こちらがお部屋の鍵でございます。|渚は今日も遠回り
最近、恋愛本を片っ端から読んでいる。
……しかし、どうやら私は、読みすぎたらしい。
小説。
漫画。
実用書。
いつの間にか、本棚の一角は恋愛コーナーになっている。
恋愛はどちらかというと得意ではない。
だから、少し勉強してみようと思った。
恋愛に取説があるのなら、それを読まない理由がどこにある。
私はそっとページをめくる。
「女性から積極的に行動しましょう。」
なるほど。
確かに、少女漫画では後々付き合う2人ほど、最初はよくぶつかっている。
あれも積極的に行動しているということなのだろうか。
さらに読み進める。
「好意は早めに伝えましょう。」
なるほど。
気持ちにも旬があるのか。
「相手を安心させましょう。」
安心かぁ。私からあげられる最大限の安心とはなんだろう。
このように恋愛にも、ちゃんと正解ルートがあるらしい。
私は静かに本を閉じた。
今日の勉強は、ここまで。
……でも、この「積極的」「早め」「安心」という言葉が、私を思わぬ妄想ワールドへ連れていくことになるなんて、
このときはまだ知らなかった。

「相手を安心させましょう。」
安心かぁ。
私は腕を組んだ。
私から相手に渡せる、一番大きな安心って何だろう。
こういう問題は、じっくり考え込むタイプの私だ。
財布。
いや、生々しいだろ。
お守り?
私は嬉しいけど人によるか。
……。
合鍵!
家の鍵か。
私は小さく頷いた。
悪くない。
例えるなら、家まで相手に委ねているようなものだ。
相当である。
気付けば、頭の中でデートの帰り道を想像する。
駅まで送ってくれると言う彼と、二人並んで商店街を歩く。
夕焼け。
ぬるい風が前髪を揺らす。
焼き鳥の煙が風に乗って流れてくる。
駅まで続く帰り道。
少し立ち止まる。
数歩先を歩いていた彼が、それに気付いて振り返った。
私はバッグに手を入れ、指先で探す。
「はい、これ……。」
少し照れながら差し出す。
「家の鍵」
彼は一瞬目を丸くして、私と鍵を交互に見る。
それから、そっと手を伸ばし、鍵が彼の手に渡った。
カチャ…

うん。
これで、私の信頼も一緒に渡せたはずだ。
……でも、ちょっと待て。
恋愛本には、こうも書いてあった。
女性から積極的に。
好意は早めに。
相手には安心を。
……ということは。
最後に渡すんじゃ遅くない?
それなら。
最初から渡しておけばいいのでは。
私は一人、小さくうなずいた。
名案だ。
……。
……でも、これって。
会って早々に部屋の鍵を渡す人、だよね。
あれ……。
そんな人、どこかで見た事ある気がしない?

ウィーン——。
大きなガラスの自動ドアが、静かに左右へ開いた。
外の熱気が、一瞬だけロビーへ入り込む。
ほのかな花の香り。
磨かれた大理石の床に、響く靴音。
コツ、コツ、コツ。
私は正面へ向き直った。
両手を身体の前で重ね、ほんの少し口角を上げた。
「いらっしゃいませ。」
お客様がフロントの前で足を止める。
「本日はご宿泊いただき、誠にありがとうございます。ご予約のお名前を頂戴してもよろしいでしょうか。」
予約を確認する。
名前に不備はない。
「恐れ入りますが、こちらにご記入をお願い致します。」
私は宿泊者カードとペンを、お客様の正面へ差し出す。
記入を確認し、フロントの内側からルームキーを取り出した。
銀色の鍵。
深い紺色のキータグには、金色の数字が刻まれていた。
753。
「こちらがお部屋の鍵でございます。」
お客様の手に、鍵が渡る。
「お部屋は7階、753号室でございます。エレベーターは右手奥をご利用くださいませ。」
さらに続ける。
「ご朝食は1階レストランにて、午前7時よりご用意しております。」
これで、一通りのご案内は済んだ。
「それでは、ごゆっくりお過ごしくださいませ。」
深々と一礼する。
お客様の足音が遠ざかっていく。
チン——。
エレベーターの扉が静かに閉まった。
私はゆっくり顔を上げる。
口元に残っていた笑顔が、少しずつ消えていく。
……。
フロント奥の椅子に、ドスンと腰を落とした。
背中を丸くする。
やってしまった。
膝の上で、拳を固く握る。
「チェックインさせてどうするっ!!」
気づいたときには、ホテルマンだった。

……。
我に返る。
いつもの部屋だった。
目の前には、開きっぱなしの恋愛本。
革靴の音は消えた。エレベーターの音も。
静かな部屋。
ふと、テーブルにある鍵が目に入る。
毎日手にしている、見慣れた鍵。
……。
てか。
そもそも、家の鍵って簡単に渡すものじゃないよね。
相手を安心させるつもりが、これでは私の家の安全がずいぶん心配になってくる。
鍵を、いつもの場所へ戻す為に立ち上がった。
カチャ…。
恋愛は単純じゃないな。
本を何冊読んでも、きっと全部がその通りにはいかない。
それでも誰かを知って、少しずつ近づいて。
時には、間違った方向へ進んでみたり。
戻って。
転んで。
また進む。
そうやって、遠回りした分だけ誰かの心に近づけると、今は信じたい。
今日もひとつ、驚いて。
今日もひとつ、恥ずかしくなって。
それでも今日という日は過ぎていく。
渚は今日も遠回り。

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