『朝陽花』十三話(終)
ツピツピツピツピ、という軽快な鳴き声で目が覚めた。カーテンの隙間からは淡黄の陽射しが差し込んでいる。
「淡路島通ふ千鳥の……」
寝ぼけ眼をこすって伸びをしながらつぶやいた。しかしチドリの鳴き声ではないと気づき、口をつぐむ。確かこれはシジュウカラ。その昔、舜が教えてくれた。
今日は休日だからもう少し寝ていてもよいのだが、そうしてもいられない。朝実は掛け布団を蹴って起き上がった。
ベッドから出て再び伸びをした。全身に血が巡り、身体が軽くなっていく。
寝覚めの一杯で心を落ち着けようと朝実はリビングへ向かった。
時刻はまだ五時台。しかし夏はこの時間帯でもすでに明るい。犬の散歩へと向かう近所の住人が窓から見えた。
「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを――」
「雲のいづこに月宿るらむ?」
朝実の上の句に続けて下の句を諳んじる声に、彼女は息を呑んだ。スケッチブックを開いて笑う声の主は、十年前、出会った頃の姿と何一つ変わっていなかった。
「おはよう。……いやぁ、久しぶりに描いたんだけど、なまってるなあ」
絵の具だらけの手で頭を掻きながらはにかんでいる。心地よい疲労が覗く顔が橙に照らされ、笑窪が浮かび上がった。
「梅にしようかとも思ったけど、時季的にはこうかなって感じ」
見開きになったページを示して彼は続けた。朝実が描いた紫とピンクの朝顔の隣のページ。支柱に巻きついて伸びる白の蕣花が二輪、柔らかな朝の陽射しに照らされている。今朝開花したばかりの花はシミ一つない純白で、自らの心を力強く高らかに歌い、もう一輪とともにありたいと朝陽へ背を伸ばしている。
「ずっと顧みないでごめん。ちゃんと話したい」
生活リズムが合わずにすれ違い、徐々に気まずくなって仕事に逃げたこと。人手不足ゆえの繁忙で疲労困憊にも関わらず、仕事を振ってくれと手を挙げたこと。その結果さらに疲弊して深夜の帰宅と寝不足と適当な食事が続いて体調を崩したこと。久しぶりの休日にコーヒー豆を買いに行ったら暹人たちに会ったこと。絵を描くよう助言されたこと。朝実の絵を見つけたこと。花を描いた作品は花言葉を調べるべきだと岡田から言われたこと。暹人と萌音の『夕照花』の話を思い出したこと。朝顔には朝顔で返そうと思ったこと。
「それと……、おかえり」
情報量が多すぎてついていけず、朝実は「あ、……えと、ただいま」と言うことしかできなかった。もっと言うべきことがあるはずなのに、と思ってうつむくと、フローリングの床には二人の影が伸びていた。
「もっと早く話せてたら、舜の具合が悪くなることはなかったのに」
「いいよ、別に。生きてるから」
「そういう問題じゃない」
語気を強めて睨むと、彼はケハと歯を見せた。こういうところは敵わないな、とため息をつきながらも、彼女は続けた。
「……私も、話したいこといっぱいある」
「うん、いっぱい話そう」
ふわふわの綿で包み込むように穏やかな声音で舜は言った。
「で? 私に何か言うことあるんじゃない?」
「迷惑ばかりかけて本当にごめん。これからはちゃんと話すようにする。だから、離婚はしないで」
「なんで離婚が出てきた」
「シリコンバレーの『リコン』の部分。新聞で見て……、というか夢で」
「眼科行けよ」
思わず脱力してテーブルについた手が舜の手と触れた。絵の具が指にも付着するのも構わずにそのまま指を絡める。もう片方の手で舜の頬を摘まみ、彼の目をじっと見てはっきりした声で尋ねた。
「帰ってきたら言う言葉は?」
「えと……、ただいま?」
「朝帰りかよ」
呆れた笑いが漏れ、思わず肩をすくめた。しかし安堵して力が抜けると涙がこみ上げてきた。彼の胸元へと飛び込むと、彼女は久しぶりに「おかえり」と口にした。
舜の顔を見上げ、柔らかな癖毛を撫でた。髪は生気を取り戻して活力に満ちている。
「あと、帰ってきたときの約束は?」
「手洗いうが――」
「違うわ、アホ」
確かにそうなのだが、そうではない。小学生じゃないんだから、と内心呆れながらもこれが舜だったなと思い出し、朝実は唇を重ねた。
彼女を抱きしめて舜は言った。
「これからはお互いに――」
お互いの支柱になりたい。お互いに支え合って花を咲かせたい。
網戸から涼風が吹き込み、スケッチブックの朝顔がそよいだ。
夏の朝陽が二枚の絵――『朝陽花』を、二人の満面の笑みを、見守るように照らしていた。