
薬膳茶房 時巡り 最終話:花の頃の蓬餅
桜が散りはじめていた。
冬のあいだ、佐和子は少しずつ変わっていた。
定時で上がる日をつくるようになった。休みの日には、下手なりに台所に立つようにもなった。
あの冬、槙野の店から取り寄せた菓子は、年の瀬に静かに味わった。
素朴な、けれどていねいな味だった。それを口にしたことで、長いあいだ胸の隅に居座っていた後ろめたさに自分なりの小さなけじめがついた気がしていた。
遠野はあのあと少しずつ、休むことを覚えたようだった。この春には、
初めて任された作家の本が無事に書店に並んだ。
そんなうららかな春の夕暮れ。佐和子は、久しぶりにあの路地へ向かった。
悩みがあるわけではなかった。ただ、このやわらかな季節の空気をあの店の窓辺で味わいたかった。それだけの理由で暖簾をくぐれるようになった自分が、少し可笑しかった。
表通りから一歩入ると、いつものように街の音がすっと遠のく。
板塀のうえから、どこかの庭の桜が枝を差しのべて、はらはらと花びらを
散らしていた。
ガラガラ、と引き戸を開ける。ちりん、と鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
奥から出てきた店主は佐和子の顔を見て、ああ、といつものように
やわらかく目を細めた。
「お待ちしていました……と言ったら変でしょうか」
そう言って、少しいたずらっぽく笑う。
窓際の席に腰を下ろすと、佐和子はふと言った。
「なんだか今日はいい匂いがしますね。香ばしい、草の匂い」
「よくおわかりで」
店主は嬉しそうに頷いた。
「蓬です。今朝、そこの土手で摘んできたんですよ。この季節だけの
香りです」
店主が、帳場の古い本の前に立つ。ページにそっと手を添える。
今日は指を迷わせることもなく、まるではじめから決まっていたかのように、すっと一枚の頁が開いた。
「ええ。今日はこれですね」
やがて盆が運ばれてきた。
小皿にふたつ。よもぎの濃い緑をした餅。きなこがやさしくまぶしてある。ほろりと湯気を立てて、青い春の匂いが鼻先をくすぐった。
「蓬餅です。蓬はね、体をあたためて、血のめぐりをよくしてくれる。
昔から、春にみんなで摘んでこしらえてきたものです」
佐和子は、ひとつ手に取った。やわらかく、あたたかい。
ひと口頬張る。
よもぎの青くさい、けれどどこか甘い香りが口いっぱいに広がった。
きなこの香ばしさが、それをやさしく包む。
(ああ、春だ)
そう思った、その瞬間だった。
立ちのぼる湯気がゆらりと揺れて、店内の輪郭がその向こうへとにじんでいった。
ひばりの声が青い空から降ってくる。
佐和子は、うららかな春の野に立っていた。
見わたすかぎりの若草。そのなかに、幾人もの人影が腰をかがめて蓬を摘んでいる。手ぬぐいを姉さんかぶりにした女たち。籠を背負った子ども。みな笑いさざめきながら、春の野を楽しんでいる。
そのなかにお千代がいた。
若い。まだ二十歳そこそこだろうか。頬を桜色に染めて、隣の娘と何か話してはころころと笑っている。摘んだ蓬を大事そうに籠へ入れていく。
やがて日が傾く頃。
お千代たちは、摘んだ蓬を持ち寄って餅をついた。湯がいた蓬を搗きたての餅に練り込むと、みるみる鮮やかな緑に染まっていく。つきたてを、みなでちぎっては頬張り、笑い合う。
お千代は、そのこしらえ方を書きかけの帳面に楽しげに書きつけていた。
「蓬餅。春、土手にて摘む。みなで搗くと、なおよし」
そのあたたかな光景に、佐和子はしばらく見とれていた。
三百年前も、人はこうして春の野に出て草を摘み、餅をつき、笑い合っていたのだ。なんでもないようでかけがえのない、春の一日。
はっと目を上げると、そこは窓際の席だった。
手の中の蓬餅は、まだあたたかい。
いつの間にか、店主が佐和子のテーブルの向かいに腰を下ろしていた。
こんなことは初めてだった。いつもはカウンターの奥から、静かに見守っているだけの人が。
店主は自分のぶんの蓬餅をひとつ、手にしていた。そして、それを見つめながら、ぽつり、ぽつりと話しはじめた。
「私にもね、昔、一緒に蓬を摘んだ人がいたんです」
佐和子は、湯呑みをおいた。
「結婚式をあげるはずでした。その春、二人で蓬を摘んで、慣れない手つきで蓬餅をこしらえてね。不格好で、可笑しくて。二人で笑って」
店主の目もとがほころぶ。けれど、その奥に深い翳りがあった。
「でも、その次の春を待たずに、その人は逝ってしまいました。
突然の事故で、あっけなく」
店内に、しんと静けさが落ちた。桜の花びらが一枚、窓の外をよぎっていく。
「私は、しばらく何もできませんでした。ごはんも喉を通らない。
彼のいない世界に取り残されて」
店主は、何かを堪えるようにひと呼吸おいてから続けた。
「そんなとき、ふらりと迷い込んだのがこの店でした。
今の私と同じように、名も知らぬ先代の店主が、黙って蓬餅を出して
くれました。
そして私は、湯気の向こうで彼と逢えたんです」
店主はそう言って、目を閉じた。
「もう一度だけ、春の土手であの人と蓬を摘めた。
不格好な餅を、一緒に笑えた。
そしてちゃんと、さよならが言えたんです。
感謝と別れの言葉を、伝えることができた」
柱時計が、こつ、こつ、と静かに時を刻む。
その音のあいだを縫うように、桜の花びらが窓の外を流れていく。
佐和子は、ただこみあげてくるものをこらえて、
店主の静かな表情を見つめていた。
「そうして、私はやっとまた歩きだせました。
とても時間がかかったけれど」
店主は、ひとくち蓬餅を口に運んだ。
それから、ゆっくりと言葉をつづけた。
「先代がこの店を私に譲ってくれたとき、訊いたんです。
こんな私に、いったい何ができるんでしょうか、と」
窓の外の、暮れかけた春の空を店主は見やった。
「そうしたら、こう言われました。苦しいことは誰にでもある。
それを無くしてあげることなんてできない、と」
店主の声が、静かに店内にしみていく。
「人が、人にしてあげられることはほんのわずか。
でも、ほんのいっときでも、あたたかいものを食べて、心がほどける。
忘れていた誰かの温もりを思い出す。そういう場所がひとつあってもいい。そう教わりました」
そして、店主はまっすぐに佐和子を見た。
「ただ、疲れた人がふっと寄れる。いっとき息をついて、また歩いていける。そういう灯りをともして待っていたい。それだけなんです」
それだけなんです、と言ったその声の色を、佐和子はいつまでも
忘れないだろうと思った。
この店で、私が幾度も救われた気がしていたもの。
あれは、大きな奇跡なんかじゃなかった。
ただあたたかい一杯と、湯気の向こうの遠い誰かの温もり。
その、ほんのいっとき。
それがどれだけ有り難かったか。
会計を済ませ、佐和子が引き戸に手をかけたとき。
店主がふと呼び止めた。
「瀬川さん」
初めて名を呼ばれた気がした。
店主は、帳場のあの古い本にそっと手を添えて微笑んでいた。
「あなたはこの店に来るたび、少しずつご自分で答えを見つけていらした。そういう方は、そう多くないんですよ」
それがどういう意味なのか。佐和子には、まだわからなかった。
けれど、その言葉の奥にあるものが、いつか自分に手渡されるものの
ような。そんな不思議な予感がした。
その時、佐和子は気づいた。この店に幾度も通いながら、自分はこの人の
名前を知らない。
「あの、失礼ですが、お名前をうかがっても」
店主は少し目を見張って、それからはにかむように言った。
「千歳、といいます。宮下千歳」
千年の千に、歳月の歳と書くのだと、そう言った。
その名を胸のうちでそっと繰り返して、佐和子はふと、お千代を思い出していた。
偶然だろうか。長い長い時をこの店で受け継いできた人の名に、
どちらも同じ「千」の一字が。
「また来ます」
そう言うと、店主はこれまででいちばんやわらかく笑った。
「ええ。いつでも。この店はずっと、ここにありますから」
暖簾をくぐると、春の宵がやさしく佐和子を包んだ。
いつか、遠いいつか。私も誰かのために、あたたかい一杯をそっと差し出す日が来るのかもしれない。あの湯気の向こうのお千代さんや
名も知らぬ先代の店主、そして千歳さんのように。
見上げると、桜が街灯の光にほのかに浮かんでいた。
はらはらと散る花びらの、その一枚一枚が、これからちゃんと来年の春へと繋がっていく。
谷中の路地の、その突き当たりで。
『薬膳茶房 時巡り』のあたたかな灯りは、今日も静かに暖簾を照らして
いる。
(了)