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NTR(ネトラレ)について



    #創作大賞2026 #エッセイ部門

    なぜNTR?

     NTR(ネトラレ)というジャンルが存在する。
    少なからぬ人気を博している。読んで字のごとく、愛する人が性的な手段を通じて、他人に奪われていくというものだ。
     「そんなものがどうして面白いんだ!」「見ていてもつらいだけだろ!」と言われそうだ。その通りとしたいところだが、ジャンルとして成立するし、海外のサイトでもNTRで検索が可能であるし、人気がある。
     「変態!」「どM!」とわかったような顔で言う人たちもいる。別にここで立ち止まって、「人は千差万別だ」とそれなりの結論を出して終わりにすることもできるし、それが大人の対応のようにも思えてくる。
     でもそれだと、何も解決していないし、何も初めてもいない。それなら文章を書く必要もない。書くからには、もう少し、このジャンルにこだわって考えてみたい。なぜ「寝取られ」というジャンルが成立するのか?「愛する人が性的な手段を通じて奪われる」ということの意味を考えたい。

    NTRとかぐや姫

     かぐや姫はNTRだ!そう言うと、「えっ!」と思われてしまうかもしれない。でもNTRに似たような構造を持つ作品があった。
     自分の妻との生活に不満を覚えた夫が、妻の元カレである緊縛師のもとへ行くように促す。その結果。妻はかつての淫蕩な血が呼び覚まされ、破天荒な性生活を繰り広げていく。それまでは妻は昔のただれた生活を隠し、普通の主婦として正常な性生活を夫と送っていたのであった。それがもとの奔放な性の世界へと戻る。夫はその妻の過激な姿を、撮影される強烈な映像を苦痛と快楽の混じった感情で見ていくことになる。妻は夫を快楽の世界に導きながら、最終的には元カレと最終的に暮らすことを夫に告げる。元カレとの住まいに夫に訪れてもらい、夫の眼前で破廉恥な行為にふけることで、より一層の快楽が得られるとまで、妻は言う。
     これってかぐや姫の世界ではないだろうか。人間界で暮らすかぐや姫はその美貌の下に人々をひきつけていく。彼女はほかの女性とは違う。そして、求愛者たちに難題とも思えるような試練を課していく。これは夫を性の遍歴へと導いていく妻と変わらない。そして、かぐや姫は、数々の試練が失敗した後で、最終的には別世界である月へと帰っていく。それこそ、最終的に人間離れした、超人的な緊縛師の元カレのもとにかえっていく妻の姿と重なる。そして、残されたおじいさん、おばあさんに月を見るたびに自分のことを思ってほしいというのは、元カレと続けるであろう生活を忘れないでほしいと願う妻の態度とも呼応している。
     なぜおとぎ話とエロティックな話が結びついてしまうのだろうか。こじつけといわれそうだ。ただ言えるのは、どちらも日常を越えるものを目指していることだ。通常の世界とは異なる月の世界を望むことは、普通の性を越えたものを志向する動きとも似てくる。様々のジャンルが既成の枠を越えて作品を生みだそうとするとき、領域を横断するような試みが出会い、結び合う。

    NTRと熱血マンガ

     マンガにもNTRが来た。NTRという枠組みは、現在様々な領域に浸透し、マンガにも影響を及ぼしている。例えば、『勇者にみんな寝取られたけど諦めずに戦おう。きっと最後は俺が勝つ。』という作品。突然現れた勇者は、その力を発揮し、怪物たちを倒していく。しかし、その戦いのパートナーとなった主人公の幼馴染たちは次々とその勇者に寝取られていく。
     怪物たちを度重なる試練の果てに倒していく熱血冒険マンガにこんなNTRという仕掛けが必要なのだろうか。この作品が少なからぬ支持を収めているところをみれば、この目論見は成功しているともいえる。その成功のカギはいくつか考えられるであろうが、その中に、ガチガチの勝者とは異なる敗者の美学があるように思われる。
     この美学の根底には、「勝者より尊い敗者がいる」という見方がある。勝ったものだけがエライのではない。負けたものは単なる敗者ではないし、弱者でもない。敗因を十分に理解し、それを乗り越えようとする動きに結び付けられれば、そこからあらたな可能性が開けてくる。逆に言えば、ただの勝者にはそうした発展の道は閉ざされている。ただ勝利を味わうことしかできない。
     スランプ、敗北はけっしてネガティブなものではない。それを上昇のきっかけとしてとらえることのできるものにとっては、好機となる。だからこそ、その努力の果てに、『きっと最後は俺が勝つ』と言える。
     しかし、現在光が多く当たるのは勝者だ。敗者へのまなざしが尊重されなくなってきたのは、いつごろからだろうか。少年マンガにおいては、敗北からの復活こそが大きな主題だったのではないだろうか。勝ちっぱなしの登場人物に魅力はないし、発展もない。苦労のないスーパーヒーローは退屈なだけだ。マンガという物語世界に力を与えるものとして、いまNTRは機能しようとしている。

    NTRと不倫

     NTRと不倫は同じか?普通の感覚で言えば、どちらもパートナーを裏切る点で同じだし、「一般人」からすれば、どちらも理解しがたい「ヘンタイ」行為だ。あるいは、一部の人による「不倫は文化」という立場に立てば、不倫は積極的な意味を持つ可能性をあるのかもしれない。しかし、NTRについては、そうしたプラス指向の発言は出てこない。
     確かに不倫の方がウケる。Youtubeにおける不倫に関するチャンネルの数をみれば一目瞭然だ。そこでは、不倫がことごとく暴かれ、それ相応の処罰を社会的にも、法律的にも受けていく様子が細かく報告されている。社会的な悪が処罰され、見る人々は「スカッ」とする。こうした勧善懲悪的な見取り図は、NTRの場合には描くことができない。
     このように不倫と寝取られの根本的相違を論じようとすると、「でも、それって観点の違いにすぎないのじゃない!」という声が聞こえそうだ。パートナーの信頼を裏切ってする行為をその行為の当事者の側からみれば不倫となるが、裏切られたパートナーから見れば、信頼を裏切られた寝取られとなるのではないか。要するに行為としては同一のものが、その捉える視点によって、不倫となったり、寝取られとなったりするという論理である。
     ここではっきりとさせておこう!ジャンルとして成立しているNTRは決して不倫の裏返しではない。同じ行為を異なる観点から見ているわけではない。不倫には必ず裏切られた者がいる。だからその恨みを晴らせれば、「スカッ」とするし、「ザマァ」という気持ちにもなれるだろう。しかしジャンルとしてのNTRには裏切られる者も裏切る者もいない。パートナーが他者と行う性行為は、もう一方のパートナーの同意のもとに行われている。そこにそのジャンルの難しさがある。「そんなことにどうして同意できるのか?」「やっぱりヘンタイだ!」という声が押し寄せてくる。しかし、そうした声にもかかわらず、この手の作品群は人々を惹きつけていく。「なぜだかわからないけれど、ひかれていく」のは、なぜだろうか?その謎が、このジャンルを動かす力となっている。

    NTRと男

     NTRには不思議な点が多い。また変なことに気づいてしまった。
    寝取られる対象となるのは、ほとんどの場合、女性なのだ。ある男が大事に思っていた女性が別の男性に奪われるというケース以外には、考えにくい。これは不倫とは違う。不倫には、不倫夫もいれば、不倫妻もいる。
     それなのに、NTRでは奪われるのが女性限定というのはなぜなのだろう。
    ソチンの男性が巨根の男性に愛する人を奪われるというのは、NTRのよくあるストリーだ。その逆バージョンを考えにくいのはどうしてだろうか。いままで熱々のカップルでいたのに、名器の女性があらわれて、彼氏が奪われるというのは、どうも考えにくい。「もしわたしのあそこが名器だったら、カレもあんな女のもとにはいかなかったのに!」と嘆くような女主人公の姿はどうも頭に浮かびにくいし、もはやギャグマンガの世界に行きそうな気もしてくる。
     どうも男女の物語にはウケるパターンがありそうだ。複数の女性の間をうごく男性というドラマ・モデルを取るとき、それは源氏物語を想起するまでもなく、伝統的な恋愛物語であったり、遍歴のドンファンの物語であったりする。その逆に、複数の男性の間を動く女性というのも存在する。男を操る魔性の女や男に捨てられ続ける悲劇のヒロインなどとなる。ただどちらのパターンも男中心の物語のように思える。後者の女性が中心の展開にしても、秩序を具現する男性たちに歯向かう悪役のような存在として女性が存在している。
     こうした類型とは異なるところに、NTRというジャンルがある。
    NTRの主人公の男性は女々しい。巨大な男性器を持つ相手にパートナーを奪われ、その劣勢を受け入れて、現状を甘受する。それは男性のあるべき姿とは思えない。でもそもそも男性のあるべき姿とは何だろうか。強い男性というあり方にたいして、別の存在様式を提示しているかにみえる。批判的機能をはらみながら、物語を構築していこうとするNTRというジャンルには、何か新しいものを感じてしまう。

    NTRとバッドエンディング

     NTRには、バッドエンディングが多い。
    作者のあとがきにもそれを明記しているものもある。そして、その作者によれば、ハッピーエンドが好きであるが、読者の好みはそうではないと書かれている。バッドエンディングが好まれている。
     どうして読者はそうした終わり方を支持するのだろうか。確かに愛する人が自分のもとを離れ、他の男によって犯され、体まで無残に拡張、変形されることすらあるのに、それが受け入れられるのだろうか。「変態マゾだね」という一言で片づけられれば、どれほど簡単なことだろう。でも、それではこのジャンルが読者から支えられていることの明確な説明にはなっていない。
     それでは、観点を変えてみよう。この寝取られというジャンルを、他の官能小説と比べてみよう。一般の官能小説では、バッドエンディングが強調されることは少ない。たとえヴァイオレンス物であってもだ。なぜだろうか?それは欲望がある意味で予定調和的に充足するからではないだろうか。義母、女教師、人妻などの対象にたいし、最終的には男の欲望は成就され、最終的にはハーレム状況が現れる。ここではある意味でマッチョズムの至高の夢の実現されている。
     NTRというジャンルはそうした傾向の対局にある。マッチョが夢想する世界などそこにはない。確かに、愛する人を奪う男は巨根である。しかし、問題はそこではない。主人公がそうした巨根の支配する世界からは著しく疎外されていることである。実際最終的に「メスオチ」してしまう場合もある。好むと好まざるとにかかわらず、主人公は大きな男性器の世界から締め出されることで、それ以外の世界を生きなければならなくなる。この異世界の遍歴こそ、性の多様化への道を開くことになる。この冒険譚は愛の世界の豊かさを目指す。

    NTRと倒錯

     NTRは考えれば考えるほど不思議だ。素直ではない。気持ち良さそうなところで、気持ちよくない。
     ちょっとかわったマンガのことから話していこう。『吸血鬼さんはチトラレたい』だ。人間の男子高校生と吸血鬼の女子高校生が中心の物語である。人間と吸血鬼が共存しあう社会での話となる。秩序管理上、吸血鬼の女子高生は、決められている男子高校生から定期的に血を吸うことになっている。それだけなら問題はなかったのだが、あるときたまたま別の吸血鬼の女の子が吸血した後で、血を吸ったときに、いつもと違うおいしさがあったことから話が込み入ってくる。
     血を吸うことが、性行為の暗喩であることは明白だし、すでに「チトラレ」という言葉がNTRを連想させている。そう、これはNTRと構造は同じなのだ。当人同士の行為ではなく、そこに第3者が介入してくることで、事態があらたな展開を見せてくる。パートナー同士の2者ではなく、それに介入して来る者が必要となる。直接ではなく、迂回する要素がいるのだ。そのまま受け入れるのではなく、その素直な方向を屈折させる力が要る。
     そう、素直ではないのだ。まっすぐ行けばいいのに、寄り道をしてしまう。寄り道こそが楽しい。それは変な選択だ。「そっちなんか行きたくない!」と言って、自分の好きな方向に走りだすのではない。それは不倫を選ぶ者の選択だ。そうした行動を取る輩の心理は、認めないまでも、わからないではない。しかし、ゴールは見えているのに、どうして寄り道をするのか?早く着けばいいではないか?そこで、寄り道をする奴の心理はわからない。そこが倒錯者の取る道だ。反抗するわけでもない、でも素直に受け入れるわけでもない。不思議な選択をする者の姿がそこにある。

    NTRと不可能性

     何を熱くなっているのだといわれそうだ。でもはっきりさせておこう。NTRにはある不思議さがある。パートナーが犯されることに、快楽を見出そうとする。愛する者に対するそんな仕打ちには耐えられないはずだ。でもそこが出発点だ。
     ここから先は、止めることはできない。そこには愛の不可能性の問題が現れてくる。ヘンタイの動物が考えにくいように、ヘンタイは人間の専売特許だ。自然な生殖行為から発して、人間はエロティスムの機構を介して、様々な活動、同性愛、肛門性交、獣姦などを実践してきた。その活動はある意味で人間の文化のある面を形成してきた。いかに否定しようともその炎は絶えず沸き上がり、人々の情念を焦がしてきたのだった。
     そうした行為がそのおぞましさにもかかわらず、人間の歴史や文化の中で妖しい光を放ち続けてきたとすれば、喚起する情念の激しさによるところが大きかったのではないだろうか。通常であれば、命を生み出すような行為は生産的だ。それなのに、そうした能動性を否定するような、場合によっては、反対の死の方向にまで舵を切るようなことが、人々を恐れさせるとともに、惹きつけてきたのではなかっただろうか。
     それは、不可能性の意識といってもいい。「そんなことがあるわけはない!」「そんなことがあってはいけない!」という思いを裏切って、行為が爆走する。突進する行為と置いていかれる意識との葛藤。行為と意識の距離が離れれば、離れるほど、無力さの中である感情が生まれていく。それを愛と呼ぶ勇気はない。ただその強さに打ちのめされるだけである。少なくともその激しさだけは痛いほどわかる。その痛みと激しさの中で、覚醒するものがあるだろう。

    NTRは裏切り

     NTRは裏切りである。それは「正論」の単調さを裏切る。
    今や正論は無敵だ。各自が自らの正論をかざして戦いあっている。至る所に決まり事がある。AVでは、アソコが大きくて、テクニシャンの男は無敵とされる。しかし、「そんなことはない!科学的な根拠はない!」というような正論をNTRは語りはしない。正論に正論で応じることの単調さに飽き飽きしているからだ。正論で戦いあう者たちは、己の正論を愛しすぎていて、それが持つ限定的な条件など見えていない。そんな熱さはNTRには無縁だ。
     同じことを繰り返すのは、楽だし、安心感も与えてくれる。しかし、そこに安住できる人ばかりではない。その感覚に違和感を覚えたときに別の道が開けてくる。ただ注意しよう。その味に飽きたから、新しい味を求めようというのではない。そんな能天気ならNTRにハマりはしない。違和感を大事にする、それにこだわる。ということは、元の味との距離を保つことであり、それを捨てないことだ。紋切り型の否定や、変に前向きな批評などしない。
     なぜ裏切りか?それは勝たないし、負けないからだ。ゲームをするからには、勝者と敗者を決めなければいけない。それが勝負事の鉄則だ。しかし、NTRは、その規則に従うそぶりをしながら、結果において台無しにしてしまう。アソコの大きな男性に彼女を奪われたのなら、それでもうオシマイのはずだ。勝負あり!敗者は決まった!それなのに、彼女との関係は切れておらず、むしろ深まったように感じるのがNTRだ。NTRの男にとっては、勝ってもいなし、負けてもいない。彼にとっては関係の地平に居続けることが重要なのだ。勝っても、負けてもいないために、このゲームはさらに継続されていくことになる。
     「そんな継続に何の意味がある!」「やめちまえ!」そのいらだつ問いかけにNTRは答えることはない。いや、むしろそのいらだちの中にこそ答えがある。なぜいらだつのか?それは、結果がないがしろにされているように思えるからである。逆に聞こう。どうして、そんなに性急に形をもとめようとするのか。その執拗さ、執念深さをNTRの態度が浮かび上がらせる。決してNTRは声高に批判するわけではない。NTRの存在により、そうした頑なな姿勢が目につくようになるだけである。
     確かに乗り越えは安心させてくれる。「・・・は死んだ!」「これからは・・・だ!」こうしたキャッチフレーズはどれほど安心感を与えてくれてことだろう。でもそんなに簡単に「死」は訪れない。終わったものを切りすてて、新しい地平に足を踏み入れたと思っても、それが幻想だったと気づくことも少なくはない。NTRは気安く踏み越えはしない。むしろ己の地平にこだわる。そして、とどまり続けることは、思っているほど簡単なことではない。とどまり続ける勇気と忍耐の力を見届けることができるものこそが、NTRの秘めている可能性に至ることができるだろう。

     
     
    これからは自分の表現したいことをゆっくりと 考えていきたいです。

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