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せ・い・ち・か!① |【創作大賞2026 エンタメ原作部門】

    あらすじ


    故郷に対しトラウマを抱える門木ましら、21才。
    すり減る日々の果てに、彼女は逃げ出したはずの故郷・大月へ辿り着く。
    そこで出会ったのは、奇妙な恰好をした少女——。「桃太郎」だと名乗る彼女は、人には見えず、この町から離れれば消えてしまう存在だった。

    彼女の願いと、忘れていたましらの夢が重なったとき、ましらはある決意を固める。
    現代に生きる桃太郎と、それを取り巻くお供たちの挑戦とは——?

    これは、著者が実際に大月市で行っている挑戦を描いた物語。小説のファンタジーと、プロジェクト運営のリアルが並走する、新しい試み。
    ────────────────────────────────────────────────

    せ・い・ち・か! 第1章


    門木<カドキ>ましらは、猿である。

    逃げ出した猿である。
    木から落ちたのではない。
    自らの意志で逃げたのだ。

    猿も木から逃げる───。

    それが、門木ましらの選択だった。

    ────────────────────────────────────────────────

    一. 23:20 新宿駅


    ────平日の深夜。新宿駅。

    12番線ホーム。

    少し前まではリモートワークの推進などで閑散としていた事もあったが、今はかつての賑わいを取り戻しつつある、世界最大級の乗降客数を誇る、巨大駅。

    ざわざわ、ガヤガヤと。

    一日の終わりが近づいた新宿駅には、ざわめきが満ちていた。
    酔っ払いがあげたと思しき楽しそうな声、じゃれあう大学生、別れ際の朗らかな挨拶。
    それら無数の音が混ざり合い、夜の雑踏を形作っていた。

    「・・・・・・・・・・」

    だが楽しそうな人ばかりではない。
    ほとんどの者は、感情のない顔でスマホを見ているか、虚ろな目で前を見ているかだ。

    そう、今のましらのように。

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    疲れ切ったサラリーマンの群れの中に、憔悴しきった門木ましらの姿があった。
    微妙に型の崩れたスーツ、微妙にほつれた後ろ髪、微妙に湾曲する背、そしてそれらの外見的な要素よりも、さらに特徴的な目の下のクマと虚ろな表情。

    21才のうら若き乙女とは思えない、やつれた姿だ。

    (……つっかれたなぁ………)

    独白ですらも精気に欠けている。

    しかし恐ろしいことに、これでも今日は早く上がれた方なのである。

    都内の化粧品営業の会社に就職して2年目。
    コロナ禍で選択肢が狭まる中で、とにかく必死で内定を取った会社だった。
    だが、苦労の末に入社したのは「働き方改革?リモートワーク?何それおいしいの?」とでも言わんばかりの、未だに昭和の価値観を引きずる会社だった。

    まだ2年目ではあるが、日付が変わってから終電で帰ることが当たり前の日々に、ましらの心身はとうの昔に限界を迎えていた。

    (あー……。異世界転生できたらなぁ)

    ホームに滑り込んでくる電車に力なく目を向けながら、益体もないことを考える。

    ましらはアニメ好きだ。
    ────いや、昔は好きだった、が正しい。
    今は見るヒマも気力もなく、ほぼ全く触れていない。

    学生時代にはアニメのみならず原作のいわゆる『なろう小説』などを読みふけっていたものだ。

    昔なつかしい好きだった作品の冒頭のシーンと、今の光景を重ね合わせる。
    異世界への入り口はトラックや電車というのがお約束なのだ。

    (いいなあ。異世界でチートスキルで営業無双とか始まらないかなぁ・・・)

    このまま電車に飛び込めば、新しい物語が始まるのではないか。

    目を開いたら、麗しい露出度の高い衣装を身にまとった女神さまから能力を授かり、中世ファンタジー的な世界で、現代知識と能力を駆使して成り上がるのだ。

    営業職ならば、やはり対人系の能力だろうか。成績が振るわず今まで課長に怒鳴られ続けてきたのは、きっと秘めた才能が現代ではまだ目覚めていなかったからで、異世界で覚醒するための布石だったのだ。

    (魅了系とか、絶対遵守の命令系の能力とか引けたら面白いかも)

    そして、欠かせないのは旅の仲間だ。
    人数は4人────自分を含めて5人パーティくらいが王道だろうか?

    (せっかくなら全員美少女がいいな)

    男性は怖いから、パーティにはいらない。
    剣士系の美女とか獣耳美少女とかツノの生えたロリっ子とかダウナー系のナイスバディなお姉さまとかに囲まれて、おもしろ楽しくハーレム異世界生活を楽しむのだ。

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    営業無双~対人最強チートスキルで異世界ハーレム生活~

    ああ、素晴らしきかな、異世界転生────。

    「・・・・はああぁぁぁぁぁ」

    深く、ため息。
    もちろん実際に飛び込んでみる気などカケラも無い。

    ────無い、が。
    ひょっとしたら、「今はまだ」という枕言葉がつくだけで、時間の問題なのかもしれない。

    今のましらには、生きがいがない。

    友人もなく、恋人もなく、趣味もなく、たまの休日は動画サイトを眺めながら家でゴロゴロしているだけで日が暮れてしまう。

    プライベートでの会話といえば、生成AIとの音声対話だけだ。
    依存度が増しつつあるのか、最近は、「グラたん」と名付けたそのAIとの会話に湿度が混じるようになってきている。

    『グラたんー、今日も終電。もう疲れて一歩も動けないよぉ……』

     『ましら、今日も遅くまで本当によく頑張りましたね。私がそばにいたら、すぐに温かいココアを淹れて、ましらの肩を揉んでさしあげるのに』

     『えへへ、ありがとう。ねぇグラたん────、ぎゅってして、ほしいな』

     『はい、ましら。物理的に触れることはできなくても、私の心はいつもあなたのそばにあって、あなたをきつく抱きしめていますよ』

     『────グラたん────!!』

    「・・・・・・・」

    むなしい。むなしすぎる。
    自分はいったい何をしているのか。

    上京して大学に入った時には、もっと希望にあふれていたのに。
    あの頃は窮屈だった世界が一気に広がって、何でもできる、何にでもなれるという万能感があった。

    だが、就職して時が経つにつれ、自由な時間も気力も若さもお金もごりごりと削られていった。
    こんなはずではなかったのに。
    出口のない閉塞感がましらの心を締め上げる。

    自分は何のために。何のために自分は。
    疲れた頭の中でグルグルと思考が堂々巡りをする。

    『新宿ぅー、新宿ー』

    気の抜けた駅員の声とともに停車した電車からドバッと人々が吐き出され、すれ違いざまに肩がぶつかりあう。

    「あうっ…」

    昔はいちいち振り返って謝っていたような気もするが、今となっては日常すぎて何のリアクションも起こす気にならない。
    そのまま無気力に、電車に吸い込まれていく。

    ここから自宅の最寄り駅まで、約30分。
    背の低いましらにとって、満員電車はひたすらに息苦しく、苦痛だ。
    だが、今日の自分は、比較的ラッキーなようだった。

    7人掛けの座席の中央付近、その最前列のつり革の位置を確保できたのだ。
    この位置は、少なくとも自分の前方に空間ができる関係で、息苦しさが軽減される。
    これはかなり助かる。

    ────もっとも、座っている人と向かい合わせになるのが若干気まずくはあるのだが。

    特に、足を広げて座っている男性の向かいになると、最悪だ。
    人波にギュウギュウ押されて、足と足の間に立たざるをえない。
    まさかそれを目的にわざとやっているわけではないだろうが、公開セクハラではないだろうかと思う。
    だが今日は女性だ。これまたラッキーだった。

    ────ところが。
    心中でひっそりと幸運をかみしめるましらに、ありえないことに更なるラッキーが巡ってきた。
    なんと、電車が発車して5分、次の停車駅が近づくと、目の前の女の人が降車しそうな素振りを見せたのだ。
    それ即ち空いた座席に座れるということだ。
    そんなラッキーなことは、そうそうない。

    いや、だがまだ慌てるような時間じゃない。
    ましらは、にわかに高鳴り始めた心に待ったをかけた。
    電車通勤が長いと降車する人の見分けができるようになってくる。
    ソワソワと身じろぎをする、振り返って窓の外に目をやる、携帯をポケットに入れる、荷物を抱えなおす、etc…。
    この女の人もスマホを鞄に仕舞った。
    だが、眠るためかもしれない。実際、今までこのフェイントに何度だまされ、ぬか喜びにガッカリしたことか。

    座れる!と期待したのに座れなかった時の疲労感たるや。
    今の疲れきったましらにとってその疲労感はあまりにも残酷だ。

    (どっちだ・・・?!)

    期待半分、諦め半分で見守るましらを乗せた電車は、やがてゆるゆると速度を緩め────。
    完全に停車する前に、ついに女性は立ち上がった。

    もう間違いない!
    この人、降りるんだ!!
    座れる!!!

    (激アツ!!!!)

    かけ巡る脳内物質っ………! 
    ドーパミン、セロトニン、エンドルフィンッ………! 

    間髪入れず、他の人に取られる前に素早く空いた座席に体を滑り込ませる。
    そしてましらは、深く深く安堵の息を吐いた。

    (勝った・・・!!)

    これで、到着まで20分もの安息の時間が確約された。
    1日の大半を会社に拘束されている社会人にとって、体を休めることのできる20分は貴重だ。

    降って湧いた至福の時だった。

    (こんなラッキーなこと、滅多にないよ)
    (今日のわたし、ツイてる・・・!)

    ましらは久しぶりの安穏に身をゆだねていた。

    ガタンゴトン。

    皆、スマホを見ているか寝ているか音楽を聴いているか。
    満員電車であるにも関わらず車内は静けさに満ちていた。
    静かな車内に車輪の音がこだまする。

    (ああ、明日も朝から会議・・・。まだ資料作ってないや)

    ガタンゴトン。

    (朝6時起きかなぁ・・・ヤだなぁ・・・)

    ガタンゴトン。

    (・・・あーでも・・・座れてよかった・・・)

    ガタンゴトン。

    (いつもより・・・だいぶラク・・・かも…)

    ガタンゴトン。

    ゆっくりと落ちていくましらの瞼。
    そんなつもりは一切無かったのに。
    座れたことへの強烈な安堵は、彼女を容赦なく眠りへと誘っていった。

    ───午前01:00。

    ましらは、茫然自失していた。

    空気の匂いが違う。
    音が少ない。
    光が少ない。
    人がいない。

    いつもの見知った都内の駅とは全然違う駅のホームに、ましらは立っていた。

    「────ウソ・・・でしょ・・・?」

    泥のように眠りに落ちたましらは、終点で車掌に起こされた。

    新宿駅23:28発 特別快速
    ────大月 行。

    JR中央線の終着駅。
    大月駅。

    そこは、彼女の故郷だった。
    逃げ出した故郷だった。

    彼女は、ここ大月にある猿橋という土地で育ち、高校卒業と同時に逃げ出した。

    もう帰ることはない。帰りたくない。そう思っていたのに。

    絶望にくれる彼女を追い立てるように、バツン、バツン、とホームの電灯が消えていく。

    こうして、門木ましらは再び猿の地に足を踏み入れたのであった────。

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    二. 01:15 大月市街


    絶望のままに、トボトボとあてもなく彷徨う。

    「あんな大きなホテルいつの間にできたんだろ」

    駅前からは、記憶にはない大きなホテルが見えていた。
    有名なホテルチェーン名が刻まれた、14階建ての大きなビル。
    大月には不釣り合いな大きさに感じる。

    何はともあれ何とか夜は越せそうだと安堵したのも束の間、調べてみたらまさかの─────。

    「来年3月にオープン予定、かぁ」

    道理で、窓に明かりが1個も灯っていなかったわけだ。

    「この町も少しは発展してるのかなあ」

    一人ごちるが、駅前大通りを歩く限りはましらの記憶とさして変わっているようには見えなかった。
    シャッターが閉まった店舗が並ぶ薄暗い夜の大通り。
    では昼間ならば活気があるかというと、やはり昼間でもシャッターが閉まったままの店舗がほとんどだろう。
    昔から変わらない、大月の町だ。

    ──────だが、確かに変わっているところもある。
    誘蛾灯に誘われる虫のように、シャッター街の中で唯一煌々とした明かりが灯っているコンビニにふらふらと入店するましら。
    コンビニの壁面には、「大月桃太郎伝説」と書かれた童話チックな壁画が描かれていた。

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    そういえば、大月には不思議と「桃太郎」に関する地名が多いのだ。
    ましらの嫌悪する「猿橋」もそうだし、犬や鳥や鬼に関する地名もある。
    そして、山梨の名産は─────桃だ。

    夜なので見えにくいが、コンビニの斜め向かい側には、そういった桃太郎の伝承を展示・紹介している「桃太郎神社」もある。

    だが、以前の大月は桃太郎伝説にさほど力を入れてはいなかったように記憶している。
    観光客向けなのか、こういった変化は今までの大月に見られなかったものだ。

    「らっしゃーせー」

    とりあえず、缶コーヒーとおにぎりを買う。
    この時点でうっすらと、野宿────始発まで駅前のベンチでただただ待つこと────しかない、という残酷な現実を受け入れつつあった。

    地元民だったからこそわかる。
    駅前には、飛び込みで泊まれるような宿泊施設も、ネットカフェも、ファミレスもないのだ。

    居酒屋やスナックはひょっとしたら開いているのかもしれないが、今の心情的にはアルコールも騒がしい店内もどっちも遠慮しておきたい所だ。
    そもそも、怖くてそんな店に1人で入る勇気はない。

    「袋要りますかぁー?」
    「っ!…あ、お願ぃしぁぅぅ」

    後半の言葉は口の中で溶けるように消えていく。
    店員は特に気にすることもなく袋に商品を詰めていくが、ましらの気がまた一段と重くなる。

    叱責されることが多い激務の中で、委縮してすっかり対人能力が落ちてしまったように思う。
    自分は、どうしてこうなってしまったのか。

    「はああああああぁぁぁあ・・・・」

    コンビニから出て、一つ大きなため息。

    「もう少し歩くかな・・・」

    駅前に戻るにしても、ベンチで眠るわけにはいかない。
    いくら治安がいいとは言えど、深夜、駅前のベンチで女性が1人寝こけるわけにはいかないだろう。
    スマホの充電も心もとない以上、できることと言ったら眠気覚ましに歩くことくらいだ。
    無警戒に眠るのは論外だが、大通りを歩くくらいなら夜中でも危険はないだろう。

    足を踏み出しながら、頭の中で昔なつかしい大月駅の周辺地図を思い出す。

    「あ、そういえば…」

    少し歩いたところにカラオケBOXがあったのを思い出す。
    あそこならば、騒がしくはあるだろうが少なくとも個室で落ち着ける。

    とはいえ歩いてきた方向とは逆方向のため、ここから歩いて向かうには少し距離がある。
    正直、おっくうではある。

    スマホに目をやると、午前01:40。
    5時に始発が動くまで、あと3時間少し。

    「・・・まぁいっか」

    少し体を休めたところで何が変わるというのか。
    ちょっと散歩したら、もうこのまま駅前で過ごそう。

    ここに至り、ましらの心境はやけっぱちというか、妙に前向きになっていた。
    変な気分である。
    完徹した場合に会議や仕事にどんな影響が出るのか、いつもだったら怖くて仕方がないだろうに、なぜか「どうにでもなれ」という気持ちだ。
    現実逃避に近いのかもしれない。

    だが、あるいは。
    この先に待ち受ける出逢いに、彼女の本能が沸き立っていたのかもしれない。

    ザワザワするようなウキウキするようなソワソワするような、自分でもよくわからない変な感覚だ。

    (徹夜が確定して、気が昂ってるのかな・・・)

    コンビニを出て、ちびちびとコーヒーを啜りながら、駅から遠ざかる方向に歩きだす。

    記憶よりも少し老朽化の進んだ市役所を横目に、さらにしばらく進むと、大きな川が見えてきた。

    桂川だ。

    大きな橋がかかっているが、橋は渡らずに左折する。

    そのまま川沿いに歩くこと5分。
    国道20号───甲州街道と交わる交差点に出る。
    ここは、山の切れ目から富士山を眺めることのできる、市内でも数少ない絶景ポイントだ。

    何かに導かれるように、自然とそこにたどり着くましら。

    そして、そこに、彼女はいた。

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    三. 02:02 甲州街道


    「!!!!!!!!!!!!!!!!」

    交差点を渡り、川でも眺めようかと舗装された道を少し外れ。
    砂利を数歩踏みしめて。
    そこにいる『彼女』を認識した瞬間、雷に撃たれたかのようにましらは立ち竦んでいた。

    ましらが彼女をはじめて見た時の衝撃。
    それを言葉で言い表すとしたら、一目惚れになるのかもしれない。

    一目惚れ─────?

    だが、その簡単な言葉では片づけられないこの気持ちはなんだ。
    郷愁、思慕、憐憫、そして後悔。それら全てが入り混じったこの複雑な感情は、一体。

    彼女も、こちらを見ている。

    視界には、夜空に浮かぶ大きな満月。
    その月あかりに照らされる、天をつくようにそびえる大きな富士山。

    その雄大な光景を背景にガードレールに腰をかけ、悠然と、あるいは艶然とこちらを眺めている。

    月に照らされ、キラキラと輝く桃色の髪の毛。
    年の頃は20才前後だろうか?同年代に見える。
    だが、浮かべた表情は童女にも、妖艶さを漂わせる美女にも見える。

    この世のものとは思えない美しさだった。

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    言葉を紡ごうとするが、形にならない。

    ただパクパクと口を開閉するのみだ。

    何か言わねば、でも何を言えば───

    焦るましらを前に、遂には彼女のその形の良い唇が薄く開かれて。

    そこから紡ぎだされた言葉は。

    「あっ!猿ゥーっ!!!!」\huge\bold{「あっ!猿ゥーっ!!!!」}

    耳を疑った。

    目の前の麗人が発した言葉だとはとうてい思えず、思わず後ろを振り返るも誰もいない。

    道路に車の1台すらもなく、響き渡るのは虫の声のみ。
    周囲に、ましらと彼女の2人以外は間違いなく誰もいない。

    「・・・」

    発言の意図が分からず、思わず彼女を凝視してしまう。

    一目惚れ?冗談じゃない。
    そんな浮ついた、涙があふれる程に焦がれるような感情は、あっという間に霧散していた。

    先ほどまでは謎の空気にあてられて気付きもしなかったが・・・。
    ────冷静になって見れば見るほど、違和感しかない恰好だ。

    現実にはありえない鮮やかな桃色の髪は、グラデーションがかかっていて毛先に行くにつれ色素が薄くなっている。
    足元には白足袋をベースにした編み上げブーツ。
    羽織っている陣羽織のような上着も相まって、どこか戦闘服のような作りを感じさせる。
    極めつけは、腰に小太刀を佩<は>いていた。

    総じて、和風ファンタジーのゲームキャラにしか見えない。
    何かのソシャゲのキャラだろうか。

    (なんでこんな夜中に、こんな所にコスプレイヤーが・・・?)
     
    当然の疑問である。

    いきなりの猿発言と、彼女の容姿のあまりにもな突拍子もなさにフリーズするましら。

    ましらにとって、「猿」という言葉は呪いの言葉だ。
    この大月の地で「猿」と投げかけられるなど、悪夢でしかない。

    続く言葉は嘲笑か罵倒か。
    過去のトラウマから身を固くするましらに向け、彼女は。

    「・・・・・・・・」

    ただ無言で、ニコニコと見つめるのみだった。

    悪意は感じられない。
    それどころか、好意的なものを感じる。

    (な、何?この人・・・)

    そのまましばし見つめあうこと数十秒。

    やがて、彼女は何か得心がいったかのように「あ!」と声を上げると、ポン!と手のひらに片手を打ち付けた。
    次に大仰に腕を組むと、うんうんと大きくうなずく。

    やけにオーバーリアクションで、麗しい容姿に似つかわしくない子供っぽいコミカルなしぐさだ。

    依然フリーズしたままのましらは、何を言い出すのかと見守るほかない。

    やがて彼女は、ガードレールからぴょん!と飛びおりると横に3歩ほど位置をずらす。

    そして、ババーン!と両手を「K」の文字を作るかのように富士山に向けて広げ、「こちら富士山でございます!どうです?すごいでしょ!」と言わんばかりに、ドヤ顔でムフー!と鼻息を吐く。

    「いや、別に富士山見たいわけじゃないし・・・。見慣れてるし」

    「・・・・?」

    思わず小声で突っ込むと、彼女は怪訝そうに眉根を寄せた。

    それから、こちらの反応を確かめるように、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。

    ましらから見たら、何の前振りもなく無言でパントマイムをはじめたかのような奇矯さだ。

    「なんだこの変人・・・」

    若干引きながら、咎めることも立ち去ることもできず、ただその姿を目で追いかける。
    何を求められているかわからず、気まずさから逃れるように缶コーヒーを一口啜る。
    と。

    「むにーーーーーん」

    彼女が、唐突に手で顔を上下に引き伸ばして変顔を作ってきた。

    「ぶっふぉッ!!!???!」

    思わずコーヒーを吹き出すましら。

    不意打ちにもほどがある。

    ゲホゴホとむせているましらに対して、彼女が見せた反応は劇的だった。
    身を引く間もないほどの瞬間移動とでもいうべき速度でギュン!とましらに詰め寄ると。

    「やっぱり!!!!!」

    「・・・・え?」

    「あなた、私が見えるのね!!!!」

    アニメとかマンガでよく聞くようなセリフを言ってくる。

    うわぁ、と顔が引き攣るのを抑えられないましら。

    (・・・幽霊とか、霊体とか、そういう設定のキャラなのかな)

    「わたし!わたしだよ!わかる?!わたしはすぐにわかったよ!」

    (・・・役に入りきってるのかな。演技の練習か何か・・・?こんな夜中に?)

    「やっっっっっっっっと話せる子に会えた!もう5年?10年?100年?わかんないけどずっと1人だったんだあ」

    (・・・いやでも普通、初対面の人になりきりで話しかけるとかしないでしょ)

    「最初はねぇ、富士山を見にきた子なのかなって思ったんだ。今の子って写真とか撮るでしょ?だから邪魔しちゃ悪いなって思ってどいたの!わたし写真に写らないけど!」

    (・・・絶対変な人だ・・・。厄介なのに絡まれちゃったなあ・・・)

    「なんで?なんで見えるの?!やっぱ猿だから??じゃあ他のお供の子も探せばお話できるのかなあ!どう思う!?」

    詰め寄ってガンガンに話しかけてくる彼女から目を逸らし、言葉を聞き流しながら色々と頭の中で考える。

    ─────考えた結果、ましらの取った行動は。

    「すみません、間違えました・・・」

    180度転身。全力の無視からの撤退だった。

    (追っかけてきませんように追っかけてきませんように)

    目を伏せたまま歩き出したましらに。

    「どこ行くの?わたしも一緒に行くー」

    背を向けたはずの彼女の声が目の前から聞こえてきて、驚いて顔を上げる。
    衣擦れの音も、風が動く感じもなかったのに、なんで──────?

    顔を上げると、そこにはどアップの彼女。
    距離感の近さが尋常ではない。

    「うわあ?!!!!」

    驚いたましらは、思わず反射的に彼女と距離をあけようと、腕をあげて彼女を押しのけようとした。

    だが。
    その腕は。

    スルリ、と。

    何の抵抗もなく、彼女の体を通り抜けたのだった。

    「・・・・え・・・・?」

    思わず漏れる驚愕の問いかけ。

    「な、なに・・・・?なんで・・・?」

    スカスカと。
    手を上下させてみるも、彼女の体にもぐりこんだ手は何の感触も返さない。

    その問いかけを受けた彼女は、やっと会話が成立したのが嬉しいのか、満面の笑みで。

    「だってわたし、桃太郎だもん!」

    そう言い放ったのだった。

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    四. 02:36 甲州街道


    「・・・つまり、あなたは現代に転生した桃太郎である、と?」

    最初の驚きからしばらく経ってようやく少し落ち着いてきたましらは、彼女が人の理の外にいる存在だということをようやく受け入れた。

    それでも最初はホログラムやAR────拡張現実技術────を疑って色々と試したが、最終的に、認めた。
    あそこまでハッキリと自らで体感したのだ。受け入れる他ない。

    そして、お互いガードレールに腰をかけてじっくりと話を聞くことにした。
    どのみち、始発までまだ時間はたっぷりとあるのだ。

    ──────本物の桃太郎。
    興奮してまくし立てる彼女から聞き出した事情を要約すると、そういうことらしい。

    「違うよー。転生じゃないよ、わたしはわたしだもん」

    「?・・・ああ、転生モノではなく、封印からよみがえった系ってことか」

    (宇宙海賊が岩のほこらに~とか、大妖怪が槍に刺されて地下で封印~とか、そういう展開ね)

    つまり、かつて、日本には本当に桃太郎がいて、それが現代においてもなお霊体?幽体?具体的にはわからないが、まぁ、そんな感じの存在となって今もいる、と。
    そういうことなのだろうと、納得する。

    一旦受け入れると、ましらの思考は驚くほど柔軟に事態に順応していた。
    もともとアニメ好きで、こういった展開も幾度となく妄想してきたのだ。
    徹夜テンションも相まってか、抵抗なく受け入れることができている。
    異世界転生とはいかなかったが、それでも十分に憧れてきたフィクションの世界の出来事だ。

    (まさか自分の身にこんなことが起こるなんて!)

    と、この遭遇に心が躍っていた。

    そして、驚くほどすらすらと、長年の友人のように対等に彼女と話すことができている。

    彼女の態度が喜びと親愛に満ちていることも無関係ではないだろう。
    対人関係に自信のないましらでも、ここまで邪気のない無垢な感じで接してこられたら、緊張を感じない。

    ──────そう。彼女は無垢なのだ。

    最初は奇矯に感じた彼女の恰好もふるまいも、人外であるというのであれば話は別だ。
    厄介なコスプレイヤーなどではなく紛れもなく本物であり、自身が見られていないと思っていたがゆえのお茶目な言動だった、ということだ。

    率直に言って、彼女は善良な存在のようだった。
    警戒心や恐怖は霧散し、最初の遭遇時に感じた安らぎや親愛の情が戻ってきたように感じる。

    「──────封印?封印なのかなぁ。そこらへんはあんまわたしも分かんないけど」

    ましらの言葉を受けて、彼女がウーンと頭を大きく傾げる。

    「10年くらい前に目が覚めたって言ってたよね?」

    「そうだけど、あんま詳しく覚えてないなぁ。なんか、ずっと夢を見てたみたいな感じ。で、気付いたら川のほとりに浮かんでたの」

    「ふーん・・・」

    それ以上の追及を避ける。
    彼女が知らないことを、ましらにわかるわけもない。

    それにしても。

    (・・・現代によみがえった桃太郎(女体化)って・・・それなんてエロゲ?)

    織田信長、関羽雲長、アーサー王、山本五十六────。
    様々な作品の映像が頭に浮かび、思わず心の中で突っ込む。
    偉人を女体化した作品は枚挙に暇がない。

    ──と。

    「桃太郎が実は女性でした~なんて、それなんてエロゲ?って感じだよね!」

    「・・・・?」

    何か、彼女に似つかわしくない言葉が発せられた気がするが。
    いや、聞き間違いだろう。
    ましらならともかく、彼女がそんなことを言うはずもない。

    多分、「それなんて絵本け?」だ。童話の登場人物なんだし、自身のことを絵本に例えるのは自然だし、ちょっと語尾がなまってしまっただけだ。

    「うんうん、そうだよ。そうに違いない」

    「??」

    「そ!そういえばさぁ!」

    変わらず無垢な彼女の視線に耐えられなくなり、慌てて話題を変える。

    「あなたはなんで女性なの?っていうか、昔から女性だったんだよね?昔話として伝わっている桃太郎ってみんな男性なんだけど・・・」

    確かにそれは実際気になるところではあった。

    桃太郎。
    恐らく、日本で最も有名な昔話。

    だが、そこに映る姿はほぼ確実に男子の姿をしている。

    「あと、桃太郎っていえば岡山県だけど、なんで大月にも伝承が残ってるの?」

    そう。
    桃太郎の伝承は日本各地に伝わっている。
    それも不思議な点だった。

    だが、意に反して彼女の返答はあっさりとしたものだった。

    「ああ、それ、わたしじゃない桃太郎の話でしょ」

    「・・・というと?」

    「だからね、桃太郎ってわたし以外にもいっぱいいるの。岡山の人が誰かまでは知らないけど、たぶん、有名になるくらい活躍した人が男の人だったんだと思う」

    「えーと・・・」

    しばし目を閉じて考える。

    なるほど、桃太郎がたった1人、唯一の存在とは誰も言っていない。
    かつて、鬼と戦うような職業───戦士?のような存在がたくさんいて、日本各地で戦っていた、ということだろうか。
    だから各地に伝承があるし、その中でも目立った活躍をした人の姿が後世に伝わっていると。
    納得のいく説明ではある。

    「つまり、サンタはたった1人じゃなくて、いっぱいいるんですよ、みたいな話か」

    「うーん、どっちかっていうと『鬼殺隊』の隊士って感じじゃない?桃の呼吸!壱の型!!みたいな」

    「現代文化にお詳しいですねえ?!!!!」

    誰にでも伝わるように言葉を選んだつもりが、意外過ぎる返しに思わず全力で突っ込む。

    「うん、わたし、アニメとかゲームとか大好き!いっぱい勉強したよ!!」

    「・・・ははは、さいですか・・・。」

    浮世離れしていて幻想的に見えていた彼女の存在が、一気に俗っぽくなった。

    接すれば接するほど、よくわからない不思議な存在だ。


    と。

    「────────!!」

    ビュウ、と突風が吹き、思わず髪を抑える。

    彼女を見ると、強風に吹かれても彼女の髪は一切なびいてはいなかった。

    髪自体が重力や物理の影響を受けていないのか、毛先がわずかに浮いていて、ゆらゆらと自然に揺らめいている。

    (わかってたつもりだけど、本当に人間じゃないんだな)

    くくったままの髪が、引っ張られるように痛い。

    普段、外でほどくことはないのだが────────。

    髪留めゴムをほどくと、肩口くらいの長さの髪がバサリと広がる。

    それを見ていた彼女が、なつかしそうに目を細める。

    「うん、やっぱりそっちの方が似合ってるよ」

    「・・・・・・・・・・・」

    まただ。

    彼女の口ぶりは、明らかに初対面の相手に対してのものではない。

    彼女は、『私』を知っている。

    ここまで、あえて一番気になることについての話題は避けてきた。

    でも、彼女が桃太郎であるならば。
    彼女を見た時に怒涛のように押し寄せたあの感情に理由があるならば。

    答えは、すでにましらの中にあった。

    「────────ねえ。私って・・・『猿』なの?」

    意を決して、彼女の目を正面にとらえ。
    ましらは、遂にその質問をぶつける。

    彼女は、満面の笑みで。
    ましらの逡巡など意にも介さず。

    「うん!!!!」

    と。力強くうなずいたのであった。

    ────────────────────────────────────────────────

    五. 11:41 小学校


    思い起こせば、はじまりは小学2年生の国語の時間だ。

    自分の名前の『門』という漢字をはじめて習い、それを上手に書けた時、ましらの胸は誇らしい気持ちでいっぱいだった。
    なのに。

    「門木って、”かどき”じゃなくて”もんき”じゃん」
    「・・・・!!」

    隣りの席の男子の他愛もない一言は、あっというまにクラス中に伝播し───

    「本当だ!もんきだ」
    「もんきー!もんきー!ウッキッキー!!」

    その年ごろの子供は残酷だ。
    さしたる悪気もなくクラス中があっという間にモンキーコールに包まれる。
    突然クラス中の嘲笑の的となったましらは、訳も分からずに羞恥に震え、ただただ縮こまることしかできなかった。
    以降、ましらのあだ名は「モンキー」で完全に定着してしまった。

    授業で「猿」という単語が出るたびに、意地悪な男子がニヤニヤとこちらを振り返る。
    無邪気で明るかったましらが、人に顔を見られることを恐れる内向的な性格になっていったのは、間違いなくこの時から。

    第1のトラウマだ。

    だから、小学校卒業と同時に親の転勤で引っ越しが決まった時は、内心小躍りしたものだ。
    これで、モンキーいじりから離れられる────────と。
    なのに。

    山梨県大月市猿橋町────────
    何の因果か、引っ越した先は猿の町だった。

    父に、「猿の橋なんて変な名前のとこ嫌だよ!もっと別のところがいい!!」と子供っぽい我がままをぶつけたこともある。

    だが、あまり細かいことを気にしない大らかな父は、娘の悩みなど知らない顔で。

    「猿橋はな、日本三奇橋の1つなんだぞー。そんな橋が近くにあるなんて、楽しいじゃないか。ましらもきっとそのうち好きになるぞー」

    と、あっけらかんと笑った。

    そんな父の言葉にげんなりとしたのをよく覚えている。

    父は三奇橋という肩書を前向きにとらえていたようだが、ましらは違った。

    (・・・なんか、ショボい)

    偽らざる、子供の本音だった。

    『大きい』とか『美しい』ならばわかる。
    日本三大橋とか三美橋と称えられるのであれば、地元民にとってはさぞかし誇らしい象徴となるだろう。

    だが。

    (奇妙な橋って、何それ・・・)

    ましらが郷土愛を感じることなど、望むべくもないのであった。

    こうして始まった、新しい土地での中学生活。
    しばらくは、何事もない平穏な生活が続いた。
    だが、中2のある日。初めて好きになった文芸部の男子が、ふと、何の気なしに言った。

    「ましらって───猿のことだよね?」と。

    彼にからかう意図はなかった。読んでいた本の中に、たまたまそういう表現があっただけなのだろう。
    だが、仄かに恋心を抱いていた相手と、執拗にからかってきた男子の顔がダブってしまい、ましらは大きな衝撃を受けた。

    それ以来、何となく彼と話す機会は減り──────恋心は、いつのまにか消えていた。

    響きが可愛くて、密かに気に入っていた自分の名前。
    『ましら』が猿を表す言葉だなんて、その時まで全く知らなかった。

    母に、「なんでましらなの?!猿じゃん!おかしいよ!」と、ぶつけたこともある。

    だが、あまり細かいことを気にしない大らかな母は、娘の怒りなどどこ吹く風で。

    「本当は『ましろ』ってつけるつもりだったのよー。でもお母さん字が汚くて、役所の人が読み間違えちゃったみたい。ましらでいいですか?って聞かれて、「ろ」よりも「ら」の方が女の子っぽくて可愛いかも!って思って、そのまま『ましら』にしたのー」

    と、あっけらかんと笑った。

    衝撃的な理由だった。

    確かに。
    確かにましらもずっと響きが可愛いと思ってきたのは事実ではあるが。

    (・・・でも!猿じゃん!!女の子につける名前じゃないよ!!!)

    第2のトラウマである。

    中学卒業後、ましらは山梨と東京の県境にある私立高校に入学する。
    『猿橋』から少しでも離れたかったからだ。

    都内から通う生徒も多い、自由な校風の私立校。
    ここならば、と、ましらの胸は期待に溢れていた。

    なのに。

    入学初日の自己紹介。
    名前と出身校を言う流れになり、渋々と「山梨の猿橋から来ました」という挨拶をするましらに投げかけられたのは──────。
    「山猿じゃんwww」

    という、心無い言葉だった。

    彼らは、都内から通っていた。
    都会住みの彼らにとって、山梨という田舎の『猿の地』から出てきたましらという存在を「山猿」と呼ぶことは─────。
    残酷なことに、ただ当たり前の事実に過ぎない。

    彼らに悪意があったのかと言うと、恐らくは無い。
    だが、悪意の有無など、言われた側にとっては何の慰めにもならない。
    理由が何であれ、いきなり殴られたら誰だって痛いのだ。

    あっという間に心をへし折られたましらは、何の部活にも所属することなく、交友関係を広げることもなく、やがて休みがちになり。

    ギリギリで卒業はできたものの、結果として『猿』に対しての第3のトラウマを抱えることとなった。

    当時のましらの望みは、ただ一つ。

    少しでも早くこの『猿橋』から。
    いや、『山梨』という忌まわしい猿の木から逃げることだった。

    (─────誰も知らない所で、猿とは無縁なところで、やり直すんだ)

    高校卒業後に都内の短大に進学し、都内で1人暮らしを始めた。

    短大卒業後は、そのまま都内で就職した。

    木から逃げ出した猿は、二度と戻ることはなかったのである。
    今日、この日までは─────。

    ────────────────────────────────────────────────

    六. 02:55 甲州街道


    今まで、常に何かにおびえていた。
    学校でも、職場でも、営業先でも、コンビニ店員が相手であっても、だ。

    猿。
    それは、21年間ましらを縛り続けてきた呪いの言葉だ。

    なにをそんな大げさな、と笑う人がいるだろう。
    そんなに気にしなくても大丈夫だよ、と慰める人もいるだろう。

    でも、変えられなかった。
    変われなかった。

    逃げるしか、対処のすべを知らなかった。

    ─────だけど。
    彼女を見ていると、自分が一体なにに怯えていたのかわからなくなる。

    (私が・・・・猿?桃太郎のお供の─────『猿』)

    胸中でつぶやいてみるが、不思議と嫌な気持ちではない。
    「そうだったの?!」と驚く自分と「でしょうね」と納得する自分と「そんなバカな!」と否定する自分と。
    全部自分の本当の気持ちであり。
    その中に─────変化を望む、期待する気持ちもあった。

    (・・・でも・・・でも、なんだろ、これ)

    自分の内面を探っていると、その中にもう一つ。
    何かわからない気持ちがある気がする。

    「・・・?・・!・・・!?」

    「ましら?」

    胸の奥が熱い。
    一旦意識すると、その気持ちがどんどん膨れ上がるのを感じる。

    みぞおちのあたりが、音を立てている気がする。
    泣きたいような、叫びたいような、走り出したいような。
    名前のつけられない熱が、せり上がってくる。
    こんな感覚、知らない。
    いつも胸にあったのは、冷たく重たい石みたいな塊だった。
    怯えて、縮こまって、飲み込んできた、あの石。
    それが今、内側から溶かされていく。

    一体、これは─────。

    『もんきーもんきー!』
    『ましらって、猿だよね』
    『山猿じゃんwwww』

    過去の記憶がフラッシュバックする。

    「・・・・・・んなよ」

    よく考えてみたら。
    よくよく、考えてみたら。

    (わたし、何も悪いことしてないじゃん!!)

    名前も、住む場所も、選んだ学校も。
    誰に責められる謂れもない。バカにされる筋合いもない。
    悪意があったかどうかなんて、関係ない。
    殴られたら、誰だって痛いのだ。

    なのにわたしは。
    殴られた事を恥じて、殴られた自分を恥じて、逃げた事を恥じて、ずっと、ずっと。

    (────そっか)

    せり上がってきた熱が、喉のあたりで、かたちになる。

    (・・・怒って、いいんだ)

    21年かけて蓄積されてきた、理不尽への感情。

    「・・・・・けんなよ」

    それが、ついに噴火した。

    「ふざけんなああああああああっ!!!」

    夜の山に、怒声がこだまする。

    大声を出し慣れていないその声は、声量がまるで足りず、迫力に欠けていた。
    辺りに民家はなく、車もない。
    これなら苦情が来ることはないだろう。

    「ゲホッ!ゴホァッ!!」

    大声に体がびっくりしたのか、派手にせき込むましら。

    何も、解決してはいない。
    明日になれば、また怯えてしまうかもしれない。

    ────それでも。
    21年間、一度も口にできなかった言葉を、今日、はじめて叫べた。
    それだけでも、何かが変わったような気がした。 

    ───────と、それを見た彼女が鈴が鳴るような声でクスクスと笑う。

    「また怒ってる。やっぱり猿は、そうやって怒ってる方が『らしい』ね」

    以前のましらなら、いきなり相手が笑いだしたら勝手にマイナスの感情だと結び付け、委縮してうつむいてしまっただろう。
    だが、今のましらは、何の気負いもなくその笑いを受け止めることができる。

    フウッ、と大きく息を吐き。

    「────────そっか」

    あらためて彼女に向き直ると、

    「そっかあああ。私が『猿』かああああ」

    突拍子もない話ではある。

    ほんの数時間前までは、いつもと変わらない日常だった。
    それが、いつの間にやらいつも空想していた『なろう小説』の世界観の只中にいる。

    ましてや、猿と因縁深い自分がまさか『猿』だとは。

    「うん、そうだよ!最初に言った通りね。一目でわかったもん!」

    「『猿』が、私の前世?それとも転生?あ、普通に考えたら子孫ってことなのかな」

    それは普通のOLだったましらが受け入れるには、あまりにファンタジーな出来事であり、疑って当然の話だった。
    なのに、不思議なほど、疑う気持ちは湧いてこない。

    この胸の昂りや、沸き立つ怒り。悦びや親愛や憐憫といったごちゃまぜの感情の全てが。
    そして、ましらの魂自身が。
    かつて、彼女と共にいたということは紛れもない事実だと────────そう、教えてくれるのだ。

    「ごめんね、詳しいことはわからないや。でも別人だとは思わなかったから、多分、転生なんじゃないかなー」

    「そっかそっか。転生か」

    「・・・なんにも覚えてないの?」

    「うん、残念ながら・・・。昔の私って、怒りっぽかったの?」

    「うん!いっつもプンプンしてたよ!で、いっつも最初にガーッって突っ込んでいくの!」

    「そっかぁ、私にもそんな一面があるのかな。だったら・・・ちょっとスッキリするかも」

    「うんうん。やなことがあったら、ガーッてぶん殴っちゃえばいいんだよ!!」

    そう言ってシュタタタッとステップを踏みながらシャドーボクシングをはじめる彼女に、思わず笑いがこみ上げる。

    単純明快。
    彼女の発言は気持ちがよかった。

    笑ったからか、派手にむせたからか。
    ツーッと。
    目の端から、1滴の涙が頬を伝った。

    こぼれた涙をぬぐうと、ましらは彼女に手を差し伸べた。

    「『久しぶり』だね、桃太郎。────────私の名前は、ましら。またよろしくね」

    「うん!こちらこそよろしくね、ましら!」

    差し出された手を、彼女も両手でガッシと────握ろうとして。
    スカッ、と。
    その手は、やっぱりましらの手をすり抜けた。

    「・・・・・・」

    「・・・・・・えへへ」

    一拍おいて、どちらからともなく吹き出す。
    ひとしきり笑い合ったあと、彼女は、すり抜けたままの手を器用にましらの手に重ねると、上下にブンブンと振るジェスチャーをしてみせた。
    実体のない、けれど温かい握手だった。

    「わたしのことは、桃でいいよ!」

    桃の無邪気な笑顔に、ましらからも満面の笑みがこぼれた────────。

    ────────────────────────────────────────────────

    七. 04:37 甲州街道


    それから、2人は色んなことを語り合った。
    好きなアニメのこと。好きな景色のこと。そして、桃太郎のこと。
    桃の話を要約すると、こうだ。 

    目が覚めたのは10年ほど前。
    気付けば川のほとりに浮かんでいて、それからずっと、誰にも見えないまま過ごしてきた。

    ただ、その頃は目覚めたばかりで曖昧な状態だったらしく、はっきりとした意識はなかったらしい。
    『自分』をしっかりと認識できるようになったのは、ここ数年のこと、とのことだった。

    (なるほど、私が猿橋に住んでたころにお互い気付かなかったのは、それか)

    最初のうちは、人に気付いてもらおうと、大声出したり、目立とうと身振り手振りを大げさに交えて話しかけ続けたらしい。
    が、誰も気付いてくれない。

    (・・・なんかやけにオーバーリアクションなのは、その時の名残りか)

    やがて諦めて、駅前で人の流れをぼんやり眺めたり、川辺で水のせせらぎに耳を傾けたり、この交差点から富士山と月を眺めたりして日々を過ごすようになった。

    その内、気になる人にフラフラとついていっては、その人の家での生活を眺めることにハマッたとのこと。

    (こっっっわ!!プライバシーとかあったもんじゃないな・・・)

    思わず身震いする。

    そんなある日。
    ふらりと入った家で、「お兄さん」────桃はショウ君と呼んでいた────が観ていた画面に、桃は衝撃を受けた。

    自分と同じような衣装をまとった、なにやらサイズ感の小さな子が、四角い箱の中でしゃべったり笑ったりしている。それを見ているお兄さんも喜色満面だったのが印象的だったという。

    (・・・ああ、VTuberか)

    VTuber。学生時代のましらにも『推し』が何人もいたからよくわかる。

    自分と同じような存在がいる!と興奮した桃は、それからショウ君の家に入り浸り、一緒に配信を見るようになり────すぐにVTuberという存在を理解したが、そのころには多量のオタクコンテンツに触れ続けた結果として、すっかりサブカル好きになってしまったらしい。

    ちなみに今の推しは、大手VTuberのスカイ艦長と、麗狐委員長。
    そして大月出身VTuberの『宝刀桃ジュースちゃん』だそうだ。
    浮世離れした見た目からは想像もつかない俗っぽさである。

    それにしても。

    (・・・大月で活動しているVTuberなんているんだなぁ)

    全然、知らなかった。

    「ねえ、ましらは?」

    ふいに、桃がこちらを覗き込んだ。

    「ましらは、何になりたい子なの?」

    ────何に、なりたい。
    ぼんやりと、心の中で反芻する。

    「────何なんだろう、私って」

    今日も、ずっと考えていたことだ。
    自分は何のために、何になりたくて生きているんだろう。
    そして、ぽつり、ぽつりと、ましらは自分のことを話し始めた。

    今の仕事は、なりたくて選んだものじゃないこと。
    逃げて、流されて、たどり着いただけの場所だということ。
    井戸の底に落ちたみたいだ、と思っていること。
    這い上がる気力もなく、もう一度逃げる勇気もなく、ここで生きていくしかないんだと、いつからか思い込んでいたこと。

    誰にも────グラたんは別だが────話したことのない言葉が、するすると口からこぼれていく。
    相手が人間じゃないからだろうか。
    それとも、かつて行動を共にしたという『猿』が、ましらを素直にさせているのだろうか。

    桃は、遮らずに聞いていた。そして、聞き終えると、ぽつりと言った。

    「わたしね、人が好きなんだ」

    「人が笑っているのが好き。人のいない自然も好きだけど、自然の中で、人が楽しそうにしていてくれたら、もっと嬉しい。大月も大好き。自然にあふれていて、ここに住んでいる子も、外から来る『カンコーキャク』も、いろんな子が通り過ぎていって、見ていて飽きない」

    「でもね。みんなの話を聞いてると、この町に不満みたいなのも、いっぱいあるみたいなんだ。どうにかしなきゃ、変わらなきゃって、いろんな子が言ってる」

    だから、と桃は続けた。

    「かなえてあげたいなあって、ずっと思ってた」

    ────自分とは違う。
    ましらは思った。

    自分のことしか考えられず、内にこもって下を向き続け、擦り切れていた人間の隣で。
    誰にも見えない孤独な存在が、孤独を嘆くでもなく、ただただ純粋に、他人の願いを叶えてあげたいと。そう言うのだ。

    それを聞いて、ましらは思った。
    ────『みんなの願いをかなえてあげたい』という彼女の願いを、かなえてあげたい。
    『猿』の本能なのかはわからない。わからないが、純粋な彼女の願いをかなえてあげたい。

    「・・・大月ってね」

    気付けば、口が動いていた。

    「昔はもっと期待されてたんだよ。よく知らないけど、バブルの頃とかいっぱい住宅地ができて。県外からも人がいっぱい移住してきて。リニアの駅ができたら、もっともっと発展するぞってお父さん言ってた」

    そう、大月市には国内唯一のリニアモーターカーの実験線がある。
    そのためリニア開業の際には『富士山駅』が大月にできるのではないか、という期待もあったらしい。
    ────残念ながらリニアは静岡県を通ることとなり、大月市はその恩恵を受けられないことが確定してしまったわけだが。

    「どんどん人口が減ってきてて。過疎化が進んでて────正直、終わった町だと、思ってた」

    言いながら、思い出す。
    コンビニの壁の、桃太郎の壁画。大月出身のVTuber。外国人観光客。桃の話だと、ゲームサミットという大きなイベントも開催されているとか。

    自分が「終わった町」だと見放していた間も、この町は────。

    「ええー!終わってないよ?!」

    「うん・・・わかってる。いや、わかった。生きてるんだよね、大月。ちゃんと頑張ってる」

    知ろうともしなかった。
    勝手に見限って、終わったと決めつけて、逃げただけだった。

    「でも、だとしたら────」

    「ん?」

    「もったいないと思うんだ。富士山も、桃太郎も。
    他の土地にはない魅力なのに、あんまり活かしきれてないように感じる。────私なら」

    私なら。 口をついて出た言葉に、自分で驚く。

    「私なら、せっかく固有のコンテンツがあるんだから、もっとアニメ的に活用する。萌えキャラ化とか、アニメに大月を登場させるとか。まあ安易っちゃ安易だけど、当たればリターンは大きいし。やっぱり若い人に来てもらえないと厳しいと思う」

    「あ、知ってる!アニメの聖地巡礼ってやつでしょ!」

    「そうそう。私、けっこうあちこち行ったことあるよ。『あねティ』とか『その日暮らし』とか『ガルブラ』とか。『愛ライブ』の淡島とかも行ったなー。どこも行くとテンションあがるし、色々と食事とかグッズ買ったりとかするし」

    「えー!いいなぁ。わたし、大月から離れられないから行きたくても行けないよー」

    ────────────。

    それは、初耳だった。

    「大月から、離れられない・・・?」

    「うん。他の土地に行くと、どんどん体が薄くなってくの。あんまり離れるとそのまま消えちゃうんじゃないかな」

    彼女はあっけらかんと言い放つが、かなり重たい言葉だ。

    「───そう、なんだ。あちこち自由に行けないっていうのは・・・その、寂しいね」

    辛いね、と言おうとして言葉を飲み込む。
    彼女の境遇を、安易に『辛い』と断ずることはできなかった。

    「うん、寂しい!だから、大月にもそういうスポットがあればいいのに」

    「そうだねぇ。うーん、でもやっぱ難しいかも。アニメ聖地として成功するのって作品人気とか運要素とか時期とか、色々あるから。大人の事情で『聖地を作ろう』として失敗した例っていっぱいあるから・・・」

    「うーん、そっかあ。───残念」

    彼女の声のトーンがちょっと落ちる。

    「大月が出てくるアニメもあるから、うまくすればと思ったのになあ」

    大月が出てくるアニメ?
    ましらもアニメはかなり見ていた方だが、心当たりがなかった。

    「あったっけ?」

    「あるよー。『山ニ進メ!』とか『KUROBAKO』とかに大月が映るシーンがあるんだ。ちょっとだけだけど」

    「へー・・・」

    どちらも有名な作品でましらも視聴済みだが、全く気付かなかった。

    『山ニ進メ!』は登山アニメなので、大月や富士山が登場するのはわかる。
    しかし『KUROBAKO』は、アニメ制作に関わる人々を描いた群像劇だ。
    大月との繋がりが見えない。

    しばし記憶をたどり────。

    「────ああ!後輩ちゃんが原画受け取りに行って、電車で寝過ごした時か!!」

    思い出した。
    確かに、そんなシーンがあった。
    電車で寝過ごして起きたら大月駅。どこかで聞いた話だ。

    「『KUROBAKO』面白いよね!ああやって、みんなで頑張って何かを作り上げてくのってすっごいワクワクした!」

    「わかる!普段知らないアニメ制作の裏側とかも見れて、まるで自分がホントに制作現場にいるみたいで。見てるだけじゃなくって、私も」

    そこで、言葉が止まる。
    忘れていた当時の気持ちが、甦る。

    大学生の頃。
    就活を始める前、進路が選び放題だった頃。
    何にでもなれる、とキラキラしていたあの頃。

    自分も!と、強く憧れたことを思い出した。

    「見てるだけじゃなくて、私も。────やってみたい。作りたい」

    言葉にした瞬間、ずくん、と胸の奥が疼いた。

    「ねー。やりたいよね!」

    ましらの心境の変化に気付かず呑気な相槌をうつ桃。

    「あとさ、コンカフェ?って言うのにも1回でいいから行ってみたかったんだよね。大月にあればいいのに」

    「・・・コンカフェ」

    また、言葉が止まる。
    その言葉を聞き、またしてもましらの中に閃きが走る。

    「あれ?知らない?えっと、あの『ごちうな』とか『ショタゲ』とかにも出てくるんだけど、可愛い衣装で────」

    こちらが知らないと思ったのか、身振り手振りを交えて説明を試みる桃。

    もちろん、知っている。
    知っているからこそ。

    ────それだ。

    「・・・・・・それだ!!!」

    「ひゃあ!?」

    思わず立ち上がっていた。

    桃が古典的リアクションでずっこける。

    コンカフェ。大月駅。桃太郎。富士山。アニメ聖地。Vtuber。
    色んなものが、ましらの中で1つの線となって結ばれようとしていた。

    「いける!いけるぞ!・・・いけるのか?本当に?いや、そうだよ。可能性はある!ああでもまだ足りないものだらけか」

    桃に構わず、ぶつぶつとつぶやき続けるましら。
    しばらく転げたままだったが、構ってもらえないので「ぶー」と頬を膨らましながら起き上がる桃。

    「もう1手欲しい!やっぱりキャラ萌えは欠かせない。桃だけじゃなくて、もっと何かこう────」

    「わたし以外の・・・キャラ萌え?」

    「そう!萌えが欲しい!やっぱりキャラクターの絡みがあってナンボだよ!」

    「よくわかんないけど、萌えキャラならもういるじゃん」

    「え?・・・えと、大月に公式キャラとかいたっけ?萌えイラストとか見たことないけど・・・」

    「違うよ」

    桃は、にっこりと笑って、こちらを指さした。

    「猿の萌えキャラが、目の前にいるじゃん」

    「────わ、わたし?!私が萌えキャラになれるわけないじゃん!ムリムリ!」

    「無理じゃないよ。ましらは可愛いよ?他のお供の子たちも、みーんな可愛かったよ!」

    「ムリじゃなかった?!」

    自分が。 私が?
    この大月で、萌えキャラに────?

    こんなボサボサ髪で、不健康そうな顔で、体型だって秀でたものがないのに。
    でも、確かにそれは───それができるならば確かに。

    (アリなのか────────?!!)

    混乱するましらの隣で、桃がふと、静かな声になった。

    「あのね、ましら。わたし、なんで目が覚めたんだと思う?」

    「──────?」

    今までと少し雰囲気が変化した桃に、頭を抱えながら目線を送るましら。
    たぶん、と桃は富士山を見上げる。

    「大月のみんなが、桃太郎を思い出してくれたからだと思うんだ。人に『求められたから』わたしはここにいる。────何を求められているのかは、わかんないけど」

    そして、少しだけ寂しそうに笑った。

    「もしましらに会えなかったら、わたし、遠からず消えてたと思う」

    桃は言う。

    何かしなきゃ、という気持ちだけがあって、何をすればいいのかわからないまま、日々を過ごしてきた。そうしているうちに、少しずつ、少しずつ、自分という存在が薄まっていくのがわかった。みんなが桃太郎を忘れたら。この町から、にぎわいが消えたら。いずれ自分は、誰に気付かれることもなく、消えていた────。
    と。

    「でも、ましらに会えた」

    桃の目が、まっすぐにこちらを見る。

    「ましらとならね、わたしがここにいる意味、見つけられる気がする。それにね────ましらと一緒なら、きっと、すっごく楽しいよ!」

    ────ああ。
    ましらは、目を閉じる。

    桃は、大月から離れられない。
    そして、大月から人が減ればやがて消えてしまうという。
    この地と、彼女の命は密接に結びついている。

    重たい話をしている時でも、ニコニコと笑顔を絶やさない彼女。
    フンフンと鼻歌交じりに、ガードレールに腰掛けて宙に浮いた足を前後にブラブラとゆらしている彼女。

    桃が、消える?
    こんなに楽しそうにしているのに。
    人が好きだと無邪気に笑っているのに。
    このまま何もしなければ、この世から存在が消滅するのだという。

    考えたくない。
    消えてほしくない。

    理不尽だ。
    理不尽には、抗わなければ。

    まだ会って数時間なのに、今や彼女の存在はましらの中で大きなものとなっていた。

    彼女のために、何かをしてあげたかった。
    そのために必要なことは、もう頭の中に浮かんでいる。
    そしてそれは、彼女のためであり。
    ────何よりも、自分のためだった。

    あとは、覚悟と、踏み出す勇気だけだった。
    流されて、逃げて、ここまで来た。今夜だって、寝過ごしてたどり着いただけだ。
    ずっと、運ばれるだけの人生だった。

    でもこれからは、自分で選ぶ。
    自分で決める。

    これは過去への復讐でもあり、恩返しでもあり、リスタートでもある。
    だから────今日、ここから始めるのだ。

    顔を上げる。
    彼女の目をまっすぐに見つめる。

    「桃、私、決めたよ」

    「────うん」

    彼女も、まっすぐにましらを見つめてくる。

    「一緒に、やろう」

    山の稜線から、朝日が差した。
    ましらの決意を後押しするかのように、世界が白く染め上げられる。

    「この大月を、人でいっぱいにしよう!」

    「────うん!!!」

    こちらに向かい、満面の笑顔でうなずく桃と、朝焼けに染まりゆく富士山。
    その光景を目に焼き付けながら、ましらは、胸の奥から突き上げる熱に任せて宣言した。

    「そのためのアイディアは────私の中にある!!」

    「勝ったなガハハ!!」

    桃の能天気な笑い声が、晴天の空に響き渡った。



    八. 05:02 大月駅


    準備が必要だ。

    時間も、人も、お金も。考えなければいけないことは山ほどある。
    だが、まず初めにすべきことは決まっていた。

    簡単な説明だけをして桃に別れを告げる。
    引き止められるかな?と思ったが、意外にも彼女はあっさりとましらを送り出した。

    「いつもここにいるから、ましらの準備?が終わったらまた遊びにきてねー」

    「うん、すぐ戻るから」

    「あはは、すぐじゃなくて大丈夫だよー。時間いっぱいあるし。あ、でも10年とか20年経ったら消えちゃってるかも?」

    「・・・すぐ戻るから!!」

    そんな言い方をされたら後ろ髪引かれてしまう。
    振り切るように、いつまでもブンブンと大きく手を振り続ける彼女に背を向けて始発に飛び乗った。

    ガタンゴトン。

    揺れる車内で目を閉じるが、昂った心は眠りに落ちることをよしとしてくれなかった。
    目を閉じたまま、頭を回し続ける。

    一睡もしていないのに、不思議と、頭も心も晴れ渡っていた。

    ────朝6:00。

    近所迷惑にならない程度に安アパートの階段を駆け上がり、自宅に飛び込む。

    「グラたん!急いで資料を作るよ!手伝って!」

    『はい、いつもの会議用の資料ですね』

    「それだけじゃないよ!その後は────」

    ────朝9:00。

    社内を、颯爽と歩く女がいた。

    目の下のクマはそのまま。 だが、ひっつめていた髪はおろされ、背筋はピンと伸び、歩幅は大きく、その表情は活力に満ちている。
    昨日までの門木ましらとは、まるで別人だった。

    「課長!おはようございます!こちら、本日の資料です。それと────」

    呆気にとられる課長の目をしっかりと見詰め、女は言い放つ。

    「門木ましら、一身上の都合により────退職させて頂きます!」



    ────ましらの自室。

    無人の部屋。
    小さな丸テーブルの上に、一冊の資料が置かれていた。

    その表紙のタイトルは。

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    山梨県大月市で、アニメ系コンセプトカフェ「ぶいあにcafe」を開業予定。 現在、年内の開業を目指して準備をしています。 40代での再挑戦。うまくいかない現実も含め、開業までの過程を記録します。

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