メインコンテンツへスキップ
見出し画像

守破離のゆくえ


    友人の日本舞踊の舞台を、今日見にゆく。今回は「本衣裳」と呼ばれる、かつらもメイクも衣装も本格的なものなのだそうだ。今から胸が躍っている。

    ほとんどの人は「日本舞踊」と聞くと、お座敷の芸妓さんか、はたまたナントカ流の家元か、とにかく敷居の高い別世界のものというイメージだろう。ご多分にも漏れず、私もそうだったのだ。大学の演劇科で二年間も日舞を学んだのに、である。

    そんな私の偏見をひっくり返したのが、彼女の「子供向け同時通訳型日本舞踊」だった。これが、めちゃくちゃ面白かった。

    踊りに合わせて、ナレーターがリアルタイムで歌詞の現代訳を伝える。するとそれまでただの「チントンシャン」に聞こえていたBGMが、意味を持って迫ってくるのだ。

    「桜が舞い散る中、愛しい人を待つ」
    そんなナレーションとともに、踊り手がひらりひらりと扇を揺らめかせる。するとその瞬間、満開の桜とその散り際の情景が広がり、大樹のふもとに佇む儚げな女性と、その憂いが押し迫ってくる。舞い手はダンサーではなく物語の主人公となり、私たちはその主人公の人生を追体験する。
    それは、紛れもない極上のエンターテインメントだった。かつての大衆が熱狂し、支持し、磨き上げてきた文化の底力を、私はその時初めて肌で理解した。「古典」や「伝統」と呼ばれるものも、かつては「最新のエンタメ」だったのだ。 

    伝統の継承を表す「守破離」という言葉がある。
    かつて誰かが既存の型を「離」れ生み出した未完成な熱狂が、新しいコンテンツの始まりだ。それが繰り返しの中で磨かれ「型」となり、やがて「守」るものと変容する。
    しかし、守ることは時に、時を止める作業にもなる。かつての変革に基づいた熱狂はノスタルジーとなり、手の届かない宝箱に仕舞われて「伝統」へと昇華されるのだ。

    しかし、彼女はそこに甘んじようとはしなかった。手の届かない宝箱に入れられてしまった日本舞踊を、もう一度、誰もが笑い、涙し、熱狂できる「生きたエンターテインメント」として現代に翻訳してみせたのだ。あの「同時通訳」の試みは、伝統に対する彼女なりの鮮烈なリスペクトだったのだろう。

    そして今日、彼女は「本衣裳」という、伝統の真髄とも言える姿で舞台に立つ。かつらも、メイクも、衣装も、すべてが歴史の重みをたたえた本物だ。

    守破離は直線ではなく螺旋だ。
    個人の修行段階としての守→破→離を一周とするなら、「離」に達した者が次に向かうのは消滅ではなく、一段上の「守」への回帰だ。より深く、より自由な次元での型の内面化。

    友人の軌跡はその螺旋を体現している。

    かつて大衆を魅了した完璧な「型」をまとった彼女が、その内側にどんな「生きた血」をたぎらせて踊るのか。螺旋のその先にある、極上の新しさを目撃するために、私は今、客席で開演の時を待っている。

     
     
    社会人2年目の49歳。元専業主婦。 週一回ぐらいでエッセイをあげていこうと思ってます。 よろ。

    あなたへのおすすめ