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「葉っぱ売ります」という張り紙|渚は今日も遠回り


夏の空は、前触れもなく機嫌を変える。

重たい雲が空を覆ったと思った時には、酷い夕立ちが世界を変えた。

あと少しだったのに。

近所のドラッグストアからの帰り道だ。

近くだからいいだろうと、傘を持たずに家を出たらこのざまだ。天気と自分にがっかりする。

私はびしょ濡れのままアパートの共用スペースに走り込んだ。

怪しく生温かい風が、エントランスにまで吹き込んでいる。

風に乗った雨粒が、廊下の色を部分的に変えている。そこへ繋がるように私の雫が線となって続いていた。

幸い靴の中までは濡れて無さそうだけど、髪から服に至るまで濡れている。

早く帰って熱いシャワーでも浴びよう。

そう思って濡れた前髪を払いながら、集合ポストへと向かう。

その時だった。

サビサビのポスト付近の壁に見慣れないA4用紙が貼ってある。四隅はガムテープで厳重だ。

その小さな手書きの張り紙に私は目を奪われた。


葉っぱ売ります。必要な方は管理人まで。

辺りは一瞬暗くなったと思うと、瞬間ピカリと光る。

稲光が雷鳴と同時に周囲を震わせた。

白くゴツゴツした壁には、私の影を一瞬だけ大きく浮かばせる。

私は立ち止まったまま動けない。

もう一度読む。

葉っぱ。

……葉っぱ?確かに葉っぱと書かれている。

その紙片は昨日はあっただろうか。覚えていない。

いや、帰宅すれば自然とポストに足が向く。昨日は無かった。じゃあ、今日から貼ってあったのかもしれない。

貼られている紙は湿気をだいぶ吸った後なのか、ひどくボヨボヨしている。

葉っぱ…野菜のことか?

でも、野菜なら「野菜」と書く気がする。或いは、人参とか、ほうれん草…とか固有名詞を書くだろう。

私は管理人室の方へ目を向けた。

ガラス張りの窓は、ベージュ色のカーテンで隙間なく閉ざされている。ここからでは人の気配すら感じることはできない。

あの部屋の中で何を栽培しているというのだ。


服が濡れたからか、背中を冷たいものがゆっくりと這い上がるのを感じて私は身震いする。

雨音だけが静かなエントランスに響いている。

私はもう一度、張り紙の文字を読み返す。

……私の考えすぎだよね。

そう思いながら、踵を返した。

胸騒ぎを抱えたまま、私はその場を後にする。

気づけば、足音を殺している自分がいる。

歩幅も少しずつ大きくなって、逃げるようにエントランスを離れた。

階段には、私が通ったことを告げる濡れた足跡だけが残っていた。


翌日。

仕事を終えて帰ってくると、私は真っ先に集合ポストへ向かった。

張り紙はまだあった。

そして、一行増えていた。

いくらでも。

私は息をのんだ。目の前がクラっとなる。

増えた……。

いや。

落ち着こう。

落ち着いて考えよう。

私は周りを見回した。

誰も驚いていないように見える。

住人は普通に出入りしているし、私だけが過敏になり過ぎているだけかもしれない。

だけど。

それが、逆に怖かった。

私の知らない所で、このアパートには暗黙の了解があるのかもしれない。

皆、知ったような顔で暮らしている。それが、私に孤独感を増幅させた。

このまま見過ごしていいのだろうか。

一度、警察に話した方がいい気がしてくる。

だけど、相談するには、まだ証拠が足りない。

でも、ほんとうに危ない物だったら……

本気で怖かった。

今のところ私に危害が及んでいるわけじゃないし。

もし仮に、警察にチクって管理人さんから報復を受けることになったとしたら……その先を想像すると背筋が凍る。

ここは、様子を見るのがいいのか……

関わらない方がいい。頭ではそう思っているのに、張り紙から目を離せない自分がいた。


数日後。

エントランスの暗がりで、管理人さんが入居者のおじいさんが立ち話しをしているのを目撃した。

私は少し離れた場所で足を止める。嫌な想像が膨らむのを我慢できなかった。

アパートに入らず、外の壁際で聞き耳を立てる。

管理人さんは、慣れた手つきで半透明のビニール袋をおじいさんに手渡した。

おじいさんは嬉しそうに笑い、何かを管理人さんに渡している。見返りか。

やっぱりである。ついに現場を目撃してしまった。

葉っぱを渡して、代金を受け取っている。

私は思わず息を止めた。知らなくていいことを知ってしまった。

その時だった。

「これで美味しい大葉味噌が作れるよ。ありがとーね。」

おじいさんが笑った。

「……?」

管理人さんも笑う。

「大葉でしたら、醤油漬けも美味しいですよ。今度お試しになさって下さい。」

……大葉。

えっ、あの大葉?

もしかして、大葉の話だったの?ずっと?

私はその場で固まった。

そういうことだったんだ。

管理人さんは家庭菜園が趣味だった。

張り紙の「葉っぱ」は、大葉のことだった。

胸の中で、何かが静かに崩れた。

膝から力が抜けそうになるのを堪えて、私はエントランスに足を向けた。

「あっ、あらあら、渚さん。元気?毎日暑いねー」

管理人さんが私を呼び止めたのだ。

「どうしたの?顔青いけど、ちゃんとご飯食べてるの?」

私は頷く。

「あ、お世話様です。はい、ちゃんと食べてます。」

管理人さんは笑いながら、小さな袋を差し出した。

「大葉、持ってく?栄養たっぷりだよ。」

「あ……ありがとうございます。」

私は両手で受け取った。

少しだけ、顔が熱くて、変な汗をかいていた。

後々調べたら、確かに大葉は栄養素が多い。

β-カロテン、ビタミンK・C、カルシウムにそれに鉄分も豊富に含んでいるらしい。

あの張り紙は、実は健康への入り口だったのかもしれない。

私だけ勝手にサスペンスを始めていただけで、大葉は実に優れた「葉っぱ」だった。

世の中には、知らない方が怖い事と、知れば笑える事があるらしい。

次は大葉の醤油漬けに挑戦するつもりだ。


今日もひとつ、驚いて。

今日もひとつ、恥ずかしくなって。

それでも今日という日は過ぎていく。

渚は今日も遠回り。



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