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折り目の内側で息をしている

    机の上の紙は、最初から少しだけおかしかった。

    裏と表が、はっきりしない。
    光の当たり方の問題ではなく、どちら側に触れているのかが分からない。

    それでも私は、それを不思議だとは思わなかった。
    世界はだいたい、そんなふうに曖昧にできている。

    「紙を42回折ると、月に届くらしいよ」
    いつ聞いたのかも覚えていない言葉を、ふと思い出す。
    月に届くかどうかはどうでもいい。
    ただ、

    “どこまでなら届くのか”

    それだけが気になった。

    私は紙を手に取る。
    軽い。頼りない。
    少しだけ力を入れれば、簡単に形を変えてしまいそうな物質。

    一度、折る。
    その瞬間、部屋の音がひとつ減った気がした。


    三回目を折ったとき、部屋の角が消えた。
    壁がなくなったわけではない。
    ただ、「角」というものだけが曖昧になって、空間が滑らかにつながっている。

    私はしばらくそれを眺めて、納得する。
    そういうものかもしれない、と思った。

    五回目。
    自分の名前に違和感を覚える。
    呼ばれていたはずの音の輪郭が、ぼやけている。
    それが本当に自分のものだったのか、少しだけ自信がなくなる。
    でも困りはしない。
    名前がなくても私はここにいる。
    それだけで十分だった。

    「最近、なんか静かじゃない?」

    声がして、私は顔を上げる。
    その人は、何も変わっていなかった。

    少なくとも、変わっていないように見えた。

    「そうですかね?」
    「うん。なんか、余計な音が減った感じ」

    その人はそう言って少しだけ笑った。
    何が減っているのかは分かっていない。
    でも、“変化”だけは感じ取っているらしい。

    私は少し考えてから、答える。

    「そうかもしれませんね」

    本当は、静かになっているのは世界の方だ。
    でも、それを説明する意味はない。

    その人は机の上を見る。

    「それ、なに?」

    「紙です」

    「そんなに大事そうに持つもの?」

    少しだけ迷ってから、私は言う。

    「これで、世界を折っているんです。」

    その人は一瞬だけ黙ってから、
    「変なの」
    と笑った。

    否定でも、理解でもない。
    ただの感想。
    それが、妙に正確な気がした。

    八回目。
    私は、自分が“内側にいる”ことを理解する。
    外側から見れば、これはただの紙だ。

    なら、ここにいる私は何なのか。
    折られるたびに押し潰されて、
    重なって、見えなくなっていく何か。

    その人は、まだ隣にいる。
    同じ距離で、同じように話して、同じように笑う。

    でも少しだけ、
    輪郭が曖昧になっている気がした。

    「ねえ」

    その人が言う。

    「あなた、ちょっと遠くなったよね」

    私は手を止める。
    遠くなったのは、距離じゃない。

    たぶん、層だ。

    重なって、ズレて、
    同じ場所にいながら、少しずつ別の位置に移動している。

    「そうかもしれません」

    私はそう答える。
    その人は、納得したように頷く。
    理解しているわけじゃない。
    でも、受け入れている。
    それがどういうことなのか、私はまだうまく言葉にできない。

    十回目。
    その人の声が、少し遠くなる。
    聞こえてはいる。
    でも、音の厚みが薄くなっている。
    まるで、何枚も重なった紙越しに聞いているみたいに。

    「それ、まだやるの?」

    「はい」

    「ふーん」

    興味がないわけではない。
    でも止めようともしない。
    その距離が、心地よかった。

    十二回目。
    私は、折り目の向こう側に“同じ形”を見つける。
    それは鏡じゃない。
    左右が一致していない。
    少しだけ違う位置に、同じような私がいる。
    そして、その向こうにも、また別の“私”がいる。
    全部、重なっている。
    選ばれなかった可能性。
    進まなかった時間。
    消えたわけじゃない。
    ただ、見えなくなっているだけ。

    「ねえ」

    その人の声がする。

    「それ、終わったらどうなるの?」

    私は考える。
    正確な答えは分からない。

    でも、ひとつだけ確かなことがある。

    「全部が分かります。」

    その人は少しだけ黙る。それから、

    「そっか」

    とだけ言う。

    嬉しそうでも、悲しそうでもない。
    ただ、その言葉を受け取っただけの顔。

    十五回目。
    その人の輪郭が、ほとんど分からなくなる。
    そこにいるはずなのに、視線を合わせることができない。
    声だけが、かろうじて残っている。

    「ねえ」

    「はい」

    「まだ、そこにいる?」

    私は少しだけ考えてから答える。

    「います」

    本当かどうかは、分からない。
    紙はもう、紙ではなかった。
    硬くて、重くて、
    これ以上折ること自体が、ひとつの決断になっている。

    これを折れば、

    すべてが重なる。

    時間も、記憶も、選択も。

    そして、

    この人も。

    完全に“見えなくなる”。

    私は手を止める。

    正しいかどうかは、分からない。
    そんなものは、最初からなかった。

    あるのは、選択だけ。
    そして、

    その基準もまた、自分で決めるしかない。

    「……ねえ」

    かすれた声がする。

    「それ、きれい?」

    私は少しだけ考える。

    それから、正直に答える。

    「わからないんです」

    少しの沈黙。
    そして、

    「そっか」

    という声。

    私は紙を見る。

    あと一回。

    それだけで、全部が終わる。

    あるいは、全部が始まる、


    私は、

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