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【小説】太った人 3.7万字

     窓から光が入ってきて僕は目が覚めた。彼女はすでに起き出していて、コーヒーを淹れてくれていた。気持ちのいい光とコーヒーのいい香りで目が覚めたというわけだった。コーヒーを淹れる、シンプルな、上下ピンク色の可愛らしいパジャマ姿の彼女はとても素敵だった。

     ピンク色のポリエステルのパジャマからとても白くて肉づきのいい腕と足が出ているのも僕の中で来るものがあった。

     僕は太っている人が好きだ。なぜなら昔に太った人を好きになったことがあるからだった。その人は決して僕の手の届かないところにいつもいて、どうしようもなくその人と一緒にいたかったけれど、僕が何もできずにいるうちにその人はどこかへ行ってしまった。

    「あなたはいつもそうやって眠っているのね」

    彼女は可愛らしい、素敵な微笑みを浮かべて言った。

    「また、そうやって私を映画館みたいにしてその人を思っているの?」

     彼女はピンク色のパジャマをするりと脱いで着替えを始めた。今日は遊園地に一緒に行く約束の日なのだった。彼女も僕も遊園地は特に好きじゃない。それでも、彼女と行くとどこだって素敵な場所になってしまうのだ。

     彼女の白玉みたいな肌は白色の中にピンク色や青色が入っていて淡い夢の空を思わせた。その空の下には向こうまで静かな丘が広がっていて、彼女はこちらを見て、見たあと歩いていって消失点と同じ大きさになるところまで行ってしまうのだった。

     彼女はベージュのニット生地のワンピースに着替えた。体にぴったりと薄いニットが貼りつくように沿っていた。僕は彼女の体について結構詳しかったから、その布の下にある柔らかい腹や尻を手にとるように思い浮かべることができた。

     それから彼女は軽く化粧をし、最後に金色のピンを横髪につけた。彼女の真っ黒な髪にその色がよく映えていた。彼女は自分に一番似合うものをよく知っているのだ。彼女がいろいろと身につけていくようすを僕は嵐の中でわけも分からないままものすごい風に吹かれているみたいに眺め続けた。

     何をしているんだか、と彼女は僕の頭の上のほうから見下ろす格好で言った。僕はこのままではさすがにいけないと思い、乗らない気分を今回は完全に無視することにし、ベッドから急いで出て、シャツとズボンに着替えて髪をとかした。

     僕はよく顔を人に褒められる。髪をとかすときは鏡を見るから思い出してしまう。全員に褒められるような顔ではないけれど、褒められると嬉しくなる人に褒められるのだ。僕は見た目なんて、と思っているから髪はぼさぼさでも分け目から短い髪が立っていたりしても構わないのだけれど、いつも目とか鼻なんかが最終的に何とかしてくれるのだった。

     僕たちは彼女の淹れたコーヒーを飲み、流しにマグカップを置いた。今日の間をここで過ごすマグカップのことを少し思ったけれどさすがにそんなことはくだらなすぎた。そして僕たちは外に出た。彼女は透明なサンダルを履いた。そのサンダルはかかとが少しついていたけれど音を立てずに歩くことができるサンダルだった。

    「薬は飲んだ?」彼女が聞いた。

    「飲んださ」僕は答えた。
     
     遊園地で僕たちはまず食べ物を売る店の前のテーブルに座ってジュースを飲んだ。

     彼女も僕も近くで音を立てながら走っている乗り物に乗る気が起きなかった。もともと興味がないのに来てしまったのだと改めて思った。やることがないと時間は思ったよりゆっくりと過ぎていくみたいだった。彼女と話をしたかったけれど、話はしようと思ってもなかなか始まらないもので、ぽつりぽつりと話は泡みたいにすぐに消えてしまった。

     僕は何か、話をしようと思って先ほど思ったことを言ってみた。

     つまり、僕たちは遊園地に興味がなかった、ということ。

    「そうね」と提供された話題に対して彼女はつまらなそうに言った。こんな、話したくもないことを口にするべきじゃなかったのだ。それでも、それではもっとよくないと思って僕は話した。

     さすがに退屈なので僕たちはジェットコースターに乗ってみた。ジェットコースターというものは憂鬱な影を持っていて地面に落ちていくときはどうしても死のことを考えさせられてしまう。それでもジェットコースターは意外と面白いものであるようで彼女は笑顔になった。僕も笑いたいわけではないのに思わず笑ってしまった。

    「もういいわ」と彼女はジェットコースターのスペースの出口のところで言った。それから観覧車のほうに顔を向けて言った。

    「楽しいのはもう満足したの。次はあれに乗りましょう」

     僕たちは観覧車に乗り込み、ゆっくりと上へ上がっていった。僕たちが乗った観覧車は窓がハートの形になっていて可愛らしかった。

    「私はどこへ来てしまったのかしらね」

     観覧車が一番上に行くまでの途中で彼女は言った。真昼の太陽が差し込む中でそう言ったせいで、彼女がどんな気持ちを乗せてそう言ったのか分かりづらくなってしまった。

     春とはいえ、夏を思わせる真昼の暑い気温によって彼女の白い、丘みたいな頬がピンク色に火照っていた。

     やがて観覧車は下っていって、僕たちはすでに定位置となった先ほどのテーブルにまた座った。

     しばらくして彼女はアルコールが飲みたいと言って席を立ち、プラスチックのカップのふちにレモンが差さっている綺麗な色のカクテルを両手に持って戻ってきた。

     そのカクテルにはアルコールはほとんど入っていないような味で、僕は少し昔好きだった人のことを思い出しかかってしまったけれど、すぐに景色は目の前の遊園地になった。

     彼女もよほど飲まない限りアルコールなんか効かないのでどこにも行くことはできなかったようで、いつものあくまで素敵な笑みを浮かべて飲んでいた。

    「私、どこにもいくつもりなんてないのよ」

     彼女はにっこりと笑って言った。

    「私はここでステップを踏んでるの」

     テーブルの上で軽く組まれていた、彼女の手の柔らかそうな人差し指にはまっている無色透明な指輪がきらりと光った。

    「それはとっても楽しいステップなの。あなたと踏むと心地がいいの」

     彼女は今でもそこでステップを踏んでいる。とても楽しげに、軽やかに。彼女は誰の真似でもないステップをすでに会得し始めており、僕はいつだって不意に驚かされてしまう。
     
     あるとき、アパートに帰ると真っ暗な部屋で彼女はソファに座っていた。

     何となく明かりをつけないままでいるほうがいい気がしたので暗い部屋の中、僕は手探りで彼女のそばまで行った。床にはジャケットとか充電ケーブルとかその他いろいろが落ちていたから僕は踏んづけないように注意深くそろそろと歩いた。

     彼女は泣いているようだった。暗かったからよく見えなかったけれど、泣いているときに出る鼻をすする音が聞こえた。

     女の子はよく泣くものだって小説で読んだことがあるな、と思い出した。思い出したけれど、思い出したところでどうでもいいことだった。ほかの女の子のことは知らないし、ほかの女の子と彼女は関係がないことだった。

    「待って、待って」と彼女はかすれた声で言った。気配で少し笑っていることが分かった。笑おうとしているのだ。

    「ちょっと待っていてね」

    「何も急ぐことなんかない」と私は彼女の隣に座って言った。本当にそうだったからだった。「このためにほかのことを急いでいるみたいなものだからね」

     彼女はソファの前のローテーブルに置いてあるティッシュをとって鼻をかんだ。冗談みたいな大きな音を立ててかんだのだけれど、彼女は少しも笑わずにかんだ。

     僕は彼女に近づき、彼女の肩に頭を乗せて待った。彼女の肩は柔らかくて気持ちがよかった。僕たちは長い間そうやってソファに座っていたけれど、夜は長いし、夜の時間はゆっくり進むものだから問題はなかった。それに夜は始まったばかりだった。必死に探したってどこにも問題は見つからないだろう。

     彼女は落ち着くまでに何回か静かに笑った。何に対して笑っているかは僕に理解するには難しい問題だった。でもそれは、少しも笑わずに大きな音を立てて鼻をかむことと同じくらい素敵な問題だった。暗くて静かな部屋は彼女の静かな笑い声はよく響くみたいだった。
     
     その日、僕はチョコレートと花束を持って家に帰った。何かの日、ということはなかった。その日は仕事(アルバイトではあるのだけれど)も上手くいったし、久しぶりにいらいらとせずに電車に乗ることができたのだけれど、何かの日、とする理由には少しささやかすぎた。僕は彼女に感謝していたのでただそれを表現してみたくなったのだ。

     僕は鍵を忘れてきてしまった。だから訪問者としてチャイムを押した。しばらくして熟練された、空気を動かさないように注意した動きみたいにドアが音もなくすっと開き、彼女が顔を出した。

     彼女は出さないように努めていたけれど、疲れがどうしてもにじみ出してしまった顔をしていた。それでも彼女は疲れた顔の上に笑顔を重ね、奥行きのある顔を作ってみせた。彼女の手にかかれば疲れも素敵なもののために活用されてしまうように思えた。

     家の中はいつもより状態が悪いようだった。フライパンには食べかけの炒めものが入っていたし、シンクは十人ぐらいの人間が食事をして帰ったあとみたいに食器で溢れ返っていた。ごみ箱はさまざまなもので山盛りのポップコーンみたいにいっぱいになっていたし、いつも以上に床にはものが落ちていた。

     僕は一歩歩くたびに床に落ちているペットボトル、ビニール袋、服、鞄なんかを避けるために、間抜けなダンスをするように歩かなければならなかった。それでも、僕はそういうものの間にアダプターが落ちていることを知っていて、しょっちゅう踏んづけていたおかげで踏めば痛いことも知っていたので踏んづけないように注意しながら花束を抱えて、そろそろとダンスを踊った。

    「もう夕食食べちゃったわ。でも一緒にお酒飲めるわね、飲むでしょう?」

     金曜日でよかった、と思った。僕は曜日関係なく働いているので忘れがちになってしまうけれど、彼女のようにまともに働いていれば平日は疲れているものなのだ、ということを思い出した。今日がたまたま金曜だっただけで、僕は特に考えもなく帰ってきたのだった。

     彼女はどこからか花瓶を取り出してきて花束を差し、モスコミュールを作ってくれた。床に落ちているものを慣れたようにするすると避けながらキッチンまで行ってライムを切ってくれた。彼女はよく疲れきっているけれど、お酒が好きなのでささやかな特別なときにはライムを切ってくれるのだ。

     モスコミュールを二つ作り、皿にチョコレートを開けて僕たちはベランダに出た。梅雨が明け、やってきたばかりなりに夏は夜もよく暖めていた。これからじきに夜でさえ空気は暑くなるだろう。

     でもまだ、冷房の効いた部屋と外とを行ったり来たりすることは涼しくなったり暖かく感じれたりして気持ちのいいものだった。僕たちは幅の狭いベランダで並んで立って酒を飲んだ。チョコレートをかじると甘い蜜が舌の上にとろけた。

     向こうにある道路から車の走る音が染みるように響いていた。まだ暖かい風がゆっくりと吹いて彼女の黒い髪が夜の暗さの中でしっとりと揺れた。

     そういえば以前は髪が長かったな、と僕は思い出した。そのしっとりとした黒い髪が背中の真ん中あたりまで垂れて揺れていた。服を脱ぐと髪の下には真っ白い砂漠の丘みたいな起伏があった。僕はその起伏を眺めていると、子どもの頃にあぜ道を歩き続けたような穏やかな気持ちにさせられたものだった。

    「何かできないかしら」

     いろいろなことをぽつりぽつりと話し始めたあとに彼女はそう言った。これから話は楽しい方向へ向かっていくところだった。彼女に喜んでもらいたくて贈ったチョコレートを食べながら話す話じゃないな、と胸のうちで可笑しくなった。「ねえ、そろそろ何かできないかしら?」

    「別に今の働き方で全然構わないのよ。あなたにも思うことがあるのはよく知っているもの。あなたは意味のない行動をよくしたりわけの分からない冗談は言うけれど、こういうことではあなたは理由もなく私に不便な思いはさせない人だってことは知っているわ。あなたが前の仕事を辞めたときだって、私たちはよく話し合ってあなたはあなたの気持ちを説明してくれたもの。あなたのペースでいてほしいと思ってるの。これは本心から言っているのよ。決して今のあなたにもっと働いてほしいっていうわけじゃないの。あなたが働かなくたって私には何の問題もないのよ。私は大した仕事に就いているわけじゃないけどあなたも私もそんなにものを買うほうじゃないでしょう?でも……」

     彼女はそこまで言ってグラスから一口飲んだ。氷が人知れず鳴った風鈴みたいに小さく音を立てた。

    「私たちは二人で生活しているの。このアパートだってあなたと二人で暮らすために借りたんでしょう。だから私のことをもっと、ちゃんと考えてほしいの。自分でも分かってるの、こんな状態よくないって。このぐちゃぐちゃな家の中を見たでしょう?私一人では上手にやっていけないのよ。あなたの助けが必要なの。もうこんな風に考えるのはちょっと疲れちゃった。あなたは毎晩どこをほっつき歩いているの?あなたは公園だか駅だか、漫画喫茶なんかで寝てるっていうけど、そんなの信じるには今日みたいな日は疲れすぎているわ。そういうのもう普通に嫌なの。だから、ううん」

     彼女はまた言葉を切って、手に持ったグラスを見つめた。

    「こんなこと言いたくないわ」

    「ごめんね」と僕は言った。

    「ごめんね。でもそこらへんで寝ていたのは本当だったよ。ほか女の人とかのところには決して行ってないよ。本当にごめんね、それに僕はもうちょっと家のこと、手伝うべきなんだよ。でもちょっと無理なんだよ。僕はもう子どもじゃないんだ。できないことをすると自分が壊れることを知ってるんだ。でもよく休めば良くなることも知ってるんだ。一番いい方向へ君と一緒に行きたいからさ、今は休ませてほしいんだ」

    「分かってるわ」と彼女は向こうの道路のほうを見て、自身に言い聞かせるみたいにつぶやくように言った。

    「あなたが私に嘘をつかないのは知っているわ。決して私も傷つけたいわけじゃないってことも。ごめんなさい。大丈夫よ。あなたはよくやってくれてるわ。壊れちゃう前に壊れる壊れるってすぐに私に報告してくれるもの。あなたが本当に壊れることが私にとって一番悲しいことだもの、今は辛抱するわって言いたいところだけど、結構問題なかったりするのよ。毎日楽しいのよ。きっと仕事のストレスとお酒のせいね。さっきまで私は何に不満を言ってたのかしら。未来は明るいほうへ向かっているっていうのにね。お酒だわ、お酒が切ない気持ちにさせたんだわ」

    「本当にごめん」と僕は謝った。

    「分かった、分かったからもう謝らなくていいわ。何回同じこと言われても変わらないもの。それよりこちらこそごめんなさいね、楽しいお話をして、それから映画でも観ない?」

     彼女はそう言って楽しい話を始めようとした。しかし、僕たちは口をぱくぱくさせて他愛のない、日々のことについてつぶやくように報告し合っただけだった。電車に変な客がいたとか、道を歩いていたら猫がいたとか、そういうことだった。

     楽しい話というものは始めようと思っても始められないものだった、ということを再確認し、楽しくなったのは気分だけで終わった。

    「さ、映画でも観ましょう。一本観て、気が乗れば二本ってやつよ」

     そう言って彼女はベランダから中に入っていった。中へ入っていく彼女の背中は自身の楽しさを全然表現できずに、不完全燃焼していた。でもいつだってこういうときは思い通りにならなかった気がしていた。そういうものかもしれなかった。僕は「そういうもの」がいるとすれば一発どついてやりたかった。

     映画は面白かった。彼女が以前から何となく気になっていたという、映画好きが好きそうな映画だった。美しい絵画になりそうなシーンがたくさんあった。静かなシーンが多く、登場人物の心情が丁寧に描かれているような映画だった。でも正直に言うと、僕は全然共感も、理解もできなかった。まるで何かのセミナーの教材映像を観ているみたいだった。心情セミナー教材映像としてはとても面白かったということだった。

    「とっても面白かったわ」

     彼女はエンドロールが終わったあとしみじみと言った。僕は自分があんまり面白くなかったから彼女も面白くなかったんじゃないかと思ってしまいそうになる。彼女といると僕はとても心地がいいのでつい自分が感じていることと同じことを感じているんじゃないかと思ってしまうのだった。彼女がどう感じているかは分からなかった。僕はその映画について何も上手く喋ることができないし、つまらなかったよ、なんて何かに対してあまり言いたくなかった。だから彼女に聞くことができなかった。

    「でももう一本観るという気分にはならなかったわ」

     彼女はそう言って空になったグラスとチョコレートが入っていた皿を持って立ち上がった。それから僕たちは並んで溢れかえったシンクを片付けた。僕が洗って、彼女がふいていった。とても疲れることだった。そんなことやりたくなかった。でも彼女に認めてもらいたかったので僕は頭と手を切り離して食器を洗っていった。白目をむくイメージでやればいけるかもしれない、とくだらないことを考えながらやっていたらそのうちに終わっていた。時間が解決してくれたのだった。

     夜の真ん中あたりぐらいになったとき、僕たちはベッドに入った。まだ楽しい話はできていなかった。今日はそれを意識しすぎているのかもしれなかった。

    「おやすみなさい」

     隣から彼女の声が言った。暗い部屋の中で彼女の影だけが見えた。

    「おやすみ」

     僕は彼女の髪をなで、眠ることにした。

     

    「どうせ死ぬならさ、おれのそばがいいよ」

     夜にふらふらと駅前を歩いていたら彼と会ったので居酒屋に入った。彼は十二杯目のビールを飲みながら言った。死んだほうがいいよ、と僕の頭の、ちょうど陰になっている部分が解釈してしまったせいで、僕はその言葉が耳にしばらく残ることになってしまった。僕の耳は分かりやすくできているのだ。

     やつがそう言った主な原因は酒の飲みすぎだった。彼がそう言った直後、僕はやはり死ぬべきなんじゃないだろうか、と思ってしまった。考えは僕のコントロールが効かなくなって横道をぐんぐんとそれていって、呼びかけても夢中なようすで行ってしまった。

    「おれが一番君のよさを知っているからさ」

     と、酒がはがしていったやつの理性の、一番下から出てきたものがやつの足りなすぎる言葉を慌ててフォローした。立派な助手がいなかったらやつは今頃世の中に勘違いされたままであったに違いない。

    「おれは思わないけどさ」と助手を押さえつけてやつが言った。「君って絶妙に目障りだなあって思われない?」

    「思われているかもしれないな」と僕は言った。人の思っていることなんて何も分からなかったからだった。馬鹿が言ったみたいな答えだった。

     断っておくけど、とやつの助手が前置きした。「おれは君のことが大好きさ」

    それから「君はさ」とやつが喋り始めた。ビールがつけた勢いで僕なんかではとても止められる勢いじゃなかった。

    「君ってさ、何かほかの、本来の人生があったみたいに見えるんだよな。何か手違いで取り違えられてしまったみたいにさ。本来の人生では、君はすごい上手くいっていたんだ。その人生では本当に心から楽しそうに君は笑っているんだよ。君ってなんだかそういう、本当は心から笑うはずだった男っていう風に見えるんだよな。それで心から笑っているはずだったのに駄目になってしまって、それでも頑張って笑おうとしているみたいに見えるんだ。でもそろそろ笑えなくなるなって感じ。
    君はよく笑う男だけどさ、いやあまり笑わないけどさ、とにかく楽しもう楽しもうってするよな。とても素敵なことだしおれも君のそういうところが最高で大好きだけどさ、何だかそういうのって消し炭みたいに見えるよ」

    「消し炭かあ」と僕はつぶやいた。

    「おれはどうにかできないかと悲しくなっている」

     またやつの助手が出てきて言った。くるくると交代するので結構やかましかった。

    「困ったなあ」と僕はまたつぶやいた。「あまり消し炭だと人に思われたくないなあ」

     そのあともやつはいろいろと何か言っていた。言っていたけれどもう忘れてしまった。やつも全部忘れていた。僕たちは道路の脇のちょっと草が生えているところにげえげえゲロを並んで吐いた。やつは吐いている最中も隣でいろいろ言っていたけれど、僕はそれどころじゃなかった。吐いたらすっきりしていろいろ言っていたことは全部忘れてしまった。

     やつは口が達者なうえに悪い。しかも真摯に、オリジナリティ溢れる悪口を言うことができるので、雑な悪口より僕の心に刺さってきた。思わぬ柔らかいところを刺さってくる感じだった。でも、彼といると不思議なことに悪い気持ちにならなかった。やはり僕のことが好きなのでどうしてもそれが出てしまうのだろう。僕も彼は平時は落ち着いていて思いやりのあるやつだったから一緒に酒を飲むととても楽しかった。
     
    僕は家に帰ってさっそく彼女に顛末を話した。もう路上とか、そこらへんで寝泊まりすることはやめた。僕は拾ったものを見せる犬みたいに家に帰って彼女に話したいことを話した。結構そうやってすることは楽しいことだった。

    「消し炭だとさ」

     彼女はノータイムで僕を慰めてくれた。彼女はとっても優しかった。心から慰めてくれた。本心からの優しさは彼女の努力によるものもあったけれど、生まれながらの本物の才能があった。それが地面になっていたから、どう振る舞っても優しくしてしまうことができた。

    「確かにね」と彼女は言った。「あなたは消し炭に見えるかもしれない。だとしたらずいぶんと消し炭って素敵なのね?」

    「君の発想はいつも僕を驚かせてくれるね」

    「そうだからそう言っているだけよ」と彼女はソファにどすんと腰掛けながら言った。手には冷えた缶ビールがあった。それは冷凍庫できんきんに冷やされていたビールだった。まもなくいい音が鳴るだろう。その音は彼女との時間に全身が完全に入りきったことを僕に感じさせてくれる音だった。彼女以外の、外の世界は完全に玄関ドアの向こうの出来事になってしまったのだ。―プシュ!

    「気にしなくっていいのよ。あなたって素敵な人だもの。私にとって、ではなくて誰にとってもね。思いやりがあってみんなそう思うと思うわ。いればいいっていう言葉があるけれど、あなたはいるだけじゃないし」

     彼女はごくごくと喉を鳴らしてビールを飲んだ。いい具合に両目を寄らせて飲んだのでそのビールはとても美味そうに見えた。

    「その脳みそが空っぽの馬鹿よりはましじゃない?」

     彼女は大きな一口目を飲んだあとぷはあと気持ちのいい息を吐き、そう言った。
     
     彼女は結構太っているけれど、食事の量は大したものではない。彼女がなぜそんなに太っているのか僕は不思議でならない。

     彼女はその太っている体のことを例えば恥ずかしく思ったりすることはない。そこらへんを歩いているとても二の腕や腰、尻が小さい女性を見たとしても彼女の感情が揺れ動くといったようすはない。きっとそういう気持ちは遠い過去にすでに置いてしまったのだ。僕は彼女のことがとても好きだけど、もし彼女の中にそういう、引き目といったものを目撃してしまったとしたら僕は少し嫌な気持ちになるかもしれない。現在の彼女にはそういうものがなかったので僕はとても助かっていた。彼女は完璧だけれど、過去の彼女は別の人間のようなものかもしれない。過去の彼女は現在から見れば不完全なのだ。僕は過去の彼女について知りたいと思えなかったので「どうでもいいよ」という姿勢を基本的にとっていた。知るのが怖かったのだった。

     彼女は大した量を食べないのだけど、決して食事をとることは忘れなかった。食事をとるときは必ず多すぎる、といった量はとらないけれど決して少ない量はとらない。どんなときでもとる。どんなに忙しくても、怒っていても、悲しいことがあっても彼女の食事が臨時休業をとることはない。

     僕は彼女との付き合いが長いので、何回かそういった場面に遭遇した。つまり、彼女の悲しげな食事シーンということだ。基本的には、彼女は自身の気持ちを落ち着かせているので彼女の食事風景は穏やかなものだ。
     その日の彼女の四割は怒りと悲しみと疲れでできていた。あとの六割が懸命になだめようとしたのだけれど、ついに仕切りは壊れて彼女の中に溢れ出してしまって浸水してしまった。彼女は溢れ出したものが持ってきた汚い泥の上に座っているみたいだった。

    「仕事で嫌なことがあったの」

     彼女はそう言った。そう言いながら米を炊き、肉と野菜を炒め、味噌汁を作った。立派なものだった。

    「仕事でね、嫌なことがあって。決して誰かに人格を否定されたわけではないの。でも、そういえば私はこういう人間だったんだわって思い出してしまう出来事があったの。最近は上手くやっていたけどそんなの運よく誤魔化すことができていただけだったんだわって。そう思ったら昔の嫌な思いをした出来事もどんどん思い出してしまって。やっぱり私なんかやっていけないのよ。強くなきゃ人生なんか生きていけないもの。私は強い振りをしていただけだったんだわ。そんなもの、とっくにみんな見抜いていて、いずれ暴かれるものなんだわ」

     彼女はそう言いながら泣き出してしまった。大きな目が水晶みたいに膨れて、あっと言う間に弾けた。大粒の涙がぽろぽろと食卓に落ちた。
    「君は強いよ、大丈夫だよ」と僕は彼女に言ったのだけど、言葉は僕じゃない誰かが言ったものみたいで、誰にも届かないものとして虚しく響いた。なんだか間違ったことを言っているように思えた。彼女は強い女性ではあったけれど、弱いところもある女性でもあった。弱い部分に関していえば、この厳しい世界を生きていくには問題ないと言えるものではなかった。

    僕は食欲がなかった。彼女は二人分の夕食を用意してくれたけれど、食べることもできずにソファに座っていることしかできなかった。

    「ごめんなさい。放っておいたらもとに戻ると思う。あなたを困らせたいわけじゃないけど、必要以上に自分の気持ちを抑え込みたくはないの。だから放っておいて大丈夫よ。それにこういうの、初めてじゃないから知っているの。今はそんな気は全くしなけど、ほっとけばそのうち戻ることは知っているの」

    僕は気のきいた言葉は言えなかったけれど、彼女は僕の言葉を必要としていないようだった。彼女は自身で回復する能力を心得ていた。

     彼女は涙を流しながらものを食べた。興奮して口に詰め込んだり、もそもそと背中を丸めて悲しそうに食べることもなく、普段と食べる姿勢を一切変えずに食べた。背中から見れば、慎ましく暮らす女性のささやかな夕食だった。ただ、前から見れば顔はとっても悲しそうだった。それでも彼女の手と口は「そんなことをものを食べるのに影響させるのはよくない。我々は働くんだ」とでも言うかのようによく動いていた。悲しそうな顔と勤勉な食事要員たちに挟まれて彼女はとても忙しそうだった。

     僕は彼女に何をもっと言えただろうか、と考えた。「君は弱いところもあるけれど、僕がいるじゃないか。ぼくが一緒にがんばるよ」と言えればよかったか。それだと彼女と一緒に会社へ出勤することはできないしなあと思った。

     せめて楽しい話を彼女の対面に座って話してやれればよかった。全てをどこかへ押し去って空気を明るい色に塗り替えてしまうような楽しい話ができればよかった。でも例のごとく、僕にはそんなことできなかった。対面に座る気力もなかった。ただ、ソファに座ってぼんやりと考えごとをしようとしていただけだった。

     その夜、僕はベッドで天井も眺めながら彼女が作ったパイについて考えていた。あるいは彼女が作らなかったパイについて。何だってパイのことなんか考えていたのかは分からない。彼女は料理をよくするけれど、パイなんかは作ったりしない。

     それは空想のパイだった。それか昔、映画で観たパイを彼女と重ね合わせたのだ。
     

     その日は電車に乗っていた。彼女と二人で出かけたのだ。外には夏がやってきていて、立っているだけでいらいらしてしまうような暑さがあった。そんな日に一人では決して出かけたりなんかしないけれど、彼女がどこかへ行きたいと言うので僕もどこかへ行きたくなった。

     電車にはたくさんの人がいたので僕たちはずっと立っていた。それは土曜日の昼頃で、どこかへ向かうことを楽しそうにしている人たちがたくさんいた。そういえばそうだったな、と思い出した。僕があまり気にしていなかっただけで週末の人々はとても楽しいものだったのだ。週末でなくても、週末がそういうことができるものなだけで人々はこんなにも本来は楽しいものだったのだ。僕は心に穏やかな風が吹いていくのを感じた。車内はみんなささやくようにお喋りし合っていて、ささやきは重なり合い、心地よいざわめきになった。ほどけた空気が流れていた。誰かの赤ん坊が泣き出して、数人が穏やかに微笑んだ。いろいろな音が鳴っているなあ、と僕は思った。だから僕は声のボリュームを上げて言った。

    「どうしてこんなに音が鳴っているんだろうね?」

     隣でつり革につかまっていた彼女がわずかに眉間をひそめた。そういうものだろう、と僕は気にしないで喋った。

    「どこかへ行きたいだなんてさ、僕はずいぶん前からずっと思っていた気がするよ」

     彼女は眉間にしわを寄せながら小さく相づちを打った。その日はあまりそういうものが気にならなかった。

    「今日これからどこに行くかは適当に決めるさ。思いのままにさ、君と僕で一番心地がいいところへ行こう。そんなところ行ったってたぶんどうにもならないけどさ、とにかくこんな楽しい車両に乗っているんだから何駅かすればきっといいアイデアが思いつくさ。君と僕はずっとそうやってきたんだからきっと大丈夫さ。そうだなあ、今日は暑すぎるからカフェにでも入ろうか。本当はテラス席がいいけどさ。そこで綺麗な色のお酒でも飲んでさ。僕は上手く喋れないけど、何も話さなくたっていいんだ。君の顔を見ながら何か飲めればいいんだ」

    「うるさいわよ」と彼女は小さく言った。「いろんな人が見てるわ」

    「いろんな人が見てる?」僕は言った。「そんなの気にするなよ」

    「私が恥ずかしいのよ」

    「ごめん。もう一回」

     よく聞こえなかったので僕は聞いたけれど彼女は前を向いて黙ってしまった。今日の僕は確かにおかしい気がしていたけれど、少しおかしすぎたかな、と思って僕もおとなしく黙った。

     ほどなくして駅に着き、ドアが開いた。ドアが開いたところで彼女は僕の腕をつかんで引っ張っていった。僕は引っ張られるままに彼女についていった。

    「暑すぎておかしくなっちゃったの?」

     ホームに降り、彼女は僕の顔を見上げて苦笑した。

    「あなたって生まれる前は詩人かミュージシャンだったんじゃない?きっと詩をたくさん書いていたのよ。それで、今でも作ろうとせずにはいられないんだわ」

     なんだか今さら恥ずかしくなってきた、と僕は言った。きっと暑くて興奮していたのかもしれない、と。

    「面白い人」と彼女は言った。彼女の頬は電車の中でよく効いていた冷房のおかげで白く、さらさらとしていそうだった。でも、じきにピンクに色づき始める頬だ。十分か十五分経ったら、の話だ。

    「そうね、どこかカフェにでも入りましょう」

     余韻を取るように何秒か経ったあと、彼女がそう言ったので僕たちは出口に向かってホームを歩いていった。

     
     あの人はどこかへ行ってしまった。一体どこへ行ってしまったのだろう。その人は僕が何をしたらいいか分からずに、何もできないでいるうちに煙が流れていくみたいに気づいたら僕の前からいなくなってしまった。

     僕はその人のことが好きだった。その人は太った人だった。白くて柔らかそうな肌をしていた。その白の中にピンク色や水色が淡く入っていて、僕はその淡い色の中でその人と丘の向こうへゆっくりと歩いていく夢を見たものだった。丘の上の空の色がその人の肌の色だったのだった。

     その人は間接照明みたいな人だった。広い、暗い部屋の向こうのほうでぼんやりと光る間接照明のようだった。僕はあてもなく電車に乗っていって適当な街で降り、ふらふらと歩いていたらその、地下にあるレストランの暗い入り口に吸い寄せられてしまったのだった。そのレストランは不思議な力を持った空間だった。きっとその不思議なものが地上の入り口からわずかに漏れ出ていて、僕みたいな人間を虫みたいに引き寄せてしまうのだ。

     給仕係のものがいなかったので、僕は適当に空いているカウンター席に座った。店内はあまり客が入っていなかった。そもそもそこはレストランだったのだろうか、と聞かれると本当はそうではなかったのかもしれない。僕はしばらくぼんやりしていた。しばらくぼんやりしたら、何か飲みたくなった。店内を見回してみると隅にカクテルや氷、量りやシェーカーが用意されているスペースがあった。どうやら各自で飲むものを用意する店らしかった。

     僕は飲みたいものが特になかったので、ハイボールを作った。作っている間、店内はまばらに座っている客のささやくような話し声が静かな部屋の窓から入ってくる風みたいに聞こえるだけだった。僕は店内の何枚も薄い幕がかかった暗闇に自分が溶けてしまうように思った。

     そこでは誰も僕に何も言わなかった。人間も、壁も、暗闇もみんな黙ってそこにいた。僕に興味を示すでもなく、示さないでもなく、ただそこに存在しているだけだった。

     ハイボールを少しずつ飲みながらしばらく席で過ごしていたら遠くの薄い暗闇の中、ぼんやりと光るものが見えた。あれは間接照明だったのかもしれないけれど、あまりにもぼんやりと光っているので僕にはよく分からなかった。そのぼんやりとした光を眺めていると光の中からゆっくりとこちらへ近づいてくるものがあった。それはゆっくりと、でも確かにこちらへやってきて、やがて僕の隣の席に座った。

    「あなたもやってきてしまったのね」

     その人は僕の隣からそう言った。暗闇の中でその人の顔がうっすらと見えた。手首につけられたものがわずかにきらりと光った。

     またなんだろうか僕は、と僕は言った。何を言うべきか分からなくなってしまったからだった。僕は暗闇に溶けかかっていた。

    「あなたみたいな人がたくさんここへ来たわ」

     その人はそう言った。その人の前には何か飲み物が入ったグラスが置かれていた。暗闇のせいで飲みものが何色なのかよく見えなかった。

    「あなたはどんな人なの?」

     その人は言った。僕はものを考えるのにしばらく時間が必要だった。

    「ここにいるのが僕で……」僕はそこまで言って首を振るように言葉を切った。「違う、そうじゃないんだよ、ごめん」

     彼女は何も言わずに待っていてくれた。こちらに顔を向けているのだけが暗闇の中にある形で分かった。なんとなく微笑んでくれているような気配がした。

    「そう言いたいわけじゃないんだ、そう言うべきじゃないんだ、僕が、僕は形づくっていて、その形があるはずなんだ。確かに僕は存在しているはずなんだ。それを君に説明したいんだ。説明しなくちゃいけない」

    「ゆっくりでいいのよ」とその人は静かに言った。水面のわずかな揺れみたいな言い方だった。「ここでは時間がゆっくりと流れているから安心していいのよ」

     僕はしばらく黙っていた。本当は話すことがなかったんじゃないかと思えるくらいの静寂があった。それでも静寂は僕に説明することを静かに迫ってきた。そう迫っているのは本当は僕自身だったかもしれなかったけれど、それはどちらも同じ意味なのかもしれなかった。どちらでもいいことだった。

    「僕には何もないような気がするよ」

     僕は喉の奥から押し出すみたいにようやくそれを言った。

    「上手く話せないのね?」その人が言った。僕は何かを言おうとしたけれど、自分の喉の奥から出てくるものに押し潰されてしまいそうだった。

    「大丈夫」とその人は言った。

    「あなたは何歳な人なの?」

     その人は僕に聞いてくれた。僕は自分の年齢を言った。

    「家は持ってる?」

    「自分の家は持っていないけど、賃貸のアパートに住んでいるよ」

    「犬は飼ってる?それか猫?」

    「昔、犬を一匹飼っていたよ。大きな犬だった。澄んだ目でこっちをよく見てくる人懐っこいやつでさ。もう死んじゃったけど」

    「好きな食べ物はある?」

    「特にないな……。特にないけど、パスタとかかな」

    「好きな色は?」

    「どうだったかな……。ベージュかな。白も好きだったかな」

    「あなたは優しいの?」

    「たぶん優しいよ」

    「怒ったり、いらいらしたりする?」

    「怒ることはないな。いらいらはよくしている気がするな、分かっていても自分じゃ止められないんだ」

    「聞いていいかしら……?」

    僕はうなずいた。僕は上手く話せないけれど、人が聞いてはいけないことなんかなかったからだ。

    「悲しいことがあった……?」

    「悲しいこと……」
     僕はしばらく考えた。その人が聞いてくれる全ての質問に僕は考えるのに時間がかかってしまって答えるまでに時間がかかっていたけれど、それ以上に時間がかかった。

    「悲しいこと……。悲しいことなんかあったかな……。そんなものなかった気がするな……。世界は素敵なものに溢れていて、僕はいつも素敵なものに助けてもらっているから。人生は悲しく見えてしまいがちだけど、見落とさないように少し注意深くしていればカラフルな色で溢れているしさ。僕はそんな素敵な色を探すのが好きなんだ。耳を澄ましてみれば素敵な音楽も流れていてさ、僕はダンスをよく踊っているよ。とっても楽しいダンスなんだ。みんなで踊れば楽しいのかもしれないけど、僕は一人で踊っているよ。あまり大勢の人と一緒にいるのが得意じゃないんだ。でも一人も楽しいから結構気に入っているよ。ときどき寂しくはなるけどね」

    「悲しいことなんかないのね?」

    「ないな……」

    「あなたはすごく悲しそうに見えるけど?」

    「そういう顔なんだ」

    「声も悲しそう」

    「悲しいことなんかないよ」

    「本当に?」

    「本当さ」

     その人はグラスに入った飲み物を少し飲んでしばらくものを考える風に黙った。飲み物を飲むとき、氷の音が遠い思い出みたいに小さく鳴った。

    「可哀想な人」その人はつぶやくように言った。僕はそれが僕のことだったらそんな風に思われるのは嫌だな、と思っていた。

    「大丈夫よ」

    しばらく黙ったあとその人は僕に向かって言った。

    「ここはそういう場所じゃないの。外の世界とは切り離されたところにあるの。ここではあなたはその悲しみを自分のものだけにする必要はないのよ」
    「僕はずっとそうやってきたんだ」僕はまた少しの間考えてから言った。「もう変われないんだ」

     大丈夫、とその人はまた言った。僕は上手くものを考えられなかった。考えるべきものがあるのにふと、人を溶かしやすいらしいその暗闇ばかり見てしまうのだった。

    「ゆっくりでいいのよ」

    その人の声が遠くから聞こえるみたいに聞こえた。

    「そろそろ帰らなくちゃ」

     僕は何とか立ち上がってそう言った。僕じゃない誰かが立ち上がらせたみたいに自分の意思とは思えなかった。僕はポケットから財布を取り出して札をカウンターに置いた。札を取り出す手が震えたし、札はぱりぱりに乾きすぎていた。

    「また来てね」その人は微笑んで言った。「ゆっくりお話しましょうね」
     僕は立ち上がって何かから逃げる人形のようにレストランを出た。自分を少し離れたところから眺めるみたいに地上へ向かう暗い階段を上っていた。

     階段を上り切ると夜の街の明かりが僕を僕に連れ戻した。僕はとってこの世界が既に慣れきったものだったことを思い出した。明るいところへ行くべきだと頭が言っていた。僕は同意し、頭が言っていることを足に教えてあげた。


     色も、音も、分からなくなる日がときどきあった。僕は自分のことを楽しい色や音を探すことが好きな人間だと思っていたし、そういったものは探すべきものだと思っていた。それなのに、ある日、あるいは徐々にそうだったのかもしれないけれど、分からなくなってしまうのだった。

     だいたい夜にそういうものは気がつき始めるものだった。夜というものはそういうものだった。ある夜、もしかしたら僕はこれからずっと素敵な色も、音も分からなくなるかもしれない、と気づくのだ。でも僕はその夜はおとなしくベッドに入って眠る。きっと、夜がそうさせたんだ、朝がやってくれば不思議なくらいにもとに戻っているさ、と僕は僕に言い聞かせる。僕じゃない何かがきっとすごい力を働かせて僕をすっかり元通りになって、けろっとした顔をしてベッドから起き上がるだろうさ、と。

     上手くいってその予想通りになることもあるし、やはり誰も何とかしてくれなくて、何も変わっていないときもある。結局人任せというものはそういうものなのだった。

     そういうわけで、僕は昨夜のまま、それが続いていた。

     朝、ベッドから起き出し、カーテンを開けて窓の外を見る。それから、自分に聞いてみる。「朝が来たけど。大丈夫?」―「昨夜から変わってないな」

     そうかあ、と僕は思う。確かに僕が言う通り、僕は色も、音も分からなくなってしまっている。

    「起きたのね」

     彼女がまた、コーヒーを淹れてくれていた。その日は土曜日の朝だった。土曜日の朝は彼女は彼女らしい、優しげで可愛らしい顔をしていて素敵だった。

    「飲むでしょう?」

    彼女の声がテーブルの向こうのキッチンから聞こえてくる。僕はどちらでもよかったけれど、彼女がせっかくコーヒーを淹れてくれた朝だったから、テーブルについてコーヒーを飲んだ。コーヒーはコーヒーであり、美味くも不味くもなかった。ただ、コーヒーの味がしただけだった。

     僕はソファに座るか、ベッドに寝転んで時間を過ごした。ぼんやりとして、何も僕はしなかった。僕は意思のある抜け殻みたいだった。僕は僕として、いろいろ思うことができるようにいろいろ機能が整っているようなのだけれど、何も思うことがないのだった。僕は、僕の中で何かを思う用の機能がたまにあげるささやかなモーター音のようなものが虚しく鳴っているのを聞いていた。けれど、どうにも思わなかった。どうでもよくないことは分かっているのに、どうでもよくなってしまうのだった。

     ちょっと出かけてくるよ、と彼女に声をかけて、僕は昼過ぎ、例えば十四時頃にしたくを始める。それは夏以外、という話でそれが夏なら出かけるのは十八時くらいになる。僕はできれば人の少ない河川敷に向かうのだった。
     もしも河川敷が近くになくとも、ある程度の距離ならば電車に乗って僕は向かうことができる。僕は磁石がくっつくみたいに河川敷を求めていた。

     それでも、あるいは河川敷に行くことができないときもある。そういう場合は無数にある。例えば、街の中にいて、どうしても事情があってその街から出られないとか……。そういうときはもうどうにもならないかもしれない。それに僕自身の気持ちが河川敷にその日は向かっていないかもしれない。いつもいつも同じ川の前に座り、馴染みの客となってしまったことに飽き飽きしてしまっている頃かもしれない。

     そういったときのひとつの対処法として海に行くことを考えてみる。少し遠いけれど、東京なら電車に乗ればすぐに行って帰ってこられる。

     とにかく、僕はそういうとき、そういうところへ行くのだけれど、そこへ行ったからといって僕がもとに戻るわけではない。何もできないけれど、何かしたいから、せめてもの慰めとして、祈りのようにしてそこへ向かうのだった。丸まった、ちびた鉛筆で紙に書くような祈りだった。

    「いってらっしゃい」

     玄関のドアを開けるとき、彼女の声が聞こえる。彼女は僕を優しく送り出し、見送ってくれる。

    「いってくるよ」

    「背中は汚れてない?」

     大丈夫だよ、と僕は言って外に出る。

     
     そこは静かだった。僕は誰もいない、丁度いいところを見つけ出して河川敷の草の上に腰かけた。向こうのほうに大きな川がサイレント映画みたいに流れている。遠くのほうから子どもたちが遊んでいる、楽しそうな叫び声が聞こえた。幼い子どもは動物と人間の中間くらいみたいな声を出すことができるものだ。それが耳に入ってしまうとそれ以外について考えることはひどく難しかった。別のことを思ってみようと試みる前に思ってしまうのだった。

     しばらくすると、子どもたちはどこかへ行った。僕がどうこうしようと思って、もたついているうちに時間が過ぎたのだった。

     誰の声も聞こえなくなり、静かになった。ありがたい静けさだった。僕はようやく、ひとりきりでものを考えることができた。

     始めは静かだったけれど、息を潜めて見つめていた水面から魚が控えめに出てくるようにぽつりぽつりと浮かび始めるものがあった。遠くから小さく聞こえてきた太鼓みたいなものでもあった。

     僕の中のものが少しずつほどけ始め、ぽつりぽつりと喋り始める。僕はそうか、とじっと耳を傾けてやる。そいつの言っている内容は甘い波に乗ったみたいな恥ずかしいものだったり、昔聴いた歌の一節を引用したものだったりする。

     僕は決してそれが言うことを馬鹿にしない。昔なら聞いていられなかったものかもしれないけれど、僕はそいつのことを受け入れることができるようになったのだった。

     そいつはしばらくの間ぽつりぽつりと喋り続けた。しばらく喋り続け、だんだん疲れてきたようで黙りがちになった。やがて完全に黙った。僕は立ち上がってアパートに帰ることにした。

     
    「おかえりなさい」

     アパートに帰ると彼女がそう言った。彼女はソファに座ってテレビを流しながら本を読んでいた。テレビを流しながら本は読めるものだろうか、と僕は思う。でもきっとそういうときもあるのだ、とも思う。

    「どこに行ってきたの?」と彼女が聞いた。

    「河川敷だよ」

    「何かあった?」

    「子どもがいたよ。風が気持ちよかった。少し吹いてる感じでさ」

     そう、と彼女は言って、また本の世界に戻っていった。テレビの音の中、文字の表面を滑っていくように進む世界だ。紙はつるつるとしていてきっと滑り心地がいい。

     僕は寝室へ行ってベッドに腰かけた。薄暗い部屋の中にいると、さっきまでそこにいた、完全に引っ込んでいないやつの姿がまだ見えた。

    「取り戻せるよ」と僕はそっと僕に言ってやった。「僕のペースを取り戻せるよ」

     それは僕のペースだっただろうか、と僕は言った。

    「これが僕のペースさ」と僕はそこまで言ってやる。「なかなかいいリズムだろう?気に入っているんだ」

     僕がそう言うと、僕は黙ってしまった。もう言いたいことがなくなったのだ。

    「上手くリズムにさ、乗れるといいね」

     僕がひとり言みたいにつぶやくと「そう思う」と返事がぽつりと力なく、返ってきた。 

     
     あの人についての話をしよう。あの、太った、間接照明みたいな人についてだ。僕は夜が真ん中よりもう少し行ったところで目が覚めてしまった。僕は窓の外の街灯の光がわずかに入ってくるリビングのソファに座っているところで、彼女もちょうど隣の寝室ですやすやと眠っているところだった。ベッドから起き出すとき、彼女の柔らかな頬にキスをしたら彼女は「うん」と言っていた。とても中途半端な時間だった。ほかに適切な言い方があると思うのだけど、その時間はいろいろなものの密度が少し薄い、という、だいたいそんな感じだった。僕の気が済めば何だっていいのだ。この時間帯では誰にも何とか言われることはないのだから。

    僕はソファで変な感じでゆったりしていた。とても変な感じだった。ソファになんか座っていたくはないのに、ほかに何もしたいこともないからどうすることもできずにゆったりしているのだった。胸のあたりがむずむずした。それでも、あの人について話そう。いや、だからこそ、だったかな。僕はなんのやる気も出ないので、もの思いをするくらいしかできないのだ。

     
    僕は何度か彼女に会いにいった。何度か会いにいっていたら、何度か、ではなく、会わずにはいられなくなってしまった。やはりあの地上の出入り口から漏れ出る空気は僕のような人間を甘い匂いに引き寄せられた虫のように捕らえ、連れこんでしまうのだった。

     彼女に会わずにはいられなくなり始めたのと同時に、僕は彼女についてそれ以上はどうでもよくなってしまった。彼女の過去も、現在も、何が真実で、何が偽りなのかは本当に大して必要としていないことに気がついてしまった。そんなことだったから未来なんかは、無数に存在した映画の結末を思うのと同じようなことで、途方もないものだった。

     ゆっくりと吸い寄せられるようにあのレストランに入り、僕はカウンター席についた。その席は僕のいつもの席になりつつあった。そしていつだって店内は幻のように薄暗く、客はわずかで、彼らのささやき声が遠くのほうで吹いている風のように聞こえるだけだった。

     しばらく僕はぼんやりし、何かをいろいろと考えていた。何をいろいろと考えていたのかはよく考えても思い出せない。考えごとというものはいつだってそういうものだ。

     しばらくぼんやりしたあと、僕は席を立って、ハイボールを作りにいった。ハイボールを黙って作りながら今夜こそ彼女は現れないかもしれない、と思った。僕は何もしていないのに、彼女がいつだって僕の前に現れることは幸運すぎることだった。それはここに来れば起きる高確率、というだけな幸運で、彼女が現れない夜をいずれ引き当てるような気がしたのだった。

     それでもハイボールを作って席に戻り、しばらくすると彼女はいつだって欠かさずやってきた。いつだって向こうの間接照明のようなぼんやりとした光からゆっくりとこちらへ近づいてくるものがあり、それは彼女だった。その夜も彼女は僕の隣の席に座った。

    「今夜こそ君は会えない気がしてたよ」

     彼女がやってきてその日は思わずそう言ってしまった。言ってしまったあと、僕は二度とそれを言わないこととして設定した。何も考えず言ったことで、何も面白くもないことだった。

    「私はいつだってあなたの前に現れるわよ」

     と、彼女はそう言った。彼女の前に置いてあるカクテルの氷が主張のない金のアクセサリーみたいに小さく心地のいい音を立てた。暗闇のせいで相変わらずカクテルの色は分からなかった。「そうなることになってるんだもの」と彼女は続けた。

    「君は僕が作り出した夢みたいだね」

     僕はそう言って、二度と言わないリストは追加されることになった。喋れば喋るほどに、自分が気に食わないものになりそうに思えた。仕方がないことだったけれど、あまりいいことじゃなかった。

    「そんなことないわ。私は実在する人間よ。私はあなたがやってきたら、そのうち気がついてやってくるの。あなたがいれば、私は来るの。そういうものよ」

     彼女が言う通りだとすると、あまりにもそれは幸運すぎることだった。幸運すぎたので、ここではそういうものだと思うことにした。味わってから知る、不運がありそうな幸運だった。

    「今日はどんなことをしたの?」

     彼女がホステスみたいに聞いた。そんなことはもちろん言わなかった。

    「仕事をしてきたよ。とっても疲れたんだ」

     どんなお仕事、と彼女が聞いた。

    「電話が鳴る。僕は電話を取って答える」と僕は言った。あまり話したいようなことじゃなかった。

    「あまり面白いことじゃない」と僕は言った。薄暗い中、彼女はかすかに面白いものを見たかのように音もなく笑っているのがなんとなく見えた。上品で、可愛らしい笑い方だった。なんだか面白くないことが上品で、可愛らしいもののようになった。彼女は面白いことじゃないものを、そういうもののようにするのがとても上手いみたいだった。

    「ここはいいところだね」と僕は言った。

    「そうね」と彼女が言った。

    「ここはレストランなのかな」

    「そうだと思うわ」

    「いいレストランだね」

    「そう思うわ」

    「メニューもないし給仕係もいないしね」

    「それはどうかしら」

    「そういうのがなくて楽なんだ」

    「それはそうね」

    「君はお店の人なの?」

    「違うわ。ただの客よ」彼女はそこまで言って続けた。「ここに来て、あなたみたいな人が来るのを待っているの。それで話しかけるの」

     僕はハイボールを一口飲んだ。何を言えばいいのか分からなくなったからだった。分からなくなって、そこに暗闇があったので、暗闇を見てしまった。何を言えばいいか分からないときに見るには丁度いい暗闇だった。でも僕は首を振って暗闇を払い落すみたいに言った。「なぜそんなことをするんだろう?」あまり興味のないことだった。

     彼女は「自分がそういうものだと思っているから」と、そのようなことを言った。何だか信じられないことだったけれど、興味のないことだったから、何でもよかった。何でもいいことだったけれど、面白いことだった。彼女は何でもないことも面白いことみたいに話すこともできるようだった。

     
    「あなたは私に何も望まないのね?」

     彼女はいろいろと話をする中で不意に分かれた枝みたいにそう言った。
     彼女とはいろいろと話をした。生まれた場所のこと、育った場所のこと、出会ってきた人たちのこと、気に入っているもの、気に入らないもの。話は危険の心配がない、楽しいだけの冒険のようにあっちこっちへ巡っていった。

     僕は彼女に恋をしていることに気がついていたけれど、それと同時に彼女のことは本当はどうでもよかった。僕は偶像としての彼女に恋をしていた。でも、偶像としての彼女も、目の前に存在している彼女もそこでは同じことだった。もし重ね合わせて確認することができたとしても、きっと違いはなかっただろう。人が人のことを見るとき、望まなければ偶像も真実も同じものだった。彼女とする彼女の話も、映画のあらすじを愛することと同じように話していたのだった。それでも、僕はそのあらすじにどうしようもないほどに恋をしていた。

    「疲れたのかもしれないな」と僕は言った。あとで何年後か、振り返って二度と言わないリストに加えられることになるかもしれないことだったけれど、そのときは許可されていた。

    「疲れていて、上手く望めなくなっちゃっているのかもしれない。自分が何を望んでいるのか分からなくなっちゃったんだ」

    「いいのよ」と彼女は言った。そして「いいのよ」ともう一度言った。まだ楽しくない音楽に楽しい歌詞をつけようとしているみたいな言い方だった。

    「ここでは外の世界とは切り離されたところにあるって言ったでしょう?そういうものもゆっくり見つけていきましょう。自分の望んでいるものがはっきりしたらきっと楽しいわよ」

    「君は僕みたいな人を更生させる才能があるんだね」

     彼女はにっこりと笑い、「才能はない。自分がそういうものだと思っているから、ずっとそうやってきただけ」というようなことを言った。彼女の話の、その領域は何だか不思議で僕には信じられないことだった。信じられないことだったので、信じられないこととして、そのままの形で受け入れることにした。

     
    「ねえ、明るいところへ行きたいな」

     僕はハイボールを一口飲む、を三回繰り返してから言った。彼女はその間に一口飲んだ。

    「まずそれを望んでみるというわけね?」

    「そういうことになるね」

    「それはここから外に出るということ?」

    「そう。昼間の光の下がいいな」

    「いいわよ」

    「君はいつが空いているんだろう?」

    「いつだって空けられるわ」

     僕は次の土曜日を言った。その時はカレンダー通りに働いていたのだった。

    「君の肌の色をよく見てみたいんだ」と僕は言った。

    「そんなにいいものじゃないわ」

    「綺麗なのが薄暗くても分かるからさ、もっとよく見たいんだよ」

     彼女は微笑んだ。きっとそういうことは言われ慣れているのだ。

     それから僕たちはしばらく世間話の探索隊として冒険を再開した。面白い話は少し掘り進めればすぐに次々に発見された。発見されたものは他愛のないものだったけれど、僕たちは発見したものを二人で面白がった。それがどういうものなのかは詳細については大して重要じゃなかった。僕たちは他愛のないものを発見し、一目見て楽しんだあと、それらをわきに捨てていって、また次の探索に向かっていったのだった。その冒険には、海や星空も見えた。気持ちのいい風もしょっちゅう吹いた。つるはしや水筒はなかったけれど、それは一切の危険がない、楽しいだけの冒険であったので問題はなかった。

     二十三時を回ったところで僕は途中離脱せざるを得なかった。明日も朝早く、仕事に向かわなければならなかったのだ。

     彼女はもう少しいるから、と言った。僕は尻ポケットから財布を取り出して札を置いた。僕は彼女に別れを言って出口へ向かった。

     
     その日は、彼女と二人でデパートに行った。夏は盛りに突入していて、玄関の外に出れば蒸された鍋の中にいるみたいに暑かった。青々とした空の向こうには入道雲が立ち上っていたし、あとで懐かしく思い出される記憶の断片みたいな夏だった。

     僕たちはレンタカーを借りてデパートに向かった。何だか車で行こうという気分に二人でなったのだった。僕が運転をして、彼女は助手席で昨夜作ったプレイリストをかけてくれた。悲しい歌詞も、楽しい歌詞も、全て楽しいメロディーに乗せられたプレイリストで、未来を示してくれているような素晴らしいものだった。

     車を走らせている間、僕たちは会話らしい会話はしなかった。僕は何か、面白いことが書かれている看板とか、炎天下で一生懸命になって自転車を漕いでいる人間なんかを見つけたりしたら助手席の彼女に何も考えず報告した。彼女は面白くもないけれどつまらなくもなさそうに相槌を打った。命知らずよろしく急に道路を横断し始めたおばあさんに言った「ねえ、だめだよ渡ったら」と、信号を待っている間に言った「見てよ、この青々とした空」には彼女は少し笑ってくれた。車を走らせていると、不思議と気分が上手く調子に乗ったように思えた。僕は今までもそれほど問題はなく、実はずっと上手くやってきたような気分になった。

     
    「パーティーがあるの」

     彼女が昨夜、夕食をとり始めた頃に言ったことだ。僕は相変わらず食欲なんかなかったけれど、最近まともにものを食べなすぎると思って歳をとった犬みたいにちまちま食べていたところだった。

    「パーティーって何?」

     僕は聞いた。

    「どんなドレスがいいかしら」

     彼女は僕の言葉を綺麗に思えるほどに無視して言った。実際綺麗だった。

    「ドレスがほしいの」

    「ねえパーティーって何?」

    「パーティーがあるのよ」

    「何のパーティー?」

     彼女はそのときはあまりものを説明したくないみたいだった。僕はよく分からないまま、レンタカーを予約し、皿を洗い、歯を磨いてベッドに入った。

     
     デパートでの彼女のドレス探しは根気強く、地道に少しずつ進めていく作業となった。タフじゃないとできない作業だった。彼女には彼女なりの基準があって、その基準が少しでも満たしている店、あるいはその基準に近い店ならば入って、丹念に端から売られている服をひとつひとつ確認していった。確認していった服のほぼ全ては彼女の気に入るものではなかったようで、すぐに持ち場へ返されてしまうことになった。

     彼女は表情も変えずに服を確認しては、戻していった。その作業は一定の速度で数え切れないほど行われ、その熟練された何かの技術を感心することしかできないほどに僕の前をすごい速さで通り過ぎていった。実際はそんなに速くないスピードだったけれど、熟練された職人というものは、すごい速さでやるようなことをそうはせずにやってみせることができるのだ。

     彼女の厳しい審査を通過することができたいくつかの服は、彼女に連れ去られるように黙って試着室に持っていかれた。僕は少しどきどきさせられたものだった。

     試着室の中で、しばらく恐らく服を着ていると思う、何か怪しいものごとが行われているような音が聞こえ、しばらく静かになったあと、カーテンが開いた。突っ立っていた僕を見る彼女の目は意見を求めていた。新しい服を身につけた彼女は新鮮だった。

    「すごく似合ってる。素敵だ」

     僕は思っていることをそのまま伝えた。

    「服が君のものになったみたいだ」

     僕の言葉は参考にされただけみたいだった。考慮されることはない参考は儚く消えていった。彼女はカーテンの中に引っ込み、もとの服で再び出てきた。

    「よかったのだけど」と彼女は不満そうに言った。「よかったのだけど、一度着てしまったらなかなか脱げないわ」

     
    「君は君に一番似合う服を見つけるのがすごく上手いと思ってた」

     僕はコーヒーを飲みながら言った。僕たちはしばし服の探求の休憩としてフードコートに座っていた。彼女はクリームがたっぷり入ったタピオカミルクティーを頼んだ。白の中に黒い丸がある可愛らしい飲みもので、彼女によく似合っていた。

    「でも、君はいつもそうやって探していたんだね。きっと身につけるものが上手い人はそうやって手間と時間をかけているんだ」

    「どうかしら」彼女は不機嫌そうにストローでタピオカをいくつか吸い上げた。タピオカたちは何かを言うまもなく、吸い上げられていった。

    「私は何でも似合うわけじゃないの。サイズが合わなくて着られないものがほとんどだしね。それでも自分が納得するものを探さずにはいられないだけなの」

    「君は自分の似合う服をよく知ってる」

    「それはそうね」

     それから彼女は黙った。考え事をしているようだった。パーティーのことを考えているのかもしれなかった。

     
     服が決まるときはあっさりとしたものだった。見つかりさえすれば彼女には一目で分かるものだったのだ。

     ドレス、というよりワンピースだった。クリーム色に上品な花柄が描かれていて、素敵なワンピースだった。今日彼女が着た全ての服が僕には素敵だったけれど、彼女にとってはそれしかないようだった。

     
     彼女は新しいワンピースを身につけて店を出た。それから僕たちはデパートを出て、海に向かった。彼女が海に行ってみたい、と言ったからだった。車を走らせていくと高い建物がなくなっていって海が近いことを知らせてくれた。日がまもなく本格的に沈み始める頃で、絵に描いたみたいな雲が夕日の中に浮かんでいた。糸があるとすれば、太陽を吊るしている糸はぎりぎりまで張っているところだった。夜の海もそうだけれど、夕方の海は本当の意味でどこかあまりいいものだとは思えなかった。そういうものは余計な、感傷的なものを与えようとする。感傷的なものを与えられることは楽しいものだけれど、楽しいだけで、すごくくだらなかった。海だって不本意な夜があるのかもしれないな、と思った。僕はハンドルを操作しながら横目で助手席の彼女を見た。日が落ちかかっているせいで彼女は黒い、陰のかたまりみたいに見えた。気になったので一度、顔を彼女のほうに向けて見てみたら普通の形だった。

    「どうしたの?」

     彼女は少し微笑んで言った。彼女はシートベルトの中でずっと礼儀正しく座っていた。車に乗るっておかしなことだ、と思った。

    「気になってどうしようもなくなる前に見た」

     と、僕が言うと、「そういうのって生々しくって苦しい」と彼女は言った。彼女がまた僕に提示した難問だった。僕は変な風に胸がむずむずして、苦しくなった。

    これも夕日のせいかな、と思った。きっと夕日が変な影響を与えたんだ。

     
    僕たちは車を適当な駐車場に停め、海へ向かう道を歩いた。低い建物ばかりで空がたくさん見えた。風景がいつもと違うせいでうんと遠くまで来てしまったように思えた。歩いている間に日は沈み、風景は急に暗くなった。日が沈んだあたりの空はわずかな間鮮やかな暗い青色をしていたけれど、じきに黒くなった。しばらく歩いて浜へ出て、風が急に強くなった。浜はさらさらとした砂でできていて、歩くと靴の中に砂が少しずつ入ってきた。

    「何もなくって海って意外とつまらないものね」

     砂浜をしばらく歩いたところで彼女が言った。髪が風に吹かれて彼女の顔にかかっていた。

    「夜の海は嫌い?」僕は聞いた。

     なあにそれ、と彼女が笑ったので僕は言ってしまったあと恥ずかしくなった。なあにそれ、でしかなかった。なあにそれ、があった。あるだけだった。

    「普通に考えると」と彼女は言った。海がある方向の、黒の向こうのほうから波の音が鳴っていた。

    「そういうつまる、つまらないでいうと、つまらないもののほうが面白かったりもすることも多いわ」と彼女は言い、それから「でもね、やっぱり……」と続けた。女の子らしい、可愛らしい声だった。「それでも、つまらなくて面白いものって、実際何もなくってやっぱりつまらないわ」

    「僕はこれだけしか言えないけどさ」と僕は言った。

    「うん」

    「君の言うことって面白い」

     彼女が笑った。可笑しくて仕方がなかったから思わず笑ってしまった、という笑い方だった。それでも彼女の笑い方はいつだって静かだった。向こうのほうから鳴っている波の音が彼女の声を溶かしていた。無駄な溶かし方だった。

     彼女の言うことに僕はいつだって驚かされてしまう。驚かされたあと、愛おしくなる。

     
     それから彼女は波打ち際まで歩いていって、波を眺めたり、指を濡らしたりして遊んだ。僕は彼女のようすを眺めていた。彼女が隣からいなくなってしまうと、僕の胸の中のものはなくなって、空いた部屋みたいになった。波の音のせいか、夜の暗さのせいか、一日中動いて疲れたからかもしれなかった。疲れていたことが一番の原因だったかな。しばらくひとりで突っ立っていたら、空いた部屋にもやみたいにすう、と入ってくるものがあった。きっとその部屋には窓枠だけがあって、もともと窓がないのだ。僕は口の中で音もなく唱えた。唱えたことは次の通り。


     
     ねえ、僕は死について考えてしまう。

     もう疲れちゃったのかな。


     
     向こうから彼女が駆け寄ってきた。波の音の中に砂を踏む足音があって、その音に合わせて黒い陰がだんだん近づいてきた。近づいてきたものはやがて彼女になった。

    「ねえ見て」彼女は右手に持っていたものを見せて言った。「綺麗な石」

     僕は顔を近づけてよく見ようとしたけれど、石、というのが分かっただけで、暗くてよく見えなかった。

    「よく見えないな」僕は言った。

    「明るいところなら見えるわ」彼女が言った。僕はうなずいて同意した。

    「持って帰って棚にでも飾ろう」

     僕はそう言い、彼女から石を受け取った。僕はポケットに石を入れた。

    「でも飾っておくと馬鹿馬鹿しくならない?」彼女が言った。

    「そんなことないさ。思い出はとっておくときっといいものだよ」

     それから僕たちは歩いてきた浜を戻り、車がある駐車場へ向かった。僕たちが海のそばにいた時間は短かった。海を見るってそんなものだ。

     車に乗り込むとき、後ろに何か置いてきたものがあるように思ってしまった。何か置いてきてしまった、だなんて思うことは好きじゃなかった。そう思ったのは夜の海のせいかもしれなかった。夜の海が黒くて、大きすぎたせいからかもしれなかった。彼女が乗り込んだあと、僕も黙って車に乗り込み、ドアを閉めた。ドアの音は夜に低く響いた。

     アパートに向かって車を走らせているとき、僕はただ前を見ていた。日々の先にあるものを見るのと同じように、ただ道の先を見ていた。


     ある日、彼女はワンピースを着た。この間、デパートで買ったワンピースだった。土曜日の昼前で、外はいよいよ熱せられた鉄板みたいになる頃だった。人間でゆで卵が作れるほどの暑さだったろう。

     とにかく、僕が気づいたときには彼女はワンピースをすっかり着ていた。薄く化粧もして、金色の、ありえないくらい細かい金具でできたネックレスまでつけるところまで済んでいた。僕は彼女がしたくをする間、一体何をしていたのだろう。とても不思議なことだ。世界で起こる不思議なことはそういう風に起こるのではないかと納得できそうなほどだった。僕はソファに座ってぼけっとしていたのだろうか。考えられることとすればそれくらいだったけれど、それならばあまりにもぼけっとしすぎだ。

     僕が気づいたとき、ちょうど彼女は専用の液がついたスティックで自身のアホ毛を鎮めているところだった。洗面所の鏡の前で、神妙な面持ちで、入念にアホ毛をなだめていたのだ。

     もしかしたら、彼女とアホ毛の間で何か、秘密の取り引きが行われていたのかもしれない。アホ毛は阿呆らしく、のびのびと時間を過ごしたい。でも、彼女としては今日のところはどうしても静かにしていてほしい。そこで、彼女は連中と取り引きにかかるのだ。では別の日に埋め合わせをするから、と彼女は提案する。その日は思いきりやつらに自由に過ごさせてやる日にするというわけだ。

     そんな重要な交渉中に僕は割って入った。それでも彼女は取り引きを続行した。アホ毛などは僕と話しながらでも交渉できるような相手なのかもしれない。

    「そろそろいってくるわね」

     彼女は取り引きをまきで終了させ、鏡の中の僕に向かって微笑んで言った。ちょうどアホ毛は静かにさせられたところだった。もしかしたら約束は反故されるかもしれないな、となんとなく思った。アホ毛連中など、彼女にとってはしょせんは下僕だった。

    「どこに行くの?」

     僕は彼女の胸に腕を回して言った。彼女の胸は大きく、張りがあって柔らかかった。彼女はコード進行をするように形を変えて鏡の中で微笑んだ。
    「好きな人のところよ」と彼女はまた別のコードを鳴らした。場違いに平和的すぎる和音で、滑稽とも、悲しくもある、ともとれた。

    「それって僕のこと?」僕は言った。

    「あなたのことは好きよ」彼女は言った。「でも、その人のことも好きなの。どちらかなんて選べないくらい」

     そうか、と僕は言った。彼女の胸に回していた腕はほどいた。寄せていた体を離すと彼女の首すじが目に入った。白くて綺麗な首すじだった。

    「いってくるわね」

     彼女はするりと洗面所を出て、小さなハンドバッグを持って玄関に向かった。ドアを開けると外の熱い風が入ってきた。

    僕はもちろんそのとき必要なことは言った。彼女はもう出発する時間だったから、できるだけ必要最低限の形にまとめて。

     彼女は真面目そうな顔をしてうなずいた。それから僕のことをとても考えている、という風な急ぐようすのない、丁寧な態度で出てった。僕は今後のことをできるだけスムーズに進めたかったから彼女が見えなくなるまで見送った。手間を惜しんで、余計にその後の空気を悪くしたくなかったのだ。有事の際はそういったことがどんな人間にだってその気になってできるものだった。

     彼女がエレベーターに乗るために、廊下の角を曲がるまで僕は見送っていた。

     
     僕はぼうっとした世界から戻ってきたことだし、彼女も出ていってしまったので僕はすっかり暇になった。時間と、ひとりきりの自由な空間があったけれど、何もする気が起きなかった。自分が何をしたいのか全く分からなかった。何事も考えれば答えが出そうなものなのに、全く分からなくて、出来の悪い子どもみたいな気分になった。答えがなくても、答えがない、という答えが出たりするものなのに、それさえも出てこなかった。

     
     何分かそうやっていたけれど、何もしないことにも根気が必要になってきたので僕はコーヒーを淹れた。コーヒーに氷を入れ、ローテブルに置いてソファに座った。

     何分後かのことだ。アイスコーヒーが入ったグラスは汗をかき始め、僕はまたじっと何かを考えていたところだった。何かしらも考えないことは難しい。

    「こんにちは」とソファに座っていたら聞こえてきた。頭の、耳の後ろあたりから聞こえてくる声だった。

    「ちょっと暑いわね」またあの人の声だ。子どもの頃に遊んだ懐かしいおもちゃが何かの拍子で鳴ったみたいだった。僕は確かな暇人だったし、ついソファに沈み過ぎてしまっていたから尻か何かでうっかりとそのボタンを押してしまったのだ。

    いろいろと思ったことはあった。そういうこと、するべきじゃないとかそういうこと。でも最終的にその映画を観ることにしていた。

     何かはしたほうが健全だと思ったのだ。何かをすれば変わるかもしれないというやつだった。とにかく、今は思いきり感傷に浸れる映画を鑑賞してみようというわけだ。そうなれば、とりあえずでも僕は体を動かすことにした。

     まずつまみを回してチャンネルを合わせた。でもどのチャンネルもノイズが聞こえるだけか、ノイズが大きすぎてまともなものは上映していなかった。どうやら廃業になったようだった。

     それでも、ひとつひとつ確かめるようにつまみを回していくとまともな音が聞こえるチャンネルがあり、僕が求めていた音だとすぐに分かった。そのチャンネルは音も、電波も、恐ろしいほどに心地のいいもので、僕の中に自然に染み込んできた。吸い寄せられるように、すごく観たい気持ちになった。

     僕はチケットを買わなければならないかな、と思ったけれどチケットが必要のない映画館らしく、誰も何とも言ってこなかった。僕はそのまま案内板に従って僕はシアターに入った。係のものも、ほかの客もいなかった。既にその映画館は何か観るにはあまりにも寂れてしまっていたのだ。

     
     こんにちは、と彼女のせりふからその映画は始まった。

    「少し暑いわね」

     暑いね、と僕は言った。

    「人、多くなかった?」

     多かったよ、と僕は答えた。僕たちは人が人と会った始めの挨拶として、そんな言葉を交わし合った。

     
     彼女は駅前のたくさんの人々が行き交う雑踏の端に立っていた。それでも、運命的な絵が多くの中からひと目でそうだと分かるように、彼女をすぐに見つけることができた。

     明るい日の下に出た彼女は、薄暗い地下のレストランにいたときと姿は変わらなかった。ただ、ずっとそこにあったものが浮かび上がっただけだったのだ。

     肌の、肌らしい質感がそこにあった。しっとりとした、皮の厚みを感じさせる肌だった。髪の一本一本があった。動けばそうなるはずの、少し乱れた髪だった。暗闇でぼかされていたものが確かな存在として、均一に、光によってあらわにされて地上に置かれていた。

     いこうか、と僕が言うと、彼女は少し笑って、ええ、と言った。

     暗闇の中では見たことがなかった、初めて見る種類の笑い方だった。彼女とは全く別の人間が作る表情のようだったけれど、その表情はずっと、確かにそこにあったのだ。

     
     僕たちは待ち合わせた駅から十分ほど人の流れに乗って歩いたところにある喫茶店に入った。大きな窓があって、店内は窓から入ってくる光によって自然に、明るく照らし出されていた。

     僕はコーヒーを、彼女は紅茶を頼んだ。彼女は飲みものを待っている間、何もすることがないのに、そこに落ち着いたようすで座っていた。

     暗闇の中にいない、光の下で均一に存在する彼女の全てが新鮮だった。でも、新鮮なだけで、それ以上に変化しなかったし、どこにも向かっていかなかった。僕はそれ以上にどうもすることができないので落ち着いた姿勢で彼女の対面に座っていたけれど、体のいろいろな場所で落ち着きのないものが小さな虫みたいに動いていた。

    「明るいところへ出てみてどうだった?」

     やってきた紅茶に一口、口をつけたあと彼女はテーブルの上で軽く腕を組んで言った。言いながら、また知らない種類の笑い方をした。

    「君はやっぱり素敵だったよ」僕は言った。

    「あなたは先に進めそうかしら?」彼女が言った。

    「進めると思うよ」

    「よかったわ」

    「どこに向かっていくかは聞かない?」

     僕が聞くと、彼女は目を伏せて、楽しい考えごとをするみたいな、口の端を上げた顔をして黙った。

     こういうとき、そういう顔をする人はあまり好きじゃなかった。きっとずれていたのは僕の好みだった。

    「聞かないわ」彼女は言った。「あなたが先に進めれば私はそれでいいんだもの」
     

     僕たちは、飲みものにたまに口をつけながら話をした。昼間の光の下の彼女は、夜の暗闇のレストランとはまるで別の人みたいだと思っていたけれど、そんなことはなかった。

     夜の暗闇のレストランの彼女の続きに昼間の光の彼女がいただけなのだった。確かに違うものだったけれど、でも間違いなく同一人物だった。初めての姿を彼女はまるで別の人間のもののように僕にたくさん見せたけれど、時間を過ごせばそれは至るところで重なり合った。僕が夜のレストランの彼女に見慣れすぎていたせいで落ち着かなかったけれど、少し話し出せば新しい靴にそのうち必ず慣れるのと同じように話すことができた。

     僕はずっと彼女の偶像に恋をしていた。夜のレストランで見せる彼女に恋をしていた。でも、昼間の彼女も彼女なのだ。僕は今、目の前にいる彼女を愛していなかったといえただろうか。

     
     僕たちは長い間いろいろな話をした。何を話したのか思い出せない、僕たちの間で夜のレストランで行われていた他愛のないいつもの世間話の冒険だった。本格的に話をすることに入り込んでしまえば、夜と変わらず僕たちは話すことができた。僕はなんだ、夜も昼間も彼女は彼女じゃないか、ただ、慣れていなかっただけなんだ、と夢中になって話ができている自分に驚きながら喋った。彼女は紅茶を二杯飲んだし、僕はコーヒーを三杯も飲んだ。それくらい盛り上がっていた。

     
     僕たちは不思議なほどにたくさん話をし、時間はあっという間にどんどん過ぎていった。時間は贅沢に、湯水のごとく過ぎた、という感じだった。あるタイミングで時間を意識すると、大きな窓から入ってくる光が傾き始めた色になっていた。店内も一日もそろそろいったん終了、といった一仕事のあとみたいな顔をしていた。

    「そろそろ出ましょうか」

     彼女が言った。

    「長くいてしまったね」

     僕も言った。

    「私はレストランに行くけどどうかしら」

    「いいや。まだまだ話したいんだけど、ちょっと疲れちゃったから帰るよ。ありがとう」

     僕はなんだか気分がよかった。間抜けな僕はそのとき今日の始めに思ったこととは別の、上手い方向へ進んでいける気がしたんだ。

     
     それは駅へ向かっている途中で起こった。僕たちは待ち合わせたのと同じ駅へ戻っていっているところだった。人々は相変わらず多く、流れがゆっくりな川に乗るように、あと少しで夜になる駅へ向かう街の道を僕と彼女は歩いていた。

     彼女はある建物と建物の間の、陰になっている小さな道が交わったところで僕の腕を引っ張り、陰になっている道へ連れ込んだ。

     それはとても自然なことみたいに行われたもののようだった。流れに何かを起こした、という感じがしなかった。確かに急な方向転換ではあったけれど、そこは僕たちを吸い込む場所だったから、したがって吸い込まれた、という感じだった。

     どうしたの、と僕は言った。

     彼女は楽しそうことをこれから言うみたいに静かに微笑んだ。薄暗くなった街の中で、その道は闇のたまり場のように一段階闇が濃くなっていた。

    「あなたのことを言いましょうか」

     彼女が僕を見上げて言った。顔が陰になっていた。

    「あなたみたいな人を何人も見てきたわ」

     うん、と僕はうなずいた。

    「そういう人はみんなどうなったと思う?」

     僕は少しの間考えた。分からない、と答えた。

    「みんなもとの場所へ帰っていったわ」

     そうだろうか、と僕は言った。

     そうよ、と彼女は言った。それから「あなたがもし」と続けた。

    「あなたがもし、溺れて気を失いそうになったとするわね」

     もう溺れているよ、と僕は言った。

     彼女はうふふと笑った。可愛らしい、闇の中で言うくだらないことによく合った笑い方だった。

    「きっと明かりが向こうに見えるわ」

     彼女は言った。僕はうん、と相槌を打った。

    「その明かりは言葉では言い表せないような素敵な明かりなの。色も、輝き方も、私たちが説明することがまだできない、形作っているもの全てが素敵な明かりなの。あなたはその明かりを見て、なんて素敵な明かりなんだろうって感動するの。今までの悲しみもどうでもよくなってしまうほどに、その明かりのことを知りたい、その明かりのあるところへ行ってみたいって思うの。そう思ったとき、あなたのまわりを満たしていた水がすうっとどこかへ不思議と引いていくの。あなたが動けるくらい水は引いていって、あなたはその明かりがあるほうへ向かっていくの」

    「僕はいいほうへ向かっていける」

     僕がそう言うと、そう、と彼女が言った。

    「その明かりは君じゃないんだろうか」

     僕はそう言ってみた。そうであったならな、と思っていた。

     彼女はまたうふふ、と笑った。「難しいことなのだけどね」と続けた。

    「あなたが一番気づいているはずだわ。それは私ではないの。もしそう見えているのならきっとそれはまやかしだわ。私はそういう役割なだけなの」

     
     僕たちは改札口で別れた。レストランへ向かう電車は同じだったけれど、彼女はしばらくここにいると言った。理由は言わなかったけれど、気になることではなかった。誰かと電車に乗るのが好きじゃなかったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。何でもいいことだった。

     僕は電車に乗りながら考えていた。家へ帰る人々で電車はいっぱいだった。僕はつり革につかまりながら考えていた。

     僕はやっぱり夜の彼女に恋していた。夜の彼女なんてどこにも存在していなかった。僕が観ていた映画だった。その映画はどこにもなかった。僕はどこにも上映されていない映画を観た気になっていたのだった。

     
     夜になって彼女が帰ってきた。まるで大切な友達と会ってきたあとみたいな顔をして帰ってきた。

    「どうだった」僕は聞いた。

    「よかったわ」彼女はバッグを置きながら言った。「彼はささやくの」

    「彼は私の耳元でささやくの。とても格好いい声で、心の芯が細かく震えて、私は気持ちがよくなるの。彼の言葉は私を想像したこともない場所に連れてっていってくれるの。そこにはないのに、あるような気持ちにさせてくれるの」

     そうか、と僕は言った。

    「僕たちはもうおしまい?」僕は言った。

    「おしまいではないわ」彼女は言った。

    「おしまいなんか嫌でしょう、私も、あなたも」

    「そうだね」

    僕がそう言うと彼女もそうでしょう、と言った。

    「君の好きな人はどうなるの?捨てるの?」

    「そういうものじゃないの、それより……」彼女はそこまで言って言葉を切った。「私の気持ちを共有してもいいかしら」

     もちろんいいよ、と僕は言った。

    「あなたってこういう風に私がほかの男の人と会うのは嫌い?」

     嫌いじゃないよ、と僕は言った。不安なだけ、と言った。

    「そういうこと、慣れてないから不安になるんだと思う」

     彼女は笑わなかったし、相槌も打たなかった。ただ続けた。

    「私はあなたのことが好きなの。一緒にいるととっても心地がいいの。もう生まれる前から求めてたんじゃないかってくらい。ううん、もし私が求めなくても私とあなたはどうしたってくっついて、離れられないものになっていたでしょうね。あなたにとっても私ってそういうものだったりしない?」

     そうだろうね、僕は言った。「そうであってほしいとずっと思ってた。でもそんなものどこにもないと思ってた。だって、君は君で、僕じゃないから」

     もうちょっと上手く言えると思うけど、と僕が言うと「大丈夫」と彼女は言った。

    「奇跡的に分かるから。分かってるつもり。上手く言わないままのほうが好きよ、ロマンがあって」

    「それで?僕たちこれからどうする?」

    「あなたはどうしたいか先に聞いてもいい?」

    「僕は君とずっと進んでいきたいよ、それ以上考えるのは面倒なんだ」

    「私も同じ気持ちだわ」

    「もしかしてだけどさ」

     僕は言ってみた。なんだかそういう気分になっていたのだ。

    「僕たちってもう溶け合ってる?」

    「溶け合っているわよ」

     彼女は微笑んで言った。

    「少しずつ溶け合って、もう離れることができないくらいくっついちゃっているの。くっついちゃっているから、どんなリズムでも離れることはないの。そうね、私は前に進んでいきたいわ。でも、どちらが前で、後ろかだなんて私たちが決めることなの。私たちは前も後ろもない宙に浮かんでいるのよ。溶け合ったまま、一緒に沈んだり、変な場所まで流されていってみましょう。そういうのもきっと楽しいリズムになるわ。それでもね、私は前に向かってみるのが好きだわ。前へ進めばとりあえず明るい気持ちになれるものだもの」

    「驚くようなステップを踏みながらあくまでも前へ進む」

     僕は言った。

     そうそう、と彼女は言った。

    「そんなステップのリズムは存在するのかな」

    「しないかもしれない」

     でも、と彼女は言った。

    「そのリズムを私たちは作り続けてみるのよ。そのどこかにあるような、夢みたいなリズムを。たぶん、地道な作業になるわ。日々を地道に、繰り返し根気強く生きることになるのでしょうね。それでも、私はその存在しないリズムを求め続けるの。私はそういう風にやっていきたいわ。あなたはそれに付き合ってくれる?」

     もちろん、と僕は言った。「もちろん付き合うよ」

    「私たち、そういうのが好きね」彼女は言った。

    「そこにないものをあるようにしてしまうのが好きね」

    「そうみたいだね。よくないことだね」

     彼女は微笑んだ。

     本当によくないことだわ、と彼女は言った。

     
     そのあと、僕たちはステップを踏んだ。半ばふざけていたとはいえ、信じられないことだ。彼女が形容した、「楽しいステップを踏むような生き方」なんかよく分からなかった。そうだった、その一連の流れは冗談として行われなければならない、実際的な人生の歩み方として表現されるにはあまりにも的外れなことだった。

     でも、もし―そんな風に生きれたらな、と僕は思っていた。そんな風に生きれたら、すごく、すごく素敵だろうな、と。

    「もう少し、右にいってみる?」と僕は言った。

    「そうね、もう少し右にいってみて―」と彼女は言った。「次は左」

     僕は一歩動いた。

     そしたら、と彼女が言った。「次は右」

     彼女は一歩動き、僕もまた一歩動いた。

     次は左、と彼女が言った。僕たちは動き、彼女が「次は右」と言った。

     僕は構わないと思っていた。いや、象徴とするだけなら全然問題ない話なのだろうけど―僕は本心で、そんな風に生きられるような気がしていたのだった。

    「あ」

     彼女の表情が曇った。

     やめようか、と僕は言った。「やめて、冷蔵庫の中身でも見よう、それから夕食の買い物に行くべきだ」

    「とっても楽しかったわ」と彼女が僕を見上げて言った。

     部屋は夕方になって、薄暗くなってきていた。ステップを踏むには電気が必要なかったのでつけずにいたのだ。

     彼女はくるりと振り返って冷蔵庫のほうへ歩いていった。振り返る直前、彼女の顔は少し微笑んでいたのだったかな。彼女の顔がどんな表情を作っていたのかなんて、大した意味なんかなかったのだけれど。

     ただ、僕はそのあとどこか呆然としてしまって、何が起きて、どう過ごしたのかよく思い出せなくなってしまった、ということだった。彼女と夕食の買い出しには行った。思い出せないわけはなかった。でも、相性が悪い二人みたいに、時間がつるつると僕の上を滑っていってしまったのだった。

     いつもこうだったかな、と思った。いつもがどうだったかも考えると、わけの分からないことを人に言われているときみたいに頭が痛くなった。

     
     場面は電車に切り換わる。アルバイト先からの帰りだった。二十時過ぎで、電車は家に向かうための人々をたくさん乗せていた。僕は座席に座って腕を組み、自分の膝あたりを眺めていた。

     家に帰らなくっちゃ、とか思っていた。恐らく、その他いろいろと考えていたと思う。でももはや何も考えていないと考えていいことだった。どちらにしても同じことだ。

     
     僕は玄関を開ける。ドアを開けると部屋の中は暗かった。彼女がいるはずなんだけどな、と僕は思った。

     暗い部屋の中を進んでいった。床にものが落ちていなくてよかった、と思った。あの充電器の先についた、プラグを踏むんじゃないかと僕はどうしたってそろそろと歩いてしまうのだ。あれはちょっとした冗談みたいな顔をして足の裏を軽く刺しているつもりかもしれないけれど、結構こっちとしては痛いのだ。

     リビングまで行くと、ベランダへ通ずる窓のカーテンが揺れていた。気持ちのいい風だった。この前まで夜だって熱帯のように暑かったのに、雨でも降って、止んだあとみたいな風だった。

     僕は開いている窓枠に体重を乗せて両手をかけ、身だけをベランダに乗り出した。足を出さなかったのは外に足をつけたくない気分だったからだ。

    「ああ」ベランダにいた彼女が今気がついた、という声で言った。「あなたね」

     おかえりなさい、とそれから彼女は言った。彼女は夜の暗闇の中でさらに黒い影になっていて、シルエットクイズみたいになっていた。結構難易度が高かった。でも、この家には彼女しかいないから致命的だった。彼女の後方には街の灯りがあった。それで、より黒く見えてしまったんだ。

     からん、と氷の音が鳴った。「モスコミュール」と彼女が言った。それから「あなたの分も作るわ」と言い、窓から乗り出していた僕の間をすり抜けて部屋の中へ入っていった。

     彼女はキッチンまで行くと、蛍光灯の明かりをつけていろいろやった。ジンジャーエールを入れるとか、切ったライムを絞るとか、そういうことだ。僕は窓際に突っ立ってその光景を眺めていた。それはささやかな一日の終わりだった。疲れた一日のあとの、平凡で、客のいないスクリーンでひっそりと流れるエンドロールみたいに美しい光景だった。

     彼女がモスコミュールを作ってくれたので、僕たちはベランダで並んで飲んだ。

    「風が気持ちいいね」僕は言った。それから「明日も暑いだろうね」と言った。

    「あなたってユーモアのない人ね」彼女が言った。

     アナタッテユーモアノナイヒトネ。

     思いがけない言葉だった。文脈なんかあったものじゃない。どれに対して言ったことだろうな、とモスコミュールをちびちびやりながらしばしの間考えていた。

    「ステップというのはもちろん比喩じゃない」

     彼女は言った。

     僕は突如として出現した文脈の中で迷子になっていたので、何も言えずにいた。でも、迷子にしては涼しい顔をして風に吹かれていたと思う。雰囲気的にいうと、真面目な顔をして彼女と向き合う場面だっただろうか。とりあえず、手は止めるべきだった。モスコミュールをちびちびやる手は止めるべきだったのだ。僕はまた一口飲んだ。

    「そういう風に生きてほしかったということよ」彼女は言った。

     彼女は別に泣いてなかった。そう思ったのは経験と勘で彼女が泣くと思ったからだった。僕は彼女が泣き出すところを何度も経験してきた。

     でも、彼女は泣いていなかった。ただ、いつも通りの調子で言った。落ち着いた、素敵な声だ。

    「私はどう生きていけばいいの?」

    彼女は言った。

    「あなたなしでどう生きていけばいいの?」

     ねえ、と僕は言った。「ねえ、僕はここにいるよ」

    「これって逃げだと思うわ」彼女は僕の言ったことを無視して言った。「一瞬で、楽だったでしょうね」

     何を言っているんだ、と僕は言った。さすがにわけが分からなくなってきていた。落ち着かなかったから、モスコミュールをまた一口飲んだ。

    そのとき、液体がばしゃりと床に落ちた。

     ……。

     間があった。彼女もこちらを見ていた。確かに口に入れた酒が床に落ちていった。床に落ちた染みを見て、僕は気がついた。一日中あの感覚は残っていた。でも、あれは夢かと思ってさっさと片付けていて、それ以上何も思わなかった。ただ悪い夢を見たんだ、と思っていた。でもたった今、何にも思わなかったことがふとしたきっかけで大きな問題だった、と気がついたのだった。

     思ったよりも手が震え、心臓がばくばくと音を立てて鳴っていた。それはもう大きく動いているので口から出るんじゃないかと思ったくらいだった。

    「ごめん、ちょっと休ませてほしいんだ……」僕がそう言うと、彼女は静かな声で「そうね」と言った。それからもう一度「そのほうがいいと思う」と言った。

     次は何になるんだったかな、と僕は考えた。永遠に消える、だったかな。まだ信じられないけれど、じきに受け入れるだろうことだ。だってそうなのであって、受け入れるしかないのだから。

     
    「薬は飲んだ?」のろのろと寝室へ向かう僕へ向かって彼女が言った。

     飲めないよ、と僕は言った。「さっきの見ただろ?もう飲めないんだ」

    「そういうものなのね」と彼女は言った。「でも、さっきまで普通に飲んでいたわ」

    「分からないな。明日、試してみるよ」と僕は言った。

     とにかく、僕は眠りたかった。何かやるような気分じゃなかった。そういうときはとにかく寝て、起きてから全てを考えたかった。

     ベッドに入っても全然眠れなかった。眠り方を忘れてしまったみたいで、今までどうやって眠っていたのか不思議なくらいだった。それでも僕は目を閉じ、眠りへ沈んでいこうとした。悪条件の中、物事を一番ましな状況に持っていってみるというわけだ。

     僕がそうやってあれこれ頑張っているうちに、隣に滑り込むように彼女が潜り込んできた。

    「あなたはそこにいるわね?」彼女が言った。眠る前に話すときの、ものすごく小さな声だった。

     いるよ、と僕は言った。「よく眠ってさ、早く頭にできた変なもの治してさ、もっと上手くやれるようにするよ。君との生活のためにさ」

     無理しないでね、と彼女は可愛らしい感じを含ませていった。

    「あなたはそこにいる?」彼女がまた聞いてきた。

     いるよ、と僕はまた言った。「僕はここにいるよ。君のための僕がさ。いなくなったりしない」

     そうね、と彼女は言った。「あなたはそこにいるわね」と言った。

     僕は彼女の髪をそっとなでた。驚くくらい柔らかい髪だった。

    「あなたはそこに……」

     彼女はまたもう一度言おうとしたみたいだった。でも、言葉は途中で切れてしまって、あとはもう喋らなかった。

     彼女が黙ってしまうと、音はなくなった。やがて聞こえてきた、彼女の静かな寝息があるだけだった。

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