メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【掌編小説】とーべ

    「とーべ」「とーべ」「とーべ」
     タムと、りょうちゃんと、ケンジの声だ。後ろから「とーべ」と言われたなら、お前ひとり飛び込めという意味の、まるっきりイジメになってしまうが、声は下から聞こえる。先に飛び込んだあとで、太一を呼んでいるのだ。「ほら、お前も勇気出してみろ」と。
     そんなに高くない、ビビんなよ。自分に言い聞かす。それでも脚は震える。溺れたり、怪我をする心配はなさそうだ。強いて言えば、そろそろ海月が出始める頃だよなぁ、というくらい。でも、どうしたって、怖いものは怖い。
    「とーべ」「とーべ」
     声が重なると、津波のように増幅する。その波に押し流されそうで、受けたエネルギーが今にも涙に変換されてしまいそうで、情けなくて、何かにすがりつきたくて、掴んだ桟橋の手摺りは、ほんの少し体重をかければ錆びたところからぽきりと折れてしまいそうで、どうにも心許ない。
     待ち侘びた三人が、下から水を飛ばしてくる。ビーチサンダル履きの足指が濡れて、ちょっと不快だ。
    「ばーか、やらねーよ」そう笑って踵を返して格好のつくタイプならいいが、そうでない太一がここで引き下がれば「ダサい」「ビビリ」と、からかわれるのがオチである。
    「とーべ」「飛ばない」「なんで?」「ビビってんの?」「飛ばないからね」「なんだよつまんねぇやつ」
     そうこうしているうちに六時のチャイムが鳴った。家路につく間も、三人は太一の後ろで「とーべ」を言い続けた。

     玄関には、年季の入った革靴があった。太一には一目で分かる。東京のお爺ちゃんだ。本家の古い家屋を引き継いだのは太一の両親で、毎年お盆には祖父母が里帰りに来る。去年まではお婆ちゃんも一緒だったが、今年はお爺ちゃんひとり。お婆ちゃんの墓は、太一の住む港町の外れの、見晴らしのいい丘にある。
     お爺ちゃんといえば空襲の話で、いつも同じ内容を太一に聞かせた。「ちょうどお前と同じ歳で」の出だしは、太一が一年生になっても、二年生になっても、三年生になっても変わらなかった。
    「あたり一面火の海で、『跳べ! 跳べ!』って声が聞こえてよ、爺ちゃん、火を潜り抜けたんだぞ。一瞬なら火傷しねえんだよな。いざって時にゃ勇気が肝心だからよう」
    「嘘おっしゃい。この人、防空壕で『お母ちゃんお母ちゃん』ってビービー泣いてたんだから」
     幼馴染だったお婆ちゃんのツッコミを含めて、去年までのワンセットだった。
    「太一、お爺ちゃんお風呂だから一緒に入りなさい。背中流してあげたらうんと喜ぶわよ」
     お母さんが言った。正直いうと少し嫌だ。クラスの中でちんちんの毛が生えているのは太一だけで、それを見られるのが恥ずかしい。
    「とーべ」
     三人の声が耳に残る。
     結局、「ずっとじゃないんだから、今のうちにお爺ちゃん孝行しときなさい」の一言に負けた。
     家族とはいえ、会うのはたまにだ。肌に触れるのはおろか、お喋りだって上手くできない。
    「とーべ」
    「今年は空襲の話しないね」
     毛のない頭をシャンプーするお爺ちゃんに言った。
    「嘘がばれちまったからなぁ。まああれだ、臆病なやつが最後は生き残るって落とし所で勘弁してくれや」
     お婆ちゃんを亡くしてから、明らかに小さくなった背中で笑った。
    「でもよ、臆病だと、その分後悔も……」
     最後の方はよく聞こえなかった。頭からお湯を被り、「次、お前が体洗え」とお爺ちゃんが言った。
    「とーべ」「とーべ」
     もう、湯に浸かって、百まで数えて、出てしまう。
    「とーべ」
    「待って、背中」
     そう言ってスポンジを泡立てた。
    「おっ、嬉しいなぁ。太一に背中流してもらうなんて」
     お爺ちゃんが満足そうに言う。こっちだって同じくらい嬉しくて、なんだかむず痒い。
     その時、太一は手摺りの向こう側にいた。三人に自慢はできない。飛んだのかどうかも分からない。でも、今はこれくらいでいい。
     いつの間にか「とーべ」は聞こえなくなっていた。

    【おわり】

    noteの文字数換算なので字下げ等の空白込みで1592字です。
    下記に参加させて頂きました。

     
     
     
    短編小説などを書きます。 長めのはtalesに載せます。

    あなたへのおすすめ