
一首一会【7月8日】沢水に空なる星のうつるかと見ゆるは夜半の蛍なりけり (藤原良経 / 後拾遺和歌集)
【現代語訳】 沢の水に、夜空の星が映り込んでいるのかと見えたものは、実は夜更けの闇に光る、蛍の群れであったのだな。
平安中期の「良経」
今日の詠み人の名は藤原良経ですが、あの『新古今和歌集』の仮名序を執筆し、若くして歌壇の頂点に立った新古今時代のきらびやかな才器(九条良経)ではありません。こちらはそれよりも遥か昔、平安中期の名書家・藤原行成の子である良経です。
この歌は『後拾遺和歌集』に採録されたものですが、実は和歌の歴史において、ひとつのターニングポイントとなった一編でもあります。 というのも、意外なことに「蛍」という言葉が、恋の比喩ではなく、明確に「夏の風物詩(四季の歌)」として正面から詠まれたのは、この『後拾遺集』が初めてのことであったからです。
それまでの古い和歌の世界において、蛍とは純粋な自然の風景ではありませんでした。蛍の放つ「火(ひ)」と、胸に燃える「思ひ(火)」を掛け合わせて、恋の苦しさを表現するための、きわめて記号的・人工的な修辞として使われるのが常套だったのです。
「星かと思えば蛍だった」という洒落
そんな歴史を経て、ようやく「夏の自然」として切り取られたはずの今日の一首ですが、その描写はといえば、いささか頭でっかちです。
「沢水に夜空の星が映っているのかと思ったら、実は夜中に光る蛍だった」
水面の星の反射と、低空を舞う蛍の光。それらを視覚的に錯覚してみせるという趣向ですが、いかにも狙いすましたような「人工的な洒落臭さ」が鼻に突くのは否めません。自然の命をありのままに愛でるというよりは、ちょっと小綺麗な絵画的トリックを仕組んで「どうだ、風流だろう」と澄ましているような、あざとさが見え隠れします。
現代人にお似合いの「うそぶき」
しかし、この歌が持つどこか嘘くさい人工性を、私たちは果たして笑うことができるでしょうか。
現代の私たちは、街中を夜通しネオンやイルミネーションでギラギラに飾り立て、彼らの静かな棲み処を徹底的に奪い去ってしまいました。それにもかかわらず、夏になれば「蛍こそが日本の夏の原風景だ」などと都合よくうそぶき、わざわざ人工的に保護された場所に蛍を鑑賞しに出かけたりします。
本物の自然を破壊し尽くした人工都市に生きながら、記号としての自然を都合よく消費して風流ぶる。そんな現代の私たちの滑稽な姿を思えば、この詠み人の仕掛けた「星と蛍の小綺麗なフェイク」は、驚くほど現代人にお似合いの、皮肉な鏡のようにも思えてくるのです。
失われていく本物の闇のなかで、人工的な光のトリックを面白がる。千年前の平安貴族が仕掛けた洒落臭いお遊びは、期せずして、現代の私たちの歪んだ自然観をも鋭く射抜いているようです。