声をかけられる子、かけられない子。指導者の言葉が生む静かな序列
「今のナイスプレー!」
その声は、いつも同じ子たちに向けられます。
我が子が同じようなプレーをしても、その声はかかりません。
何度も見てきた光景なのに、聞くたびに、胸のどこかが小さく反応してしまいます。
期待されている子には、良いプレーをすれば、すぐに褒める言葉がかかります。
うまくいかなかったときも、次にどう改善すればいいか、具体的な助言が与えられます。
声をかけられる回数が多いということは、それだけ見てもらえているということでもあります。
皆さんのチームでは、こうした声かけの差を感じたことはありませんか。
一方で、そうでない子どもたちは、同じように良いプレーをしても、褒められる機会が少なく、うまくいかなかったときも、特に何も言われずに流されてしまうことがあります。
存在そのものが、なんとなく透明になってしまっているような感覚さえあります。
この声かけの差は、勝敗を左右するような大きな出来事ではありません。
けれど、日々積み重なっていくものだからこそ、子どもの自己肯定感に、静かに、しかし確実に影響していくのではないかと感じています。
自分は見てもらえている、期待されている。
そう感じられる子どもは、多少の失敗があっても、次への意欲を保ちやすいものです。
反対に、頑張っても声がかからない状況が続けば、「どうせ自分は見てもらえていない」という感覚が、少しずつ積み重なっていくかもしれません。
我が子の場合、幸いにも、まったく声をかけられないわけではありません。技術面については、「もっと頑張れ」という言葉をかけてもらえています。厳しい言葉であっても、そこに関心を向けてもらえていることの証でもあると、私は捉えるようにしています。
それでも、中心となる子どもたちへの声かけの密度と比べると、明らかな差があることは事実です。
この差を、子ども自身がどう受け止めているのかは、正直なところ、完全には分かりません。
ただ、本人が特別に落ち込んでいる様子を見せていないのは、救いだと感じています。
指導者の立場からすれば、限られた時間の中で、すべての子どもに均等に声をかけることは、簡単なことではないのかもしれません。
それでも、声をかけられる子とかけられない子の差が、子どもたちの間に見えない序列を作ってしまっているとしたら、それは見過ごせない問題だと思います。
親としてできることは、指導者の声かけを変えることではなく、その差の中でも子ども自身が自分の価値を見失わないよう、家庭の中で声をかけ続けることなのかもしれません。
「見てもらえている」という感覚を、チームの中だけでなく、家庭の中でも育てていくこと。それが、今の私にできる、ささやかな補い方です。
それでも、「今のナイスプレー!」という声を、我が子に向けて聞きたいと願う気持ちは、簡単には消えてくれません。
次回、第5話では、出番の見込みが薄い遠征と、子どもなりの判断力について綴ります。
