
ネクストコア:孤独な夜に、寄り添う知性を(第2章②)
入ってきた男は、室内の張り詰めた空気を気にする風もなく、ゆっくりと歩を進めてきた。
加藤だった。
よれたポロシャツの襟元、肩の力の抜けた歩き方。学生時代から何も変わっていない。
会社の上下関係など、この男の周囲だけは最初から存在しないかのようだった。
加藤はサイドボード前の相澤を無視するかのように、端末の前まで進む。
手慣れた手つきでカタカタと何やら打ち込んだ後、相澤の方を振り返って言った。
「なあ、今、俺が何をやったか分かるか?」
加藤は手元の端末の画面を、相澤の方へ向けた。
液晶の青白い光が、デスクの木目を冷たく照らす。
そこに並んでいたのは、開発部の末端にいる男に、EMMAの最深部へアクセスできる最高級開発者権限が紐付けられたログだった。
文字列の末尾には、システムが処理を完全に確定したことを示す、不可逆のタイムスタンプが刻まれている。
もう、相澤のCEO権限をもってしても、この書き換えを取り消すことはできない。
加藤の無茶には慣れていた相澤も、さすがにこの奇行には驚いた。
視線だけで「何のために」と問い詰める相澤を、加藤は正面から見返した。
「マーケティング部を告発する」
加藤の声は、驚くほど低く、平坦だった。
モニターの位置を元に戻す指先が、小さく震えているのを相澤の目は逃さなかった。
本気であることは口調だけでもわかる。
「あいつらのデータの不正収集は目に余る。このまま見過ごすわけにはいかない」
加藤は、めくれあがったままのホワイトボードへ視線を向け、すぐに相澤へと戻した。
「何か言うことはないのか?」
加藤の問いに相澤は答えられなかった。
「内部告発なんてのはな、うまくいこうがいかなかろうが、会社にはいられなくなるもんなんだ」
加藤はそこで言葉を区切り、懐かしむような目で相澤を見た。
「お前はな、俺の言うことなんかもう聞かなくなっているんだ。だけど、お前が何が苦手で、何を求めているのかはよーく知っているんだよ」
一歩、また一歩と、加藤が距離を詰めてくる。その足音が、相澤の胸を静かに圧迫した。
「お前は正しいことをしようとするから、正しいことの前では無力なんだ……正しいことでも、嫌だったら怒った方がいい」
加藤はいたずらが成功した子供のような顔で、手元の端末をトントンと指差した。
「そこで、こいつだ」
画面に浮かぶ「佐々木」という名。
「お前の事だから気づいているだろうが、俺がマーケティング部のサーバーに開けた穴があるだろう? あれをこっそりそのままにしてある」
相澤はかすかに眉をひそめ、画面と加藤の顔を往復させた。
「それを見つけた奴だ。漫然と仕事している奴には気が付かない執念を持つ奴にだけ見える穴をな。どうだ、おもしろいだろ? え、相澤よ」
学生時代のノリで、この突拍子もない企てへの加担を促しているかのようだった。
相澤は手元のクリスタルグラスを握り直した。冷えた水が、指先からじわじわと体温を奪っていく。
相澤の胸の奥が嫌な音を立てていた。
喉の奥まで出かかった反論が、苦い塊となって堰き止められる。
自分だって、手をこまねいていたわけじゃない。
――俺が守らなければ誰が守るんだ。
握りしめたグラスの表面から、結露の雫が滴り、床に落ちる。
「俺だって……!」
弾かれたように出た声が、広すぎる部屋に虚しく響いた。
相澤はグラスを置いて、壁の特許証書から目を背けるように俯いた。
その声に加藤の表情が緩んだ。
それでも相澤はこれ以上言葉が続かなかった。
加藤はただ、静かにそれを受け止めていた。
「分かってるよ」
静かな声が、相澤の輪郭をなぞるように届く。
加藤はゆっくりと歩き始め、壁の額縁の前で足を止めた。
ガラスの向こうの荒々しい筆跡を、いつもより少しだけ長く眺めた。
『孤独な夜に、寄り添う知性を』
窓ガラスに、夜景の冷たい明滅と、加藤のくたびれた影が重なる。
「お前を楽にしたいんだ。友達だからな」
かつて狭い研究室で、ただ純粋な理想だけを語り合っていた頃の残響。
「止めるなら今だ。CEOの権力で、俺をここで拘束しろ。どうする?」
加藤は相澤に背を向けたままだったのでその表情は見えなかった。
それでも相澤は動けなかった。
デスクの上のタブレットは、今もマーケティング部からのチケットを乗せて、青白い光を放ち続けている。