
JAZZと無花果〜その16
白ワインをグラスに注ぎ、出来上がった無花果と生ハムの冷製パスタをキッチンの小さなテーブルに並べる。
木製のスツールに腰掛け向かい合ってグラスを鳴らす。
チーズやハーブを散らすことも憚られるような繊細な味。
柔らかいピンク色の果肉の甘やかさと生ハムの密やかな塩味。
「このパスタ、エロいね」
いつもの唐突な私の言葉に慣れてるはずの彼が、それでも思わず吹き出す。「どゆ意味?」
「なんかね、どかーんと塩味とかスパイスとかガーリックとかじゃなくて、食じゃない部分を刺激するのよ。イキそうでイケないような微妙なとこ。名付けて脳イキパスタ」
ワインが空になったらジンに氷を浮かべる。
昔と同じようにグラスを片手に微笑み合う。
Spotifyはあとからあとからまるで二人の長い時間を知り尽くしているかのようにお気に入りのジャズを選んでくれる。
流れ出したのは私のお葬式に一番相応しいと彼が決めたビリーホリデイ。
どんな明るい歌を軽やかに歌っても、どこかに流れる悲しみが彼女の声の色だ。
誰にも真似できなかったくらい
あなたを愛してあげる
雨が降ろうと晴れようと
山のように高く河のように深く
雨が降ろうと晴れようと
「全部、川に流されていくだけなんだよ」
清濁の全てを包み込むかのような優しい歌声に目を閉じながら彼は言う。
私は笑う。
「違うわ、川に流されてるつもりなだけであなたは本当は沼よ。
何も流れてない」
「そうかな」
「そう、沼底に色んなものを溜め込んだままなのよ」
「そうか、じゃ沼底掃除しなきゃ。アメリカザリガニとかいっぱい獲れるかな」
昔あの木造のアパートの狭いベッドで抱き合って聴いたのと同じ音なのに、その調べに絡まる想いや声にならない言葉はもっと深く重たい。
遠く離れた場所を流れてきた二人の人生の流れが一つになって、今また二人の想いがぴたりと重なり合ってしまう。
生涯を通し魂と魂で深く結ばれたと言われるビリーホリデイの声とレスターヤングのサックスのフレーズがまるでひとつの呼吸となって絡み合うかのよう。
High as a mountain
Deep as a river
Come rain, or come shine
飲めば飲むほどに降り積もる胸の想いは決して甘くはない。
不意にグラスをテーブルに置いて彼は私を両腕でしっかりと抱きしめてこう囁いた。
「これがジャズだ」
けれども年月は残酷だった。
まるで昔と同じようなのに抱かれるたびに私はそのまま死にたくなるような悲しみを覚えた。それはまるで廃墟に抱かれるような悲しみだった。
かつて二人で見た夢がそこに映し出されているのに、それは幻のようでどうしても触れられなかった。
確かに愛があるのに高い天井から宙ぶらりんのままだった。
そして埃まみれの床に打ち捨てられた彼の魂はまるで残骸のようだった。
肉体は少し年老いただけだったのに。
その虚しさが肌を通して私のからだにまで浸透していくかのようで、愛されれば愛されるほどに私の内部まで滅んでいくかのようだった。
傷を癒してあげたい、最初はそう願っていたのにいつしか私はすっかりそれを諦めていた。
むしろその廃墟の美しさに一層焦がれ、いっそ一緒に滅びていきたい誘惑に限りなく傾いていくようだった。