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国に情報と命を支配された戦争とともに記録の大切さを知る|田島奈都子 編著「プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争」読書感想

    記憶を語り継ぐ。声を記録する。そうして遺していく行為の大切さについて、これまで長らく考え、必要性を感じてきたけれども、改めて気付かされたのは、泊まれる古本屋山猫堂で先日行われたトークイベント「あたりまえの反戦」に参加したからだ。

    そして今回、「プロパガンダポスターにみる日本の戦争」を読む中で、記録を残していく意義、あるいは記録の持つ重要な価値のようなものを深く感じ、また考えさせられている。

    戦時期がどのような時代であったのか、またその当時に何が行われていたのかを示す公文書や写真類は、現存数が極めて少ない。そしてこれまでは、その理由として空襲を筆頭とする戦禍焼失が声高に叫ばれ、皆がそれを信じてきた。しかし、戦時期の公文書の、”現存しない状況”が全国的に見られ、かつ「ポスター類焼却ノ件」のような通牒がしたとなると、それらは敵国の攻撃によって戦時期に焼失したよりも、終戦後に日本人によって発せられた廃棄命令を受けて、人為的に焼却された可能性の方が高く、数量的にもより多くのものが、後者を要因として失われたと考えられる。

    プロパガンダポスターにみる日本の戦争

    日本国内において、戦時期に関する資料の多くは、なぜ人々が過ちを犯すのに熱を上げ、甚大な被害を出しながら、失敗に失敗を重ね、最悪の結果を招くに至ったかを知るための貴重な存在だ。

    しかしながら、戦時期の日本、とりわけ国内において何がどのように行われていたかに関する情報は、意外と多くない。だからこそ、人々はどこか日本の犯した過ちについて鈍感で、闇雲に平和を司る国であるかのように誤信、盲信しているのでなかろうか。

    たとえば日本人の多くがヒトラー及び彼にまつわる話を否定するけれど、さりとて日本はそのヒトラーとともに戦禍を撒き散らした国であり、言ってしまえば仲間だった。ゆえにヒトラーだけを一方的に非難できる立場かといえば、恐らくそうではない。

    そうしたどこか他人事のように非難する様子が見られるのは、戦後のGHQによる教育が巧みだったのもあろうし、平和惚けしやすい国民性もあろうけれど、やはり多くの人々が罪の意識を得られるだけの情報に接せられないほど、記録も記憶も乏しいためであるように思える。

    その一端を担ったのが、本書で語られるような記録の焼却・廃棄による隠ぺい工作であり、情報統制だったと想像するのは、決して誤りではないだろう。本書「プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争」は、そうした日本の闇ーー病みに触れられる一冊だと感じる。


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    記録がなければ政府の思いのままに戦争が動かされる|田島奈都子 編著「プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争」読書感想

    田島奈都子による「プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争」は、戦時中に日本国内において展開されたプロパガンダ・ポスター135枚を通じて、大量の犠牲者が出続ける中、国民がなぜ戦争続行を容認し続け、原子爆弾が投下されるまで戦争をやめられなかったのか、戦時中、国や政府によって何が行われていたかの一端を知られる一冊である。

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    プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争 in 泊まれる古本屋山猫堂

    (長野県)阿智村に戦時期の日本製プロパガンダ・ポスターが現存している理由は、一九三七~四五年にかけて会地村の村長を務めた原弘平 氏(一八九一~一九五〇)が自ら収集し、自宅で保管していたことによる。
    (中略)
    戦時期のポスターは、収集した当時こそ自分と村の歩みであったものの、終戦後は完全にかつての輝きを失い、”負の遺産”と化したものと思われる。しかし、そうでありながらも彼がその一部を保管し、生き残った三男・好文氏に対して「平和な時が来たら、後世の人にポスターのことを伝えなさい」と述べた背景には、それを戦争で亡くなった人の”形見”として守ることを自らの責務とし、将来の”戒め”や”無言の語り部”とすることを望んだからに他ならない。

    プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争

    本書、並びにポスター展示などが現存できているのは、かつてポスターを収集し、焼却・廃棄を免れるように隠し持ち続けた原弘平 氏の存在があるとされる。翻せば、同氏が居なければ現代を生きる我々が戦時中にポスターを通じて行われたプロパガンダ工作を知られる機会はなかった可能性が高い。

    デジタル化によって様々な言動や資料が無数に複製され、残り続ける現代と異なり、紙が拠り所だった時代において、情報は紙を燃やせば封殺でき、なかったことにできた。かつて存在した事象は、未来において完全になかったことにできたのである。

    我々は誰もが戦争について日本史や世界史の授業を通じて知っているけれども、情報統制や情報の抹消が容易だった当時についてどれだけ正確に知られているかは定かでない。歴史の授業で学んでいた事象が正史ではなく、捏造や誤った情報だったなんてケースは存外少なくないのである。

    まして、本書で語られているように、戦後極秘裏に進められた文書の焼却・廃棄によって、後世を生きる我々がおよそ知られない正史は、存外少なくないのだろう。もしもこうした情報統制・情報工作に抗えるとするならば、それは人から話を聴く、口伝で語り継がれてきた話を知るくらいしかない。

    冒頭で伝えた泊まれる古本屋山猫堂で行われた「あたりまえの反戦」において、人から話を聴いていくことの大切さが語られていたけれど、その手段もまた反戦なのであり、抗戦と言えるのだろう。何せ、文書としての戦争に関する情報は失われているのだから。

    一九四五年八月十五日の終戦の詔を境に、日本の政治体制は大きく転換し、連合国側は戦争責任の所在を明らかにし、関係者にしかるべき責任を取らせようと、その証拠探しに血道を上げた。一方、前日まで為政者の地位にあった者は、自らが糾弾されることを恐れ、その証拠隠滅を図ろうと、公文書やポスターの処分を急がせた。そしてその結果が、今日の関係資料の現存しない現状、ひいては十五年戦争期がどのような時代であったのか、そのときに何が起こったのかをわかりにくくさせている。

    プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争

    記録が残りさえしなければ、罪は罪として白日の下に晒されず、責任の所在は有耶無耶になり、裁かれるべき者たちは裁かれずに済む。国民の多くが政府の犠牲になった戦争の幕引きが、為政者の保身のための証拠隠滅というのは出来過ぎた物語に思えるが、これが現実というのだから言葉を失う。

    ある種、権力とはそういうものだと言えるし、権力を持たない末端の人間は権力者に消費されるだけの存在になる危険性があると言える。もっとも現代で為政者がそれだけの権威を振るえるかは定かでないし、市民が消費されるだけの存在になれるほどに弱いかも定かでない。

    アメリカ・イスラエルによって引き起こされた戦争を見れば、為政者の権力は依然として強く、その意思一つで人民の命を軽々に扱えるように見えるけれど、その形は間違いなくかつての戦時中のそれとは異なり、またかつてほどには強くない。

    何より、極一部の国を除けば、かつてのような情報統制は機能し難く、「プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争」のような宣伝が数多く行われたとして、かつてのように洗脳、煽動を達成できるかは極めて怪しい。SNSの力は絶大にせよ、現代の人民はかつてほど一枚岩になれない。

    一方で、記録が記録として残されなければ、様々な事象が特定の誰かにとって都合の好いものとして扱われ、確かに在った事象がなかったことのように扱われるのは、依然として変わらない。だから記録を残し、後世に遺していくのはとても大切なことだ。

    そうしなければ、人は何度も何度も過ちを繰り返すだろうし、そもそも何が過ちなのかさえ分からなくなりかねない。だから声を上げ、その声を記録し、語り継いでいく。混迷の時代に突き進む現代だからこそ、改めてその大切さを知る必要があるのだと考える。


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