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残響プロトコル #14 12歳の空白

    第14章「12歳の空白」

    コーヒーの匂いが、解析室の扉を開けた瞬間に届いた。一杯分ではない。何杯も淹れて、何杯も飲み干した残り香。

    蓮がすでにモニターの前にいた。昨夜の服と同じだった。ネクタイだけが緩んでいて、シャツの第一ボタンが外れている。泊まったのだろう。コーヒーカップが机の端に三つ並んでいた。すべて空。

    「おはようございます」

    美月が声をかけると、蓮は椅子を回してこちらを見た。目の下に影があった。

    「おはようございます。——座ってください」

    美月は昨日と同じ椅子に座った。蓮の隣。モニターが六面とも点いていたが、昨日とはグラフの内容が変わっていた。

    「藤堂さんのデータを使って、分岐距離の逆算を行いました」

    蓮の声は普段と変わらない。徹夜明けの疲労は声には出さない。出さないことが蓮の通常運転だった。

    「分岐距離というのは、二つの層がどれだけ離れているかを示す指標です。分岐した時期が最近であるほど距離は近く、古いほど遠い。——距離が遠いほど、同期の負荷が上がり、差異が大きくなる」

    「はい」

    「あなたとミヅキさんの分岐距離を、複数のパラメータから逆算しました」

    蓮が左端のモニターを指した。グラフが一つ。横軸が年数、縦軸が分岐距離。赤い点がプロットされている。

    「利き手の差異から逆算した分岐年数。最低十年」

    蓮が次のモニターを指した。

    「感覚応答の差異から。十一年から十四年」

    次。

    「睡眠パターンの差異から。九年から十三年」

    次。

    「食の嗜好から。八年以上」

    蓮が最後のモニターを指した。棒グラフ。四つのパラメータの推定範囲が並んでいる。すべてのバーが重なる領域が、灰色でハイライトされている。

    「四つのパラメータの推定が重なる範囲。——十一年から十三年前」

    十一年から十三年前。美月が十二歳から十四歳のとき。

    「五年前ではないんですね」

    「五年前ではありません」

    蓮の声が静かだった。静かであることが、その結論の重さを示していた。

    「千尋さんの事故は五年前です。しかし分岐は十一年以上前に起きている。——千尋さんの事故は、分岐の原因ではない」

    美月の手が膝の上で握られた。

    「ミヅキさんの層について、追加の情報があります」

    蓮がキーボードを叩いた。同期中に取得した環境データが画面に出た。

    「同期中のミヅキさんの生活環境から推測される情報です。住所は横浜市内。職業はグラフィックデザイナー。——嶺咲市ではありません」

    「横浜……」

    「嶺咲市に在住している痕跡がない。同期中の記憶断片から推測する限り、ミヅキさんは嶺咲市に住んだことがない可能性が高い」

    美月は口を開きかけて、止めた。

    嶺咲市に住んだことがない。

    美月は生まれてからずっと嶺咲市だった。嶺咲市の病院で生まれ、嶺咲市の小学校に通い——

    小学校の名前が、出てこない。

    美月の指が冷たくなった。

    「蓮さん」

    「はい」

    「私の——小学校の名前、覚えてますか」

    蓮の目が美月を見た。

    「あなたに以前確認しました。即答できなかった」

    「覚えてない、って言ったんでしたっけ」

    「いいえ。『何もなかったと思います』と言いました。——質問は校名でした」

    美月の背中を、何かが降りていった。冷たいものではない。認識の亀裂。あるべきものがない場所に、手を突っ込んだときの、指先の宙吊り感。

    「十二歳以前の記憶を、確認させてください」

    蓮の声は、慎重だった。ここに辿り着くことを、蓮は予測していた。昨夜、徹夜でデータを照合し続けたのは、この問いを投げるためだった。

    「小学校のとき、仲の良かった友達の名前を言えますか」

    美月は考えた。考えた——というのは正確ではない。探した。記憶の棚を端から端まで手で触って、探した。中学一年生の入学式。桜。長い袖。そこまでは見える。そこから逆に辿ろうとすると——

    「……出てこないです」

    「担任の名前は」

    「わかりません」

    「通学路は」

    美月は目を閉じた。通学路。朝、家を出て、学校まで歩く。右に曲がって——

    右に曲がった先が、見えない。道がない。道があるはずの場所に、何もない。

    「わかりません」

    声が震えていなかった。衝撃よりも——沈降だった。ゆっくりと、水底に向かって沈んでいく感覚。理解が追いつかない種類の静けさ。

    蓮が立ち上がった。

    左端のモニターに新しいデータを出した。美月の層とミヅキの層の比較年表。上段が美月。下段がミヅキ。蓮が一晩で構築したものだった。

    「上段があなたです。中学入学から現在まで、記録が存在する。——しかし中学入学以前は空白です。学歴、住所、友人関係——すべてが不明」

    「不明って……」

    「あなたの記憶にない、という意味です。公的な記録は存在しているかもしれない。しかし少なくとも、あなた自身の記憶の中に、十二歳以前の連続した生活史が存在しない」

    蓮がモニターの下段を指した。

    「下段。ミヅキさん。同期中のデータから断片的に再構成しました。横浜市在住。小学校時代から横浜。——嶺咲市との接点がない」

    美月はモニターを見ていた。上段と下段。二本の線。中学以降は二本とも存在している。しかし中学以前——上段の美月の線だけが、ぷつりと途切れている。

    「蓮さん。つまり——」

    蓮が美月を見た。蓮の目が、いつもと違っていた。口元ではなく目。美月の目をまっすぐに見ていた。

    「五年前の千尋さんの事故が分岐点ではないことは、データが示しています。分岐は十二年以上前に起きている。——ミヅキさんは横浜で育ち、あなたは嶺咲市で育った。十二歳の時点ですでに、住んでいる場所が違う。通っていた学校が違う。利き手が違う。感覚の優位性が違う」

    蓮が一拍、間を置いた。

    蓮の指がキーボードから離れた。十本の指が、膝の上に降りた。蓮がデータを手放した。モニターではなく美月を見ている。口元ではなく、目を。

    「同期先の美月さんは——あなたとは『別の選択をした自分』ではありません。分岐点が深すぎる。十二年以上の分岐は、生活環境そのものが異なることを意味します。あなたとミヅキさんは——」

    蓮が止まった。昨日と同じ場所だった。昨日はここで引き返した。しかし今日は——蓮の目が美月から逸れなかった。いつもの蓮のルールを、いま自分で踏み越えようとしている。

    「——ほぼ、別人です」

    解析室が静かだった。

    蛍光灯の唸りが聞こえた。五十ヘルツ。いつもと同じ音。しかしいつもより大きく聞こえた。美月の呼吸が浅くなっていた。

    ほぼ、別人。

    その四文字が、頭の中で何かを組み替え始めた。ゆっくりと。結晶構造が一つずつ崩れていくように。

    千尋。

    CAFE HARBORで千尋と再会した日のことが、頭の中で再生された。千尋の笑顔。千尋がカフェラテを頼んだこと。千尋が看護師になっていたこと。透という恋人がいたこと。千尋が幸せに暮らしていたこと。——あのとき美月は、この再会の意味を疑わなかった。自分が事故に遭わせてしまった千尋が、別の層で元気に生きている。選択を間違えなかった世界の千尋が、笑っている。美月はそれを見て泣いた。千尋の幸せを確認したことが嬉しくて泣いたのだと、自分ではそう思っていた。

    しかし——分岐が十二歳なら。

    あの千尋は、美月の千尋ではない。

    美月と千尋が出会ったのは高校一年生の四月だ。それは確かだ。しかしミヅキと千尋の出会いは——十二歳で分岐しているなら、ミヅキは嶺咲市にいない。横浜にいる。横浜の千尋と、嶺咲市の千尋は——同じ千尋なのか。同じ名前を持つ同じ顔の人間であっても、十二年以上の分岐を経た千尋は、美月の知る千尋と同じ人生を歩んでいない。同じ学校に通っていない。同じ友人を持っていない。同じ経験をしていない。千尋が看護師になった経緯も、透と出会った経緯も、美月の層の千尋とは違うはずだ。

    ミヅキが十二歳から横浜で育ったのなら、ミヅキと千尋の友情は、美月と千尋の友情とは全く別の地層の上に建っている。別の場所で、別の時間に、別の会話を重ねて、別の信頼を積み上げた関係。美月が知らない千尋。美月が会ったことのない千尋。——それが、CAFE HARBORで笑っていた千尋だ。

    美月はあの再会で、自分の千尋に会ったのではない。ミヅキの千尋に会った。ミヅキの体を借りて、ミヅキの友人に会った。そしてミヅキの千尋の笑顔を見て、自分の千尋が幸せだと思い込んだ。

     ——いや。思い込んだのか。本当にそうなのか。

    美月は思考の途中で立ち止まった。千尋は千尋だ。どの層にいても、水瀬千尋は水瀬千尋ではないのか。分岐が十二年以上前であっても、千尋の笑顔は千尋の笑顔ではないのか。同じ声帯から出る同じ笑い声。同じ骨格が作る同じ表情。——そこに、美月の知る千尋が宿っていないと、なぜ言い切れる。

    言い切れない。言い切れないが——根拠もない。ミヅキの千尋が美月の千尋と「同じ」だという根拠は、どこにもない。蓮のデータが示しているのは、十二年の分岐は環境そのものの差異を生むということだ。同じ遺伝子を持つ人間が、異なる環境で異なる人生を歩めば、異なる人間になる。千尋も例外ではないはずだ。

    思考が堂々巡りを始めていた。千尋は千尋だ。しかし千尋は千尋ではない。同じであって、同じではない。——その振り子が、美月の頭の中で揺れ続けていた。

    「柏木さん」

    蓮の声が近かった。蓮が椅子ごと美月の方に向き直っていた。

    「大丈夫ですか」

    「……はい」

    「顔色が悪い。水を——」

    「大丈夫です」

    大丈夫ではなかった。しかし大丈夫でないことを認めたら、思考が止まる。思考が止まったら、いま目の前に広がっている亀裂を見つめ続けることができなくなる。

    あの再会。千尋の笑顔。千尋の声。——さっき頭の中で堂々巡りをした結論が、思考の外に出て、体に降りてきていた。あれはミヅキの千尋だ。

    千尋の目が、別れ際に揺れた。ミヅキの向こう側にいる誰かを見るように。あれは美月を見ていたのか。それとも、異物を見ていたのか。

    美月の左手が、薬指をこすった。

    リング。千尋とのリング。あのリングは——美月が千尋からもらったものか。ミヅキが千尋からもらったものか。美月の記憶では千尋からもらった。千尋の笑顔を覚えている。——しかし、「いつ」「どこで」が出てこない。十二歳以前なら、その記憶は美月のものなのか。

    記憶の棚に手を伸ばした。千尋の笑顔。リングを差し出す手。「おそろいにしよ」——千尋の声。声は覚えている。声の温度も覚えている。しかしその声が響いていた場所が見えない。教室か。公園か。どこかの廊下か。場所だけが、抜け落ちている。

    「蓮さん」

    「はい」

    「千尋と私が出会ったのは——高校一年生の四月です。それは確かです」

    「はい」

    「でも……リングの記憶が。千尋からリングをもらった記憶が、高校の記憶なのか、それとも……もっと前なのか、わからなくなって——」

    蓮は何も言わなかった。美月の言葉を聞いている。聞いて、待っている。

    「十二歳以前の記憶がないのに、リングの記憶だけがある。場所が見えないのに、千尋の声は聞こえる。——これは、私の記憶ですか」

    蓮の指が膝の上でわずかに動いた。

    「現時点では判断できません」

    「わかっています。でも——可能性として。ミヅキの記憶が、私の中に混ざっている可能性は——」

    「あります」

    蓮の即答だった。仮説を渡さないはずの蓮が、即答した。——それは蓮にとっても、すでに仮説ではなく結論に近いということだった。

    「滲みの影響で、ミヅキさんの記憶の一部があなたの中に流入している可能性はあります。特に——強い感情を伴う記憶は、層の障壁を越えやすい」

    千尋とのリング。強い感情を伴う記憶。

    美月は目を閉じた。

    頭の中で、何かが再配置されていた。パズルのピースが——本棚から消えたアルバム。晴也に聞かれた「小学校のとき何してた?」。蓮の前で答えられなかった校名。——それらが一つの絵になろうとしていた。しかしその絵は、美月が見たい絵ではなかった。

    十二歳以前の記憶がない。ミヅキとは十二年以上前に分岐している。ミヅキは横浜で育ち、美月は嶺咲市で育った。利き手が違い、感覚が違い、食の好みが違う。——「別の選択をした自分」ではない。ほぼ別人。そのデータの列挙は、蓮のモニターに並んでいた赤い線と青い線の冷たさそのものだった。

    では——千尋に会ったのは何だったのか。

    美月が同期してミヅキの体で千尋に会いに行った。千尋は笑っていた。幸せだった。恋人がいた。看護師をしていた。カフェラテを飲んでいた。生きていた。——美月はそれを見て泣いた。蓮の前で泣いた。「千尋が幸せでよかった」と思って泣いた。蓮が砂糖を一本添えてくれた。あのコーヒーの苦さと甘さが、美月の涙を止めた。

    しかし、あの涙の根拠が揺らいでいる。

    あの千尋は、ミヅキの千尋だ。ミヅキの千尋であって、美月の千尋ではない。美月の千尋は——この層で、病院のベッドの上にいる。五年間、目を覚まさない。美月がこする薬指の先に、もうリングはない。美月が泣いたのは、美月の千尋が別の層で幸せだと思ったからだ。しかし美月の千尋とミヅキの千尋が同じ千尋であるという前提が崩れたなら——あの涙は、何に対する涙だったのか。

    美月は自分の涙を思い出していた。解析室で。蓮の前で。「千尋は——幸せでした」と言って、声が割れた。あの瞬間、美月の中にあったのは純粋な安堵だった。千尋が生きている。千尋が笑っている。それだけで十分だった。——それだけで十分だったのに、いま、その「十分」の土台が砂で出来ていたことを知らされている。

    あの再会は——美月が自分の罪悪感を癒すための再会だったのか。ミヅキの人生に土足で踏み込んで、ミヅキの千尋に勝手に会って、ミヅキの千尋の笑顔で自分を慰めていたのか。

    ——それは違う、と思いたかった。違うと思いたいが、違うと言い切れる根拠がない。あの涙は本物であり、しかしあの涙の前提は間違っていたかもしれない。

    「柏木さん」

    蓮の声が遠くから聞こえた。遠くではない。すぐ隣にいる。しかし美月の意識が沈んでいた。水底に向かって、ゆっくりと。

    「柏木さん。——聞こえますか」

    「はい」

     声が出た。自分の声だった。かろうじて。

    目を開けた。蓮の顔があった。近かった。蓮が椅子を寄せて、美月の顔を覗き込んでいた。口元ではなく、目を見ていた。

    「意識が飛びかけていました。脳波モニターに異常が出ています」

    美月は自分の額に手を当てた。汗をかいていた。冷たい汗。

    「少し——混ざったかもしれません」

    「滲みですか」

    「わかりません。でも——白い犬が見えました。昨日も見えた。芝生の庭と、白い犬。私の記憶じゃない」

    蓮が眉をわずかに寄せた。蓮が眉を動かすのは珍しかった。

    「白い犬。——ミヅキさんの記憶だとすれば、ミヅキさんの幼少期の記憶が流入している可能性がある」

    「幼少期の」

    「分岐点付近の記憶は、層の障壁が最も薄い。流入しやすい」

    蓮が端末を操作した。何かを記録している。蓮の指は速い。——しかしその速度の中に、微かな躊躇があった。キーを打つリズムに、一瞬の空白。

    画面の隅に、十二年前の承認欄が表示されていた。承認者の欄には、一人の名前があった。蓮はそれを閉じた。

    「今日は、ここまでにしましょう」

    「まだ——」

    「これ以上は負荷がかかります。データの照合は私のほうで続けます」

    蓮の声は平坦だった。提案の形をしている。しかし蓮の提案には「いいえ」と言わせない空気があった。

    美月はうなずいた。

    椅子から立ち上がろうとして——膝に力が入らなかった。一瞬だけ。すぐに戻った。蓮の手が伸びかけて、止まった。美月が立ち上がったのを見て、伸ばしかけた手を引っ込めた。

    「蓮さん」

    「はい」

    「千尋のこと——もう一度、考えなきゃいけないんですね」

    蓮は答えなかった。答えないことが答えだった。

    「あの再会が……私の再会じゃなかったかもしれないこと」

    「——解釈は、あなたが決めることです」

    蓮の声が、わずかに柔らかかった。語尾の角が、ほんの少しだけ丸くなっていた。

    美月は鞄を肩にかけた。解析室の扉を開けた。

    廊下に出て、三歩歩いたところで立ち止まった。携帯を取り出した。連絡先リストをスクロールした。「き」の行。桐生晴也。

    電話をかけた。

    三回鳴って、出た。

    「おう、どした。朝っぱらから珍しいな」

    晴也の声は明るかった。いつもと同じ。——しかし「朝っぱらから」の部分に、わずかな間があった。美月が朝に電話をかけてくることの意味を、晴也は測っている。

    「晴也」

    「ん?」

    「昔の私、どんなだった?」

    沈黙。電話の向こうで、晴也の呼吸が聞こえた。呼吸のリズムが一瞬だけ変わった。速くなった——ように聞こえた。美月は心配させてしまったのだと思った。

    「……どういう意味?」

    返答までの間が、他の沈黙より長かった。

    「小学校のとき。中学のとき。私、どんな子だった?」

    「なんだよいきなり」

    晴也の声が笑っていた。笑っていたが、笑い声ではなかった。笑いの形をした緊張だった。

    「お前は——中学のときは普通だったよ。真面目で、おとなしくて、でも芯は強い感じで。……なんだよ急に、自分史でも書くのか?」

    「小学校は?」

    「は?」

    「小学校のとき、覚えてる? 私のこと」

    晴也が黙った。

    「……お前、俺と同じ小学校だったか?」

    美月の心臓が跳ねた。血液が耳の奥を打つ音が大きくなった。

    「え……」

    「いや、中学からだよな。中学で同じクラスになったのが最初だろ。小学校は——お前どこだったっけ」

    「覚えてない」

    「覚えてない? 自分の小学校?」

    「……ん」

    晴也が何かを言おうとした。言おうとして、止めた。電話の向こうで、息を吐く音が聞こえた。

    「お前、最近おかしいよ」

    声のトーンが変わっていた。軽さが剥がれていた。

    「なんかあったんだろ。あの施設のこと——」

    「晴也。ありがとう。ごめん、いきなり変なこと聞いて」

    「おい、待て——」

    「また連絡する」

    切った。

    手が震えていた。震えていることに気づいて、もう片方の手で携帯を押さえた。

    晴也は中学からだと言った。中学で同じクラスになったのが最初。——それは美月の記憶とも一致する。中学一年生の四月。入学式。桜。長い袖。晴也は確か、隣の列にいた。「よろしく」と言った。

    小学校のことを、晴也は知らない。

    美月自身も知らない。

    廊下の壁にもたれた。膝の力が抜けかけた。——その瞬間、視界の端に何かが走った。

    手。

    誰かの手を握っている。左手で。指を絡めている。温かい手。大きくて、乾いていて、指の腹が硬い——キーボードか何かを長時間叩く人間の手だ。握り返す力が優しい。——そして、隣から聞こえる笑い声。一拍遅れの笑い声。相手の反応を見てから笑う、あの——

    消えた。

    美月は壁に片手をついていた。呼吸が乱れている。いまの映像は——前にも見た。同期中に。誰かと手を繋いでいる映像。あのときは顔が見えなかった。いまも顔は見えない。しかし——一拍遅れて笑う人間を、美月は一人しか知らない。

    晴也。

    ミヅキの層で。ミヅキが、晴也と——

    頭を振った。確証はない。滲みの断片だ。顔は見えていない。声も聞こえなかった。笑い方だけだ。笑い方だけで——しかし、あの笑い方は晴也のものだった。一拍遅れる。相手を見てから笑う。

    美月は携帯を握ったまま、廊下に立っていた。

    いま電話を切ったばかりの晴也。「お前、最近おかしいよ」と言った晴也。ラーメンに誘って、〈おっけ〉の一言で引き下がった晴也。——この層の晴也は、美月の同じ研究室の友人だ。それ以上にしたことがない。

    しかしミヅキの層では。

    エレベーターで一階に降り、ロビーを抜けて外に出た。秋の空が高かった。雲が薄く広がっていて、太陽がその後ろに滲んでいる。滲んでいる。——その言葉に引っかかった。空が滲んでいるのか、記憶が滲んでいるのか。

    次に意識がはっきりしたとき、美月はアパートの暗い部屋にいた。

    テーブルの前に座っていた。いつ帰ったのか覚えていない。バスに乗ったはずだ。靴は脱いでいる。鞄は椅子の上にある。部屋の電気はついていない。窓から差し込む午後の光だけが、テーブルの木目を照らしている。

    昨日の弁当の残りがテーブルの端にあった。見たくなかった。何も見たくなかった。

    棚に目をやった。高校と大学の卒業アルバムが並んでいる。その隣に——空間がある。小学校のアルバムが入るはずの空間。最初からなかったのか。あったものが消えたのか。

    高校のアルバムを引き抜いた。ページを開いた。三年二組の集合写真。左端に美月がいる。右手を膝の上に置いて座っている。三列目に千尋がいる。笑っている。千尋はいつも笑っている。

    この千尋は、美月の千尋だ。

    この写真の千尋は確かに美月の千尋で、美月と同じ教室にいて、美月と同じ空気を吸って、美月と同じ時間を過ごした。それは揺るがない。

     ——しかし、その前は?

    アルバムを閉じた。棚に戻した。

    携帯が鳴った。蓮からだった。

    『データの照合を継続中です。分岐点の特定にはさらに精度の高い解析が必要です。明日以降、ミヅキさんの層の環境データを追加取得する同期を行いたいと考えています。ご検討ください。蒼井』

    ご検討ください。——蓮にしては異例の言い回しだった。美月に選択を渡している。強制しない。蓮は、美月の状態を見ていた。

    返信を打った。

    『行きます。時間を教えてください。柏木』

    送信した。

    テーブルの弁当をゴミ箱に入れた。テーブルを拭いた。何もない木目の表面を、しばらく見つめていた。

    蓮の声が反響した。

    「ほぼ、別人です」

    その四文字が、美月の中のすべてを組み替えていた。

    千尋との再会の意味。ミヅキという存在の意味。同期という行為の意味。——自分が「選択を間違えた」と思ってきた五年間の罪悪感の意味。

    千尋の事故は分岐の原因ではない。蓮がそう言った。では千尋の事故は何だったのか。美月が約束を断ったことは何だったのか。美月が五年間抱えてきた「あのとき私が行っていれば」は——

    もし分岐が十二歳で起きているなら、千尋の事故は分岐とは無関係だ。美月が約束を断ったことと、ミヅキが存在することは、繋がっていない。——美月の罪悪感は、ミヅキの存在とは別の場所にある。

    それは救いなのか。

    違う。それは——もっと根本的な揺らぎだった。

    美月はずっと、「別の選択をしていたら千尋は事故に遭わなかった」と思ってきた。そしてミヅキの層で千尋が元気に暮らしているのを見て、「ほら、やっぱり」と思った。別の選択——ミヅキの選択——の先に、千尋の幸せがある。美月の選択が千尋を傷つけた。

    しかし、ミヅキと美月の分岐が十二歳なら——ミヅキの層で千尋が元気なのは、美月の選択とは無関係だ。ミヅキの層はそもそも別の世界だ。千尋が元気なのは、ミヅキが「正しい選択をした」からではなく、ミヅキの層では事故が起きなかったからだ。

    美月の選択が千尋を救えなかったのではない。

    千尋の事故と美月の選択は、そもそも——

     ——違う回路にある。

    それを認めることは、美月にとって、五年間の罪悪感の土台が崩れることだった。

    罪悪感を手放す。そう聞くと楽になるように思える。しかし美月の罪悪感は——千尋とつながる最後のロープでもあった。「あのとき私が行っていれば」は、自分の選択が千尋にとって意味を持っていたという信念でもあった。

    罪悪感の土台が崩れることは、千尋との繋がりの土台が崩れることでもあった。

     ——本当にそうなのか。本当に、無関係なのか。

    その疑いを、美月はまだ言葉にできなかった。

    美月は椅子に座ったまま、左手の薬指をこすった。リングのない指。リングの記憶。千尋の声。「おそろいにしよ」。——この声は美月のものか。ミヅキのものか。

    そして——廊下で見えた、あの手。左手で誰かの手を握っていた映像。一拍遅れの笑い声。

    ミヅキは、美月が選ばなかったものを選んでいるのか。

    携帯が鳴った。蓮からの返信。

    『九時半でお願いします。蒼井』

    美月は返信を打った。

    『わかりました。柏木』

    携帯を置いた。

    窓の外が暗くなり始めていた。部屋の電気をつけなかった。暗い部屋の中で、テーブルの木目が闇に沈んでいく。

    蓮は答えない。蓮は仮説を渡さない。

    しかし蓮は、美月が自分で答えに辿り着くまで、モニターの前で待っている。徹夜で。コーヒーを三杯空にして。

    その事実が——いまの美月にとって、唯一、手触りのあるものだった。

    目を閉じた。

    今度は、誰の名前も聞こえなかった。

    静かだった。自分の呼吸だけが聞こえていた。右手で何かを掴もうとする呼吸。左手で何かに触れようとする呼吸。——一つの体の中に、二つのリズム。


    #創作大賞2026
    #ファンタジー小説部門


     
     
    AIと二人三脚で、物語を書いています。 長い小説も、短い話も。 どこへ向かっているのかは、まだわかりません。 わからないまま書くのが、たのしいです。 みなさんの書かれたものも、大事に読ませてもらいます。

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