しなきゃいいなぁと思ってたがやっぱり聞くか? 俺も実物見ていないので分からん。それはこのあと何の関係もないから気にするな」
    「それでドアを壊した部屋の中はどうなってたんですか? 息子さんの自殺死体でも見つかりましたか」
     晶子は赤ワインを一気に飲み手酌でお代わりした。
    「お前は女なのに平気でよくそんな怖いことが言えるな、順番通り話すからよく聞いてくれ、ここからが肝心だ。巡査と両親が息子の部屋に入ると電燈はついたままになっていた。巡査も何らかの事故や事件を予想していたが、怪我人や遺体などは見つからなかった。つまり誰も居なかったんだ」
    「よかったじゃないですか? 事件性なかったんでしょう?」
     晶子はまたワインを飲み干すと話をまとめに入った。
    「それがそうじゃないんだ。その息子は確実にその部屋にいるはずなんだ」
    「変なこといいますね」晶子の頭は混乱した。「何で『息子がいるはず』って分かるんですか? 『いるか、いないか』は見たらすぐに分かるはずですよね。でも『そこにいるはずの人がいない』って前提はどういうことですか?」
    「そうですよね、僕も疑問です。今までそこにいたというのなら、飲みかけのスープが湯気を上げていたとか、吸いかけのタバコからまだ煙が出ていたとか、その湯気とか煙とか、モヤっと感というか、なんか直前までいたって感じが欲しいですよね」
     宇田川も晶子の疑問に被せた。
    「いわゆるシズル感ってやつだね、宇田川くんもたまにはいいこと言うねえ」
     晶子はワインのお礼に宇田川を持ち上げた。
    「舟橋さん! 特命捜査官に褒められましたよ」と宇田川は素直に喜ぶ。
    「お前は何回言っても分からないね、市川は捜査官でもなんでもないからね。ただの一般市民だ。それに現場にスープやタバコがなくてもあきらかにおかしいって事はあるんだ。ドラマや映画は客をひっぱりたいから特殊な事件を作るが、そんな現場俺は聞いた事ない」
    「でもーそれじゃ絵的に分かりずらいですよね」
    「そうだよ、宇田川くんのいう通り」
     晶子は運ばれてきたメインの鳥料理を食べながらいい感じでさらに酔い始めていた。
    「ちょっと市川よ、酔っ払う前に俺の話ちゃんと聞いてくれ。ここから俺と優秀な部下たちの地を這うような捜査が始まるんだから」
    「それで地を這って、どうでした」
    「子供部屋が開いた直後ぐらいに、流山署の俺たち強行犯と鑑識係が到着したんだ。俺も両親の主張を最初不審に思って『なぜ子供がいるはずと思うのか?』、事情をくわしく聴取した。そしたら部屋から消えた長男・斉藤和臣は中学校時代にいじめを受け、それが原因で不登校となり、自室に引きこもる生活を送るようになったと言うじゃないか。両親が知る限りここ三年間は家から一歩も出て居ないらしい」
     宇田川がカツレツを食べながら変な顔をした。
    「そんなに長い間引きこもって生活できるもんですか? 僕にはとうてい無理ですね」
    「俺も一般的な例はよくわからないんだが、以前茨城で起こった事件で二十年間家に引きこもっていた男が母親と一緒に死体で見つかったことがあった。当初は事件性が疑われたが、死因を調べると母親が心臓麻痺の突然死に近い状態での自然死。息子の方はその一ヶ月後ぐらいに餓死していたことがわかった。つまり母親が亡くなって食事など自分の身の回りの世話をする人が居なくなった為に衰弱死したらしい。頼れる人がいる限り何年でも部屋にこもって依存して生きられるってことだ」
     話を聞きながら晶子はさらに一本白ワインを注文した。
    「この流山の引きこもり男の場合は、お風呂とかはどうしてたんですか?」
    「普通にトイレや風呂にはちゃんと行っていてその時に母親とだけは一言二言会話をすることもあったらしい。食事は一日一食で夕方に食卓の上に置いておくと夜こっそり取りに来て、翌朝戻すルールになっていたらしい。それ以外は一日中部屋から出てこない。母親が言うには事件のあったその日、朝に食事は戻されていたが、一切息子が部屋から出てくるのを見ていない。だから息子の部屋を開けた時、そこにいないはずが無いと言うことになるんだ」
    「それで不在による事件というわけですね」
     知ったようなあいづちを打つ宇田川だが、いくら待ってもそこから発展的な推論は出てこないので晶子は白ワインを飲みながら聞いた。
    「母親が知らないうちに、そーっと部屋を出て外に行っただけじゃないですか。息子年齢何歳になってたんですか?」
    「失踪当時は十八歳だな」
    「だったらなおさら親から自立したくなる年齢ですよ、夜に家出か、旅にでも出たんじゃないですか?」
    「お前も酔っ払った勢いでテキトーなこと言うね。この事件で重要なことおさらいするよ。さっきもいったようにドアには内側から鍵がかけられていたんだ。しかも一つじゃなく四ヶ所も、そのうち二つは部屋の中からしか錠前が降ろせない。以前母親が部屋を掃除しようと入ったことを怒って、自分で親の知らないうちに取り付けたらしい」
    「まぁ思春期の男子ですから、勝手に部屋入られるのを極端に嫌いますからね。でも鍵はよく買いに行けましたね」
    「家にいても退屈だろうと思って母親がパソコンを買い与えたのがよくなかったみたいだな。そのうちネット通販を覚えて、部屋鍵なんかも全部ネットで購入したらしい。最近は外に出なくても何でも買えるらしいからなぁ。引きこもりには好都合だよ」
    「でも、親が十八歳男子の行動の全てを監視出来てるっていうのが怪しいですね。私なんか朝出勤してるのに、親はまだ寝てると思って起こしに来たりしてますよ」
    「俺も両親の証言だけで鵜呑みにしたわけではないぞ。その家は築五十年の古い長屋の平屋作りで、部屋の配置は玄関から奥の部屋まで三部屋縦に並んでいた。この場合三部屋の真ん中にある息子の部屋から外に出るには居間を通らないと出られない構造になっている」
    「家族は両親と息子さんだけなんですか?」
    「そうだ三人家族だ」
    「さっき平屋っていいましたよね」
    「いったよ」
    「だとするとミステリーによくある密室ってことは考えにくいですね。この家の場合、木造の平屋建てでしょ? 部屋のドアに鍵をかけたままでも、窓枠から窓を外して出入りするパターンじゃないですか。うちもそうなんですが、古い家の窓はガタガタなんですよ。抜け穴はいくらでもありそうですよ」
     話をそろそろ終わらせたい晶子はまとめるように説明した。
    「僕もそう思います。高校生の頃ってこのままじゃ両親に自分がいつまでもコントロールされるんじゃないかって思って、知らない世界へ一人旅したくなるもんですよね。僕も昔勉強のフリしてこっそり窓から家出したことあるんですよ」と宇田川も話題に参加する。
    「へー意外、宇田川さんにもそんな自立心あったんですか?」
    「失礼だな。ありまくりです」
    「で、家出どこまで行ったんですか」
    「まぁ、横浜だけど。高島屋でラジコン買ったら重くて、結局その後タクシーで家まで帰ったんだけどね」
    「ただの遠出の買い物だろうそれ」晶子は呆れた。
    「結局家は何歳で出たんですか? 宇田川さん」
    「去年ね、初めてマンションで一人暮らし」
    「ただの大人の引っ越しだろ、それは」
    「そういう市川特命捜査官はどうなんですか?」
    「生まれてこのかた実家住まいです。くだらない質問しないでもらえますか? 舟橋さん今何の話でしたっけ?」
    「さっきから聞いてたら当事者じゃないお前たちの気楽さには呆れるよ」
    舟橋はエリンギを食べながら聞いていたが、我慢できない様子で話し出した。
    「市川が今『窓から出入りしてたんじゃないですか』ってのんきに言ったな」
    「いいましたけど」
    「もし窓から出入りできたんなら、最初からこんな話になっていないよ」
    「どういうことですか?」
    「いいかその部屋には一つも窓がないんだ。なぜ窓の無い部屋が出来たか、当時の事情は詳しくは知らないんだが。四軒長屋の中側の古い家をリフォームした際にそうなったらしい。だから子供部屋の出入り口は一ヶ所しか無かったんだ!」
    「窓のない部屋なんか息が詰まりそうですね。牢屋みたいで僕は耐えられないなぁ」宇田川は閉所恐怖症の気があるようだ。気にせず晶子は店の天井を指差した。
    「出入口はドアだけとは限らないですよ。実は部屋の天井がないとか? 県警の会議室でも消防法の関係で天井抜けているところあるって聞いたことありますよ」
    「それはあまりに俺をバカにしてるだろう。部屋を見ればそんなことすぐに気付く。鑑識も部屋の内部を注意して見たが人が出入りできるような隙間は空いていなかった。エアコンの通気口ぐらいは空いていたが直径五センチだからな」
     晶子は腑に落ちないような顔で呟いた。
    「なるほど、そういう訳で『引きこもっているはずの十八歳の息子が居なかった』ことが問題になるんですね。そしてその後七年間も音信不通ということですか」
    「やっと俺が言いたいことがわかったか、この部屋は稀に見るいい感じの密室だったんだ」
    舟橋は安心したのかビールのお代わりを注文した。
    「つまり舟橋さんは迷宮入りした密室殺人事件をこちらの市川特別捜査官に再捜査してほしいということですか?」と宇田川が口を挟んだ。
    「変なおさらいしないでいいよ、お前だけ話に付いて来てないだけだから」と舟橋は出てきたビールを一気にあおり、何かと疲れる宇田川への説明も流し込んだ。
     晶子の頭脳は酔った勢いで加速する。
    「えっと舟橋さんはなんらかの事件に巻き込まれたと考えているみたいですが、何か確証あるんですか? 部屋で物音がして中に誰も居なかったから、と言って事件性あるかどうかわかりませんよね。音を出したりする方法はいくらでもあるような気がするんですよ。密室の中に死体があると密室殺人ですが、誰もいなかっただけでしょ。車のキー挿しっぱなしでドアロックしたのと同じですよ。鍵が開いたらはい終了。先入観で失踪事件ばかり考えていたから迷宮入りしたんじゃないですか?」
     舟橋は手にした空のグラスを見ながら疲れたように言った。
    「まぁ……俺もだいぶ後になってそう思ったよ。もっと初動で捜索範囲を広げてれば、目撃情報が拾えたかもと思ってな。眠れない夜と後悔の日々だよ。分かってくれたか、俺の心労ぶり」
     調子の出てきた晶子は中年のため息を前にしても止まらない。
    「一応言っておきますが、舟橋さんが寝れようが寝れまいが、心労になろうが鬱病になろうが、私のこれからの人生と一秒も関係ありませんからね」
    「さっきバーガーの優待券あげたじゃないか」
    「モズバーガーで大人の女は買収できません。あれは、この間のくたびれ儲け事件の時給がわりですよ」
    「まぁまぁ、それでその後、息子さんは見つかったんですか?」と宇田川が仲裁のつもりで口をはさむ。
    「コラ、お前ちゃんと話聞いてないだろう。そういえば宇田川、この前の事件の手柄、結局全部刑事部がもっていったじゃないか! 俺は知ってるぞお前が影で功労者って言われている事。ちょっと俺も昇進させるよう偉い人に口添えしてくれよ」
     舟橋はズルい目で宇田川に絡んだ。
    「再捜査を立件する為に僕も署内関係各所に説明して回ったんですから、その割には全然報われてないですよ。むしろ舟橋さんのことは千葉伝説の刑事が完全復活したと署内で噂されてますよ」
    「本当か? うまいこといっても騙されないぞ」うれしそうな舟橋。
    「本当ですって」宇田川は嘘くさい顔をした。
    「そういう噂とかじゃなくて、リアルに昇進して退職金上乗せしたいの俺は!」
     たまりかねた晶子が言った。
    「せこいぞ舟橋! そんな話なら食べるもの食べたし、私帰ります」
    「そうだった、ごめんごめん」舟橋はわざとらしく頭をやや下げた。
    「真面目な話、大事なのは未解決密室事件の話だよ。当初は俺たちも事件性の有無を怪しんだわけなんだが、一日たっても三日たっても息子は現れず。両親からは行方不明の捜索願いも出された。そこから誘拐、殺人などの可能性も含めて日夜捜査員が動員された。流山だけでなく、松戸、柏の近隣市内各所で捜索範囲を広げて調べられたんだが一向に手がかりはなく。事件に巻き込まれた可能性も見つからなかったんだ……。それから半年後には専従捜査班も解散。それでも根気強く所轄は捜索を続けたんだが、今だに解決していない。ここまで宇田川のせいで説明に時間はかかったが、さぁ市川お前どう思う?」
     一気にまくしたてると舟橋は挑戦的な目で晶子を見た。

    #3
     舟橋から受け取った捜査資料をペラペラとめくりながら晶子は細かなキーワードを頭に記憶させた。
    「捜査会議の記録を読むと最初の段階では『誘拐の可能性』もあったってありますけど、何かあったんですか? 裕福そうな家族でもないし、事件だとしても、引きこもりのほぼ成人男子をわざわざ鍵のかかった部屋に忍び込んでさらった上に、丁寧に密室を作って出ていくなんて複雑なことする犯人いるわけないでしょうから」
    「いやまぁ、確かに誘拐は考え難いんだが、最初に現着した巡査が言うには捜査班が到着する前、家に一度電話がかかって来ているというんだ」
    「その話めちゃめちゃ大事じゃないですか、何でもっと前に言わないんですか」
    「父親が電話にすぐ出たが無言で切れたらしい。どうも前から斉藤家にはときどき間違い電話がかかってくるらしくて、この電話が事件と関係するのか結局は決め切れなかった。その後誘拐の線は追いようが無く、わりと早い段階で誘拐の可能性は消えたんだ」
     晶子はテーブルに前のめりになって言った。
    「そうするとこの資料を見る限り容疑者は絞られる事件ですね。話が脱線しがちなので巻き目に言います。怪しいのはこの場合両親ですね」
    「君は若い女性にしては、またすごいところに疑いもつね」
    「しょうがないですよ。登場人物 両親と警察官しか出て来てないし。部屋から悲鳴がしたとか、物音がしたと言ってるのは母親だけです」
    「そうだ、確かに息子の声が部屋から聞こえて、その後バタバタと音がしたと母親が言っていた。父親は事件発生時は近所の工場で働いていたからな」
    「その証言がなければ、その部屋の中に息子がいたかどうかわかりません。信憑性が疑われる中で、まず狂言ということも考えないといけないですね、どうなんですか当時の担当刑事さんとしては?」
     舟橋は急に狼狽しはじめた。
    「そんなことあるわけないだろう、一人息子を失って哀しむ奥さんの姿を俺はこの目で見てるんだ。貧しいながらもささやかな幸せを掴んだ斉藤さんがそんなことするわけないだろう」
    「ははーん、警察側にそういう予断があったってことですね。だいたい分かりました。私からビターな事件の真相言っちゃっていいですか」
    「えっもう分かったの? さすが早いな」
    「心の準備はいいですか?」
     晶子は窓際警察官と捜査課で浮いている刑事の二人を前に自説を披露し始めた。
    「まずその息子、ひきこもりはしているんですが、大人しいタイプではなく、むしろ手のつけられない暴力的性格で、両親への暴力が普段からひどかったとしたら……」
    「そんなはずは無い、両親も愛情注いで育てていたはずだ!」舟橋がムキになって反論する。
    「仮にですよ、あくまでも。舟橋さん今回の事件えらく肩入れしてる感じがしますけど、なんか裏事情でもあるんですか?」
    「そんなことはない、俺はいつも冷静だ」
    「それじゃ続けますね……悩んだ両親は学校の先生、近所の世話焼きおばさん、小児科、いろんなところに相談し、息子の気持ちを落ち着かせる術を探りましたが、いい治療法は見つかりません。やがて子供の成長と共に乱暴状態はエスカレート、特に家にいることの多い母親に対しての殴る蹴るがひどくなってきました。そんな家庭状況は団地でも噂になり斉藤一家は住みづらくなっていきます」
    「なんで斉藤さん前は団地に住んでたこと知ってんだ? 俺言ったかなぁ」
    「あくまでも想像ですが、正解でしたか?」
    「そうだ、三人はその前は近くの公団に居たんだ。でも引っ越したのはそんな理由じゃないからな」
    「まぁまぁ、最後まで聞いてください……そんなトラブル息子を抱えた斉藤一家は隣近所から苦情も来るようになってました。『団地から引っ越したい! でも一戸建てに住むようなお金はない』そんな時、夫が勤める工場のカシラから『ちょうど良い感じの古い長屋の一軒が格安で空いているから引っ越して見ては?』との嬉しいお話が舞い込みます。両親はさっそくその話に乗り、今の家に引っ越してきます。その際、暴力息子の事を危惧し部屋をリフォームして窓の無い子供部屋、つまり座敷牢に息子を閉じ込めた訳ですよ」
    「恐ろしい話だ」
    「仮説にしては話長すぎない?」
    「ここからですよ大事なのは! 日夜部屋でうめく息子に両親は家を空けることができず、夜も安心して寝ることが出来ない。しかも父親は長年働いた工場でリストラ寸前、新しい嫌な若造の上司からは罵詈雑言が日夜浴びせられる」
    「前のカシラは優しい人だったのに、パワハラつらそうですね」
     宇田川は無意味な感想を漏らした。
    「工場から疲れて帰った父親の目の前には荒れた息子と疲れた妻の姿……。家庭の荒廃を見て父親は体ばかりか心まで蝕まれていきます。『俺の夢見た人生はこういうものだったのか、家庭とはこういうことだったのか』。悩みます、葛藤します、神を呪います」
    「ちょっと悲惨すぎないか」たまりかねた舟橋が口を挟んだ。
    「最近の投稿実話系コミックは取材が行き届いてますからこう言う話多いんですよ。そうだな父親のイメージはリリー・フランキーさん、母親はキムラ緑子さんで想像してみてください」
    「イメージできましたか? 」というと晶子は話を続けた。
    「そんな心身ともに疲れ切った父親はある日夜中に目を覚ますと、幻覚を見るようにフラフラと歩き出して息子の部屋に入っていきます。そこには十八歳の息子が寝ている。可愛かったあの子とはすっかり変わってしまった自分に似た醜い姿。意識が朦朧とする父親の心に一瞬悪魔が宿ります。気がつくと側にあったズボンベルトで息子の首を絞めていました。『お前を殺して、俺も死ぬ! プラマイゼロ人生の帳尻あわせてやる!』。そして息子の死を見届けると、父親は部屋の鴨居にベルトを吊るして首をくくって死のうとするんです。どうです?」
    「怖いなぁ。イタリアンレストランでは絶対聞きたくなかった救いのない話ですね」
     宇田川はデザートを食べる手を止めて言う。
    「鴨居なんかないけど、それでどうするんだその死体は?」
    「まぁまぁ、ここからがドラマチックな展開ですよ。とくとお聞きなさい」
     晶子は調子づいてまたワインを呷った。
    「息子の部屋の物音を聞いて起きて来た母親のキムラ緑子さんは、首を吊ろうとしている夫リリー・フランキーを見て言うんですよ。『あなたがいないと私はどうなるの?』。息子を殺してしまったことは犯罪だけど、やってしまったものはどうしようもないじゃないの、大事なのは私たちがこれからどうするかでしょう」
    「強いですねこの母親」
    「キムラ緑子イメージですからね」
    「こうして二人は共謀して息子を深夜に運び出し。近くの江戸川河川敷にでも深夜に埋めてしまう。その上で、急に部屋から息子がいなくなった状態を作るべく、準備をして一一〇番通報します。交番巡査を証人にして『引きこもり息子が不在による密室殺人事件』を作り出して、予断と偏見に満ちた穴だらけの捜査を撹乱し迷宮入りを狙うっていうのは……どうです! ほぼ正解の感じしませんか?」
     話終わった晶子は炭酸水を飲んで、じっくり舟橋の顔を伺った。
    「素晴らしい、早く映画で見たい」と宇田川は感心している。
     舟橋は怒ったような表情で口を開いた。
    「全くひどい話だな、悪意に満ちた先入観だけで進みすぎなんだよ。世の中そんなことばかりじゃない。それに刑事捜査を最初から穴だらけと見込んでいる時点で気にくわない」
     舟橋はつまみのピスタチオをいじくりながらいった。
    「あと大事なことが忘れられている。密室の鍵の話が全く関係なくなっているじゃないか」
    「そんなもの『密室の作り方』でググれば数千件も見つかりますよ。そのうち一番都合がいいものを合わせればどうにかなるんじゃないですか?」
    「お前今回大事なとこテキトーだな」
    「でも他の部分はリアリティ感じますね。どうですか舟橋さん実際のところ、これ正解じゃないですか?」と宇田川は、県警察伝説のベテラン刑事からの返事を待った。
     舟橋は急におかしくてたまらないような顔をした。
    「クックック、素人のヤマ勘はどうしようもないな。残念ながら『両親が殺害犯で失踪の偽装説』それはないんだよなぁ」晶子の推論が外れたことを伝えた。
    「えーっ何でですか?」
    「俺たち現場の優秀な刑事も事件発生当初は両親の証言の信ぴょう性を疑ったもんだ。その為に当時の最新鋭のポリグラフ(嘘発見器)を柏の科警研から借りて、二人を流山署に泊めて朝から晩まで質問をぶつけて取り調べたんだが、いくらいろんな角度の尋問をしても、『この事件の容疑者どころか、真相すら知り得ない』と言う結果になった。この夫婦は最近稀に見る素直で素朴な正直ものであることが証明された。これでも穴だらけの捜査というか」
     舟橋は勝ち誇ったような顔をした。
    「あーそうですか。そんな機械使ったんなら最初に言って下さいよ。再現ドラマの演出して損した。もう一回飲み直し、すいませんワイン下さい。あとチーズと干しブドウ」
    「まぁまぁ気を悪くすんなよ。そんなベタな劇画タッチ展開では解決しないことも世の中には山ほどあるってことだよ。俺もビールお代わり、ピーナッツない?」
     ただの飲み会のようなやりとりを、勘定を払わされるはずの宇田川は一人興味深そうに聞いていた。
    「宇田川はあんまり飲んでないな、何か頼むか?」
    「いえ、ただ僕もお二人の話を聞いていると、迷宮入りした理由がうっすらとわかるような気がして来ました」
    「何ニヤニヤしてるんですか」
    「まさかお前も何か推理するつもりじゃないだろうな」
    「舟橋さん言っちゃ悪いですが。この中で現役刑事は僕だけですよ」
    「おっ。珍しく宇田川さん強気」
    「お前やっぱり、俺を監視する監察官なのか!」
    「フッ、さっき舟橋さんその息子はネット通販しているって言いましたよね。何を買っているか母親は把握してましたか?」
    「いやなんかアマゾンが多かったとか言ってたけど、母親にも一切荷物は開けさせなかったらしい」
    「なるほど、なるほどですね。ですね。そしたら、例えばですよ、息子が特殊な精密機械を購入して部屋で組み立てていたとしても誰もわからないわけですよね」
    「まぁそうだな。お前何考えてるんだ?」
    「宇田川さんもしかして、話聞いただけで密室の謎わかっちゃったんですか?」
    「まぁ証拠はないけどね。僕なりにひらめいたことはあるわけですよ」
    「えっ何?」
    「いや、笑われるかもしれないからやめときます」
    「笑わないよなぁ?」舟橋は晶子に同意をもとめた。
    「笑いませんとも可能性の議論を今しているだけですから、現役刑事の推論ありがたく頂戴しますよ」
     なんでもいいので手詰まり打開策を晶子も探していた。
    「そうですか、まず母親は駆けつけた巡査に『部屋で大きな音がして部屋に入ったら誰も居なくなった』って証言したわけですよね」
    「そうだよ」
    「あくまでも可能性ですよ。笑わないでくださいよ」
    「もったいぶるな」
    「早く言え」
    「そこまで言うなら分かりました。この息子は実は天才的頭脳を持っていて、部屋に閉じこもっていたのは極秘の研究のためです。ひとり世界中の叡智とインターネットで情報交換して、ついにとんでもないものを発明したんですよ」
    「その発明って何なんだ?」
     舟橋も晶子も宇田川の予想外の超推理に引き込まれた。
    「それは、タイムマシンです」
    「お前何の話始めたんだ?」
    「彼はタイムマシンに乗って忽然と過去へ消えたんです。ちょっと二人とも笑わないって言ったじゃないですか」
    「笑いませんよ、呆れてます」
    「君みたいな刑事がいることに俺は絶望しているよ」
    「あーっバカにして、もし過去に行ったとしたら、彼はきっと何か歴史を変えたかもしれないんですよ。我々が気づかないうちに何か大きなものが変わっているかもしれない。これって怖くないですか?」
    「ドラえもんか」
    「世にも奇妙か」
    「宇田川警部補。刑事の先輩として君に大事なことを言っておきたい。君から見ると俺はおちゃらけているように見えるかも知れない。ただねそれはあくまでも自らの未解決事件へ対する照れ隠しの裏返しであって、事件の真実探求の『刑事魂』は忘れちゃいないぜ」
    「はあ」
    「市川のめちゃくちゃな推理もそこには何らかの本当ぽさが感じられるが、君のはただのおもしろ話だ。これは捜査なんだよ、怖いとか面白いとかの問題の前に現に苦しんでいる人がいることを忘れてはいけない」
    「すいません舟橋さん、私が間違っていました。初期設定からやり直します」
    「分かってくれたか。宇田川くんこういう私の真面目な一面をさりげなく刑事部内でアピールしてくれると嬉しいんだよ。最近オレが本当に暇してると県警本部で言う奴がいるらしいからな」
    「結局、評判気にしてんのか! 私本当にそろそろ帰りたいんですが、最後に一つだけ気になることあるんです。舟橋さんはどうして今になって再捜査しようと思ったんですか?」
    「そこやっぱり気になる? 」
    「最初にそこから説明始まると思ってました」
    「俺がこの事件の再捜査をしようと思ったのは、先週流山署の元同僚から連絡があって、奥さんから『息子の失踪死亡届が提出された』というのを聞いたからなんだ」
    「何ですかその失踪死亡届というのは?」
    「失踪死亡届けとはな・・・・・・事件や事故で行方不明になった人が、いつまでも行方不明扱いでは警察や役所も何かと困る、そういうわけで『これ以上は探せません。もう死んだと思ってます』という申し出が遺族からあった場合に戸籍から死亡扱いで抹消できるという制度だ」
    「へェー、そんな制度があるんですか」晶子は初めて聞いた。
    「それとこれも同じく元同僚が教えてくれたんだが、奥さんは昨年旦那さんが病死されて、今は天涯孤独の身だそうだ。産み育てた息子が失踪、苦労を共にした夫とも死別。一人残された奥さんの心情を考えると、死亡届けが正式に受理される前に、せめて俺にも何かできることはないかと思ったんだ」
     舟橋は酒に酔い、自分の話に酔っていた。
    舟橋がこれほど心情を思いやる不憫な奥さんはどんな人なんだろうと晶子は捜査資料からプロフィールや顔が分る写真を探した。
    「旦那さんは事件当時六十三歳の町工場のベテラン作業員ですか、そうすると昨年六十九歳で亡くなられたんですね」
    「働きづめの人生、切ないよな」
    「そして、奥さんの事件当時の年齢は……四十歳! 何ですか旦那とトシ離れすぎじゃないですか! えっーちょっと待てください、失踪当時の息子の年齢が十八歳ですよね、逆算するとこのおっさんは四十五歳の時に二十二歳の女と結婚してるんですか? 二十三才差! うゎーありえない。さっき舟橋さんの話聞いて疲れ切った老夫婦をイメージしていたのに全然違うじゃないですか。犯罪ですよこれは、どこが正直者の素朴な夫婦なんですか」
     舟橋は見られたくないものを見られた子供のように困った顔をした。
    「いやそこは、ちょっと事情があってな……奥さんは元々は中国籍で旦那は再婚ね。つまり国際結婚」
    「奥さんの名前『彩華(あやか)』って年齢的には珍しいキラキラネームだと思ってたんですよ。中国の人だったんですね。そしてこれが当時の写真ですね……」というと晶子は写真をファイルから出して見た。
    「これ、めちゃめちゃ美人じゃないですか! 四十歳には見えないですよ」
     写真は家族三人の写真だったが、そこで妻は胸が大きく開いたワンピースを着てアイメイクばっちりで笑顔が決まっていた、優香と菜々緒と壇蜜を足して三で割ったような妖艶な女がそこにはいた。
     宇田川も写真をのぞき込んで思わずつぶやいた。
    「まさに美魔女ですね、中華系美魔女! 舟橋さんこういう隠し事は困りますね。偏りのない推理には正しい情報が必要です、この彩華さんのこと詳しく聞かせてもらおうじゃないですか」
     バツが悪そうな顔をして舟橋は言った。
    「俺じゃない別の警察官が詳しく聞いたことによると斉藤さんの奥さん中国名・李彩華(リサイファ)さんは中国の東北地方出身で二十一歳の時に日本にやってきた。日本語を勉強しながら錦糸町のマッサージ屋で働いている時に旦那さんと知り合って結婚したそうだ。それで日本に帰化したんだな、まぁ最近あっちこっちでよくある話だよ。珍しくはない」
    「えっ、最近良くあるんですか国際結婚? 旦那さんは再婚って書いてありますが、奥さんの方は初婚ですかね、ヤダヤダ。そして長男の和臣さんが生まれたのが結婚の翌年ですか……少々早い気もしますが。これは一人暮らしの寂しいおじさんが中華系美魔女に入れ込んだということでしょうかね舟橋さん! 」
     舟橋も妻に捨てられ娘に捨てられた身。娘と同じような年齢の晶子にこの件でつめられるとつい弱腰になる。
    「確かにね、お前みたいなそういう歪んだ見方をする奴も前にいたが、旦那さん年齢は離れてはいるが見た感じ真面目そうな人だったよ」
    「あぁそうですか、本当に偽装結婚とかではなくて、夫婦仲は良かったんですね?」
     晶子は舟橋に念を押した。
    「そうとも、だから息子さんが行方不明になった後は肩を落として悲しんでいたよ。特に彩ちゃん……いや奥さんは息子さんの写真入りの『捜索ビラ』を流山だけでなく、柏や松戸やいろんな駅前で配って『この子を知りませんか?』と出勤客に呼びかけていらっしゃったよ」
     遠くを見るような目で舟橋は言った。
    「今、彩ちゃんって言わなかった?」晶子が宇田川に確認した。
    「確かに言いました」
    「やけに親密感あるじゃないですか、舟橋さんも実はその美魔女の虜になって肩入れしてたんじゃないですか?」
     晶子はやってられないオーラが全開でさらに念押しした。
    「失礼なこというなよ。ただ寒空の中で駅を行く知らない人々にビラを配り続ける奥さんが可哀想に思えて、一緒にビラ配りを手伝っただけだよ」
    「本当にそれだけですか?」
    「まぁ……その後一緒にラーメン屋で中国での生活など身の上話を聞いたりもしたが……それだけだ! 一切、お前たちが想像するようなやましい関係は無いからな」
     ボロボロの舟橋はそれでも威厳をギリで保ちながら何とか言い抜けた。
     晶子はワイングラスを手に宇田川に向かって言った。
    「さっき宇田川さんの空想推理で、確か『刑事魂』がどうこうと言ってましたが、『刑事魂』自体怪しいもんですよね」
    「ですね、ここの支払い請求しようかな」
    「お前たち、まだ疑ってるな! 少しでも手がかりがつかめればという奥さんの思いに対してだけ俺は共感しただけだからな」
    「舟橋さんはそう思ってても、その彩ちゃん、今度は行方不明の和臣くんの死亡届けを出そうとしてるんですよね。どうしてずっと探さないんでしょうか?」
    「そこは分ってあげようよ。もう七年も経ってるんだから諦める気になったんだろう。ただねいくら奥さんを疑っても『密室から息子さんが忽然といなくなった理由』や、科警研の嘘発見器で『この事件に関して隠していることは無い』って結果が出たこと説明できるか?」
    「夫婦を取り調べても何も分らなかったとしたら、本当に息子さんは消えたんだと思うしかないですね」
    「そうなんだよ、結局はふりだしだな」
    「問題は消え方ではなく、消えた理由なんだと思いますよ。この事件は突破口が一つ見つかるといろんなものが繋がって分る、何となくそんな気がします。やっぱり、実際にその部屋を見ないと何も分かりませんね」
    「そうだな、まだ元の家に住んでるはずだから。行くか! 今すぐに」
    「私の都合も聞いて下さい」
     スマホのスケジュールを見ながら晶子は言った。
    「今週は家族でイチゴ狩り行きますので、来週の土曜日の午後とかでどうですか?」
    「えらい先だな、イチゴ狩りなんていつでもいけるだろう」
    「私には平日仕事がありますので、ヒマなみなさんとは違うんです。七年間ほったらかしの事件が一週間ずれたって何も変わりませんよ。舟橋さんが早く中華系美魔女に会いたい気持ちも分からないでもないですが、オープン直後のイチゴ狩りはとても大事です」
    「分った、来週でもいいぞ」
    「あと流山までの出張料は金券一万円で手を打ちます。宇田川さん今日は高級ワインごちそうさまでした。お土産に一本いただいていきます」というとワインをバッグに入れて晶子は素早く店を出て行った。



    #4
     こうして五日後、三月最終週の土曜日午後三時。斉藤彩華宅の最寄り駅『流鉄・流山駅』前で、晶子、舟橋、宇田川ら三人は待ちあわせた。先に到着していた舟橋は地元流山署の刑事浦河と駅前のベンチに腰かけて缶コーヒーを飲んでいた。
    「この駅前は七年前とあんまり変わってないなぁ、というか変わらなさ過ぎだよ。もうちょっと発展するか、寂れるかしてくれた方が感慨もあるよ」
    「前から住んでいる人は歳とるだけ、若い人はもっと便利な場所に住みますし、再開発の計画も無いのでずっとこのままです」
     浦河は事件当時、舟橋の部下で一緒に捜査をしていた仲間だ。久しぶりに舟橋が流山署に来るということで出迎えてくれた。
     「お待たせしました千葉県警刑事部捜査課の宇田川警部補です。すいません駅の場所が分かりにくくて遅れました」
    宇田川が線路沿いの変な道から現れた。自分の車で移動するのでいつもコインパーキング探しに時間がかかって遅刻する。
    「お前、県警で禁止されてるんだから車やめてたまには電車で来いよ。彼が今指導している宇田川ね。浦河くんはもう署に戻っていいよ。この辺は俺も熟知している、もとはと言えば俺の事件だから何か新しい事がわかったら連絡するわ」
     そう舟橋が伝えると浦河は自転車で流山署に戻って行った。
    「あれぇ、市川さんまだですか?」
    「さっきの電車に乗ってなかったから、乗り遅れてるのかも知れないな、多分この後の電車だろう。出口は一か所、駅前にいたら見落とすことはないはずだ」
    「コンビニや売店みたいなものがここには全く無いですね」
    「この辺の住民はみんな車で移動するし、外からわざわざ来る人も少ない」
    「でも『流山』って最近シネコンやショッピングセンターが出来て発展していると聞いていたんですが」
    「それは最近できた秋葉原ライナーの駅の方だ、こっちが本当の流山の中心」
    「舟橋さん、秋葉原ライナーじゃなくてつくばエキスプレス略称TXですよ」
    「ほとんど千葉走っていて『筑波』というのが気に食わん。お前コーヒー飲むか?」
    「僕、コーヒー飲まないんです」
     宇田川は手持無沙汰に駅前の観光案内看板を見上げた。
    「ちょっと舟橋さん新撰組がここにいたって書いてますよ。流山すごいじゃないですか」
    「江戸から移動してきた近藤勇が官軍に捕まったのがここ流山だ。いたのは短いけどな、その時の陣屋跡が観光地になっているみたいだがな」
     舟橋は地元愛が刺激されたのか自慢げに言った。
    「僕、新撰組大好きなんですよ。流山来てよかったですよ。斉藤さんの家に行った後でこの陣屋跡地行きましょう」
    「でも新撰組いたのたった一日だけだからな。あんまり期待するとがっかりするぞ」
     地元を褒められすぎると急に心配になるのが千葉県民の特徴でもあった。
    「すいません遅くなりました」
     駅とは反対側から晶子が小走りで現れた。
    「お前、どこ行ってた? 変なとこから出て来たな」
    「ちょっと早く着き過ぎて、時間つぶす所もなかったので不動産屋さん行ってました」
    「何で不動産屋に行く?」
    「この前、宇田川さんの一人暮らしの話を聞いて『私も賃貸マンションに引っ越したら家賃どれくらいかかるんだろう』と思って調べていたんです。でもあんまりこの辺安くないですねワンルーム五万ですよ」
    「上野駅まで一時間以内で行けるからな。いわゆる千葉都民だよ」
    「千葉市を県庁所在地として意識していない人達ですね」
     晶子の心の中に千葉市愛が小さく燃えた。
     ようやく合流した三人は舟橋の案内で駅から五分ほど離れた斉藤家に向かった。
    「舟橋さん、今日ちょっといつもと服装の感じ違いますね」
    「そうか? いつもこんな感じだけどな」
     この日、舟橋は茶のジャケットに、茶の革靴を履いていた。前の現場では『イキイキ千葉宣言』と書かれたビニールジャンパーに紐無し靴だった。
    「全然違いますよ。それに何でサングラスもかけてるんですか」
    舟橋は偽レイバンをかけていた。
    「ちょっと今日はまぶしかったからな。お前こそ完全地元モードだな」
     晶子は休日の黒縁眼鏡に服はモード系ユニクロだった。
    「失礼なプチプラってものがあるんです」
     斉藤彩華(さいとうあやか)、中国名・李彩華(りさいふぁ)の住む家は旧市街の中にある長屋の一軒だった。築四〇年の晶子の実家よりもはるかにボロい。
     玄関のブザーを押したが、断線しているのか鳴らない。
    「すいませーん。どなたかいらっしゃいますか」
     宇田川が表で声を出すと家の中で人が動く気配があり玄関ドアが開かれた。
    「どなたですか? あっ、あの時の刑事さん……」
     晶子が連想したキムラ緑子イメージとは全く違うリアル美魔女がそこに現れた。
     捜査資料の写真から七年が経ち現在四十七歳のはずだったが、肌はすべすべで、目じりに皺もなく、老けた三十代といっても通用しそうだ。
    彩華からは香水の匂いがした。
    「お久しぶりですね。舟橋です。お変わりありませんか」
     舟橋はさっきまでの晶子に対するラフな態度と違い気取っていた。
    「県警本部に栄転されたと聞きました。偉くなられたんですね。こちらは部下の方ですか?」
     事前に連絡してあったはずだが、一緒に晶子と宇田川がいたことが意外だったのか美魔女は戸惑っているように見えた。
    「そうなんですよ。いろいろ新人指導も任されてまして、はっはっは」
    「こちらのお若い女性の方も刑事さんですか?」
    彩華は玄関先でゴミ袋を触っていた晶子を指さした。
    「コラ、お前勝手に何やってんだ。すいませんねこの娘はまぁそんなに若くはないですがまだ見習いなんです」
     舟橋は晶子を自分の後ろへ下がらせた。
    「旦那さんが亡くなられたこと、風の噂で聞きました」
    「刑事さん……気にして頂いてたんですね。とうとう一人ぼっちです」
    「さぞ、さびしいでしょう」
    「和臣のことも一区切りです。心機一転して人生をやり直そうとしてます」
    「息子さんが行方不明になって七年ですね……見つけてあげられず申し訳ございません」
     舟橋は彩華の前で頭を深く下げた。
     この一連のやりとりを見ていた晶子は、横でボケっと立っている宇田川に言った。
    「これ一体何が始まっているんですか」
    「さぁ、確か未解決事件の再捜査と聞いてきましたが、何か雲行きが怪しいですね」
    「ちょっと本当の刑事宇田川さん! この茶番劇を止めて早く部屋の捜索をするように言ってください」晶子は宇田川の背中を押した。
    「県警の宇田川警部補です。あのぉ今回和臣さんが行方不明になっている件で『失踪死亡届け』を出されましたよね。それで今日は事件の見落としが無いのか再捜査に参りました」
    「あぁ、そうだったんですか、それでいらっしゃったんですね舟橋さん。どうぞ好きなだけ見て行ってください」
     急に険のある表情になった彩華の目は怖い役の菜々緒のようになっていた。
    「ではお言葉に甘えて、お部屋拝見いたします。いくぞ宇田川くん」
    「おい市川、勝手なことするんじゃないぞ。すいません行儀の悪い部下で」
     茶番劇場を続けようとする舟橋に晶子は眉間に皺を寄せてにらんだ。
    斉藤家のドアをあけると小さな玄関があり、晶子はさっさと先に上がった。宇田川は小さな玄関で靴ひもを外そうともたもたしていた。
     小さな土間を上がると縦に廊下があり、廊下に沿って玄関のすぐ右手に引き戸、その奥に洗面所、その隣にもう一部屋ドアが見えて突き当りにも引き戸があった。四軒並びの長屋の真ん中にある為か、壁に窓は無く蛍光灯がついていても薄暗く感じる。
     晶子は廊下の壁を触りながら「結構新しいですね。家の内部は引っ越してきた時に改装したんですね」と外にいる彩華に聞いた。
    「そうですよ、前の捜査の時にも言ってますよ。私この後用事がありますので早くお願いします」
    「そうだよ市川、余計なことしないように。奥さんも困ってらっしゃる。ねえ」
     舟橋は彩華を気を使うそぶりを見せた。
    「舟橋さんもどうぞ上がって下さい。お茶でも入れます」
     彩華は家に入り手前の引き戸をあけ舟橋を招き入れた。
     でも先に部屋に入ったのは晶子だった。
    「ではお邪魔します。なるほどここはダイニングキッチンですね六畳くらいですか?」
     晶子は肩掛け鞄から手帳とペンを取り出してメモし始める。
    「お前は何をしに来たんだ! 不動産屋か」
     晶子の振る舞いに舟橋が文句を言ったが、晶子は気にしない。
    「こちらキッチンの横にお風呂があるんですね。失礼しまーす」と言うと晶子はちょこちょこ移動して風呂場のドアを勝手に開けた。
    「これは! 結構広めのユニットバス入ってますね。洗濯機もここなんですね。 へー、ところで気になるお値段は工賃込みでいかほどでした?」
     晶子は風呂場をのぞきながら彩華に質問した。
    「刑事さん、お詳しいんですね。でも値段の事は私にはわかりません、この風呂場も確か夫が工場で貰って来たものです。私の趣味じゃありません」
    「旦那さんの工場は何を作ってるんでしたっけ?」
    「住宅関係の工場でした。ここの工事も取引業者と一緒にやっていたようです」
     彩華は興味無さそうにキッチンでお湯を沸かし始めた。彩華の返事を聞き流して晶子は手帳に図面を書いた。
    「トイレ、キッチン、風呂場を近くに置いて水回りを統一していますね。これは主婦には使いやすそうですね」
    「狭い家でお恥ずかしいです。脱衣所も無いので来客なんかがあると大変なんです。この間なんてお風呂出た時に郵便配達の人が来て、バスタオル巻いて出たことありますよ」
     彩華は舟橋に目線を流した。
    「バ、バスタオルですか」舟橋のお茶と生唾飲み込む音が聞こえた。
     晶子は手元の手帳に書いた図面を見ながら彩華に質問した。
    「でも、この家狭いのにお風呂が大きくて、しかも間取りの真ん中にあるっていうのはちょっと変わってますね、なんか理由があるんですか?」
    「狭いは余計だろ。無駄がないとかいえないのかねぇ。最近の若い連中は言葉を知りませんなぁ、すいません」
     舟橋の顔はバスタオルの話で緩んだままだ。
    「確かに一戸建ての場合、たいていバストイレは家の奥の方にありますよね」宇田川も晶子の手帳を見ながら同調した。
    「理由は分りません。夫は私に何も相談しないで決める人でしたから」
     彩華のそっけない答えは想定していた。
    「そうですか、分りました。ではつぎは隣の部屋を見せて下さい」
     晶子は再び廊下に出るとトイレの隣にあるドアの前に立った。
    「ここが問題の息子さんの部屋ですね」
    「そうです」彩華は興味なさげに応えた。
    「やっぱり、ドアは壊れたまんまなんですね。鍵はかかってないんですね」
    事件当時、消防隊がこじ開けたのかドアノブ部分のシリンダー錠が壊されていた。
    「そのままです。この部屋は使ってませんから、今は私しか住んでいません」
    「他の部屋は引き戸なのに、ここだけスペースをとる外開きのドアになってますね」
     そういうと晶子は長屋には不釣り合いなスチール製のドアをなでたり小突いたりし始めた。
    「これはアルミですかステンレスですか? 確かに頑丈ですね。やっぱり息子さんを閉じ込める意図はあったんでしょうか?」
     晶子は彩華の顔を覗き込んで聞いた。
    「絶対に違います」
    「家の中に不相応なドアが付いている理由を奥さんは知らないんですね」
    「はい。改装は全部夫が決めたことですので」
    「……では、次はいよいよ息子さんの部屋を拝見します。宇田川くん開けて」
     晶子は宇田川に合図した。
    「ではオープンします」
     宇田川は壊れて飛び出た取っ手を握って引いた。ドアは無抵抗に静かに開いた。
    「お邪魔しまーす。わぁ散らかってますね」
    「おい、失礼なこと言うなよ! 」居間から舟橋の声がした。
    「奥さんこの部屋は当時のままですか?」
    「これでも一応整理しました。和臣がいなくなった後も、戻ってきた時の為にしばらくはそのままにしていましたが、七年もたっているので汚いゴミなんかは捨てました」
     彩華がなにげなく説明している間も、ちょこちょこと晶子は部屋の中で動き回っていた。
    「ここに内鍵が付いていたんですね」晶子はドアの裏側のネジ跡をまた指で撫でた。
    「ドアを開ける時に全部はがしました。気を付けて下さい、剥がした跡がまだ尖ってますので」
     晶子の行動を訝しみながら彩華は不愉快な表情で注意した。
    「宇田川さんちょっとこの壁のところに立ってみて! ここで両手広げてください」
    「えっとこんな感じ?」
     言われたように子供部屋で宇田川は両手を広げて立った。部屋がさらに狭く見える。
    「撮りますね」
    カシャ、晶子は自分のスマホを取り出していきなり写真を撮った。
    「何これ? 何の意味あるの」
    「まぁ記念ですよ、この部屋もあっちこっち見てもいいですか?」
    「どうぞ隠すものありませんから勝手に調べてください。でも舟橋さん。こんなところまでまた調べるなんて何か息子の失踪事件に進展でもあったんですか?」
     彩華は不満ありげに居間の舟橋に尋ねた。
    「いえいえいえ、これはあくまでも最終確認です。良くあるでしょ、家を一回出た後『ガス消したかな?』って一旦家に戻る時有るじゃないですか、これはそういうものです。まぁこの程度のキャリアの連中がちょっと見たからと言って当時我々が総力上げた以上のものが今さら見つかるとは思えません。ついでにゴミ捨てとか片付けするものとか力仕事ありましたら我々手伝いますんで、何でもおっしゃって下さい」
     そんな舟橋の茶飲み話を聞き流して、晶子は持参したマスクと軍手を着けて、本格的に部屋のあちらこちらをいじくり始めていた。
    「ゴミをどけるとやっと奥の壁見えてきました。あれ、結構息子さん勉強好きだったんですね。『NHK講座』のテキスト一杯出てきましたよ」
    「そんなものありましたか。和臣はもともと頭のいい子ですから、部屋に引きこもってからも本をよく買って勉強していたようです。ちょうど明日資源ごみの日なので、ロープでその辺の本や雑誌とまとめてもらえると助かります」
     部屋の外から彩華の人をバカにしたような声が聞こえた。
    「宇田川、市川、早速お荷物まとめのお手伝いしなさい」舟橋が号令をかける。
    「私はそんなことしませんよ。あと奥の部屋も見ていいですか」
    「どうぞ、片付いてませんが」
     再び廊下に出た二人は彩華について、奥の部屋の引き戸を開けた。
    「うわっ、確かに散らかってますね」
     晶子はわざと彩華に向けて言った。
     奥の部屋はカーテンがかけられたまま薄暗く、布団は引きっぱなしになっていた。壁側には洋服ダンスと整理棚があったが、そこに入りきらない荷物があっちこっちに積まれ、タンスの上にあった小さな仏壇の周りも荷物だらけになっていた。その中に埋もれて亡くなった夫の小さな位牌と写真があった。
     寝室を見回した晶子は彩華に向いて聞いた。
    「和臣さんの写真は無いんですか、家族一緒に撮った写真とか見たいんですが」
    「なんでそんなもの見るんですか」彩華は怪訝そうに言った。
    「警察にあった写真だけだとイメージがわかないもので、和臣さんどんなお子さんだったのかなぁと思ったんです」
    「確かアルバムがあったと思いますが」
     彩華はタンスの引き出しを開けてアルバムを出し、晶子を睨みつけて投げるように床に落とした。
    「ではありがたく拝見します」
     晶子は彩華にガンつけながらアルバムを床から拾い上げると居間に戻っていった。
     普通の家庭にはどれくらい写真があるのか知らないが、家族写真が現像のおまけミニアルバム三冊というのは多いとは言えないだろう。中を見ると息子の和臣がまだ小さかった頃に行った動物園、小学校の入学式・集合写真、運動会など、男の子と若い母親のツーショットで笑顔の写真が多い。父親の写真は少ないがそれは写真を撮っているからだろう。アルバムは子供の小学校卒業と中学入学で終わっていた。反抗期の男の子は写真を嫌うと言うからこれは仕方ない事なのかも知れない。
     晶子がアルバムを見ている間も舟橋は「このお茶はウーロン茶ですか? 俺も痩せるかなぁ」などとしきりに彩華へ話しかけるが、一方の彩華は晶子の手元を凝視していた。
     その目線に気づいて晶子は言った。
    「お子さんは幼稚園の時から結構背が高いですね。旦那さん背が高かったんですか?」
     そういうと和臣の写った小学校の集合写真を彩華に見せた。
     母の彩華の身長は、百五十五センチの晶子と変わらない位だが、子供の和臣はどの写真も他の子より頭一つ背が高かった。父親の斉藤の写真は数枚あったが、背が高いかどうかまでは分らない。
    「あなたは人の家族写真を見て、いなくなった息子のこと何か分かるんですか?」
     彩華は不審げな表情で言った。
    「まぁ、直接的には関係ないんですが……まずはお子さんが実在したということが収穫ですかね」
     彩華の顔が充血してきた。
    「あなたはそんなことの為に私のアルバムを見たんですか! 失礼ですよ、わたし気分悪いです。アルバム返してください」
     彩華は晶子の手元からアルバムを奪いとると寝室に戻ってしまった。
    「市川お前は本当に失礼だな、被害者の気持ちを分ることが刑事にとって大事なことなんだぞ」と舟橋は再捜査を言い出した張本人とは思えない引き気味なことを言うと「彩華さんごめんね。この娘、実は刑事じゃなくてね……」などと彩華の後ろをついて回った。
     晶子はやってられない感全開となったが、ここまで来たからには後には引けない。すっきりするまで徹底的に調べてやろうと腹を決めた。
    「あの彩華さん私は刑事じゃありませんが、ご協力いただいたおかげで『息子さんがなぜ消えたのか?』 一つの可能性にようやくたどり着きました。やっぱり実際に来てみるもんですね」
     彩華は言っている意味が分からない様子で黙っていた。



    #5
    「えっ。どういうこと?」
     一拍遅れてそれまで廊下で突っ立って邪魔になっていた宇田川が言った。
    「なぜ息子さんが鍵のかかった部屋から消えたのか? その仕掛けがこの家にはありそうです」晶子は断言すると宇田川に指図した。
    「ちょっと宇田川さんこっちの居間に入ってこの壁のところでお風呂の入り口と部屋の端まで、手を広げて立ってみて下さい」
    「またー、これ何の意味あるんだろう」と宇田川はボヤくが、晶子に言われるように居間の壁に張りつき先ほどと同じような姿勢をとった。
    「宇田川さんは身長何センチですか?」
    「百七十八センチ位だけど」
    「やっぱり、ちょうどいいですね」
    「何がちょうど良いんだよ。お前のやってることの意味が分からん」
     二人のやりとりを見ていた舟橋が口を挟んだ。
    「人間の身長はその人が両手を広げた長さに近いと聞いたことがあります。宇田川さんが伸ばした手から六十センチくらいまだ壁がありますので。居間のお風呂側の壁の長さは二・二メートルくらいですね。舟橋さん、彩華さん、ちょっとこれ見て下さい。さっき息子さんの部屋で撮った宇田川刑事の写真です。どうです」
     晶子はさっきスマホで撮った写真を見せて目の前の宇田川と見比べてみせた。
    「これがどうかしましたか?」
     彩華は突然の展開に全くわけがわからない様子だった。
    「やっぱり、まだ分りませんか?」
    「市川、一体何が言いたいんだお前は」舟橋も何のことか理解できていない。
    「じゃあ、とっておきのものお見せますので、これを見れば誰もが納得できると思います」
     そういうと晶子は自分の肩掛けカバンから一枚の書類を取り出した。
    「これを見て下さい」
     晶子が出したのはよく家のポストに投函されたり、不動産屋の表に貼ってある『賃貸マンション・貸家』などの図面付きチラシだった。
    「はぁ、これは何だ? さらに良く分からんぞ」舟橋は顔をしかめて言った。
    「これがどうしたんですか?」と彩華もいう。
    「さっき流山についたとき時間早すぎたんで不動産屋さんに行ったんです。これはその時にもらいました」
    「この娘はちょっと変わったところがあるんですよ」舟橋が意味のないフォローする。
    「生涯官舎暮らしの老警官の舟橋さんには分からないと思いますが、女性たちは常により良い住環境を求めてアンテナを張り巡らしてるんです、家賃相場は私の周りでは皆んな普通にチェックしてますよ」
    「そうなのか? 宇田川くん」
    「いや、僕に聞かれても全く分かりません。流行ってんの?」
    「私も前からチャンスあれば実家を出たいと思っていて色々調べているんです。収穫ありましたよ、ネットで出る前の物件はやっぱり地元じゃないと分りませんね。駅前の不動産屋さんに飛び込んで『この辺で賃料五万円以内で一、二か月先に引っ越せそうな部屋無いすか?』って聞いたら、そこのご主人がヒマだったんだと思いますが、次々とマンションやアパートを紹介してくれて、私が図面で分らない事を質問すると、書類の見方から工法による家賃の違いなんかも説明してくれて、ついつい一時間ぐらい話し込んじゃいました」
    「それで待ち合わせに遅れたんだな」
    「はいそうなんです。この間取り図はその不動産屋さんが『もし長屋でもよければ掘り出し物がある』といって見せてくれました」
    「そのおじさんがいうには、この家なら2LDKで広いし、リフォームしてるから内装は綺麗、お風呂も大きくて良い、自分が若ければ住みたいくらいだとか言ってました。まだ誰にも出してないけど一か月後に空くからどうか? とえらく勧められました」
     彩華は説明を聞いても黙っていた。
    「あれ、そう言えばこの貸家の住所こちらの家と同じですね? 何でかな? もしかして彩華さん引越しでもされるんですか」
     晶子は彩華の顔を覗き込んで聞いた。
    「えっそうなの彩華さん」舟橋も間の抜けた顔で彩華に聞いた。
     黙っていた彩華は急に険のある表情を見せた。
    「息子が行方不明になり、夫も亡くなり私は一人になりました。この家には思い出が多すぎるので引っ越して人生をやり直そうと思っただけです」
    「そうなんですか、心中お察しします」
     舟橋はわざとらしく同調するがそれを無視して彩華は晶子に言った。
    「さっき、あなた息子の消えた理由を説明すると言いましたが、来月の私の引っ越しと七年前の息子の失踪事件とどういう関係あるんですか?」
     そう言われた晶子は落ち着いて彩華の目を正面から見据えた。
    「まぁ、それはだんだんと分かってくると思いますよ。まず三つ並んだ部屋の真ん中にあって両側が隣家に挟まれている子供部屋はどうしても窓も無い部屋になってしまいます。入り口以外からは出入りすることは不可能です」
    「それ最初から俺が言ってるじゃん」舟橋が晶子をバカにしたように言う。
    「最後まで聞きなさい。この図面だとお風呂場は廊下側に入口のあるトイレの裏にあることになってるんです。さっきお風呂場を見たとき奥行を測ったんですが図面と比べるとおかしな部分を発見しました。ちょっと変なんですよ」
    「何が変なんですか?」
     さっきからずっと壁に突っ立っていた宇田川は図面を覗こうとした。
    「あーっ宇田川さんはそのまま立っていてくださいね。大事な役目してもらってますから」
    「大事……」
     宇田川はちょっと嬉しそうに壁に背を付けてさっきの貼り付けのようなポーズに戻った。
    「さっき彩華さん、この家は十年くらい前に引っ越してくるときにリフォームしたと言ってましたよね。その前はどんな間取りでしたか?」
    「知りません」
    「こんな間取りじゃなかったですか?」
     晶子はさらにもう一枚チラシを出して来た。
    「これもさっきの不動産屋さんで『じゃあ、風呂無しでも構わないのでとにかく激安物件ないですか?』と聞くとこちらを出してくれました。現空きで2K、家賃一万五千円ですよ、商売っ気ない不動産屋さんです。この家も住所は同じだったんですがもしかしてお隣ですか? ずっと空き家なんですか?」
    「また関係のない話ですね。確かおばあさんが一人で住んでいましたが、随分前に亡くなりました」
    「この家を含めた長屋四軒は隣のおばあちゃんの住んでいた家と昔は同じ作りだったんだと思います。この図面を見るとまず玄関に商売ができるくらいの広い土間があって、その奥に畳の部屋が二つ並んでいたようです。土間をいれて正方形が三つ縦にならんでいるようなシンプルな間取りです」
    「八畳ってどれくらいですか?」と宇田川が質問した。
    「八畳は畳が八枚です。畳一枚はだいたい横九〇センチ、縦一八〇センチだから……」
    「えっ畳って大きさ決まってるんですか?」
    黙って話を聞いていた彩華は急に立ち上がってまくしたてた。
    「もう我慢できない、私は忙しいんですよ。あんた達、人の家でさっきからいい加減な無駄話ばかりして帰って下さい」
    「この話、彩華さんに関係大アリですので、まずは座って私がこれから言うことを良く聞いて質問に答えて下さい」
    「彩華さん、目の前で突っ立っている宇田川さんの姿と、私がさっき息子さんの部屋で撮った写真を見比べて変なこと気づきませんか?」
    再びスマホで撮った写真を彩華や舟橋に見せるが、何が変かは伝わらないようだった。
    「私たちがいるこの居間の壁はお風呂の入り口があるので、それだけ壁の部分が短くなっていますよね」
    そんなこと当たり前だろうという表情で彩華と今や一心同体の舟橋はうなづいた。
    「なので宇田川さんが手を伸ばすと一八〇センチくらいの幅があるので、居間の壁をみるとだいたい六〇センチ位余ってます」
    「そうだな、でもそれがどうした?」
    「畳二枚ぶんの三・六メートルから、一八〇センチと余り六〇センチを引くと何センチ余りますか? 」
    「なんで計算? 三・六メートル引く二・四だから一・二メートルってこと? 」
    「そうです。これはお風呂の入り口が一・二メートルって事ですね」
    「つまり君は僕を定規がわりにしたということ?」
    「意味は近いです」
    「ここで再びさっき息子さんの部屋で撮った写真を見てください。宇田川さんは同じポーズをしてますが、この写真でも壁の右側には居間と同じくらいの長さ壁が余っています。だいたい六〇センチくらいですね。でもこれっておかしくないですか? 」
    「何の説明かさっぱり分からんから、おかしいかどうかも判断つかないぞ。ねぇ彩華さん」「壁の余りとかという話と私の間にどんな関係があるんですか?」
    「さっきお隣の図面見たでしょう? この家はお隣同様に元は八畳の部屋が三つ並んでいるような間取りだったんです。その家にキッチンとトイレとお風呂を部屋の中心に作る2LDKのリフォームをしました、それがこちらの斉藤家の図面です。この図面では息子さんの部屋は五畳の意味の『5J』って書かれて正方形風になってますが、実際に見ると大分違いました」
    「どう違うんだ」
    「玄関を下にしてみると部屋の真ん中にトイレを作った際、その幅分だいたい九十センチくらい子供部屋は廊下沿いの縦が短くなっています。元の部屋のサイズ八畳から引くと縦二・八メートル、横三・六メートルの横長の部屋になっているはずなんです。でもさっき子供部屋を見たときは奥行きが狭いやや縦長の部屋になっていました」
     宇田川も何かに気付いたような顔をした。
    「確かにドアの割には奥行きの狭い部屋だなぁと思った」
    「本当なら畳二枚分の三・六メートルの横幅があるはずでそこにだいたい一・八メートルの幅の手を広げた宇田川さんが立ったら、畳一枚分、一・八メートル壁に余裕がないとおかしいことになります。でも、この部屋と同じ六〇センチくらいしか空いてません」
    「それが何か? 」
    「考えられることは、この家にはデッドスペースがどこかに作られているという事なんです」
    「デッド……スペース……」
     舟橋は晶子が発した単語を恐る恐るつぶやく。
    「つまり殺しの場所ってことですね? 息子さんはこの家のどこかで殺されていると言う事ですか! 」宇田川は語気を荒げて言った。
    「そんな……」彩華は絶句した。
    「あぁ、それ全然違います。無駄な空間って意味です」
     晶子は不動産屋モードのまま説明を続けた。
    「もともと日本間で作られたこの長屋にマンション用のユニットバスが入っているのを見て変だと感じました。和と洋のサイズの違いを家のどっかでツジツマ合わせしてるんじゃないかと思ったんです」
    「やっと捜査っぽい話になったと思ったら、今度は風呂の話か? 」
    「二度と説明しませんからまぁ聞いて下さい。昔は日本間が多かったので、お風呂や台所も畳みたいに『尺や寸』の単位で作られていたそうなんです。最近のマンションは同じような作りでも昔と比べてだんだんと小さく、狭く作られるようになってきているらしいんです。同じ三LDKでも昔は九〇平米ぐらいあったのが今は七〇平米くらいだそうです。日本間基準がはまらなくなってきてユニットバスなんかもマンションに合わせたサイズに変化して来ているらしいんです」
    「おまえ、そんな専門知識をどこで身につけたんだ」
    「これもさっきの不動産屋さんで聞きました。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥って言いますしね」
    「だから何なんだ」
    「はい、さらにこれを見て下さい」
     晶子はまた肩掛けバッグから書類を出して彩華へ見せた。
    「それは何だ?」
    「これユニットバスのカタログです。ここに『1217サイズ』とか書いてありますね、これは一・二メートル掛ける一・七メートルのサイズということです、メートル表記です。こちらの家のお風呂場の入口の幅はだいたい一三〇センチでしたので。ということは『1317サイズ』になります。奥行き一七〇センチです」
    「コラ、関係ない話を一方的にするんじゃない」
    「へーっ、測って無いのにわかるの?」宇田川が得意の平凡質問を投げかけた。
    「そう決まっているんです。ユニットバスは規格で作られているので主に十種類しかサイズはありません」
    「すげー、やっぱり特命捜査官。凄い知識です」
    「このカタログに書いてありました」
    「そんなカタログまで不動産屋で貰ったのか」舟橋はあきれたように言った。
    「今日たまたま持ってました」
    「二〇代の女がたまたまユニットバスのカタログ持ち歩くのか!」
    「ますます謎ですね、市川女史」
     晶子はひとり思考を巡らせる。
    「お風呂の奥行が一・七メートルと言うことは、この不動産屋の図面のようにトイレの後ろ側の幅だけでは収まりません。トイレの幅が一メートル弱だとするとお風呂の奥行が七〇センチくらい余ることになります」
    「だからそれがなんだ」舟橋はもう訳が分からなくなっていた。
    「だから子供部屋に七〇センチユニットバスが飛び出ていることになるんですよ」
    「えっ、でもさっきの部屋にはそんなでっぱり無かったよねぇ」
     宇田川も思い出しながらいった。
    「そうなんです、でっぱりは無かったですよね。さっきの子供部屋で撮ったデジカメ写真を見て下さい」
     舟橋と彩華も何かを感じたようだ。
    「このようにユニットバスのでっぱり部分を隠す為、子供部屋の内側に壁を立てたから部屋が狭くなっているんです」
    「どういう意味があるんだ」舟橋は意味をつかめなかった。
    「ということはですよ……出っ張ったユニットバスの後ろ側と子供部屋の壁の間には、一・二メートル×二・九メートルの大きな空間があるはずなんです」
    「そんな場所作ってどうすんだ、無駄じゃないか?」
    「確かに、 舟橋さん良い質問ですね。私がさっき寝室を無理に見せてもらったのも『一番奥の部屋の角に押入れか何か作っているのかも』と思ったからなんですが、それもありませんでした」
    「家の真ん中に『何も無いスペース』がなぜ必要だったのか? これは実際に見るまでは謎でした」
    「ここに来るまでに、そこまでお前は考えていたのか!」
     舟橋は晶子の想像力を見くびっていた。
    「部屋のレイアウトを実際に見ながらリフォーム業者の気持ちになって考えました。両隣と壁がベタ付きの長屋でお風呂とトイレを部屋の真ん中に作った場合その排水をどう通すかが大問題になります。大量の排水を部屋の中を通さず下水に流す為には、排水管を一つにまとめて家の下を通すしかないんです。これ常識です」
    「常識じゃない」
    「その為に家のどこかに『排水枡』を作る必要があるんです。それがデッドスペースが出来た理由です」
    「いや、まだ良くわからん。事件捜査で排水枡なんて言った刑事いないぞ」
    「うちにもあるんですが『排水枡』は定期的にメンテナンスをしないとゴミで詰まったり、匂いの原因になります。風呂場から最短で排水枡を作った場合、家の真ん中になってどこからも入れなくなります。このこと知ってましたか? 彩華さん」
    「そんなものあること、何にも聞いてないけど」
    「まぁそう頻繁に点検するものでもないので住んでいても知らない場合ありますね。ただ困ったときに排水枡に入れるよう配管業者はどこかに工夫をしているはずと思ったんです」
    「お前詳しすぎないか?」
    「実家のリフォームを真剣に考えたことあるんですよ。ただ父が面倒くさがりで、結局見積もりしただけですが」
    「で、どこなんだその無駄なスペースがあるのは」
    「さっき説明したつもりなんですけど、私は子供部屋が一番怪しいと思っています。では、隣の部屋に行って検証しましょう」
     晶子は子供部屋に再び入った。
     そして怪しいとにらんだ奥の壁の前に立ち、壁を手の甲で小突いてまわった。
    「コンコン、この壁の後ろあたりにユニットバスがありそうですね。トントン、ちょっと音が変わりましたね、ちょうどこの辺の後ろがデッドスペースになっているはずです」
    「でも市川が言ったように点検の為出入りが必要だとすると、どこかにドアみたいなものがあるはずだよな。現場検証した際もそんなものは見つからなかったぞ」
    「確かにこれは一見一枚の壁ですね。でももしかして壁全体が引き戸になってるとか、 シャッターみたいに壁が上にあがるとか、あがらないとか」
    「なんですそれ?」
    「宇田川さん、やって」
    「えっ……」
    「やれ宇田川」舟橋が冷徹な指令を出す。
     宇田川は晶子に言われたように、壁の端に手を当てて何とか壁を横にずらそうとするが、これは左右の壁に当たっていて動かない。
    「無理だ」弱音をはく宇田川に「若いんだから気合い入れてやれ」と舟橋が肩を押した。
     壁に手を当てて変な姿勢で踏ん張っていた宇田川は肩を押されて姿勢を崩した。
    「イテェ」頭から壁に激突した宇田川が大げさな声を上げた。
    「大げさなヤツだ」
    ガタッ、そのとき少し壁が動いた。



    #6
     壁の動き方は想像していたような横の動きではなく、壁全体が真ん中を軸に斜めに奥へ動いた。
    「急に押さないで下さいよ」振り返った宇田川が言った。
    「でも動いたな。俺たちも知らなかった」
     舟橋は自分たちの見落としをしぶしぶ認めた。
    「知らなかった。こんなこと斉藤さん教えてくれなかった」彩華も驚きの表情を見せた。
    「ご主人も詳しくは知らなかったと思います。これは無理なリフォームをする際に職人さんが自分たちのメンテナンス用に作った『秘密の出入り口』なのかも知れませんよ」
    「秘密の出入り口……」彩華は納得しかねる表情だった。
    「宇田川さんもう一度壁をゆっくり押してみて下さい」
     言われたように宇田川が壁を押すと、壁はさらに奥へと動いた。
     バタ、バタバタ……突然、子供部屋の端に積まれていた荷物が崩れた。
    「ひやあー」
    「積んでいた本が落ちただけです。変な声を出さないで下さい」
     晶子は散らかった雑誌や本を端によせた。
    「そっちの壁が奥に動くと、反対側の壁が手前に出るようになってますね。回転扉の仕組みですね。職人ナイス!」
     壁は三十センチほど奥に動いたところで、それ以上は開かなくなった。おそらくユニットバスの背面にぶつかっている。
    「宇田川さん壁が開いたとこから床下に何か見えますか?」
     窓のない部屋は弱い蛍光灯だけが唯一の灯りで壁の下側までは見通せない。
    「えーっ、猫とかヘビとか出てこないよね」
    「多分出てきません……刑事のクセに怯えるな」
    「わかったよ、見るよ」宇田川は恐る恐るのぞき込んで観察する。
    「うーん暗いけど下の方に床みたいなものが見えるね、灰色だから土じゃなくてコンクリートじゃないかな。それにしても臭いなぁ」
    「宇田川さん自分の携帯出して」
    「えっ何で?」
    「それでカメラモードにして、ライトで照らしてみて下さい」
    「嫌だよ気持ち悪いじゃないか」
    「つべこべ言わずに、ヤレ!」
     晶子の怒気に宇田川は渋々自分のスマホをかざして床を見た。
    「あっマンホールみたいなものあるよ。もしかして、ここから息子さんは脱出したのでは?」
    「多分それが排水枡です。中には水がたまっていてどこへも行けません」
    「お前の読みが当たったってことか」
     当時隠し部屋を見抜けなかった捜査の主任の舟橋は小さく言った。
    「宇田川さんちょっとその下に降りてみて下さい」
    「嫌だよ、何で俺がいかないと行けないの? 背の低い君の方が適任じゃないか」
    「宇田川! 失踪した息子さんは体が大きかったんだろう、お前が通れると証明して初めて捜査の推論が成り立つ。ここはお国のため、千葉県民のため体の張りどころだと思うぞ」
     舟橋はまるで抜け道の発見が自分の手柄のような口調になっていた。
    「そっ、そうですか? そんなに大事なことですか」
     宇田川はバタバタと玄関から靴を取ってきて開いた床下の空間に降りていった。
     壁の隙間を抜けるときスーツが引っかかったり、最初はギャーギャーと言っていた宇田川だったがそこを抜けると何も言わなくなった。
    「どうですか? なんか見えますか?」
    「……」
    「大丈夫ですか?」
    「ちょっと待ってね、体の姿勢を変えないと……キツイ……と思ったら結構広いよ」
    「どっちなんだよ、深さはどれくらいですか」
    「一メートルの半分位はあるね。これくらいあれば大人でも余裕で隠れることができる」
    「周りはどんな感じですか」
    「えっと壁だね、うわー埃っぽい」
    「周りは全部壁ですか、抜け道ありそうですか?」
    「えっと一箇所だけ壁がないね、うわーギザギザ。何かで切り取った跡があるね」
    「大きさどれくらいの穴ですか?」
    「結構大きいよ、人一人は余裕で通れそう」
    「その先は何か見えますか?」
    「真っ暗でよくわからないけど、だいぶ先になんか明るい場所あるね」
    「その穴通って見て下さい」
    「無理無理、絶対ムリ」
    「さっき余裕で通れそうと言ったじゃないですか」
    「そうなんだけど真っ暗だし、入り口は広くても体引っかかるかも知れないし、誰か僕に命綱くくって下さい」
    「鍾乳洞の探検じゃあるまいし、ここは住宅街です。途中で引っかかっても死ぬことはないです」
    「いや、わかんないよこの道が四次元とつながっているかも知れないし、息子さんも行方不明になったんだろう、バミューダ……」
    「宇田川つべこべ言わないで早く行け、課長に言って担当変えてもらうぞ」
    「えーっ、何かあったら絶対助けて下さいよ」
     そう言うとしぶしぶ宇田川は床下の空間に体を潜らせていった。
     子供部屋で見つかった『動く壁』とそこから床下に繋がる空洞を前にしても、この家の住人斉藤彩華はさっきから何も言わずじっとなりゆきを見つめていた。
     その彩華に晶子は聞いた。
    「この床下の抜け穴のこと本当に何も心当たりはないですか?」
    「全然知りませんでした」
    「今まで床下が何か変だと感じることとかありませんでしたか?」
     晶子の問いかけに彩華は間を置いて答えた。
    「そういえば寝室の床下でたまに猫が走っているような物音するようなことはありました、それも何か関係ありますか?」
    「さぁ、それは分かりません。ただ息子さんが行方不明になったときに大きな物音が聞こえたと言ってましたよね」
     彩華はうなづいた。
    「恐らくなんですが、それは息子さんが自分で壁を動かして『この穴に入る』時の音だったと思うんです。そんな大きな隙間じゃないですから荷物なんかを持ってたら壁にぶつかったはずです」
    「それはどういうことなんだ」
     舟橋も彩華も晶子の次の言葉を待った。
    「つまり息子さんは『自分の意志で失踪』したんです」
     それを聞いた舟橋は身を乗り出した。
    「息子さんはどこかで生きているってことか?」
    「はい、事件や誘拐などではなく自分の意志で準備して出て行ったんです。壁の動いた後を見ると何度も出入りしたような形跡がありました」
     舟橋は黙っている彩華に向き合って手を握った。
    「良かったですね彩華さん! 息子さんの生存に希望が持てますよ」
    「えぇ、本当にそうだったら嬉しいです。でも床下に通路があったとしてもどこに出口があるんでしょうか? 」
     彩華は舟橋の手を振り払い落ち着いてまっとうな質問を返した。
    「確かに、家の中に出口があれば誰か気づくはずだ! おい市川この穴どこに繋がってるんだ」
    「はぁ?」
     そんなことを急に聞かれても晶子にもわかるはずがない。
    晶子は壁の隙間をのぞき込んで、暗闇の奥にいるはずの宇田川に声をかけた。
    「床下の宇田川さん、さっき抜け穴の先に明るい場所が見えると言いましたね」
    「うん、見えるよ」
     身動きのできない宇田川は顔を向けずに答えた。
    「そこから外に出て下さい」
     暗闇の中で宇田川の背中が震えた。
    「マジか! ここは狭いし、暗いし、臭い、そして怖い」
    「そこまで下りたら行くしかないでしょ。密室事件の謎解きなんて百年に一度あるかないかですよ」
     少しの沈黙のあと、うずくまった宇田川がモソモソと床下で動き始めた。
    「ほふく前進なんか警察学校以来だよ」
    「大丈夫だよな?」舟橋も声をかけた。
    「狭いんですが、ただ全く行けないかというとこれも結構行けそうです」
    「どうなんだ」
    「ライトで照らすと何かで掘ったような跡があって道みたいになってますね。あれえビニールが敷いてあるよ、よ、よ……」
     やがて声は聞こえなくなった。
    「あいつ、どこまで行った?」
     舟橋は壁の隙間をのぞき込んで言った。
    「念の為、家のどこからか顔出してませんか調べて見ましょう」
     晶子、舟橋、彩華の三人は手分けして玄関先からトイレ、居間まで見たがどこにも宇田川の気配はなかった。
    「おーい宇田川いるか? いたら床を叩け」
     舟橋は声をだしたが、家のどこからも宇田川からの返事は無かった。
    「どこに行ったんでしょう」彩華も心配そうに聞いた。
    「あぁ見えても現役の刑事ですから、ここは先ほど入れて頂いたお茶でも飲みながら帰りを待ちましょうか」
     現場経験豊富な舟橋の判断により三人は居間に戻ってのんびりテレビを見始めた。
     その時、舟橋の携帯に着信が入った。
    「もしもし、外に出られたんですがちょっと方向がわかんなくて、迎えに来てもらえませんか?」
     舟橋のガラケーの受話側からのんきな宇田川の声がもれ聞こえた。
    「外ってどこにいるんだよ?」
    「四次元にでも出てなければ一〇メートルも離れていないと思います」
    「近いな」
     舟橋の携帯に耳を近づけて晶子も様子を聞いていた。
    「宇田川さん、ちょっと大きな声出してもらえませんか? でも叫び声とかはご近所迷惑からクレームでるのでやめてください」
     電話の向こうの宇田川は少し迷ったようだが、やがて大きな声を出した。
    「いしやーきいもー」
     外からも声が聞こえる。
    「このフレーズは間違いなく宇田川ですね。家の裏から聞こえます。行ってみましょう」晶子は玄関を出て声のする方向を目指し隣の家の裏に回った。
    そこには埃だらけの宇田川がぼんやり立って「いしやーきいも」と声をあげていた。
    「いや、これはバカですね」と晶子は笑った。
    「失礼な。でも一番怪しまれない声でしょ」
     誇らしげな表情を浮かべて宇田川も笑っていた。
    「怪我なくて良かったですね。で宇田川さんどっから出て来たんですか」
    「えっとね、そこの庭の軒下」
     宇田川が指差したのは斉藤家の隣にある空き家の裏口だった。
     斉藤家の居間に戻り晶子は三人に地下通路の説明を聞かせた。
    家の床下から続く地下通路は、隣の家の床下を抜けて裏庭に続いていた。長屋の一つをリフォームした斉藤家は、表の部分は個別に作られているが床下は昔のまんまに繋がった構造を残しているようだ。裏庭から出口の鍵は針金がかけてあるだけのお粗末なものだったようだ。
    「舟橋さん、これで息子さん失踪の密室トリックがとけましたね」
    「そうだな、こんな異常な通路は当時は誰も考えつかなかった」
    「彩華さん、和臣さんは居なくなった時は引きこもりの症状からは回復していたみたいですね。失踪当時お隣はお年寄りの一人暮らしです。夜に時々出入りしていても気づかれなかったんでしょうね」
    「確かにぃ、地下に通り道がしっかりついてたよ」宇田川も通路を思い出していった。
    「息子さんは、ネットで外の世界と繋がり、地下の通路を使って家の人に気づかれず自由に出歩くこともできたわけですね」
     彩華は黙って聞いていた。
     突然、居間の電話が鳴った。
    「僕じゃないですよ」宇田川がスマホを取り出した。
    「そんなこと分かってる。彩華さんお電話ですよ」
    彩華はなぜか取ろうとしない。
    「電話出なくていいんですか」
     晶子が彩華の顔をのぞき込んだ。
    「どうせ借金取りよ」
     急に彩華の表情が変化した。
    「もういいですか。これ以上この家を調べるのはやめてください。日本で二十年頑張って来たけど、ちっとも暮らしは楽にならなかった。息子は居なくなった。旦那は借金を残して死んだ……舟橋さんもう帰って下さい」
    「うっ、急にですか」
    「帰ってください!」
     舟橋は急に腰が引けた。
    「みんな分ったな、捜査はこれで終了。息子さんの失踪先はいまだ不明。異常なしだ」
    「えーっ、やっと事件の入り口が見えたとこなのに」晶子は不服そうにいった。
    「捜査令状もないのに部下が本当に失礼なことばかりして申し訳ございません。これは私の意図ではない事だけはお分り下さい」
     舟橋は晶子を遮るようにして一方的に話をまとめた。
    「もちろんです、舟橋さんの気持ちは分ってます」
     彩華はまた表情を変えて舟橋にこびた。
     繰り返される茶番劇に晶子はキレた。 
    「はい悪いんですがあと二、三ちょっと教えていただきたいことがありますので、先ほどの子供部屋に戻っていいですか?」
    「おい市川ちょっとこっちにこい」
     舟橋が市川の首を掴んで文字通り玄関先につまみ出した。
    「お前の調査は強引すぎる。被害者の彩華さんが困っているぞ、任意の調査はもう限界だ。今日は帰ろう」
    「どうしてですか、百年に一度あるか無いかの密室事件の現場ですよ、はるばる流山までやってきたのに、このままじゃ帰れませんよ」
    「お前も見ただろう、旦那さんを亡くして、天涯孤独で人生やり直そうと思っている健気な女性の姿を、確かに再捜査を依頼したのは俺だが、何も分からなかったらそれはそれで諦めもつく」
    「健気な女性には見えませんね」
    「お前まさか彩華さんを疑ってるのか?」
    「彩華は白かクロかと言われたら間違いなくクロですよ。わたしの三年間の警察受付経験上これは間違いないと思います」
    「三十年間警察にいる俺の思いを無視してよく言えるなぁ」
    「何か隠している人は分るんです。この手の直感は外れたことが無いんです」
    「いや、今日はこれで帰る。お前を捜査に巻き込んだ俺が間違っていた」
     そして舟橋は強引に晶子と宇田川を斉藤家から連れ出した。



    #7
     今日も朝から不機嫌だった。
     その不機嫌さは隠しようがなく、誰も自分の受付に聞きに来ない。
    月曜の朝といえば公安委員会の会議や、総務関係の定例会議があるため、県警本部の玄関には他の曜日より多くの人が訪れてはいるが、受付嬢の発する強烈な負のオーラが見えるのか玄関から左右に分かれていく。
     そしてそのことで、さらにヒマになっていることが、イラ立つ週末の出来事を思い返させる。二人のヒマすぎる警察官たちにお願いされて土曜日を潰して出かけた流山でのヒドすぎる顛末……。
     舟橋達捜査員が何年も分からなかった長屋で起こった『密室失踪トリック』を、文字通りの『抜け穴』まで発見してやったのに、肝心の再捜査を言い出した舟橋の腰が引けまくりどころか、事件の当事者のチャイナ美魔女にベッタリで、真相を明らかにする気配も希薄だった。
    晶子が見たのは『老年オヤジの片思い』と『そこにつけ込む中年女の媚態』というおぞましいものだったのだ。捜査で知り合った女の前で、部下を引き連れた本庁刑事のふりして、あれこれ指図、ただ好きな子の前で『自分を良く見せたい』という小学校六年の男子程度の浅はかな狙いが感じとれた。
     おまけに帰りは宇田川の車(なぜか必ずツーシーター)に舟橋は自分だけ乗って帰り。残された私は一人流鉄に乗り、西船橋で乗り継ぎ「駅前で吉牛でもやけ食いするかな」という欲望をなんとか我慢して自宅に帰ったら、ご飯が何も用意されていない現実に直面した。「今日は食べてくると思ったよ」と両親は自分たちだけとっくに食事を済ませていて、あげくに「パンならあるけど」と袋に入った食パンを差し出した。「てっきり今日はデートで夜まで帰らないと思ってたよ」と笑いながら言う母。
     何が悲しくて実家に住む二〇代の女の土曜の夕食がトーストだけなんだ。でもお腹が空いてたので、『せめてピザ風に』と思ったらチーズは食べられないし、『ハチミツトーストにしよう』と思ったらハチミツはカビてる。「塩か醤油ならあるけど」というバカ親父は無視して、結局また駅前まで戻ってコンビニでハンバーグ弁当を買った帰りに、とうとう涙がこぼれてきた。
     翌日の日曜は雨で一日中何もする気がおきず部屋にいた。引きこもりがうつったのかもしれない。資格なし、技術なし、使える職歴なし。これといった目的も、希望もなくちょうどいい大学に入って卒業してダラダラしてたら、今の状態になってしまったことはよくわかっている。誰のせいでもないけれど、就職したり、上手いこと結婚した友達に「どうしてその時、教えてくれなかったのよ。」と愚痴りたい。
     そんな無駄に終わった週末がリセットされないまま月曜を迎えた。いつもなら十一時過ぎには暇つぶしやってくる舟橋も今日は現れていない。「三年以内に引っ越してやる」と目標を立てたのが五年前だが、飲み食いとたまに誘われる近所の友達と行く旅行で預金残高は目標の半分を越えたことがない。せめて公務員の試験でも受けとけばよかった。県庁や、警察本部にいる事務職のオバさん達は安定した収入と、ノンプレッシャーの環境の中で楽しそうにやっている。
     公務員といえば舟橋や宇田川のようなヒマを持て余している連中でも、私の給料の何倍ももらっていて、おまけに退職金はたんまり出る。本当に腹がたつ。
    「何がそんなに腹たつの?」
     目の前に陸上自衛隊の戦車のファイルを持った同僚の野田真紀が立っていた。交代の時間だ。怒りのあまり時間を忘れていたようだ。
    「週末何があった? 男問題なら聞きますよ」そういう真紀は自衛隊員しか男と感じない特異体質でグッズも基地の売店で彼氏に買ってもらったものを大事にしている。お前にだけはアドバイスされたくない。
    野田真紀と交代した晶子は、県警本部の食堂兼休憩室で朝買っておいたカップめん『激辛トムヤンクンヌードル』を食べていた。タイ料理好きでコンビニの店頭で見かけて思わず買った新商品であったが、予想した以上に麺にコシがなく、その割にやたらスープが辛い。その辛いスープがフニャフニャの麺に必要以上に絡みつき食べにくいことこの上ない。朝からの不愉快な気持ちに加えて「この食事も失敗した」と暗くならないわけにはいかなかった。
    そんな何もかも上手くいかないという流れの中、食堂の入り口から「おはよう、晶子ちゃん」と声がかかった。こんな呼び方を警察署内でする男は、舟橋しかいない。
     晶子が無視していると、舟橋は無難な『四百円中華ランチAセット』とお茶をお盆に乗せて向いの席にヒョイと座って来た。
    「この間は捜査を手伝ってくれてありがとね。俺もこれでスッキリしたよ。これ手伝ってくれたお礼ね、取っておいてよ」
     そう言うと舟橋は古い茶封筒を机において晶子に差し出した。
    「現金っていうのは問題になるから、これビール券ね」
    「……前に言ったと思いますが、うちは酒屋なんです。ビール券もらっても使いよう無いです」
    「まぁそう言わずに、お茶とかスルメとかも買えるから。ねっ! 」
    「何が『ねっ』ですか。私、正直言いましてこの間の舟橋さんの態度に心の底からガッカリしてるんです」
    「えっ、俺そんながっかりさせること言ったっけ?」
    人を傷つけることに人は年をとるほど鈍感になると言うのは当たっている。
    「言いまくり、しまくりです。そもそも舟橋さんが『失踪事件が気になるから一緒に行ってくれ』って言い出したのに、容疑者の家についた途端なんですか? 完全に容疑者側に立ってたじゃないですか」
    「えっ、そんな感じに見えた。いつもの職質と変わらないつもりだったけど」
    「見えたどころか変わりすぎです。警察官の正義の心が曇りまくりだったじゃないですか。わざわざ朝早くから流山まで電車で行って、ひとりで付近の不動産屋さん回って、情報を収集して、ついに家の中の『抜け穴』まで発見したさえまくりの推理だったのに。舟橋さんは何にもしないどころか、それ以上の捜査を妨害したじゃないですか」
     さすがにそこまで言われると、舟橋もこたえたのか少し考えるような間を置いた。
    「それは、俺なりの考えがあってだね……」
    「そうでしょうね、考えはあったと思いますよ。ただ舟橋さんは、年の割には若く見える美魔女の色香に騙されて、いい格好したかっただけですよね」
     そういうと晶子はカップのトムヤンクンスープを飲み干した、やっぱり辛い。
    「そうじゃないよ。彼女は息子さんと旦那さんを失って傷ついているわけだから、最初から強引に捜査しても上手くいかないと思ったから、まずは懐柔する作戦をとったまでだよ。ほらグリムだかイソップだかの童話の『太陽と北風の話』だって最後には太陽が勝っただろう? そう言うことだよ」
    「なるほど! って言うわけないでしょ。舟橋さんもあの家行って気付いたはずです。玄関に畳んでゴミとして置かれていた『フェデックスの箱』、彩華は地味な生活のふりして海外から何か買ってるんですよ。それに寝室にあったノートパソコンは最新の『マックブック』ですし、あの家WIFIも飛んでましたよ。彩華は傷ついた貧しくて不幸そうな未亡人を装ってますが、あの女相当な食わせもんです」
     晶子の話を居心地悪そうに聞いていた舟橋は手元のお茶を一口飲んだ。
    「まぁ、俺だってそんなことぐらいは気づいてたさ、でもな市川、そういう偏見が真実を見えなくするんだよ。お前だってまだ若いしかわいいし将来だってある、人を疑って生きる人生はつまらないもんだよ」
    「なんかいいこと言ってる感じで話をゴチャゴチャにしないでください。私が言ってるのは犯罪に関わる状況証拠の話です。じゃあ人を疑いで見ない舟橋さんから見て寝室にあった仏壇が荷物置き場みたいになっていて夫の遺影がぞんざいに扱われているのを見て何とも思わなかったんですか? 大事なはずのアルバムもあの女放り投げましたよ……どう説明するんですか?」
    舟橋はニヤけた表情を浮かべてた。「それはお前、夫婦にはいろんな形があって、彩華にも夫に対して複雑な気持ちがあったんだろう。決して人には言えない秘密と不幸な過去があるんだと思うよ俺は。だから息子が抜け穴から自分で出ていって、どこかで生きている希望が分かるだけ今は十分。これ以上はお前を巻き込みたくなかったから捜査を畳んだんだ」
    自分が立てた仮説が気に入ったのか、舟橋は満足そうに頷くと中華ランチを食べ始めた。
    「勝手に納得しないでください、元々全く関係なかった私を巻き込んで、トリックが解けていよいよこれからって時になって『はい終了』では納得できません」
    「言葉がキツイよ、荒れてるよ、美容に良くないよ」
    「言葉も肌も荒れますよ、この世の中は理不尽なことだらけですよ」
    「確かに世の中は理不尽でいい加減なものだよ。若い頃はもっと世の中ちゃんとしていると思っていたが。俺もあそこへ久しぶりに行って分かった。あの家には家出したくなるだけの理由がある」
    「ほう、それは何ですか?」
    「父親の斉藤だよ。この男が息子を嫌っていたから、息子はいたたまれずに引きこもり、そして自分でこっそりと家を出たんだよ。斉藤が亡くなった今となっては実証のしようもないがな。どうだ?」
     嬉しそうな顔で舟橋はランチについている『カニ玉』を食べ始めた。晶子の反応を伺っているためかやたら箸からあんかけが皿にこぼれている。
    「もっと意外な推理すると思ってましたがガッカリです。はっきり言って舟橋さん完全に彩華に取り込まれてますよ」
    「なんだよ俺をバカにしやがって、今の話結構な正解だぞ」
    「全然ですよ。だって父親が嫌いで家出するなら『密室』にする必要どこにあるんですか、父親が家にいないときに普通に出ていけばいいじゃないですか?  父子の確執で家出とかそういう情緒押しで論理を無視するような展開ばかりしてるから、二時間サスペンスが飽きられたんですよ」
    「ベテラン刑事を二時間サスペンスと一緒にしやがって、じゃあ何なんだよお前の考えは? 」
     急に舟橋から質問を振られても晶子は落ち着いていた。
    「そうですね……まずは前提条件の確認が必要ですね」
    「なんだか難しい話するなぁ。お前もしかして理系か? リケジョか?」
    「リケジョという言いかたがすでに死後になりつつありますが、教育学部ですが一応理系です。高校の教員免許持ってますよ」
    「どうりで……最初に話した時から理屈っぽくて冷たい感じがしてたよ」
    「捜査は理屈、冷たいは余計でしょ」
    「誰の真似なんだそれ?」
    「まぁいいです。舟橋さんは最初から彩華は『亡くなった夫に奴隷のような扱いを受けていた』と一方的に思っているふしありますね? それが間違っているんです」
    「俺の考え最初から否定するのか?」
    「これは怒る話じゃないですよ。彩華は自分に相談無く夫の趣味を押し付けたとか言ってましたが、そもそもあの長屋に引っ越したのもリフォームしたのも彩華が夫に要望したからなんです。あの家を見て中国の風習を大事にしているのが良く分ります」
    「何を言ってるんだ?」
    「風水です」
    「風水?」
    「舟橋さんも、あの長屋に不釣り合いなお風呂場、無理なリフォーム見ましたよね」
    「見たよ」
    「お風呂場やトイレを家の玄関や、南側や北側といった運気にとって大事な場所に置かないというのは中国の風水の原則です。ただあの長屋の場合は東も西も隣の家なので、家の真ん中に水回りを固めるしかなかったんですね。彩華はとぼけてましたけど、夫は彼女を喜ばせる為に部屋の中央にまとめたんだと思います」
    「じゃあ聞くがお前も最初に言ってただろ? 子供部屋の厳重なドア。息子を嫌って部屋に閉じ込めておくための証拠になるんじゃないのか? まさか息子が大事すぎて部屋に閉じ込めようとしたとか言うんじゃないだろうね」
    「そんな倒錯推理はしませんよ。あのドアを見て巡回慣れしている舟橋さんならすぐに気がついたと思ったんですが、何も気になりませんでしたか?」
    「何のことだ?」
    「やっぱり気づいてないですか、はぁー」
    「はぁ? 何だその分かりやすいため息は」
    「あの子供部屋のドア、正面玄関のドアと一緒でした。これはお風呂とかと一緒で、夫が勤める工場で余っていたドアを安く譲ってもらったものではないでしょうか」
    「使い回し?」
    「というか玄関ドアの流用ですね。結果、外用のドアだからスチール製で丈夫、破ることは出来ないようになっていたという訳です」
    「そんな理由だったのか……」
    「彩華はとぼけてましたが、すべては『年齢の離れた妻』の為、老年前夜の斉藤が言われるままに貯金を切り崩して『家を借り』、『リフォーム』して、年とってから生まれた子供なので可愛がって、蓄えの少ない中工夫して子供部屋まで作ったと考えた方が自然だと思いました」
    「えっ、でもな……」
    「夫が息子を嫌って失踪事件につながったという文脈は、彩華がそう刑事達に思われるように誘導演出していた疑いがあります。舟橋さんが息子さんの生存の可能性を言っても彼女あんまり嬉しそうじゃなかったじゃないですか、彼女は全て知ってました。そういうことですよ」
     舟橋はカニ玉の箸を置いた。
    「お前まさか彩華さんが失踪事件の犯人で、息子を亡き者にしたと…… 」
    「それはちょっと違うんですよ。彩華は抜け穴を見つけた時に本当に驚いてましたし、子供のことを本当に心配していたんだと思います。確か『ポリグラフ』を科警研から借りて調べたんですよね」
    「そうだった、そうだった」
    「この事件がややこしいのは、失踪に関しては両親共に何も知らないという事なんです」
    「まあな、どっちにしても息子は自分の意志で出て行ったんだろう」
    「単純な家出とも言えません。大事なのはその理由です」
    「家出の理由なんか、学校の先生か、生安に任せればいいんだよ」
    「そんな事を言ってもいいんですか」
    「どうしてだ?」
    「彩華は息子の失踪事件には関わっていませんが、絶対に何かを隠しています。それにあの目は殺し屋の目です」
    「お前は本当に人を信じることを知らないなぁ」
    「舟橋さんたち公務員は物事を『問題なく』、『小さく』評価する傾向があるんです。私は子供の頃、祖父に教えてもらった金言があります」
    「どういうやつだ?」
    「世の中は思ったようには絶対ならない。だからと言って諦めてはいけない、最悪のことも起こらないから」
    「なるほど、いいこと言うね」
    「まだ続きあります。『でも、そんなにいいことも起こらないから期待してもいけない。起こるのは最悪から二番目位の事だ』と。だから何事も用心しなさいって言ってました」
    「最悪から二番目か、結構キツイな」
    「そう、人生キツイ事がしょっちゅう起こるけどそれは最悪の事ではないから我慢しなさいと教えられました」
    「子供の頃からそういう教育をうけるとこんなに疑い深い娘に育つのか?」
    「悪口ですか?」
    「いや、哲学的だなぁと思って、君のおじいさん何していた人?」
    「父も祖父も酒屋です」
    「酒屋の家系恐るべしだな」
    「舟橋さん酒屋の娘の言うこと聞いてください。もう一度流山に行くべきです」
     そう晶子は自信をもって言い放った。



    #8
     再捜査を強く希望した晶子であったが、そこは勤務重視の真面目な性格。
     斉藤家再襲撃は、また週末の土曜日集合午前十一時となった。
     平日も休日も特別変わらない『流鉄・流山駅前』で待つ市川晶子のもとに今日は普段どおりのかっこうの舟橋が現れた。
    「今日は不動産屋に行かなかったんだな」
    「一回行けば十分です。あれ、今日は宇田川さんはいないんですか?」
    「あいつは本部長とゴルフらしい。やっぱり刑事としての資質に欠けるわ」
    「流山署のなんとか刑事さんも来てないんですか」
    「今回は流山署には事前に連絡せず不意打ちを狙った」
    「そうですか、ではいきましょうか」
     事件解明の気持ちは高ぶっていたが、休日におっさん刑事と二人で人通りの無い住宅街を歩いていると晶子の心に淋しい風が吹いた。
     やがて覚えのある斉藤家が見えてきた。晶子は家の角に大量のゴミが出されているのに気づき嫌な予感がした。
     舟橋がドアをノックするが返事が無い。
    「すでに、いないのかもしれませんね?」
    「そんなにすぐ引っ越すか」と言うと舟橋はドア口で声をかけた。
    「斉藤さん、いらっしゃいませんか?」
     返事は無いがドアノブを握ると鍵はかかっていなかった。
     舟橋は慎重にドアを開け、中の様子を伺った。
    「誰?」
     急に家の中から声がした。
    「彩華さんいらっしゃったんですね。あのー舟橋です。近くまで来たもので心配して寄ってみました」
    「そうでしたか。どうぞ入って下さい、今ちょっと手が離せないんです」
     彩華は何か料理を作っているようだ。
    「何やってるんです?」舟橋が聞いた。
    「餃子です」
    「あぁお昼餃子ですか」
    「餃子はいつでも作ります」
    「手作りなんです」
    「私の育った中国のハルピンではみんな餃子は皮から自分達で作ります。それが一番おいしいです」
    「なるほどですね」
     舟橋はいかにも感心したかのような顔で未亡人に片思いする『寅さんモード』に入ろうとしているのか。
     まったりした会話の空気感を打ち破るべく晶子も玄関をくぐった。
    「なにがなるほどですか、彩華さん私もお邪魔します。いろいろこの間気になることがありましてまた来ちゃいました」
    「またあなたも来たんですか」
    「気になる事があるとストレスで肌が荒れる体質なもんでまた来てしまいました」
    「しつこいですね」
     テーブル一杯に並べられた餃子を指して晶子は気になる疑問をぶつけてみた。
    「なんで餃子をこんなに沢山作るんですか? 一人で食べるんですか? それとも誰かお客さんでも来るんですか?」
    「誰も来ません」苛立つような声で彩華は答えた。
    「食べて余ったら冷凍します。餃子の『実』は多目に作らないと生姜やニンニクの味が回らなくておいしくならないんです。そんな事も知らないんですか? あなた料理しないんですか?」
     テーブルに山と積まれた餃子と、作業台に散らばる白い粉を見ながら晶子はふと思った。(一人暮らしの女がこんな量、しかも定期的に作るものだろうか。冷凍するにしたって限度がある。これじゃまるで、どこかに"卸してる"みたいだ)
     まさかとは思ったが、その違和感は口に出さず、頭の隅にひっかけたまま話を続けることにした。
    「うちはいつも近所のスーパーかお店で買ってくるもんで知りませんでした」
    「手作りが一番おいしいです、舟橋さんもどうですか? 水餃子がもうすぐできます。私も今から昼を食べるところです」
    「ぜひ、彩さんの手料理いただいてみたいです」
    「この状況でよく食べられますね。毒入ってるかもしれないじゃないですか」晶子は小声でささやいた。
    「聞こえてますよ。舟橋さん安心してください毒は入れてませんよ。中国人は食べ物に毒を入れるような粗末な事しません」
    「それは自分たちが食べるものだけですよね、そういえば輸出用の冷凍餃子に段ボール入っている事件がありましたね」
    「あれは日本人の陰謀です。相変わらずあなたは思った事を隠さずに言う、おもしろい人ですね」
    「友達からは面白くないと良く言われますが」
     晶子と彩華の緊張感漂う会話に舟橋は意味なくニヤつくしかなかった。
    「ところで、今日は何でいらっしゃったんですか?」
     彩華はいかにも平然としたそぶりで聞いてきたが。『早く帰れ』と拒絶するムードは十分感じさせた。晶子は相手のペースに巻き込まれないよう充分注意しながら手帳を取り出し予め用意しておいた聞くことリストを確認した。
    「この間、うかがった時に気になったことがいくつかあったんですが、事なかれ主義の警官に邪魔されましたので、あらためてまいりました」
    「何か刺々しい言い方ですね。何も隠している事なんてないですから、どうぞ聞いてください、餃子を皮に包んでしまわないと乾燥するので、作業しながらでもいいですか?」
    「もちろん、どうぞどうぞ。どうもすいません、ご協力いただければ手短に終わらせますので」
     割って入った舟橋はあくまで低姿勢だ。女に弱すぎる、本当に元敏腕刑事だったのか?
    「それでは手短に……質問その一『息子さんが失踪した本当の理由』なんですが、彩華さん心当たりはまったく無いんですか?」
    「……私から言うのは辛いのですが、息子が夫の事を嫌っていた様子はありましたが、息子が成長すれば和解するものと思ってましたが」
    「でもおかしいですね、この家に引っ越したのも、子供部屋を作ったのも、旦那さんはあなたと息子さんの為に頑張ってたんじゃないですか?」
    「はぁ?」彩華は険のある表情になった。
    「何でそんな根も葉もない事言うんですか? あなた私に恨みでもあるんですか?」
    「まぁいいです。次、子供部屋の抜け穴を見つけた時、本が崩れたじゃないですか、その時私見たんですがNHKの中国語テキストが沢山ありました。ここで質問その二『息子さんはなんで中国語勉強していたんですか?』あと中国からいろいろ送られてきていたみたいなんですが『何が送られて来たんですか?』、そして今日ここに来たとき、その本や箱が全部外に捨てられていたんですが、何か都合が悪いことでもあったんですか?」
    「そんなことはありません。ただのゴミです」
    「あとこれも教えて下さい、質問その三です。息子さん随分背が高いみたいですが、『小さい時から背は高かったんですか?』出産時は何グラムくらいあったんですか?」
    「何でそんなこと答えなきゃいけないんですか」
     不機嫌になった彩華を見て舟橋が話に入ってきた。
    「そうだよ、何だよお前のその質問。そんなことの為に今日わざわざ来たのか?」
    「実は、この間のアルバムを見て気になったことがありました。いつも息子さんは同学年の生徒より背が高いんです。こういう人はいつごろから大きくなるのかと興味本位で思っただけなんですが、亡くなった旦那さんも、彩華さんもそんなに背は高くないのに不思議ですね。もちろん遺伝だけではないので、背が高くても何にもおかしくないのですが一歳までの写真が一枚も無いんですね。普通は赤ちゃんの頃の写真は『誰も見たくなくても意味なく沢山撮るもの』です。しかも長男です。うちにも同じような顔をした沢山写真があります。最初に生まれた子供ですし、旦那さんも喜んだと思うんですが、でも赤ちゃんの頃の写真が一枚も無いんです。これっておかしいと思いませんか?」
    「あなた、何が言いたいんですか?」
    「えーっ簡単に言いますと、息子さんの失踪、中国語の学習、背がクラスで高い、赤ちゃんの頃の写真はない。あくまでも仮説ですが私がたどり着いた真相はこうです。まず息子さんの出生年月日は一九九二年の十月二日となっていますが、実際の誕生日はその一年前の一九九一年じゃないですか?」
     彩華は黙って聞いていたが、餃子を作る手は止まっていた。
    「お前はよくも人様のプライベートに土足で踏み込むような、そんな失礼なこと聞けるな。七年間息子さんの生死を心配し続けた彩華さんに謝れ」
     やはり舟橋は当てにならない……まぁそれも晶子の予想の範疇であったが。
    「舟橋さん邪魔はしないでください。寝室にあった仏壇、旦那さんの遺影はあるのに、死亡届けを出された息子さんの遺影がないのはどうしてでしょうか?」
    「それは心底では息子の死を認めたくないからだよ」
    「なんで舟橋さんが答えるんですか、この人に聞いてるんです」
     彩華は鬼の形相で晶子を睨みつけた。
    「あなたに何の関係があるんですか、子供を持ったことないあなたに私の気持ちなんて分らない。日本で大事に育てられたあなたに私の気持ちなんか分らない。一体何なんですか! 出て行ってください」
    「いいえまだ帰りません! 流山に二回も来てるんです。これだけは教えて下さい。息子さんの失踪理由と今も生きている事をあなたは全部知ってるんじゃないですか?」
    「何を言い出すんだ市川!」
    「正しくは日本で死んで外国で生きている。息子さんはいじめや、父親との不仲が原因で引きこもっていたんじゃなく、何か目的を持っていたんじゃないですか?しかもそのことは、家族には知られてはいけないことだから部屋に内鍵をしていた」
     彩華は黙っていた。
    「何が引きこもりのきっかけだったか、今は彩華さんも心当たりあるんじゃないですか?それは国籍のことですか? 私の想像では、息子さんが気づいたのはもっと自分自身の存在に関わる重大なものだったように思います」
    「なんだよ、早く言えよ」
    「私がたどり着いた結論、それは二重国籍です。それに彼は気付いた、しかも自分が別人として中国に存在していることもです。和臣さん、本名は知りませんが中国で生まれ、その時出生届けが出されていた。どんな事情があったのかわかりませんが、その後彩華さんは日本にやってきて、斉藤さんと出会って国際結婚します。その後、息子さんを中国から呼びよせて、二人の子供として新生児として、自宅で生まれたとかなんとか言って、日本で出生届けを出して日本人として育てた。どうですか?まずは彩華さん本当のことを教えて下さい。二重国籍の秘密を息子さんは何らかの方法で知ったんではないですか? 一人悩み苦しんだ中学生の息子さんがたどり着いたのが、本来の中国人として生きていきたいということだったんではないでしょうか? だから中国語のテキストで一人勉強していたんではないですか?」
    「えっ、なんだって」
    「舟橋さんには後で説明してあげますから」
     やがて彩華は黙って立ち上がり、急に頭を激しく振り始めた。
    「うるさーい、うるさい、うるさいっ! 勝手なこと言うな、あんたたち日本人は表面上は善人ぶっても腹の中では私たちの事を仲間に入れないのよ、結局は日本は中国人の故郷にはなれないのよ。私の苦労も知らないで勝手なこと言うな、あの子は生まれた時の名前に戻っただけよ。今の生活を誰にも邪魔はさせない」
     突如彩華は暴れ始め、料理中のテーブルに置かれていた袋のようなものを舟橋に投げつけた。
     バサ、バサ、バサーッ。白い粉が部屋中に飛び散った。
    「この粉はなんだ目が見えない、やばい薬品……もしかしてヒ素かサリンかもしれないぞ! お前が彩華さんを怒らせるような事を言うから」
    「この後に及んで何を気弱なこと言ってるんですか、この粉はさっきまで餃子の皮作ってたんだから、ただの小麦粉でしょ!」
    「あなたたちに勝手なことばかり言わせない。やっと手に入れた幸せをつぶさせはしない」
     激昂した彩華が居間でわめき暴れ、さらにテーブルの上にあった作りかけの餃子の皮と粉をまき散らした。あたりに白粉がもうもうと舞い散り、晶子も舟橋も目が開けられず、咳き込んだ、息苦しい。
     霧のように立ち込める粉の中、興奮した彩華は絶叫のように続ける。
    「日本人はみんなそうよ、優しい言葉かけるフリして全部嘘、結局私たちはどこまでいっても外国人でよその人、最後には自分たちのことしか考えてない、私も日本でどんだけ頑張って、耐えてきたかあんたたちは誰も分かっていない」
    「いやそんなことないですよ、お気を悪くさせてすいません。我々はこのあたりでおいとまをいたします……」粉を被りながらもまだ舟橋は低姿勢だ。
    「そうは、させないよ」
     彩華は机の上にあったガラス製の灰皿を舟橋に投げつけた。
     間一髪、灰皿からそれたが、壁に当たって割れた破片を舟橋は顔面に受けて血を流した。
    「奥さん我々の真意は違うんです、信じてください」
     この期に及んでもまだ和解を試みる舟橋に、晶子は呆れながらも粘り強い根性を感じた。
     彩華はさらに餃子を手づかみして、床にしゃがみこむ舟橋と晶子に投げつけた。
    「もう、誰も信じられない! 斉藤も、あんたも日本人みんな! カイタオ!」
    「彩華さんやめて下さい。ちょっと餃子の肉が飛び散ってます!」
    「舟橋さん、なんとかしてください、手錠とかなんか持ってないんですか?」
    晶子は目が開けられなくなっていた。
    「持ってないんだよ」
    「何のための警察官ですか、舟橋さん弱過ぎ」
     床を這いまわりながら出口を探す舟橋に向かって彩華は言った。
    「もう許さない、あなたたち。あなた達は知りすぎたのよ、このままじゃ帰さないからね」
     次に彩華はワンピースのベルトをスルスルと抜くと舟橋に向かって打ち下ろした。
    「ビシッ! ビシッ!」
    「痛い、今度はイタイ、奥さんやめて下さい。市川! 早く外に逃げて助けを呼んできてくれ」
     晶子は玄関に向かって逃げようとしたが、それを見た彩華はキッチンから包丁を手にした。
    「やめて、誰か!助けて」
    「両隣は空き家だよ。お前たちが来なければ全てはうまくいったはずなんだ。あなたたち殺す!」彩華は包丁をもって振り回しだした。
    「刺すなら俺を殺せ! 市川逃げろ」
     舟橋は初めて刑事らしい事を言った。彩華は声のする方をキッと睨みつけた。
     その隙に晶子は粉まみれになりながら、姿勢を低く床を這って廊下を伝い玄関に向かって這いだした。
    「二人とも命ないわよ。殺してから見つけた抜け穴に放り込むよ! カイタオ!」
     彩華の怒号が部屋中に響いた。
    (なんとか外に出なくては殺される)
     必死の思いの中で晶子は「好奇心が猫を殺したって英語で言うとなんだっけ」というとりとめのない言葉が頭に浮かんだ。
     ガタン! その時、何者かがドアをあけた。
     風が吹き込み室内の粉が外に吹き出し視界が開いた。
    「宇田川!」
     そこには今朝、事件の真相捜査よりも上司とのゴルフを選んだ出世志向の刑事宇田川警部補が立っていた。
    「うぁ何やってるんですか! 気になって、ゴルフの後サウナ入らずシャワー浴びただけで急いでやってきたんですが、一体これは……」
    「おい……ゴルフは普通にしてたのかよ」晶子は這いながら呟いた。
    「今日はかなり飛ばしましたよ」
    「宇田川か! そんなことはいいからとにかく助けてくれ」
    舟橋も悲鳴のように声を上げたが奥から彩華に髪を引っ張られ引きずられた。彩華は包丁を首につきたてた。このままだと舟橋の首は定年より前に斬られる状況になっていた。
    「宇田川さん、早くその女を取り押さえて下さい」
     晶子が冷徹に言い放つ。
    「わかりました、こう見えても腕に少々覚えありますよ。狼藉者め、佐倉市中学大会準優勝の俺の剣をお見舞いしてやる」
     宇田川は玄関の立てかけてあった傘を持って家の中にすり足で入って行った。
    「奥さん! 僕は今来たばかりで事情は全く分かりませんが、これ以上抵抗をするとあなたの罪が重くなりますよ。私の剣の前に観念しなさい」
     宇田川は言うだけでなく、彩華との間合いを詰め始めた。
    (本当は強いのか宇田川!? せめてそういうキャラであってくれ)
     晶子は祈るような気持ちになった。
     突然の助っ人に動揺したのか彩華は大人しくなった。
    「さぁ、その包丁を渡しなさい」
     宇田川は剣士のように毅然と言い放った。
     彩華も一瞬、自分が包丁を持っていることに戸惑っているような表情を見せた。
     その隙に……。
    「チェストー」宇田川の傘が包丁を払い上げた。
    「見事!」晶子は思わず感嘆の声を上げた。が、飛ばされた包丁は舟橋の首をかすめ、柱に当たって今度は晶子が這いつくばっている床に落下し足のギリギリで床に刺さった。
    「ギャー、考えて叩け」
    「とにかく、宇田川。あとで署で説明するから、まずとにかく彩華さんに手錠!」
     動揺しながらも舟橋が言った。
    「手錠? 今日はゴルフだったんで……手錠持ってたかな……ちょっと待ってください」
    「お前もか!」
    「なんでもいいから紐かなんかでくくれ」
    「ガムテープならここにありますよ」
     形勢が逆転し彩華は気落ちしたかのように座り込んだ……ように見えたが。
     ドカッ。
     彩華を取り押さえようとした宇田川がいきなり前のめりに倒れ、晶子の上に覆い被さってきた。
    「うげっ」
     晶子は宇田川の腕を払いのけて玄関を見ると……そこには見知らぬ若い男が立っていた。
    「えっ、今度は誰? 助っ人?」舟橋が呑気な声を出した。
    玄関に立つシルエットの人物は立ち上がった晶子にいきなり回し蹴りのモーションをとった。
    「きゃーっ」
     思わず体を引いたおかげで直撃は免れたが男の振り上げた足は壁に穴を開けた。
     不覚を取った宇田川はすぐに立ち上がり謎の敵に向かった。
    「失礼、市川さん! ここは私が相手になりますので、きゃつが足を抜いている間にお逃げなさい」宇田川は普段見せない二枚目顔で男に向かった。
     しかし、そんなセリフの間合いを待ってくれるような相手ではない。次に男は宇田川に向かって逆の足を振り上げると、宙で回転し、その遠心力を利用して壁から足を抜いて宇田川を蹴り上げた。
     直撃を受けた宇田川はひとたまりもなく、後ろに倒れてムチで叩かれた格好のままの舟橋と彩華の方に吹っ飛んだ。その勢いで細い柱が一本折れ天井が崩れた。今度はホコリやら砂やらが部屋になだれ込みまた粉塵が湧き上がった。
     咳き込んで隙ができた男の横を晶子はすり抜けようとしたが、首を掴まれて壁に叩きつけられた。
     大きな音を立てて壁が抜け晶子は隣の部屋へ転げ落ちた。
    「大丈夫か市川、誰か知らんがお前は許さん」
     ボロボロの舟橋が額から血を流しながらもボクシングのジャブで向かっていく。男は平然と右手を差し出すと舟橋の首を掴みそのまま壁に押し付けていった。
    「くくくるしい」強烈な力で締め上げられ、舟橋は身動きが取れなくなった。
     その時、「やめて! 和臣さん」
     晶子の叫ぶような声がした。一瞬男の手が緩んだ。
     そのタイミングで……
    「ガチャリ。はい逮捕」宇田川が手錠を男の右手にかけた。
    「宇田川、お前! 手錠持ってるじゃないか」
    「いやー、無意識のうちに後ろポケットに突っ込んでたのを忘れてました」
    「お前の天然は命がけだなぁ……」
    「こちらの女戦士は危ないのでガムテープでグルグル巻きにしますよ」
     宇田川は暴れる彩華の手足にガムテープで手際よく巻き上げた。彩華は観念したのか大人しくなった。
     パトカーのサイレンが聞こえてきた。
    近所の家から通報があったのか、まもなく流山署の機動捜査隊と捜査員が到着し、次々と斉藤家になだれ込んできた。
     主犯と見なされた彩華は左右を捜査員に挟まれて警察車両に連れて行かれた。負傷した舟橋と晶子は家の外で流山署署員からの質問を受け救急車の到着を待ってしゃがみ込んでいた。
    粉だらけで血を流しながら舟橋が聞いた。
    「市川、さっきお前、あの男のこと『和臣さん』っていったけどどういう意味だ?」
     全身打撲の晶子は弱い声で答えた。
    「さっき彩華さん私たちを脅しながら変なこと言いましたよね、覚えてます?」
    「そうだな、たしかカイタイとか言っていた」
    「いや、カイタイでなく、多分『カイタオ』。確か中国語では『快逃』って書くはずです」
    「いろいろ知ってるなぁお前、でどういう意味なんだ?」
    「快逃は、『逃げて』って意味です。これを聞いた時、彩華は近くにいる誰かを逃がそうと思っているって分ったんです。だから私たちを襲うのは、その人を守る為、自分に目を向けさせる狙いがあると思ったんですよ」
    「やっぱり彩華は本気で俺たちを殺そうとは思っていなかったってことだな」
    「何がやっぱりですか。怖かったですが殺意は感じませんでした。それより彩華が犠牲になっても逃がしたい人物は誰かって考えたんです。しかし、その人物は彩華の思いとは逆に助けに来た。だから男が現れた時、顔が分らなくても私には分ったんです。このタイミングで母親を助けに来るのは、世界中で一人しかいません」
    「それがあの男?」
    「そうです、今の彼はスキンヘッドでタトゥーなんか入れてましたが、良く見ると寝室にあった『和臣君』の写真の面影があります。そうよねっ」
    流山署の刑事に連行されて行く男に晶子は声をかけた。
    「その名前で呼ばれるのは久しぶりです」
     晶子の顔を見ると和臣はいった。
    「逃げろと言われても、母親の危機を見逃すような息子はいないよね」
     和臣は少し表情を和らげてうなずいた。



    #9
     流山で起こった悪夢のような一日のことはもう思い出したくない。
    でも、それから起こった出来事はさらに複雑だった。あまりにも煩雑なのでかいつまんで説明したい。

     事件の後、無傷の宇田川とは現場で別れ、怪我をした晶子と舟橋は救急車で病院へ運ばれた。舟橋とは病院で別々になりそこから会っていない。晶子は幸い軽傷であったが、治療を受けた後病院内で事情聴取を受けることになった。現れた刑事達を晶子は県警本部で見かけたような気がするが、どうも立ち振る舞いから捜査一課の刑事とは違う感じがした。聞かれたのは、なぜ一般人の晶子が警察官の舟橋や宇田川と一緒に、危険な現場にいたのかという点に集中した。
     晶子は正直に「未解決事件の捜査を舟橋さんに頼まれまして……」と答えたが、刑事達は全く反応せずメモすら取らない。舟橋との愛人関係も疑われたが、その点だけは完全絶対否定をしておいた。通り一遍の聴取のあと刑事達の作った筋書は「過去の自分の未解決事件に執着する舟橋が、行動偽装の為面識のあった晶子を金銭で釣って流山の容疑者宅を訪問した」というところで落ち着いたらしい。
     聴取が終わると刑事達は「お手間取らせました、お大事にしてください。引き続き受付業務をよろしくお願いします」と丁寧に去って行った。
     流山の暴行事件なのにいきなり県警本部の刑事が現れるとは、この事件には根深い事情がありそうだと晶子は感じた。
     病院から警察車両で夜、家に帰ると親からはこっぴどく叱られた。すでに夕方に派遣契約元の県庁の担当者が現れて「お見舞い」として和菓子が届けられていた。その担当者が親に言うには何故か「私が好奇心で危険な現場にせがんでついて行って怪我をした」ことになっており「この件はプライベートなことなのでクレームされても我々は関係ありません」とフタをしっかりと閉じて帰っていた。
     翌日は自分の部屋にこもってさまざまなネットニュースを検索したが、本部が動くほどの事件だったのに全くニュースになっておらず。肝心の舟橋は電話をしてもつながらなかった。

    「怪我治ってから来ればよかったのに」
     出勤した日に顔と手に残る絆創膏を見て、受付の同僚・野田真紀が話しかけてきた。
    「いやぁ、ちょっと転んだだけなので気にしないで……」
     きっと派遣元の担当者は「このまま寝込んで、仕事に来づらくなって、そのまま辞めてくれれば、次に若い子採用しよう」とでも思ってるはずだ。それは癪なので晶子はあえて顔に絆創膏を貼った状態で全身打撲を湿布で押さえて、遅刻せずいつも通りの勤務に就いた。
    「流山での騒動」は、全く報道されていないはずなのに何故か署内で噂になっており、受付前を通る警察官の中には晶子を盗み見るようなしぐさをする人もいた。それさえ気にしなければ、いつもと変わらない平和な県警受付業務だった。
     そんな日が月・火・水と三日続いたが、用もないのにしょっちゅう受付に来ていた舟橋をその間見かけることは無かった。怪我は晶子と大して変わらない様子だったから、いまだに入院中ということはないだろう。それとも事件が解決すれば、結局一般人の私なんかは目に入らなくなるのであろう。まぁ、そんなことは慣れている。

     木曜日の勤務が終わろうとしていた夕方四時過ぎに内線電話がかかってきた。
    「おう、元気になったか」
     舟橋からだった。
    「はぁ、お陰さまでまだ打ち身と切り傷の痕は残ってますが、精神力で出勤しております」
    「いやー、実は俺も大変だったんだよ」
    「それはそうでしょ、舟橋さんは職業ですから。そこに一方的に巻き込まれた一般人の私のつらさも想像して見てください」
    「まぁそうねじれるなよ。あの後一体何が起こったのか、今回の事件の本体は一体何だったのか、お前にはちゃんと説明するよ」
    「事件の本体って何ですか?」
    「別の大きな事件があったんだ。とにかく電話では何だ、今日この後時間ないか?」
    「また急ですね、どこに行けばいいですか」
    「そうだな、近くだと職員が多いから、千葉中央駅近くのメダカコーヒーに来てくれ」
    「舟橋さんのおごりですよ」
    「もちろん、何でもおごるよ」そういうと舟橋は電話を切った。いつものノンビリした様子とは違う変に緊張感のある話し方だった。
     六時ちょっと前に舟橋が指定したメダカコーヒーに着いた。休日のような恰好の舟橋が奥の席に座っていた。前に会った時より明らかに疲れた様子だった。
    「よお、久しぶり」
    「何が久しぶりですか、心配したんですよ、今までどうしてたんですか」
    「まぁ、話すから座って何か飲み物でも注文しろよ。話は長くなるから……」
     そう言った通り、舟橋の話は本当に長かった。
    ***
     乱暴をする彩華と息子が逮捕されたあと、病院での応急手当の後晶子と舟橋は別れた。その後の舟橋の行先は流山署だった。そこは舟橋の古巣だった。顔見知りの浦河刑事に「お手柄でしたね」と迎えられ、会議室で女性警察官から「昼飯まだでしょう?」と出前で『うな重』をとってもらった。
     すっかりいい気分になって「彩華の事件の真相は何だろうな、そろそろ自白調書でも出来たかなぁ」のんびりくつろいでいたら、突然スーツ姿の知らない男たちが現れた。三人組で入って来たそいつらは、警察庁の組織犯罪対策部国際班の捜査官だった。警察庁の連中は容疑者の取調べ口調で舟橋と彩華の関係について二時間近く質問攻めにした。
     しかし、肝心の舟橋からは『所轄時代に失踪事件を解決出来なかった被害者で、ちょっと気になる色気のある女』以上の情報も取れず、『無知の壁は崩しようがない』事を捜査官たちも悟った。
     身に覚えの無い失礼な質問の羅列に不愉快になった舟橋は逆に質問を返した。
    「なんでそんなに流山の事件と斉藤彩華の事を調べているのか理由を教えろ」
     
    「いいでしょう」無表情の捜査官の一人が答えた。
    「我々はあなた方が一週間前に李彩華の家を訪問したことは監視者から報告されています。ただいくら内偵をかけても『あなたと李彩華との関係』はおっしゃる通り以上のものは見つかりませんでした。あなたは本当に彩華の正体を何も知らないようですね。もう今となっては秘密にしても意味が無いので教えてあげます。あの女は中国マフィアの一味です。舟橋さんあなたよく無事でしたね。今までに何人か殺していると我々はにらんでいます」
     絶句する舟橋を見ても、捜査官はさらに続けた。
    「何のことか全く心当たりが無いようですね。中国マフィアである彩華の主な役割は覚醒剤密売ルートのハブだったんです」
    「ハブ? ヘビ」
    「あなた本当に刑事だった人ですか、ハブつまり『さばきの元締め』です。彩華の家には中国ルートから大量の覚醒剤が運び込まれ、そこで小分けされて東京東部と千葉県西部の中華系マフィアの密売先に流れていきます。我々は1年前から李彩華の監視を続け彼女をハブとする密売ルートの解明に取り組んでおりました」
    「えーと」
    「あなたは先ほど、『小麦粉をばらまいて目つぶされ、包丁を振り回す中で、獅子奮迅の活躍で彩華を取り押さえた』と供述されていますが、あそこでまかれていたのは小麦粉だけでは無かったんですよ。あの粉の中からフェニルアミノプロパンが検出されました、覚せい剤ですね」
    「嘘だろ、彩華は餃子の皮を作っていたはず。俺あの餃子食べたよ。それに、粉も俺吸いこんでるよ」
    「まぁ、それは不可抗力でしょう、後で調べましょうか? あなた方が家で大騒ぎをした後に、県警と鑑識が詳細に家宅捜査しまして彩華の謎が解けました」
    「謎ですか……それは、私が見つけた子供部屋の地下通路のことですね!」
    「一体何の話をしてるんですか? 覚せい剤の偽装運搬方法の謎です。彩華は自宅で餃子を作って中華料理屋などに卸していると言っていたそうですが、本当は小分けしたパケットを餃子の皮で包み、回収担当の中華料理屋の配達車へ渡し、そこからは『手作り餃子』と名を変えて都内各所に流していたということです」
    「それは、すごい。つまり……私の危険を顧みない刑事魂が、覚せい剤の取り押さえに結びついた訳ですね」
    「はぁー、あなたは自分がしでかした大変な失態に全く気付いてないんですね。我々は三年前から南関東の覚せい剤販売ルートを解明すべく、警察庁と厚生省が手を組んで秘密裏のプロジェクトを進めていたんです。末端の売人の行動観察から丁寧に丁寧に調査を積み重ね、ようやく中間組織である流山の李彩華の存在に我々は辿り着きました。あの女が年間に扱う覚せい剤はおよそ四〇キロです。さらにその流通ルートを辿ることで年間二百キロとも四百キロとも言われる関東一円の中華系麻薬販売ルートの割り出しにあたっていました」
    「へ?」
    「彩華を泳がすことによって犯罪ネットワークと黒幕を一網打尽とする作戦を展開していたところです」
    「……」
    「それもあなたの『勇敢な行動』のお陰で水泡に帰しました。たかだか、あの部屋にあった少量の覚せい剤と売人の女一人を逮捕したところで何も変わらないんですよ。今頃やつらは彩華につながる全ての証拠を隠滅しているところでしょうね」
    「それじゃ、彩華の家に現れた息子の失踪原因とかは?」
    「そんなこと、私たちには関係ありません。私たちは本当に忙しいのでこれで失礼します」
    「あのぉ、私はこの先どうなるんでしょうか?」
    「そんな事は知ったこっちゃないです。このあと県警の監察官があなたを取り調べる予定だそうです、その人に聞いたらどうですか? この件で運命が変わった警察幹部が何人も出ると思いますよ。舟橋さんはいっそ辞職でもして、中華料理屋で働いた方が幸せな人生を歩めるんじゃないでしょうか?」
     そう言い捨てると警察庁の連中は、舟橋を置いて一斉に出て行ってしまった。
    「一体何が起こったんだ……」
     息子が失踪して行方不明になり、夫に先立たれた可哀想な未亡人の境遇を心配して訪れた家で突然の暴力に見舞われた。
    「さっきの連中の話は本当なのか」
     舟橋は信じられない気持ちで流山署の広い会議室に一人残された。顔見知りの警察官も殿上人の警察庁の訪問後はもう誰も舟橋に近寄ってこない。結局、脅されたような監察官からの呼び出しは無かったが、県警本部の一課長から週明け刑事課への出頭指令を受けその日は自宅へ戻った。

     翌朝千葉中央駅から県警本部までの道を歩く舟橋の気持ちは重かった。地球の重力を全身に感じ、前を進む空気の抵抗を受け、重い足取りで一歩一歩こんなに感じたことはなかった。刑事部のある大部屋に入った時、フロアにいた数十人が舟橋を一斉に注目した。その奥から現場刑事を束ねる一課長が舟橋を冷たい目で見て、奥の応接へ行くよう指示された。
    「前に言いましたよね、勝手なことをされると捜査課全体が困るって。さすが先輩です、今度の件は予想をはるかに上回りました、県警全体が本当に弱りです」
     昔、新人刑事の頃に舟橋が仕事を教えたのが今の「一課長」だ。警察組織は階級が絶対だが、個室に入れば師弟関係のメンタルについ戻ってしまう。
    「先輩、あなたもお聞きになったと思いますが、警察庁の内偵部隊にとって今回の件は大変な失態になってますよ。もっとも我々は『県警をなめて勝手に内偵進めた』からこんなことになるんだと内心思ってますけどね」
    「やつらは、俺たちを地方警察といって腹では馬鹿にしてやがるからな」
     一課長の本音を聞いて舟橋は心が少し楽になった。
    「ただね、警察庁からの大クレームに県警本部長と警務部長のキャリア組はカンカンになっています。我々管理職と舟橋さんの処分は免れませんよ」
    「そんなお前まですまん、俺はただ善意で過去の事件に関わっただけ……」
    「その一方で、もとはといえば県警の『未解決事件』が発端で事態がここに至るまで刑事も公安も気がついていなかったことなどおおっぴらにできない身内の失態も多い。上層部では『幸い事件に巻き込まれたのが庶務担当の中年警察官と捜査課で持て余している中途半端な準キャリアと後は一般人の受付職員』だけだったので幸いマスコミにも気づかれていない。シンプルな『末端の覚せい剤売人の逮捕』と『息子の二重国籍』で送検し事件の背景は全て隠蔽という方向になりそうです。先輩が懲戒免職にはならないようお願いしておきました」
    「悪いな迷惑かけて」
    「首にするとあの男は週刊誌に何を言うか分からないと脅しておきました」
    「今回の事件、俺も訳が分からなくなった。そもそも斉藤彩華と息子の失踪事件は何だったのか説明してくれないか」
     現場刑事のトップに立つ現役課長はヤレヤレといった様子で栄光をとっくに失くした先輩に事件の概要を説明しはじめた。
    「斉藤彩華こと李彩華が、覚せい剤の元締めだったということは聞いたと思います。今上の階の組対で彩華を取り調べているが、意外とすんなりと自供をはじめているようです。 一緒に逮捕された男は、歯の照合により失踪中で死亡申請が出されている『息子の和臣』と同一人物として特定されました。彩華の自供は次のようです」

     日本に入国し柏のマッサージ屋で働き始めた時、客についた斉藤が言い寄ってきました。付き合い始めた最初に自分には子どもがいることを伝えましたが、斉藤は『自分の子供にしよう。まだ赤ちゃんだから出生申請すれば受理される』と言いました。そして私たちは結婚しました。子供が小さかったうちは斉藤も可愛がってくれましたが、小学校高学年になり反抗期になると冷たくなっていきました。自分にも暴力を振るうようになりました。斉藤は家にもお金を入れなくなり、私も外で働くようになりました、餃子の内職も生きる為に紹介された仕事なんです、止むを得なかったんです。息子は私が中国人であることで学校でイジメを受けるようになり、父親からの暴力を避けるためなのか部屋に引きこもるようになりました。

    「泣ける話じゃないか」舟橋は人情話に弱い男だった。
    「先輩、あくまでも彩華の自供です。都合よく話を作っているに違いありませんので全部信じちゃだめですよ。では彩華の自供内容を引き続きお伝えします」

     息子は引き籠ってはいたものの自分とは時々会話していました。夫のいない時には外に買い物に出たりし、携帯を買い与えるとメールでもやりとりするようになりました。父親の暴力と学校のイジメから『自分は中国人である』ことを息子は自然と意識し始めたようです。息子は頭も良かったので、独学で中国語を勉強し始めました。パソコンをプレゼントするとメールを始め、その頃に中国に友人を作ったようです。ネットを使ってアルバイトも始めたようです。今思うとその頃に息子は上海のサイバーマフィアと連絡を取り合い、犯罪の協力者として既に利用されていたようです。
     そして事件が起こりました。ある夜息子が突然いなくなったんです。
     この時は私も何も知りませんでした。夫もこの時ばかりは息子を心配し親身になって、私と一緒に心当たりをほうぼう探しました。警察に捜索願いも出しましたが、息子の行方はわかりませんでした。
    でも半年ほどして突然息子から電話がかかってきました。もう日本には彼はいなかったんです。息子が言うには、中国の出生届けを使って出国し、ネットで知り合った仲間と合流し、中国の国籍で地元の学校に通い立派に成長していきました。彼は、中国人として生きる道を選んだんです。しかしそれから四、五年経ち、息子が社会人となって海外で行動し始めると、日本国籍で同じ顔、同じ生年月日の人間が存在することは、将来必ず困ったことが起きると思い始めました。失踪して七年たつと死亡扱いになることを私は調べました。息子と相談し、日本人の息子和臣の死亡宣告することにしました。

     そこまでを一課長は調書をもとに丁寧に説明してくれた。
    「彩華は出生届けの悪用による、別人二重国籍の取得の件は素直に認めたよ」
    「そういうことだったんですね。やはり覚醒剤をさばいていたのも息子に送金する目的があったんでしょうかね」
     人情家の舟橋は深く同情したようだが、一課長は軽蔑したかのような表情で言った。
    「それは分らんですよ、同情するには値しないですよ。あの女ただ者じゃないからね。まだまだ余罪はあるはずです」そう言うと一課長はデスクからどこかに内線をかけた。
     やがて「失礼します」という軍隊口調で、今度は見慣れない強行犯係の刑事が部屋に入ってきた。
    「我々は今回の件とは別に彩華の夫の死亡原因について捜査を進めておりました」
    「彩華は病死と言ってたが……」
    「違います。縊死です。自殺とされていますがそれも……」
    「自殺ですか」舟橋はまた彩華に騙されていた。
    「第一発見者の彩華からの救急要請でしたが、既に夫は亡くなっており不審死として流山署刑事も臨場しました。当時検視にあたった刑事は線条痕の観察から『単純な自殺ではない』と疑問を持っておりましたが、事件性を断定するには至りませんでした。しかし斉藤の死後、実の弟から県警に直接死因についての再捜査の依頼がありました。斉藤自身は大した収入や貯金は無かったようなんですが、親が死んだときに農地を相続してまして……それがあの『つくばエクスプレス』の開通以来、急に付近が『駅近の宅地向き用地』として開発が始まりまして、土地の値段もグングンあがり、マンションの建設で数億円の引き合いも出ていたそうなんです。その土地も斉藤の死によってまるまる彩華が相続しています。我々は彩華を殺人罪でも立件すべく証拠を揃え始めております。おいおい舟橋先輩にもお話伺わせていただきますのでよろしくお願いいたします」
     話を一気に聞いた舟橋はもう何が本当なのか分らなくなっていた。 その様子を寂しげに見ていた一課長が冷たく告げた。
    「先輩、正式な処分が出るまでは当分自宅で謹慎していてください。電話にも出ないでください。そして今すぐ県警本部の裏口からマスコミに見つからないようにそっと出て行ってください」


    #10
     三十分近く一気に話を続けた舟橋は、疲れ切った顔で冷めたコーヒーを啜った。
    「これが俺に起こった出来事の全てだ。こういう訳で市川に連絡することが出来なかったんだ」
    「別に舟橋さんをこの件で責める気はありません。でも最初に舟橋さんから事件の概要聞いた時にもっと疑うべきだったんです。私も反省です、前提を疑う心が足りませんでした」
    「それにしても」晶子はふと思い出したように言った。「旦那さんの死因の件、あれもまだ終わってないんですよね?」
    「あぁ、強行犯係があれからどうなったのかは俺も知らん。処分中の身だからな」
    「じゃあ、彩華さんの話にはまだ続きがあるってことですね」
    「あるかもな。まぁそれはまた別の誰かの仕事だろう」
     晶子はアイスコーヒーを一口飲んで小さく笑った。
    「舟橋さんの事件は、いつも終わったと思ったところから始まりますね」
     晶子の妙な反省と共にメダカコーヒーでの舟橋との答え合わせの会は終了した。

     それからおよそ一週間後。
     晶子が担当する県警の受付の脇に浮かない顔をした舟橋がまた現れた。
    「今日は一段とさえないですね、やっぱりクビですか?」
     晶子の憎まれ口に応える気力も舟橋には無かった。
    「今度は刑事部長の名前で呼び出された。こいつも俺の同僚だった男だよ。さらに警務部の課長もいたよ」
    人事を担当するのが警務部だ、舟橋に何らかの人事連絡が下されたに違いない。
    「それで、どんな処分でした」
    「上総の君津署地域課へ異動だそうだ」
     そういうと舟橋は遠い目をした。五〇キロ離れた上総の地へ思いをはせているに違いない。
    「良かったじゃないですか、クビにも降格にもならなくて、これで定年後も安泰ですね。君津はキャンプで行ったことありますけど自然が一杯で最高じゃないですか! これからは『スイカ泥棒の追跡』とか『轢かれたタヌキの捜査』とか舟橋さんにピッタリの事件が待ってますよ」
    「皮肉言うなよ。それにしても腹立つのが、ずっと一緒に捜査していた宇田川が呼び出されていない事だよ。無傷だとしたら、やはり宇田川のやつは刑事部のスパイだったんだ。状況を思い返すと、宇田川が彩華の家に登場したタイミングも良すぎる。呑気なバカ刑事と思っていたが実は優秀な内偵捜査官だったんだよ」
     舟橋の話を聞きながら晶子は受付デスクのパソコンに視線を移した。
    「スパイかどうかは知りませんが、イントラで内報を見ると宇田川さんも異動になってますよ。県警で働いているのに舟橋さん見てないんですか」
     晶子はパソコン画面を舟橋に見せた。
    「えっもう出てんの? どうせ出世して警察庁とかに出向だろ」
    「いえ、美浜の千葉運転免許センターへ係長で転任みたいですよ」
     それを聞いた舟橋は陽気な子供のような顔をした。
    「左遷じゃん」
    「ちょっとは罪の意識感じて下さい。舟橋さんの捜査に巻き込まれた為に宇田川さんのキャリアはこれで終了ですよ」
     そんな話をしていると、話題の宇田川がちょうど正面入口から入ってきた。
     宇田川は受付の舟橋に気付くと近寄ってきた。
    「舟橋さーん! どうもこの間はお互いに大変でしたね。そういえば、あの彩華って女は、結構やばいこといっぱいやってたみたいですね。びっくりしましたよ」
    「お前はあの後、本当に何も聞いてないのか?」
    「えぇ、怪我もしてなかったのでそのまま自宅に直帰して良いって言われました。でも今朝、警務部から呼び出しがありまして今から行くとこです。何かな? 犯人逮捕の表彰だったら舟橋さんのことも推薦必ずしますので、お・た・の・し・み・に!」
     宇田川は気の毒な程、無邪気に明るかった。見かねた晶子が声をかけた。
    「宇田川さん、この間わざわざゴルフ場から助けに戻ってくれてありがとうございます。舟橋さんだけだったら今頃私は彩華に殺されてましたよ」
     不思議そうな顔で宇田川は晶子を凝視した。
    「えっーと、このなれなれしいこちらの人誰ですか? 舟橋さんの知り合いですか?」
     これには晶子も舟橋も驚いた。
    「お前……まさか本当に全く気付いていないのか? 虫並みの記憶力だな、よく彼女のこと見て見ろ」
     晶子は流山で作った擦り傷あとに貼った「傷ピタ」を見せた。
     しばらくの沈黙があって、大げさな声が上がった。
    「えーっ、まさか君が特命捜査官なの!!!」
    「本当に、今まで気づかなかったんですか? 私は毎日ここに座ってましたよ」
    「気づかなかったも何も……今度は県警本部の受付に潜入してるんですか! 恐ろしいな、やはり恐るべし『捜査官Xさん』ですね。誰にも言いませんから安心してください」
    「お前にはスパイは絶対無理だな」
    「スパイどころか、一般人としても危険なレベルですよ」舟橋と晶子は呆れた。
    「何ですか、僕の噂ですか」
    「そうだった、お前呼ばれているんだろ。早く行った方がいいぞ、昇進かもしれないぞ」
    「そうですね、楽しみだな! では行ってまいります」
     晶子も宇田川の無邪気な背中を敬礼で見送った。
    「俺も職場に戻るわ。いろいろごめんなお前に迷惑かけて」
    「迷惑というか、人間の汚い部分や弱い部分を勉強させていただきました」
    「すまん俺もいろいろ反省してる。また、そのうち木更津あたりに潮干狩りにでも来たら君津に寄ってよ」
    「はい。でも結構私は楽しみましたよ。退屈な受付の業務の日常から離れて、非日常に招待してくれたのは舟橋さんだけです。ありがとうございます」
    「こっちこそ、懲りてなければまた捜査に招待するよ」
     そう言うと舟橋も奥の階段に向かって去って行った。
     その背中に晶子は小さく声をかけた。
    「今度は未解決事件じゃなく、現在進行形の派手なやつにしてくださいね」
     千葉県警察本部の正面受付、私のいる場所はここしかない。
     退屈だけど、平和な業務。
     それが私の仕事。
                                  (完)                              

     
     
     
    事件2:キャラ3 濃いめレモンサワーにようなキャラミステリーを書いています!

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