
掌編小説カフェ 【アールグレイ】
ブラックコーヒーにしようかと思ったけれど、
今日はやめておくことにした。
体を温めたい。
それに、抗酸化作用もある。
免疫力の向上、老化防止。
ベルガモットの香りにはリラックス効果があって、胃腸にもいい。
ストレスを癒やすのに最適なフレーバーティーだと、どこかで読んだ。
アールグレイをください
窓辺に薔薇が咲いている。
時々、鳥の声がする。
本棚から一冊取って、女は席についた。
一人の時間だった。それだけでよかった。
ティーカップを両手で包むように持って、香りを吸い込む。
ベルガモット。
目を閉じると、少しだけ、何かが緩む気がした。
本を開いたとき、視界の端に、男が入ってきた。
——嫌だ。
元夫に似ていた。
顔というより、雰囲気が。
首のすくめ方、視線の落とし方、そういうものが。
せっかくの一人の時間に、よりによって。
女は本に目を落とした。
でも、気になってしまう。
男は席についてから、ずっとそわそわしていた。
きょろきょろと入口を見ては、スマホを取り出して何かを打ち込む。
また入口を見る。
足が、貧乏ゆすりをしている。
汗をかいていた。
特に暑い日でもないのに。
テーブルの横に、紙袋が二つ。
男はときどき、その中を覗き込んだ。
確認するように。何度も。
——待ち合わせ、かな。
女はミステリー小説が好きだった。
人の行動を観察して、推理するのも。
あの袋の中身は何だろう。
かなり膨らんでいる。
渡すものが入っているのか。
相手はまだ来ていない。
来るのかどうかもわからない様子で、男はまたスマホを見た。
更年期の汗、という可能性もある。
でも、あの目の動きは違う。
あれは焦りだ。
電話が鳴った。男が出る。
声は聞こえないが、短く何かを答えて、切った。
それからすぐ、入口の方を見た。
誰かが入ってきた。
全身、黒。
帽子を深くかぶっていて、顔が見えない。
「アールグレイを」
その人物が言った。私と同じ。
女はふと、手元の本に目を落とした。
タイトルを、今更のように確認する。
『アールグレイ』
何気なくページをめくると、何かが挟まっていた。
写真と、メモ。
写真には、全身黒の服装の人物が写っていた。
メモには、几帳面な字で書かれていた。
——身代金。アールグレイ。
そのとき、スマホが震えた。
メッセージアプリの通知。
画面には、全身黒の人物の画像と、一言。
『受け取りました』
女はスマホを伏せて、ティーカップを持ち上げた。
アールグレイの香りが、ゆっくりと立ち上る。
隣のテーブルに、キャラメルマキアートが運ばれてきた。