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ルミナス その11

    ◇


     花壇のへりに腰を下ろして晴々とした空を見上げていると、後ろの方でマンションの自動ドアが開く音が聞こえ、タッタッタッと可愛い足音がしたかと思えば、チョンチョンと小さな指先で肩をつつかれた。
     振り返ると、クリスマス色のセーターを着た芽衣がこちらを見上げて微笑んでいる。

    「芽衣! 久しぶりだな」

     力いっぱい彼女の体を抱きしめる。前回会った時よりも、また少し、いやかなり重たくなったように感じた。

    「パパもひさしぶりだね」

    「また大きくなったな、芽衣」

    「そうでしょお」

     芽衣の少し後ろで、美友が腰に後ろ手を回して立っている。Tシャツの上に薄緑色のカーディガンを羽織る姿はすっかり春の出立ちである。

    「美友も、久しぶり」

    「うん、久しぶり。元気そうだね」

    「ボチボチだよ。美友は?」

    「ボチボチかな。お義父さんも無事でよかった」

    「あの時は急に電話して、心配かけてごめんね」

    「ううん、大丈夫。私の方こそ、この間はごめん」

     相変わらず会話はぎこちないものの、以前のような摩擦感はないように思える。そう思っているのは僕だけかもしれないが、これが今の僕たちの正直な距離感なのだろう。

    「これ、お土産」

     花壇のへりに置いていた紙袋を二つ持ち上げ、彼女に渡す。一つは彼女が鹿児島にいた頃に大好きだったかすたどん。手のひらサイズのスポンジ生地の中にカスタードクリームが入った鹿児島きっての銘菓である。

    「わぁ、かすたどんだ。ありがとう。もう一つは……はは、芽衣、ほら見て。パパがアンパンマン買ってきてくれたよ」

    「あ、アンパンマンだ! アンパンマン! アンパンマン!」

    「家に帰ってきたら遊ぼうね」

    「うん!」

     はしゃぐ芽衣の後ろで、美友がさりげなくスマホの時刻を確認するのが見えたので、僕もスマホを一瞥してから、美友と向き合った。

    「じゃあ行ってくる。夕方には戻るから」

     時刻は昼の一時。僕に与えられた時間はわずか数時間しかない。

    「うん。暑そうだったらセーターは脱がせてあげてね。下に長袖を着せてるから、もしかするとすぐ暑いって言うかも」

    「オーケー。分かった」

     美友の後ろ姿がエントランスの向こうに消えていくのを見送ったあと、僕は芽衣と手を繋いで歩きはじめた。マンションの目の前の通りを抜けて大通りに出ると、すぐそばにある新宿御苑の青々とした木々の頭が建物の向こうでチラチラと見えた。

    「芽衣、お腹空いてる?」

    「すいてる!」

    「なに食べたい?」

    「ガト、ショコラ!」

    「ははは、だろうと思ったよ」

     芽衣は前に会った時もそう言って、近くにあるカフェに立ち寄り、ガトーショコラを食べたのだった。どうやらガトーショコラとひと息で言うのが苦手なようで、どうしてもガト、ショコラと途中で息がつっかえてしまうらしい。
     前回と同じカフェに入店し、芽衣はガトーショコラとオレンジジュースを、僕はチーズケーキとアイスコーヒーを注文した。

    「この前のバーベキューは楽しかった?」

     コーヒーを片手に、僕は頬杖をついて芽衣に訊ねる。口の周りを茶色く汚して一生懸命ケーキを頬張る彼女の姿を見ているだけで、月並みな表現だが一生分の幸せを与えられているような、そんな幸福感が胸に満ち満ちてくる。

    「たのしかったよ。なんかね、いろいろあってね、それを、やいてたべたの」

    「お友達の名前はユイちゃんだっけ?」

    「だーかーらー、ユイちゃんじゃなくてユカちゃんだってばぁ」

    「ごめんごめん、ユカちゃんだったね」

    「はやくおぼえてよね」

     その言い方といい、不満げに眉を寄せる表情といい、口調や仕草にどことなく美友の面影を感じてしまう。それがなんだか可笑しくて、それでいて少し切なかった。

    「おじさんとは仲良くやってる?」

    「おじさんって、ゆいとおじさんのこと?」

    「名前は分からないけど……多分、そうなのかな?」

    「ゆいとおじさんはね、ママにもわたしにも、すっごいやさしいよ。でもね、このまえね、ちょっとおこられちゃった」

    「怒られた? どうして?」

    「芽衣がね、ママのいうこときかなかったから。ちゃんとママのいうことはききなさいって、おこられちゃった」

    「……そうか、よかったな」

    「おこられたのに、なんでよかったなの?」芽衣がフォークを握りしめたまま、不思議そうに首を傾げる。

    「ちゃんと怒ってくれるってことは、それだけ芽衣のことを大事に思ってくれてるってことなんだよ」

    「そうなの?」

     芽衣はよく分かってなさそうな顔で、今度は反対側に首を傾けた。チョコの付いた手で触ったのだろう、いつのまにかセーターの襟元にまで茶色い汚れが付いてしまっている。

    「芽衣、セーター暑いんじゃない?」

    「うん、ちょっとあついかも」

    「脱ぐか?」

    「うん、ぬぐ」

     僕が腕を伸ばして脱がしてやろうとすると、芽衣は煩わしそうに体をくねらせ、「じぶんでぬげるよぉ」と反抗してきた。それはそうだ。芽衣はもう、僕と一緒に暮らしていた頃の小さな小さな女の子じゃないのだ。
     脱いだセーターをこちらで引き取り、襟元の汚れをウェットティッシュで擦ってみるが、なかなか簡単には落ちてくれそうになかった。

    「おじさんとはもう一緒に住んでるの?」

    「ううん、すんでないよ。でも、ママひっこすっていってた」

    「引っ越す? どこに?」

     ようやく品川から新宿御苑前への乗り換えを体に馴染ませたばかりだというのに、芽衣たちが引っ越してしまえば、また一から新しい道のりを覚えなければならなくなるではないか。

    「ゆいとおじさんのいえに」

    「……ああ、なるほど」

     どうやら新しい道のりは、僕には必要ないらしい。

    「パパもわたしたちといっしょにさ、くらせばいいのに」

    「ははは、そうだね。それが一番だけど、でもそれはできないんだよ」

    「なんで?」

    「うー……ん、なんでだろうなぁ」

     胸に迫る悲しみと申し訳なさをごまかすように、腕を組んで大袈裟に唸ってみせると、芽衣はそんな僕の内心を読み取ったかのように、フォークに刺した自分の分のガトーショコラを僕の方にずいと伸ばした。

    「パパ、わたしのガト、ショコラたべていいよ」

    「くれるの? ありがとう。芽衣は本当に、優しい子だな」

     突き出されたガトーショコラをひとくちで頬張る。ココアの苦味のあとにチョコの甘味がやってきて、そのすぐあとにまたココアの苦味が口の中に広がっていく。
     今にも涙を流してしまいそうだった。しかしここで泣いてしまえば芽衣を困らせるだけだと思い、コーヒーを飲むふりをして、なんとか堪えた。

    「パパのそのきいろいやつもたべてみたい」と言うので、僕のチーズケーキを芽衣の皿に移してやると、彼女はそれを自分のフォークで器用に切り分け、小さな口を大きく広げてがぶりと頬張り、「おいしい〜」と無邪気に顔を綻ばせた。

    「なぁ芽衣、今度からはゆいとおじさんがパパになるんだぞ」

    「ゆいとおじさんが?」

    「そう。新しいパパだ」

    「ゆいとおじさんがパパになったらさ、パパはなにになるの?」

    「パパは……なにになるんだろうな」思わず答えに窮してしまう。飾り気のない左手を揉むようにしながら、芽衣を眼差す。「芽衣は、パパはなにになると思う?」

    「アンパンマン!」

    「はは、アンパンマンか。それもいいな」

    「アンパンマン、芽衣だーいすき」

    「そうだよな……芽衣、アンパンマン大好きだもんな」

     今だけは泣くまいとなんとか耐えていたのに、芽衣のそのひとことで僕の涙腺はいよいよ決壊をきたし、力ませていた目からは止めどなく涙がこぼれ出てきた。
     アンパンマンと同じで、いつか芽衣が今よりも大きくなれば、見向きもされなくなってしまうかもしれない。
     けど、それでもいい。
     今はただ、この瞬間に彼女に大好きと言ってもらえたことを、全身で味わっておきたかった。

    「どうしたのパパ。なんでないてるの?」

    「芽衣が良い子だからだよ」

    「わたしがいいこだとないちゃうの?」

    「嬉しくてね。泣いちゃうんだよ」

     嬉しいと思えば思うほど、心苦しい気持ちが肥大していき、どうにもならないくらい自分が情けなくなって、泣いてしまうのだ。

    「ふぅん、へんなの、パパ」

    「ごめんな、芽衣、へんなパパで」

     その後、ケーキを食べ終えた僕たちは店を出て、芽衣がお魚を見たいと言うので品川の水族館まで足を運んだ。
     二人して夢中になって魚を追いかけている間にも刻々と時間は流れ、そろそろ夕方が近づいてきたので、ウトウトと目を擦りはじめた芽衣を背中に抱いて、僕はふたたび新宿に戻った。
     マンションの前までやってくると、すでに美友がエントランスの前に立ち、僕たちを待ち構えていた。

    「おかえりなさい。芽衣、どうだった?」

    「疲れて寝ちゃった。でも水族館、楽しそうだったよ」

    「そっか。ちょっと前にも行ったんだけどね。よっぽど魚が好きなのかも」

     すっかり寝てしまった芽衣の体を、僕の背中から美友の背中に引き渡す。
     娘を起こさないよう二人で声をひそめて会話をするのは実に一年と数ヶ月ぶりのことで、ついつい当時の思い出話を口にしてしまいそうになるが、すんでのところで出かけた言葉を喉の奥底に飲み込んだ。
     美友も僕も、それから芽衣も、前に向かって進んでいるのだ。今はまだ過去のことを懐かしい思い出として話題にする時期ではない。美友もそれが分かっているから、僕と同じことを思っていても敢えてそれを口にはしないのだろう。

    「そういえば引っ越すんだって?」

    「芽衣がそう言ってた?」

    「まぁ、詳しくは聞いてないけど」

    「……うん、そうなの。もう少ししたら引っ越す」

    「そっか……」

    「輝くん、私、あのね?」

    「いいんだよ。言いたくないことは無理して言わなくて。分かってるから。いろいろと決まったらまた教えて」

    「でも……」

    「こんなことを僕が言うのもおこがましいけど、幸せになって」

    「うん……輝くんも、幸せに」

    「そうだね、お互いにね」

     僕はそのまま彼女に別れを告げて、マンションの前をあとにした。途中、何度も後ろを振り返りそうになってしまうが、どうせすでに誰もいなくなった景色を見て辛くなるだけなので、薄手のコートに顔をうずめるようにしながら、前を向いて歩き続けた。


    ◇


    「そういえば読みましたよ、あのインタビュー記事。すごくよかったです」

     夜、渋谷まで移動した僕は定番のハチ公前で財部さんと合流し、そこから徒歩で数分の居酒屋に足を運んだ。前回は昼にカレーだったがどうやら財部さんはお酒も大好きらしく、数日前にまた東京に行く旨を伝えるとすぐにスケジュールを調整してくれ、彼の行きつけだというこの居酒屋にわざわざ案内してくれたのだ。

    「今後はもう少し頻度を上げて更新していきたいと思ってるんです」

     以前、猪田さんの話を聞いて思いついた、あの企画のことである。カミフクモト・シネマにゆかりのある人物にインタビューをして、それをルミナスとホームページにアップする。今のところは支配人の西条さんと猪田さんのインタビュー記事が、その二つのプラットフォームに公開されている。

    「特にカレー屋の店主さん、猪田さん……でしたっけ、の話は感動したし笑ったな。地震の影響で子供が家に帰れなくなって……っていう」

    「あぁ、あのエピソードは僕も大好きなんです」

     僕が生まれるよりも少し前、三十年以上も前の話になるが、鹿児島でかなり大きめの地震が起こり、その際に交通機関が麻痺して家に帰れなくなった子供たちを、カミフクモト・シネマが一時的に保護するという出来事があったらしい。その際、子供たちのために猪田さんがカレーを映画館まで出前してやり、電車やバスが動き出すまでそこで一緒に映画を観ながら、カレーを食べて過ごしたのだという。
     ここまでだと単純に心が温まるだけのエピソードなのだが、その時に上映した映画というのが過激な性描写のある作品だったらしく、後日、保護者たちから感謝されるどころか鬼のようにクレームを受けたというのが、この話のオチである。

    「今の時代じゃ考えられないけど、いかにもカミフクモト・シネマらしいというか、地域に密着した映画館ならではのエピソードですよね」

    「西条さんはこの話を載せたら炎上するんじゃないかって心配してましたけど、今のところ概ね高評価みたいで、よかったです」

    「まぁもう三十年も前の話ですからね。時効ですよ、時効」

    「いつかこの企画が軌道に乗ったら、財部さんにも改めてお話をお伺いしてもいいですか?」

    「もちろんです。僕の話でよければいつでも。僕もカミフクモト・シネマが閉館してしまうのは嫌ですから」

     今回ふたたび会うにあたって、カミフクモト・シネマの現状は、あくまで可能性の話として、一応、財部さんにも伝えてはいた。もちろんこういった話を社外の人間にしてしまうのは御法度だし、僕も正直気は進まなかったのだが、鹿児島を発つ前に西条さんから、「バカのふりして言ってしまえ。もしかしたらなにか協力してくれるかも」と任ぜられてしまったのだから仕方がない。何度でも言うが、縋れるものがあるのならなんであれ、今はそれに縋るしかないのだった。

    「あ、そうだ。こういうのも作ってみたんです」

     と、僕はそう言って足元のカゴに入れていた袋を持ち上げ、中からビニールで封をしたTシャツを一枚取り出した。カミフクモト・シネマのマスコットキャラクター、キネどんのイラストが左胸のところに入ったTシャツである。約一週間前に取り急ぎ社員の分だけ発注していたものが、昨日になってようやく届けられたのだ。

    「なんですかそれは」

    「カミフクモト・シネマの六十周年記念Tシャツです。これもまだ企画段階ですけど、ゆくゆくは映画を観に来てくれた人にこれを抽選でプレゼントしようと思っていまして。昨日できたばかりですけど、よろしければ一着どうぞ」

    「いいんですか! ありがとうございます」

     財部さんは嬉しそうにそれを受け取ると、さっそくビニールを開封して中のTシャツを取り出し、自分の体にあてがってみせた。

    「おお、似合ってますよ。サイズもちょうど良さそう」

    「これをどう抽選でプレゼントするんですか?」

    「考えているのは、チケットの半券を抽選券に見立てて、座席番号を当選番号にするんです。映画の上映中にこちら側がランダムに座席番号を選んで、上映終了時にロビーにその番号を掲示しておく。そういうのもアリなんじゃないかと」

    「めちゃくちゃアリだと思います。あとはたとえば……それこそ、せっかくだからルミナスを有効的に活用するのもいいかもしれませんね」

     と、財部さんは取り出したTシャツを大事そうにビニールに仕舞い直しながら、人差し指を立てて、そう言った。

    「ルミナスをですか」

    「前々からXやインスタグラムなんかでもよくやられてる方法ですよ。カミフクモト・シネマの特定の投稿に「光」をくれた人たちの中から抽選で一人……まぁ何人でもいいですけど選んで、当選者にはDMでそれを知らせる。そういう風にすれば、遠くに住んでいる人たちとも直接的な交流が持てますしね」

     そういえば僕がルミナスでフォローしているサッカークラブでも、たまにそういったプレゼント企画を実施していることがある。元々僕自身がそういった抽選ごとに興味のない人間だから思い付きもしなかったが、たしかにそういうやり方も認知度をさらに上げるという意味では、かなり有効ではあるなと思った。

    「それもいいですね。さっそく帰ったら上に掛け合ってみます」

    「ふふふ」と、そこで財部さんが可笑しそうに小さく笑った。

    「どうしました?」

    「いえ、なんだか芹沢さん、やる気に満ち溢れているので。カッケェなって思って」

    「カッケェ、ですか」

     カッケェだなんて、妙なことを言う人である。いま僕がやっているのは、たとえるなら川の豪流を小枝一本で堰き止めようとしているようなもので、馬鹿で常識知らずで哀れだと思いこそすれ、自分でカッコいいと思ったことなど一度もない。

    「なんというか、難攻不落の城に対して徒手空拳で立ち向かう兵士みたいで」

    「それは良く言いすぎですよ」

     僕は思わず吹き出して笑って、ジョッキのビールを飲み干した。
     すると、それを見計らっていたかのように、そばにいた店員が近づいてきたので、追加のビールを二つと、メニューの中にさつま揚げがあったので、それを注文した。

    「明日の予定はどんな感じですか?」

     しばらくして、お互いにお酒もそれなりに進んできたところで、財部さんがさつま揚げに箸を伸ばしつつ訊ねてきた。

    「夜の便で鹿児島に帰るので、午前中にホテルをチェックアウトしたあとは、視察も兼ねて東京の単館劇場をいろいろ見て回ってみようかなと思ってます」

    「おー、それはいいですね」

    「東京には鹿児島とは比べものにならない数の映画館がありますからね。やっぱりその中を生き抜いていくには、それなりにそれぞれ個性を打ち出してると思うんですよ」

    「僕もそう思います。一つ一つの映画館にそれぞれ色みたいなものがあって、それを見て感じるだけでも楽しいですからね」

    「やっぱりそうですか」

     東京の映画事情に知悉している、かどうかは分からないが、短い付き合いながら信頼のおける財部さんがそう言うのだから、間違いないのだろう。

    「もしお邪魔じゃなければ僕も一緒に行きましょうか?」

    「……え?」

     さつま揚げを口に運ぶ僕の手が、その衝撃でピタリと止まる。

    「こっちだったら何軒か顔馴染みの劇場もありますし、お願いすればいろいろと見させてもらえるかもしれません」

    「ぎゃ、逆に、いいんですか?」

     高揚のあまり跳ね上げた膝でテーブルの裏を蹴り上げてしまい、ガタンッと大きな音が店内に響く。隣に座る客の一人が、鬱陶しそうに細めた目で僕のことを睨んでいるのが横目に見える。

    「僕も芹沢さんと一緒に戦う兵士になりたいんです」

    「ぜひ、よろしくお願いします!」

     それでも僕は堪えきれずに、ついつい声を大きくさせて、財部さんの手を強く握ってしまうのだった。


    ◇


     渋谷駅の改札前で財部さんと明日の予定を擦り合わせてから解散したあと、ふたたびハチ公前に戻って約束の時間になるのを待っていると、御守りのように握りしめていたスマホに一件の着信が入った。

    『おい、お前、今まだ東京か?』

     機械の向こうから聞こえてきたのは、飛岡の声であった。

    「そうだけど、どうしたの急に」

    『どうしたもこうしたもねぇよ。カミフクモト・シネマのルミナスが今、えらいことになってる』

    「えらいこと?」

     何事かと思い、通話にしたままスマホの画面を切り替えルミナスを開くと、たしかに飛岡のその言葉通り、カミフクモト・シネマのアカウントが、えらいことになっていた。昨日アップロードした最新の投稿に対して、今までにない量のコメントが寄せられていたのだ。

    『カミフクモト・シネマが閉館するって本当ですか?』

    『閉館しないでください』

    『カミフクモト・シネマが無くなるなんて絶対にイヤです』

    『オーナーが独断で閉館しようとしてるって聞きました』

     中には、

    『私、カミフクモト・シネマ存続のための署名活動しようと思います!』

     と、そんなコメントまで届いている。

    「な……なんで閉館のことがみんなに知られてるんだ?」

     慌てて財部さんのアカウントへ飛び、直近の投稿を確かめてみるが、彼がその情報をルミナスに載せた形跡はない。まさか西条さんが外部に触れ回るはずもないし、他の同僚にしたって、さすがにその辺の倫理観は弁えている。

    『さぁな。だけどまぁ、ウチは昔から地域に密接した存在だったからな。どこかから情報が漏れてしまっても、不思議ではない』

     と、飛岡はなぜか嬉しそうな口ぶりでそう言うのだった。

    「なんでそんな嬉しそうなの」

     まさか飛岡が情報を漏らしたのかと一瞬疑ってしまうが、どうやらそういうわけでもなさそうだった。

    『ついさっきな、このルミナスのプチ炎上を知った寺西のやつが事務所に乗り込んできたんだよ。顔を真っ赤にして、芹沢はどこだって』

    「寺西さんが? おいおい、僕は別になにもやってないって」

    『でもまぁ、ルミナスの責任者はお前だからな』

     電話越しに飛岡がニヤニヤと口元を緩めているのが、顔を見なくても伝わってくる。

    「他人事だなぁ」

    『いやぁ、しかし痛快だったよ。寺西のあの慌てた顔。溜飲が下がるとは、まさにあのことを言うんだな』

    「それはちょっと、僕も見てみたかったかも」

     いつも人を食ったような態度で、僕たち社員を見下している寺西さんが、ギャーギャーと騒ぎ立てながら僕を探している姿を想像すると、それだけで自然と僕の口からも笑みがこぼれた。

    『寺西にあの顔をさせただけでも、お前がルミナスを始めた甲斐はあったと思うぜ』

    「僕、どうなっちゃうかな」

    『寺西が今回の炎上に負けて閉館を撤回するか、お前がクビになるかのどっちかだろうな』

    「あの寺西さんがそう易々と撤回するとは思えないなぁ」

    『とはいえSNSの炎上は馬鹿にできないからな。個人じゃなくて企業となると尚更だ。会社のイメージのためにも閉館撤回、なんてことは十分にありえる』

    「ま、成り行きに任せるよ。どうなっても悔いはない」

    『本当か?』

    「ああ、なんなら俄然、やる気が出てきたくらいだよ」

     強がりに聞こえるかもしれないが、今の自分の正直な気持ちを飛岡には伝えて、僕は通話を切った。
     その後、九時半になるのをちょうどスマホで確認したタイミングで、雑踏の向こう側から夏菜子さんが姿を見せた。

    「お待たせしました」

    「大丈夫、僕もさっき来たところ。ごめんなさいね、なんか無理やり誘っちゃって」

    「ううん、すっごい楽しみにしてる」

    「試合が始まるのは十時半からだけど、九時半には店に入れるみたいだから、どうしましょう、さっそく行きますか」

    「うん、レッツゴー!」

     グランツ・ベルリンFCの観戦会は、渋谷駅から徒歩で十分弱、道玄坂方面の大通り沿いにあるビルの地下一階のバーを貸し切って行なわれるということだった。
     数日前にルミナスでグランツ・ジャパンの代表の方とコンタクトを取り、今からでも参加の応募はできるかと問い合わせたところ、まだ席はあるとのことだったので、それならばと半ば諦めていた今回の参加を決めたのだ。
     その後、夏菜子さんにその話をすると彼女もぜひ参加してみたいと言うので、今回こうして渋谷で待ち合わせをして、二人で観戦会場に向かうことになったのだった。

    「多分、参加する人はみんなグランツのユニフォームを着ると思うんですけど……夏菜子さん持ってないですよね? 一応、僕のを余分に持ってはきたけど」

     スクランブル交差点の前で立ち止まり、夏菜子さんに訊ねると、彼女はなぜか得意げな顔でニヤリと笑った。

    「ふっふっふ、その心配には及びません。この下にユニフォームちゃんと着てきました。今日のお昼にスポーツショップに行って買っといたんです」

    「まじか! 誰のユニフォーム?」

    「もちろん、輝樹さんの好きなジョルジュです」

    「さすが。気合いが入ってる」

    「ただでさえ私は新参者だから、少しでもみんなと同じ気持ちになりたいなって」

    「サポーターの鏡だよ、それ」

     観戦会場のバーに到着すると、店の入口で受付を済ませ、とりあえず空いている席に腰を下ろした。
     すでにたくさんのグランツサポーターが集まっており、案の定、全員が各々好きな選手のユニフォームを身に纏っている。中でも一番人気はやはり背番号13番のエースストライカー、ジョルジュ・エッカーマンのユニフォームである。
     僕たちもさっそく上着を脱いで、炎のように真っ赤に輝くグランツ・ベルリンFCの塊の一部になった。
     正直ここ来るまでは、こういう場に女性を連れてくると顰蹙を買うのではないかと心配もしていたのだが、それもどうやら杞憂だったようで、意外にも女性一人で来ている人や、男女カップルの姿も多く見受けられた。
     試合が始まる前にグランツ・ジャパンの代表が開会の挨拶を執り行い、全員に行き渡ったビールで乾杯をしたところで、試合開始のホイッスルが鳴った。映像は店の壁面に掛けられたスクリーンにプロジェクターで映し出されている。
     今日の試合は両チーム共にベルリンに本拠地を置く伝統のダービーマッチで、赤いユニフォームが我らがグランツ、白いユニフォームが憎き相手チームである。
     グランツは現在、リーグ戦で首位と勝ち点2差の二位に位置しており、今回の相手がグランツと勝ち点1差で三位となっている。昨日の夜中に行なわれた試合で首位のチームが負けたため、この試合に勝てば首位浮上、負ければ三位転落という、まさに天国か地獄かの首位争奪戦であった。
     先週の試合で怪我から復帰したばかりのジョルジュもワントップのフォワードとして、キャプテンマークを巻いて出場している。
     ただ彼は前回の復帰戦でゴールを決めるどころかシュートさえ一本も打てず、パスミスも目立ち、スタミナもまだ全快ではないのか後半早々に交代させられており、気の短いサポーターや悪質な他クラブのサポーターたちからは早くもルミナス上で辛辣な言葉を向けられていた。
    『終わった選手』
    『キャプテンマークを外せ』
    『若手にポジションを譲れ』
     と、もちろんこんなことを言うのはごく一部の人間なのだが、往々にしてSNSの声というのは、そういうものがより大きく拡散されていく。今日の試合でその汚名を返上してもらいたいところではあるが、現実的に考えると今回もまた後半の途中で交代する可能性の方が高いように思えた。

    「今日の試合で勝てば一位なんだよね? 残りの試合はあとどれくらいあるの?」と、夏菜子さんが訊ねてくる。

    「あと八試合だったかな」僕も正面のスクリーンに目を向けたまま、そう答える。

    「八試合も!」

    「でもここでダービーマッチに勝って首位に立てば、絶対に勢いが出るはず」

    「まさに負けられない試合ってやつだ」

    「負けられない試合の中でも特に負けられない試合ってやつ」

     白熱の試合は拮抗した展開が長く続き、ジョルジュも特に見せ場を作れないまま、0対0で前半を終えた。熱を帯びた観戦会場も小休止といった感じで、参加者の口からはポツポツとジョルジュの不調を嘆く声が聞こえはじめた。

    「ジョルジュはこのまま交代かなぁ」

     僕たちの隣のテーブルに座る若い男性が、横にいる、おそらくは恋人であろう女性にそう言うのが聞こえた。

    「たしかにこのまま出し続けても期待感ないもんねぇ」

     女性も腕組みをして鼻から息を吐き出すように、そう答える。

    「やっぱり真由もそう思う?」

    「思う思う。なんか、一人だけ浮いてるって感じ」

    「復帰が早すぎたのかなぁ。だって、下手すると四ヶ月離脱のところを二ヶ月でだよ。ちょっと急ぎすぎたのかもしれないな」

    「まぁ、たしかに焦る気持ちも分かるけどね」

     彼らのその何気ない会話に僕は一瞬、魚の骨が喉に引っかかったような感覚を抱いた。さりげなく隣をチラリと見ると、どこにでもいそうな大学生くらいの若いカップルである。二人ともジョルジュのユニフォームを着ていて、ペアルックなのかお揃いのイヤリングを耳に付けている。もちろん、その顔に見覚えはない。
     であれば一体、なにに対して引っかかりを覚えたのか。その答えを頭の中で探っていくうちに、しばらくしてハッと脳裏に閃くものがあった。
     名前だ。真由という女性の名前。音というより、どちらかというとその音を聞いて頭に浮かんだ字面に覚えがあった。
     今から二ヶ月以上前のことだ。
     ルミナス上でジョル男さんがまだジョル子と名乗っていた頃、DMでのやりとりの中で、たしか彼は自分の彼女のことを「真由」と呼んでいた、ような気がする。それだけで横にいる男性をジョル男さんだと勝手に決めつけてしまうのは早計かもしれないが、その後二人が、

    「さっきルミナスを覗いてみたけど、やっぱりジョルジュのことを悪く言ってる人は結構いるっぽい」

    「だからって知らない人とまた喧嘩したりしないでよ、ジョル子さん」

    「だからもうしないって! やめてよ、俺の黒歴史を掘り返すのは」

     と、そんな風にふざけ合うのを耳にした瞬間、不意に芽生えた疑惑はハッキリとした確信に変わった。この男性こそが、カミフクモト・シネマのアカウントをルミナスで作ってみてはと僕に提案してくれた大恩人なのだ。
     そういう目で改めて見てみると、彼の手首に巻かれた真新しい腕時計はいかにも就職祝いに親に買ってもらった風だし、後ろを短く刈り上げたヘアスタイルも新卒らしい初々しさがある。
     ルミナスでの口論がキッカケで彼女にフラれたとのことであったが、どうやらこの二ヶ月の間にうまく復縁していたらしい。
     あの時のお礼を言おうと僕は片手を持ち上げ、しかしすぐに思い直して、持ち上げたその手を太ももの上に引っ込めた。先日のDMで彼が「今回の観戦会には参加できない」と言っていたのを思い出したからだ。行かないと言っておきながら来たということは、要するに、SNS上で話すのはいいが、わざわざ現実の世界でまで知り合いになりたくはないという意思の表れなのだろうと、そう思ったのだ。

    「どうしたの?」と、夏菜子さんが僕の顔を覗き込んでくる。

    「いや、なんでもない」

     僕はかぶりを振って、残り半分になったビールをひとくち飲んだ。
     やがて十五分間のハーフタイムが終わり、選手たちがピッチの上に戻ってきた。笛が吹かれ、試合が再開される。白熱しつつも膠着していた前半とは打って変わって、後半は両チームが次々とゴールに迫るオープンな試合展開となった。
     まずは後半5分に相手チームが先制し、そのわずか二分後に今度はグランツがコーナーキックから同点に追いつくと、さらにその五分後、相手のオウンゴールで逆転に成功し、かと思えば後半25分にふたたび得点を奪われ、あっという間に2対2の振り出しに戻されてしまった。
     一進一退の名勝負に会場のボルテージも最高潮に達し、席について観戦していた人たちも全員総立ちになって、スクリーンに映る試合映像を見つめている。今のところ、ジョルジュはまだ交代することなく、ピッチの上を駆け回っている。

    「なんだか、前半とは別の試合を観てるみたい」

     祈るように両手を組み合わせて、夏菜子さんが言う。

    「最後まで目が離せないね」

     その姿を見て、僕もなんだか嬉しくなる。
     試合は2対2のまま推移していき、いよいよ後半45分が経過した。アディショナルタイムは、わずか3分である。
     と、その時、ポケットに入れていたスマホの震えが、固唾を飲んで試合を見守る僕の意識の邪魔をした。こんな時に誰だと訝りながら取り出してみると、ルミナスのDMの通知が一件、画面に表示されていた。

    『観戦会はどうですか?』

     送り主の名前には、ジョル男とあった。

    「え……?」

     咄嗟に顔を左右に振って、先ほどの若いカップルを探してみると、彼らは店の後方の壁に仲良く背中を寄りかけ、二人とも夏菜子さんと同様、祈るような面持ちで試合展開を見つめていた。

    『あれ、すみません、ジョル男さんも観戦会に来てますよね?』

     二人の方に目を向けたまま、メッセージを送る。すると、彼らのどちらかがスマホを取り出すのを待つまでもなく、すぐにまたジョル男さんからの返信があった。

    『いえ、私は参加していません』

    『あなたはジョル子さんではないのですか?』

     胸の動悸が早鐘を打つ。スマホを持つ手がやたら汗ばみ、今にも床に滑り落としてしまいそうだった。

    『違いますよ。けど、あなたのよく知っている人間です』

    『どういうことですか?』

    『なりすましには気をつけろと言っただろう』

     まさか───。
     僕は慌てて「ジョル男」のアカウントページに飛び、そこに表示されたアイコン画像をタップした。
     相変わらず黒で塗り潰したようなアイコンである。しかし、画面を拡大してよく見てみると、所々に赤や黄色の光の粒が点々としているのに気が付いた。画角の隅の方には橋のような形をした影もある。
     甲突川だ。夜の甲突川。黒の中に点々としている光は川面に映る街の明かりだ。しかも場所はつい先日、僕と父さんが二人で話した、あの橋の近くだと分かる。
     僕は無意識のうちに、DMの画面上にある通話ボタンをタップしていた。
     僕のよく知るジョル男さんからの応答は、すぐにあった。

    『もしもし』

    「……どういうつもり?」

    『どういうって、なにがだよ』

    「こんな……僕を騙すような真似をして、なにがしたいの」

    『別に騙そうとしたわけじゃない。お前が勝手に勘違いをしただけだ』

     地下のバーにいるからか、父さんの声がやけに遠く聞こえる。おそらくこちらの声も向こうにはよく聞こえていないのだろう。

    「だからって、なんでわざわざ……」

    『あ? なんだって?』

    「いい歳こいてなにやってんだって言ってんの。SNSは苦手なくせに」

    『SNSなんて今どき七十八十のジジババでもやってるぞ』

    「普通に話せばいいじゃん。面と向かってさ」

    『お前を、どうしても東京に行かせてやりたかったんだよ。俺が直接言ってもなかなかお前は決心しないだろうから、そういう流れを作りたかったんだ』

    「…………」

     今にして思うと、ジョル男から今回の観戦会の情報を得たのと、父さんから東京行きの飛行機のチケットをプレゼントされたタイミングは、そういえばほとんど同じだったような気がする。DMでジョル男から観戦会の存在を教えてもらい、そのすぐあとにトイレから出てきた父さんが僕にチケットのQRコードを送ってきてくれたのだ。
     となると、その二日後に父さんが家から突然姿をくらましたのも、過去のわだかまりをそこで精算し、後腐れなく僕を東京に送り出すためだったのかもしれない。
     なるほど、まんまと一杯食わされたというわけか。

    『そんなことより、観戦会はどうなんだ?』

    「楽しいよ。誰かさんのおかげで。……てか、まさか父さん、グランツの試合、テレビで観てるの?」

    『当たり前だろ』

    「もう十二時過ぎてるのに。こんな遅くまで起きてたら体に悪いよ」

    『バカ、こんな大事な試合、見逃す方が体に悪い』

    「……まぁ、父さんの場合は、そうかもしれないけど」

    『ジョルジュはまだ本調子じゃないみたいだな』

    「怪我明けだし、仕方ないよ」

    『でも大丈夫だ。俺やお前と同じでジョルジュも諦めの悪い男だからな』

    「そうだね」

     なぜだか分からないが、涙が込み上げてきた。

    『本当だぞ。まだ試合は終わっちゃいない』

    「うん……」

    『2対2で後半アディショナルタイム。拮抗しているが、ここで一発決めりゃあ、こっちの勝ちだ』

     正面に映る試合は涙で滲んで、もはや誰が誰だか分からなくなってしまっているが、しかしそれでも、ボールを受けて懸命にドリブルを仕掛ける背番号13番の後ろ姿だけは、ハッキリそれと分かるのだった。
     すると、次の瞬間、電話越しに父さんが、

    『うおっ!』

     と声を弾ませた。
     それと同時に、僕のいるこの渋谷のバーでも、一斉に地鳴りのような歓声が湧いた。
     周りで雄叫びを上げる参加者たちが、一様に天井に向かって拳を突き上げている。夏菜子さんも僕の肩を叩いてはしゃいでいる。

    『おい、輝樹』

     父さんが僕の名を呼ぶ。しわがれた声で。力強い声で。

    「うん」

     僕もそれに応える。泣きべそな声で。しっかりと。

    『ジョルジュが決めたぞ』

    「ああ、僕たちの勝ちだ」

     もう少しだけ、このままこの幸福な時間が続いてほしいと、そう思った。 


    #創作大賞2026

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