
短編小説『“あなたを忘れたくない”――そう願った夜、神様は残酷だった』
【起】命の灯火
廊下が、白すぎた。
壁も、床も、天井も。すべてが漂白されたような白さで、朔久の目には痛かった。消毒液の匂いが鼻の奥に張りついて、離れない。
面会謝絶。
札がドアに下がっていた。たった四文字が、朔久の足を止めた。
ガラスの小窓から、凪沙が見えた。点滴の袋が蛍光灯を反射して、青白く光っている。凪沙の手の甲には管が刺さっていた。あんなに細い手に、と思った。雨上がりの光の中で笑っていた手と、同じ手だとは信じられなかった。
「今夜が峠です」
医師の声が、また頭の中で鳴った。
今夜が。峠。
言葉の意味は分かる。でも意味が、体に届かない。朔久はただ立っていた。廊下の真ん中で、邪魔になることも忘れて。
気づいたとき、走っていた。
病院の出口を抜けると、雨だった。六月の雨は重く、冷たく、すぐにシャツを透かした。どこへ向かっているのか、分からなかった。足が動いていた。足が知っていた。
丘の上。
街を見下ろす、小さな社。
子どもの頃に一度だけ来た記憶がある。誰に連れられたのかも、もう思い出せない。でも今夜、その場所へ行かなければならないと、体が知っていた。
石段を駆け上がった。息が切れた。雨が目に入った。それでも足が止まらなかった。
鳥居をくぐった瞬間、雨が止んだ。
音が、消えた。
街の喧騒も、雨の音も、自分の息遣いさえも。朔久は立ち尽くした。玉砂利が足の裏に食い込んだ。
「来ると思っていた」
声がした。
社の前に、人がいた。いや、人、と呼んでいいのか。白い着物。月のような肌。年齢が読めない。男とも女とも言えない。ただ、そこに在るだけで、空気が変わった。
「お前の願いは、聞こえている」
朔久は口を開けなかった。
開けられなかった。
【承】残酷な等価交換
「凪沙を、助けてください」
声が出た。自分の口から出たのに、知らない声に聞こえた。震えていた。でも言葉だけは、まっすぐだった。
白月は動かなかった。
風もないのに、白い着物の裾がわずかに揺れた。それだけだった。
「助ける、か」
白月が繰り返した。値踏みするように。でも嘲笑うわけでもなく、ただ言葉を確かめるように。
「できる」
たった二文字だった。朔久の心臓が、跳ねた。
「ただし、等価でなければならない」
白月が一歩、近づいた。玉砂利を踏む音がしなかった。足音がない。そのことが、ひどく怖かった。
「彼女の命は重い。それを覆すには、相応のものが要る」
「何でも出します」
朔久は言った。言ってから、自分の軽率さに気づいた。でも後悔はなかった。
白月は朔久を見た。見た、というより、見通した。骨の中まで、記憶の隅まで、全部。朔久は裸にされたような気がした。それでも視線を外さなかった。
「お前の存在を、消す」
静かな声だった。だから余計に、重かった。
「この世界から、お前という人間がいた痕跡を消す。家族の記憶から。友人の記憶から。そして彼女の記憶から。お前は別の人生を与えられ、別の人間として生きる」
朔久は息を呑んだ。
「彼女との記憶だけは、残る。お前の胸の中にだけ。ただしそれは、誰にも届かない。誰にも言えない。お前だけが知っている、この世界に存在しない記憶になる」
玉砂利の冷たさが、足の裏から全身に上がってきた。
凪沙の笑顔が浮かんだ。
初めて会った日。雨上がりの公園。ベンチに座って、濡れた髪を気にしながら笑っていた。光の中の横顔。その輪郭を、朔久は今でも目を閉じると描ける。
あの横顔が、この世界で笑い続けるなら。
「分かりました」
「後悔するか」
「しません」
白月は少しだけ、目を細めた。哀れみなのか、それとも別の何かなのか、朔久には読めなかった。
「お前は正直だ」
白月が手を伸ばした。細い指が、朔久の額に触れた。
冷たかった。
月を直接触ったらこんな感じだろうか、と朔久はぼんやり思った。
世界が、白くなった。
凪沙、と口の中だけで言った。声にはならなかった。なる前に、全部が消えた。
【転】見知らぬ自分、残された記憶
天井が、知らなかった。
目を開けた瞬間、それだけが分かった。染みの形も、照明の位置も、窓から差し込む光の角度も。全部、知らない。
体を起こした。
六畳ほどの部屋だった。本棚。デスク。クローゼット。どれも見覚えがない。なのに散らかり方に、生活の匂いがあった。誰かがここで長く暮らしている。その誰かが、自分らしかった。
財布を見つけた。
免許証が入っていた。
田中涼介。
写真は、自分に似ていた。でも似ているだけだった。目の奥の何かが、違った。
スマホを開いた。知らない名前が並んでいた。「母さん」「サークルの山田」「バイト先の橋本さん」。トーク履歴を開くと、田中涼介としての会話がそこにあった。他愛ない話。昨日の夕飯。来週のシフト。
全部、知らない。
でも。
記憶が、流れ込んできた。
田中家の食卓。醤油の匂い。父親の笑い声。通ったことのない高校の教室。桜が散る校庭。名前も顔も知らない友人との放課後。それらが、まるで本物のように、鮮明に、温かく、朔久の頭を満たした。
違う、と思った。
これは自分じゃない。
でも体は覚えていた。この部屋の電気のスイッチの位置を。冷蔵庫の中に何があるかを。近所のコンビニへの道を。体だけが、田中涼介だった。
鏡を見た。
男がいた。輪郭は確かに自分だった。でも表情が違った。朔久が知っている自分の顔じゃなかった。どこか、薄かった。長く日の当たらない場所に置かれた写真のように、少しずつ色が抜けていく途中みたいな顔だった。
朔久は鏡から目を逸らした。
それから数週間が経った。
田中涼介として生きた。アルバイトに行った。偽の母親に電話した。知らない友人と飯を食った。笑い方が分からなくて、口の端を上げることを覚えた。それで大抵、誰も気づかなかった。
夜だけが、本当だった。
電気を消して、天井を見上げると、凪沙のことを思った。雨上がりの光。濡れた髪。あの笑顔。記憶は色褪せなかった。むしろ夜ごとに、鮮明になっていくようだった。それが救いで、それが一番きつかった。
街で、凪沙を見た。
六月の午後だった。商店街の人混みの中に、見知った後ろ姿があった。心臓が、止まりかけた。
凪沙だった。
元気だった。
友人と笑いながら歩いていた。手に紙袋を持って。日に焼けた腕が、健康だった。あの病院のガラス越しに見た細い手が、今は普通に、当たり前のように、陽光の中にあった。
よかった、と思った。
全身から力が抜けた。膝が笑った。それでも朔久は立っていた。人混みの中で、柱みたいに。
声をかけようとした。
足が、動きかけた。
止まった。
凪沙には、朔久という人間が存在しない。初めから、いなかった。会ったことも、触れたことも、名前を呼んだことも。全部、この世界では起きていない。
声をかけたら、何と名乗る。
田中涼介です、と言うのか。
朔久は口を閉じた。
凪沙が笑っていた。知らない誰かに向けた笑顔で。でもあの笑顔だった。朔久だけが知っている、雨上がりの光の中の、あの笑顔だった。
それだけで、十分だと思った。
思おうとした。
【結】交わることのない軌跡
凪沙は、立ち止まった。
友人の声が聞こえていた。笑い声が続いていた。でも凪沙の足だけが、止まった。
胸に、手を当てた。
痛いわけじゃない。苦しいわけでもない。ただ、何かがそこにある気がした。形のない、名前のない、何か。冬の朝に吐く息みたいに、確かにあるのにすぐ消えてしまうもの。
凪沙は周囲を見渡した。
何を探しているのか、分からなかった。人混みが流れていた。知らない顔が続いていた。
目が、合った。
一秒だった。
男がいた。人混みの中で一人だけ、止まっていた。朔久は動けなかった。凪沙の視線が自分を捉えた瞬間、息の仕方を忘れた。
凪沙が、微笑んだ。
知らない人への、礼儀的な微笑みだった。それだけだった。それだけのはずだった。でも微笑んだあと、凪沙は一瞬だけ、眉をひそめた。なぜ微笑んだのか、自分でも分からないように。
それから友人の声に振り返って、歩き出した。
人混みに、消えた。
朔久はしばらく、そこに立っていた。
胸の中で、何かが静かに凪いだ。波が引いたあとの砂浜みたいに、平らで、冷たくて、何もない。でも確かに、波はあった。波はここまで来た。それだけは、消えない。
歩き出した。
雑踏が朔久を飲み込んだ。田中涼介として、人混みに混ざった。誰も振り返らなかった。誰も気づかなかった。それでいい、と思った。それがいい、と思おうとした。
凪沙は生きている。
六月の光の中で笑っている。
朔久だけが知っている。
この世界のどこにも存在しない記憶の中で、雨上がりの公園のベンチで、凪沙はまだ笑っている。濡れた髪を気にしながら。光の中で。朔久の胸の中だけで、永遠に。
それで十分だと、朔久は思った。
誰にも言えないまま、そう思った。
完
登場人物
主人公:朔久(さく)
青年。凪沙を救う代償に、世界の因果から弾き出され、全く別の男として生き直すことになる。
ヒロイン/大切な人:凪沙(なぎさ)
朔久の愛する人。本来の歴史では命を落とすはずだったが、朔久の犠牲によって健康な体を取り戻す。
神様:白月(しらつき)
古い社に棲む、冷徹で美しい土地の神。世界の理を冷酷に執行する。
読んで頂き有り難うございます。
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