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Photo byyuko_spiritoso

善意はときどき4,000円


    私は怒られるのが、一番嫌いだ。
    でも本当に怖かったのは、怒られることじゃない。
    「迷惑をかけた人」になることだった。

    だから相手の怒りを少しでも軽くしたくて、「今日中に書類を送らなくちゃ」と思った。

    本当は、今日中である必要なんてなかった。

    でも、「次の電話が来る前に届いていたほうが、少しは怒られずに済むかもしれない」。

    そんな都合のいい希望的観測を、私は驚くほど素直に信じた。

    夜7時。

    ようやく書類を書き終えた私は、「今日中に出さねば!」という謎の使命感に支配されていた。

    焦っているときの頭は不思議だ。

    回転しているようで、まったく回っていない。

    とりあえず携帯を開き、

    「夜遅くまでやってる 郵便局」

    と検索した。

    出てきたのは、東京中央郵便局。

    やっぱりここか。

    なぜなら3月、確定申告の書類を送るためにも私はここへ駆け込んだからだ。

    あの時も当日消印ギリギリで滑り込んだ。

    人間というのは、案外学ばない生き物らしい。

    そんな使命感だけは一人前だった私は、反対方向の電車に乗ってしまっていた。

    ……何やってるんだ。

    そう思った、その瞬間だった。

    「あれ、タクシーの方が早くない?」

    いや、待て。

    冷静に考えろ。

    電車のほうが早い可能性だってある。

    そう思って調べ始めたはずなのに、目に飛び込んできたのは、

    タクシー 約1,500円。

    安くはない。

    でも、時間が買えるなら安い。

    そう結論づけた私は、自分の判断をすっかり信じ込んでいた。

    一度も降りたことのない駅で、私は迷わず途中下車した。

    この頃の私は、「早く着くこと」だけに意識を奪われていた。

    見知らぬ駅は、道路だけは立派だった。

    タクシーは何台も走っているのに、一台も捕まらない。

    なんだこの現象。

    そこで私は文明の利器を取り出した。

    タクシーアプリである。

    本来なら1,500円ほどだったはずが、「呼ぶ」を押した瞬間、約2,000円になった。

    五分ほど待つと、タクシーはするりと目の前へ滑り込んできた。

    タクシーアプリの好きなところは、行き先を先に設定できることだ。

    方向音痴の私が道案内をするという、絶対に組み合わせてはいけない状況を回避できる。

    その安心感だけで、私は千円くらい払ってもいいと思っている。

    勢いよく乗り込んだ私は、

    「ありがとうございます! 本当に助かりました!」

    と運転手さんにお礼を言った。

    これが運命の分かれ道になるとも知らずに。

    運転手さんは愛想の良いお兄さんだった。

    「いえいえ」

    そこで終わればよかったのに、私はいつも以上に愛想を振りまいてしまった。

    「本当に助かりました。ちょっと道に迷ってしまって」

    「どうされたんですか?」

    「いやー、ちょっと急ぎで行かなきゃいけなくて」

    今思えば、完全にテンションがおかしい。

    運転手さんは少し考えてから口を開いた。

    「もしかして、郵便局ですか?」

    「あっ、そうなんです。今日中に出さなくちゃいけなくて」

    右手に抱えた大きな封筒と目的地。

    推理としては完璧だった。

    「実は僕、前の仕事でも当日中に郵送しなきゃいけないことがよくあって。その時に郵便局の人から教えてもらったんです」

    「僕が聞いた話だと、荷物は最終的に銀座方面へ集まるらしいので、夜なら銀座郵便局の方がいいですよ」

    「えっ!? 知らなかったです!」

    その言葉は、百パーセント善意だった。だからこそ、疑う理由なんてどこにもなかった。

    「じゃあ、お願いします」

    あの時の私は、本気で「助かった」と思った。

    数分後、銀座郵便局へ到着した。

    ところが建物は妙に暗い。

    「夜だからかな」

    その程度にしか思わなかった。

    笑顔でお礼を言ってタクシーを降りた。

    歩き始めて数十秒。

    何かがおかしい。

    入口が見当たらない。

    ぐるぐる歩き回ってようやく見つけた入口には、立派なシャッターが下りていた。

    ……なぜ?

    慌てて営業時間を調べる。

    19:00まで。

    現在時刻、20時37分。

    ぽかーん。

    善意を疑う余裕もなく、状況が理解できなかった。

    慌てて再びタクシーを呼ぶ。

    東京中央郵便局へ逆戻り。

    気づけば4,000円近くになっていた。

    ようやく窓口へ飛び込んだ私は言った。

    「速達でお願いします!」

    すると局員さんは静かに言った。

    「この封筒では速達にはできません。」

    「あと、この時間は速達の受付も終わっています。」

    本日二度目の、ぽかーん。

    「普通にポスト投函になります。」

    ……え?

    レターパックって速達じゃないの?

    というか。

    ポストでよかったの?

    郵便局を出た瞬間、今日歩いてきた道が頭の中で逆再生された。

    ポストは、

    最初からずっとそこにあった。

    その時になってようやく気づいた。

    私は「書類を送る」のではなく、「郵便局へ行くこと」を目的にしていたのだ。

    あの日出会ったタクシーの運転手さんも、郵便局の人も、みんな善意で動いてくれていた。

    誰も悪くない。

    善意は、最初から私の味方だった。
    遠回りしていたのは、善意ではなく、焦っていた私だった。

    私はまだ起きてもいない怒りを想像して、ひとりで逃げ道を探していたのだ。

    「迷惑をかけた人」になりたくなくて、目の前にあるポストも、立ち止まって考える時間まで見落とした。

    あの日の4,000円は、焦りが私に払わせた授業料だった。

    ……次はまず、ポストを探そう。

    レターパックは、郵便局へ行かなくても届く。そして私は、たまには立ち止まって周囲を見渡してもいいのかもしれない。

     
     
    日常の小さな出来事から、心の奥にある感情を拾うエッセイを書いています。 頑張りすぎて空回りする夜に、少し休める木陰のような文章を。 ここが、少し立ち止まれる場所になりますように。

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