
女優とナポリタン
その店に入ると壁一面にポスターやフライヤーが貼ってあった。
小劇場や、ミニシアターの映画の告知、ずいぶん昔に上演したものもそのままだ。
吉祥寺のカヤシマ、という知る人ぞ知る、いや、もはや人気洋食屋である。
厨房を覗くと鍋を振るマスターの姿が見える。もちろん作っているのはナポリタン。その店はナポリタンが売りだ。
「あー、かつてはこの人もなんかやってたんだな…」
一目でわかる風貌である。かっこいい顔面、演劇崩れの渋い奴。
隣の席でやけにベラベラとうるさく喋っている男がいる。
「俺は昔から気がついてたよ」
「表現っていうのはさ」
なんだ、この人は、30代後半くらいだろうか、なんかの映像の監督ですかぁ?
向いの席には若い女性が座っている。
横目でチラっと見る俺。
わ、なんだろう、可愛い!とすぐに簡単な一言では言えない。
儚げなのに、強く惹きつける何かがある。フワッとした曖昧な輪郭の服を着て垢抜けた化粧。他の女性客とは明らかに違う空気を纏っていた。彼女の目の前にはやはりナポリタン。
そんな彼女はベラベラとよく喋る男を前にして、うんざりする様子はない。不思議な眼差しで彼を見つめている。
と、自分のテーブルにナポリタンが運ばれて来た。
美味い!さすが噂に違わぬ店。隣の客に気を取られてる場合ではない。
「私、片耳が聞こえないんです」
ベラベラと喋り続ける男の、わずかな隙をついて、彼女は言った。
「え、急にそんなことぶっこんで…それは、、」
彼は一瞬戸惑いの表情を見せる。
「私、現場でよく聞こえないことがあるんです」
「俺がフォローするよ」「気にすることないよ」
さっきまでのベラベラ男とは違う彼。
というか、こんな店でこんな男の前で俄かに心を開いちゃう女性、なんなんだ!どうしたの!?
自分の席と隣の席の空気が一変した。ナポリタンの味、わかんねーよ!
なぜか食事しながら切なくなってしまう。
隣にいるアカの他人の俺でさえ、彼女に不思議な感情をいだいてしまう。
監督、大丈夫だろうか…。
「だめ…。」
彼は、彼女の聞こえない方の耳に、静かに息を吹きかける。
彼女は声にならない声をあげた。
片耳が聞こえないことを、ずっと隠してきた。初めてその日、彼に伝えた。
こうなることは必然だった。
聞こえない耳が、吐息の温度を感じた。それだけではなかった、自分自身の弱い部分を意識せざるを得ない、そこだけは、やめて、彼女の感情は混乱する。気が狂いそうになった。そして気が狂いそうなほどに、感じてしまった。
彼はなぜそんな残酷なことをしたのだろう。
二人は映像作品にかける情熱と同じ熱で、お互いに溺れた。
彼女は化けた。
安い巷の映像作品ではない、皆が知っている”女優”になった。
彼女の演技はドスが効いている、そして悲しみを知る目だ。
彼女が絡む作品は、売れた。
その店で見た男の顔をその後メディアで見たことはない、どこかで活躍してるかもしれないし、あるいは挫折してどっかの飲み屋のマスターになってるかもしれない。
男の存在で女優の演技が変わることなんて、あるのか?
いや、彼女は自分自身で自分を変えたんだと思う。何故ならその後結婚したのは、あの俳優だ。カヤシマの男を踏み台にしたのかもしれない。したたか、と言うのは語弊があるか。
今でも僕はカヤシマのナポリタンを食べに行くことがある。
あくまで味を求めに行く。人間ドラマを見に行くわけではない。
いや、やはり、あの空気を吸いに行ってるのかもしれない。