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牛飼いの根っこ

     かみむら牧場代表の上村新太郎です。

     「出身は(生れ)はどちらですか?」と質問されたら、「東京に実家があります。」、「なぜ牛飼いをやっているのですか?」と質問されたら、「牛が好きだからです。」このように、なんとなくボヤぁ~とした答え方をしてしまいます。

     農家出身でもない人間が牛飼いをやっていれば、この2つの質問は頻繁にされます。本当は、「お前は、何者だ?」、「なにしに来たのか?」っと言うことを聞きたいのだと思います。
    牧場を開業して30年。今さらのように?かもしれません。自分のためにも、この問いに答えてみようと思います。

     63年前、ブラジルはベレン市で私は生まれました。
    当時、日本は国策として海外に多くの日本人を移住者をさせていました。南米、ハワイなどの国々へです。私の親父は、移住者さんのお世話をするために日本からブラジルに赴任していました。

     生まれてから6歳ころまでトメアスという町に住んでいました。ジャングルで毒蛇やサソリに気を付けながら、犬11匹引き連れて遊んでいたそうです。家の裏にはアマゾン河の支流が流れていて、日の光が薄いジャングルを流れてく水は冷たかったのを覚えています。

     このころに撮影された「日本人ここにあり」というタイトルの16mm映画に1カットだけ映っていたのを日本に帰国して、中学生のころに1度だけ見た記憶があります。大木を切り倒した後の切り株に座り、遊んでいる新太郎少年が映っていました。(今、あのフィルムはどこにあるのだろう・・・。)

     移住者さん達は、決して肥沃な土地に入植できたわけではありません。
    ジャングルを切り開き、荒れ地を開墾していました。日本人はまじめで勤勉な働きものだったために、日本人排斥運動にもあったようです。
    しかし当時、黒いダイヤと言われた黒コショウ(ピメンタ)を栽培して
    トメアスの町は潤っていたようです。(後にピメンタ栽培は衰退したようです。)

      移住者さん達のほとんどは、ブラジルに一攫千金を夢見てブラジルに行ったんだと思います。しかし、行ってみたら現実は地獄に近い状況。夢破れて日本に帰国した人もいたようです。

      親父の赴任先はその後も転々とします。いったん日本に帰国したのち、アルゼンチンに家族で赴任。アンデス山脈に近い移住者さん達の町です。自分が小学校の4年生ころです。ある日、日本人が経営する肉牛牧場に家族で招待されたことがあります。牧場主は招待客の為に、牛1頭分を用意してバーベキューをしてくれました。豪快でした。牛の丸焼きです。これがアルゼンチンの牧場でのお客さんのもてなし方なのだそうです。
    この時、将来はこんなことができる生活がしたい!そんなことを思ってしまったのです。これが「牛飼い」になる原点です。

     自分は早く「家」から出たかった。
    学校を卒業して、誰も知り合いも、友達も、いない北海道に来てみました。
    本当にやりたかったことは、「腕試しです」。舞台装置に選んだのが「牛飼い」です。名もなき人間がどこまで自分を表現できるのか?

    ブラジル、アルゼンチンで感じた空気感は、今も自分を作りだしています。

     まだ、実現してないのは、「牛の丸焼き」。自分で育てた牛をこの手でさばいて食べたい!日本でこれをやったら刑務所行です。
    時効だから言います。40年前くらいに北海道に来た頃、やったことがあります。美味しくなかったし、自分の牛ではなかった。

     「新太郎の夢」は、もう少し続きます。

     


     

     


     
     
     
    かみむら牧場代表 上村新太郎と申します。 北海道の雄武町で黒毛和牛の繁殖と肥育の牧場を経営しています。 牧場の日々の出来事、牛達のこと、お肉のことを書いています。 写真も好きです。宜しくお願いします。

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