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はじめて人の期待に応えた記憶。

    2〜3歳のころのはっきりした記憶がある。
    食事中の方がいたらごめんなさい、トイレの話です。
    昭和生まれの私は、幼い頃、自宅のトイレが和式だった。
    おばあちゃんが、私をトイレに連れてってくれてた頃だから、まだ幼稚園に行く前だ。
    おばあちゃんが、私の両足を広げて持って、和式の便器をまたがせておしっこさせていた。

    ある日おばあちゃんが、お母さんに嬉しそうに話していた。
    「この子いっつも、おしっことうんち一緒にし〜ひんわ。さっきおしっこ連れてったばっかりやのに、おばあちゃん「うんち〜」ってまたくるんや。一回でしてくれたらいいのに」
    おばあちゃんが笑いながら話していた。
    話を聞いたお母さんも笑ってた。
    2人ともとても楽しそうだったから、私も嬉しくて楽しい気持ちになったんだ。

    そして、また別の日。
    いつものように、おばあちゃんにおしっこに連れてってもらったときのこと。
    おしっこしてるときに、うんちがでそうになったんだけど、私はぐっと我慢した。
    「おばあちゃんは別々に出る方が嬉しいよな、一緒にしたらおもろなくてがっくりするやろうし、お母さんもがっかりするやろし、今は我慢してまた後ですぐおばあちゃんに連れてってもらってうんちしよ。」と
    年齢的にまだたいして話せないだろうに、そこまではっきり思った記憶がある。
    私が人生で初めて「人の期待に応えた」記憶だ。
    おもろいか、おもろくないかにこだわっているあたりが、さすが大阪人だ。
    こんなつまらないことですら、子どもって大人の期待に応えるし、頭の中であれやこれや大人を喜ばすこと考えているんだよね。
    その記憶があるから、子どもが大人を喜ばそうと行動しているのがわかってしまうし、無邪気なふりしてそのような振る舞いをされても
    手放しに喜びきれないものがある。


    もうひとつ、今度は小学1年生くらいの記憶だ。
    私は三人兄妹の末っ子で、小さい時母から、私の食べ方や食べた残しが汚いと言われていた。
    自分の娘を見ていて思うが、娘も私同様に性格がガサっとしてるので、確かに食べ方が汚かったのかもしれない。
    母がそういうと、兄姉までが真似して「マキが食べたあとは汚いからな」と嫌味を言うようになっていた。
    彼らは母の言葉がなかったら「汚い」というジャッジしたのだろうか?と疑問だった。組織の中で一番影響力のある人が発する言葉は、その組織の中では正しいということになることを悲しく感じた。「汚い」という言葉自体が乱暴だが、兄姉2人の価値観は、疑う事なくそれで出来上がっていた。
    大人になって影響力のある立場になったとき、自分は絶対気をつけようと幼心に固く誓った。
    何かを簡単に汚いと表現してしまう事も。

    子どもだから言葉は違うだろうが、その時決意したことの意味はそのようなものだった。
    あの時自分に刻んだ記憶は鮮明で、その後の人生にも流れている。学校生活でも度々そのような場面に遭遇した。
    罪の意識なく、周囲が考えることなく力のある者の価値観に巻き込まれていく、いじめの火種のようなもの。



    私には2つ上の姉がいる。私とは全く性格の違う真面目な人だ。彼女が子育て中、なにかと「汚い」と表現していた。
    甥っ子に対して、手に何かついたら汚い、食べこぼしたら汚い、座ったらズボンが汚れる、土がついたら汚いだとか。
    私は自分に「汚い」という言葉を向けられた時の悲しさを覚えているから、その言葉を聞くたびに心がチクリとし、一緒に小さく傷つくような感覚があった。
    甥が幼稚園の時に、家族でりんご狩りに行った。甥は一切リンゴを触らなかった。
    「どうしたの?」と聞くと、「キタナイからイヤだ」と。
    「リンゴがキタナイから触れないし、食べたくない」と。驚愕した。
    私自身は自然が好きなので、自分の身内からそんな価値観の子が育ったこともショックだった。
    地面に落ちたもの、手についた砂や泥を姉に汚い汚いと言われ続けた末に、ついに野外で木になっているリンゴを汚いと感じるようになっていた。
    店で売っているものはキレイで、なっているリンゴは汚い。
    「売ってるリンゴも元は木になってるんやで?なんも汚くないやん?」と私が言ったところで焼け石に水だ。彼にとって、外にあるもの、地面に落ちているものは汚いのである。
    だから私は、娘に「汚い」とか価値観を決める言葉を極力言わないようにしている。子育ての理論とか立派なこと言う人に限って、自分の子どもには全然その理論ができてない人は悲しいかな結構いるし、実際私もそれがどこまでできているかはわからない。人間誰も子どもにもそんな立派なことを言えるほどに「正しい」人なんていないのは間違いない。

    子どもが踊ったり歌ったりしようとする横で
    「この子ダンス下手だから」「この子オンチだから」と
    我が子に対して平気で言う親にもよく遭遇する。
    幼い子どもに、どんなステップや美声を求めているんだろうか?
    親がダンスや歌が下手なところに巻き込まないで欲しい。

    ちょっと高いところに登ろうとしたり、
    何かチャレンジしようとしてる子に
    「○○ちゃんはできないよ」と、やってみる前に決めつける親もよくいる。
    チャレンジする事すら許可しない。
    明らかに子どもの表情は曇る。
    身体から外に出たがった力が出せないで濁って終わる。
    伸びようとする芽を
    いとも簡単に言葉でポキっと折ってしまう。
    子どもを言葉で縛るのは簡単で、
    私はそれは呪いのようにとても息苦しく感じるんだけど、みんな子どもの頃をすっかり忘れてしまったのだろうか?

    娘は年長の時に、わたしを「お母さん」ではなく「ワダマキ」とフルネームで呼ぶようになった。
    その瞬間に、私も我に返った。
    私お母さんじゃなくていいんだ!ワダマキのままでいいんだ!と。
    「お母さん」という立場から解放された瞬間だった。
    お母さんだと正しくないといけないような気がしていて、常に少なからず自分を削り無理をしていたことに、その時はじめて気づいた。
    自分が言葉に縛られていたということに。
    お母さんだとこうするよねと、育児本にでも書いてるような優しいお母さんを無意識に目指してたこと、今になったら笑える。私全然そんなんじゃないし。

    娘は私をお母さんから6年で解放してくれた。
    あのまま「お母さん」である事を続けずにすんで本当に助かった。
    ありがとう!
    私もなるべくあなたを言葉で縛りたくないと思ってるよ。
    いらんこといっぱい言ってしまってるだろうけど。それは素直にごめんなさい。

    大人も子どもも言葉に縛られずもっと自由にいれたらいいのにと思う。

     
     
    日常の、パッと言葉にできない心に残る感覚を 自分に嘘のない言葉にする練習をはじめました。 ジュエリー作家ワダマキ、ポツリと佇む田舎の古民家をセルフリノベ。 庭にアースバッグハウスのアトリエを建設中!大好きな羊たちと暮らしています。

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