
語彙・語意・吸ゥー
間を繋ぐための会話をすることが、非常に苦手である。
つまるところ、雑に談笑する雑談力というものが著しく欠如しているということだ。どちらかというと、私は会話の種を渡されたら、その種をよく成長し、多く枝分かれをして、綺麗な花を咲かせることができるようにたくさん水を与えることはできる。しかし、どうしてもその種を見つけることが不得手である。
1を無限大に変化させることはできても、大事な0から1を創り出せないのだ。だから、手放しで常に話してくれる人は、救世主のように光り輝いて見える。少しの合いの手を挟むだけで、水を得た魚のようにどこまでも泳いでくれるからだ。
似た話ではあるが、私は人見知りでもある。初対面の人がこわい、知らない人がなにをもって私と対面しているのか末恐ろしい。いきなり熱量の高い人は要警戒対象だ。
もちろん、誰にでも警戒心を抱いているのではない。以前、友人には、
「仲良くなるとめちゃくちゃ喋るよな」
と言われたほどだ。逆に、警戒心を落としてきてしまう。
ここで私は思う。気持ちの問題は気持ちの問題でしかなく、それ以上でもそれ以下でもないのだと。
確かに、雑談は苦手だが話ができないわけではない。確かに、人見知りで親しくない人が未確認生物だが話ができないわけではない。
それが、もし病気的に処方される何某があるのなら話は別だろう。でも、私はそうじゃない。年齢も20歳を超えて社会人として生きる今、雑談が苦手だから、人見知りだからと会話を避ける人間は、申し訳ないがその人の努力不足ではないかと思う。プライベートであれば、そこを汲み取ってくれる人といればいいが、社会はそうじゃない。人見知りの自分からしても、
「自分、人見知りで…。」
が、開口一番に来ることは、最強の守りのようで逆に特大の攻めだ。相手は余計話しかけてくれないし、いい大人がそんなことを開示すべきではないと考える。だから、少なくとも私は、人見知りだからと会話を避け続けることはしたくないと思っている。
私はとにかく雑に喋るようにしている。特に気になっていなくても気になるようにする。それが、もしかしたら自分に改革をもたらすかもしれないし、次の雑談になるかもしれない。こうして、話のタネになるかもしれない。会話の"かもしれない運転"である。とにかく話してみることを意識している。人は優しいから、案外聞いてくれるものだ。
その中で、読書量が人よりほんの少しだけ多い私は、語彙力を褒められることがある。だが、私はこれまで話してきた幾人の中で、本当に語彙力がある人の話というのは、難しい言葉を当たり前に使えることでもなく、素晴らしい比喩表現ができることでもなく、本当に伝えたいことを相手の芯に直接殴り込める人間だと思う。もちろん、先述の二点もすごいことだし語彙力だと思う。でも、私としては、自分の考えを自分の言葉で、自分の伝えたいように、直接響かせることができる人こそが語彙力のある人だと考えているのだ。
誰かが呟いていた、『なぜ本を読むのか、なぜ語彙力を増やす必要があるのか。それは真に伝えたいこと、伝えたい人ができた時に、何ひとつ余すことなく共有するための投資である』と。
その通りだと、私も思う。あとは、単純にエンタメとしておもしろいからでもある。私としては、むしろ後者の考えの方が強いのだが。