
【短編ホラー】LUNA ーネオンテトラは夢を見ないー②
第2章 ネオンの揺り籠
黒川の警告は、緋室蓮耶の心に錨のように沈み、同時に羅針盤となった。全ての根源はエデン・インダストリーにある。翌朝、蓮耶は煌坂市の心臓部、天を突く純白のタワーへと向かっていた。
エデン・インダストリー本社ビルは、周囲のけばけばしいネオンとは一線を画し、自ら淡い真珠色の光を放っていた。まるで、汚濁の海に立つ孤高の灯台だ。しかし、その完璧すぎる白さと静寂は、かえって蓮耶の神経を苛んだ。内部はさらに非人間的だった。塵ひとつない白い床、ガラスの壁、案内係のアンドロイドが滑るように移動していく。取材を申し込むと、アンドロイドは感情のない合成音声で「アポイントメントは?」と問い、ないと告げるとマニュアル通りに拒絶の言葉を繰り返すだけだった。

「――お待ちしておりました、緋室蓮耶様」
その声は、無機質な空間に響く鈴の音のようだった。
振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。純白のスーツに身を包み、太陽の光を溶かし込んだような快活な笑顔を浮かべている。街中のホログラム広告で、嫌というほど見た顔だった。
「三日月灯です」
LUNAの女神は、自ら蓮耶の前に現れた。
「あなたの過去の記事、拝見しています。紛争地帯からのルポ、素晴らしかったです。だから、あなたがこの街にいらしたと聞いて、ぜひお会いしたいと思っていました」
彼女のオフィスは最上階にあった。壁一面がガラス張りで、煌坂市を一望できる。そこは、まるで神の視点だった。そして部屋の中央には、巨大なアクアリウムが鎮座していた。昨日ホテルのロビーで見たものとは別次元の、完璧に管理された生態系。何千匹というネオンテトラが、一糸乱れぬ統制された群れをなし、青い光の川となって水中を流れている。その一匹一匹が、自らの意志ではなく、巨大な何かの脈動に合わせて光を反射しているように見えた。

「綺麗でしょう?」灯は水槽を眺めながら言った。「調和。それこそが、私達がLUNAで目指しているものなんです」
彼女はLUNAを「人々を不幸から解放する希望の光」だと、淀みなく語った。戦争、貧困、孤独。そうした苦痛から人々を解き放ち、誰もが幸福を享受できる世界。彼女の言葉には熱がこもり、その瞳は理想に燃えていた。
「神隠しについて調べています」蓮耶は単刀直入に切り込んだ。「LUNAに、何らかの副作用があるのでは?」
灯の笑顔が、ほんのわずかに翳った。
「LUNAは完璧に安全です。それは国の第三者機関も証明しています。失踪された方々は……残念ですが、個人的な事情を抱えていたのでしょう。私たちの光は、救いを求める方々にとっては、時に強く輝きすぎるのかもしれません」
一点の曇りもない瞳。蓮耶は、彼女が嘘をついているとは思えなかった。彼女は心から、そう信じているのだ。だが、その揺るぎない信仰心こそが、蓮耶には何よりも不気味に思えた。
「でしたら、緋室さんにもLUNAの素晴らしさを、ぜひ体験していただきたいんです」
灯はそう言うと、蓮耶を社内に併設された施設へと案内した。黒いドーム型の建造物。『アストラル・ドーム』とプレートに刻まれている。
内部は完全な暗闇だった。一歩足を踏み入れると、背後で音もなく扉が閉じる。方向感覚が狂い、蓮耶が思わず身構えた瞬間、足元に星屑が生まれた。それは瞬く間に増殖し、蓮耶と灯を包み込むようにして360度の宇宙空間を形成した。
最初のプログラムは「ファンタジー・フォレスト」だった。

宇宙は色鮮やかな森へと姿を変える。地面からはネオンの光を宿したキノコが生まれ、頭上では水晶でできたような鳥たちが歌いながら飛んでいく。森の奥には、天を突くほど巨大な桜の木がそびえ立ち、その枝からこぼれる光の粒子が、ピンク色の花びらとなって舞い落ちてきた。

「……すごいな」
思わず、声が漏れた。LUNAの光が脳の快楽中枢を直接刺激しているのが分かる。心地よい浮遊感。心のささくれが撫でられ、トラウマの痛みが薄紙のように剥がれていくような感覚。蓮耶は一瞬、警戒を解き、この美しい光に身を委ねてしまいたいという誘惑に駆られた。
「素敵でしょう?」灯が隣で誇らしげに微笑んだ。
だが、次の瞬間、楽園は地獄へと姿を変えた。
プログラムは「白亜紀末期」。鬱蒼としたジャングル、湿った空気の匂いまでが再現され、大地を揺るがしてネオンのティラノサウルスが咆哮を上げる。

その圧倒的なまでのリアリティに蓮耶が息を呑んだ、その時だった。
空が、燃えるような赤に染まった。
巨大な隕石が、ネオンの灼熱の尾を引きながら、空を切り裂いて迫ってくる。
強烈な雷鳴。地響きのような轟音。大噴火。
――その光は、三年前の光だった。

「やめろッ!」
蓮耶は絶叫し、その場にうずくまった。PTSDのスイッチが、無慈悲に蹴り込まれた。隕石の光は、ファインダー越しに見た爆撃の閃光と完全に重なった。ティラノサウルスの咆哮は、瓦礫に埋もれた先輩の断末魔と混じり合った。
視界が歪む。美しいはずのネオンアートが、その本性を現し始める。ティラノサウルスの目が、一瞬、蓮耶の動きを追う冷たい赤い光――監視カメラのレンズへと変わる。先ほどまで心を癒してくれた桜の花びらが、無数の監視ドローンの群れに見えた。見られている。分析されている。魂の隅々まで、この光にスキャンされている。
「緋室さん! 大丈夫ですか!」
プログラムが緊急停止し、ドーム内が味気ない白色の照明に照らされる。灯が心配そうに駆け寄ってきた。その表情には、純粋な驚きと気遣いの色が浮かんでいる。だが、今の蓮耶には、それすらも完璧に計算された演技にしか見えなかった。
「……あれは、危険だ」荒い息の中、蓮耶は絞り出した。「ただの映像じゃない。人の記憶に、精神に……土足で踏み込んでくる代物だ」
「LUNAは人の心を癒すものです」灯の声から、温度が消えた。「あなたが何か、個人的な、特殊な問題を抱えているだけではありませんか?」
その言葉は、純粋な善意のナイフとなって蓮耶の胸に突き刺さった。彼女は悪くない。悪いのは、異常なのは、自分の方なのだと、世界が囁いているようだった。
「ご忠告、感謝します」
蓮耶は震える脚で立ち上がり、彼女に背を向けた。
「だが、俺は俺のやり方で真実を追う」
エデン・インダストリーの白いビルを出た時、街のネオンは以前にも増して不気味な光を放っているように見えた。蓮耶の心には、LUNAがもたらした一瞬の甘い安らぎと、それを遥かに凌駕する巨大な恐怖が、毒のように渦巻いていた。