『彼女の描いた春錦』第八話(終)
個展でどのように飾るか。私とナギサさんとで意見が食い違うこともありました。結局のところ、最終日以外は昨年と同様、東に春、南に夏、西に飽き、北に冬の作品を一作ずつ配置。順路も東から時計回りにしました。
そして迎えた最終日だけは、私の考案した飾り方で展示が行われました。
「散る花を集めて織るは春錦」
ナギサさんが俳句のようなものをつぶやきました。
「これは……、まるで屏風絵のよう。もしくは、春の錦」
錦。豪華な織物ではありませんが、確かにこの絵は錦のように大変美しい。春ののどかで暖かい空気が、見る者を包み込む作品であります。
「すみませーん、スタッフの方はいませんかー? ちょっとお話ししたいことが」
一人の男性が呼んでいました。春物のスーツを着こなしている、優秀そうな風貌です。
「ちょっと行ってきますね。ミチルの絵、もっと語ってきたいので」
「わかりました」
嬉しそうに話すナギサさん、熱心に聞き入る男性、他にも大勢の人が足を止めて眺めている。
かつてガラクタと呼ばれ、木偶の坊と罵られ、無機物と成り果てた私が彼女の絵に出逢ってから一年。ずいぶんと変わりました。胸の内に感情なるものが現れ、こうしたいという衝動に駆られ、自ら動き出す。
少しは恩返しができたでしょうか。
いいや、きっとまだこれから。
「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」
やはりいいなぁ……、と私が空想に耽っていると、隣で詠う女の子がいました。おそらく小学生くらいでしょう。肩につかない程度の長さに切り揃えられた髪。絵に見入っている少女の横顔。その眼に、ミチルさんの面影が重なりました。
「短歌……、ですか?」
気になって尋ねてみました。というより、思ったことが口から漏れていました。
「あ、その、えと……。ま、前に住んでた町で、喫茶店のおじいちゃんが教えてくれたんです。もう、二、三年前の話なんですけど」
「そうなんですか」
「コキンワカシュウだっけ……、にある、ソセイホウシっていう人の和歌なんだそうです」
ソセイホウシ? 私は和歌に明るくありませんので存じ上げませんが、昔の歌人はたいそう雅で美しい和歌を詠んだようです。
「……君は物知りだね」
「一回聞いただけ、ですけど。でも、景色がわーって見えてくるような気がして。きれいでしょ? それでね、この大きな絵も、ソセイさんの和歌みたいだなあ、って思ったんです」
「そうか。それはよかった」
目を細めて私は何度も彼女の言葉を反芻しました。
「ねえ、この絵を描いたミチルさんは、どこにいますか?」
女の子の純粋無垢な問いに胸が痛みました。しかし真実をお伝えしないのはミチルさんに顔向けできないと思い、痛みを堪えながら申し上げました。
「……お空です」
「……そう、ですか。いろいろ聞きたかったのにな……」
「……」
私がミチルさんと口論にならず、彼女の考えをもっと理解できていたら、この子の問いにも答えられたかもしれない。自責の念が私の首を絞めようとしました。
「じゃあ、額縁は?」
「へ?」
しかし彼女の問いが思考を断ち切り、私をここへと引き戻しました。
「額縁を創ったのは誰ですか?」
これまた純粋な問いでありました。
「……、私です」
「え!」
目を丸くし、両手で口元を押さえる姿に、頬が熱くなりました。これを照れくさいというのでしょう。
「ははっ。絵と合うか不安だけど」
「そんなことないです。この額縁があるからこそ、あたしは絵に引き込まれたんだと思います。額縁があるからこそ、絵が生きているような気がする」
「……そりゃ、よかった」
絵と額縁が合う、調和していると私が思っても、見る人々がそう思わなければ意味がない。自分が主体にならなければ芸術にはなれない、といつか考えましたが、その主体というのは創作者本人のみならず、見る者も含むのです。すなわち、見る者を引き込み、それと一体とさせてこそ、調和させてこそ、真の芸術となるのです。
色、形、配置、構成、そして額縁……、しかしそういった要素の調和だけではありません。見る者を絵の中に招き入れ、魅了する。それこそが芸術としての絵なのです。
芸術とは、人を魅了してこそ芸術なのです。絵でも、音楽でも、木彫りでも、書でも、落語でも、文学でも。
「あたし、桜が好きなんです。自分の名前に入ってて、自分の名前が好きだから。舞う桜って書いて、舞桜っていうんです」
「舞桜さん……。いい名前ですね」
「ありがとうございます。それで、あと、絵を描くのも好きなんです。それで今日お父さんが連れてきてくれて。お父さんにもお礼言わなくちゃだな」
「帰ってからもいっぱい今日のこと話してもらえたら嬉しいです」
「うん、本当に今日は来てよかった。ああ……、いつかあたしも、こういうすごい絵描きたいなあ」
感慨深そうに舞桜さんは言いました。まだ小さいのに、こんなに感動してもらえるとは。ほわり、ほわり、と胸の奥から溢れ出す温もりが止まりません。
「描けるさ。君が楽しく、燃え上がるような心を持っていれば」
「うん! ……だから、あたしがプロの絵描きになったら、私の絵の額縁を創ってください!」
お父さんらしき人と手をつなぎ、「それでね、それでね」と話す舞桜さん。その背中からは希代の絵師を予感させる気配が漂っていました。
頑張れ、若き絵師よ。桜の名前を継ぐ者よ。
ミチルさんの額縁を創っているうち、私の心のシャツは次第に裏葉柳に染まっていました。そのシャツには、薄桜がほわり、ほわりと咲いていました。
ミチルさんの春の展示会が終わって数週間が経った頃。私は再びK市の桜庭家を訪れていました。
「引っ越してしまうんですね」
「ええ。大叔父が身体を悪くしてしまって。一緒に住んだ方がいいかなと。すみません、手伝ってもらっちゃって」
名残惜しそうにナギサさんが言いました。
「それは……。お大事になさってください」
「ありがとうございます。それで、この家は手放そうと思っているんですけど……、ガクさんが住みますか?」
思いがけない問いかけでした。私がこの家に住む。それは魅力的かもしれません。庭には四季折々の花が咲き乱れ、縁側から眺めるK市の景色も良い。しかし――。
「いえ、K市はいい場所ですし、ミチルさんが過ごした家でもありますが……。いかんせん幼い頃のことを思い出してしまいそうなので。あと、一人で住むには広すぎますから」
「そうですか」
彼女は小さくつぶやきました。
「それに、私はミチルさんの絵をもっと多くの人に知ってほしいんです。だから、旅をしようと思います。各地で展示会を開いて、ミチルさんの作品を語り継いでいく。それが私の夢です」
今まで夢というのを語ったことがありませんでした。仕事は金を得るための手段でしかなく、人生が終わりを迎えるまで毎日をただ過ごすのだと思っていました。
しかしミチルさんの絵に出逢い、ミチルさんと話し、ミチルさんの絵の額縁を創り、個展でお客様の顔を見て、裏葉柳の新芽が、硬い地面を突き破って姿を現したのです。
それを聞いたナギサさんは荷造りの手を止め、春の陽光に煌めく海のような笑顔を見せました。
「あ、ガムテープ切らしたみたい。ちょっと買ってきますね。お茶淹れといたのでよかったら飲んでください」
「ああ、はい。いってらっしゃいませ」
ぱたぱたと駆けていく足音が消えると静寂が訪れました。春は間もなく夏へと季節のバトンを手渡します。
一仕事片付けると、私は湯飲みを二つ手にとって縁側に腰掛けました。庭の桜の花は散り、もう葉桜でありました。
K市の街並みが見えました。初夏の足音が近づいてきている城下町は、青々とした大空の下、今日も賑わっています。
さらぁ、と穏やかな風が吹き抜けていきました。
舞桜さんに素性法師の和歌を教わってから、私は少しずつ和歌の勉強をするようになりました。きっとこれから額縁を創る中で役立つはず。絵だけではない、音楽にしろ、文学にしろ、あらゆる芸術に触れて、額縁の表現の幅を広げるべきだと思ったのです。
「桜花散りぬる風のなごりには」
紀貫之の和歌をつぶやくと、
『水なき空に波ぞたちける』
懐かしいお声が聞こえました。しかしその方を見ても、誰もいません。温もりだけがありました。
「……ふっ」
口元が緩みました。
『あの絵の意味、わかりました?』
「ええ」
全ての額縁を創り上げたあの日、目に入った二枚の絵が繋がるように見えたのです。額縁を軸にして、絵が繋がる。
その二枚だけではありませんでした。
『海遥』の下には上下をさせた反転『嶺望』、『海遥』の上には『正雪』が繋がります。森林の小川を描いた『青葉』の左には、秋桜の花畑を描いた『真心』。『蛍火』の下には、暗がりの部屋を描いた『独夜』、『嶺望』の右に『想蓮』、……。
パターンがいくつもあり、繋がらないのではないかと思ったこともありましたが、私を引っ張る裏葉柳に引っ張られるまま試行錯誤を繰り返した末、四つのパターンがあることに気がつきました。
ミチルさんが描き上げた九十九枚の絵。それをパズルのように並べ替えると、一つの大きな絵になったのです。
タイトルは個展の日まで決まりませんでした。しかし、ナギサさんや舞桜さんの言葉を借り、私は絵の一つを『春錦』と名付けました。あとの三つはそれぞれ、『夏鏡』、『秋櫃』、『冬畳』。
『夏鏡』は、夏休みの青空の下、中学生あるいは高校生の少年と少女が笑い合っている様子を描いたものでした。青春時代の眩しく、輝いた光景が目に飛び込んでくるようです。
『秋櫃』は、若い男女(おそらく『夏鏡』に描かれた二人の数年後)がベンチに腰掛け、紅葉や公孫樹、薄といった秋の風物詩を手に取って話している様子を描いたものでした。少女の方は読書の秋だからか、本を手にしていました。落ち葉を栞にでもするのでしょうか。大切にそっと宝箱にしまうような優しい眼差しがあります。
『冬畳』は、雪が降り積もった道を明るい方へと手を取り合って歩く、和装の二人の後ろ姿を描いたものでした。冬物の羽織に身を包んだ二人が、早く帰ろうと家路を急ぐ。でもその一歩一歩を、一緒にいる思い出だからと踏みしめるように。夕方だろうか。どんな話をしているのだろうか。そんなことを考えてしまいます。
そして、『春錦』。二人が縁側でお茶を飲みながら、庭の桜を眺めている。いや、桜だけではない。藤、躑躅、柳、……。まさに春の、この縁側からの眺めでありました。後ろ姿で表情はわかりませんが、きっとこれらは――。
女性はミチルさんでしょう。
ミチルさんが生きていたらこうなりたかったと、心から望んだ光景なのでしょう。
そして、願うことなら、ここに描かれた少年、青年は、私であってほしい。
そんな思いが、心の内に芽生えたのです。
『あとはお願いしますね』
耳元で囁く声がしました。
「お任せください」
私が応じると、温もりは頬を撫で、さらりと消えていきました。
『ガク? 届いたぜ』
「そう」
六月。兄から一本の電話がありました。ミチルさんの春個展を各地で開催し、一段落ついた頃。私は一つの木彫りを創り上げ、結婚したという兄に送りつけてやりました。
久しぶりに額縁以外で木を彫りました。特に深い意味はありません。ほんの少しだけ祝ってやろうと思っただけです。
送り先は当然のことながら実家でした。しかし、柳川ガクを送り主とすると父が私を思い出すのではないかという不安が頭をよぎったので、ナギサさんに送っていただきました。兄にもそのことは伝えてあります。
『薔薇かな? ピンクの』
「うん」
『品種名とかってあるのかな』
「和泉さんに聞いたら?」
贈り物に相応しいものやら花言葉やらを調べ、これがいいのではないかと思い、薔薇を彫りました。色はピンクホワイトにしました。
『そうするよ。詳しそうだし。……そういや、行ってきたよ。ミチルさんの個展。親父も。気にすんな。額縁を誰が作ったかなんて言ってない。ていうか、もう年だし、覚えてないだろうよ』
「……そう」
ミチルさんの故郷であるK市で開催しないわけにはいきませんでした。これは使命であり、夢なのだから。顔を見せるなと言った父のことは、こちらから避ければいい。そもそも、K市に来るなとは言われていません。もし何か言われたらちっとは言い返してやろう。こちとら、昔の無機物じゃないのだから。
と考えながらも、各地を練り歩いて疲労が溜まったのか、私は体調を崩してしまいました。昔の父のようだ……。布団の中でぼんやりと思いました。やっぱり私は父の息子なのです。
K市での開催はナギサさんに任せきりになってしまいました。最終日くらい行くと申し上げたのですが、病人の仕事は早く治すことだと言われ、受け入れざるを得ませんでした。
『でも親父、絵じゃなくて額縁ばっかり見てたんだぜ? んで、こう言ってたよ。「いい額縁だな」って』
「……」
『その後はもう帰るなんて言い出して、すぐ帰っちゃった。早く自分も彫りたかったんだろうな。……相変わらず、芸術家としてだけは一流だな。嫁さんもぽかんとしてたっけ』
「ふぅん」
幼い頃の記憶を思い出してまたも胸がちくりと痛みました。しかし同時に、父を見返してやったと思うと鼻が高くなりました。
『ん、おっと。悪い、嫁さんが呼んでるわ。また電話する。じゃな』
「うん、お幸せに」
『ああ。ありがとな。そうだ、引出物送るわ。あと、おまえも結婚するなら俺が何か彫ってやるから連絡しろよな』
「はいはい」
電話を切り、息をつきました。
結婚相手などいません。最愛の人はもういないのですから。
でも私はその人の思いを紡いでいくのです。
まだ『夏鏡』、『秋櫃』、『冬畳』は一般公開していません。これから開く展示会でお披露目し、その魅力をお伝えする予定です。
次は夏個展。夏鏡がその輝きを映します。
あれから干支が一巡し、ミチルさんの絵に出逢ってから十三度目の春。
私は使命を果たすべく、夢を叶えるべく、各地を行脚し、ミチルさんの作品の魅力を語り伝えてきました。
ミチルさんの作品に出会ってから私は変わりました。空っぽだった胸の内に感情のようなものが現れ、シャツはその時々によって色が変わる。ガラクタにしか見えなかった美術品も、今となってはしっかりと美術品に見える。落語に聞き入り、音楽に身を委ね、小説の登場人物に自らを重ね、サインに作者の矜持と感性を見出す。
特に絵は、毎度まるで絵の中に入り込むようでありました。作者が何を、どのような気持ちで、どのように表現したいのか。そういったことを作者のコメントで知り、他の鑑賞者のコメントで気づき、私自身で考えるのが面白く、楽しいのです。
この絵にはこういうデザインだな。
時間があれば、私はアイデアをノートにメモするようになっていました。
そして、そのノートを見たのでしょうか。ミチルさんの個展をある地で開催していたとき、吉野と名乗る男性が私に声をかけてきました。額縁を手がけてほしい、と。最初は耳を疑いました。しかし同時に身体が猩々緋に燃え上がり、一呼吸置いて裏葉柳に落ち着くと、返事の選択肢は「はい」しかありませんでした。
作者の絵に合う額縁を創る。
今となっては、それが使命の一つであります。私の名は柳川ガク。額縁職人でございます。
からからからからか
木製の扉を開ける音がしました。時計を見ると午前十時。もう開場の時間でありました。受付では木彫りの鶯が桜のそばで鳴いています。
K市の隣、I市での春個展初日。今年は『春錦』で幕開けです。
裏葉柳に薄桜の刺繍が入った襟付きシャツを纏った私は立ち上がりました。
「いらっしゃいませ。画家・桜庭ミチルの個展へようこそ」
二十歳くらいの若い女性が立っていました。すらりとした体躯、肩につく程度まで伸ばした烏羽の髪、吸い込まれるような黒紅の双眸。生前のミチルさんによく似た女性でいらっしゃいました。
「もしかして柳川ガクさん、ですか?」
「もしかしなくても、私が柳川ガクです」
初めてミチルさんにお会いしたときと同じやりとりでありました。当時は恐る恐るお声掛けしたのを、今でもよく覚えています。
「あ、あの。覚えてますか? あたし、舞桜、吉野舞桜です。名字変わって和泉ですけど、十一年くらい前、ミチルさんの個展でお会いした」
吉野舞桜……。吉野といえば、よく依頼してくださる画材屋の男性。ですが、舞桜というお名前は……。
ああ、と懐かしい心地になり、思わず頬が緩みました。
「ええ。覚えていますよ。大きくなりましたね……、っていうのは、今じゃ何とかハラスメントでしたっけ」
「いいですよ、別に。小さかった子どもが成長すれば、だいたいの大人はそう言います」
「ははっ。ま、そうですよね」
ハラスメントで騒がれる世の中ゆえ、言葉には注意すべきだと思ったのですが、杞憂でありました。舞桜さんが寛大なだけかもしれませんが。
「ところであたし、イラストレーターになりました。ペンネームは本名のアナグラムで穂海紗詠。だから約束通り、依頼させてください。額縁」
S市で開催された最初の個展で、桜の継承者と駆け出しの額縁職人がした約束。十一年の歳月を経て、果たされる時がやってきました。
「お任せください。どんな絵でしょう」
「これです」
デジタルなのか、彼女はスマートフォンでその絵を映しました。
男性と女性が喫茶店の前で花束を持ち、笑い合っている絵でありました。
いい絵だ。
人物の表情も、色使いも、光の加減も。そして何より、この絵には物語があり、情がある。舞桜さんの技術が高く、お心が豊かだからこそ、いい絵だと思うのでしょう。
「あたしの夫と、あたしの親友。……二人兄妹です。おじいちゃんから継いだ喫茶店に、あたしの絵を飾りたいと言ってくれて。だからその額縁をお願いしたくて、今日は来ました」
看板に見覚えがありました。兄妹にも見覚えがありました。
喫茶・花縁。和泉蒼大くんと和泉夢香さん。ナギサさんとミチルさんから依頼を受けた帰りに出会った、あのときの兄妹。
ほわり、と胸の内に桜が開花しました。
「承知いたしました。不肖・柳川ガク、誠心誠意お応えいたします」
最敬礼から直って顔を上げると、窓から入る麗らかな陽光に照らされている『春錦』が目に入りました。
彼女の描いた春錦は今年も満開でございます。