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Photo byyk317ss

短編小説│暁の恋情 〜ある少女の名前へ辿る旅路〜

    おおよそ暁の時刻。
    私はただ、白銀色の地面に旅路を残している。
    天空から浴びせるように降る氷の結晶によって呼吸が浅くなり、途切れ途切れに何度も白い息吹を吐く。
    手は既に真っ赤で寒さよりも痛みが先行している。
    足は、まるで氷に覆われたように重い。
    とうに考えることは出来なくなっていた。
    ただ足だけが覚えている動作を繰り返していた──それはいわば機械人形のようだった。

    ───ふと、脳裏に少女が追憶される。
    今では忌々しい白銀にも似た髪と、ルビーのような深紅の瞳をしている、少女とも女ともとれないような容貌だった。
    その少女は、私の心臓からか脳からか引き起こされる正体不明の現象──恋情──を揺るがせた唯一の人間であった。
    名前は───分からない。

    ただ確かなのは、私の人生の中で、
    彼女は最も大切な人だということだけだった。

    だからだろうか。

    意識を手放す寸前だからこそ、最も人生に色がついたあの瞬間が追憶された。

    夕焼けに照らされた図書館の窓際。
    木製の椅子に腰掛けて、静かに難しげな宗教の本を読んでいる。
    一挙一動、目の離せないほど美しい彼女に、初めて、息を飲む、という表現を体感した。
    小説で、ただ弄されている表現だと思っていただけに、酷く衝撃を受けたのを覚えている。
    自分の中で形作っていた世界構想が、ジグゾーパズルを丁寧に剥がしていくように崩壊していくのを感じた。

    「どうして」

    樹液に魅了された昆虫のように、私は気づけば少女に声をかけていた。
    少女は、私が話しかけても尚、ただ文を目でなぞっている。

    「どうしてそんなに、艶があるのですか」

    春風がカーテンを押し、それが少女を翼蔽するように大きく広がった。
    その瞬間、黄金色の光と水晶色の風によって、彼女が纏っていた深淵の紫色が薄まる。

    「そう見える?」

    瞳は未だ本に釘付けで、私の方を向いてはくれない。

    「はい」

    少女はゆっくりとページを捲った。

    それとほぼ同時に夕日が地平線に沈み、紺色の暗がりが訪れた。
    風も止んで、この空間には、ただ彼女のページを捲る音と、私の頻繁に鳴っている心臓の音のみが響いている。
    私は、どうしたらいいか分からず、とりあえず少女と対面する形で座った。
    しばらくの沈黙を破って、少女は何でもなさそうに呟いた。

    「緊張しているのですね」

    「は⋯⋯はい」

    少女は、革製の黒い栞を本に挟んで、私の方を向いた。
    その瞬間、まるで彼岸花のように魅惑的な赤い双眸と相対した。
    その赤は、今まで見たどの色素でも表現出来ないようなものだった。

    「貴方、本は好き?」

    机を純白な指でなぞりながら、少女は尋ねた。

    「好き。だけど文学はあまり好きではありません」

    「へぇ。それはどうして?」

    「文字に色彩のある感覚が、どうしても不思議で仕方ないのです」

    「──ふぅん」

    「分かりませんか?論文とは違うんです。文学にはその文学特有の色が溢れている。けれど、私の瞳はその色彩に対する耐性がないのです」

    少女の双眸が少し見開く。
    一瞬、彼女の呼吸音が聞こえた気がした。

    「──ふふふ」

    「な、何が可笑しいのです」

    小っ恥ずかしくなり、すぐに問いを投げてしまう。

    「貴方、素敵な感受性をしているのですね」

    その言葉は純粋な褒め言葉のようでもあり、しかし、どこかアイロニーな棘を含んでいた。

    「そういえば、お名前はなんというのですか?」

    私がそう、何でもなく訊くと、少女は瞳の奥で闇を宿した。
    表情は動いていないのに、その一瞬の所作だけでこの問いが禁忌であったことに気がついた。

    「人の全ては、いわば氷のようなものです」

    「どういうことです?」

    「───想像してみて。人というのは大部分が氷なのです。でも、誰もそんな事に気づいていないから、すぐにその氷をすり減らしてしまう」

    「いまいち、話が見えてきません」

    「───人は皆、少しずつ他人の氷に触れて生きているのです。ですが、密接に触れ合うことで氷を溶かして自分の価値観が歪んでは元も子もありません。言うまでもなく、自分が熱に犯されてもいけない」

    「つまり?」

    「───それは、貴方の考えることです」

    私が、その言葉の詳細を聞こうとしたと同時に、21時を告げる鐘が鳴った。

    少女は、その鐘がなるとすぐに席を立って荷物をまとめ始めた。

    「帰るのですか?」

    「はい。夜は野蛮な者が多くなりますから」

    「それは──残念です。何か、手放してしまいそうで」

    「いえ」

    少女は、私の方へ向き直った。

    「貴方はまだ、掴めてすらいませんよ」

    「え?」

    「まだ、雲が掴めると信じている"滑稽な人間"に過ぎない」

    「⋯⋯」

    「だから」

    ───掴めるようになるといいですね。これから。

    そのとき、私はようやく自分の中に渦巻いていた想いの輪郭をなぞった。

    これは、ただの好奇心ではなく、渇望。
    喉の乾きを満たすために水を飲むように、心にぽっかりと空いた穴を埋めるために存在する欲望。

    そんな言語化で、十分だろう。

    言葉という記号では、きっとどれだけ完備な装飾をしてもこの想いを伝達することは不可能だから。






    蝉の騒々しい喚き声が耳を劈く。
    そして、どこかジメジメとした鬱陶しい暑さがどこでも付きまとう。
    これを、夏と表現するらしい。
    私は、これを眼前の少女に教えてあげたい。

    少女は、この灼熱の中でも長袖に重そうなスカートを身につけて、ほら、いつも通り本を読んでいる。

    「暑くはないのですか」

    全てを見透かしているように少女は涼しげに振舞っている。
    彼女だけ空間ごと切り取られているのだろうか。
    そう錯覚してしまう。

    「何も感じません」

    「そういうものですか」

    「そういうものです」

    彼女は短く言葉を返した。

    「今日は、何を読まれていますか」

    そうぽつり。

    「──言葉と認識の関係です」

    少し間を空けて、彼女も呟いた。

    「それは、とても興味深い」

    少女は、少し目を吊り上げて私を一瞥した。

    「言葉について、どう思いますか?」

    この質問には、何か底なしの含意がある様に感じられた。

    「私は──言葉は嫌いです」

    少女は、眉をピクリと動かした。
    私は、少女に誤解を与えないために、慎重に言葉を探した。

    「言葉というのは、昔と比べると淡白に使用されているように感じます。昔の言葉というのは重力がありました。言葉というモノが神格化されるほど、それは美しく、貴重なものだったように思います」

    私は少し間を開けた。

    「ただ、今は違う。言葉というものは一般化に長けている代わりに、ある種の劣化を引き起こすんです」

    「それで?」

    「だからこそ、それは認識を固定します。更に言うなら、感情を表現するときには言葉というツールを用いるべきではないと感じます。瑞々しい感情の美しさを全て崩し去ってしまう」

    少女はじっと此方を見つめていた。

    それは、私の真意を見抜くような瞳だった。

    少女は、私の言葉を咀嚼して嚥下するように味わったあと、ようやく口を開いた。

    「そう。言葉はあくまでツール。ツールは手足よりも上手くは使えないものです」

    「──ただ、言葉というものはツール的な側面だけじゃない」

    呼吸を整えてから少女は続けた。

    「つまり?」

    「いいえ。結論を急ぐのはやめましょう。こういう時はじっくりと吟味するのです」

    少女は私を律した。
    そして、少女がゆっくりと口を開いたと思えば、言葉に対する考えを語り始めた。

    ──言葉は伝達以外にも、もっと重要で強い意味を持っている。

    私は思わず、目を見開いた。

    「言葉があることで、貴方は目に見えないものも感じることができる」

    「⋯⋯そうですね。概念の具現化ともいえましょうか」

    「まさに、そうです。言葉というものの本質はそれ。伝達という能力は、あとから派生して生まれたものですから」

    「⋯⋯」

    私の脳裏に、あの春の初々しかった私たちが蘇る。

    「もしかして、あの時名前を教えてくれなかったのも、そういう背景があったからなのですか?」

    少女は、少し目を細めた。

    「間違いではないです」

    また、触れた瞬間すり抜けたみたいな、そんな反応で私を焦らす。
    だが、その奥ゆかしさも嫌いになれなかった。

    「貴女と話していると、とても学びになります」

    改まってそんなことを言ってみた。

    「それはお互い様です」

    名も知らぬ少女は、そう返す。

    「貴方の感受性は、まるで月の裏を見せてくれるようでね。ううん、貴方に伝わりやすいように言い換えるなら多角的な視点があるってこと」

    「なるほど。それは妙な気分になりますね」

    少女は、私のことを認めているようだった。
    少なくとも、私にはそう感じられた。

    「貴女はいつも、図書館に居ますよね」

    「データを取ればそうでしょう」

    「夏は外が盛り上がっていますよ。何処かに一緒に行ってみませんか?」

    「例えば──」

    私は窓際から見える海を指さした。

    「海とか」

    少女はその誘いを少し吟味するように俯いた。

    「その誘いには、裏がありますね」

    「お見通しで」

    「まぁいいわ。その誘い乗ってあげましょう」

    やっぱり、少女はその赤い双眸は、時折私の思考の輪郭まで見えているようだった。


    私たちの街は凄く高所にあって、図書館はその中でも崖の上に立地していた。
    危険さが故に、図書館の窓はまるで海を描いた絵画の額縁かのようにも思えた。

    海までは、急斜面の道を下っていかなくてはならなかった。
    少女は、スカートを汚さないように慎重に進む。
    私も、それに合わせた。

    出発してから15分くらいだろうか。
    ようやく砂浜に足を踏み入れることができた。

    「久しぶりに訪れた気がします」

    「そうですか。私は初めてです。こんな場所」

    崖の下に立地しているせいで、大部分は影となってしまっているが、それでも太陽に反射している波の姿を拝むことができた。

    少女は少し屈んで、向かってくる波に人差し指と中指を近づけた。

    「冷たい」

    「舐めてみてください」

    少女は、指先を口に近づけて小さく舌を出して舐めとった。

    「酷く塩辛いですね」

    「恨みますか?私を」

    「──いいえ。寧ろお礼を言いたいくらいです。海水の味を味覚で感じられましたから」

    その言葉は、純粋に私への感謝の念が含まれていた。

    「そうですか」

    私と少女は砂浜に座って、ただ落ちてゆく太陽を眺めた。

    波たちは、太陽の光を受け取って暖色を模しており、それを私たちに見せびらかすように寄ってきて、手繰り寄せようとすれば離れていった。

    そのとき、少女をまるで波のような人だと感じたのを覚えている。

    「貴方が私を誘ったのはこういう事だったんでしょう?」

    「⋯⋯え?」

    「言葉で劣化していない本物の感覚を、私に教えてくれたんですよね」

    「⋯⋯そうです」

    「⋯⋯?」

    少女は不思議そうに首を傾げた。
    私は何故だか落胆してしまった。
    そのとき、その思いを汲んでか太陽も沈んでいった。
    暖色で賑わっていた波も、見る影のない紺色へと様変わりしている。

    「帰りましょうか」

    「えぇ、そうしましょう」

    少女は私よりも先に立ち上がり、崖を登って行った。
    私は最後に波に指を浸して、雫を少々舌の上で転がしてみた。
    その味は、やはり酷いものだったが、何故だか憎めない。
    その感情に、私はまた混乱させられるのだ。

    図書館に戻ると、少女は何事も無かったかのように座って本を読んでいた。
    ただ、少女はいつもよりも潮の匂いを楽しんでいるようだった。

    「海は気に入りましたか?」

    「えぇ」

    「良かったです」

    月明かりに照らされて、波はすっかり大人しくなってしまった。
    その波の上に星が浮かんでいるのを見ると、何だか手を伸ばせば、その星が手に取れそうな気がするのだ。








    図書館の周りに生えていた木々は翠色から晩秋を思わせる暖色に変化していた。
    この現象は紅葉と定義されているらしい。
    図書館内部には秋特有の寂しげな匂いが充満している。
    そして、閑散とした図書館には約束されたように少女が窓際に座っていた。
    いつものように涼しげな顔をして読書をしている。
    私はその対面に座る。

    「おはようございます」

    私が挨拶すると、いつも律儀に返してくれるのに、今日は返事をしてくれなかった。
    集中しているのだろう。
    少し引っかかったが、特に追求しなかった。

    「今日は何の本を読まれているのですか?」

    「──死に至る病です」

    「そう⋯⋯ですか」

    少女の纏っている雰囲気が、混濁した群青色に変化していた。
    それは、まるで触れることすら躊躇するほどの結界のようで、私は話しかけることすらままならなかった。

    今日の沈黙は、少し息苦しい。
    外から香る金木犀の香りでも誤魔化しきれない。

    「コーヒーでもいかがですか。きっと美味しいですよ」

    私はついにその沈黙に耐えられなくなりそう提案した。

    「──頂きましょうか。ごめんなさいね、気を遣わせて」

    「い、いえ」

    彼女も何だか私と話すのがぎこちない。
    少し寂しいが、秋のせいにする事にした。

    私は立ち上がって、図書館のカウンターまで伺い、コーヒーの提供をお願いした。

    「かしこまりました」

    無愛想にそうカウンターの女は呟いて、バックヤードに消えていった。
    カウンター前の無駄に腰を深く腰掛けられるソファに座って待っていると、そのうち、コーヒーの苦い匂いが漂ってきた。

    「はい、どうぞ」

    「ありがとうございます」

    私は、少女と対面するのが少し怖くなっていた。
    だからだろうか、私は自然とカウンターの女に問いを投げていた。

    「いつも窓際で本を読んでいる女性のことを知っていますか?」

    女は鬱陶しそうに振る舞う。

    「あぁ、居ますね。熱心に毎日本を読まれています」

    「そう、その人について教えて欲しいのです。何か最近変わったことはないですか?」

    「いや、知らないですよ」

    ぶっきらぼうに女はそう言う。

    「そうですか」

    「何ですか?彼女のことが"好き"なんですか?」

    ───好き?

    「いや、分からない」

    私は咄嗟に濁した。
    女はどうでも良さそうに目線を逸らした。

    「あっそう。でも、早く追いかけた方がいいんじゃないですか?」

    「⋯⋯は?」

    カウンターの女は、かの少女が座っていたであろう座席を指さした。

    「さっき、貴方がこちらに向かってきているときには、ちょうどあの席から立ち上がって何処かに行ってしまいましたよ」

    「──何分前くらいの話だ」

    「まぁ10分前くらいじゃないですか?」

    「礼を言う」

    私は、そう言い残して図書館を後にした。

    勢いで図書館を飛び出してしまったが、直ぐに私は迷ってしまった。
    少女は何処に行ってしまったのだろうか。
    過去を追憶して、少女が訪れそうな場所を炙り出そうとしたのだが、自分でも驚くほど、私は少女のことを知らなかった。

    私は、衝動だけを頼りに駆け出した。
    枯れ木を踏みしめ、ただ晩秋の空気を掻き分けて進んでいく。

    木々を抜け、街を隈なく探す。

    「なんで何処にもいないんだよ」

    私は海にも足を運んだ。
    そのとき、満潮だったせいで少し嫌な想像が浮かんでしまった。

    「いやいや、そんなこと」

    私は図書館の前まで戻って柱にもたれかかった。
    そのときには既に太陽は頂点に位置していた。

    私は、限りなく少ない希望でもう一度少女のいつも座っている座席に目を向けた。
    少女は居ない。
    だが、机に何か黄色の物体があることに気づいた。

    近寄って確かめてみると、そこには金木犀の花が机に舞い降りていた。

    その花弁を拾い上げて鼻の付近で揺らしてみた。

    甘い匂いが鼻腔を擽る。

    その匂いは、不思議と魅力的で、私を導いてくれるようだった。

    図書館を出て、目を閉じて、嗅覚に集中させた。

    すると、微かに金木犀の香りが一筋の道標を表していることに気がついた。

    ゆっくりと、その道へ歩き始める。
    その芳香が示す方向へ。





    その香りは街のはずれの山の方向へ続いていた。
    辺りは少し薄暗くなり、私の足取りも少しおぼつかなくなる。
    そんなとき、ふと匂いが途絶えた。
    私は、そこで辺りを見回すと、紅葉の木々に囲まれた空間にいる少女を発見した。

    「ここに居ましたか」

    少女は何も言わない。
    ただ、紅葉の木々を、その真っ赤な双眸で眺めている。

    「心配⋯⋯したじゃないですか」

    「⋯⋯」

    少女は俯いて雫を一つ落とした。
    その瞬間だけ、少女の白銀の長髪が黒の光を吸い込み、普遍的な黒に見えた。
    あんなにも荘厳であった少女は、今では年相応の少女に変わってしまっていた。

    「──ごめんね」

    少女は静かにそう呟いた。

    こんなに複雑な気持ちになったのは初めてだった。
    論理では理解できない。
    それなのに、何故か不快ではない。

    ──彼女のことが"好き"なんですか?

    かのカウンターの女の言葉が蘇る。
    この複雑な気持ちを、ただ「好き」という言葉だけで表せていいのだろうか。
    自分の感情を、そんな二文字に託してしまっていいのだろうか。

    私はその言葉を飲み込んでから、少女に近づいた

    「いいのです。秋は、きっと貴女が泣いても許してくれます」

    「──貴方は?」

    「⋯⋯?」

    「貴方は許してくれないの?」

    「⋯⋯逃がしてくれませんね」

    「勿論、許しますよ」

    少女はこちらをじっと見つめていた。
    晩秋の寂しさを含んだ赤い瞳で。

    だから自然に私は少女を抱きしめた。

    少女は、私の肩でまた涙した。

    少女の身体は本当に氷のように冷たかった。
    ずっと抱きしめていると、溶けていってしまいそうだった。
    けれど私が離れようとしたら、少女はより強く私を抱きしめた。
    きっと、今はこうしていたいのだろう。

    だんだんと、私たちは相互に融解しているのを自覚していた。
    溶けて、溶けて。
    他人に触れられてはならない部分まで溶かそうとしていた。

    その危険な状態を、人間は好むらしい。

    それは一般化され「恋」と美化されるのだから。




    ───



    あの後、私たちは一つも言葉を交わさずに図書館へ戻った。
    私も少女も、あの時間が少し危ういものだと自覚していた。
    言葉で誤魔化すことはお互いしなかった。
    その代わり、静かにその晩秋の冷めた空気で、熱されすぎた心情を冷やしていたのだ。

    図書館に戻って、またいつものように席に座った。

    少女は、机に腕を組んで頭を預けた

    その目線の先には──満月。

    彼女は──何を思っているのだろうか。
    私はそれを知りたい。
    知りたくて仕方がない。








    厳冬の冬。
    煌めきをもった氷の塊が降ってきている。
    その寒さのせいで、いつもより人肌恋しい。
    冬とは、きっとそういう季節だろう。

    図書館のいつもの席には、やはり少女が座っている。
    その白銀の髪は、より白に深まっている。

    「こんにちは。寒いですね」

    「──そうですね」

    「今日は───何も読んでいないのですね」

    少女は珍しく窓際の広大な海を眺めていた。

    その瞳には、何が映っているのだろう。

    何を見ているのだろう。

    「──そうです。本は読まないことにしたんです」

    「どういう風の吹き回しですか」

    少女は、少しぽっと息を吐き出して、私の方へ向き直った。

    「私は今まで、世界の輪郭をなぞっていただけに過ぎなかったんですよ」

    「どういうことですか?」

    「本を読むという行為は、世界の断片的な要素を弄するだけだったことに気づいたのです」

    「ただ、弄ぶ。読んだだけで感じた気になって。全て知った気になって」

    「でもきっと、世界はそんなに単純なものではないと思うんです」

    「急に、どうしてそんなことを感じたのですか?」

    「それは──今まで読んだどんな傑作よりも、貴方と過ごしたこの一年の方が──ずっとずっと面白かったから」

    私は、その言葉が純粋に嬉しかった。

    「ありがとうございます」

    少女はまた海を見た。

    そして、寂しそうに目を細めた。

    「白銀の城を夢に見るのです」

    「城?」

    少女は夢見心地そうに目を瞑って、つらつらと語り出した。

    「誰ももうその存在には気づかないけど、確かにそこには存在している場所」

    「何日もそこで景色を眺めて」

    「ただ、一輪の花を託して雪となるのです」

    窓から雪が入って、机に落ちて融解する。
    その様子を、少女はじっと眺めていた。

    「素敵ですね。そんな一生なら、どんなに魅力的でしょう」

    「──否定しないのですか」

    「はい」

    「それは、なぜ?」

    私は少し考えた。
    窓から入り込んだ雪が、机の熱でゆっくりと形を失っていく。

    「自分の存在を守るためです」

    「どういうことです?」

    「えーと、人は誰かに見つけられることで存在しているのでしょう」

    少女は静かに耳を傾けている。

    「私は、貴女が此処に居ると認識しているから、貴女を存在として扱える。それは逆も然りです」

    「そうね」

    「でも」

    私は融けた雪を指先でなぞった。

    「完全に消えてしまったものは、もう誰にも触れられない」

    少女の赤い瞳が見開く。

    「だからこそ、人は消える時くらい、自分のままで居たいと思うのかもしれません」

    「誰にも壊されない場所へ逃げて」

    「そして、静かに雪になる」

    少女は、ただ黙って聞いていた。
    その顔は、いつものように凛としているが、瞳が揺れている。

    「危険ですよ、その考えは」

    「そうですか?」

    「貴方は──いつも私の想定外の返答をする」

    「だからこそ──怖いんです」

    「貴方のような人間が」

    少女の言葉は少し震えていた。

    「それでは、もっと理解できるようにします」

    少女は、少し黙った。
    そして、また窓に目線を向けた。

    「──後悔しますよ」

    「後悔はいつだって悪いわけではありませんから」

    少女の瞳は、さらに真紅に染まっていた。

    「ふふふ、やはり貴方は凄く興味深いです」

    「ありがとうございます」

    私はそう返した。
    すると、少女はゆっくりと立ち上がった。

    「着いてきてください」

    私に向かってそう微笑みかける少女は、まるで天界へ誘う天使のようだった。

    少女は、山の方角へ歩みを進めた。

    「どこに行かれるのですか」

    私がそう訊くと、

    「知らなくていいのです」

    と少女は返した。



    今日の少女は白のミリタリーを身につけていた。
    そのせいか、厚手の服と白銀の髪色が世界の輪郭と重なりとても美しかった。
    立体感のなくなった世界に、彼女だけがはっきりと写って見えた。

    うってかわって白銀に染められた木々は、静かに私たちを見守る。
    そういえば、いつの間にか足が震えていた。
    寒い。
    ふと辺りを見回す。
    すると、もう街が模型に見えるほど小さくなっていた。
    少女は、山を登っていたのだ。

    「高いですね」

    少女は、私の様子を見てか見ないでか、そう呟いた。

    「そうですね」

    少女は鼻をスンと鳴らした。

    「空気が、澄んでいますね」

    「えぇ、本当にそう思います」

    私たちはベンチに腰掛けた。
    ここが目的地なのだろうか。
    少女はいつもよりも私に密着している。
    少女の持つ熱と外界の冷たさのコントラストが、私の理性をジリジリと削っていく。

    「もう歩かないんですか?」

    彼女は、少し口角を上げて私を凝視した。

    「見抜かれていましたか」

    足をパタパタとさせて少し頬を赤らめている。
    幼い彼女の一面が垣間見えた気がする。

    「目的地なんてないんです」

    「さて、どういう風の吹き回しでしょうか」

    「私だって、乙女なんですよ。察してください」

    少女は、少し遠くを眺めた。
    私も、同じ方向を眺める。

    何故か、無性に足元が安定しないような気がした。
    今にも、少女がここから飛び降りてしまいそうだったから。
    そうなったら、少女はゆっくりと一片の雪のようにそのまま地面に舞い降りて溶けていく。
    消えてしまうのだ。

    「あの」

    私は咄嗟に声を上げた。

    「?」

    「手をこちらへ」

    私は少女の手を握った。
    少女は、弱く手を握って、寂しそうに目を伏せた。

    「冬というものは、やはり罪深いですね。人の熱を最も際立たせるのに、別れの季節だなんて」

    少女は首を傾げて呟く。

    「そうですか?」

    「そうは思わないのですか?」

    「──冬の冷たさは、残酷ですから」

    彼女の熱はやや高まっている。
    冬の冷たさを誤魔化すには微弱な炎だ。
    だけど、それは何よりも熱を持っている。


    今でも、白銀を見てそんな事を思い出すのです。
    この厳冬の洗礼を浴びると、彼女が隣にいてほしいと強く願うのです。

    はやく、この寒さを誤魔化してはくれないか、と。

    私は、彼女のことを忘れるべきだった。
    白銀は白銀のまま、遠い冬の景色として閉じ込めておくべきだった。


    ────春にもまた会えますよね。


    その言葉で、私と彼女の物語は終わった。







    *


    [3/18]

    冬は私の心をいつも、寂しくさせる。
    心に小さな穴が生まれて、想いが零れていくんです。

    嗚呼、実は寂しがりだったんでしょうか。

    はやく、知りたかったなぁ。
    そうしたら、もっとアナタに素直になれていたかもしれないのに。

    なんて、今更どうしようもない。

    でも、

    冬がそれほど寒くなくなったことは、

    少し嬉しいと思うのです。


    *




    貴女が居なくなった事を、信じなくてはならなくなったのは、街を三日三晩走り回った後だった。

    今まで、貴女は窓側の席に腰掛けていたのに。
    今では、影を落としている。

    毎日、図書館に通ってかつて彼女が居た席を眺めた。
    もしかしたら、私が憔悴しきっているのを何処かで悪戯っぽく笑っているのではないか、とまだ信じていた。

    でも、その席は春になっても人が座ることはなかった。

    そんなある日、私が帰ると、父と母が何やら言い合いをしていた。

    会話内容は聞こえなかったものの、父が少し声を荒らげたお陰で一部だけ耳に入った。

    「私と一緒に来てはくれないのか!」

    「仕方がないだろう!?私だって行きたいわけじゃない。けれど、お前たちを遺して行く訳にはいかないじゃないか」

    複雑な想いを背負った言葉だった。
    母は、その後すすり泣いていた。
    父も、年齢に合わず声を上げて泣いていた。

    私も、二人のいる部屋の前で泣いていた。
    これからの未来を想像すると、何処にもぶつけられない想いが疼いて仕方がなかった。

    それからすぐ、私たちは東の方へ引っ越すことになった。
    遠く離れた場所だった。
    それは、少女の思い出すらも持っていけないほど。

    この街にいられる最後の日も、少女は現れなかった。
    図書館にも向かった。
    しかし、やはり居なかった。
    春の息吹が鼻を擽って、新たな環境の始まりを告げる。

    「──もう行かなくては」

    私は、重い足を必死に動かして両親の元へ駆け出した。

    結局、その少女の名前すら、何もわからなかった。


    *


    [3/19]

    ここからの景色は、やはり良いですね。
    想像以上でした。

    貴方にも見せてあげたかったなぁ、
    なんて、望みすぎでしょうか。

    昨日から
    初めて貴方と会った春のことを
    思い出すんです。

    かなり昔の出来事みたいにね。

    恥ずかしくって伝えられなかったけど、
    初めて貴方と会ったとき、
    やっと、自分の瞳に色が宿ったような気がしたのです。

    昔のことに想いを馳せることはあまりしたくないのですが、

    仕方がないんです。

    もう私は、
    今までよりこれからの方が短いのですから。







    *


    それから、幾年も時が流れた。
    私は何時しか成人となっていた。
    学業にも励み、友人にも恵まれ、部活動にも力を入れた。
    何もかもが満たされていたのに、
    私はどうしてもこの生活に満足出来ていなかった。

    理由は既に分かりきっていた。
    あの名も知らぬ少女が、ずっと忘れられないからだ。

    だから、私は誰に断ることもせず、あの白銀の街へと旅立った。

    両親にだけは、少し置き手紙を残した。

    「どうしても会いたい人がいる」

    とだけ。

    長い時間、飛行機に揺られて、
    その街のある県に到着した。
    空港から街へは、かなりの距離があった。
    なので、安価なバスを利用して、街へと距離を縮めていく。

    外では、大量の雪が降っている。

    懐かしさに胸を打たれた。
    ただの氷の塊なのに、それは私たちの過ごした四季の思い出を内包していたのだ。

    街から最寄りのバス停へ到着した。
    それから、厳冬の厳しい寒さと豪雪に苦戦しながらも、街へ、一歩ずつ近づいていく。

    そして、ようやく見覚えのある屋根が見えてきた。

    「──図書館」







    *


    [3/20]

    貴方を振り回してごめんなさい。

    期待させるだけさせて、
    勝手に何処かへ行ってしまうなんて
    酷いことをしてしまって。

    でもきっと、貴方なら許してくれるでしょう?

    私は、貴方が私を求めて、自分の人生すらも破壊して仕舞わないか、本当に心配です。

    でも、でもね、

    心の隅で、私を探してくれるのを望んでいます。

    勝手ですよね

    本当に。

    ごめんなさい。わがままを言わせて。

    いつかまた、抱きしめて。



    *



    図書館の配置は、いつの間にか変わってしまっていた。

    少女の座っていた座席は、今はもうなく、その部分にも本棚が並んでいた。

    「読書スペースは二階に移動したんです」

    「え?」

    見覚えのある女がそう話しかけてきた。

    「まだ、諦められないんですか?彼女を」

    かつてコーヒーを煎れてくれた女だった。

    「あぁ、そうだ」

    「ふふ、20代のときは、恋愛なんて馬鹿馬鹿し
    いと思っていたけれど、貴方みたいな一途な男が想い続けてくれるなら、少し憧れちゃうわね」

    つらつらと、そう語っている。
    彼女の顔には、少し歳が現れてきただろうか。

    「彼女は、来ていないですか?」

    「──えぇ」

    「そうですか」

    この女も彼女については知らないようだった。
    だが、女は私の肩を叩いてある本を差し出した。

    「手がかりになるかは分からないけどね」

    「この本は?」

    古い装丁だった。
    題字は掠れ、表紙は雪に晒されたように白く褪せている。

    「あの子、いつもなら本は図書館で読むのに、唯一借りた本があったの」

    「そうですか」

    私は1ページ、2ページと捲っていく。
    そして、ある一文を見つけた瞬間、 心臓が脈打つことを忘れた。

    「力になれなくてごめんなさい」

    「──いいえ、十分です」

    声が震えている。

    私は、本を持ったまま図書館を後にした。
    私の中で、過去の会話が追憶される。
    少女の夢の中での話だと思っていたその情景が、くっきりと輪郭を持ち始めていた。

    本のタイトルは──










    ───「白銀の城」




    *


    [3/21]

    私の願いも、物語も、軌跡も、
    もはや、ぼやけて曖昧です。

    それは、この白銀の城から見える
    雪景色にも似ている。

    あぁ、綺麗です。

    夜の静けさと、月明かりを雪が吸って
    煌めいている。

    まるで、星の海を見ているようです。

    今度こそ、
    本当に手が届きそうです。

    あの時とは違って。

    ねぇ、さいごに、

    私は、貴方に伝えたいことがあるんです。

    貴方にだけ、貴方にだけですから


    私の名前のことを、

    ちゃんと残しておきたいんです。


    *




    この本によると、此処から約60kmほど北に行った場所に、その白銀の城はあった。

    私は、ただ独りでその場所へ歩みを進めた。

    雪は、まるで私を拒むように強くなる。
    凍えて身体が痛むほどだった。

    呼吸が苦しくなる。

    だが、私の意識は死んでいなかった。

    辺りが暗くなって、
    白銀の世界も少しばかりの濁りを持ち始めた。

    もはや、どれだけ歩いたのかは分からない。

    ただ、行かなくてはいけない、という使命が私を導いていた。

    夜が明け、正に暁の刻だった。



    一瞬、雪が止んだ。



    それは本当に一瞬だった。

    だが、その一瞬だけ、 私は風の音を聞かなかった。

    白銀の世界の中心に、 静寂だけが沈んでいる。

    顔を上げる。

    雪に埋もれた石壁。

    崩れた塔。

    誰にも忘れ去られた白。

    ──そこでようやく気づいた。

    ここが、彼女の見ていた景色なのだと。



    白銀の城だった。



    *


    相手に存在の輪郭を知られることは、
    自分の存在の輪郭を保てなくなるということ。

    それは、私にとって当然なことだった。

    だからこそ、私は今まで望んで名前を教えたことはなかった。

    名前を相手に差し出すことは禁忌だったから。

    だけど、私は少々顔に恵まれて生まれてしまった。
    そのせいで、学校では否が応でも目立ってしまった。

    皆、名前を教えてくれない私に不信感があったようだけど、それも魅力的なような目で見る。
    それが本当に苦痛で、私は学校を辞めた。

    辞めてからは、図書館に通うようにした。

    失礼な話だけど、あの図書館には人は滅多に来ないから、私にとって好都合だった。

    それに、本は存在を重要視しない。
    読者がどんな存在でも、物語を提供してくれる。
    そんな、振りまかれるような優しさが、私には深く突き刺さった。

    それから、春のこと。

    貴方と初めて会ったのは。

    貴方は本当に特別だった。

    私を知りたいと思いながら、
    私が知らせないことを咎めない。

    毎日話し来ては、私と感覚を共有してくれる。

    ゆっくりと、丁寧に、私の輪郭に触れてくれる。

    だから、私は名前を明かしたいと思っていた。

    けれど、貴方の瞳はある種の狂気に染まっていた。

    だからこそ、私は伝えられなかった。

    自分の存在が相手の存在を壊すかもしれなかったから。
    大切な人を、壊したくなかった。

    貴方は優しいから、ずっと知らないで居てくれた。

    そのお陰かそのせいでと言うべきか
    私はますます貴方に知られることが怖くなっていった。

    でも、私も気づいていたの。

    自分の中で恋愛感情が湧き出ていることに。

    知られちゃいけないのに、
    私は貴方に知られたくて仕方なかった。

    そんな時、ある本を思い出したの。

    あの図書館にあった、白銀の城を描いた本。

    孤独に佇んでいながら、そこにはじっと存在している。
    その存在に、私はとてつもなく惹かれてしまった。

    実際に、最後のページには手書きで白銀の城までの地図が書かれていた。

    私は何度も、そのページを見つめた。

    行けばきっと、誰にも触れられない。

    誰にも壊されない。

    そう思っていたのに。

    孤独でいたいのに、

    私も、何処か期待してしまっている。

    こんなもの、本来書かなくても良いのに、
    貴方が訪れてくれるかも
    なんて望みで書いてしまっている。

    きっと、私は貴方の期待通りではなかったでしょう?

    でも、許して。

    私は不器用だから、
    こうすることしか出来なかったの。

    私は、貴方にまた会いたくなってる。
    少し前に貴方の腕に縋った熱が、
    未だに燻っている。
    それは、この雪を溶かしてしまいそうなほど熱い。

    この私の気持ちを、どうしても伝えたかった。

    それと、今まで本当にありがとう。

    恥ずかしくて言えなかったけど、


    貴方の事を何よりも大切に思っています。



    *



    白銀の城の階段の元に、石と石の間で隠すように手帳と一輪の花が差し込まれていた。

    そして、その手帳には、彼女が白銀の城で過ごした四日間の記録が描かれていた。

    私の涙が、手帳に落ちた。

    彼女の思いを知るには、余りにも遅すぎた。
    もっと、早く知れていれば、
    私たちは、もっと別の終末を迎えられていたのに。

    ただ後悔だけを含んだ涙が零れていく。

    そんな時、私は、手紙に一切れの紙が挟まっていることに気がついた。

    ────

    これは、本当に私のエゴ。
    ただ伝えたくて、伝えたくて仕方なかったこと。

    私の名前は───涼音。

    それ以上でも、それ以下でもないけれど
    貴方にはきっと十分すぎるでしょう?

    ────

    一輪の花は、美しく黄色に咲き誇っている。

    白銀の城には、
    冷たくも、私を包むような風が吹いていた。

     
     
    完備された論理空間へようこそ。 数学についてつらつら語ります。 将来は、高校数学教師となって未来を担う少年少女たちの多角的な視点をもった考えをサポートしたい。 高三

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