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作家の本懐

        

    あらすじ
     日本を代表する国民作家、碁目礫石(ご め れき いし)を襲った怪事件! 時は一九一六年、秋深まる十月の晩、絶叫と共に碁目は離れの書斎で喉を鋭利な凶器でかっ切られ倒れた。障子窓に飛び散る血飛沫。異変を聞きつけ、家人が現場に急行するが、扉は内側から固く閉ざされており、仕方なく鉈で打ち破った。離れの戸締まりは厳重であり、賊が潜んでいる形跡もなく、六畳一間の中央に横臥する碁目の死体があるばかりであった。家人は現場に見張りを立て、すぐに交番に連絡、難を知った巡査二名が駆けつけた。現場を簡単に検めた彼らは早速本庁に応援を求めるべく動いた。だが、本庁刑事が駆けつけるわずかの間に、今度は碁目の死体自体が張り番をする巡査の目と鼻の先で、密室状況下の離れから煙のように消え失せてしまう。碁目を殺めた下手人は、如何にして密室に出入りし、碁目本人は如何にして密室から消え失せたのか。碁目の友人、大学教授の梶田(かじ た)がこの謎を解くべく、立ち上がる!
     文豪夏目漱石を題材にした本格ミステリ。

     かつて世間を騒がせ、あっという間に人の口に登らなくなった事件の真相をこうした手記の形で残すのは、故人にとってあながち失礼には当たらないであろう。このささやかな手記は私の死と共に葬り去られるかもしれないし、はたまた死して数十年後に新発見資料として学界を震撼させるものとなるかもしれない。しかし、残念ながらその時にはほとんどの当事者は他界もしくは四散しており、真偽を確かめる手段は永久に失われているであろう。故に、この手記を真と取るか偽と取るかは、ひとえに読む者の判断如何に関わっているのだとも言える。私がこの手記を残すのは、ただ故人との友情ゆえのことである。私は故人の魂の叫びを直に受け止めた。だが、その叫びを受け止め、支え続けるだけの力を生憎私は持ち合わせていない。私の心は救いを求めている。それが原動力となって、私は今こうしてペンを走らせているのだ。別にこれをもって名を成し、財を成そうという気は毛頭もない。私は今ただ純粋な気持から原稿用紙に向かっている次第である。
     前置きが長くなりそうなので、この辺で本編に入ろうと思う。
     私の名は梶田尾ト吉。日本の最高峰学府T大で日本文学を教える五十になろうという大学教授である。何か人の作品を研究し、講義をする。試験をし、採点をする。他にこれといった能があるわけでもない。
     その私のかねてからの友人に斯界の大作家、碁目礫石がいたのだ。夕日新聞の専属作家として連載した作品が悉く人気を呼び、それらをまとめた書籍は飛ぶように売れ、著者に莫大な財を成さしめた。その碁目である。
     かの碁目が晩年、奇怪な死を遂げたことを諸君はまだ覚えておられるだろうか。その死をもって、彼の最後の作品「暗室」は残念ながら未完に終わった。不幸中の幸いなことに、彼の元には二十回分の連載原稿が残されていた。従って、「暗室」は作者の死後も掲載され、ついに絶筆となった。
     晩年の碁目は神経衰弱と持病の胃潰瘍に苦しめられつづけた。(持病と言っても、単なる食い過ぎからそうなっただけであって、最初からそうあったわけではもちろんない。)研ぎ澄まされた神経は時に高じて、執筆の合間の奇声となり、子供たちへの容赦ない暴力に変じた。彼の妻と子供たちは恐れをなして彼に近づかなくなり、勢い彼は一日中離れの書斎に籠るようになった。三度の食事は女中がおっかなびっくり書斎まで運び、夜が深まり家族が皆寝静まった頃、作家は一人寝屋へと向かった。そこにはもちろん家族は一人もいない。ただ主人の布団が魚の腹のように伸べてあるだけである。彼は布団に潜ると存分に身体を伸ばし、盛大な寝息を立てる。そしてあくる日、陽が出る頃女中が恐る恐る起こしに来るのを待つのだった。作家の異変は家族以外にも波及した。週一回の弟子達との交流会も、作家の病身を理由に開かれなくなっていった。周囲からの孤立と厭人癖の高まりは、彼を書斎の独善人へと変貌させた。そんな状況でも、彼の筆の勢いは留まることを知らなかった。荒廃した生活とは裏腹に、彼の小説は読者を熱狂させ、熱烈な信奉者を生んだ。このような状況が数カ月続き、ついに運命の日を迎えることとなった。
     時は西暦一九一六年、日本の年号で言うと大正五年の秋深まる十月の晩の事だった。その時碁目は御年四十九歳、数えで齢五十であった。ここで事件現場である碁目の書斎を語ることにしよう。
     書斎は本邸から渡り廊下で繋がった平屋の別邸だった。六畳一間と東に縁側、突き当たりに雪隠が付いただけの簡素な棟である。(別図参照)渡り廊下は吹き曝しではなく、瓦屋根と格子の硝子窓・板壁に囲まれた立派なものだった。その窓硝子を通して人の行き来がわかる。渡り廊下の西端は書生の間に通じている。つまりは、書生の間を通らなければ、自然と書斎に行けない仕組みになっている。書斎の周囲は垣根が巡らされ、間の地面にはツゲ・ヤツデなどの潅木が美観など関係なしに植わっているのである。
     渡り廊下から書斎の入口は頑丈な木の引き戸であるが、それ以外の南と東の出口は障子である。南側を開けると簡素な縁台があり、よく碁目はそこに寝そべって日向ぼっこをしていた。またその障子のすぐ西脇に碁目の仕事机が据えてあった。机の上には洋風ランプと原稿用紙の束が乗っている。机脇には夥しい参考書籍の塊。机の下には灰を入れ替えたばかりの丸火鉢が据えてある。天井からは傘つき裸電球が一つぶら下がっている。北側は壁だが、その前一尺二間が、板の間になっており、中央にずんぐりした花瓶が鎮座していた。事件当夜、その花瓶には萩の花が活けてあった。南の障子・東の縁側ともに雨戸の戸袋が付いているが、事件時には東の雨戸のみ立て仕切られていた。雪隠はごく普通のもので、北側に換気及び明かりとりの曇りガラス窓が、高い位置についている。その外側には木の縦格子が打ちつけてあった。
     碁目の屋敷は閑静な住宅街にあり、四囲は人の高さほどの垣根に仕切られているだけであった。北と東西は平屋だったが、南側にだけ二階建ての下宿屋があり、そこからは碁目の屋敷の中が見ようと思えば丸見えだった。実際、その二階の窓から碁目の日常を逐一観察している者がいたのである。その男の名を仮に高橋と呼ぶことにしよう。この高橋なる者は、一体何者だったのだろうか。作家の勤怠を厳しくチェックする新聞社の差し金、はたまた人気作家の日常を事細かに記録し、のちの伝記執筆の際の貴重な一次資料をものする者だったのであろうか。要するに彼は歴然たる監視者、すなわち一種の探偵だったにちがいない。碁目先生は、あらゆる職業の中でもっとも忌み嫌う探偵とこうして垣根一つ隔てて対峙していたわけである。
     その晩の惨事の発見者は、もちろんこの高橋であった。
     闇に轟くぎゃっという悲鳴。障子に飛び散る血飛沫、横たわる死体の影。高橋は下宿の窓の障子を開け、すわと首だけ外に突き出した。闇に浮かぶはそのような死の影であった。そのあと、高橋は何をしたか。何をするまでもない。これは面白い、そのまま高みの見物ときたのである。
     果たして間髪おかず、渡り廊下をドタドタ書生が駆けてきて、書斎の戸口の前に詰め寄った。引っ張ったり、押したりするが、戸はびくともしない。ドンドン叩くが、もちろん死人は動けず、中から何の反応も返ってこない。騒ぎを聞きつけ、書生の後からゆっくり女中が渡り廊下を進んできた。彼女とて何かできるわけでもなく、書生の背を見て呆然と佇むのみであった。
     「炊事場から鉈を持ってきてください」釜の脇には木を割る鉈がたいてい備わっている。女中は静々その場を去り、すぐに鉈を片手に戻ってきた。感心なことにもう片手には明々と火の灯る燭台が掲げられていた。
     鉈が振り下ろされ、扉の板が外れ、そこから手が差し込まれ、中の閂が外された。戸が開き、中に踏み込む二人。大声を上げる書生、女中の「旦那さまー」という叫び声。
     二人はそのまま部屋の戸を閉めて、警察を呼びに本邸に戻っても良かったかもしれない。しかし、勇敢な二人は激しく上下動する胸を宥め、主人を無惨にも殺めた賊がいまだにこの離れに潜んでいないか、確認に歩いたのである。
     室内の状況は凄惨をきわめた。机前の障子に飛び散る血飛沫、手足の投げ出され、ぴくりともしない碁目の身体。その横向きの顔の喉はぱっくり開き、今もどくどくと鮮血が畳に広がっている。普段あれほど腐心している自慢の頭髪と髭も無惨にひしゃげている。死体は机前から離れて部屋のほぼ中央、両手を廊下側に投げ出す形で横たわっていた。この怪異を嘲笑うかのように、死体と板の間の中間に置かれた洋式ランプが、黒々とした影を南側の障子に映し出していた。天井の電灯の灯は消えていた。書生は無惨な先生の状態に、一瞬ひるんだが、根底の勇気と冷静さを失わなかった。曲者はまだそこらに潜んでいるかもしれなかったのだ。
     「ああ、恐ろしいこった、恐ろしい……」女中の呟きが闇に尾を引いて消えた。めらめらと燃える燭台の炎は二人の影を徒に壁に躍らせている。
     「廊下に行ってみましょう」書生は自らを奮い立たせるかのように女中に声をかけた。先に立ってランプと死体の間をすり抜け、立て切ってある縁側の障子を開け、頭だけ出して様子を窺ってから、縁側に踏み出した。縁側は雨戸がびしりと引かれ、戸袋脇の一枚に閂がしっかり刺さり、さながら一枚の大板で縁がすっぽり覆われているかの観があった。女中がすぐ後に続き明かりを左右に振るが、もちろんそこに賊の姿はない。二人が進むは、縁の突き当たりの厠一箇所のみとなった。そことて扉を開けるだけで用は足りた。雪隠の穴は狭く汚く、人が身を潜むことは論外。黒々とした穴ばかり。扉を開けた正面には名ばかりの換気窓があるが、そこには外側から、幅一寸ほどの木の格子が打ちつけてあり、それは書生が揺すってもびくともせず、賊が打ち破った形跡は寸毫も見当たらなかった。この時点で、書生は既に賊はこの離れにはいないと結論を下し、女中と共に亡骸のある書斎に戻った。そこで書生は改めて碁目の身体に触れ、それが完全に呼吸を止め、全く死んでいることを確かめた。読者諸賢よ繰り返す、この時点で碁目は完全に死んでいたのだよ。
     その後の書生の判断も迅速・的確を極めた。女中に警察へ連絡をとらせたのだ。そうでなくとも、何やら表の方が騒がしくなってきた。がたがた表の扉を叩き、騒ぐ声がする。書生は警察が来るまで離れの扉の前で張り番をすることにした。
     ここまで書いた時点で読者諸賢は碁目を殺めた賊がどこから入りて、どこから出たか見当がついたと思われることだろう。それは机の向かう南側の障子戸からだと。だが、早とちりしてはいけない。南側には「探偵」高橋の目があったことを。書斎から断末魔の声が上がったとき、その刹那に高橋は二階の窓から外を見たのである。もちろん、障子を開けて出た者はいない。見えたのは障子に映る血と碁目の影ばかり。
     こうして、事件の怪異性は警察の到着と共に次第に裏づけられていった。だがこの怪異はまだほんの序の口に過ぎなかったのである。
     女中の電話でその町区の駐在から、いかめしい制服巡査が二名、闇夜を縫って早速駆けつけてきた。町の駐在ゆえ二名を出せば、たちまちそこががら空きになってしまう。ただ名士ということで野次馬の殺到が予想されたゆえに、本署の応援を待つまでの場繋ぎとして総出で来たのであった。立派な髭を蓄えた年配と、興奮で眼を血走らせている若造の二人である。果たして玄関口には黒山の人だかり。監視者高橋の通報で、すわ、各社の記者が我先にと駆けつけたのであった。玄関対応には若造を当たらせ、髭巡査は「頼む」と大声疾呼。女中が駆け出してきて、慌しく応対する。「離れの書斎です、ご主人様が」巡査は大きく頷き、女中に続こうとする。が、その前に上がり框で面倒な紐靴を脱がなければならない。それに少々手こずる。気持は焦るが、手は思うように紐を解いてはくれない。やっと脱ぎあげ、靴脱ぎに立て置いた。廊下をドタドタ離れへと進んでいく。
     張り番の書生は黙って巡査のために脇に寄り、引き戸の向こうを指さした。巡査は引き戸の割れ目に目を当てるや、戸を開け、中に踏み込んでいく。書生が後からゆっくりついていく。
     「こりゃ、ひどい」血に染まった死体と障子に広がる陰惨な血しぶきに顔をしかめ、巡査の声は上ずった。腰をかがめ死体の脈をさぐるが、完全に事切れているばかりである。すぐ脇の電灯の笠にぶつかりそうになる。
     「先生は、何者かに殺されたんですか」書生はかまととぶって、声を震わせる。
     「う、うむ……」巡査は歩をゆるめ、四囲に素早く目を走らせる。
     「飛び込んだとき、ざっと中を検めたんです……誰もいませんでした」
     「逃げた後だったんだな。おおかた、便所からでも逃げたんだろ」
     「それが、それが……逃げた形跡がなくて。どこも戸締りがしてあったんです」
     「それは本当か。そんな馬鹿なことがあるか」巡査は血の広がる南の障子を指さした。「ここなんか、どうだ」
     「閂がかかって、ぴたりと閉じてあります。見えませんか」書生は燭台を巡査の前にかざした。巡査は燭台を受け取り、障子に近寄った。木の閂が垂直に深々と刺さっているのが見える。元より血の飛び散る障子窓を開ける気心が知れない。机の上には可憐な萩の花を生けた花瓶が置いてある。それから巡査は燭台をかざし、先程の書生と女中と同じく、障子を開け東側の雨戸、北側の厠と検めていった。主人を殺めた賊が潜み、もしくは逃走した形跡はどこにも見当たらなかった。巡査は厠から書斎に戻る際に、灯りを天井にかざし、床を叩いて慎重に歩いた。書斎でも、死体をまたいで畳の具合を調べ、床の間の木床を踏んで調べた。片隅に蜘蛛の巣のはびこる高い天井はいずれも取り外しなどの異常は見られず、畳・床も同様であった。これは後の警視庁鑑識課の調査でも判明したことであった。
     「そちが斧で引き戸を破ってここに入る際も、引き戸には閂が刺さっておったんだな。それは確かか」
     「確かでございます、女中が私の脇にいて逐一見ておりました」
     ふむと、主任巡査は暫く沈思黙考した。玄関の騒ぎはひときわ大きく響いてくる。探偵小説愛好家なら、この現場の状況は完全な密室状況下だと判断されることだろうが、巡査の頭は状況の不可解さに惑うよりも、今後の対応を思案していたのである。
     「本部に応援を求めよう。電話をお借りして宜しいですかな。念のためだが、医者にも来てもらった方がいいかな」
     「先生はT大の某先生に胃腸を診てもらってましたが」
     巡査は苦く笑った。「今更その先生の出る幕はないな。近所の奥富先生に来てもらおう。万一ということは、まずないとは思うが」
     二人は書斎の外に出て、扉を立てた。書生が女中に巡査を案内する指示を出す。「あと、障子紙か何か詰めるものはありませんか。この穴は塞いだ方がいいだろうから」巡査は引き戸の開いた穴を指さす。「誰かが覗き込まんとも限らないから」女中は新聞紙を用意しますと頷き、母屋へ巡査を案内して廊下を進む。
     各所への連絡を済ませた巡査は現場に戻ると、丸めた新聞紙で引き戸の穴を塞ぎ、応援部隊の到着までここで張り番をしようと、それまでの務めから書生を解放した。書生は肩の荷がやっと下りたといった感じで母屋へ戻っていった。
     それから巡査が書斎の前で番をすること十数分。夜闇はいよいよ濃くなり、秋の虫も草葉の陰でひとしきり啼く。玄関の喧騒はなんとか鎮められた。手をほとほと焼いた若手が、野次馬連中を完全に門外に追いやってしまったからである。
     やがて狭い小路の前に車が次々と道を埋め尽くさんばかりに停まり、どやどやと私服の刑事たちが降りてきた。医者の車は一番最後に着いた。その一番豪華な車は小路からはみ出る形で停まり、他の交通の邪魔になるばかりであった。仕方なく医者は通りをぐるりと回って、屋敷の裏に車を停めた。さすがは名の知れた一流作家だけのことはある。死して訪れる人の数が違う。
     私服刑事の靴は脱ぎ易い革靴だから、すぐさま土間は脱ぎ捨てた靴で一杯になった。女中の先導でどたどたと響く足音。張り番の巡査は本庁の偉い面々に敬礼する。それからくるりと扉の方を向き、引き戸の詰め物を外した。「現場は元のままです。いじってません」取っ手をつかんで引きあける。
     一瞬全てが凍りついた。巡査は目をかっと見開き、大口を開けた。足を踏み出そうとも踏み出せない。声を出そうにも出せない。どうしたと、後ろから覗き込む刑事たち。
     「死体が、死体が、ない……ない」巡査は部屋に駆け込んだ。続く刑事達。確かに、先程まで喉を真一文字に切られ、事切れていた碁目の死体は畳の上にない。煙のように消えうせてしまった。洋風ランプの淡い光が、畳に残る血痕を鈍く光らせているのみである。
     「ここにあったのに。確かにここにあった」巡査は畳の上で空しく腕を振り回した。「ほら、血が付いているじゃありませんか。畳だって、擦れた痕がある。これは倒れた拍子に付いたものでしょう」
     刑事連は巡査を遠巻きに囲んで、畳の上の血と巡査の顔を交互に見比べた。
     「本当なんだとも、家人に訊いてみればわかる。彼らの連絡でわし等は駆けつけたんだから」
     騒ぎを聞きつけた女中と書生も、こわごわ人垣越しに書斎の中を覗き込んできた。巡査同様、あっと、叫び、女中はへなへなとその場に気を失い、くずおれてしまった。書生は叫んだ。「こんなことって、あるんでしょうか。ほんのついさっきまで、先生はここに倒れていたのに……」
     右往左往する巡査と書生を落ち着かせ、状況を再確認したのは現場捜査のリーダーである捜査一課長である。
    つまり、作家碁目礫石は椿事発生時に既にこの書斎で絶命し、横たわっている状況だった。喉を鋭利なもので切られ、しかも凶器が付近に見当たらないことから、状況は他殺と推定された。しかし、この離れの戸締りは厳重であり、碁目を殺めた者がどこから出入りしたのか不明である。その戸締り状況は改めて本庁警察が再確認する。ところが、ここに第二の椿事が出来した。見張り巡査のすぐ目と鼻の先で碁目の死体が煙のように消えうせてしまったのだ。これはどう解釈したらいいものか。実は曲者はどこかに潜んでいて、人が離れからいなくなったのを見計らって、物陰から出て碁目の死体を運び去ったのか(どこから、どのように運び去ったかが問題だ)、次の可能性として実に信じられないことだが、死んでいたと思っていた碁目が奇跡的に息を吹き返し、自らのこのこ歩いて離れを出て行ったかのどちらかが起きたとしか思えない。この後者の場合でも、碁目が「どこから、どのようにして」行動したかが焦点となるのは前者と変わりがない。我々警察が行なうのはより一層の現場検証と捜査範囲の拡大である。これによって解明の糸口が少しでも掴めるのに相違ない。
     可哀想なのは見張りの先任巡査である。彼はしきりに引き戸の張り紙を悔やんだ。あれで中が見えず、音が聞こえなくなり中の状況をわからなくしてしまったのだ。何時までもくよくよする小心者の巡査を捜査課長は宥めた。誰だって状況の変化を読み取れなかった筈である。張り紙で外から見えなくしたあの時点での判断は正しいのだ、と。
     扉が開け放たれ、本格的な現場検証が開始された。天井の裸電球が明々と灯され、狭い室内がくっきりと浮かび上がる。畳の上にはまだ完全には乾ききっていない一塊の鮮血。机の上とその前の障子には夥しい血潮。刑事たちは手提げランプを掲げ持ち、課長の指示の下、一隊は列を成し、部屋の四隅の暗がり、天井、廊下と厠を隈なく照らし出す。別の一隊は、募る寒さの中やはり灯明を掲げ持ち、離れ周囲一帯を照らし出していく。「植え込みの陰、縁の下と厠の汲み取り口は、特に注意しろ」課長の大声が飛ぶ。ここは足跡に注意しての個々別行動となる。明かりは離れの周囲一帯塀際まで高低乱れ飛んだ。地面は暫くの晴天で乾ききっていた。調査の結果は、塀の下、植え込み陰に足跡なし。縁の下のはめ込み板、汲み取り口の板は異常なしで、きっちりはめ込まれていた。(汲み取り口には若干の液の乾いた跡があったが、これは昼間の汲み取り作業の名残で、直接に事件とは関係ないことが後にわかった。)中の身軽な一人が屋根の庇に梯子を立てかけ、屋根に上り、瓦に異常がないか恐る恐る見える範囲で確認した。ずれたり、抜け落ちている瓦は一枚もなかった。これで屋外の調査は一段落した。また明日の日の出を待ってからの再調査がある。最後に離れをロープで包囲し、立ち入り禁止にした後、屋外部隊は作業を切り上げ、中に入った。屋内では書生と巡査の証言を元に、碁目の死体の状態どおりの紐の輪が畳の上に作られた。課長は顎を抱え、ぐーと考え込む。机の上の花瓶の萩は何事もなかったかのように慎ましやかだ。所へ町医者が扉を潜ってきた。
     「一段落した頃を、見計らってたんだよ」白髪に立派な白髭を蓄えた短躯の医者の声は、緊張した空間にそぐわず、いかにも間の抜けた調子に響いた。すぐに医者は事態の異常さを肌で感じた。
     「ご覧のとおりです、陰も形もありません。お役に立てませんな」捜査課長は冷静さを装った。医者は丸眼鏡に手を当て、覗き込むように畳の上を凝視した。
     「これは一体、どうしたんでしょう」
     「私どもの方が知りたいくらいですよ。最初は確かに先生の死体がここにあったんです。それが数十分後にはご覧のとおり、影も形もありゃしません。消えてしまったのです」
     「ふうむ」と医者は顎をさする。そして、落ち着かなげに、畳の上と捜査課長の顔を交互に見やりはじめた。「私がいても、お門違いかな」
     「そうとばかりは言えませんよ。先生の血液がここに残ってるんです。これを採集してもらって、本当に先生のものか、調べていただくわけにはいきませんかね」
     「なあに、そりゃわけありませんよ。てっきり、どんなものかしらと、期待半分、不安半分だったんですけどね。もぬけの殻とは意外や意外……」医者は大型の末広がりな黒鞄を開け、試験管とピュレットを取り出し、畳の血痕に屈みこんで採取を行なった。
     「碁目先生の血液と同一だとわかりますか、もうだいぶ乾いていますが」顎をさすり、捜査課長が尋ねる。
     「大丈夫、わかりますよ。これだけの分量があれば」奥富医師は試験管を掲げて見せた。それを鞄に収めた医師は途端に手持ち無沙汰になったようだった。課長はすぐにそれを察して言った。
     「遺体があるということで来ていただいたのですが、今日のところはお引取り願わざるをえませんね。また、どこかで見つかるようなことがあれば、来ていただきたいと思います。遅い時間でのご対応を感謝します」
     医師は頭を下げ、退去した。裏通りの端に車を停めてきたので、歩くのが億劫だとこぼしながら。(碁目の屋敷は表通りと裏通りから二つと交差する小路一本挟んだ南北に面している。南の玄関と北の枝折り戸は横町に面しており、その横町が先程の小路に通じて南北の大通りにつながっているのである。車で来るときには横町は入れないから、どちらかの通りに停めて歩かなければならない)
     離れの捜査陣は調査の密度と範囲を広げはじめた。内部捜査班は木槌で天井床を叩きはじめ、抜け道がないか探っていった。もちろんそんなものはどこにもない。フラッシュがあちこちで焚かれ、内部の様子が印画フィルムに焼き付けられていった。離れの外部と庭を調べていた一隊は玄関と枝折り戸からそれぞれ飛び出し、近所の訊き込みに走った。その玄関前の二階建ての下宿で彼らは探偵の高橋を掴まえた。高橋の証言はこれまで記したとおりである。彼は新聞社への連絡で座を外した以外は、ずっと窓台から事態を静観していた。結果として、事件後南の塀を乗り越えて逃げ出したものは皆無である。北の真後ろの家は空き家で無人だったが、その左隣の家の住人は事件に気づいた様子はなかった。その日の午後は汲み取り業者の一団が近所を回り、その時間帯悪臭が辺り一帯に立ち込めていたたまれなかったと彼らは証言した。夜になって平穏になったと思ったらこの騒ぎですかと、驚きを隠せなかった。捜査員達は彼らの証言に偽りはないと直感した。
     内外の捜査が一段落した後、捜査課長は事件現場の離れがロープで包囲されているのを確認し、二十四時間体制の監視を置いた上で、立ち入り禁止とした。門周辺の野次馬は悉く追い払われた。そうして彼は事件のあらましと問題点を改めてノートに綴った。

    ○事件当時、作家碁目礫石は午後の執筆のため、離れの書斎に一人籠っていた。母屋には書生と女中の二人のみ。その間、他の家族はどこにいたのか。
    ○事件発生は午後6時(向かいの下宿屋の高橋という自称私立探偵の証言もあり)。離れからの叫び声を聞きつけた書生と女中が駆けつけ、椿事を発見した。この時点で碁目は完全に死んでいたと断定できる。なお、離れの戸締りは完全であったとも断定できる。この二つの事実は後の巡査の証言から確実と判断される。現場は天井の明かりは消え、板の間の前の畳に置かれた卓上ランプのみ灯っている薄暗い状態だった。長机の前の障子窓に斜めに走る血飛沫あり。被害者の喉元から流れ出た血痕が畳に付着していた。ここに第一の疑問が生じる。下手人は何処より来たりて、何処より去ったのか。なお、下手人がどこかに潜んでいた痕跡はなかった。
    ○しかるに、巡査が現場の張り番をして、我々が駆けつけるわずかの間に、碁目の死体だけが煙のように消えうせてしまった。他の状況はすべて発見当時のままである。これをどう解したらいいか。
    ○誰がどこからどのようにして碁目の死体を運び去ったのか。また、持ち去った理由は何なのか。
    ○番の巡査がもう少し、離れ内部に注意が行っていればと思われる。しかし、予想外の変事に間違いはない。
    ○これは信じたくない仮説だが、碁目が実は死んでいなくて、奇跡的に息を吹き返し、自ら歩いて離れから出て行ったということだ。この場合でも、どこからどうやっての問題が付きまとう。また、なぜの問題も。なぜ家人を呼ばなかったのか、だ。だが、この仮説はまずありえない。
    ○下手人は午後の訪問者の中にいると見ていいだろう。書生に訪問者リストを出させるのが先決である。

     課長は必要最小限の人員を碁目家に残し、他は署に戻らせた。忍び寄る夜の寒さに身震いしつつも、がらんとした食事室で書生と女中の尋問を開始した。ところへ、碁目の家族の一団が外遊から戻ってきた。上野で音楽会があり、その後精養軒での夕食となったのだった。事件を知った家族の面々の反応が、また課長を心底驚かせた。本当に驚いたり悲しそうな素振りを見せたものが一人としていなかったのだ。長時間の着席と満腹感からか子供たち(男二人に女四人)は皆眠そうな顔をしている。華やかな和服に着飾った碁目の妻がその場を取り仕切った。
     「子供たちはまだ何もわからないんですよ。明日になればわかると思います」妻は子供たちを食卓にきちんと座らせ、警察への対応は自分が背負うという態を作った。その晩彼らは、ヴァイオリンを習っている長男の師匠絡みの演奏会出席のため4時過ぎには自宅を出て、路面電車を乗り継いで上野に向かった。演奏会は5時からで終わったのは7時。その後、精養軒で食事となった。演奏会はヴァイオリンとピアノ、声楽からなる器楽曲ばかりだったが、最後まで熱心に聴いたのは長男だけで、他の者には格好の睡眠時間となったらしい。
     「え、そんなことってあるのかしら。宅は亡くなっていたわけでしょう。それがなくなってしまうなんて。歩けたわけでもないでしょうに。どうしたわけなんでしょ」
     「それを私どもは捜査している次第なんですよ」
     「だからといって、私どもにわかるはずがありませんよね。わかりようがありませんよ。音楽にうっとり聞き惚れているさなかに、遠くのわが家でこんなことが起きているなんて、その時誰が想像しえたでしょうね」
     「ごもっともです。造物主でしか知りようがありませんな。別にわれわれは皆さんがこの事件に関係があるときめつけているわけではないのです。どこにいらしたか確認しているのです」
     「現場不在証明というものですね。それだったら、何人も名前を挙げられましてよ。会場には知り合いの方、沢山いらしてました。精養軒でも支配人さん、料理長の方までご挨拶に見えられたくらいでしたもの」
     「そうですか。それは結構なことで」課長は一気に鼻白んだ顔になった。「一応、後確認は必要でしょうから、部下を向かわせることにしますがね」
     「それでしたら、どうぞご自由になさってくださいましな。それで、宅の方はどうなってしまったんでしょうか。明日になれば見つかるのでしょうか」
     「近所への訊きこみは行ないました。消息不明です。明日改めて本格的な捜査に乗り出します。思わぬところで出てくる可能性はありますが、何とも言えません」
     「あの、私、こう見えても、心臓が弱い質なんですのよ。課長さんのお言葉、深く刺さりました。かなりショックを受けています。子供たちもその筈です。眠ったそうな顔をしてますけど、心の中では泣いてるんですよ。課長さんにはおわかりにならないかもしれませんけど」
     「わかりますよ、わかりますとも。私だって子の父でもあります。お疲れの所お時間を頂戴して申し訳ございません。今夜の所はお休みになって頂いて構いません。離れは事件現場ということで封鎖して、係官が番をしています。ですから、離れとその周囲の庭には近づかないようにお願いしたい次第です。下手人の痕跡が残っているかもしれませんからね。みんな、おじさんの言うことわかってくれるかな」
     課長は背を屈め、子供たちの顔を一巡した。母親の監視下、従順に頷く一同。
     「ほら、聞き分けのある子ばかりですから、みんな大丈夫ですよね。私が保証します。では、お支度着替えにお部屋に行きましょうね」
     妻は警官たちに一礼し、一張羅を着た子供たちを引き連れて、食事室を出て行った。課長はすぐ部下に指示し、上野に向かわせた。入れ違いに書生を呼びつけ、午後の碁目への来訪者を訊いた。正式に玄関から取り次いで入ったものは皆無であった。碁目がこっそり内々に引き入れた気配はない。つまり作家の午後は書斎に引きこもりっぱなしだったことになる。それにしてもと課長は作家の整然とした机を思い起こした。机上にあるのは筆箱だけで、原稿用紙はきちんと引き出しに仕舞いこまれていた。屑入れには反故紙はなかった。おそらく執筆中の惨劇ではないと思われた。では、碁目は午後中籠って何を思案していたのか。
     課長は急に腹の虫が鳴くのを覚えた。思えば飲まず食わずで捜査にのめり込んでいたのだ。軽く摘むものはないか、せめて茶でも貰おうかと課長は隣の台所を覗き込んだ。女中は既に退けてもぬけの殻であった。竈には鍋や飯を炊いた釜がかかっている。課長はそれらの蓋を開け、覗き込んだ。すっからかんだ。女中と書生が食したにしても、碁目の分が残っていてしかるべきだ。しかし、これから作ろうという時に事件が起きたのかもしれなかった。だから、留守居の家人の食事はなかった。当然、女中も書生も食べるどころの話ではないのだろう。釜の隣の土瓶にはまだ温かなお湯があったが、何となく気が引けて、課長はその場を辞した。廊下伝いに隣の部屋を覗く。そこに女中と書生がいた。丸テーブルに最新の魔法瓶が置いてあり、そこからお湯を汲んで茶を飲みながらひそひそ話を興じていたらしい。課長の気配に気づくと、はっと話を止め、居住まいを正した。菓子も摘んでいたらしく、開け広げた包みが散らかっていた。
     「私はそろそろ今日の所はこの辺で失礼しますが、番の者を残しますから宜しく。くれぐれも離れと庭には立ち入らんでください。夜が開け次第、また来ます。明日は本格的捜査ですな」
     向かいの二人は目を合わせ、きまり悪そうな笑みを浮かべた。

     翌朝、夜が白々と開ける払暁の間に早、捜査は再開された。白日の陽光の下、捜査は迅速・的確・詳細に進められた。離れは雨戸を開け放たれた上、畳を全て引き剥がされ、床板の状態が確認された。天井・屋根瓦の状態が再確認された。いずれも取り外しの効く抜け道などない。塀の周囲と庭木の間も足跡がないか丹念に調べられた。書生の証言から、離れ周囲は昨日の午前中に掃き清められていることがわかった。ここ数日纏まった雨はなかったため、乾いた地面に箒の掃いた痕が所々残っていた。その中で裏の枝折り戸と離れの間に往復した複数の足跡があったが、これは午後の三時ごろ訪れた汲み取り業者のものであることがわかった。捜査員は業者を捜し当て、その時刻に母屋と離れの肥を浚った事実を確かめた。出入りは裏からで、裏の横町に停めた大八車に汚わいを積み込み運び去ったという。これは近所の複数の目撃証言が得られた。業者は当地区担当の信頼できる者たちであり、雪隠横の汲み取り口の板を外して作業しただけであった。その真上の便器の板まで外してはいないことは捜査員の調査でも明らかであった。犯罪発生時刻前に碁目を訪ねた人物は皆無であり、犯罪発生以後に不審人物が碁目家から立ち去った痕跡・目撃証言は得られなかった。
     ここに到って捜査は最大の壁にぶち当たった。
     犯罪者はおろか、被害者の碁目本人までも閉ざされた離れから消えうせてしまったのだ。この事実をどう解明したらいいのか捜査課長は頭を抱えた。(なお、室内に残された血痕の血液型は碁目のものと一致したと、奥富医師は証言した)秋の日は天中にかんかんと照り、疲れた捜査員たちの影が方々にじっと長く伸びた。
     碁目の新聞連載は碁目の死亡・失踪を余所に続行した。書き溜めた原稿が二十回分、担当編集者のものに送り届けてあった為である。事件の所為もあり作家人気は勢いを増し、最高潮に達した観があった。既刊作品も続々増刷がかかり、そこからの利益は版元と家族を大いに潤わせた。
     ほくほくする連中とは別に、苦虫を噛み潰しているのは捜査連である。いくら捜しても、容疑者が見つからない。ましてや被害者と目される碁目自身がどこかへ行ってしまい見つからない。死体が「あがらない」のだ。切歯扼腕とはこのことである。行き詰まった彼らは、ついに突飛な推理を展開するようにもなった。代表的なのは、碁目の死体はやはり、汲み取り業者が屎尿桶にぶち込み大八車に積んで持ち去ったのだとか、自称探偵の高橋が臭い、彼奴(きゃつ)の目撃証言は嘘八百だというものであった。だが、前者の推理は汲み取り作業と事件の時間が合わないため容易に却下されるし、よしんば後者が有力だとしても(殺害・死体遺棄の方法は不明だが、事件後塀の外で奇声をあげ犯行時刻を錯覚させたとの説)向かいの宿を離れていないという複数人の証言があり、到底採用しようのないものであった。それでも、取調室に引っ立てて皆で質問攻めにすれば、何か「吐く」に決まっていると平然と言って憚らない者もいたのである。「探偵という奴等は詐欺師だ、犯罪者だと、碁目先生は常日頃おしゃっていたじゃありませんか。その言葉が奴等の耳に入って、今に目に物見せてやるといったことになったんじゃありませんか」
     「だからと言って、殺すほどのことじゃないだろう」捜査課長は部下に呆れ、絶望的に頭を振った。
     碁目の怪死・死体消失事件は世間を大いに賑わせた。事件発生後一週間は新聞各紙は連日報道した。捜査そのものは左程進展していないから、よくある事実の細切れ報道だ。だが、それも一週間で種が尽きてしまった。記者連は最初の数日こそ雪崩を打って押し寄せたが、やがて、塀の外の野次馬同様、一人また一人と碁目宅周囲から姿を消して行き、半月後にはついに一人として現れなくなった。あとは、ちらほら警察署に進展を伺いに来るばかりとなった。
     同じことは捜査員側についても言えた。連日のように起きる凶悪事件に一人また一人と人員を割かれていき、ついに捜査本部の張り紙が外され、捜査本部室も閉鎖のやむなきに到った。わずか数人のグループの持ち回り仕事となり、ついにはただ一人の捜査員の複数ある仕事の一つに成り下がってしまった。それもやがて積み重なる書類の山の下のほうに移っていき、最終的には未解決事件の箱の中に収まってしまった。事件発生後一年が経つか経たないかの事であった。
     その間に捜査に進展がなかったかというと、そういうわけでもない。日々犯罪が続発する大都市東京。変死体の上がらぬ日は一日たりとてない。捜査員の大勢いた最初のうちこそ、死体が上がったという情報が入るや我先にと馳せ参じたものだった。だが、彼らの期待は悉く裏切られることとなった。仕舞いには、水で無様に膨れ上がった水死体を指さして、「これを碁目先生の死体ということにしませんか」と言い出す者まで出た。上長の喝一声、忽ち小さく縮こまった。
     併せて最初の頃は、碁目の目撃証言が多数寄せられた。もちろん、それらの大多数は新聞で情報を知った冷やかし連中が、面白半分で通報したものだった。それが証拠に彼らの名前を問いただすと決まって電話は切られてしまうのだった。その中にはある程度信頼に足るものもあった。神田多町の青果市場で見た。髭がないので最初誰かわからなかったが、あれは碁目先生に間違いないというのがあった。早速捜査員が駆けつけるが、連日の人だかり、とても碁目一人を見出すことはできなかった。その他、浅草で見た、上野で見かけて声をかけ追いかけたが逃げられた、というまずまず信頼のおける情報もあった。しかし、他人のそら似ということは多分にある。目の錯覚というものだ。実際、同じ地区での同じ目撃情報は二つとないのであった。その内、目撃情報は地方に拡散していった。大阪、名古屋ならまだしも、東北の地方都市での目撃情報もあったのには捜査員は目を剝いた。碁目の見目形が地方にまで知れ渡っているとは、マス・メディアなるものの何という力であろうか。東北での情報はある程度有力だったので、捜査員二人が息せき切って駆けつけたが、時すでに遅し、件の紳士は入れ違いに姿を消してしまっていた。やがて地方からの情報も次第に先細りになり、仕舞いには全く入らなくなった。折しも、丁度怪死事件から一年が経とうとしていた。
     碁目家の残された家族はその間、日々どのような心境で過ごしていたのだろうか。私は碁目家に入り浸っていたわけではないから、その辺の事情は皆目見当がつかん。ただ人づてに聞いた限りでは、家族の者は皆一様に心底安心、肩の荷が下りた様子だったとのことだった。思えば、癇癪と暴力で明け暮れた晩年の碁目は、家族に大変な負担を強いたものと解された。目の上のたん瘤が取り除かれて、清々したというのが正直な心境だったのではないだろうか。(著書の売れ行きは一向に落ちないから、家計は全く問題がない。)それが証拠に事件から一年が経つとすぐに、碁目の妻、田畑啓子夫人から、ごく内輪でお別れの会を開きたく、あなた様には是非ご出席の労を取っていただきたいという旨の丁寧な封書が私のもとに届いたのだ。これはつまり、法律の許可が取れ次第、早々に碁目をこの世から葬り去ってしまいたいというものだ。私は事件がまだ何も解決していないのに、この措置は何だと、唖然とも恐怖とも言えぬ複雑な気持ちに暫し襲われた。しかし、と冷静になりきってこう結論づけた。すべては捜査当局と一家族の問題。一門外漢である私が口出しして何になろう。法律・正義がどう判断し、残された家族がどう対応するかだけである。正義といっても、別に下手人が上がったわけでもなく、裁く対象人物がいるわけでもない。事態を冷静に振り返ると、ただ人一人が忽然と消えて、家財が多少破損した程度なのである。その人物は一向に現れない。家族が危難失踪の手続きを踏むのは至って自然と判断される。こう思考が至って、私は啓子夫人に出席の葉書を出した。
     お別れの会当日は文字通り秋晴れで、抜けるような青空が広がっていた。列席者は家族一同と女中、書生を除くと出版社、作家陣、教授陣から各一名ずつという生前の碁目の華やかなりし交流時代を知る者にとってははなはだ侘しいものとなった。教授界からは私一人とはどのような了見が働いたのであろうか。版元代表も作家代表も必ずしも名の知れた者とはいいがたく、私自身を振り返っても、これは当たり障りのない人選がなされたと考えるべきであった。お互い顔も知らんから、話す言葉など出てこない。ちょっと視線を交わし項垂れるままである。もちろん、女性の賓客など一人もいない。これも、美しく知性あふれる女性をこよなく愛してやまなかった碁目にしてみれば、すこぶる残念なことだったに違いない。と思っていると、寸部の隙なく喪服に身を包んだ啓子夫人の鋭い視線を受けて慌てて目をそらす。
     啓子夫人が客間の仏壇の一番前に座り、私ども一般参列者が黒に身を固めた子供たちの後ろに着席すると、会が始まった。袈裟を着た導師が別室より静々入場する。読経は想像以上に短くなされた。座ったと見る間に読み上げ、鐘が鳴らされるやいなや、一同のご焼香の時となった。皆一様に立ち上がり、前人の真似をして香を焚き手を合わせ頭を下げた。仏壇の碁目の写真は若く、気取って斜めに顔を向けている。私は写真をじっと見据えてから深く一礼した。そして席に戻りながら、碁目と最後に会って話をしたのは何時のことだったか思い出そうとした。最後に鐘がなると導師は立ち上がり、退室した。啓子夫人は立ち上がり、一同に対し深々とお辞儀をした。「皆様にとっての碁目礫石、私の夫としての田畑耕作は、皆様のこれまでのご厚意に深く感謝していることと思います。今日は本当にどうもありがとうございました」
     その後、別室で簡単なお清めを頂くこととなった。だが、もとより気まずさ、きまり悪さが表立ってのこと、それこそ最初の一杯、一口で他の二人は慌てて失礼していった。導師一人のみ落ち着いて朗らかな態度を崩さなかったが、やがて次の用事があるからと潔く席を辞していった。こうして完全なる部外者は私一人となった。私は黙々と食している家族の者に何と語りかけていいものか迷い、徒に杯を口に運んだ。干すとすぐに啓子夫人が満たしてくれる。直にほろ酔い気分となった。私は家人に、こんなことをして本当に碁目のことを思ってやってるんですかとも正面切って言えなかった。言いづらいし、言う勇気も持たなかった。
     その時私ははたと気づいた。家族はそう言ってほしくなかったから、言わないと見越した人を選んで招待したのだ、と。なぜ、あの新聞社の社長は呼ばれなかったのか。碁目は新聞社の子飼いの作家だったではないか。なぜ、T大学の総長、学部長は招待されなかったのか。碁目の講師時代の講義内容のレヴェルの高さは周囲がひれ伏さんばかりだったではないか。なぜ人気を分かち合った同業のあの作家、一番弟子のあの有望作家は席に列しなかったのか。神経衰弱になる前の碁目の面倒見の良さ、鑑識眼の高さは定評あるものだったではないか。しかしこの場を満たしたら、彼らは碁目への処遇に反発するだろう。一存で死なせてしまって碁目が可哀想ではないか。忽ち荒れる会へと変貌してしまうだろう。私はわかったと項垂れた。
     振り返って自分自身のことを考えた。私は碁目と親しい関係にあっただろうか。それ程ではなかったと今では思う。彼を初めて知ったのは確か講師時代だったと思う。他を寄せ付けない高邁な授業風景は、門外漢の私の耳にも入ってきた。だからと言って彼に面と向かってそのことを話題にすることはなかった。終始廊下ですれ違いざま、挨拶を交わすだけの仲だったのだ。そのうち彼は教授職を辞し、職業作家として急速に声望を上げていった。私も勢いその人気にあやかろうとした一人となった。講義に彼の作品を取り上げ、学生にとっての人気講義に仕立て上げるのだ。そうして作家碁目と私との文通が始まった。相手は既に名声の固まりつつある作家先生だから、文面には格別に気を遣った。ぶっきらぼうでも、修辞過多でもいけないと思い、色々こねくり回した。結果、文章としてはあまり勢いのない、無味乾燥なものが出来上がった。先生の文章とはだいたいそんなものだ。碁目はそんな私の手紙をさぞあざ笑い、鼻であしらったことだろう。ただ要点は、講義で碁目の作品を使わせていただきたいということだ。返事はすぐ来た。内容は簡にして要を得た文例そのもの。「私のごとき作品を取り上げくださる由、真にありがたく候」と結んであった。私はすっかり感激し、それから時候の挨拶を含め、ちょくちょく手紙をやりとりするようになった。講演依頼も数回行い、体調不調の時以外はすべて快諾してくれた。講演当日は簡単な打ち合わせのため、初めて面と向かって碁目と話した。碁目は黙って私の話を聞き、ときたま相槌を打った。返す言葉は短く的確であり、碁目が文章を書くだけでなく、聞き上手でもあり、人間関係においても頭脳明晰であることが肌で感じ取れた。私は碁目の作品に流れている「人見知り」「人間・世間嫌い」の底流と対極をなす実際の碁目に感銘を受けた。講演の中でも印象に残っているのは、既に文章の形になっている「文明開化と個人主義の相克」であった。
     私はここまで振り返ってみて、碁目とはあまり親しい関係とは言えないなと思った。仕事以外の砕けた会話をしたことがないのだ。真面目一方で無味乾燥。酒を介して分け隔てなく話し合ったことなどただの一度もない。普通の基準なら、碁目と私は友人でも何でもない。ただの知人だ。だからこそ、私は当たり障りのない者としてお別れの会に「列席」したのだった。
     私は暫く、飲みと食いを黙って繰り返した。段々気まずい雰囲気が漂いはじめた。子供たちは黙って行儀よく箸を動かしている。私はその子たちに「お父さんがいなくなって大変だね」とか訊けないと思った。まして「お稽古事は上達しているかな」もこの場では変だ。もしくは啓子夫人に「この度は、真にご愁傷様です」とだけ言って退席するのが至極まっとうな所作であろうか。これが友人知人連だったら、「いいんですか、こんなに簡単に死んだことにしてしまって。そんなに遺産が欲しいんですか」と詰め寄るところだが。私は一瞬碁目の小説の主人公のように方々逡巡した。仕舞いに折を見て、「どうも御馳走になりました。私は、この辺で失礼させていただきます」とだけ言って帰ろうと、立ち上がったその時だった。啓子夫人の方から話しかけてきた。
     「梶田先生、生前主人に良くしてくださいまして本当にありがとうございました。主人もきっと喜んでいることでしょう。主人は折あるごとに梶田先生のことをお褒めになっておられたんですのよ」(おやおや。そんな褒められるようなことをした覚えはない。無闇に持ち上げられても困る。おそらく講演料が期待以上なだけだったのではないかな)
     実際には私はこう答えただけだった。「そうですか」
     「ええ、そりゃもう。それで、私先日主人の遺品を整理している時、机の引き出しに梶田先生宛の封書を見つけたんですの。表書は『梶田尾ト吉様』となっていて、中には『余に万一のことがあった際は、これを梶田君に渡してほしい』と一筆が添えてありましてね。これなんですのよ」
     夫人は黒のバッグから嵩張った茶封筒を取り出し、私に差し出した。封はされていない。私は中を覗き見た。
     一塊の黒い石が入っていた。

     私は半ば呆然とした気持ちで田畑家(碁目家)を後にした。内ポケットは頂いた封書で大きく膨らんでいた。碁目の形見分けが石 とは、意外とも滑稽とも取れた。自分のペンネームにちなんで予め用意しておいたのだろうか。どうせそこらの河原の石でもあろう。所詮、碁目とはこの程度の関係だったのだ。憮然とした私は家に帰るなり、礼服の上着を脱ぎ捨て、それきり石のことはすっかり忘れてしまった。
     私が石のことを突如思い出したのは、年始早々、礼服を引っ張り出した時のことだ。内ポケットの膨らみに気づき、探ってみて石に気づいた。碁目のお別れの会のことがまざまざと思い出された。私は石を初めて手のひらに置き、しげしげと眺めた。ちょうど手のひらにすっぽり収まるサイズだ。黒いしっかりした石でずっしり持ちごたえがある。黒の中に斜めに茶色の層理がくっきり刻まれている。さっと見て、これは河原の石どころではないと直覚した。道端の石ころでもない。これはどこかの山の石に間違いなかった。一体全体、碁目はこの石をどこで手に入れ、どういった了見で私に残していったのだろうか。わからぬ事態に、私は首をひねるばかりであった。床の間に飾っておいて、碁目の代わりだと思ってほしいというのだろうか。だが、私にはそこまで碁目が未練がましい人物とは思えなかった。
     年度末とはいえ、幸い大学はまだ休みに入っていなかった。私は理学部の地質を専門に研究している教授にこの石を見てもらおうと考えた。だが、当然畑違いのため、理学部に知り合いはいない。ただ、同じ文学部の哲学教授には一人知り合いがいた。その男が理学部でも教鞭をとっていたのである。彼の伝で理学部の地質学教授への道が拓かれた。無闇に図鑑を開くより、専門家に訊く方がすぐわかると思ったのだ。
     果たして地質学者の答えは早かった。教授室のドアを開け、教授が石を取るや否や答えはすぐ出た。
     石は銅鉱石だった──。

     石が銅だとわかっても、私には何の感慨も湧かなかった。碁目が私にくれた石ということで、単なるジョークとしか受け取れなかった。従って、銅とわかる前と後で石の立場は少しも変わらず、漬物石にも床の間の飾りにもならない厄介者として、私の机の一角を占めるに留まった。それでも石を打ちゃってしまおう、物好きな子供にあげてしまおうとは考えなかったのは何故だろうか。それはただ面倒くさいと思ったまでのことだ。碁目との友情云々ではない。現にいつの間にやら家にやってきて、捨てに捨てられず手元に残る訳の分からないものが多いことに改めて気づくことになるのだ。それ故、石は私の手元に残った。そのうち、私は学期末の講義・試験と採点やらで石のことはすっかり忘れてしまった。目をかけてやらない石はその間すっかり埃を被ってしまった。
     私が次に石のことを思い出したのは、大学が春休みに入り、心身一息つこうと思った矢先、丁度季節が冬から春へと抜けようとしていた頃だった。私は突然石のことを思い出した。そして碁目の怪死事件に思いが飛んだ。私は当時の記事を引っ張り出して読み耽り、かつ縁のある現場捜査員を訪ね、直接現場の状況を聞かせてもらった。その時不思議に思ったのは、事件当夜床の間の花瓶が碁目の机の上にあったという点だった。私は暫く頭を悩ました。今まで見えなかったことが一気に私の前に展けてきた。私の目はそれまで完全に節穴だったのだ。何故、もっと早くそのことに気づかなかったのか。私は石をつまみ上げ、布で埃を払い、しげしげと見つめ、手でいつくしんだ。
     そうか、そういうことだったのか。
     この石は碁目から私へのメッセージだったのだ。私は碁目の初期の地味な小説に『炭鉱夫』という作品があることを思い出していた。その小説の舞台が栃木県の足尾だった。私はすぐさま足尾へ旅立つ旅支度に取り掛かった。その間、私は碁目家に行き、既に入室制限が解除されている離れに、特別に入れさせてもらった。そこでの発見は真相を再確認させるものだった。

     鉄道が通じているとはいえ地図上で見るのとは違い、足尾への道は想像以上に遠かった。高崎線・両毛線を使い、大間々まではすんなり行けた。それでも都心からすでに四時間近くが経過していた。そこから足尾方面へと乗り換えとなる。出発までの間、寒々しいホームのベンチに腰掛け、私は冷たい握り飯をほおばった。二年前(一九一四年)に終点間藤まで開通した足尾線はまだ若い鉄道だと言えた。その年には足尾駅から鉱山構内の足尾本山駅までの貨物線も開通している。足尾駅開業自体が四年前の一九一二年だ。
    こんな山間の郷に鉄道を通すことはもの凄い偉業に思えてくる。あらためて産業を定着させたFコンツェルンの力を感ぜずにはいられない。機関車は黒煙を上げ、川沿いをゆったり進行した。客車の中は殊の外暖かい。ありがたいことだ。私は冷えきった両手をすり合わせる。果ては真夏に乗る機関車が思いやられるものではあるが。
     初めのうちは山間の単調な景色が続いていたが、行程も半ばを過ぎ、クライマックスに差し掛かると、窓外に白色の巨岩が連なる美しい渓流が広がった。あまりの見事さに私は煙が入るのもいとわず、窓を押し上げ、食い入るように景色に没頭した。渓流が終わり両側がひときわ高い山に狭められると、やがて列車は終点間藤駅にのろのろと到着した。この時点で時計は午後の二時を回っていた。下車すると辺りは濛々たる煙と熱気と独特の臭気に包まれていた。湧いたように人の数も多くなった。狭い道を馬が何頭も行きかい、物流が途切れることはなかった。馬車が通るたびに砂塵が舞い上がった。私は口を手で覆うが、周囲の人は慣れっこなのか平気な様子で歩いている。
     間藤からは馬車鉄道もあったが、大した距離ではないだろうと歩くことにした。周囲の山々はすべて剝き出しの禿山で、地震でもあればあっという間に崩落してしまいそうだった。砂塵と細かな崩壊は尽きることはない。人と馬車を縫って歩き、やっと川を挟んで採掘場とをつなぐ大橋の袂にたどり着く。そこからは日本全土でも珍しい電気機関車が構内へと通じていた。もちろん、物資や鉱員専用であり、私が乗る権利はありゃせん。橋を渡ると構内だが、雑然とした空間であり、それこそ右も左もわからない。道行く人に訊いて、事務所の場所を把握した。真っ直ぐ行ってすぐ右の建物だ。軒を連ねる建物は皆判で押したように、平屋でのっぺりしている。私は引き戸を開け、声をかけた。予め来意を告げてなかったので、私が門前払いを食らう可能性もゼロではなかった。特に私が左翼思想家と思われたが最後、永久に追放されてしまうのはまず間違いなかった。足尾も労働運動が盛んだとは聞いている。もちろん面従腹背でそれらしき看板やビラは鳴りを潜めているが、一歩外に出るや、どこかの集会場が労働運動の拠点と化しているのは想像に足りた。だから私は極力普通人を装った。だが、編上げ帽に髭面、黒のコートをまとった細身の容姿は、一目でプロレタリアートではないと見抜かれてしまうだろう。私は事務所で最初びくびくしていた。そのうち、開き直った。私は探偵である。私の目的はここで生きている碁目に会うことである。気を取り直し、私は、最近これこれの容姿の人が雇われ、どこそこで働いていないか尋ねた。私の予感は的中した。
     私は飯場へと向かった。そこは丁度職員の休憩時間で、中はがらんとしていた。私は奥まで行って誰それさん、いませんかと声を張り上げた。やがて人に取り次いでもらって、当の人物がのっそり入口の方にやってきた。私はその容姿ですぐにわかった。碁目礫石その人であった。いがぐり頭で髭をきれいに剃り落とした碁目は、十歳は若返ったと思うほど生き生きしていた。
     「やあ、いらっしゃい。いずれ、やってくるとは思っていたよ。汚いところだけど、どうぞお掛けください」
     碁目は飯場の隅の方のテーブルに案内して、互いに向き合って座った。私はおずおず切り出した。
     「碁目さん、いや、何て呼べばいいのかな。田畑さんでいいのか」
     「田畑耕作でいい。もう碁目礫石は死んだんだ。先生呼ばわりも困る。れっきとした先生はあなただ」
     「元気そうでなによりだ。ここの仕事、大変じゃないのか」私は衷心から尋ねた。
     「最初は大変だった。作る量が半端じゃないんだ。今はだいぶ慣れたよ」髭のない碁目は照れ笑いした。
     「どこにいるだろうと考えたんだ。机に向かいっぱなしだったから、肉体労働は無理だろう。すると事務か食堂かってことになる。事務はさすが中途では難しいと思った。履歴などチェックが入るだろう。残るはここになった」
     「ここも肉体労働といえば肉体労働だけどな。ただ昔から食い物には関心があったから」碁目は大きな歯を見せた。「だが、ここに入るには口利きがなければ無理だったろう」
     「Sさんだね。『炭鉱夫』の元ネタを持ってきた人だ」私は確信を込めて言った。
     「その通りだ。あなたに託したあの鉱石、あれも元をたどればSさんが持ってきたものだったんだよ」
     「そうだろうと思ったよ。あの石がただの石ではなく、銅鉱石であり、しかも先生から私に託されたってことは、何か意味があるんじゃないかと思わずにいられなかった。すぐ思いついたのが小説『炭鉱夫』だった。あの内容は坑夫に雇われた男が鉱山に行き、その穴の奥底ですごいインテリゲンチアに出会うという内容だったよね。私は先生が実際あの穴底の坑夫に憧れたのではないかと思ってみた。ご自分とあのインテリを同一視してみたんじゃないかと思った。すると今度の脱出行の意味がわかってきたんです。先生は常日頃、この狭く煩わしい世間から何とかして脱出したいと願ってらした。則天去私といっても理想郷であり、すぐ現実に引き戻されるのがおちだ。それでも長い間じっと堪えて我慢してらした。ついに堪忍袋の緒が切れて、実行に移す時が来た。それがあの、秋の日の死体消失事件です。全体、あの事件には家族の方も関わってると、私は睨んでいるのですが」
     「ほとんど全員だよ。書生も、女中も。子供たちも全員わかっておったんだ。出入りの者もね。探偵小説ではタブーな大集団犯罪だよ」
     「話の腰を折って申し訳ないが、事件当日のトリックは大方見当がついている。ただ、あんな敏捷な動きをあなたができたとは思えないんだ。あの日、あの書斎にいたのは、あなたではなかったのではないですか」
     「ああ、そのとおり。偽碁目だ。事件の一カ月前に私は偽碁目と入れ替わった。当日の手柄はすべて偽碁目のものだよ。私は既にここにいて、様子伺いと指示出しをするだけだった。便利なものがここにはあるしね」
     田畑は室の隅に据え付けられた大型の電話機を指さした。感慨深そうに言葉をつづけた。
     「まあ、順を追って話そう……本の中で言い尽くした感があるが、今度ばかりは私はつくづく世間というものが嫌になった。しかし、人間というからには完全に世間とおさらばすることはできん。でないと、本当に自殺でもしない限り、埒が明かんからな。しかし、人生をリセットすることはできると考えたんだ。つまり、出家して坊さんになるか、家族を投げ出して、過去に依存せずこれまでと全く違う新しい人生を歩むかだ。私は坊さんは性に合わんから、答えは一つに決まった。身をやつし新しい人生を歩むんだ。これがまあ、言ってみれば、今回の『犯罪計画』の目的だな。私から言うのもなんだが。小説では、探偵なる大先生が解決編に大口上を述べ賜るわけだが、この場に限っては、私自身が一思いに喋ってしまおうと思う。梶田先生、願わくば探偵役お引き取り願いたい」
     「私はべつに構いませんよ。探偵でも何でもないですから、ただの教師です。どうぞ続けてください」
     「かたじけない。で、計画自体は一昨年の春ぐらいに立てはじめた。家族は最初は驚いた風だったが、次第にこれで清々するといった感じになった。吹き荒れる家内暴力と変人癖にほとほと呆れていたのだろう。動揺を隠せなかったのが書生だ。職を失うのだから無理もない。だが、私は編集者に頼んで口を紹介してもらうことにした。芥川など有望作家には事欠かなんし、大学の教壇に立つという選択もあろう。まあ、そこは何とか了解してもらった。女中は問題なく、奥富先生も大丈夫、汲み取り業者も協力して口を噤むと請け合ってくれた。もう一人の協力者も金を弾んだらホクホク顔になったよ。これで人的ネットワークは完成した。あとは舞台装置の準備だ。あの事件では、犯人や死体がどこからどうやって消えたかが、何といっても最大の謎だった。だが得てして、謎の種というものは明かしてしまえば、真にあっけないものなのさ。先生も謎の解明は済んでらっしゃることと思うがね」
     「ええ、一応は。あれを作るのは大変だったんじゃありませんか」
     田畑は頭を搔き、苦く笑った。「半年かかったよ。しかし、あれほどうまくいくとは思わなかったな。種は床の間の板が、心棒につけた蝶番ですっぽり床穴へ落ちる仕組みになっていたことだ。心棒は回るから、そのままぺたりと床の裏側の留め具に張り付けることができる。通常は畳側の床板の下に出ている留め具で止めているから、上から踏んだぐらいでは仕掛けに気づくのは難しい。実際、捜査員たちはまんまと騙されてしまった。表から異常がないと、ひっくり返しては見ないものだよ。その抜け穴から死体と偽碁目は行き来したんだ。穴の下には人の身体が乗るには十分な長さの台車が置いてあった。その端の二つの鉤には二本のロープが結わえてあった。死体は離れの北側で台車に乗せられ、台車ごと床穴下に移動された。それをやったのは汲み取り業者だ。死体を受け取って離れの舞台をセッティングしたのが偽碁目だ。まず、死体に着物を纏わせ、鬘と付け髭をつけ、できるだけ碁目に似させる。次に辺りに血を撒き散らし、洋燈を移動し、死体の幻灯を障子に作る。あとは、奇声を上げ、身を床穴に潜ませ、床板を閉じるだけ。書生と女中の演技が重要だったが、彼らはうまくやってくれた。騙すのは、探偵の高橋と捜査員たちだけだった。高橋は離れの表側ばかり見て、裏で何が進行しているかまるで関知していなかった。闇はすでに濃かったし、死体の幻灯に惑わされていたのだから無理もない」
     「死体の手配・回収は奥富先生の担当だね」
     「ああその通り。折よく喉を切った男の自殺死体があった。それを汲み取り業者の空の汲み取り桶に入れて碁目宅まで運ばせたんだ。血液も奥富先生が用意した。偽碁目はそれを畳の上と障子に振り撒いた。死体の回収は一刻を争った。ここで失敗したら元も子もなかった。だが、偽碁目は人目を欺き、機敏に立ち回ってくれた。書斎の扉が閉ざされると、書生は裏に回って台車のロープを引っ張って偽碁目に合図、偽碁目はすぐに床板を落とし、死体を回収した。床下伝いに外に出て、書生とロープを引っ張って台車ごと離れの外に出した。死体に運搬用の袋を被せそのままゴロゴロ転がし、枝折り戸から横丁へ。そこには奥富先生の自動車が待機していた。書生と偽碁目は袋ごと死体を後部座席に積み込み、その脇に偽碁目が乗り込んだ。書生だけ急いで敷地内へ戻った。車は静かに元の待機場所に移動し、奥富先生は死体検分と称して屋敷へ向かった。そして先生が戻ると、偽碁目・死体ともども走り去ったのだ。病院で死体は安置室へと戻り、偽碁目は鳥打帽に継ぎ接ぎだらけの作業員の格好で夜の街へ舞い戻っていった。残された書生は、台車を物置に隠すとともに、竹箒で離れ北側の車輪の跡を注意深く消していった。暗がりの中この作業が一番大変だったかもしれないな。彼は本当によくやってくれたよ。幸い、残った足跡は汲み取り業者のものと判断されることになった」
     「偽碁目の正体をそろそろ明かしてくれてもいいでしょう」私は言った。
     「どさ周りの役者だよ。私は芝居が好きで、暇があれば芝居小屋に入り浸ったものだ。その中で私と背格好が似た人物が偽碁目君だった。本名敢えて明かさないことにする。私は彼をスカウトし、鬘と付け髭をつけ、当日の主役になってくれと頭を下げた。彼は他の劇団員のことを考え乗り気ではなかったが、私の悩みを聞き入れてくれて、ついに大役を買って出てくれたのだ。その瞬間、私は男泣きに泣いたよ。まず私は偽碁目を二番目の書生として屋敷に招じ入れ、家庭の雰囲気を掴んだうえで私のなりふりを真似てもらうことにした。ある程度マスターしたと見定めた私は、事件の一か月前、編上げ帽に夏服の格好でスーツケースを提げ、一人旅へと旅立った。あまりに暑いので二三日避暑地に行くという口実だった。実は私はここ足尾に向かい、雇われ口にありつこうとしていたのだ。無事に口が見つかった私はそれ以来ここを終の棲家とした次第だ。二三日後、屋敷に戻った碁目は、実は偽碁目だった。その後一月ばかり彼は碁目を演じ、事件では主役を張ったのだよ。連載小説は十分書き溜めてあったから、偽碁目が改めて書くふりをする必要もなかった。書生が定期的に編集記者に渡すだけでよかったのだ」
     「巡業役者だったから、あちこちで姿を見られたんですね」
     「ああ、あの後彼は流しの一座に戻ったんだ。だから方々で姿を見られた。あれは、危なかった……」田畑は深く息をついた。
     「足尾でも事件の詳細は手に取るように分かった。私の日課の大いなる楽しみは新聞の事件記事を読むことだった。その記事のスペースが減ることは私の計画が成功したことを意味するが、反面読む楽しみがなくなるわけだから、寂しくもあった。皆さんには本当にお疲れさまと言いたい気分だ」
     「あなたはそれでいいかもしれないが、残された家族の人にとっては本当にそれでいいんですか。あなたは家族の人のことをもう少し考えてあげてよかったのではないですか」
     「釈迦だって、家族を捨てたじゃないか。私だけじゃないよ」
     隙間風が足元を流れ、私は急に寒気を覚えた。体を縮こませる。私はぼそりと呟くように言った。
     「お子さんの成長を見届けたくはないのですか。子の成長を見るのは親の誇りでしょうが」
     「だからそういうのが、世間体を気にするせせこましい態度なんだよ。私はもう、そういう感情には心底うんざりした」
     「奥さんは、奥さんは悲しんでらっしゃるでしょうに」
     「あ奴を見ればわかりそうなものだ。これっぽっちも悲しんでなんかおらんよ。さぞ清々しとるだろう。私のお別れの会の時に、会っとるよな」私は黙って頷いた。
     「別にやつとは好きで結婚したわけではないんだ。子供のためさ。私の愛した人、本当に愛した人は、早々と死んでしまった……」

     ある程の菊投げ入れよ棺の中

     暫く私たちはそれぞれの思いに耽っていた。口を開いたのは私だった。
     「ここに残り一生を過ごすつもりなのか。飯炊きがあなたの余生なのか。こんなところにいたら、煙と寒さであっという間に死んでしまうぞ。もう私たちは、田畑さんの新作を読むことはできないのか。別名義でもいい。この坑底から新作を発信することはできないのか」
     「誰が赤の他人の本など手に取るか。名が売れてこその売文業なんだぜ。わかるだろう。また碁目の模倣者が一人現れたで、終わりだ。そんなくらいなら書かん方がいい。私はここで飯炊きとして働き、余生を全うする。世間に完全に背を向けた訳ではなく、人のために奉仕するんだから、胸を張って死ねるよ。おやおや、これも世間を意識しての言葉だな。やだやだ、言葉っていうのは最後までついて回る。私はここで肺でもやられてのたれ死ぬのは本望だよ」
     「新作の評判を気にするのが嫌だったのか」
     「それも嫌だが、私の性向と作品を結びつけるのには本当に辟易した。弟子たちから面と向かって今度の新作は先生のこれこれこういうお気持ちを代弁しているのではありませんか、と訊かれると返事にはほとほと困った。私は作品の節々を私の生活と結びつけようという態度が気に入らなかった。しかも、巷はそういう評論で溢れかえっていた」
     「私も罪の片棒担ぎだな。そういう評論を収集・拡散して飯のタネにしてるんだから。私の頭の中はあなたに対する詮索心で溢れかえっている。広く言えば、私もあなたの取り巻きの一人に過ぎんのです。あなたに寄りかかって甘い蜜を吸おうという、あなたが心底嫌う連中の一人なんですよ。その癖、自分一人では何もできないわけです」
     「梶田先生は大学の先生として当たり前のことをしているだけですよ。私が梶田先生を気に入っているのは、
    変にプライヴェートに首を突っ込まん事です。性格がさっぱりしていて、しつこくない。しかし、他の連中は情け容赦なく私の私事に干渉してくるんです。これには頭にくるを通り越して呆然自失ですよ。たいていは記者や彼らに雇われた探偵どもです。やたら人の後ろにくっついて回って屁の数を数えてる連中です。それでだしぬけに表に回って、あなたは屁を何回こきましたと平然と言ってのけるんです。こんな連中に四六時中付きまとわれて御覧なさい。家庭生活も何もあったもんじゃありません。まるで監視社会に生きているようなもんです。書けばプレイヴェートとの関連をあれこれ言われる。書かなければ、次の新作は何時頃出ますかねと、方々から小突かれる。私はこんな生活、ほとほと嫌になりました。息苦しくて仕様がない。私が人間関係を清算し、新生活を始めるべく、今回の「犯罪」を犯したのか、これでご理解いただけたでしょう。私は作家業には未練はないのです。今は売れても、作家など一個の泡沫にすぎん。百年もすればすべて忘れ去られてしまうのがおちというものだ」
     「何を言ってるんだ、田畑さん。忘れ去られるのは私ども学者、二次創作者だ。あなたたち一次創作者、とくにあなたの作品は百年後も読み継がれてるよ。私が保証するのだから間違いはない。これだけは断言できる。作品と共にあなたの生命は生き続けるんだ。おっとこれはあなたの嫌う論調でしたか」
     私は田畑に倣って頭を掻いた。構内のどこかで人が死んだのか、騒々しくジャンボーが鳴る音が谷間にこだまする。私は別段そのことを口にしなかった。田畑は立ち上がって飯でも食っていきませんかとさりげなく言った。料理の腕をとくとご覧あれということだろう。だが、田畑との会話はこれで終わったことを意味する。さらには田畑との永遠の別れが近いこともひしと伝わった。私は最後の晩餐に備えるべく、気持ちを切り替えた。そして田畑の新生活を心から祝いたい気分になろうとした。
     読者諸賢よ、これが私の伝えたかったことの全てである。

     頭が急に痛くなった余は目が覚めた。秋の陽が気持ちがいいので濡れ縁で寝そべっているうちに、ついうとうとと寝入ってしまったのだ。瞼が橙色に腫れあがったようで、すぐには物に焦点が結ばん。確か一緒に寝ていたと思っていた、毛並みの悪い猫は何時の間にやらどこかに行ってしまった。濡れ縁の下を覗き込んでもいない。気ままに生きているやつのことだから、手ごろな日陰に移っていったのだろう。所詮人には無関心なのだ。啼くのは腹が減った時ぐらいだ。それがいい。ほっといてやろう。視線を感じた余は、手をかざし向かいの建物の二階に目をやった。すぐに長くて黒い筒状の物が窓のうちに引っ込んだ。ああ、またあいつだ。あいつが望遠鏡片手に人様の家を覗き込んでいる。余は濡れ縁で無防備に大の字になっていたから、鼻の穴まで覗き放題だったことだろう。性懲りもない奴だ。どうせ部屋に引っ込んでは上司への報告書を書いているのだろう。それとも、余の一挙手一投足を記録して仕舞いには余の伝記に仕上げる心積もりなのか。そんなことはどうでもいい。せいぜい好きにやるがいい。
     余はうーんと大きく伸びをして、室内に入った。書いたばかりの原稿に目をやる。今流行りの探偵小説というやつだが、良く書けていると自画自賛しても仕様のない代物だ。大きく見積もっても余の名誉になるようなものではない。しかし、書くことで余の心のしこりは大分取れたような気がする。今度編集者が来るときは、これを読んでもらっても良い。目を丸くするさまがありありと浮かぶ。余は監視地獄、原稿地獄の毎日。しかも言葉と裏腹に人を世話しようという出来心があるせいか、人がひっきりなしに訪れる。その人間関係の軋轢は例えようもなく激しい。時に余の頭は湯気を立て、胃腸や尻は悲鳴を上げる。しかし、こういう生活はまんざらでもないと思う。呼んでもいないのにやってくる人を無下に追い返す法はあるまい。余は緊張の合間にふと訪れる和やかな会話が好きだ。結局、余は世間、人間が好きなのだ。ちょっと拗ねているように見える猫も、この世が大好きなのに相違ない。生きている限りこの世は天国なのだから。
     余は鼻の穴を掻きほじり、伸びた鼻毛をむんずと抜き取る。根元の粘ついたままのそれを、書き終えたばかりの原稿用紙の最後にぺたりと張り付ける。それは一叢の刷毛のように突っ立った。今度、これごと編集者に渡してやるとしよう。普段迷惑をかけている余からのお詫びとして。
     余はこの生活が何時まで続くか考える。そこそこの収入も得たし、子孫も得た。この上何を望むべきであろう。余の命が何時まで持つか余にはわからん。知るのは神のみである。どうせ、一日の三分の一は寝ているのだ。死と同じだ。死とはその闇の心身に対する完全征服に過ぎんのではないだろうか。
     これまでの原稿を仕舞い、新しい原稿を広げた余はまたふと思う。

     余は何時まで生きているのだろう。
    (了)

    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門

     
     
     
    現在フリーランス。培ったスキルを活かしたいと思う日々。クラシック音楽、ミステリー小説好き。難しい本も読みます。他ピアノ、農業・園芸少々。

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