
短編小説『北海道神宮の鈴を鳴らした瞬間、消えた恋人から着信が来た』
第一章『今日だけの、澄香』
一周忌は、あっけなく終わった。
北海道神宮の石畳を踏むたびに、砂利が乾いた音を立てる。六月の札幌は空が高く、新緑がやけに眩しくて、その明るさが少し恨めしかった。
拝殿の前に立つ。鈴緒を握ると、麻の繊維が手のひらに刺さるような感触があった。一度、深く息を吸う。木立の向こうから風が来て、葉擦れの音がさあっと広がった。
澄香、一年経ったよ。
心の中でそう言ってから、鈴を鳴らした。
チリン、と澄んだ音が境内に溶けていく。目を閉じて、二礼二拍手。柏手を打つ瞬間、空気が一枚剥がれるような静けさが来た。
そのとき、ポケットの中で電話が鳴った。
取り出した画面を見て、俺は息を飲んだ。
——美濃澄香
画面には確かに、あいつの名前が光っていた。
電話に出られなかった。指が動かなかった。十秒、二十秒。コール音が続く間、ただ画面を見つめることしかできなかった。
やがてコール音が止んだ。
数秒後、メッセージが届く。
——円山公園のベンチにいるよ、いつもの場所。
字面を何度も追った。いつもの場所、というのはわかる。公園の入口から少し入った、桜の木の下のベンチだ。
澄香が「ここ、なんか落ち着く」と言って、よく俺を引っ張っていった場所。
悪戯か、と思った。誰かに番号を引き継がれたのかとも思った。でも足は勝手に動き出していた。石畳の上を、砂利を踏んで、鳥居をくぐって、境内の外へ。
六月の風が頬を撫でる。木漏れ日が歩道にまだら模様を作っていた。円山公園まで、歩いて五分もかからない。
俺は、ほとんど走っていた。
公園に入ると、草の青い匂いがした。家族連れが遠くで笑っている。木立の間から、いつものベンチが見えた。
そこに、澄香が座っていた。
白いワンピースに、麦わら帽子。去年の夏に一緒に買ったやつだ。
帽子のつばを片手で押さえて、こちらを向いて——笑っていた。
「蓮!」
一年前と、何も変わらない声だった。
第ニ章『再会』
「どうして」
それしか出てこなかった。一年ぶりに見る顔を前に、俺はただ突っ立っていた。
澄香は少し困ったように笑った。
「どうして、って言われても——神様に頼んだとしか言えないんだけど」
「神様に」
「うん。蓮のこと、心配だったから」
心配。その言葉が、うまく飲み込めなかった。目の前にいる澄香は、一年前と何も変わらない。白いワンピースに、麦わら帽子。帽子のつばを片手で押さえる癖も、そのままだった。
「……信じていいのか、これ」
「確かめてみる?」
澄香が右手を差し出した。子供みたいな仕草だった。
手を握る。
冷たかった。初夏の公園の、日向のベンチに座っていたのに、その手は日陰の石みたいにひんやりしていた。でも、確かに手だった。指があって、関節があって、柔らかい感触があった。
「……本物だ」
「でしょ」
澄香はもう一方の手で、俺の手をぎゅっと包んだ。
「戻ってこれたんだよ、今日だけだけど」
今日だけ。その言葉の重さを、俺はすぐには受け止められなかった。受け止めようとしたら、この再会ごと壊れてしまいそうで。
「なんで俺のことが心配だったんだ」
「ちゃんとやれてるかな、って。一人で」澄香は少し眉を下げた。「最近、いい顔してないでしょ」
「……見てたのか」
「たまにね」
それだけで、胸の奥が痛くなった。俺が無気力に過ごしていた一年間を、澄香はどこかから見ていたのかもしれない。そう思ったら、情けなくて、少し恥ずかしかった。
「迷惑かけたな」
「迷惑じゃないよ」即座に返ってきた。
「ただ、もったいないなって。蓮の笑顔、好きだったから。もう一回見たかったんだよね、わたし」
返す言葉が見つからなかった。
「……腹、減ってない?」
澄香が空気を変えるように言った。
「なんで急に」
「お参りしてたんでしょ、何も食べてないと思って。スープカレー行こ。あのお店、まだある?」
「ある。先月も——」
言いかけて、止まった。一人で行ったとは言えなかった。澄香の好きだったメニューを頼んで、半分しか食べられなかったなんて、今日は言わなくていい。
「……ある」とだけ繰り返した。
「よかった。あとね、藻岩山も行きたい。夕日、蓮と見たかったんだ」
夕日まで、か。
それがタイムリミットなのだと、なんとなくわかった。聞かなかった。聞いてしまったら、時間を数えながら過ごすことになる。
澄香の手は冷たかったけれど、握り返す力は確かにあった。
「じゃあ急がないとな」
笑い声が、六月の風に混ざって消えた。俺たちは並んで、公園の出口へ向かって歩いた。
第三章『デート』
市電の停留所で、澄香は路線図を眺めながら「どれ乗ろっか」と呟いた。目的地はもう決まっているのに、こういうところが澄香らしかった。乗ること自体が好きなのだ。
「藻岩山ロープウェイの最寄りまで行けばいいだろ」
「わかってるけど、せっかくだから遠回りしたい」
結局、逆方向の電車に一区間だけ乗って、折り返した。それだけのことで澄香は満足そうに窓の外を見ていた。吊り革につかまる横顔に、夏の始まりの光が当たっていた。
俺はその顔をずっと見ていた。見ていないと、消えてしまいそうで。
スープカレーの店は、すすきのから少し入った路地にある。カウンター席に並んで座ると、澄香はメニューも見ずに「チキンの、辛さ10で」と言った。
「相変わらず辛いの頼むな」
「蓮は?」
「5で」
「ちょっと成長したね」前は3だったじゃん、と澄香は笑った。
スープが運ばれてくると、澄香は両手を合わせて「いただきます」と言ってから、真っ先にスープを一口飲んだ。目を細める。
「おいしい。やっぱりここが一番だ」
その顔を見て、胸の中で何かが緩んだ。一年間、ずっと固く閉じていたものが、少しだけ隙間を開けたような感覚だった。
「澄香」
「ん?」
「生きてたころ、幸せだったか」
我ながら唐突な質問だった。でも、ずっと聞けなかった。幸せだったと信じていたかったし、そうじゃなかったらと思うと怖かった。
澄香はスプーンを置いて、少し考えるそぶりを見せた。
「幸せだったよ」
「本当に?」
「本当に。蓮といるとき、いつも楽しかった」それから、ちょっと首を傾けた。「蓮は?」
「俺も」
「じゃあよかった」
それだけだった。澄香はまたスプーンを手に取って、チキンをほぐし始めた。大事なことを、あっさり片付けてしまう。それがいつも澄香のやり方だった。
藻岩山のロープウェイは、夕方前の便に乗った。ゴンドラの中で澄香は外を向いて、札幌の街が小さくなっていくのを黙って眺めていた。
「きれいだね」
「ああ」
「蓮、ちゃんと見てる?」
「見てる」澄香を
山頂の展望台に出ると、風が強くなった。澄香が帽子を押さえる。オレンジ色の光が、街全体にゆっくりと広がり始めていた。
日が、傾いてきていた。
第四章『透けていく』
夕日が稜線に近づくにつれ、澄香の輪郭が少しずつ変わっていった。
最初は気のせいだと思った。オレンジ色の光の加減で、そう見えるだけだと。でも展望台の手すりに並んで立っていると、澄香の肩越しに街の灯りがうっすら透けて見えた。
「澄香」
「うん」
「……透けてきてる」
澄香は自分の手を持ち上げて、空にかざした。指の向こうに、沈みかけた太陽がぼんやり見えた。
「ほんとだ」
他人事みたいな口ぶりだった。
「怖くないのか」
「怖くないよ」澄香は手を下ろした。「もともと今日だけって、わかってたから」
風が吹いて、澄香の髪が揺れた。その髪も、夕日の中で少し透けて見えた。俺は目を逸らせなかった。
「なあ、聞いていいか」
「どうぞ」
「神様に頼んで戻ってきたって言ったけど、本当の理由はなんだ」
澄香はしばらく黙って、街を見下ろしていた。
「蓮に、笑ってほしかったから」
「……それだけか」
「それだけ」澄香は振り返って、真っすぐ俺を見た。「蓮がずっと笑わないでいるの、見てられなかった。わたしのことで立ち止まったままでいるのが、悲しかった」
「お前のことを忘れろって言いたいのか」
「そうじゃない」澄香は首を振った。「忘れなくていい。ただ、前に進んでほしい。わたしのことを思い出しながら、それでも笑える人になってほしかった」
胸の奥が、じくりと痛んだ。
「簡単に言うな」
「簡単じゃないのはわかってる」澄香の声は静かだった。「でも蓮なら、できると思ってる。ずっと思ってた」
返せなかった。言葉が、喉の手前で全部固まってしまった。
夕日が街に溶けていく。藻岩山の展望台から見える札幌は、オレンジと紫の境目の中にあった。澄香の白いワンピースが、その色を吸って淡く染まっている。
「ねえ、蓮」
「なんだ」
「今日、楽しかった?」
楽しかった。確かに、そうだった。市電の中で笑って、スープカレーを食べて、こうして並んで夕日を見た。一年間、感じていなかったものが今日だけで戻ってきた気がした。
「楽しかった」
素直に言えた。
澄香はそれを聞いて、ほっとしたように微笑んだ。その笑顔が、夕日の中で少し揺らいで見えた。
「よかった」
風がまた吹いた。澄香の輪郭が、もう一段薄くなった。
時間が、確実に減っていた。
第五章『小さな鈴のキーホルダー』
北海道神宮の鳥居の前に戻ってきたのは、空が完全に暗くなる少し前だった。
澄香の提案だった。「最後はここがいい」と言って、藻岩山を下りてから迷わず歩いてきた。石畳の上に街灯の光が落ちて、木立の奥から虫の声がしていた。
鳥居の前で、澄香は立ち止まった。
俺も隣に立った。澄香の輪郭は、もうはっきり透けていた。街灯の光が、体の向こう側まで通り抜けている。それでも澄香は澄香だった。表情も、声も、帽子のつばを直す癖も。
「蓮」
「ああ」
「これ、渡しておきたかったんだ」
澄香がワンピースのポケットから取り出したのは、小さな鈴のキーホルダーだった。細い金属の鎖に、親指の爪ほどの鈴がひとつ。
「……俺が買ったやつだ」
「うん。去年の夏、縁日で買ってくれたやつ」澄香は俺の手に、そっと乗せた。「ずっと持ってたよ。でも、蓮が持っててくれた方がいいと思って」
手のひらの上で、鈴が小さく鳴った。チリン、と。今朝、神宮で聞いた音と同じ音だった。
「澄香」
「ん」
「行くのか」
「うん」澄香は静かに頷いた。「そろそろ」
わかっていた。わかっていたのに、喉の奥がまた固くなった。
「また会えるか」
「どうかな」澄香は笑った。「でも、見てるよ。たまにね」
「見てるなら、笑えよ。俺が情けないことしてたら」
「する。絶対する」
澄香が笑うと、体がもう一段透けた。白いワンピースが、街灯の光の中に溶けていくように薄くなっていく。
「蓮」
「なんだ」
「健斗から連絡来てるでしょ」
健斗は、学生時代からの友人だ。最近、何度かメッセージをくれていた。飲みに行こう、と。俺はずっと既読だけつけて、返していなかった。
「……なんで知ってるんだ」
「見てたから」澄香はあっさり言った。「返事、してあげて。健斗、心配してるよ」
「わかった」
「約束ね」
「ああ、約束する」
澄香の輪郭が、ほとんど見えなくなっていた。麦わら帽子だけが、最後まで夜の空気の中に浮かんでいるように見えた。
「蓮、笑ってね」
「努力する」
「努力じゃなくて」
「……笑う」
「うん」
澄香の声が、風に混ざった。
チリン、と手の中で鈴が鳴った。気づいたときには、鳥居の前に俺一人だった。木立が風に揺れて、葉擦れの音がしていた。
どのくらいそこに立っていたか、わからない。
ポケットから携帯を取り出して、健斗のトーク画面を開いた。
——今週末、飲めるか。
短く打って、送信した。既読がついて、すぐに返信が来た。
——おお、やっと返事きた。行こう行こう。
画面を見て、俺は小さく笑った。
泣いていたのか、笑ったのか、自分でもよくわからなかった。でも確かに、口の端が上がっていた。
手の中の鈴を、もう一度だけ鳴らした。
チリン。
澄香に聞こえているといいと思いながら、俺は鳥居に背を向けて、歩き始めた。
了
登場人物
主人公:萩原 蓮(はぎわら れん) / 27歳
札幌在住の会社員。1年前、恋人の澄香が突然の事故で他界。彼女を失ったショックから心が止まったまま、何となく日々を過ごしている。
ヒロイン:美濃 澄香(みの すみか) / 享年25歳
蓮の恋人。1年前に不慮の事故で亡くなる。明るく、美味しいものを食べることが大好きだった。蓮がもう一度前を向けるよう、神社の鈴の音をきっかけに「最後の1日」を願い出る。
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