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残響プロトコル #2 倢のノむズ


    第2章「倢のノむズ」

    倢を芋おいる、ず自芚したのは初めおだった。

    知らない郚屋にいた。癜い壁。倩井が高い。窓の倖に海が芋える——海 嶺咲垂に海はない。光の質がちがう。空気がちがう。午埌の陜射しが郚屋を暪切っおいお、塵がゆっくり舞っおいた。そこたでは倢ずしおおかしくない。倢は知らない堎所を芋せるこずがある。

    おかしかったのは、解像床だった。

    ふ぀う倢は茪郭ががやけおいる。芋おいるあいだは鮮明な぀もりでも、あずから振り返ればディテヌルが欠萜しおいるこずに気づく。壁の色、家具の配眮、空間の奥行き——倢はそういう现郚を省略する。

    この倢は省略しおいなかった。

    壁にかかった時蚈の秒針が動いおいる。文字盀の数字はアラビア数字で、12の䜍眮に小さな傷がある。テヌブルの䞊にはノヌトパ゜コンず、飲みかけのカフェラテ。カップの内偎に残ったフォヌムの泡が、ゆっくり消えかけおいる。巊手前に開いたスケッチブック。画材——コピック 色が䜕色か散らばっおいる。

    巊手前。

    巊手で、ペンを持っおいた。

    矎月は右利きだった。箞もペンも右。巊手で䜕かを曞くこずなど䞀床もない。なのに倢の䞭の手は——自分の手だ、指の圢で分かる——ペンを巊手で握り、スケッチブックに䜕かを描いおいた。描いおいる内容は芋えなかった。芖線がペンの先に萜ちおいなかったから。芖線は窓の倖、海の方を向いおいお、手だけが勝手に動いおいる。

    手が、慣れおいる。

    倢の䞭で、ペンを持぀巊手の指に力のかかり方を感じた。芪指ず人差し指のあいだの、ペンだこの䜍眮が違う。右手にあるはずの硬さがそこにはなくお、かわりに巊手の䞭指の偎面にかすかな膚らみがある。䜕幎もペンを握っおきた手の圢だった。

     ——これ、私の手

    問いかけた぀もりだったが、声は出なかった。倢のなかの自分は口を動かすこずを蚱されおいなかった。ただ芋おいる。巊手でペンを走らせ、海を眺め、カフェラテの泡が消えおいく午埌を過ごしおいる自分を、内偎から芋おいる。

    ふいに、巊手が止たった。

    薬指に䜕かが光った。

    指茪だった。銀色の、现い茪。——違う。銀ではない。プラチナかホワむトゎヌルドか、光の反射で芋分けが぀かなかったけれど、確かに巊手の薬指にはたっおいた。

    芋芚えが——

    そこで誰かが笑った。

    声。女の声。甘くお、やわらかくお、懐かしい声が郚屋のどこかから降っおきた。

    「ミヅキ、たたがヌっずしおる」

    知っおいる声だった。

    千尋の声だった。

    氎瀬千尋。高校時代の芪友。五幎前の亀通事故以来、意識が戻らない。嶺咲垂の北にある病院のベッドに暪たわったたた。あの千尋の声が、笑っおいる。

    倢なのだから、圓然だ。倢のなかでは死んだ人間だっお歩く。意識のない人間だっお笑う。

    けれど声の質が、蚘憶の再生ではなかった。

    高校のころの千尋の声を矎月は芚えおいる。やや高くお、語尟が跳ねお、笑うずきに錻に息がかかる声。倢のなかの声は——すこし䜎かった。五幎ぶん、倧人になった声。蚘憶にない声。倢は蚘憶の断片を再構成するものだずすれば、聞いたこずのない声が出おくるこずは、おかしい。

    「——矎月」

    もう䞀床、呌ばれた。

    響きが違った。声の枩床が、笑顔から確認に倉わっおいた。

    郚屋が揺れた。

    海の光が暗転した。スケッチブックのペヌゞが癜玙になった。巊手の指茪が消えた。声が遠ざかる。千尋の笑い声の残響が、耳の奥で糞のように现くなり——

             ◇

    目が芚めた。

    芋慣れた倩井。アパヌトの癜い壁。窓の倖はただ暗い。スマヌトフォンを手探りで取るず、午前四時十二分。

    心臓が速い。枕が汗で湿っおいた。

    倢。いたのは倢だ。——確認するたでもなくわかっおいる。自分は嶺咲垂のアパヌトのベッドにいる。海のある郚屋にはいない。巊手にペンは握っおいない。

    巊手を芋た。

    匕っかき傷があった。

    手の甲に、䞉本。爪で匕っかいたような、浅くお赀い線。い぀の間に぀いたのか芚えがない。寝おいる間に自分で匕っかいた可胜性はある。寝盞が悪い自芚はないが、れロずは蚀いきれない。

    傷を指でなぞった。痛みはほずんどなかった。皮膚の衚面だけの浅い傷。明日には消える皋床のもの。

    それより気になったのは、倢の鮮明さだった。

    目を閉じるずただ芋えた。窓の倖の海。テヌブルの䞊のカフェラテ。秒針が動く時蚈の文字盀。12の䜍眮にある小さな傷。

     ——あの郚屋を、私は知らない。

    知らないはずだった。知らないはずの堎所を、倢は倢の曖昧さでなく、蚘憶の正確さで芋せた。

     ——いや、芋せられただけではなかった。

    窓のカヌテンが、薄い青だったこず。壁際の棚の二段目に、写真立おが䞀぀、䌏せお眮かれおいたこず。倢のなかでは、芖線がそちらに向いおいない。䞀床も向いおいない。それなのに、矎月は知っおいた。芋るより先に、知っおいた。

    倢だから、ず思った。倢なら、知っおいおもおかしくない。

    けれど巊手の指先に、䌏せた写真立おの瞁の感觊が残っおいた。朚の角に觊れた、確かな手觊り。

    薬指に指茪がはたっおいた感芚が、ただ残っおいる。金属のひんやりずした重さが、皮膚の蚘憶ずしお巊手に匵り぀いおいる。起きおいる今の巊手の薬指には䜕もない。䜕もないのに、䜕かがあった痕跡を指が䞻匵しおいる。

    矎月は右手の芪指で巊手の薬指をなぞった。い぀もの癖。い぀もず同じ動き。だが今倜に限っお、指がなぞる堎所に指茪があった感觊が重なった。

     ——偶然。

    そう刀断した。倢のなかの指茪ず、自分の癖には関係がない。倢は脳が勝手に構成するもので、日垞のディテヌルが玛れ蟌むこずはよくある。認知科孊の知識がそう蚀っおいる。

    氎を飲みに起き䞊がった。台所で蛇口をひねり、コップに氎を泚ぎ、䞀口。

    蛇口から氎が出る音が、ふいに遠くなった。

    䞀秒。あるいは䞀秒未満。台所の蛇口の氎音が遠ざかっお、代わりに波の音が聞こえた。さざ波の、芏則的で穏やかな音。あの郚屋の窓から聞こえおいた音。——そしおすぐに消えお、蛇口の氎音に戻った。

    コップを持぀手が、かすかに震えおいた。

    氎を飲んだ。もう䞀口。コップを眮いお、深呌吞をしお、ベッドに戻った。時蚈を芋た。四時十九分。

    眠れなかった。

             ◇

    翌朝から、ずれが始たった。

    キャンパスぞの道。バス停でバスを埅っおいるずき、向かいの建物の看板が䞀瞬だけ読めなくなった。文字が厩れたのではない。文字は文字のたた、意味が取れなくなった。日本語であるこずはわかるのに、䞀文字ず぀が蚘号のように芋えた。数秒で戻った。

    研究棟の廊䞋を歩いおいるずき、コヌヒヌのにおいがした。——あの朝ず同じ。たったく同じ。研究宀のドアを開けるず晎也がいお、同じマグカップを持っおいお、「おヌ、珍しい。䞀番乗り」ず——

    廊䞋には誰もいなかった。

    研究宀のドアは閉たったたた、コヌヒヌメヌカヌの音も聞こえない。あの朝ず同じにおいを、矎月の錻が勝手に再生した。

    足が止たった。ドアノブに手を䌞ばしかけお、やめた。なぜやめたのかはわからない。ただ、このドアを開けたら同じ朝がもう䞀床始たるような気がしお、䜓が拒んだ。

    矎月は研究棟を出お、図曞通に向かった。

    デゞャノ。

    既芖感。フランス語で「すでに芋た」。海銬の凊理タむミングのずれで、新芏の入力が蚘憶のタグを誀っお匕き出す珟象。矎月はその原理を知っおいる。論文候補のひず぀ずしお調べたばかりだ。

    知っおいるのに、揺れた。

    その日、デゞャノは䜕床も来た。食堂で、れミ宀で、廊䞋で——そのたびに䞖界の衚面がうすい膜のようにめくれかけお、すぐに戻った。いちばん匷かったのは垰り道だった。

    バス停のベンチに座った瞬間、腿の裏に䌝わる硬さが、別の硬さを呌んだ。プラスチックではない。朚。叀くお、日に焌けお、すこしささくれた朚のベンチ。海が芋える堎所の——

    心臓の音が聞こえた。自分の心臓の音。耳の奥ではなく、胞の䞭で盎接鳎っおいる。ドクン、ドクン。速い。速いこずに気づいた瞬間、呌吞が浅くなった。吞っおいるのに空気が入っおこない感芚。ベンチの硬さが朚のたたで、プラスチックに戻らない。二秒。䞉秒。

    矎月は立ち䞊がった。

    ベンチの感觊から匕き剥がすように䜓を起こし、バスが来るたでの五分間を立ったたた埅った。額にうっすら汗がにじんでいた。九月の倕方は涌しいはずだったが、䜓が枩床を正しく感じおいなかった。心臓がただ速い。深呌吞を䞉回した。䞉回目で、ようやく空気が肺の底たで届いた。

    バスに乗った。窓の倖で嶺咲垂の䞘陵が倕暮れに沈んでいく。この景色は知っおいる。確かに知っおいる。ここは自分の街だ。

    スマヌトフォンが鳎った。晎也からLINE。

    〈今日どこいた 研究宀来なかったろ〉

    矎月は返信を打った。

    〈ごめん、図曞通にいた。明日は行くね〉

    半分だけ本圓だった。図曞通には行った。研究宀のドアを開けられなかっただけだ。そんなこずは蚀えない。昚倜の倢のこずも、䞀日に䜕床も来たデゞャノのこずも。話したずころで、怖い倢を芋た、で終わる䌚話になる。それ以䞊のこずを、矎月はただ蚀語化できおいなかった。

    「以䞊のこず」が䜕なのか、自分にもわかっおいなかった。

    わかっおいたのは、あの倢が倢らしくなかったこず。巊手に傷があったこず。そしお䜕床も来たデゞャノの底に、同じ質感が流れおいたこずだった。

    海のある郚屋。知らない郚屋。知らないのに、知っおいる。

    アパヌトに垰っお、鍵を閉めお、靎を脱いだ。掗面台で手を掗った。巊手の甲の匕っかき傷は、朝より薄くなっおいた。明日には消える。傷が消えれば、昚倜の倢もただの倢になるだろう。デゞャノも䜓調のせいだったずいうこずになるだろう。

    そういうこずに、すれば。

    なるはずだった。

     ——けれど倜がたた来お、目を閉じれば。

    矎月は垃団を頭たで匕き䞊げお、眠るこずを少しだけ怖いず感じた。耳の奥で、あの埮现なノむズがたた聞こえおいた。昚倜の就寝前に聞いたのず同じ、テレビの砂嵐のような音。

    今倜はそれが、すこしだけ近かった。


    #創䜜倧賞2026
    #ファンタゞヌ小説郚門


     
     
    AIず二人䞉脚で、物語を曞いおいたす。 長い小説も、短い話も。 どこぞ向かっおいるのかは、ただわかりたせん。 わからないたた曞くのが、たのしいです。 みなさんの曞かれたものも、倧事に読たせおもらいたす。

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