芋出し画像

倚蚀語孊習は楜しい〜番倖線②〜癜銬を芋る時、い぀も父を偲ぶ

▪父ずいう人

どうしおもい぀か曞いおみたかった話がある。ドむツ人ずの関わりがある為、このタむトルを継続させた。

倚蚀語孊習は楜しい①で父が英語教材を買っおくれた事を曞いた。その父が、私に語った話である。

父ず私は幎霢差があった。父は倧孊卒業埌に戊争に行き、抑留され、その埌日本に垰還しおから母ず結婚しおいたので、かなり晩婚であり、たた姉ず私は歳差であるので、曎に幎霢の差が生たれたのだった。

同玚生の芪埡さんたちず比べおかなり幎䞊であったので、別れの時期も早かった。もう亡くなっお長い幎月が経っおいる。
「今、芪の介護をしおいる」ず同玚生から聞くに぀け、これだけ幎霢差があったのかず改めお考える。

戊争の折、父はりクラむナで抑留を経隓しおいる。
それに぀いお、私はずおも語るこずはできない。
抑留された日本兵の状況、極寒の地での過酷な匷制劎働や、数䞇人が亡くなったずいう事実、怜玢しお知るこずはできおも、盎芖できない。

父が䞀切語ったこずがないからだ。口にするこずすらできないほどの蟛い経隓を胞に奥に抱えおいるからだ。
それに觊れおはいけない、尋ねおはいけないず感じおいたし、䜕より私は幌すぎた。

小孊校の頃、父の内面を感じさせる雑誌があった。
父は圓時、発刊されおたもない『暮しの手垖』を定期賌読しおいた。培底的な商品テストなど気骚のある䌁画の雑誌であるずずもに、倖囜を旅するこずや、本栌的な海倖の料理の䜜り方、掗緎された゚ッセむなど、矎しい暮らしを玹介しおくれる雑誌であった。  

父にずっお、豊かで自由な時代が到来したこずを改めお感じられる雑誌であったのだず思う。

父は、圓時の線集長、花森安治の革新的な考え方に興味を瀺しおいたし、商品テストの話を私ずもよく話した。母は珍しいお料理のペヌゞを芋お詊しおいたし、私ぱッセむを楜しみにしおいた。

すおきなあなたにずいうそこだけグリヌンで印刷された数ペヌゞ。毎号10話ほどのテヌマの様々な゚ッセむは、こんな生き方をしおいる日本人が本圓にいるの?ず思うような優雅さがあった。
ペヌロッパの也いた空気を感じる排脱な文章、
海倖の家庭の暮らし、旅で出䌚った人々、カフェ、䞁寧な日本の暮らしに぀いお、食、文化etc

暮しの手垖は、発行された初期の䞉幎分くらいが実家の本棚に残されおいる。
衚玙の花森安治の絵にしおも、装䞁にしおも倧倉矎しく、その内容の䟡倀を思えば、文孊党集ず共に本棚に䞊べられおいたこずに玍埗する。

読み盎しおみるず、各メヌカヌから次々ず販売されおいた、電化補品の性胜の比范テストなどがやはり懐かしい。
゚ッセむは時代を軜やかに超えおいお、今読んでも党く色耪せおいない。

父があの雑誌を奜んでいたのは、自由闊達さず新しい物の芋方や䟡倀芳を求めおいたからだったず思う。

父は物静かで、勀勉で口数も少なかった。手先が噚甚で、暇な時に新しい䜕か、思い぀いた物を䜜っおみたり工倫するのが奜きなようだった。
生真面目に暮らす日々の䞭でも、実は面癜いこずが奜きな様子が芋え隠れしたし、曞棚の本の傟向から文化や芞術に興味があるようだった。たたコヌヒヌがずおも奜きで、よくサむフォンで楜しそうにコヌヒヌを淹れおいたのを芚えおいる。 

子どもながらに、父があず10幎、20幎、遅く生たれおいれば、戊争の蟛い䜓隓もなく、もっず自由な別の生き方をしたり、楜しみを持おただろうに、ず思ったものだった。
仕事垰りにカフェでコヌヒヌを楜しんだり、パ゜コンをいじったり、圓たり前に皆がやっおいる自分の時間を過ごせただろうに。


▪私が聞いたただ䞀぀だけの戊争の話

そしおある日、父は語った。
ある日、父が幌い私にもわかる蚀葉を遞び、話し始めた。膝の䞊で遊んでいる時だった。なぜその時だったのかはわからない。

父はそれたで戊争や抑留の事を語るこずはなかった。
しかし、その苊劎は母から聞かされおいたし、いかに恐ろしく苛酷であるのかは、テレビでドキュメンタリヌの映像などから、幌いながらに察しは぀いおいた。


戊争の時、倧勢の日本兵が日本に垰れないたた、゜ビ゚ト各地に抑留された。父はりクラむナに抑留されおいたそうだ。

「寒いし食べ物はないし、倖で働かなければいけなくお、ずおも倧倉だった。けれど、こんなこずもあったんだよ。」
ず。

匷制劎働をする日々の䞭、ある日、父がドむツ語をかなり話せる事を知った䞊の立堎の人から、ドむツ人医垫の通蚳ずしお手䌝いをするように指瀺されたのだそうだ。

皆ず同じ劎働をさほど軜くされたわけではないにしおも、父だけが通蚳ずしお手䌝いをするようになり、医垫からは喜ばれ、重宝がられた。
医垫はずおも良い人で、父に倧倉芪切にしおくれたそうだ。父は穏やかで生真面目で誠実な人であったから、信頌されたのだず思う。

過酷な日々の䞭、そうした倉化が、いかに父の心を救ったか想像が぀く。
倧孊で孊んだドむツ語、その語孊力が人の圹に立ち、喜ばれ、芪切にされる。
抑留䞭の特殊な環境の䞭にあっお、明るい䞀筋の光のようなものだったず思われる。
それを語る父は嬉しそうだった。

そしお父にはご耒矎が䞎えられた。
日本人兵士たちは倖での劎働の際、銬に乗るこずがあったそうだが、特別に父にだけ、癜い銬をあおがわれたのだそうだ。
しかもその銬は、映画の撮圱の折、女優さんが乗ったずいう特別な銬だった。

癜銬は珍しく矎しく、仲間からは矚望の県差しが向けられた。
「みんながずおも矚たしがったんだ。」ず父は誇らしげに少しだけ埮笑んだ。

父は、倧人しく控え目だった。目立ちたがり屋ではなく、矚たしがられたずしおも嚁匵るような人ではない。
痩せおいたが骚倪で姿勢が良く、綺麗な面差しの人だった。
父が矎しい癜銬にたたがり、少しだけ誇らしげにしおいる姿を想像した。
抑留生掻での過酷な日々の䞭、ほんの少しの嬉しい出来事を支えに過ごしたであろう父を思い浮かべる。

ドむツ人の医垫、どんな人だったのだろう。
私がこの囜のどこかの街ですれ違う誰かが、もしかしたらその人ず繋がりがあるかもしれない、ずい぀も思う。
「あの時、父に芪切にしおくださっおありがずう」ず、い぀もどこかの誰かに向けお思っおいる。

芋知らぬ人に芪切にしおもらう床に、父の分も含めお、お瀌を䌝えるようにしおいる。

Vielen Dank fÃŒr Ihre Freundlichkeit.

実家には父の写真の前に、抑留生掻䞭に䜜った箞が眮いおある。店で売っおいるような箞よりは倪い。父はそれを日本に持ち垰り、生涯䜿い続けた。

硬い真っ盎ぐな朚を芋぀け、郚屋に終わっおから、地道に削り圢を敎え、磚いたものだ。䞁寧な手仕事が父らしい。
い぀たで続くのか、本圓に日本に戻れるのか、䞍安な倜も手を動かすこずで、自分らしく心を敎える時間であったのかもしれない。
調べおみるず、その期間は長い。想像も぀かない。


癜銬の話にしおも、箞にしおも、ずおも父らしい゚ピ゜ヌドだず思いながら、膝の䞊で聞いたのだった。

英語の教材を買っおくれた時の蚀葉。
「倖囜の蚀葉が話せるず圹に立぀よ」
本圓に圹に立っおいたのだ。

癜銬を芋る床に、その背に跚り、誇らしげに少し埮笑む父を思い浮かべる。


▪付蚘
父は、抑留䞭に仲間であった人々ず、その埌も長く繋がりを持぀。1幎に䞀床東京で䌚合があり、必ず出かけおいた。
父はお酒もさほど飲たない人であったし、倧勢の人々ず芪しくするタむプの人ではなかったが、この䌚だけは出垭しおいる。
かの地で同じ幎月を過ごし、生き抜いた仲間たち。
ガリ版で印刷された、䌚の名簿をよく芚えおいる。
ただ存呜の方はいらっしゃるのだろうか。

䌚の名前は【カルトヌシカ】
ロシア語でゞャガむモを意味する。









いいなず思ったら応揎しよう