
飲むな、読め。ー牛乳は牧場の自伝である―【第六回 四分の四拍子で、まわる。】
晩ごはんの後、お茶を入れていました。
夫はテーブルに向かって、また図面と格闘しています。パスチャライザーの図面です。市販のものは、いちばん小さいものでも私たちには大きすぎるので、自分で作るしかありません。ここのところ毎晩、同じ姿勢で座っています。
急に、夫が声を出しました。
「いち、に、さん、し。いち、に、さん、し」
手が動いています。指揮者のようです。歌でも歌っているのかと思いました。
そのうち、こう言いました。
「四秒に一回まわれば、1分間に15回まわる。四秒に一回転、それは四分の四拍子だ。実に美しい」
隣にいた娘が、顔も上げずに言いました。
「違うよパパ。あれは四分の四拍子じゃなくて、ただのテンポの問題だよ」
思わず、口をはさみました。
「音楽鑑賞してるの」
親子が、声をそろえて言いました。
「違うよ。パスチャライザーのモーターの回転速度の検討です」
お湯を注ぐ手を止めて、しばらく二人を見ていました。
拍子ではなく、テンポだ、と娘は言いました。たしかにそのとおりです。四分の四拍子というのは、拍の組み立て方のことで、速さのことではありません。同じ四分の四拍子でも、速くも遅くもできる。
けれども、そう言われてもなお、夫の言い分も分かる気がしました。
1分間に15回。四秒にひとまわり。牛乳をむらなく温めるために、あの羽根はその速さでまわらなければならない。速すぎても、遅すぎてもいけない。その一点だけが正しい、という速さが、この世にはあるようです。
美しい、と夫は言いました。図面の上の数字を見て、そう言いました。私にはまだ、その数字の美しさは分かりません。けれど、美しいと言ったときの夫の横顔は、覚えています。
その晩から何日か経って、図面ができあがりました。
夫が納得できる形になるまで、ずいぶんかかりました。パスチャライザーの図面。冷却器。乳処理室の間取り。全部です。
業者に聞いていた見積もりは、三千万円でした。
三千万円。それだけあれば、牛が何頭も買えます。牧草地を広げることもできます。家を直すこともできます。その金額を、殺菌の機械と設備に使う。私たちの規模では、どう考えても出せない数字でした。
四百万円で、できそうです。
夫の図面が、その数字を出しました。市販の機械を買うのではなく、仕組みを理解して、必要な部品だけで組む。それで、七分の一以下になりました。
数字を聞いたとき、私は何も言えませんでした。
先日、その図面と設計図を、すべて保健所に出しました。
担当の方は、図面を受け取って、開きました。
それから、長い間、黙っていました。
何度もページを行き来して、途中でパソコンを開いて、何かを調べていました。こちらは、ただ座って待っていました。時計は見ませんでした。
しばらくして、その人が顔を上げて、微笑みました。
「いいじゃない。これでいきましょうか」
帰り道のことは、あまり覚えていません。
何日も止まっていたあの線が、通りました。通ってしまえば、ただの線でした。
けれども、いちばん難しかったのは、その後でした。
こういうパスチャライザーを、実際に作って、設定できる人がいません。
電気屋さんに図面を見せました。首を振られました。設備屋さんにも持っていきました。同じでした。水道屋さん、建築士さん。何軒も訪ねました。
作れない、と言われたのではありません。そういうものを見たことがない、と言われたのです。
見たことがないものは、作れない。それは、当然のことです。
見つけてくれたのは、町のお年寄りでした。
つてをたどって、町の中にいる職人さんを紹介してくれました。もう若い人ではありません。
その職人さんは、何度も牧場に来ました。夫と図面を広げて、現地を見て、また来て、また見て。来るたびに、難しい顔をしていました。何か聞きたくても、聞けませんでした。
最後に来たとき、その人は言いました。
「大丈夫です。何とかなる」
それだけの言葉でした。
けれども、その一言を聞くために、私たちは何か月も歩いていたのだと思います。
インターネットにも、カタログにも、どこにも載っていませんでした。相談できるところは、全部相談しました。それでも見つからなかったものが、この町の中に、ずっとありました。
必要になるまで、誰もそれを知りませんでした。その人が持っていることを、その人以外は、たぶん忘れていました。
残っていることと、知られていることは、別のことでした。
町の中には、まだそういうものが、幾つも残っているはずです。
これから、本格的に動きます。
4秒に1回転。1分で15回。冬に殺菌機が動き始めたら、あの部屋の中で、その速さで羽根がまわり続けることになります。
拍子ではなく、テンポだと娘は言いました。
けれども、4秒にひとまわりを、毎日、何時間も続けるのだとしたら、それはもう、速さの話ではないような気もします。美しいと、夫が言った速さ。
あの晩、テーブルで「いち、に、さん、し」と数えていた声が、機械の中で、まわり始めます。
(次回へ続く)
この連載は、北海道・陸別町の小さな放牧牧場が、六畳の乳処理室を自分たちの手で作り、保健所の許可を取るまでの記録です。六畳の中から生まれる牛乳の名は、「考える牛乳」。集乳車には乗せられなかった物語を、瓶に詰めて、ひとつずつ届けていきます。
長雨 ドッテテファーム
#牛乳は牧場の自伝である