少し、お花を摘んできます。|渚は今日も遠回り
勝った。
私は勝ったのだ。
長きに渡る戦いだった。
どれだけの艱難辛苦を乗り超えてきた事だろうか。
泥を踏み、
雨に打たれ、
夏の日差しに、焼かれながらも。
転んで、立って、また歩く。
その繰り返しが、今日までの私だった。
どれほどの試練を乗り越えてきたことだろう。
どれほどの汗と涙を流してきたことだろう。
私はついにこの日を迎えたのだ。
プシュッ。
私の時代がこの部屋のみに開幕した。

週末の夜が好きだ。
今日は目覚まし時計に、休暇届けを出して貰おう。承認印は、もちろん私が押しておく。
「目覚まし君。君の休暇は、受理された。思う存分羽を伸ばしてくれたまえ。」
「え? ハワイ? ……君、ずいぶん思い切った有給申請を出してきたね。」
「……仕方ない。今回は特別だ。行っておいで。」
そんなこんなで、明日の朝はゆっくりでいい。昼までお布団と仲良くしていよう。
それだけで、冷蔵庫から取り出すお酒が少しだけおいしくなる気がする。
「プシュッ」この音には一週間を強制終了させる力があるようだ。
その夜の私は、見ての通り上機嫌だった。
飲んで。
食べて。
また飲んだ。
気づけば、頬を赤らめて笑うような可愛い酔い方ではない。
そこにいたのは、いい具合に仕上がった私である。

そして寝る前、私はフラフラの足で台所に立つ。
明日の私に、少しだけ優しくしておこうと思った。
お酒を飲んだ日は、水を飲んだほうがいいと聞いたことがある。
コップへ水を注ぐ。コポコポ…
一杯。 グビグビ……もう一杯。グビグビ。
明日に残したくない私は、水をガブガブ飲んだ。
なんとなく、これで明日の私は大丈夫な気がする。
未来の自分への水分による援護射撃である。
私は満足して眠った。

翌朝。
目を覚ます。
今日はいつもより少しだけ遅い朝だ。
「お昼まで寝る」と宣言していた私は、どこへ行った。
カーテンの向こうは、既に夏の朝の色をしている。
取り敢えず私は台所へと向かった。
朝はインスタント味噌汁を飲むのが日課にしている。こういうところだけは、妙に真面目である。
いつものように、電気ポットの給水窓を覗き込んだ。
空だった。
これは良くない。
お湯が沸くには、少し時間がかかる。
私が愛用するポットは満水を沸かすのに十分以上かかる。
朝の味噌汁を飲むには、まずは水を入れる事が最優先だ。
空になったポットの蓋を開け、シンクで水を入れ始めた。

サラサラサラ。
今日に限って、いや、いつもの事だが。
うちのアパートは、とにかく水の勢いが弱い。
蛇口の水は、急ぐ気なんてまるで感じさせない程ののんびり屋さんだ。
今日も今日とて、水位が上がらない。
数分も眺めていると、私の頭は勝手に映画を1本撮り始める。
頭の中が少しだけ騒がしくなってきた。
……
……
その時、脳内作戦本部に緊急入電があった。
野営地の作戦テントに、緊張が走る。
地図を囲んでいた隊員たちが、一斉に顔を上げた。
「……ザーッ……こちら前線――ザーッ。」
途切れ途切れの無線が、緊急事態だけを伝えてきた。
「渚司令官、こちら前線。応答願います。」
「こちら本部。送れ。」
「緊急事案を報告します。」
張りつめた空気だけが、テントの中を満たしていた。
「司令官。緊急報告。
生理現象レベルAを確認。直ちに対応を要請します。」

軍用テントから、音が消えた。
誰かの手からこぼれた落ちた鉛筆が、静寂を裂くように乾いた音を残した。
私は作戦地図へ目を落とす。
第一目標。
給水任務、継続中。
水位……およそ二割。
「……よりにもよって、今か。」
隣りにいた副官は報告書に目を落とし、小さく一度咳払いをした。
「申し上げにくいのですが……」
「言ってくれ。」
「生理現象レベルAについてですが、タンクの内圧が限界のようです。」
私は状況を理解した。
「昨夜、司令官が水を必要以上に飲まれたことが、主な原因かと。」
「それ以上は言うな。」
心当たりしかない。
「現在の状況は?」
「限界が近づいております。猶予はほとんどありません。」
まずい。
しかし、給水班はあんなに一生懸命頑張ってくれている。
私が持ち場を離れてよいのか?

あの設備を攻略しなければ、作戦は終わらない。
隊員たちは、本気で戦っていた。
なのに、作戦を揺るがしているのは新たに入った――排出任務。
そして、原因は、私だった。
深く息を吸い、顔を上げる。
まだ終わっていない。
給水班が戦い続ける限り、司令官である私が先に諦めるわけにはいかない。
「司令官。」
副官が静かに口を開く。
「現状では、作戦成功の見込みは極めて低いと判断します。」
私は黙ったまま地図を見つめた。
「今なら、作戦を中止しても誰も責めません。」
私はゆっくり首を振る。
「……いや。給水班の状況は?」
「現在も給水を継続しています。」
私は息を吐いた。
「なら、司令部だけが任務を放棄するわけにはいかない。」
副官は小さくうなずく。
「では提案があります。給水量を減らしましょう、その間に司令官は排出任務を遂行してください。」
私は腕を組む。
「つまり、両方成功させる作戦か。」
「はい。」
私は立ち上がった。
「悪くない。」
「……両方、獲る。」
副官は敬礼した。
「了解。新たな作戦を開始します。」

「給水班へ伝達。」
副官が無線機を握る。
「給水量を減らせ。司令官は一度持ち場を離れる。」
『了解。給水を減らします。』
私は地図を丸めた。
「司令官……どちらへ?」
「少し、花を摘んでくる。」
テントが静まり返る。
「お一人で、ですか!?」
「そうだ。」
「護衛を付けます!」
「不要だ。」
「しかし、危険を伴います!」
私はヘルメットをかぶり直し、あご紐をキツくしめた。
「この任務は、一人で十分だ。」
副官は姿勢を正した。
「……ご武運を。」
「給水は頼んだ。」
私は排出任務の現場へ走り出した。

排出任務は、想定以上に速やかに完了した。2分もかかってないかも知れない。
私は全力で駆けた。
もう…溢れている。
そう思った。
地面を流れる水。
必死に土嚢を周囲に積む給水班。
副官の「もう持ちません、決壊します!」と叫ぶ声が聞こえてきそうだ。
最悪の光景ばかりが頭をよぎる。
私は現場に飛び込み叫んだ。
「副官!水位は?」
「司令官、もうお戻りで。」
「状況を聞いているんだ。答えろ。」
「28%です。」
「28?」
副官は、報告に誤りがないと言わんばかりに敬礼した。
……
……
「このアパート、どうなってんだぁーーー!!」

やがて、お湯が沸いた。
私はお椀にフリーズドライの具材を入れ、味噌汁を作った。
湯気が、ゆっくり上がっていく。
あれほど慌ただしかった朝も、椀の中を覗けば不思議なくらい穏やかだ。
大騒ぎしたのは私だけで、朝は最初から何も変わっていなかったのかも知れない。
味噌の香りを吸い込む。
ようやく朝が始まった気がした。
今日もひとつ、驚いて。
今日もひとつ、恥ずかしくなって。
それでも今日という日は過ぎていく。
渚は今日も遠回り。

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