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境界線の向う側

    あらすじ
    広告制作会社「ブランシェ」で働く入社3年目の私は、老舗和菓子店のリブランディング案件を通じて、冷静で的確な上司・黒瀬課長に惹かれていく。だが社内では「お気に入り」と噂され、努力や実力まで色眼鏡で見られてしまう。苦しみながらも私は、言葉だけでなく数字と仕組みで結果を出し、自分の名前で評価を勝ち取ることを決意する。大型案件の成功をきっかけに、黒瀬課長との想いは仕事上の尊敬を越えて動き出すが、恋を守るには噂や誤解も越えなければならない。仕事で信頼を築き、対等な立場で並び立とうとする二人が、境界線の向こう側へ進んでいく物語。

    境界線の向こう側

    第1話 線を引く男

     私は、好きになってはいけない人を好きになった。

      それを自覚したのは、企画書の角に置かれた彼の指先を見た、その瞬間だった。

     広告制作会社「ブランシェ」。入社三年目の私は、初めて“会社の看板案件”に入った。地方の老舗和菓子店「菓匠いちのや」を、県外へ、そして全国へ。リブランディングと言えば聞こえはいいけれど、実態はもっと泥臭い。ロゴを変えたから売れる、そんな都合のいい話はない。パッケージ、売り場導線、ECの回転、広告費の回収、在庫の波。しかも相手は百年の歴史を背負う社長だ。伝統を壊すことなく、数字を立てる。――難しい。

     そのプロジェクトリーダーが、営業部課長・黒瀬誠だった。三十二歳。社内で“冷静な人”として有名で、会議で声を荒げるところを誰も見たことがない。なのに、彼が言葉を置くと空気が変わる。無駄がない。逃げがない。

     初回のキックオフ。私はSNS拡散を軸にした企画を出した。若年層の興味を引き、映えるビジュアルで入口を作り、話題化させる。

     「若い層の接点を増やして――」

      途中で遮られることはなかった。黒瀬課長は最後まで聞き、資料に視線を落としたまま言った。

     「拡散しても、買われなければ意味がない」

      淡々とした声。叱られたわけじゃないのに、胸がじり、と熱くなった。否定されるより、正面から見られたことが嬉しいと感じた自分が悔しい。

     黒瀬課長はペン先で試算表の空欄を軽く叩いた。

     「CPAが合ってない。和菓子の単価は低い。広告費は現金で落ちる。回収の設計が要る」

      広告は言葉で動くと思っていた。でも彼は、言葉の前に構造を置く。構造を通した言葉だけが、売上として残るのだと。

     その日から、私は“可愛い”の前に数字を見るようになった。競合の価格帯、原価率、送料の重み、リピート導線。SNSの反応だけでなくECのCVRやLTVまで触る。ひとつの言葉を置くために、何十個の数字を合わせる必要があるのか、初めて知った。

     夜遅くまで残る日が続いた。オフィスが静かになり、キーボードの音だけが残る。ふと顔を上げると、黒瀬課長が無言でコーヒーを置いていった。

     「飲め。頭が止まる」

     「ありがとうございます」

     「礼を言う暇があるなら、次の一行を書け」

      優しいのに、近づけない。その距離が、妙に心地よくて、苦しい。近すぎず、離れすぎず。彼は必ずその距離を守る。

     次の週、私は社長ヒアリングに同席した。老舗の応接室は焙じ茶の香りが濃く、壁には創業当時の写真が飾られている。三代目社長は私を一瞥し、すぐ黒瀬課長へ視線を戻した。

     「若い人の言葉は軽い。うちの菓子を、流行りで消費されたくない」

      胸が縮む。私が“軽い”と言われたわけじゃないのに、企画全体が薄く透けたように感じた。

     黒瀬課長は沈黙を恐れなかった。

     「社長が守ってきたものは、味ですか。格式ですか」

      社長は少し考え、唇を引き結んだ。

     「味だ。あの餡と、生地の火入れだ」

     「なら、変えるのは届き方です。味を守るために、伝え方を変える」

      その瞬間、社長の目がわずかに揺れた。相手の誇りを折らずに、必要な変化だけを差し出す。私はその横顔を見て、息を飲んだ。憧れが胸の奥で形になる。

     ――けれど同時に、別の感情も芽を出していた。

      仕事の尊敬だけでは説明できない、熱。

     帰り道、車の窓に夜景が流れる。私はこらえきれず言った。

     「私、まだ浅いですね。言葉を飾ることばかり考えてました」

     「浅いのは悪じゃない。浅いまま終わるのが悪だ」

      黒瀬課長は窓の外を見たまま言う。

     「社長が嫌がったのは“軽い言葉”じゃない。軽く扱われることだ。君が書くなら、敬意を仕組みに載せろ」

      敬意を仕組みに載せる。私はその言葉を、帰宅しても咀嚼し続けた。

     翌日から、私のメモは言葉より先に質問で埋まった。

      誰が買う? いつ買う? どこで知る? 何と一緒に食べる? 買った後、誰に勧める?

      贈答から日常へ。季節の波を越えて回すために、“買う理由”を生活の中に作らなければならない。

     そんな時、営業三課のエース・神谷遼が声をかけてきた。同年代で、数字が強く、社内の空気を読むのも上手い。

     「最近、黒瀬課長の案件だよね。大変そう」

      彼は机の端に肘をつき、軽い笑みを浮かべた。

     「評価、ちゃんとついてる?」

      私は曖昧に笑った。評価の話は触れたくない。社内では噂が立っていたからだ。

     ――黒瀬のお気に入り。

      成果より先に“関係”が語られる。私が積み上げた夜や数字が、薄い噂に上書きされるのが怖かった。

     神谷は言った。

     「今度の大型商業施設案件、共同でやらない? 黒瀬課長の案件から一回離れたら、君の実力、もっと見える」

      正しい。正しすぎて、胸が痛い。

      私は答えを保留にした。保留にしながら、黒瀬課長の横顔を思い浮かべてしまう自分がいる。近づきたいのに、近づいてはいけない。そう分かっているのに。

     その日の夕方、黒瀬課長に呼ばれ、会議室で二人きりになった。

     「社内の声は気にするな」

      いきなり核心を突かれて、言葉が詰まる。

     「……気にしてません」

      嘘だった。黒瀬課長は嘘を見逃さない。

     「君が揺れると、言葉が鈍る。評価は結果で塗り替えろ。噂は数字で黙らせる」

      その言葉が、背骨を一本まっすぐにしてくれた気がした。

     会議室を出る直前、彼がふと小さく言った。

     「神谷の提案も聞いておけ。君の選択肢は、君のためにある」

      その“君のために”が、なぜだか痛い。

      優しさが壁になることを、私はまだ知らなかった。

     噂は静かに広がる。

      評価は揺らぐ。

      そして私は、線の向こう側を見始めてしまった。

     その夜、家に戻っても指先の感触が消えなかった。パソコンを開き、過去案件のレポートを掘り返す。流入は多いのに売上が伸びない週、逆に拡散が小さくても注文が跳ねた日。数字の波には必ず理由がある。私は画面に向かって小さく頷き、メモに書いた。「敬意を仕組みに載せる」。明日の一行は、飾るためじゃなく、届かせるために書く。画面の隅で時刻が午前二時に変わる。眠いのに、なぜか苦しくない。黒瀬課長の声が背中を押す。『噂は数字で黙らせる』。私は保存ボタンを押し、明日提出する試算表のファイル名に、自分の名前を入れた。机に伏せた頬が熱いのは、疲れだけじゃない。


    第2話 揺らぐ評価

     好きだと認めた瞬間から、距離は苦しくなる。

      黒瀬課長が引いた“線”が、私の胸の内側を切り分けていく。仕事と私情。正しさと願い。どちらかだけでは立っていられないのに。

     「菓匠いちのや」の企画は佳境に入った。県外の主要駅ナカにポップアップを出し、ECでは定期便をテストする。広告は短期で燃やさず、回収できる期間を確保しつつ指名検索を増やす。私はコピー案を作り、黒瀬課長と数字の帳尻を合わせながら、社長の“誇り”に触れる言葉を探し続けた。

     そんな折、会社に新しい大型案件が舞い込んだ。地方デベロッパーが手がける商業施設の開業キャンペーン。予算が大きく、社内でも注目される案件だ。会議室で、神谷が手を挙げた。

     「共同リーダーに、彼女を推薦します。言葉も数字も両方いける。いま一番伸びてる」

      一瞬、ざわつきが起きる。私は驚いて神谷を見た。神谷は笑って頷く。背中を押してくれているのが分かった。

     黒瀬課長は沈黙し、やがて言った。

     「適任だ。任せよう」

      淡々とした声。胸が、すうっと冷える。

      ――手放された。

      そう感じた自分に、腹が立った。仕事の判断だ。私情を挟むべきじゃない。分かっているのに、心が追いつかない。

     会議後、神谷が近づいてきた。

     「これで“黒瀬のお気に入り”って言われても、実力で黙らせられる」

      私の胸の痛みを見抜いたような言葉だった。

     「ありがとう」

     「礼は結果でいい。今夜、軽く打ち合わせしよう」

      神谷の距離は近い。気遣いが上手く、言葉が柔らかい。私は頷いた。頷きながら、黒瀬課長の背中を追ってしまう自分に気づく。

     カフェの窓際で資料を広げる。媒体配分、KPI、オープン初月の回遊率、LINE登録の目標数。神谷は数字を組むのが速い。

     「初月は認知。二か月目から回収。三か月目で黒字。上限CPAはここで止める」

      私はその計画を聞きながら、穴を探した。仕事としては噛み合う。なのに、心が落ち着かない。欲しいのは、この優しさじゃない。そう思ってしまう自分が、怖い。

     帰り道、神谷が言った。

     「君ってさ、黒瀬課長のこと、尊敬してるだろ」

      私は足を止めた。

     「……尊敬してます」

     「それだけ?」

      真っ直ぐな目。逃げ場がない。私は笑って誤魔化した。

     「仕事の話ですよ」

     「なら、俺はちゃんと“仕事以外”でも君を見たい」

      神谷の言葉を、私は受け取れなかった。胸の奥が痛む。ここで頷けば、何かが決定的に変わる。

     翌日、社内の噂はさらに濃くなった。

     「主任、神谷と組むって。黒瀬から乗り換え?」

      言葉は薄くて遠慮がない。私は聞こえないふりをした。評価が揺れている。仕事が恋の影に飲まれそうになる。

     商業施設の担当者との打ち合わせ。先方は数字には強いが、空気に弱い。少しでも抽象に寄ると、すぐ予算の話に戻される。だから私は冒頭を、生活の場面で始めた。

     「仕事帰りにふらっと寄れて、家族に『今日こんな店ができたよ』って言える場所。そこで最初に見える景色を設計します」

      言葉を置いた瞬間、相手の目が柔らかくなる。続けて私はKPIと回収計画を並べた。言葉は、数字に触れた途端に“現実”になる。

     提案は手応えがあった。だが終盤、担当役員が言った。

     「SNS施策は怖い。炎上したら終わる。予算を削って紙と交通に寄せたい」

      神谷がすかさず笑顔で返す。

     「もちろん。煽りません。UGC誘導は“参加”じゃなく“共有”に寄せます。炎上しやすいコピーは使いません」

      私は感心しながら、同時に焦った。自分が“神谷の補佐”に見えたからだ。実力で黙らせたいのに、また影がつく気がした。

     会社へ戻ると、黒瀬課長が会議室で別案件の打ち合わせをしていた。扉の隙間から見えた横顔は硬く、私の存在に気づいても何も変わらない。

      ――やっぱり、どうでもいいのかもしれない。

      その誤解が胸を冷たくした。

     夜。オフィスに残って回収計画を直していると、会議室のドアが開いた。黒瀬課長だった。

     「まだ残っているのか」

     「……数字の整合が取れなくて」

      彼は資料に目を落とし、眉を寄せた。

     「神谷に任せきりか?」

      確かに、棘があった。

     私は思わず言ってしまう。

     「課長が、私を手放したんですよね」

      沈黙が落ちた。黒瀬課長の目が、わずかに揺れる。

     彼は赤ペンで数式を直しながら言った。

     「ここ、駅ナカは初月だけ。二か月目からリターゲティングを厚く。LTVで回収する」

      相変わらず正しい。正しさが痛い。

      そして、低い声が落ちた。

     「俺は、お前を軽く扱われるのが嫌なんだ」

      私は顔を上げた。

     「それって、嫉妬ですか」

      言った瞬間、心臓が跳ねる。

     「……神谷に取られるのは、嫌だ」

      言葉が漏れたようだった。けれど確かに“感情”があった。

     私は笑いそうになり、泣きそうになった。

     「課長は、どうしたいんですか」

      長い沈黙。

     「隣に立ってほしい。仕事でも、それ以外でも」

     嬉しい。怖い。全部が混ざる。

      でも私は、すぐ答えられなかった。社内の噂。評価。仕事の結果。恋だけで選べない。

      だから私は言った。

     「まず、次の社内レビューと本番を成功させたいです。私の名前で、結果を出したい」

      黒瀬課長は短く頷いた。

     「……分かった」

     会議室を出るとき、神谷から『今、話せる?』とメッセージが来た。

      誰も悪くない。だからこそ苦しい。

      そして私は理解した。

      この恋は、仕事に勝たなければ、始める資格さえないのだ。

     翌朝、神谷から共有されたスケジュール表を眺めながら、私は決めた。誰の隣に立つにしても、私の足で立つ。噂は空気で、仕事は現実だ。現実は、整えれば再現できる。私は社内レビュー用に、KPIと回収計画を一枚に圧縮した。根拠の数字、想定リスク、打ち手の順番。誰が見ても同じ結論に辿り着く形にすれば、揺らぐのは印象だけになる。資料の端に、ひとつだけ自分のルールも書く。『相手の誇りを削らない』。数字を守るための言葉は、相手を勝たせる言葉でなければ続かない。神谷の提案を受けるかどうかより先に、私は自分の書き方を決めた。そのために、私は今日も淡々と確認し、淡々と修正する。焦らない。焦ると、言葉が軽くなる。大丈夫。必ず。


    第3話 勝って、越える

     恋も仕事も、逃げないと決めた。

      曖昧なまま近づけば噂に飲まれる。噂に飲まれれば、努力が“誰かの影”になる。だから私は、まず自分の名前で勝つ。

     商業施設案件の最終提案当日。会議室はガラス張りで、街の音が遠くに見えた。担当者の隣には上層部が座り、空気が重い。私は資料を開き、呼吸を一つ整える。

     冒頭は磨いた一文で始めた。

     「この施設が“思い出の場所”になるために、最初の三十日で『語りたくなる体験』を設計します」

      体験を提示してから、KPIと回収計画を置く。

     「初月は認知。二か月目から回収。三か月目で黒字。上限CPAはここで止めます」

      担当役員が眉を上げる。

     「SNSは怖いと言っていたが」

      私は頷く。

     「煽りません。参加を煽ると炎上します。共有したくなる“景色”を作り、自然に広がる導線だけを設計します。UGCは指示せず、起きたものを拾います」

      空気が、ほんの少し緩んだ。

     神谷が隣で補足する。私は助けられながらも主導権を手放さない。質疑の矢が私に向かうたび、私は一つずつ答えた。噂は数字で黙らせる。黒瀬課長の言葉が、背中を支える。

     提案の最後、担当者が言った。

     「任せたい。あなたの言葉は、怖いくらい具体的だ」

      胸の奥で、何かが弾けた。私は頭を下げ、ゆっくり息を吐いた。

     会社へ戻ると、社内の空気が変わっていた。周囲の視線に“確認”が消え、“評価”が混じる。私はやっと噂の外側に立てた気がした。

     翌朝、部内共有会が入った。成果報告の場であり、同時に“誰の手柄か”が整理される場でもある。私は資料を抱え、席に着いた。神谷が隣で小さく頷く。

     「大丈夫。君の数字は君のものだ」

     報告が始まると、別部署の先輩が言った。

     「でもこの案件、神谷が付いてたから通ったんじゃないの?」

      悪気のない調子。けれど、刃がある。胸が痛む。私は口を開こうとしたが、先に神谷が言った。

     「俺はサポートです。回収計画の筋は彼女が作った。質疑も彼女が受けた」

      救われる。でも、同時に悔しい。自分の口で言いたい。

     その瞬間、黒瀬課長が会議室に入ってきた。空気が変わる。

     「結論から言う。今回の勝因は、設計と運用を同時に組んだことだ。企画側が数字を持ち、営業側が現場を守った」

      彼の視線が私に一瞬だけ落ちる。

     「彼女の回収計画は標準にする。再現性がある」

      胸が熱くなる。これは褒め言葉ではない。会社の中で、仕組みとして認めたという宣言だ。噂ではなく、評価。私はようやく地面に足が着いた。

     会議の後、神谷が言った。

     「よくやった。……で、今夜少しだけ話せる?」

      私は頷いた。

     夜の帰り道、神谷は言った。

     「本当は、昨日言い切りたかった」

      静かな声。

     「俺、君のこと好きだと思う。告白っていうより確認。君が幸せなら、それでいい」

      告白未遂。押し付けない優しさが胸を痛くする。

     「神谷さん、ありがとう」

      私は正直に言った。

     「私、ずっと一人の人を見てきました。仕事の背中ごと、好きになってしまった」

      神谷は苦く笑い、軽く手を振った。

     「なら、勝てないな。あの人、ずるいくらい格好いい」

      そう言って、最後まで私の選択を尊重してくれた。

     その夜、黒瀬課長から『会議室』とだけメッセージが来た。心臓が跳ね、私は足早に廊下を渡る。会議室のドアを開けると、彼が窓際に立っていた。ネクタイを外し、袖を少しまくっている。仕事の鎧を少しだけ脱いだ姿。

    「お疲れ」

     「……ありがとうございました。今日、勝てました」

     「勝ったのは君だ」

     私は深呼吸し、言った。

     「私、今日の結果で、噂を塗り替えました。だから、もう一度聞きたい。課長の“隣”って、どこですか」

     黒瀬課長は迷うように一度だけ目を伏せた。守るための線が、彼自身の弱さにもなっていたのだと、その瞬間だけ分かった気がした。けれど、彼は逃げなかった。

    「隣に立ってほしい」

      前よりはっきり言った。

     「だが条件がある。君の評価を曇らせない。社内には段階を踏む。噂じゃなく、事実として整える」

      私は頷く。

     「私も条件があります。私を“守る”だけにしないで。私は一緒に戦いたい」

      彼の口元がわずかに緩んだ。

     「……分かった。対等に」

     窓の外には春の光が滲んでいる。彼が私の手に触れる。指先が絡む。今度は離れない。彼が少しだけ顔を近づける。息が触れそうで、私は目を閉じた。けれど、ぎりぎりのところで止まった。

    「……ここまでだ」

      低い声が甘く震える。

      私は笑ってしまう。彼らしい。

     「近すぎず、離れすぎず、ですね」

     「今日だけは、少し近い」

     キスはしない。

      でも確かに、始まった。

      ただ、社内の噂は消えない。恋を守るには、もう一つ仕事の山が必要だった。

     会議室を出たあと、私はスマホを握りしめた。『会議室』の短い文字が、胸の奥を焦がす。けれど私は走らない。勝ったのは、感情じゃなく積み上げだ。だから次に踏み出す一歩も同じだと、自分に言い聞かせる。廊下の窓に映る自分の顔は、少しだけ大人びて見えた。深呼吸してからドアノブに手を掛ける。逃げない、と心の中で繰り返した。ドアの向こうにいるのが彼だと分かっているのに、手が震える。私はその震えを否定せず、指先に力を込める。恋の勢いで近づかない。仕事で勝った自分が、次の言葉を選ぶ。そうすれば、この関係は崩れない。誰かに見られてもいい未来を、私たちは仕事で作っていく。


    第4話 境界線の向こう側

     次の週、黒瀬課長はいつも通りの顔で私にコーヒーを置いた。

     「飲め。頭が止まる」

      私は笑って受け取る。

     「礼を言う暇があるなら、次の一行を書け、ですね」

      彼は小さく息を吐いて笑った。

     「覚えていたか」

     「忘れません。私の始まりの言葉なので」

      視線が重なる。誰にも見られない距離で。

     けれど、社内はそう簡単に私たちを放っておかない。商業施設案件が成功した直後から、妙に丁寧な確認が増えた。経費の扱い、稟議の流れ、議事録の言い回し。まるで粗探しのように。噂が形を変えて、手続きの中に入り込む。私は気づいた。噂は、個人の感情では終わらない。組織の都合として利用されるのだ。

     ある日、経営企画から呼び出しが入った。

     「商業施設案件の勝因分析を共有してほしい。特に『主任がKPIと回収計画まで持った』点は社内で標準化したい」

      名誉な話のはずなのに、胸の奥がざわついた。標準化は歓迎だ。でも、その議題の裏で――誰が主導したのかが再び裁かれる気がした。

     会議室には、企画部、営業部、経営企画、そして黒瀬課長がいた。神谷も同席している。彼はいつも通り淡々としているが、私の顔色を見て小さく頷いてくれた。味方だ、と言わなくても伝わる。

     議題が進むにつれ、ある質問が飛んだ。

     「主任がここまで踏み込めたのは、黒瀬課長の支援があったからでは?」

      まただ。言い方は柔らかいのに、矢の先は同じ。黒瀬のお気に入りの再燃。

     私は息を吸い、資料を開いた。

     「支援があったのは事実です。ですが、私が最初に躓いたのは『数字に触れず言葉を作っていたこと』でした。そこを矯正するために、自分の手で過去案件のデータを洗い、CVRとLTVの推移を調べ、回収計画を組みました」

      淡々と、具体的に言う。

     「これは再現できます。なぜなら、担当者の経験ではなく作業手順に落とし込めるからです」

      私はホワイトボードに、手順を書いた。

      ①目的(認知/回収)を分ける

      ②上限CPAを決める

      ③初月・二か月目・三か月目のKPIを置く

      ④炎上リスクを言葉ではなく導線で管理する

      ⑤UGCは指示せず拾う

     空気が変わった。

      評価は、噂よりも具体に弱い。

      具体は、人を黙らせる。

     会議が終わった後、廊下で先輩が小さく言った。

     「……ごめん。変な勘ぐり、してた」

     「大丈夫です」

      私は笑えた。今度は嘘じゃない。大丈夫になれたのは、結果と、具体のおかげだ。

     夜、黒瀬課長が私の席に来た。

     「今日の説明、よかった」

      短い言葉。けれど確かに誇りが混じっていた。

     「ありがとうございました」

     「礼を言う暇があるなら」

     「次の一行を書きます」

      二人で笑う。ほんの一瞬のやわらかさ。

     けれどその瞬間、背中に視線を感じた。誰かが見ている。誰かが、また噂の種を探している。私は息を吸い、黒瀬課長から一歩だけ距離を取った。近すぎず、離れすぎず。私たちは、その距離で守ってきたのだ。

     黒瀬課長が低く言った。

     「今夜、少しだけ歩くか」

      私は頷いた。

     夜の風は少し冷たい。街灯の光が路面を淡く照らす。私たちは並んで歩いた。手は繋がない。けれど、歩幅が揃う。

     「今日、怖かったです」

      私が言う。

     「また“影”にされるのが」

     「影にはさせない」

      黒瀬課長は言った。

     「君は君の名前で立ってる。俺が保証する」

     「保証って……」

     「上司としてじゃない。仕事仲間として」

      その言葉が、胸に刺さる。仕事仲間。そう言うことで、やっと対等になれる気がした。

     私が小さく笑う。

     「私も、保証します」

     「何を」

     「私が私でいること。あなたの好意を、噂の餌にしないこと」

      強い言葉だった。だからこそ、胸が熱くなる。

     橋の上で足を止めた。水面に街の光が揺れる。

     「……もう、逃げないです」

      その声は揺れていない。黒瀬課長は私の手を取った。指先が絡む。呼吸が少しだけ速くなる。顔が近づく。息が触れそうで、私は目を閉じる。

     けれど、止まった。

    「……あと一つだけ、片付けよう」

      黒瀬課長が言う。

     「噂を終わらせる。君の実力が社内の標準になった今、次は線引きの理由を、俺が背負う番だ」

     「どういう意味ですか」

     「俺が、上司として曖昧な距離を取っていたと誤解されないようにする。君を守るために線を引いていたのだと、仕事として説明できる形にする」

      私はふっと笑った。

     「それって、すごくあなたらしい」

     「……君の隣に立つには、俺もちゃんと働かなきゃいけない」

     「はい」

     「じゃあ、終わらせよう。噂も、誤解も。私たちのやり方で」

     その夜、私たちは手を繋いで歩いた。近すぎず、離れすぎず。でも、もう離れない。

     翌朝、黒瀬課長は社内に向けて淡々と告げた。

     「主任の手順を全社展開する。彼女は案件の成功を再現性に落とした。今後の標準にする」

      それは恋の宣言ではない。けれど私にとっては、何より強い味方の言葉だった。

     仕事で勝ち、噂を越え、線を越える準備を整えた。私たちは、境界線の向こう側へ行く。ゆっくり、確実に、同じ高さで。

     帰り道、私は風の冷たさに肩をすくめながらも、どこか軽かった。噂は消えなくても、形を変えさせられる。曖昧な距離が誤解を呼ぶなら、仕事の言葉で輪郭を作る。担当範囲、意思決定、成果指標。そこを整えれば、恋は噂の燃料にならない。そう決めた瞬間、黒瀬課長の横顔が少しだけ近く見えた。歩幅が揃う。それだけで、今夜は十分だった。信頼は、口約束じゃなく手続きで守れる。私はそれを、ようやく理解した。だからこそ、手を繋ぐ前に、整えるべきものを整える。近すぎず離れずの距離は、逃げではない。二人が並ぶための設計なのだと思えた。


    #創作大賞2026 #恋愛小説部門


     
     

    AKEMI

     
     
    鹿児島県在住のWebライター・AKEMIです。大手メーカーで約29年勤務後、在宅でライターとして活動中。夫婦の日常や働き方、暮らし、7匹の猫との生活など、実体験を大切にしながら、共感していただける文章を発信しています。読んだ方の心にそっと寄り添えるnoteを目指しています。

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