
『魔法少女ミヤビを探しています』第二十一話【最終話】
深夜の魔法省本部・特別調査室は、冷え切った電子機器の駆動音だけが支配する墓標のようだった。
カイは、デスクの前に深く背を預け、目の前の大型モニターを見つめていた。その瞳は完全に充血し、何日も睡眠を放棄した者の色を帯びている。
月瀬廻。それが彼の、この魔法省という絶対的な組織における、偽りのない所属と名前だった。
表向きは魔法少女の動向を監視し、バグを処理するだけの末端の調査員を演じていた。
そして何より、カイはこの事件の凄惨な裏を知る数少ない人間の一人だった。
「朝倉大雅……」
カイはぽつりと、誰もいない室内にその名前を落とした。
朝倉大雅。システムによって強制的に魔法少女に変貌させられ、世界のバグを一身に引き受け、最期は使い潰された少年。
通常、システムに適応できなかった失敗作の魔法少年魔法少女は、発覚した時点で本部によって即座に処分される。魔法少女の組織に男はいらないと言われたのに、なぜ大雅だけが、化け物になりながらも、数ヶ月もの間、戦い続けることを許されていたのか。
理由は単純であり、同時に、この組織の胸糞の悪い歪みを体現していた。
大雅の義父……大雅の母親の再婚相手であるあの男こそが、魔法少女本部の上級幹部だったのだ。
男にとって、血の繋がらない義理の息子など、都合のいい実験体に過ぎなかった。
本部が大雅を即座に間引きしなかったのは、父親という立場にある上級幹部が、有用な検体であるとして処分の保留を上層部に働きかけていたからに他ならない。
「どいつもこいつも、狂ってる日常の皮を被りやがって……」
カイはそう呟き、煙草に火をつけようとして、ここが禁煙の調査室であることを思い出して手を止めた。
大雅の家を出て、自身の本来の職場である本部のデスクへと戻ったあの日。カイは奇妙な睡魔に襲われた。それは単なる肉体の疲労ではなかった。
夢を見ていた。
いや、それは夢という生易しいものではない。魔法少女の因果の濁流に連れられて、カイは第三者として、大雅とミヤビが辿ったすべての結末を、その魂の最奥から脳髄へと直接叩き込まれるようにして、一部始終を目撃させられていたのだ。
それに関わった者だから、まだ彼のことを覚えていられるのかもしれない。
カイの脳裏に、今も鮮明に焼き付いている映像がある。
それは、大雅が白い服の女を撃ち抜き、自らの存在を消去する禁忌のスイッチを押した、あのシミュレーション空間の完全なる崩壊の光景だ。
データログは、大雅が現実の死の直前に見た妹が幸せに生きられるIFの世界の可能性を克明に捉えていた。
画面の向こう、崩落していく世界の天井からは、何万もの美しい本物の星々が降り注いでいた。
その混沌の最深部で、大雅はもう、自分の名前すら忘れていた。膨大な魔力の逆流によって、記憶の全神経を焼き切られ、目の前でボロボロになって泣いている「ミヤビ」という少女が、自分が命をかけて守りたかった最愛の妹であるということすら分からなくなっていた。
それなのに。
記憶を全て失ったはずの少年は、バグった電子ノイズの向こう側から、世界で一番優しい、今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべて、その少女を抱きしめたのだ。
『よく頑張ったな。愛してるよ』
その言葉は、システムにプログラムされたものではなかった。因果の書き換えでもない。ただの、一人の人間の少年が、魂の最奥に刻み込んでいた、絶対に消せない本能そのものだった。
少女がその夢の果てに、光の中へと溶けて消えていく瞬間まで、カイの精神は完全にその因果の傍観者として、彼らの圧倒的な愛の軌跡を見届けさせられていた。
カイは目元を乱暴に拭った。手のひらが、いつの間にか溢れ出ていた熱い涙で濡れていた。
カイは、手元のコントロールパネルを操作し、魔法少女ミヤビが最後に未来へと繋ぎ、そしてカイ自身が回収したすべての修復データを画面に展開した。
そこには、朝倉大雅という魔法少女が何万回ものループの中で経験した死の記録、白い服の女との対峙、そしてミヤビが時空の隙間に滑り込ませた資料の数々が揃っている。
この記録を、このまま残しておけば、どうなるか。
朝倉大雅という少年の存在は、完全に証明される。システムを欺き、因果をへし折って、神格級の管理バグを単身で撃ち抜いた最高峰の魔法少女として、彼の名前は本部の歴史に永遠に刻まれるだろう。義父であるあの男も、自らの実験の正当性を証明されたとして、狂喜乱舞するに違いない。
だが、それは同時に、魔法省という冷酷な運営組織に、『朝倉大雅の魔力の有効性』、そして『少年をベースにした魔法少女回路の超常的な出力』を、完璧に再認識させることを意味していた。
このデータが上層部の目に留まれば、彼らは即座に第二、第三の「朝倉大雅」を作り出すために、別の罪のない少年たちを拉致し、家族の記憶を書き換え、あの恐ろしい人体実験の研究を再開させるだろう。大雅の苦しんだ地獄が、今度は別の誰かの日常を破壊して、無限に増殖していくトリガーになってしまうのだ。
そして何より、大雅が自らの全存在を消去してまで作り上げた、「朝倉雅という妹が魔法少女にならない現実」の因果に、再び本部の不穏な魔の手が伸びることになる。せっかく呪縛から解き放たれ、ただの人間として、普通の女の子として生き直しているはずの彼女の未来が、また魔法少女の因果の濁流へと引きずり戻されかねない。
「君は、それを一番嫌がったんだよな、大雅くん」
カイの前に置かれた画面の隅で、一つの赤い大きなウインドウが明滅を始めた。
【警告:指定ファイル内の因果律修正プログラムを実行しますか?】
【この操作を行うと、対象に関するすべての時系列データ、観測ログ、および構成粒子データが根底から削除され、復元は不可能になります】
【実行 [Enter] / キャンセル [BackSpace] 】
削除ボタン。
それを押せば、朝倉大雅という少年がこの世に生きていたという全ての証明が、この宇宙から完全に消滅する。誰も彼の戦いを知らず、誰も彼の孤独な死を称えることはない。彼は誰の記憶にも残らない、真の意味での無へと還る。
しかし、それこそが、最愛の妹が魔法少女という絶望の呪縛から完全に解き放たれ、ただの人間として、ありふれた幸福な日常を生きるための、唯一の正解なのだ。
「……世界を敵に回して、システムをぶっ壊してまで妹を守り抜いたんだ。君は立派な、本物の英雄だよ」
カイは、ボロボロと溢れ出る涙を止めることができないまま、親指をエンターキーの上に置いた。
「……ごめんなさい」
これは、世界に対する、そして魔法省という巨大な悪、世界の理不尽な設計に対する、死んだ少年と、生き残った調査員による、静かなる共謀だった。
「君の遺したハッピーエンドは、僕が絶対に、誰にも触らせないから」
カチリ、と、カイは、力強く決定ボタンを押し込んだ。
その瞬間、モニターを満たしていた無数の数値、死のログ、大雅の美しい笑顔の静止画が、すべて光の粒子のように激しくブレを始め……次の瞬間、シュンと音を立てて、完全な一色の空白へと戻った。
君がいなくなっても、世界はまだ回り続ける。
でもそれによって得た生活は、きっと空っぽだよ。
◆◆☆◆◆
現実の、そして過去の時間軸。
外は、すべてを洗い流すような激しい豪雨が降りしきっていた。
壁を隔てたすぐ隣のエリア、産婦人科の分娩室から、静寂を切り裂くような、あまりにも力強い、清らかな赤ん坊の産声が響き渡った。
世界に初めて誕生した、小さな、新しい命の息吹。
その瞬間、病院の廊下に佇んでいたカイの視点には、世界の誰にも見えない、信じられないような奇跡の光景が映し出されていた。
開け放たれた分娩室の扉の向こう、光り輝く、生まれたばかりの赤ん坊。
その小さな命の身体を、血塗られた漆黒のドレスでもなく、醜悪な化け物の腕でもない、ボロボロで、実体のないはずの白い服の少年の幻影が、壊れ物を扱うかのように、どこまでも優しく、愛おしそうに両腕で抱きしめていたのだ。
かつて、大雅を恐怖のどん底に叩き落とし、絶望の未来へと誘っていたあの白い服の女。あのおぞましい白は今、目の前で赤ん坊を包み込んでいるこの白は、全く違うものへと反転していた。
それは、妹をこの世のあらゆる理不尽、あらゆる魔法少女の呪いから守り抜くための、真っ白で、あたたかい祝福そのものだった。
大雅の幻影は、自分の存在が消えることなんてどうでもいいというように、ただ、光の中に消えていく小さな命の産声を、愛おしそうに聞きながら、満足そうに笑っていた。
カイは、分娩室の前で、声にならない声を漏らした。
少年は命の頭をそっと撫でると、産着の白さの中に溶け込むようにして、静かに、完全に、世界からその姿を消し去った。
あとに残されたのは、ただ、健やかに響き続ける赤ん坊の、混じり気のない綺麗な産声だけだった。
「……魔法少女ミヤビは、君の命の中に……ここに、います」
ああ神様、奇跡は、どうやったら起きるのでしょうか。
◆◆☆◆◆
数年後、かつての凄惨な戦場も、冷酷な実験室の面影も、今の街にはどこにも残っていなかった。
頭上には、どこまでも高く、残酷な偽物なんかじゃない、本当に穏やかに澄み切った青空が広がっている。
賑やかな駅前の通りを、制服を着た一人の少女が、友達と楽しそうに笑い合いながら歩いていた。耳元で二つに結ばれた髪は、普通の女の子らしい綺麗な栗色をしており、その瞳には何の陰りもない。
朝倉雅。
彼女は今、魔法少女の記憶を一切持たない、ただの、どこにでもいる普通の高校生として、この世界の光の中を生きている。
「あ、ちょっと待って、定期忘れたかも!」
「もー、ミヤビったら相変わらずドジなんだから」
友達との他愛のないやり取りの最中、ミヤビはふと、何かに引かれるようにして足を止めた。
彼女の視線が、賑やかな雑踏の片隅、柔らかな陽だまりだけが静かに落ちている、何もない空間へと向けられる。
ざあ、と、心地よい街の風が吹き抜け、彼女の髪を優しく揺らした。
「……お兄ちゃん?」
ぽつりと、彼女の口から、無意識のうちにその言葉が漏れ出た。
自分には兄弟なんていないはずだった。一人っ子として、普通の両親の元で、普通の日常を過ごしてきたはずなのに。なぜか、その何もない空間から、自分をずっと見守ってくれているような、世界で一番あたたかい白に包まれているような、そんな、愛おしくてたまらない気配を感じたのだ。
「ミヤビ? どうしたの、急に立ち止まって」
「……ううん、なんでもない! 気のせい!」
ミヤビはすぐにいつもの満面の笑顔に戻ると、「待ってよー!」と声を上げて、先を歩く友達の元へと元気よく駆け出していった。その背中には、もう漆黒のドレスの重みも、血の臭いも、一切存在しなかった。
大雅がすべてを消し去って、カイがすべてのデータを削除したあの夜から、世界はまだ回り続けている。朝倉大雅、そして朝倉雅という魔法少女がいた証拠は、この宇宙のどこを探しても見つからない。
けれど、彼女が今、こうして理不尽に怯えることなく、笑って生きていることそれ自体が、あの日少年が命を賭して戦い抜いたことの、何よりの証明だった。
澄み切った青天から、もう一度あたたかい風が吹き抜け、少女の歩む道を祝福するように、優しく街を包み込んでいった。