
正直でいることのできなかった嘘つきな僕らは
あらすじ
二〇一九年の夏、バックヤードの片隅で声をかけられた障がい者の僕(中嶋滋生)は、その先輩(長島美和)と親しくなり、恋をして、一緒に暮らし始める。美和が中嶋に声をかけた理由は、空笑いが上手く、厭人的な中嶋の姿に、言われようのない隔絶感を覚えたから。一方、癌サバイバーであり、シングルマザーでもある美和は、中嶋の抱える障がいに、自らの過去を重ねていた。生活を共にし、出来過ぎた未来を描き始めた矢先、美和の病気が再発する。命の限りを知らされた美和は、中嶋に対して、自分がついた一つの嘘を告白する。愛する人が、愛した人に対してつくことになった、その嘘の理由。その弱さについて描いた作品です。
人はなぜ、嘘をつくのだろう。
嘘はなぜ、人を傷つけるのだろう。
嘘をつかれた僕は、傷ついたのだろうか。
嘘をついた彼女は、一体どんなつもりで、あんな嘘をついたのだろう。
二十歳の夏に、僕は彼女に出会った。
二十八歳の夏に、彼女は僕と別れた。
彼女の嘘に傷つき、救われた僕は、月明かりの下で、あの頃の日々を回想する。
1
「しゅっぱつ、ちんこ〜!」
翔太が今日も卑猥な言葉を口にしている。
毎日、毎朝、毎晩のため、僕はそれを気にもとめない。
翔太のちんこ〜を耳にするたびに、僕は脳内で正しく変換をする。
しゅっぱつが言えるのだし、しんこうも言えると思うのだが、ちんこ〜の響き? がお気に入りの翔太は、ちんこ〜を多用する。
翔太にとってバスはぼっしゅとなり、進行はちんこ〜になるようで。
彼女は翔太の放送禁止用語を許容し、笑顔でその様子を眺めている。
咎める様子なんてさらさらなくて、息子の(ピー)を今日も寛容に受け止めている。
そう寛容に? いや寛大に、確実に今日も受容している。
六畳のリビングの片隅には、片付けられることもなく、プラレールが建設されたままになっている。
建設され、増設され続けたレールの上を、今日も三両編成の京浜東北線が走行している。
翔太の視線は今日も、それを追いかけている。
2
「ボク、これがいい」
翔太が第一希望を述べていた。
一年の終わりが迫る師走のリビングにて、彼女の膝の間にすっぽりとおさまった翔太が、画面に表示された京浜東北線を指差し確認している。
彼女のスマホには、大手通販サイトの商品ページが表示されていて、色とりどりの電車が、上り方面や下り方面へと、スクロールを繰り返している。
子供にとって十二月といえば、クリスマスが一大イベントのようでいて、その小さくて短い指を不器用に折りたたみ、数を数えながら、クリスマスが来るのを心待ちにしている。
「今日はサンタさんがいないから、ママが代わりにポチっとくね」と、彼女は翔太の第一希望をクレジット払いで購入した。
僕は夕食後の洗い物をこなしながら、その楽しげな様子を眺めている。
リビングと呼ぶには少しばかり手狭な部屋の中に、彼女と翔太の笑い声が響いている。
「ねえママ、サンタさんって、なんじにくるのかな?」
翔太が子供らしい質問を彼女に投げかけている。
「うーん、クリスマス前後はサンタさんも繁忙期だから昼間に来ることは滅多になくて、だいたい夜遅くに来ることが多いかもね」と、彼女は大人らしく、サンタクロースの多忙ぶりに寄り添うコメントをした。
「えー、じゃあボク、サンタさんにあえない?」
「うーん、翔ちゃんが起きている時には、ちょっと難しいかもしれないね。うちだけじゃなくてほら、明美ちゃんの家も回らなくちゃいけないし、和人くんの家にも回らなくちゃいけないだろうし」
「そっかあ」と、翔太は溜息に近い声をもらした。
「翔ちゃんは何でそんなにサンタさんに会いたいの?」と、彼女は不思議そうな顔をして、翔太の旋毛の上から質問の雨を降らせている。
「ボク、サンタさんにプレゼントをもらったら、ちゃんとアリガトウがいいたいんだ。このまえ、ママのたんじょうびに、しげちゃんがケーキをかってきたことがあったでしょ。そのとき、ママがしげちゃんにアリガトウをいったら、しげちゃんはとてもうれしそうにしてたから、ボクもサンタさんにアリガトウをいいたい」
息継ぎを忘れた魚のようにして、翔太はたくさんの言葉を並べた。
「そっかあ、翔ちゃんはママたちと同じことがしたいんだね」
息子の愛らしい様子に母性を隠そうともしない彼女は、翔太の柔らかな髪に頬をうずめた。
「ねぇママ、サンタさん、ちゃんときてくれるかな?」
「翔ちゃんがいい子にしてたらきっと来てくれるだろうし、翔ちゃんがサンタさんに会えなくてアリガトウが言えなくても、ママがちゃんと代わりにアリガトウを言っておくから大丈夫」と、彼女は優しく微笑んだ。
数日後、配達時間を19時〜21時に指定されたサンタクロースは、翔太が眠りについた午後九時に我が家を訪れ、玄関前にクリスマスプレゼントを置き配した。
3
「翔ちゃん、電車禁止!」
翔太が珍しく叱られている。
彼女の右手には、京浜東北線が揺れていて、まるで特撮映画の撮影風景のような光景が、リビングで繰り広げられている。
プラレールの側に仁王立ちした彼女の太腿にまとわりつくようにして、翔太が盛大に泣き喚きながら、両手を天高く伸ばしている。
彼女はタイトル奪取に成功したプロレスラーのようでいて、そのチャンピオンベルトならぬ京浜東北線を、勇ましく頭上高くかざしていた。
我が家にサンタクロースならぬヤマト運輸の配達員が訪れて以降、翔太は京浜東北線に夢中になっていた。
「翔ちゃん、ご飯できたよー」
「翔ちゃん、靴下履けたー?」
「翔ちゃん、もうお風呂の時間だよー」
日々、部屋にこだまする彼女の声がまるで聞こえていないような素振りで、翔太は連日、京浜東北線を走らせた。
「翔ちゃん、ママの言う事が聞けないようなら、電車は禁止します」と、本日正午頃、彼女の怒りが爆発した。
ゴジラ作品で逃げ惑う人々のような、阿鼻叫喚が入り混じる翔太の泣き声は、ご近所迷惑にも無関心を貫いていて、ワーワーと鳴り響いている。
電車をかかげながら部屋を練り歩く彼女には迫力があって、母親の厳しい姿というよりも、特撮映画に登場する新種の怪獣のように見えた。
泣き止まない翔太に対してフォローをするのが僕の役割でもあって、彼女からの合図を待って手を差し伸べるというのが、僕ら二人の約束事(アメとムチ)だった。
「翔太が嫌いだからママは怒ってるんじゃなくて、翔太が悪い子なってしまうのが悲しいからママは怒ってるんだよ」と、僕は翔太に言い聞かせる。
この小さな体のどこに、こんなに大量の水分が含まれているのだろうかと思うぐらい、翔太の顔はあらゆる液体で濡れていて、ティシュでそれら液体を優しく拭き取った。
激しいしゃっくりを繰り返すように背中を震わせる翔太が、幾分落ち着きを取り戻したのを確認すると、彼女に視線を送った。
「ちゃんとママにごめんなさいって言える?」
「……」
「怒ってるママを笑わせる時は、何ておまじないするんだっけ?」
「ごめ、ん、なさい、って、いう……」
「そう、じゃあ一緒にママにごめんなさいって言える?」
「……」
翔太の震える肩に両手を乗せて、僕らは合言葉のようにして、同じ呪文を唱えた。
「せーの」
「ごめ、ん、な、さい……」「ごめんなさい」
無言で抱き寄せられた翔太は彼女の腕の中で、少し安心したようにして、先ほどとはまた違う理由をもって、再び泣き始めた。
翔太の背中を優しく包む彼女の腕には、電車をかかげていた頃の荒々しさはなかった。
無事復旧した京浜東北線は数日間だけ運休すると、また通常運転に戻りつつあった。
*
「バルス」
また明日ねと、彼女の手に触れたあの日、僕の手を握り返しながら、彼女はそっと呟いた。
4
初めて彼女の手に触れたあの日、おまじないのようにして、彼女は「バルス」と呟いた。
何かを崩壊させるつもりはなく、何かを滅ぼすつもりもなかったけれど、僕は尋常ではない手汗をかいていた。
「一生繋がないのかと思ったわ」と、西加奈子のような口ぶりで、僕の緊張を解きほぐした彼女は、不器用に繋がれた左手をしっかりと結び直した。
彼女と知り合った当時、僕はまだ大学生でいて、五歳年上の彼女はアルバイト先の先輩だった。
「へー、中嶋くん、しげおって言うんだね。もしかして長嶋茂雄からの茂雄?」
バイトの初日、その先輩からの茂雄からの茂雄という謎の問いに対して、どう回答することが正解なのかに迷った僕は、「どうでしょう」とだけ答えた。
若者たちは知らないかもしれないが、彼女の質問に登場した長嶋茂雄は、タレントの長嶋一茂の父親であって、読売ジャイアンツに在籍した昭和を代表する野球選手の名前である。
「偶然! うちの父も名前も茂雄。茂雄からの茂雄」と、その先輩は奇跡とも呼べない奇跡に驚いていた。
「平成生まれの男の子の名前で茂雄なんて滅多にいないし出会わないから、少しだけテンション上がったわ〜」と、茂雄からの茂雄の意味が、何となく理解できたような気がしたが、そうではなかったかもしれない。
「中嶋くんって、もしかして甲子園とか出てたりするの?」
唐突な質問が、あらぬ方向から投げ込まれてくる。
「いや、出てないですけど」
「野球部出身とかではないの?」
「帰宅部でしたけど」
「でもあれだ、野球観戦とかは好きなんでしょう?」
「好きでも嫌いでもないです」
「でも茂雄って名前である以上、ジャイアンツのファンではあるのよね?」
「特にファンはないですね」
「何だよ! キミ! 茂雄の持ち腐れじゃん!」
バイトの初日、僕はその先輩の勝手なキレ具合と自由過ぎる発想力に強烈な戸惑いを感じたのを今でも覚えている。
しかも、僕の名前のしげおは茂雄ではなく滋生と書いた。シフト表にもそう記されている。
長島美和と名乗ったその先輩は今、ドライヤーで息子の髪の毛を乾かしている。
5
一人五千円の会費を集めて開催された忘年会で、ちびちびとビールを飲んでいる。
雑居ビルの六階、チェーン展開する居酒屋の一室の片隅で、ちびちびと覚えたての酒を飲んでいる。
参加人数は十四名、もう少し広い部屋はなかったのかと疑いたくなるような、水槽のような部屋で、僕は新鮮な空気を欲している。
テーブルの上には飲み放題プランの料理が所狭しと並び、海鮮鍋がぐつぐつと煮詰まり白い湯気を立てていたが、気合の入れ方を間違えた隣人のフレグランスのせいで、その匂いはかき消されていた。
とりわけ潔癖症というわけでもないのだが、気心の知れない連中と鍋をつつくという行為に僕は、一向に慣れることがない。
「そっちお酒足りてる?」
幹事の中舘さんの気遣いに対して、隣に座る西本さんが「足りてまーす」と返し、程近い距離でのコール&レスポンスが繰り広げられている。
飲み放題で提供される料理のなかには食欲をそそるものがなくて、箸を伸ばす気にもなれない。
年齢を積み重ね、その数は二十を超えていたが、海鮮系の居酒屋のメニューはどうも口に馴染むことがない。
皆が箸を付ける前に、かろうじて取り皿にキープした白菜と長ネギとで、安酒を腹へと流し込んだ。
乾杯の音頭をとった店長の、朝礼時の校長先生の挨拶のような長話に耳を傾けると、職場環境の改善やら目標売上高更新といった硬い話題が続いていた。
テーブルに並んだ多くの皿から料理が消えていくとともに、部屋に漂う緊張感めいたものは弛緩し、無礼講となったテーブルの各所では、夫の悪口やら子育ての苦労話といったあるあるネタが披露されている。
白菜と長ネギをおさめただけの、胃の空腹をまぎらわせるようにして、それら話題へと関心を寄せてみたが、そのどれもが僕の耳には馴染むことがなかった。
持て余した時間を埋めるようにして、衝立のように立位したメニュー表を手に取って開くと、揚げ物のページにフライドポテト見つけた僕は、伝票にその注文をひっそりと滑り込ませる。
このプランの主役とも言える刺身の盛り合わせに一口も手を付けていないのだから、数百円程度の料金など安いものだろう。
提供されたフライドポテトとビールとの相性は良く、僕の口にもよく馴染んだ。
開始から小一時間が経過して、気の合う仲間同士がフルーツバスケットのようにして席を移動していく。
隣の西本さんは既に隣におらず、鬼確定の僕は、その場所に根を生やしたように座り続けていた。
「それいいね」
染色した髪色を褒めるような口ぶりで、皿に盛られたフライドポテトを褒めた長島さんが、隣に腰を下ろした。
「食べるものがなくて、困ってたんだよね」
口の中に数本放り込むと、温和な笑みを浮かべ、壁にもたれながら、ビールとフライドポテトをつまみにスマホ画面を眺め始めた。
「仕事にはもう慣れた?」と、スマホの画面に視線を向けたまま、おざなりに長島さんが聞くので、それなりにはと答えた。
これまでアルバイトはいくつか経験してきたけれど、スーパーマーケットの品出しという業務内容と僕の性格との相性は合っていた。テトリスのように、欠けた商品棚に黙々と商品を詰め込む作業は、他の業種ほど他者とのコミュニケーションを必要とはしない。とりわけ、この店の方針であるのか、レジ業務などとの兼任を求められることもなく、品出し作業に邁進できる環境は、僕には心地の良いものだった。同世代のバイト仲間も数人いたが、彼らとの特別な交流はない。干渉を得意としない僕の性格を知ってか知らずか、声をかけれることもあまりなかった。
元々人好きのする性格ではないし、野良猫のような性格である僕は、他人に懐かれることもあまりない。物好きな人が夜の公園を訪れ、開けられた猫缶に吸い寄せられるようにして食らいつき、その食事中の僅かな時間だけは、心を許す野良猫のような我儘な僕に対して、長島さんは一定の距離を保ちつつ、干渉をしてきた。
「唐揚げもいっとく?」
スマホの画面からメニュー表へと視線を移した長島さんが、政治家のようにして、その企みを口にするので、猫缶に釣られた子猫のようにして僕は、その企みに対して無言で頷いた。
空気を読まない店員が張り切り方を間違えて、
「お待たせしましたあ~」と大声を発して部屋へと入ってきたので、僕らの企ては早々に明るみとなり、幹事の中舘さんが「それ伝票は別だからね」と、一瞬で酔いが冷めるような威厳に満ちた言葉を発した。
長島さんはバレたかとばかりに舌を出し、
「スミマセ〜ン、自腹、了解で〜す」と呼応した。
元々の悪巧みの発端は、僕が注文したフライドポテトにあるのだけれど、その件には一切触れずに、長島さんはすべての罪をかぶり、「唐揚げ旨っ」と笑っていた。
6
「あんちゃん、これ何処にある?」と、頭上から声が降ってくる。
黙々と商品の補充を進めている最中、後ろを振り返ると、年配の男性がぴったりと、長友佑都のように背中に貼り付いていた。
男性の右手には、一枚の紙が握りしめられており、捜索令状のようにして、眼前に突きつけられている。
他人のことをあんちゃんと呼ぶ人を、僕はビートたけしと、この人ぐらいしか知らない。
その男性はよく店で見かける利用客であり、癖のある常連客として、かなり有名な人だった。
その横柄な口ぶりのせいか、従業員の間ではすこぶる評判が悪く、男性のことを得意とする人は少ない。
横柄な口ぶりに対して、その容姿も厳つい人であり、どことなく藤岡弘に似ているので、従業員一同その男性のことを、藤岡と呼んでいた。
俳優の藤岡弘さん本人は優しそうな人であり、穏やかなそうなイメージがあるが、我が店の常連客である藤岡は、真逆のタイプだった。
藤岡が手にする紙を受け取り目を落とすと、何やら文字が書き込まれている。
一筆書きとも思えるその文字は意外と達筆のようにも見え、達者なようにも感じたが、読むことも理解することも叶わなかった。
「あんちゃん、それ何処にある?」
本日二度目のそれ。それあるかと言われても、それのそれが示す商品名がわからない。
「何とお読みすれば良いのでしょうか」と、従業員らしく一先ずへりくだり、一言聞けば済む話であるが、藤岡の非礼に対して妙な意地が働き、口元がミッフィーになる。
漢字二文字の商品名であることは理解できるし、最初の一文字は馬と読めなくもない。
一枚の紙を手にして思案する僕の様子を見て、口元をニヤつかせる藤岡がますます気に入らなかった。
藤岡から出題されたクイズの答えを探すこの時間、補充作業は完全に止まっていて、分配されたノルマは確実に消化できずにいる。
藤岡の背後に社員の大森さんを見つけ、対応を頼んでみたが、
「ごめん、サービスカウンター呼ばれてるから、そっちでお願い」と、悩む様子もなく、あっけなく断られた。
数メール先に同じく、商品補充に精を出す中舘さんの姿があったが、僕は藤岡よりも中舘さんを苦手としているので、声をかけることすら憚られた。
レジ付近に目をやり、応援を頼めそうな人を探したが、レジ前に列をなし、床に置いたカゴを蹴り進める年配の男性客しかいなかった。
僕は眼の前にいる藤岡も嫌いだが、床に置いたカゴを蹴り進める客も、同じぐらい気に入らない。
そもそもの話、カゴの中の商品は購入予定のものであるが、足で蹴り進めるそのカゴは、店の立派な備品でもあるし、何しろ衛生的とは言えない。
物や人に対して、ぞんざいな態度をとる人を、僕は苦手としている。
そもそも目の前にいる藤岡は、自分で商品を探し出すという努力をしたのだろうか。その努力をした上で、こんな無理難題を押し付けているのだろうか。
どこを探しても商品が見つからずに、店員に謙虚な姿勢をもって尋ねてくる客と、その努力を始めから放棄して尋ねてくる客とでは、本質的に大きく異なるように思える。藤岡はどう考えてみても後者に該当する客であり、明らかに奥ゆかしさという美徳に欠けている。
社員からの助力という選択肢を断たれた僕には、同僚からのヘルプという選択肢が残されていたが、この職場において、孤立する僕にその選択肢はないにも等しかった。
被害妄想が過ぎると、人は幻覚を見るというが、馬に続く漢字一文字が、鹿に見えてくる。
「どうしたの?」
妄想に囚われ、冷食売り場の前でフリーズする僕に対して、背後から向けられる声があった。
トラックカートに段ボールを山積みした長島さんが通りかかり、現実に呼び戻される。
「あの、こちらのお客様が、この商品をお探ししているみたいなんですけど……」
普段使いしない片言の丁寧語のせいで、思わず舌を噛みそうになった。
「どれ? 貸してみて」と、長島さんは紙をひょいと奪い去ると、
「ああ、馬芹(クミン)ですね。お探しの商品ならこちらです」と、藤岡を誘導し、調味料が並ぶ売場へと消えていった。
*
「おつかれ〜」と、肩を叩かれ振り向くと、右の頬に長島さんの人差し指が深く突き刺さった。
呆気にとられる僕を前にして長島さんは、
「いやいや今の時代、こんなに見事に引っかかる人っている?」と、申し訳なさそうにしながら、実はそうではなさそうにして、笑いをこらえていた。
「藤岡チャレンジ、この店では洗礼みたいなものだから」
長島さんは隣に腰を下ろすなり、指を食い込ませたお詫びでもするようにして、ミルキーを一粒を差し出してきた。
「中嶋くんはいつからだっけ? ここのバイト」
「半年ぐらい前からですけど」
「マジで? 中嶋くんって強運の持ち主かもね。半年間も藤岡チャレンジに合うことなく、のうのうと働いてこれたんだから」
この店に勤務する従業員は遅かれ早かれ、藤岡からの挑戦状を受け取ることになるという。
「でも藤岡さん、今はあんな感じだけど。まあ実際は藤岡さんかどうかは知らないけど、昔はさ、よく奥さんと二人で来てたんだよね。でも一年ぐらい前かな、奥さんが急に亡くなったらしくて。それからしばらくの間は見かけることもなくなったんだけど、半年前ぐらいからまたちょくちょく見かけるようになったんだよね」
長島さんはペットボトルのお茶を、手元でくるくると回しながら、
「また店に来るようになってからさ、店員を捕まえては、クイズを出すようにして話してかけてるみたいなんだよね。商品名が書かれた謎の紙を突きつけて、店員に話しかけたりして。お客さんとしては、迷惑客にあたる部類だけど、私にはそうは思えないだよね」
その言葉に対して、異論という感情が、表情に滲み出てしまっていたのか、長島さんは僕を諭すようにして、
「たぶん、誰かと話したいんだろうね、きっと。奥さんと来ていた頃から何だか気難しそうな人で、奥さんに対しても乱暴な口ぶりだったけど、買い物カゴは必ず持ってあげてたよ。今はショッピングカートなんて便利なものがある時代なのにさ。それは使わずに必ず手に持って、奥さんの隣に寄り添うような感じで、ピッタリとくっついて。あれぐらいの年齢になるとさ、初対面の人に対して、どう接すればいいのかわからないだろうね。話はしたいけど、どう話しかけていいのかわからないんだと思う。だからそのきっかけが、謎のクイズっていうかさ。まあ、出題されるほうは、たまったもんじゃないけどね」
思いがけずに知った藤岡のバックボーンと、耳に届いた優しい言葉の数々が、僕には子供の頃に体験した読み聞かせのように聞こえていて、藤岡への言葉のはずなのに、なぜか少しだけ、優しい気持ちになった。
「あれ? もしかして感動してる? 中嶋くんってチョロすぎない?」
パンパンと、豪快に背中を叩かれた僕の口の中には含んだままのお茶が残っていて、気道へと誤って入ったそれが、僕を余計に慌てさせ、より涙目となった。
人が見せる寂しさに対して僕は、いくらか脆いところがある。
7
いつの頃から、人との距離の取り方が、わからなくなっている。友人と呼ぶ人間との距離の取り方も、恋人と呼んだ人との距離の詰め方も、僕は不得手だ。そもそも僕という人間自体を、僕自身がよく理解していないのだから、それも無理がないことのように思える。
「中嶋くんって何考えてるのかさっぱり分からない」
これまで親しい関係性を築いてきた人と交わされる会話のなかで、よく耳にする科白の一つとして、挙げられる言葉がこの一言だった。おそらく、口数の少ない、喜怒哀楽にも乏しい、リアクションの薄い人間に対して多く使われる言葉であろうことは想像もつくが、その時々において、芽生える感情めいたものは少なからずある人間だと自負しているし、何も考えずに、ゾーン(フロー状態)に入るようにして、常軌を逸した行動をしたことは一度たりともないけれど、その感情を表現するという能力に関して著しく欠けている僕は、他者から冷めた視線を向けられることが多かった。
人としての温度も低ければ、平熱も三十五度台と、その体温すら低い。
人から好感を持たれようと意識するあまり、身の丈に合わない行動をして、失敗する人間の最たる例が僕という存在であり、他者から求められる役割に対して応えようと努力はするものの、自分との乖離を強く感じてしまい、諦めてしまう癖がついているのも僕という人間だった。
「いつも同じモノ食べるのって飽きない?」
心の底では、新たなことに挑戦したい気持ちはあるものの、定番商品や定番メニューを選択し、失敗のない人生を選ぶことを良策とする気配さえあるし、少なくとも情熱大陸に取り上げられるような、魅力的な人生は送れてはいない。
無地のTシャツのように、誰からも好まれる人間になりたかったけれど、一点に僅かな染みが付いた僕は、清潔な人間などではなく、誰れからも好かれるような人間になることは叶わない。
「中嶋くんって大事なことは何も言わないよね」
そんな不良品ともいえる僕を慕ってくれて、交際した人も何人かいたが、その期間は短かったように思う。恋愛という事象すら、僕には苦しいものであり、楽しさを感じるものではなかった。
相手からの失望の色が見えないように、常にプレッシャーを自らにかけ続け、求められる姿を装う時間が長ければ長いほど、愛や恋といったものの言葉の意味が分からなくなっていく。
失恋は本来悲しむべきことなのに、心のどこかで、その恋の終わりに対して安堵し、ほっとしている自分がいた。
好きという感情に偽りはなく、こんな自分を好いてくれた相手への感謝もあるのだが、別れが決定的となった瞬間、旅先から我が家へと辿り着き、一息つく瞬間のような安堵感が、失恋の寂しさを勝ることが多くあった。
失恋をして、悲しむことのできない自分自身に対して僕は、失望すら抱く刹那があった。
8
「なかしましょうられす」
少し恥ずかしそうにして、そう名乗った少年は、彼女の影からひょっこりと現れた。
自由過ぎる質問をした先輩と、その質問に対して困惑した新人である僕は、いくつかの共通点をもって不思議と意気投合した。
黙々と品出しをして、後入れ先出しで商品棚を埋めながら、その退屈な時間も埋めていく。
レジ業務を兼任する長島さんとは担当区域も異なり、仕事中は言葉を交わすこともなかったが、休憩時間に交わされる何気ない会話のなかの、互いへの興味のようなものに対して、その答え合わせをするようにして、時間を費やしていった。
「川崎って確か、競馬場ってあったよね?」と、隣の隣に座る長島さんが声をかけてくる。
パイプ椅子が数脚しかない手狭なバックヤードでは、シフトも休憩時間も重なることの多い僕らは、必然的にこの配置になることが多い。
隣同士ではなく、椅子をひとつ分空けた距離感が、僕の厭人的な性格を表すようでいて、少しだけ可笑しかった。
「地方競馬ですけど、川崎競馬場はありますよ」と、スマホに表示されたフリマサイトの新着商品をチェックながら、僕は答えた。
「あたし、競馬場ってものに、一度行ってみたいんだよね」
長島さんはそう言いながら、総菜コーナーで購入したと思われる、特売品の一口メンチカツを頬張った。
「行けばいいじゃないですか、普通に」
「へも競馬場って、あたしの中では危ないイメージひかないんだよね。からまれたりしらい? ガラの悪い人たりに」
一口メンチカツを一口で流し込もうとする人を僕は初めて見た。
「それって完全に誤解だと思いますけど。平日の昼開催の時は、ザ競馬場って感じの客層ですけど、内馬場にはキッズスペースもあって、最近はファミリー層やカップルの来場も多いですよ」
川崎競馬場の広報でもないくせに、僕はその魅力に関して熱弁をふるっている。
「へえ、詳しいんだね。中嶋くんもデートとかで利用したりしてるの?」
「してないですよ、別に」
「でも詳しくない? さすがは川崎生まれ川崎育ち、物知りな君は整った顔立ち」
「そんなヒップホップのリリックみたいに、人の人生で韻を踏まないでくださいよ。競馬場にも行ったことがないって、どんだけ温室育ちなんですか」
ヒップホップにおけるビーフの元ネタは、1984年にアメリカで放送されたウェンディ―ズのテレビCM「肉はどこ?」(Where's the beef?)に由来している。
「でも川崎ってあれでしょ? 有名になりたきゃラッパーになるか、(自主規制)になるかの二択しかない街だよね」
「いやいや、川崎ってそんなアンダーグラウンドな街じゃないですから。まあ一昔前は荒れてるようなところもありましたけど、今はそんなこともないです」
「へえ、そうなんだね」
実際、国道から一つ道を挟んだ通りには(自主規制)があったり、シネコンからそう遠くない距離には(自主規制)があったりするが、それはあえて伏せておくことにした。
「長島さんって、競馬が趣味なんですか?」と、僕は率直な疑問を長島さんに投げかけた。
「いや別に、趣味ではないけどね」と、長島さんは素っ気なく、その疑問をはぐらかす。
「馬券を買うだけなら、競馬場に行かなくても安全に買えますよ。今はネットでも買えますし、良かったらやり方教えますけど」
「いや別に、馬券を買うことに興味はないんだよね」
「いやいや、競馬場に行く理由に、馬券を買う以外に何があるんですか」
テーブルの上に置かれたアルミ製の灰皿を、長島さんの指先が軽くもて遊んでいる。
ターンテーブルの上のレコードのようにして、くるくると回り、その回転音だけが静かに響いていた。
数秒間の沈黙が部屋を包んだあとに、この雑談でしかないポップな会話の中で、何か重大な秘密でも告白するかのようにして、長島さんはその重い口を開いた。
「馬がね……」
「はい」
「馬がさ……」
「はい」
「馬が好きみたいなんだよね」
「どなたが」
「馬が好きみたいなんだよね、知り合いが」
「はあ」
「だから一度見せてやりたいなと、知り合いに」
「はあ」
数秒間の沈黙が流れたあとに、その思ったほど重大でもなかった秘密の吐露は、休憩時間の終わりとともに終了した。
パソコンに休憩時間終了の打刻をして、仕事に戻る際に僕は、
「そんなに競馬場に興味があるなら、来月川崎開催ですけど、行ってみたりしますか?」と、長島さんに聞こえるか聞こえないかぐらいの声でひとりごちた。
担当するトラックカートの上には、各銘柄の牛乳が山積みになっている。
牛乳の陳列ではいつも、手首がやられる。
冷えに弱い体質の僕は、トラックカートに積まれた冷食の山に、いつも気が重くなる。
二週間後の土曜日、待ち合わせ場所に現れた長島さんの隣には、一人の男の子がいた。
「これ、翔太。私の息子」と、素っ気なく子供の自己紹介を済ませた長島さんは、何も飛んでいないはずの空を熱心に眺めていた。
「もしかして友人の女子でも来ると思った?」
少しバツの悪そうな顔をして、困ったような表情を浮かべる長島さんに対して、
「まあ、想定内です」と、苦しい言い訳をした。
どうやら長島さんはシングルマザーのようでいて、翔太くんと名乗るその三歳の少年と二人暮らしのようだった。
人見知りで困るんだよね~と、ぽんと少年の背中を押した。
僕の前にとことこと歩み寄った男の子に対して僕は、「初めまして、翔太? 昇太? くん」と、大人げない人見知り全開の挨拶をする。
翔太くんは無言を貫いたまま長島さんの元に戻り、背中に隠れると、太もものすき間から、僕を興味深そうに見ていた。
「翔太くんって名前、何か由来でもあるんですか? 茂雄からの茂雄じゃないですけど」
「特にないよ、別に。たまひよとか命名辞典とか、色々調べまくったんだけど、結局は響き? というか直感? ていうかセンスで決めちゃった」と、長島さんはおどけてみせた。
元旦那さんの名前から一字取って名付けられたとか、そんな下世話な想像が膨らんだけれど、あえて口にはしないでおいた。
「馬がさ、好きみたいなんだよね、この子がさ」
「はい」
「日曜日に競馬中継って放送してるじゃない? あれをテレビの前で夢中になって見てるからさ」
「はい」
「たぶん好きなんだろうなあと思って、本物を見せてあげたら喜ぶかなあってね」
「はあ」
「じゃあ、案内してもらおうかな中嶋くんに」
翔太くんと手を繋いだ長島さんは、入場ゲートへと意気揚々と歩き始めた。
9
午前七時五十分、休日にしては朝早く目覚めてしまった僕は、床に転がったリモコンを手探りで捜し出し、テレビを点けて、天気予報と星座占いの結果を気にかけながら、画面に映る仔犬の様子を眺めていた。
全国の飼い犬を紹介する短尺のコーナーの、そのVTRに登場する仔犬の姿に僅かな癒しを感じながら、布団から這い出て、部屋の窓を開けた。
外は晴天に恵まれていて、窓から飛び込んできた子供たちの笑い声が一日の始まりを予感させ、吹き込んできた生暖かい風が、薄汚れたレースのカーテンを優しく揺らした。
空腹を感じてはいなかったものの、それが正しい行いであるかのようにして、習慣的に冷蔵庫の中を物色する。
冷蔵庫の中には物が少なく、冷気が均等に隅々まで行き届いていて、その扉を開くと季節が逆戻りした。
本来は食品を冷やす目的として作られた家電であったものが、この部屋に置かれた冷蔵庫(特に夏場)は、家主の涼をとる手段として活用されている。
食品の衛生管理のために、その環境を維持する冷蔵庫の機能に対して、こんな活用の仕方しかできないことを申し訳なく感じることが、罪悪感としてあった。
賞味期限が一昨日までの牛乳と、賞味期限切れの食パンを消費して、今朝の朝食とする。
休日とはいえ、特にこれといった予定もなく、スケジュール帳は白いままなので、再び布団へと潜り込もうとすると、一年中冬眠状態のケータイから音がした。
通知音が部屋に響くという現象に、新鮮な驚きを覚えながらロック画面を解除すると、長島さんからの着信が残されていた。
着信だけにとどまらず、同時にメールも受信されていて、そこには『シキュウ、レンラク、タノム』と、電報のようなふざけたメッセージが残されていた。
先日参加した忘年会で、社交辞令的に連絡先の交換をした覚えはあったけれど、まさか本当に活用されるとは思わなんだ。
『メール見ました』
連絡を取り合う間柄の友人が一人もいないので、返信メッセージの内容に数分間頭を悩ませた僕は、必要最低限の内容を入力して恐る恐る返信ボタンを押すと、送信終了の表示とともに即、部屋に着信音が鳴り響いた。
「もしもーし」
「……」
「もしもし、中嶋くん?」
「……はい」
「良かった〜、繋がって。ごめんね朝早くに、寝てた?」
「はい、いや、はい……」
「どっちよ」
「はい……、起きてました」
「なら良かった、ごめんね、休みの日に」
「はい……」
矢継ぎ早に繰り出されるエミネムのフロウのような問いかけに対して思考が追いつかず、スピーカーから聞こえる声に圧倒されていると、声のトーンは突如として愁いを帯びて、仰々しい朝の挨拶とともに、シフトの変更を打診された。
どうやら翔太くんが風邪をひいたらしく、病院に連れていくというので、僕はお大事にとだけ挨拶を返して、快く代役を買ってでた。
部屋の鍵を施錠して、自転車のサドルにまたがり、急いで職場へと向かった。
風を切るロードバイクは、三ヶ月分のバイト代を注ぎ込んで購入した。
舗装路での高速走行と長距離移動に適したロードバイクは、ひとりの時間を好む僕との相性が良かった。
軽量なフレームと細いタイヤで組み上がったロードバイクは保管場所に困らず、空気抵抗を抑えるドロップハンドルは少ない労力でスムーズに遠くまでからだを運ぶことができる。
公共機関を利用することが極端に少ない生活には、もはや必需品ともなっている。
職場の駐輪場にロードバイクを停め、従業員専用の出入り口に向かう途中、点字ブロック上に居座った数台の自転車の姿が視界に入った。
そのまま立ち去ろうとする僕とすれ違うようにして、一台の自転車が通り過ぎ、従業員らしき人が少し慌てたようにして、点字ブロック上に停められた先客に習うようにして自転車を並べていった。
就業時間は迫っていたが、僕は通り過ぎることができず、居座った自転車を正しい場所に誘導するようにして停め直した。
おはようございますと、いつも通りの覇気のない挨拶をすると、店長室でパソコンの画面と睨み合うようにしていた店長が顔を上げた。
「あれ? 中嶋くん、今日シフト入ってたっけ?」
店長の問いかけに対して僕は、長島さんから連絡を受けたことを話し、代理を頼まれたことを告げた。
「お子さんが病気なら、まあ仕方がないか」と、店長はモゴモゴとひとりごちて、浮かない表情を浮かべている。
従業員同士、シフトの交代をすることはよくあることであり、特別なことではないはずだが、店長の曇った顔が気になった。
その理由を尋ねる僕に対して店長は、
「いや、長島さんには午後からレジに入ってもらう予定だったんだけど、どうしようかと思ってね」と、僕への視線をパソコン画面に映るシフト表に戻しながら、視線の先にいる無機質な相手と話し始めている。
「中嶋くんにはレジ業務はできないだろうし……」
時間にして一秒にも満たない視線が、僕の右手に注がれる。
店長自身、注いだ本人すら気が付かないほどの無自覚な視線に、僕は容易に気づくことができる。
なぜなら幼少期から、その種の視線を注がれることに、慣れ親しんできた習慣があるからだ。
店長は、「まあレジ業務のことはこっちで調整するから、中嶋くんはいつも通り商品補充と品出しをしてくれればいいから」との言葉を残すと、店長室の奥へと消えていった。
僕はいつも通り、品出しと商品補充だけを任されて一日の勤務を終えた。
僕の右手にはいつも通り、中指が欠損した四本しかない指が備わっている。
その四本しかない右手はいつも、僕が望まない視線を集めることになる。
10
「それ、どうしたの?」と、席を隣にするクラスメイトから聞かれたことがある。
赤いさくらんぼの付いたヘアゴムで黒髪をまとめたツインテールが印象的な女の子で、僕の初恋相手だった。
初恋相手の興味に対して僕は、「ネズミにかじられた」とか、「困っている人にあげてしまった」とか、アニメの主人公になぞらえ、ファンタジーな回答に終始した。
中央列欠指症。
少し真面目な話をして、僕が神様から与えられた試練について真剣に語るとすれば、名付けられた病名はこれにあたる。
先天的な障がいである中央列欠指症は、手の中央の指や組織が欠損する先天的な疾患だ。
赤ん坊の手が作られる過程は、まず始めにえらのような手板ができて、それから順次枝割れをして、複数の指に分かれていく。
手板の中にはそれぞれの指に分かれる細胞が密集していて、それぞれの指に分岐するように指令が下ると、密集した細胞は五つの列を成すように集まっていき、母指から小指へとなっていく。
この過程で細胞が二組の細胞や四組の細胞になってしまうと、それが中指の欠損となって現れ、四本指の手が作られる。
欠損として四本の指が肉眼に映るとはいえ、実際にレントゲンで撮影してみると、示指や環指の骨は太く写り、中指となるはずだった細胞が示指や中指に移行した結果と推定されるように、画像からは想像することができる。
指列誘導障害では手が分かれるだけでなく、合指や多指、屈指などを合併することもある。
発生率は手の先天性疾患の中でも少なく、約十万人に一人とされている。
治療は主に整容面の改善を目的に行われ、手術は通常一歳以降の幼少時に行われるようで、僕も右手もその通例に習って作られた。
小学校の体育の時間、初恋相手の女の子から、怖いから手を繋ぐのはイヤだと、子供らしい無自覚な悪意を向けられた僕は、その日から他人から向けられる無自覚な悪意に対して、敏感になっていった。
あれは運動会の演目だっただろうか、隣同士、手を繋いで輪になることが先生から義務付けられたが、その女の子が頑なに僕との握手を拒んだものだから、クラスの輪は、僕の隣で途切れた。
それ、どうしたの?
生まれた時から無いものに対して、どう説明すれば良いのかわからない。
あったものが無くなった理由についてはいくらでも説明ができる気がするけれど、始めから無いものが無くなった理由については、説明することができないような気がする。
失った感覚すらないことに失った感想を求めるようなものであって、失ったという感覚が初めて芽生えたのは、初恋相手からの「怖い」の一言だった。
僕の右手はそんなにも、怖いものなのだろうか。
11
自分の障がいと向き合うことに一番苦労したのは、小学生の頃だったと思う。
鉛筆を握ることはできたし、箸やスプーンも上手く扱うことはできたけれど、僕が可能とするものは、クラスメイトの半分にも満たなかったような気がする。
時間をかければ可能となることが、早々に見限られて、できないこととして次々に処理されていく。
本来は可能であったはずのものの多くことが、僕の手のひらからは容易にこぼれ落ちていった。
他人から距離を置くようにして学生生活を送ってきた僕にも、関係を築いた相手は少なからずいた。
高校生となり、不格好な右手さえポケットに放り込んでおけば、他の生徒よりも背が高く、多少見映えのした僕は、変わり者の女子から交際を申し込まれることがあった。
教室では無口な僕も、二人でいる時には普通に話すことができた。
その会話の内容は恐ろしく退屈なものだったかもしれないが、隣にいる彼女はケラケラとよく笑う明るい女の子だった。
彼女との初デートは彼女が観たいという映画だった。
駅から少し歩いた場所にあるシネコンは、ヨーロッパの街並みをイメージされて作られたもので、迷路のような柵が設置されたチケット売場には、休日になると行列が作られる。
僕らがデートとして訪れたのは日曜日だったから、当然のことながら、僕らもその行列の中にいた。
行列に並ぶこと十数分、チケット売場の女性にガラス越しに作品名を告げて、上映回と座席とを選び、料金を支払う。
僕らは学生という身分であったし、初デートということでもあったから、彼女は肩に下げたトートバッグから財布を取り出して、千円札を二枚準備した。
僕もジーンズのポケットから財布を取り出して、カウンターの上で広げていると、チケット売場の女性から「障がい者手帳はお持ちですか?」との声が耳に届いた。
僕が聞こえていたということは、隣にいた彼女にも聞こえていただろう。
チケット売場の女性の口元には、ヘッドホンから伸びるマイクがぶら下がっており、ガラス越しにもよく通る声をしていた。
「障がい者手帳はお持ちではないですか? お持ちでない場合、通常料金となりますがよろしいですか?」
僕がいつ、通常料金以外の支払いを望んだのだろう。
僕はチケット売場の女性から向けられた善意には応えることができず、黙って千円札を二枚差し出した。
それまで順調だったはずの会話は途切れ途切れになっていき、座席として僕は、彼女が選んだ座席の左隣を選択してしまったものだから、売店で購入したハーフ&ハーフのポップコーンを利き手ではない左手で掴むことになって、障がいのある右手よりもぎこちない手つきでポップコーンを口に放り込むことになった。
ぎこちない会話は映画のあとも解消されることがなくて、日が落ちる前に、初デートは早々に解散になった。
僕はそれ以来、スター・ウォーズシリーズを苦手としている。
12
今年の夏は、暑くなるでしょう。
気象予報士と呼ばれる人物がテレビの中で、スタジオに設置されたモニターを指差しながら、数ヶ月先の未来予想図を語っている。
服装は薄着となって、休日が増え、開放感に包まれるその季節を、僕は苦手としている。
苦手というよりも、なくなればいいのにとさえ思っている。
服装として半袖という衣類を、僕は決して好むことがない。
好まないこととはいえ、裸で仕事に行くわけにもいかないし、長袖を着続けるという堪え性もない僕は、休日を利用して、商業施設に入る衣料品店に夏服を買いに来た。
綿やナイロンやポリエステルとその他諸々の混合物でしかないものに、今僕は囲まれている。
この自分とは少し不釣り合いに感じる世界の違和感に、今僕は耐えている。
少し場違いな場所にいるという違和感と、自分にはそぐわない場所にいるという劣等感の、そのどちらもに今僕は苛まれている。
ユニクロという世界。
この大衆的な価格帯の、リーズナブルで良質な商品を扱う、どちらかといえば庶民には間口の広い店であるが、僕にとっては少々敷居が高い。原因はひとつだけ。頭の先から爪先まで、清潔な衣服に包まれた店員が、生活感しかない衣服を纏った僕を観察するようにして見る、あの視線が嫌で堪らないのだ。ディスプレイされたマネキンのような店員から視線が注がれることに、僕はかなりの苦手意識を持っている。この場所では、特別ではない人間が特別な人間を見下す瞬間があるような気がしてならない。
僕はこの場所へ来る度に、店員の目を盗むようして立ち回り、商品棚の間を縫って、目的の商品を探し出す。
目的の商品が陳列された棚の前には、商品をたたみ直す男性店員がいて、僕は店員がその場所を離れるまでの間、仕方なく店内を徘徊する。視線の端には常に店員を捕らえながら、店内に点在する人混みの中に紛れる。
店員の衣服に目を向けると、革靴にダメージジーンズ履いている。自分の下半身にもダメージジーンズはあるのだが、店員のそれとは明らかに異なる。店員のダメージはお洒落を目的として加工された、いわば人工的な装飾の産物であるのだが、僕のダメージは使用に伴う劣化で生じた傷みでしかない。ダメージという言葉自体のもつ意味合いが異なり、僕のダメージは店員のダメージと比較して、見劣りするダメージでしかない。この瞬間に感じることになるモヤモヤとした痛みは、初恋の女の子から手を繋ぐことを拒まれたあの瞬間や、チケット売り場にて、周囲の人々から注がれることになったあの視線の強さとよく似ている。
店員が商品をたたみ直す手を休めないので、目的の商品に一向に近づくことができない。
臆病な自分を草食動物のように感じることがある。
商品を美しく演出するために設置された照明が、サバンナに浮かぶ太陽のようにして、容赦なく小心な僕を照らしていた。
店員が接客のために縄張りを離れた隙に、僕は目的の商品を手に取り、一目散に試着室を目指す。
試着室の前は、往々にして女性店員の生息域となっており、試着のためには、女性店員の前を通過して、試着室に入るしかない。例の如く、女性店員もまた、小綺麗な衣装に身を包まれている。
試着室の前には数人の試着希望者が列をなしており、思わず舌打ちをしたくなる。そこで行われる女性店員による品定めの時間が、僕には苦痛で仕方がないのだ。商品を左手に持ち替え、右手を商品の下へと忍ばせる。待ち時間を知らせる案内板が疎ましく、この場所で感じる一分一秒は異常に長かった。
空室となった試着室に、女性店員の案内も待たずに足早に駆け込む。
この場所での僕は小動物というよりも、もはや不審人物でしかない。
試着室という檻の中に設置された巨大な鏡に映し出された自分の姿を目にすると、頭の中に落胆の二文字が浮かぶ。なぜいつも自分はこうなってしまうのか。同じ生き物であるのにも関わらず、明らかに生じている個体としての差が鏡の中にはあった。なぜ自分はこうなのだろう。僕は檻の中で、いつも自問自答を繰り返すが、その答えはいつも見つからない。視線を落とすと滑稽な右手が手首の先に付いている。生まれた時から今日まで、一日も欠かさずに見慣れた風景が鏡の中に映る。どこかバランスの悪い四本指の右手。この右手に注がれる興味本意な視線は、衣料品店ではより強度が増すような気がした。
既製品の中で、一着だけ存在する奇抜な衣装のような、ユニクロという店の売場で、森英恵の衣装を扱うような違和感が、僕の中にはあった。
カーテンの隙間から、女性店員が薄汚れたスニーカーを履きやすく、向きを直してくれているのが見えた。
女性店員からの干渉を嫌うようにして、ピン止めは自ら行い、レジへと向かう。
使い古した財布の中から、使い回された紙幣を取りだし、代金を支払う。
四本指の手のひらで、うねうねと器用に小銭を数えるものだから、レジの店員は物珍しい生き物でも見るようにして、でも見てはいけないもののようにして、視線を泳がせる。
店の外に設置されたオブジェのようなベンチが見える。
裾直しを待つ間、僕はあのベンチに腰を下ろして、自分とは不釣り合いな世界の様子を眺めることになるのだろう。
ボロは着てても心は錦ということわざがあるけれど、服もボロなら心もボロである。
その少々傲慢な、自意識過剰な劣等感に呆れてしまう。
破れたジーンズの間から覗く皮膚を覆い隠すようにて脚を組み直し、薄汚れたスニーカーに目を落とす。
数十分後には、あの場所にまた戻らなければならない。
心を震い立たせなければ、再びあの場所には、戻れないような気がした。
13
「この前、助かったわ、ありがとね」
テーブルの上に置かれた眼の前にあるマクドナルドの紙袋と長島さんを交互に見た。
「それ、この前のお礼。中嶋くん、いつも昼食べてないから丁度いいと思って」
スーパーマーケットの目と鼻の先、国道を挟んで向こうの通りには、マクドナルドのドライブスルーがあった。
「私のもあるし、別に気にしなくていいよ」
長島さんは自分の前に置かれた紙袋を広げて、早速ストローに口をつけはじめた。
「ドリンク、普通のコーラにしちゃったけど、別にいいよね」
親指と人差し指で摘んだフライドポテトを、ハーマイオニーの杖のようにして、僕の眼の前に置かれた紙袋を指している。
僕は節約のために、というか元々食が細いせいもあって、昼食を食べることはない。ましてや外食をすることもないし、テイクアウトを利用することもなかった。
「冷めないうちに食べちゃいなよ」
長島さんの手にしたフライドポテトは先程までの硬さを失い、自信を失った男性器のように重力に負けている。
「もしかして、フィレオフィッシュ嫌いだった?」
置かれた紙袋を開けると、フィレオフィッシュの水色の箱が見えた。
長島さんの前には、高級ブランドのイメージカラーをしたジュエリーボックスのような箱が口を開けていて、フライドポテトにつけるケチャップの取り皿として利用されている。
人からの向けられる善意を、憐れみとして受け取ってしまうことがある。
好意を寄せる相手から、その手の善意を向けられると、自分がとても矮小なものに映る。
揃いのTシャツを着て、二日間のパーティーをぶち上げるテレビ局が、可哀想を演出して涙を誘う。
演出された可哀想に酔いしれた人々が、少し気が大きくなって、財布の紐を緩めはじめる。
数億円の募金が集まっても、僕には一円たりとも届かない。
ルッキズムの中心にいるアイドルが、会場に集まったファンから黄色い声援を送られて、メンバーへの感謝の手紙なんてものを突然読み始める。
僕らの生活とメンバーへの感謝の手紙に、一体何の関係性があるのだろう。
ギャンブルで数億円を溶かすフリーアナウンサーが、仏像のような顔をして、涙で頬を濡らす。
ボートレースをはじめとした公営競技の売り上げ金の一部は、主催する地方自治体の財源として納められ、地域の小中学校や病院、福祉施設などの公共事業に広く活用されている。
フリーアナウンサーの涙を偽善と呼ぶ人々に伝えたい。
ギャンブルという方法でしか、募金に貢献できない人物が、この世界にはいるということを。
ただ一言、お気遣いありがとうございますと伝えればいいだけなのに、なぜかその一言までの距離が遠く、口からすんなりと出てこなかった。
それが見栄なのか、何なのか、自分でもよくわかない。
小学生の男児が好きな女の子に意地悪をしてしまうような理不尽な感情が、その時の僕の中には渦巻いていた。
長島さんからの気遣いを、施しと誤認した僕は、椅子から立ち上がり、ディッキーズのポケットから小銭を取り出して、「いくらでしたか?」と尋ねた。
長島さんは目を丸くして、不思議な呪文でも聞くかのようにして、僕を見上げている。
「別にお礼とかはいらないんで。自分の分は自分で払います」と、手のひらにいっぱいに小銭を広げた。
このセットの価格はいくらなのか、五百円か六百円か、僕は外食をしないので、その相場がわからない。
とりあえず僕は、手のひらの上で様々な種類の硬貨の中から百円玉を七枚選び出し、テーブルの上に並べた。
その様子を長島さんは、奇妙なものでも見るようにして眺め、その視線は変わらずに、テーブルの上に置かれた僕の右手を捕らえている。
そんな視線に対して「またか」とは思ったものの、善意に対して悪意を向けるのはなぜだか筋違いのような気がして、僕はそのまま椅子に腰を下ろし、黙って紙袋を広げて、ポテトを数本口に放り込んだ。
長島さんの食べる手は完全に止まっていて、食べる気は失せているようにも見えた。
「色々すいません」と、意味もなく謝罪の言葉が口をついた。
こういう時には先に謝ってしまうのが良いことのように思えたし、僕は謝ることには慣れている。
「なんか、色々すいません」
僕はポテトを摘む手を、右手から左手に切り替えた。
「色々すいません」
「色々って何が?」
長島さんは一言だけ疑問を口にすると、射抜くような視線で、テーブルの下に隠された右手を見ている。
「いや、だから、色々すいません」
「だからって、何が?」
「いや、だって、ずっと見てるから」
僕は自分の視線を左手の先にあるポテトから、右手へとずらした。
「え? ごめん、何か感じ悪かった?」
催眠術から冷めたタレントのようにして、大袈裟なリアクションをする長島さんが嘘臭く見えた。
「いや別に、感じが悪いというか、感じが悪かったのはこっちのほうなんで」
「感じが悪いって何が? 何言ってるのか全然わからないんだけど」
長島さんは本当に言葉の意味がわからないような素振りで、
「逆に器用に数えるなあって、感心して見てただけなんだけど」と、言った。
言い訳のような、この慌てたようなリアクションを見るのは、もう何度目だろう。
「なら、いいんですけど」と、少し棘を含んだ言い方になった。
狭いバックヤードという空間ではこれ以上、空気を悪くすることを望んでいない僕は、目の前にある食べ物を早く胃の中におさめてしまおうと、口に詰め込む量を増やした。
「昔から思ってたんだけど、中嶋くんってさあ、ちょっと自分を卑下しすぎじゃない?」
予想すらしなかった台詞を耳にした僕は、何一つ言葉が出てこない。
「私の視線が不快に感じたなら謝らなきゃいけないと思うけど、そんなことでいちいち謝ってもらってたら、誰もパラリンピックなんて見れないよ」
なぜここで、パラリンピックの話が出てくるのだろう。
長島さんの視線は僕の右手を捕らえながら、
「いやずっと思ってたんだけどさ、私より器用だよね、その右手。普通のオリンピックに比べてパラリンピックってあまり放送しないけど、やってると結構見ちゃうんだよね、私は。視覚に不自由なものがあったり、手足に不自由さがあったりする選手が、器用に泳いだり、走ってたりするじゃない? あれ、完全に私よりも速く走ってるし、遠くに高く跳んでるし、上手く泳いでる。私なんて、身体に何の不自由さもないのにカナヅチだからね。凄いものは普通に凄いと思わない? てか、凄いと思っちゃいけない?」
長島さんは少し怒ったようにして、語気を荒げた。
はっとして、何かに気づいたようにして、長島さんは慌ててストローで黒い液体を吸いはじめる。
「いや、ごめん、なんか大人げないわ、私。何ムキになってるんだろうね」
長島さんは席を立つと、紙袋を少し乱暴に掴んで、「ごめん、外で食べてくるわ」と、部屋のドアを開けて出ていった。
テーブルの上には七百円がそのまま残されていて、僕の前には自信を失ったポテトと、炭酸の少し抜けた、氷で薄まった黒い水が残されていた。
そういう見方をする人も、世の中にはいるのかなと思った。
そういう見方をしてくれる人が、世の中にはいてくれるのかなとも思った。
他人から注がれる視線で温かい気持ちになれたのは、それが初めてのことだった。
14
数日後、僕は自分がしてしまった失礼な態度へのお詫びと、反省を口にした。
長島さんは「何のこと?」と、とぼけた顔をして僕を笑わせようとしたけれど、リアクションの薄い僕が少しも笑わなかったものだから、なぜだか長島さんはまた不機嫌になりはじめて、「冷食の補充代わってよね」と言った。
その日、僕は長島さんの代わりに冷食の補充を担当して、長島さんは僕の代わりに乾麺の補充をして、その他諸々の雑務に追われながら一日を終えた。
帰り際に、「中嶋くんってさ、次の休み何か予定あるの?」と長島さんが言うので、
「別に何もありませんけど」と、いつも通りの薄い回答をすると、長島さんは不敵な笑みを浮かべながら、「なら少し付き合ってよ」と言い、金曜日の十時に駅前集合との謎の言葉を残して去っていった。
15
僕の人生において、人を嫌いになる、人から嫌われるという事象は多く訪れたが、人を好きになる、人から好かれるといった機会は、比率としてそれほど多くなかったように思う。
比率として少ないということは、それだけその機会に恵まれないということであって、その機会に恵まれないということは、その耐性もつくことがない。
病気に対しての免疫があるように、向けられる好意に対しての耐性とでも言うべきか。
僕はとりわけ、人が見せる無自覚な悪意には敏感ではあったものの、それと同じくらい、人が見せる忖度のない優しさや寂しさのようなものに、脆いところがあった。
その日、僕らはインフルエンザから回復した翔太くんが動物園に行きたいというので、日の出町にある動物園に向かうことになった。
なぜそこに僕が加わっているのかという理由については、詳しいことは僕自身にもよくわからないのだけれど、翔太くんが「あのお兄ちゃんは来ないの?」と、寂しそう顔をして長島さんに尋ねたというのだから、僕もシフトの変更を打診された時と同じリアクションをもって参加を了承した。
翔太くんが本当に寂しそうにしたのかどうかについては定かではないのだが、競馬場で一緒に過ごした時間が翔太くんに何らかの変化をもたらしたということであれば、それも理解できるような気がする。
今、眼の前にいる翔太くんは、不思議と僕に懐いていた。
日の出町駅の改札口を抜けて桜木町方面に歩くと、ウインズ横浜と呼ばれるビルがある。
JRAの場外馬券場であるウインズ横浜では、中央競馬で開催されるすべてのレースの馬券を購入することができる。
皐月晴れとはならなかった五月の週末、僕らは三歳馬の頂点を決める最高峰のG1レース、東京優駿の馬券をお金を出し合って、複数枚購入した。
日の出町駅方面へと踵を返して戻り、地図アプリを頼りに動物園へと向かうと、険しい坂道が続いていた。
動物園周辺には、尻こすり坂と呼ばれる急坂もあって、最大勾配約13度もあるこの急坂は、徒歩で登るには厳しい感じがした。
開園から五十年以上が経過する野毛山動物園は、入園料が無料となっていて、辿り着くまでに若干の苦労は要するものの、僕らの財布には優しかった。
「無料というわりには結構いるんだね」
入場ゲートの近くには、動物のイラストの描かれた園内の案内板が設置されている。
「そうですね、爬虫類とかもいるみたいだし」
「爬虫類はパスかな、この子もヘビ苦手だし。中嶋くん一人で見てきなよ」
園内マップを手にした彼女は、翔太くんと顔を寄せ合って、お目当ての動物がいる場所を探していた。
「翔ちゃんもヘビ嫌いだよね〜」
「ヘビきら〜い」
目的の動物の生息場所を確認し終えた長島さん一行は、手を繋いで歩き出し、哺乳類を中心に見て回っていた。
みなとみらい地区を見下ろす高台にあり、野毛山公園の中にあるこの動物園は、目に飛び込んでくる緑が多い。
キレイに整備された広くてメジャーな動物園にもいくつか行ったことはあるけれど、インディーズのような、予算規模の限られた手作り感のある動物園の姿に、僕は好意的な印象を抱いた。
日本レコード協会に加盟するレコード会社のことはメジャーレーベルと呼ぶが、それ以外の独立系レーベルに所属するアーティストには明確な違いがあって、インディーズの主な特徴としてあげられるのは、制作や宣伝、販売を自分たちで行う「DIY(Do It Yourself)」精神が基本であり、商業的な制約を受けず、アーティストの自由な表現を追求し、優先しやすい利点がある。
素朴であり、手作り感が溢れた動物園ではあるけれど、決して貧相な作りではなく、メジャーといわれる動物たちは、しっかりとおさえられていた。
檻に囲まれた狭いステージの上を、上手から下手へと、下手から上手へと、忙しなく動き回るトラのパフォーマンスに僕らは酔いしれ、檻に囲まれた狭いステージ上で、一向にやる気を見せないライオンの姿に、僕らは失望した。
放し飼いをされて、通路上で意気揚々と羽を広げるクジャクのサービス精神には、一昔前の紅白歌合戦での小林幸子のような姿があって、頭が下がる思いがした。
盛大にボロボロとフンを落とす国内最高齢のゾウの姿に長島さんは引いていたけれど、翔太くんは楽しそうに笑っていた。
血色の良くない長い舌を伸ばして、手にした枝に顔を近づけてくるキリンを前にして、翔太くんは大泣きしていたけれど、長島さんは大笑いしていた。
テレビ画面で見る動物の姿と実際に見る動物のサイズ感は明らかに違っていて、そのどれもが映像よりも雄大であり逞しく、自信に満ち溢れて見えた。
愛らしいキリンを前にして、翔太くんは泣いていたけれど、大ぶりな高枝切りバサミのようなスケール感と、あらゆるパーツが大きい顔面の迫力には、大人の僕でも軽いショックを受けた。
明治時代に開国が進んで、港町などで外国人と遭遇する機会が増えた昔の日本人が、青い目や高い鼻、毛深い身体を持つ西洋人を異人と呼んで、驚きや恐怖を持って迎えた様子と少しばかり似ているだろうか。
少しはしゃぎ過ぎて、歩き疲れた僕らは、広場に設置されたベンチで、少し遅い昼休憩をとることにした。
長島さんはベンチに腰を下ろすなり、肩にかけた大きめのトートバッグをテーブルの上に置くと、ガサガサと何やら取り出しはじめる。
「これ、作ってきたんだよね」
余計な塗装がされておらず、木材の木目がそのまま生かされたテーブルの上には、可愛らしいサイズのおにぎりや一口サイズにカットされたサンドイッチの詰まったランチボックスが広げられていた。
「翔ちゃん、手を貸して」
バッグからウェットティッシュを取り出すと、長島さんは翔太くんの手を念入りに拭いてる。
「中嶋くんは自分でやってね。あ、別に拭いても拭かなくてもいいし、食べても食べなくてもいいけど」
ポイと渡されたウェットティッシュで手を拭いていると、「いただきま〜す」「いたらきま〜す」と、明るい声が耳に届いた。
「あの……」
「何? 不味いとか味が薄いとか、その手のクレームについては、うちの店、受け付けてませんけど」
先程の明るい声はどこへいったのか、今日は長島さんの当たりが強い。
「いや、別にそうではなくて。写真、一枚撮ってもいいですか?」
「写真? あっ、そういうのも禁止だから、翔太も私も、顔出しNGだし」
「いや、そうじゃなくて、ランチボックスの写真」
「え、何? 中嶋くん、料理するんだっけ?」
「いや、しないですけど、せっかくだし、記念なんで」
何かを不審がるようにして、疑いの目を向けた長島さんは、
「ふ〜ん、まあ撮るだけならいいけど、減るもんでもないし」と、渋々リクエストに応じた。
僕はスマホを取り出して、シャッターボタンを押した。
色とりどりの花が咲く花壇のようなその風景を、一枚の写真としておさめた。
ランチボックスの中の唐揚げやコロッケや卵焼きといった人気の商品はすぐに売り切れてしまい、プチトマトだけが売れ残っていた。
翔太くんはどうやらトマトが苦手なようでいて、ランチボックスの中で、プチトマトだけが異様な存在感を放っている。
彩りとして、ブロッコリーとのコンビのようにして詰め込まれたであろうプチトマトは、ピンで売れてしまったブロッコリーの添え物であり、コンビ内での格差のような様子を見せていた。
「翔ちゃん、トマトさんが仲間外れにしないでって泣いてるよ」
「トマトきら〜い」
職場で見せる姿とは異なり、お母さんみたいなことを言う長島さんを見て、当たり前だけどこの人は、この子のお母さんなんだなと思った。
売れ残ったコンビの一方を不憫に感じた僕は、「そのトマト全部もらいます。トマト好きなんで」と、ランチボックスの中のプチトマトを全部引き受け、一気にそれを口に含んだ。
突如として怪しい行動をとった男に対して長島さんは、
「何か顔がさ、さっき見かけたリスみたいになってるけど、全然可愛くないのよね」と、冷めた視線を向けてきた。
野毛山動物園周辺には、野生の台湾リスが生息しており、動物園の通路でも、その姿を見かけることがある。
両頬を膨らませた僕を見て翔太くんは「リス〜」と喜んでいた。
午後三時三十分、発走時間が迫り、購入した馬券のレースが近づくと、僕らはスマホの画面に釘付けになった。
動物園の中で飼育される動物には目もくれずに、動物園の中には生息しない動物を、食いるようにスマホの中に見ていた。
数分後、購入したレースの馬券は少し丈夫なだけの紙切れとなっていて、紙ヒコーキへと姿を変えて、ゴミ箱の中へと飛んでいった。
入場ゲートから時計回りに歩くようにして、爬虫類以外の生き物を見て回ってきたけれど、一箇所だけ妙な賑わいを見せる場所がある。
入出ゲートの近く、なかよし広場と呼ばれるスペースには、小さな生き物と触れ合える場所が設けられていて、家族連れやカップルで賑わっていた。
翔太くんは動物園の女性職員から、手のひらに黄色いヒヨコを乗せてもらうと、スチーマーから取り出されたばかりの肉まんを、手の中で持て余すコンビニ客のようにして、その小さな手の中に存在する小さな生命を、愛おしそうに見ていた。
長島さんがシャッターチャンスとばかりにスマホを構えてレンズを向ける。
それに気付いた翔太くんは、少しはにかみながら、レンズに向かってポーズを決めていた。
不器用に指先の折れ曲がったピースサインで笑顔を作る様子が可愛らしくて、僕は父親ではないけれど、その姿を愛おしく思った。
こんな家族の一員でいられたら、幸せだろうなと、二人の姿を視線の先におさめながら、勝手な妄想を膨らませていく。
閉園時間いっぱいまで無料の動物園を味わい尽くした僕らは、駅前にあった有料のファミリーレストランで夕食をとってから、帰路についた。
長島さんの家までの道中、眠ってしまった翔太くんを僕は背負い歩いた。
人生で初めて経験した背中の感触は、使い古されたリュックサックよりも、柔らかく頼りなかった。
僕は預けられた大切な宝物を起こさないように、落とさないようにして、歩くスピードを緩める。
「歩くの遅っ、野村萬斎かと思ったわ」
狂言師のようなスピードで厳かに歩く僕に対して、隣から容赦のない野次が飛んでくる。
「ワレモノのシールが貼られた荷物を運ぶ宅配業者でも、もっと早く歩くけど」
甲子園球場にて、打席に立つライバルチームの選手が抱えるプレッシャーは、こんなものだろうか。
つい今しがたまで隣を歩いていたその人は、今はもう数歩先を歩いていて、振り返りながら僕を見て笑っていた。
その何ら飾り気のない、屈託のない笑顔に対して、「月が」と、心の声が口をついた。
「月が綺麗ですね」
曇天の夜空には何もなくて、輝くものは何もない。
長島さんは夜空を見上げ、僕からの言葉を確認するようにして、頭上に月を探している。
「月なんて何処にもないけど」
曇天の夜空には、当然ながら何もなかった。
「月が綺麗ですね」は、夏目漱石が英語の「I love you」を、直接的な訳とせずに、間接的な表現方法として訳し指導したというエピソードがあり、日本人らしい、遠回しで奥ゆかしい愛の告白の言葉として知られていている。
「いや、何でもないです」
思わず口走った失言を誤魔化すようにして、何事もなかったかのようにして、長島さんを追い越していく。
僕の不甲斐なさに嫌気が差したのか、雲の隙間から僅かばかり顔を覗かせた月が、灯りの足りない夜道をぼんやりと照らし始める。
歩調を合わせるようにして、隣に追いついた長島さんは、スマホを片手に何やら検索し始めた。
さっきまでの軽口が嘘のように、無言で十数メートル歩くと、長島さんは立ち止まり、 「死んでもいいわ」と言った。
「返事としてはとりあえず保留だけど、気持ちだけ受け取っておく」
僅かばかり顔を覗かせた月は、今はもう雲の中へと隠れてしまっていて、長島さんの表情を読み解くことは難しかった。
あの時の長島さんは、一体どんな顔をしていたのだろう。
背中でもぞもぞと動き始めた翔太くんが、目をこすりながら「ママおしっこ」とぐずり始める。
長島さんは手早くスマホアプリでコンビニを検索すると、変わってと言い、翔太くんを背負うと豪快に走り始めた。
そこには能楽師のような佇まいはなく、配達に追われる宅配業者のような姿があった。
一歩遅れてというよりも、数歩遅れて、僕もそのあとに続いて、慌てて走り始めた。
交際期間が0日な相手に、その好意すら不確かな相手に、プロポーズをしたことのある男は、この世界にどれほどの数いるのだろう。
無自覚な悪意に対して敏感である僕は、恋愛に対しては疎いところがあって、その時間のかけ方も、作法のようなものもわからない。
でもだからこそ、何の計算もなく、相手に向き合えることを僕は何となく知っていて、自分自身の気持ちには正直でありたいと思った。
一年後、僕は改めて、彼女にプロポーズをした。
*
初めてのデートらしきデートで出会ったその男の子と暮らし始めてから二年が過ぎた。
初めてのデートらしいデートをした先輩と暮らし始めてから二年の月日が流れた。
どこにでもあるありふれた日常はあっという間に過ぎていって、その何事も無い日々が、だいぶ幸せなことだと気がついたのは、ありふれた日常が終了したあとのことだった。
16
小学四年生の時に、母親が事故で亡くなった。
その日、学校から帰ってきた僕は、少し窮屈になりはじめたランドセルを玄関に放り投げたまま、図書館へと向かった。
日が暮れる頃に、街灯が灯る頃に図書館をあとにして家へ帰ってくると、部屋の中にはもう夜が来ていた。
真っ暗な部屋の電気を点けて、テレビの電源を入れると、いつもと変わらない夕方のニュース番組が流れた。
いつもならば、この番組を見ながら夕食を食べているけれど、その夜のテーブルの上には何もなくて、子供一人では広く感じられたその部屋に、テレビから流れる音だけがやたらと響いていて、リモコンでテレビのボリュームを少しだけ下げた。
両親は共働きであったから、夜七時を回ってから帰宅することは度々あって、腹をすかせた僕は、ご飯の前に食べることを禁止されているスナック菓子に手を伸ばした。
夕方のニュース番組が終わってから、好きなバラエティー番組が始まって、胸躍らせながら見ていると、玄関のドアが荒々しく開いて、父親が慌ただしく部屋の中へと入ってくるなり、「なぜ電話に出ないだ!」と、激しく僕を叱責した。
「さっきまで出かけていたから」と、言い訳のような説明をすると、父は短く舌打ちをした。
それから父は、僕の腕を乱暴に掴むと、テレビと部屋の電気は点けたままで、座っていたソファーから引きはがすようにして僕を連れ出し、外に停車してあったタクシーへと乗り込んだ。
先月、インフルエンザで受診した憶えのある病院の名前を、父が運転手に告げているのがわかった。
タクシーの後部座席に僕らは並んで座っていたのだけれど、車が走り出してからも父は、僕の腕を掴んだままでいて、走行中のタクシーの揺れであったのか、僕の腕を掴んだままの父の手が、小刻みに震えているのが伝わってきた。
病院の正面玄関は既に閉まっていて、僕らは別の入り口からその中へと入ろうとしたのだけれど、警備員に止められた父が、何かを必死に訴えかけている。
夜の病院はひっそりと静まりかえっていて、その薄暗い廊下を、父が自分の家の廊下であるようにして、わかったような足取りで進んでいった。
病院の奥の奥、廊下の先の突き当たり、その終わりにある部屋からは、ぼんやりとした灯りが漏れていて、装飾のない、一切の生活感が排除されたような質素な部屋の中に、一人の人が寝かされていた。
一人の人と見えたのは、僕には始めそれが、誰だかわからなかったからであり、人であることはわかったけれど、知らない人のように見えた。
顔にかけられた白く清潔な布が父の手で取り除かれると、そこには知った人の顔が現れて、でも同時にそれは、僕が見たこともない顔であって、それは当然のことのように思えた。
僕はそれまで、母親の寝顔を一度も見たことがなかったから。
横たわった母親の少し荒れた手は、胸の上で組まれていて、しっかりとした結び目のように見えた。
問いかけても回答のない問いだけが床へと散らばっていって、大の大人が、いい歳をした大人の男性が、子どものように泣いている姿を、子供だった僕は初めて目にした。
父親が泣く姿に、僕は恥ずかしさと嫌悪感を覚えた。
父親のその恥ずかしい泣き声が、まるで聞こえていないような、届いていないような素振りで、母親は眠り続けていた。
その部屋には数十分間留まっていたのだけれど、寝返りのひとつもせずに固まったままの、少し窮屈そうな母親の姿に、玄関に放り投げたままの、ランドセルをなぜか重ねた。
その夜、家へと戻った僕らを迎えたランドセルは、当然ながら母親ではなくて、部屋の中にはもう、母の姿はなかった。
17
子育ての苦労を何一つ経験しないまま、何の心の準備もないままに、僕はアンパンマンミュージアムデビューをした。
「しげちゃんは翔太に何て呼ばれたいの?」
一緒に暮らすことを決めてから、彼女はずっと僕の呼び方を考えていたらしい。
一緒に暮らし始めてから、中嶋くんと呼ぶのは少しおかしいという話になり、僕は中嶋くんから滋生の名前を略して、しげちゃんと呼ばれるようになった。
「お父さんって感じではないし、正確にはお父さんでもないから、お父さんと呼ばせるのは何か違うと思うんだよね」
物心がついた頃から、僕は父のことを無意識に父さんと呼んでいて、それは誰に強いられたわけでも、決められたものでもなかった。
「私はしげちゃんのままでいく予定だけど、そこは大丈夫なんだよね?」
「そこはまあ特に、大丈夫ですけど」
「ならよかった。そこから変えるとしたら、なかなか大変だからね」
テーブルの上のメモ用紙に、彼女が候補名を書き連ねていく。
お父さん(却下)、お父様、父さん、とと様、おとん、父上、父、ダディ、ダッド、ボス、パパ、パパさん、しげちゃん、しげさん、しげてぃー、シゲキックス……。
父親ではない僕を呼ぶ名称としては、そのどれもが相応しくないように思えて、最後のそれはもう、僕自身でもなかった。
「まあ無難な線で、しげちゃんかなあ」
「はあ」
「はあって何よ、相変わらず薄いわ〜、リアクション。自分の事なのに」
「いや、考えもしなかったことなんで」
「いや、考えもしなかったことなんで、って。私のほうが、はあ〜だわ。まったく。もう考えるの面倒くさいし、中嶋でいっか」
「面倒くさいって……」
「だってさっきから、全然興味なさそうなんですけど? こっちは結構大事なことだと思って真剣に考えてるのに」
「大事なこと……、ですかね」
「大事なことですけど? 私にとってしげちゃんはしげちゃんであって何も変わらないけど、翔太にしたら慣れない男の人と一緒に暮らしていくわけだし、少しでも負担となることを減らしてあげたいと思うわけですよ。ただでさえ人見知りで、将来が不安になるぐらいなのに」
人見知りの僕が言うのもなんだが、そこはどうにでもなると思う。僕自身がそうであったように。
彼女は呼び方の候補名が書かれたメモ用紙をくしゃくしゃに丸めると、ごみ箱に狙いを定めて投げて、見事に外した。
「そもそもお父さんって何だろうね。お父さんって呼ばれるからお父さんになれるわけでもないのに」
そうぼんやりと、ぼやきにも聞こえる言葉を呟いて、彼女はひとつ溜息をついた。
「あの、一つ思うんですけど……」
「何?」
「翔太くんが僕を何と呼ぶにしろ、翔太くんが僕をどう思うかのほうが、重要なんじゃないですかね」
「どういう意味?」
「僕らが何かを決めるよりも、翔太くんが何を決めるかのほうが大切であって、呼び方なんて翔太くんが決めたらいいと思うんですよ。美和さんが僕をお父さんと呼ばせることに抵抗を感じるように、僕らが用意した呼び方に、翔太くん自身が違和感を感じてしまえば、それが逆にストレスになるだろうし」
「……」
「基本、僕は翔太くんにとって何者でもないわけだから、呼び方なんて何でもいいと思ってるっていうのが、正直なところです。美和さんが僕をしげちゃんと呼ぶように、翔太くんがママと、この場合は美和さんのことですけど、ママと同じように僕を呼びたいと思うなら、僕はそれでも全然構わないので」
彼女は立ち上がると、先ほど外したゴミを拾って戻ってきて、もう一度狙いを定めて投げて、再び外した。
「もう、なんなん!」
隣で不機嫌になる彼女の姿に、あの頃の理不尽な先輩の姿が重なった。
やかんでお湯を沸かして、インスタントのコーヒーを淹れる。ミルクと砂糖は少し多目に入れて、そっと彼女の前に置いた。
床に転がったゴミを手にした僕は、彼女の隣に戻り、狙いを定めて投げてみる。
手から放たれ、思いのほか美しい放物線を描いたそれは、ゴミ箱の中へと、何の抵抗もなく吸い込まれていった。
「何で一発で入んのよ、滋生のくせに」
「今日から茂雄と呼んでもいいですよ? 茂雄からの茂雄という意味で」
「なんかムカつくわ〜」
あの日から僕は、二人の人間からしげちゃんと呼ばれることになった。
18
その日、体調がすぐれないという彼女の代わりに幼稚園へと翔太を迎えに行った。
「幼稚園には電話しておくし、事情も説明しておくから心配ないと思うけど、不審者を疑われたら、免許証を出して説明してね」と、出掛けに彼女に釘を差されたので、職質にも耐える覚悟を持って、僕は部屋を出た。
妙な緊張感を保持ながら信号待ちをしていると、通い慣れた道や通い慣れた場所、そのすべてが違って見えてくる。
通い慣れたコンビニの前を通過して、通い慣れた公園を何事もなく通り過ぎるたびに、妙な達成感が込み上げてくる。
ガードレールの執拗な白さに瞬きの回数が増えて、植えられた街路樹には見覚えがなかった。
交差点の先に白い車が見えると、なぜか伏し目がちになる。
家からわずか数十分程度の距離が遠く感じられて、永遠のように思えた。
幼稚園が近づくにつれて、拍動は高まり続け、頬が蒸気してしてくる。
背中にかいたこともない汗をかきながら、幼稚園へと辿り着くと、門の前にはずらりとチャイルドシート付きの自転車が連なっていて、不審者という響きに過敏になっているせいか、一見さんお断りの高級料亭のような、新人のお父さん(仮)を拒む門構えのように見えた。
門の前には顔見知りであるのか、母親たちが数人集まった輪ができていて、顔を向けることなくチラチラと視線だけを漂わせ、僕を品定めしている。
お洒落な印象を受ける美容院や衣料品店に足を踏み入れると、その個性的で少々奇抜な格好をした、自信に満ち溢れた店員たちから冷めた視線を向けられることがあるけれど、それらの視線と同質なものを感じた。
設置された防犯カメラになぜか視線が吸い寄せられていき、カメラに向かって無意味な笑顔を作る。
周囲にいた先生らしい人を捕まえて、翔太の名前を告げ、自分のフルネームと免許証を提示して、伝言を頼んだ。
教室からとことこと翔太が歩いてくる姿を見て、少しだけ涙腺が緩みそうになる。
迷子として保護されて、親を待つ海水浴場での子供の心情を身を持って味わった気がした。
「何か、免許証を見せて、フルネームで自己紹介をしてる男の人がいるって、噂になってました」と、先生は笑っていたけれど、「ああ、そうなんですね」と、答えることが精一杯だった。
ママたちの輪の中にいる女の子に気付いた翔太が、元気いっぱいに手を振るので、その特定すら不可能な未知の母親に向かって、そこにいたすべての母親たちに向けて挨拶をして、幼稚園をあとにした。
帰り道、僕らは手を繋ぎながら歩いて、翔太はその日あったことを延々と、息継ぎを忘れた魚のように話している。
僕はその噛み合わない内容の話に対して、ふ〜んとか、へ〜とか、よかったね〜とか、相槌として正解なのかどうかもわからないリアクションを繰り返した。
「しげちゃん、みて、シロちゃん!」
公園の前を通り過ぎようとした時、翔太が指を差して叫ぶので、その方向を見ると、大きくて白い犬がいた。
翔太が腕をぐんぐんと、引っ張るようにして公園へと入っていくので、そのあまりの力強さに圧倒されて、大型犬に繋がったリードに引きづられる飼い主のようにして、僕も白い犬に近づいていった。
側のベンチに腰掛けた、その白い犬の飼い主らしき人は、温厚そうなお婆さんで、翔太とも顔見知りのようだった。
大きなぬいぐるみのような白い犬は、翔太の少し乱暴な触り方にも微動だにせずに、子供の遠慮のない無邪気さを許している。
「翔太くん、今帰り?」
「うん、いまかえり」
お婆さんから訝しげな視線を向けられる前に、僕は簡単な自己紹介をした。
「翔太くん、今日はパパとでいいね〜」
「うん、きょうはママじゃなくて、しげちゃん」
「しげちゃん?」
お婆さんが訝しげな表情を浮かべる前に、その疑念を払拭してくれることを願って、僕は詳しく事情を説明した。
僕からの説明をうんうんと、ベテラン刑事のようにして聞くお婆さんの手元に、カツ丼が見えたような気がした。
飼い主が温厚な人なら、その飼い犬も温厚な性格に育つのかもしれない。
飼い主であるお婆さんと白い犬によくお礼を言ってから公園をあとにして、スーパーに立ち寄り、頼まれていた牛乳とトイレットペーパーを購入してから、僕らは家に帰った。
家に着くと、キッチンに立つ彼女の姿があって、体調が回復したらしい彼女は夕飯の準備に取り掛かっていた。
「しげちゃん、なんか女の先生をつかまえて、免許証を提示して、自己紹介してたらしいね」
幼稚園からの確認の電話があったのか、ママ友からの連絡で知ったのか、僕の行動はすべて筒抜けのようだった。
「免許証のくだり、あれ、冗談で言ったつもりなんだけどね」
彼女は正解と思われる正しいリアクションをしながら、翔太からの報告を熱心に頷きながら聞いていた。
一緒に暮らしていても、知らないことはたくさんあって、一緒に暮らしていても、知らない世界もたくさんあって、彼女と翔太が生きる世界の中に、ほんの少しだけ足を踏み入れ、少しだけ触れることができたような気がした。
19
公園での砂遊び。
蟻の行列の観察。
パトカーや消防車への挨拶。
線路を走り去る電車へのバイバイ。
誰もが通り過ぎるであろう道順を、翔太は通り過ぎていく。
京浜急行の港町駅を降りて右に折れ、線路沿いを歩いて六郷橋へと向かうと、線路が道路の下を通る個所があり、その橋の上からは、下を走る電車を見ることができる。
翔太はその場所から、赤い色をした、京急大師線を眺めることが好きなようだった。
「しげちゃんも電車好きだった?」
翔太を抱えながら、彼女がそう聞くので、
「子供の頃だから、よく覚えていないかも。ただ電車のおもちゃとかは、よく買ってもらってたんだと思います。おもちゃ箱にも、いつくかあったような気がするし」と、答えた。
「男の子ってさ、みんな同じようなものなんだね」
公園でのシャボン玉。
水鉄砲での水遊び。
遊技場での花火。
壁紙への落書き。
親となれば、誰もが宝物のようにして、その胸の中にしまっておくいくつかの記憶がある。
港町駅まで踵を返して戻り、京急大師線で東門前駅まで向かう。
駅を出て右に折れ、中華料理店やコンビニが立ち並ぶ商店街を抜けて、さらに住宅街を抜けると、大きな公園の先に川崎大師が見える。
正月の三が日には全国から多くの参詣者が訪れる川崎大師の正式名称は、金剛山金乗院平間寺(こんごうさんきんじょういんへいけんじ)といい、 厄除けのお大師さまとして、全国に広く知られている。
厄除け以外にも、家内安全や交通安全、健康長寿などの諸願成就にご利益があると言われていて、地元民からも親しまれている。
大山門を抜けて、境内にある水屋と献香所で心身を清めてから、三人で賽銭箱の前に並んだ。
まだ背が少し足りなくて、満足に手の届かない翔太を抱き抱えて、人生で初めてのお賽銭を投げさせた。
お参りを済ませてから裏門を抜けて、寺から程近い大師公園に向かった。
公園にあるオブジェのような大きな滑り台を何回か滑り、設置された遊具で少しばかり遊び終えてから、高台の上にある桜に囲まれた広場へと向かった。
既に満開を迎えた桜の木の下には、多くの家族連れの姿があり、賑わいを見せている。
僕らはその賑わいからは少しだけ距離を取り、静かな場所を探して、持参したレジャーシートを広げた。
公園へと来る途中、立ち寄ったコンビニで購入した菓子パンやおにぎり、お茶やジュースで乾杯をする。
「満開だね、桜。もう少し散り始めてるし」
「そうですね、でもこの時期が一番綺麗ですよね。なんか風情があって」
「かもね、終わりの始まりみたいな」
「終わりの始まり?」
「そう、終わりの始まり。桜の花びらってさ、花が受粉を終えて、花びらの根元に離層って組織ができるんだって。それができると、花びらを支える力を失って、自然と落花するんだって。でね、日本にあるソメイヨシノって、すべてが接ぎ木で増やされたクローンで、気温とか天候とかの条件が同じなら、開花から落花までのタイミングがみんな一緒になるんだって」
「へえ、詳しいですね」
「何かの記事で読んだことあるんだよね。咲くタイミングも散るタイミングもまったく同じだから、なんか不思議に思ってて。一本一本違う木なのに、仲良すぎない? て感じてて。でもクローンって話なら納得かも」
サンドイッチを食べ終えた翔太が桜の木の下で、地面に積もった花びらを、手のひらいっぱいに集めている姿があった。
「クローンの話じゃないけどさ、人生がもう一つあって、もう一度やり直せるとしたら、しげちゃんはどう生きたい?」
彼女の視線の先には翔太がいた。
「どうなんですかね、そういうのはあまり、考えたことがないかも」
「それって、今の人生に満足してるってこと?」
「満足してるっていうか、たぶんきっと、もう一つの人生も、同じような人生になる気がするし」
「どういう意味で?」
「生きる人間の性格や考え方が変わらないようなら、例え違う人生を生きたとしても、その時々で同じような選択をして、同じような道を歩いて、結局は同じような人生になると思うんですよね」
僕の視線の先にも翔太の姿があった。
「もしまた同じ人生になったら、また私と出会ってしまうかもしれないけどね」
「そうですね、また出会って、また妙な質問をされて、また勝手に不機嫌になって、またデートに誘って、また好きになって、またこうして一緒に桜を見ているかもしれない」
「好きになってって、ありがたいねえ、それは。幸せだねえ、もう一人の私も」
風に舞う花びらが、彼女の髪へと落ちて、僕は花びら越しに彼女に触れて、花びらごと彼女の髪を掬った。
「ありがと」
「いえいえ」
口に付けたペットボトルの中には何もなくて、空の容器から、中の空気だけを口に含んだ。
「人間の記憶ってさ、楽しかったことよりもなぜか、悲しくて辛いことのほうがよく覚えてるよね。幸せなことはすぐに慣れて、当たり前になってしまうのに」
「確かにありますね、そういうところ。悲しいことや辛いことが、引き出しの一番の上の、一番取り出しやすい場所にしまってあったりするし」
「なんかさ、大切なものや大事なものって、引き出しの奥のほうにしまったりするじゃない? なくさないように、誰かに見つからないようにって」
「ですね、しまった本人がいつの間にか、しまったこと自体を忘れてしまうっていう」
「だからか、悲しかったことや辛かったことが、やたらとすぐに見つかるの。人生って本来、幸せなことも辛いことも両方あるはずだし、同じ確率で訪れるものだと思ってたけど、どちらかと言えば、幸せと思えることのほうが、圧倒的に少ないような気がするし」
「確率で言えば、8対2ぐらいの割合で?」
「ほんとそう、8対2」
「大変だ」
「ほんと、大変」
彼女は空に向かって大きな伸びをして、
「人生ってほんと大変で、上手くいくことより失敗することの方が多いし、それによって落ち込むことも多いけど、そんな失敗を分かち合えるような、笑い合えるような、そんな人と出会えて、一緒に人生を歩くことができたら、それはそれで幸せだと思うんだよね。失敗を必要以上に恐れなくなるというか、のび太くんにとってのドラえもんみたいな存在が隣にいれば、人生を強く生きていけるような気がするし。たとえばその先に、辛いことが待っていたとしても、その幸せだった時間は、決して失われることがないと思うし」
彼女は翔太を見つめながら、
「でもさ、できればさ、幸せなことだけ、覚えててほしいとは思うよね」と、静かな声で呟いた。
手のひらいっぱいに集めた花びらを、指の隙間からこぼれ落としながら、翔太が戻ってきた。
「ママにあげる、はい」
レジャーシートの上に、小さな桜色の絨毯ができる。
「もらっていいの?」
「うん、あげる。はい、こっちはしげちゃん」
手のひらに乗せられた数枚の花びらを前にして、彼女の目には光るものがあった。
親指でこぼれ落ちそうになった涙を掬うと、「アルコールも口にしてないのに、泣き上戸なんておかしいよね。せっかくの楽しい時間なのに」と、彼女は翔太を抱き寄せて、大の字になって、レジャーシートの上に、一緒になって寝転んだ。
「カフェイン取りすぎた〜」と、桜の絨毯に背中を預けながら、彼女は空を見ていた。
20
「シロちゃん、いないね」
そう残念そうに呟いた翔太が、公園の中へと視線を送っている。
「今日は雨だからね。シロちゃんは雨が苦手なのかもしれないよ」と、僕は諭すようにして、翔太の様子を伺っている。
「あめのときでも、ママときたときには、シロちゃんいたもん」と、翔太は少し怒ったようにして、公園内のあちこちを見渡している。
「ボクさがしてくる」
握った手のひらを少し乱暴に振り解くと、翔太は公園の中へと消えていった。
翔太の瞳には薄っすらと涙が浮かんでいて、僕は翔太のその目を見ると、いつも居場所を失ってしまう。
翔太の隣にいるのが僕ではなく彼女であったなら、どんなに良かっただろうと、勝手な後悔を滲ませる。
数分後、戻ってきた翔太の黄色い長靴は泥で汚れていて、部屋を出た時の鮮やかさは、とうに失われていた。
しばらくの時間、翔太は無言のまま、その場所に立ち尽くしていて、こういう時かける言葉を持ち合わせていない僕は、翔太の隣に寄り添うことしかできない。
しとしとと振り続く雨が、翔太の小さな傘を優しく叩いていた。
十二歳のシロちゃんは、立派な老犬である。
一般的にサモエド(シロちゃん)の寿命は十二歳から十四歳といわれて、十二歳のシロちゃんはもう、老犬と呼ぶに相応しい様相をしていた。
その弱々しく頼りない足取りには、ちゃんよりもさんがよく似合い、その穏やかな性格にも、ちゃんよりもさんがよく似合っていた。
「ママみたいに風邪ひくといけないから帰ろうか」
その場所に思いを残したままの翔太の手を取り、その場所に、何らかの思い出を残したままで、僕らは家に帰った。
体調を崩した彼女が入院して、僕が翔太に嘘をついてから、もう一ヶ月が過ぎている。
*
「しげちゃん、少し真面目な話があるのだけれど」
大晦日の夜に、コタツでみかんを剥きながら、テレビを眺める僕に対して彼女が呟いた。
翔太はとうに眠りについていて、音量を最小限に抑えられたテレビには、笑ってはいけないの新作が流れている。
風呂上がりの彼女の顔には、滑稽な絵柄のアートマスクが貼り付けられていて、その声のトーンとはやや不釣り合いな印象を受けた。
「この前さ、病院に行ってきたんだけどね」
そう唐突に話し始めた彼女の視線は、テレビ画面に貼り付いたままになっている。
画面に向けた視線はそのままで、僕はいつもと変わらない相槌を打った。
「先生がさ、六ヶ月ってさ、言うんだよね」
俳優陣の渾身のボケに対して笑いをこらえる芸人たちと、腹話術師のようにして話す彼女を交互に見る。
「六ヶ月?」
「そう、六ヶ月」
その数字ばかりが独り歩きをして、心当たりを探している僕の耳にはふがふがと、アートマスクに口元の可動域を制限された彼女の笑い声が届いていた。
「もしかして……、できたってことですか?」
六ヶ月という数字に心当たりがあるとすればそれしかなく、心当たりを探さなくても、それが当然の答えのように思えた。
「突然過ぎて実感がないんですけど、子供がってことですよね?」
小さな戸惑いとともに大きな興奮を覚えた僕に対して彼女は、翔太の眠る布団のほうに視線を向けながら、僕の興奮をたしなめるようにして、口元に人差し指を押し当てた。
「間違いではないんですよね? あの、写真とかあったりしますか? あの、ドラマとかでよく見る、あのエコーの写真」
「もらってない」
「え? あれって普通もらえたりするもんじゃないんですか?」
「もらってない」
「あ、じゃあ次に一緒に病院に行く時にはもらわないとですね。うん、記念だし、先生にも色々聞いて、準備もしないといけないといけないだろうし」
「準備……、そうだね」
「そうかあ、六ヶ月かあ、何か突然で過ぎて実感がわかないんですけど、間違いではないんですよね?」
「うん、間違いないみたい」
「そうか、あ、翔太にはまだ……」
「まだ話してない」
「そっか、どんな顔しますかね、翔太」
「しげちゃん」
「はい?」
「ちゃんと聞いてほしいんだけどね」
「ん? ちゃんと聞いてはいるつもりですけど」
「ごめん、多分だいぶ誤解させてるかもだよね、私。私の言い方が良くないんだよね」
「誤解はしてないと思いますけど……」
少し困惑したような、表情を曇らせる彼女のその顔色は、アートマスクの上からでは読み取りにくかった。
「だからあれですよね? 妊娠六ヶ月で、半年後には子供が生まれて、翔太がお兄ちゃんになって、僕が父親になるっていう……」
「だから、それが違うんだって」
「違うって、何がですか」
こたつの中で交差させていた脚をすっと引き抜き、こたつから出た彼女は、冷蔵庫から缶ビールを二缶取り出してくると、僕の前にその一つを少し乱暴に置いた。
剣呑な空気が少しばかり流れたあとに、軽快な音を立ててプルタブが開かれると、喉を数回鳴らした彼女は、少し怒気を含んだ声で僕の過ちを正した。
「六ヶ月は子供のことじゃなくて、私のこと」
私のこと。
私のこと?
妊娠をしているのは彼女であり、六ヶ月はお腹の子供のことであり、それってつまりは彼女のことであり。
「ちゃんと聞いてるし、理解してるつもりですけど。病院に行ったら妊娠していることがわかって、六ヶ月ですって先生に言われたってことですよね?」
「妊娠が、じゃなくて、余命が、なんだよね」
ベテラン俳優の渾身のボケに耐えきれなくなった芸人たちの笑い声が、テレビの中で爆発した。
滑稽なアートマスクと、嘘のようで冗談にもならない告白の、その両方に僕はどうリアクションをとれば良かったのだろう。
あの夜、よめいという音と余命という文字を、上手く変換することができず、彼女の体調の変化にも気づくことのできなかった愚かな僕は、今なお後悔の中にいる。
21
「忘れ物はないよね」
入院案内のパンフレットの項目、その一つ一つに目を通しながら、少し長めの旅行にでも出掛けるようにして、必要な物をかばんに詰めていく。
食事代は一食いくらだとか、部屋代は一泊いくらであるとか、病気のこと以外にも、考えなければならないことはたくさんあった。
病院へと向かう日の朝、彼女は早起きをして、少し名残惜しそうにして、朝からプラレールの上に京浜東北線を走らせ、翔太と一緒に眺めていた。
ドアを開ける寸前まで翔太とは離れずにいて、お義母さんと留守番をする翔太に対して彼女は、行ってきますと囁くように言い残して、この部屋をあとにした。
病気の再発がわかってから、彼女はお義母さんに連絡を取り、事情を話して、急遽来てもらっていた。
彼女の実家がある町田市から病院のある川崎市までの距離は30キロ弱あって、お義母さんは車を運転して、1時間弱かけて、毎日通ってくる。
彼女からの連絡を受け取ったあの日、お義母さんは当日の夜には飛んできて、彼女を泣きながら叱った。
病気の再発のこと、僕との暮らしのこと、彼女はそのすべてを、両親には秘密にしていたようだった。
元から手狭な部屋ではあったけれど、リビングに大人三人が詰め込まれた状況は、余計にこの部屋を小さくし、息苦しく見せている。
「うちの娘がご迷惑をおかけしています」
彼女が入院する数日前に、あらためて顔を合わせた彼女の母親と、ぎこちない挨拶を交わした。
リビングに据えられた正方形のテーブルは、どちらが上手になるのだろう。
こういう時に僕は、どの位置に座れば良いのだろうか。
とりあえずは玄関に一番近い一辺を選んで、ドアに背を向けるようにして座り、彼女の母親である人と話をした。
彼女の父親はこの場所に来ることはなく、入院後の週末に、直接病院へと来るようだった。
慣れない人と対峙することを、必要以上に苦手としている僕は、彼女の母親には、どう映っているのだろうか。もちろん、この右手に関しても、その感想は聞けるはずもない。
火曜日である今日は、翔太はまだ学校にいて、部屋には僕ら三人しかいない。
翔太は今年の春から小学校に通い始め、部屋の中には毎日明るい声が響いている。
音のない静けさは居心地が悪く、雑音を求めてリモコンを手に取り、テレビの電源を入れた。
彼女が過去に患った病気に関して僕は、理解しているつもりではあったけれど、完全に理解していた訳じゃなく、その他多くの事柄も、僕は知らないままだった。
彼女が僕には知らせずに、数ヶ月に一度、病院に通院していたことも、運悪く鎖骨の裏に影ができていて、病気の発見が遅れたことも、僕が彼女に預けた婚姻届が、いまだに提出されていなかったことも、僕と暮らし始めてから、元旦那さんからの養育費を受け取っていなかったことも、実は僕ら二人が夫婦ではなかったという事実を、僕だけが知らされないままで、この部屋でのうのうと暮らしていたということも。
彼女と彼女の母親とで共有していたらしいことが、僕にはまるで知らされておらず、夫婦として暮らしていたと思い違いをしていたこの部屋の、四角いテーブルの一辺で、怪しく視線を泳がせることしかできなかった。
そんな男の様子はきっと、彼女の母親には奇妙にも映ったであろうし、ましてやこの奇妙な右手が、そういった印象を抱かせることに、一役買ったであろうことは言うまでもない。
「ごめんなさいね、あの、できれば娘と二人だけで……」
それに続く言葉の意味をいち早く察した僕は、
「大丈夫です。お二人で、ゆっくり話されてください」と、席を立った。
この場所にいる人間として相応しくなく、部外者のように感じられた僕は、席を外して、時間をかけてゆっくりと街を歩いた。
今するべきことは何もなく、やるべきことも何もない。
僕がいてはきっと、彼女は話したいことが、何一つ話すことができない。
玄関を出ると、鉛色の空は厚い雲で覆われていて、含んだ雨を、今にもこぼれ落としそうになっている。
国道に出て、交差点を渡る。
かつては酒店だったコンビニの前を通り過ぎて、住宅街を抜ける。集合住宅から見下ろされる位置には、空いた広い土地があり、雑草が生い茂っている。囲まれた柵の隙間からは、いくつかの遊具が見えて、そこが昔幼稚園だったことがわかる。閉園したこの幼稚園の跡地には、一体何が建つのだろう。職場とは反対方向ではなく、部屋からより近いこの場所にまだ幼稚園があったなら、彼女はもう少し、母親として楽ができたのかもしれない。
集合住宅から続く緑道を通って、住宅街を抜ける。近い距離にはまだ、古びた商店街が残っている。閉められたままのシャッターの店の隣には精肉店があって、頼りない照明のドラッグストアがその隣に並び、その向かい側には、少しほこりをかぶった商品を扱う百円ショップがあって、その隣にはまた閉められたままのシャッターがあり、告解室じみたタバコ店が営業中の札を掲げている。御用の方はこちらにと、玄関先に設置されたインターホンのような押しボタンがむき出しで置かれていて、店内へと電源コードが伸びている。タバコ店の両脇には、タバコの自動販売機が二台並んでいて、煌々とした灯りを放つものだから、タバコ店の店内が、より怪しげなものに見えてくる。商店街の中央には銭湯があり、ゆと描かれたのれんが揺れるたびに、頬を蒸気させた人々が奥から出てくる。洗面器の中で石鹸がカタカタ音を立てることはないが、シャンプーのボトルが揺れている。
商店街を抜けると大きな公園があり、多くの母親たちの姿と子供たちの遊ぶ姿があった。
公園と併設されるようにして建てられた小学校の校庭には児童が溢れていて、背丈の違う児童らが列をなし、校門から吐き出されてくる。
下校時間にあたるこの時間が、この街では一番騒がしいような気がする。
ひよこの隊列のようにして、その身体よりも厚いランドセルを背負った子供らが、傘をライトセーバーのようにして、振り回して遊んでいる。
道端に落ちた木の枝を、伝説の剣のように見立てて勇者を気取り、白線の上を延々と歩いて、冒険者を名乗っていた僕は、何者にもなれる気がした。
この右手が少し人と違い、その違いに気づいてしまうまでは、僕は僕自身の可能性を、少しも疑うことがなかった。
それが幼さによる無知なのか、拙さからくる無茶なのか、今はわかってはいるつもりだけれど、人としての強さのようなものは、あの頃と比較して、大きく劣っているような気さえする。
その強さのようなものは、勇気と置き換えたっていい。
今の僕には、その勇気が欠けている。
自らの勇気を、その強さを疑うような情けない男に、一体何ができるのだろう。
僕はすがるようにして、その人混みのなかに、翔太の姿を探していた。
22
彼女が入院してからの翔太と二人だけの生活は、僕だけの努力では早々にままならなくなっていき、彼女の母親の力を頼ることが多くなっていった。
名前ばかりの、立場ばかりの父親というメッキは、すぐに剥がされていった。
あの日、初めて知ったあの事実を、今も僕は、彼女には聞くことができない。
僕らは夫婦ではなく、僕だけが夫婦であると誤った認識をして、暮らしていたという現実が、心の中に黒い影を落とし続けている。
父親にもなりきれず、夫にもなりきれなかった男の作る冷食ばかりを集めた食卓の風景は、彼女が描くそれとは明らかに違っていた。
何一つ思い通りにいかない生活に、僕は疲れ始めていた。
駅前のロータリーからバスに乗り込み、病院へと向かう。
車内に停留所の名前がアナウンスされると、競うようにして、二人掛けの座席に座った少年が停車ボタンを押した。
翔太より少し大きいぐらいの子だろうか。
少年は楽しげな笑顔を浮かべながら、隣に座る母親と笑い合っている。
最近、翔太の笑った顔を見たのはいつだろう。
その記憶を探らなければならないぐらい、遠い昔のような気がした。
病院に到着すると、面会専用の受付に向かい、名簿に名前を記入して、数字の書かれたバッジを受け取り、エレベーターで十二階へと運ばれる。
ナースステーションの前を通り過ぎて、左右に伸びる廊下を右に折れ、病室へと向かう。
ナースステーションからほど近いその部屋を、彼女は一人で利用している。
入院当時は四人部屋だったけれど、体調が悪化するにつれ、より繊細な管理が必要となってからは、ナースステーションからほど近いその部屋に移っていた。
廊下に設置されたアルコールで手を消毒してから、入室する。
「来たよ」
「うん」
今日は起きていたようだ。
僕らにはもうそれが、慣れ親しんだ儀式のようでいて、短く声を重ね合った。
起きているとはいっても、起き上がっているのではなくて、三十度ほどに角度が保たれたベッドの上で、その上体だけを起こしている。
彼女の身体からは様々な線が伸びていて、それらはベッドの左側に備えられた機器に繋がっているので、僕はベッドの右側に椅子を出して、彼女と話をするようにしている。
「今日は起きてたんだね」
「うん」
「ご飯はちゃんと食べた?」
「うん」
「しっかりと食べきゃダメだよ、体力をつけないと」
「うん」
彼女は手元にある本を、パタンと閉じて、
「そっちは?」
「ん?」
「ごはん」
「ああ」
僕は少し、バツの悪そうな顔をして、
「昨日はね、ハンバーグを食べたよ」
「うん」
「チーズがね、中に入っているやつで」
「うん」
「翔太もね、ハンバーグの時は、ご飯を残さずに食べてくれるから」
「うん」
もちろんそのハンバーグは手作りではなくて、冷凍食品であることを、彼女は知っている。
でも、それに関してはもう、何も言わない。
僕は、自分で補充した商品を店から購入し、部屋にある冷蔵庫の中に、貯めて続けている。
「そうそう、この前、翔太の身長を測ったらね、113センチあって、平均身長にはまだ少し足りないみたいだけど、少しだけ背が伸びたよ」
「うん」
「あとはね……」
「うん……」
鼻に繋がれた酸素を運ぶチューブが白く曇って、返事をすることすら、辛そうに見える時がある。
僕の右手でも足りるぐらいの文字数で、彼女は言葉を返すことが多くなった。
彼女が口にする言葉が文章にならない日には、できるだけ短く返事ができるようにして、彼女の意思といったものを、受け取れるようにしている。
23
生活のすべてを彼女に捧げてしまっていることは、とても危ういことで、誤った行いであると、頭では理解していたけれど、僕は大学を辞めてしまった。
障害者雇用で拾われたと思われる内定も辞退してしまった。
自分の将来のことよりも、今の生活を優先したいと思った。
彼女と翔太、二人の生活を支えることが、今の僕にできる最大限の努力であるような気がした。
余命半年と言われた彼女は、今も必死に生き続けている。しかし医師からは、治っているわけではないことと、小康状態と言われる状態であることが説明され、転院の話も出ていた。
病院は病気を治すために通うものであり、治療は病気を治すために行うものであり、病院は死を待つための場所ではないことを、理解する必要があった。
入院後に開始した抗がん剤治療は、彼女には適さなかったらしく、数回の治療で打ち切られることになった。
「このまま続けるようなら、死んだほうがマシ」と、彼女が初めて、そう弱音を吐いたからだ。
抗がん剤治療はがん細胞だけを正しく叩くことはせずに、彼女からあらゆる自由を奪っていった。
薬の影響なのか、病気の症状なのか、意識が混濁し、せん妄といわれる状態を見せるようになった彼女は、その細くなった腕に内出血の花をいくつも咲かせながら、眠り続けている。
耳は聞こえておりますので、お話をされてくださいと、僕とさほど年齢が変わらないであろう看護師の女性が教えてくれたので、ボソボソとした読み聞かせのようにして話しかけてみるが、彼女は目を覚ますことはない。
拍動を知らせる線が規則正しく波を打ち、モニターには一定の数値が表示されている。
薄くなった胸に、軽く手を当ててみると、弱々しくはあるのだが、きちんと上下している。
点滴の針がくり返し刺された血管は穴だらけになって、腕にはいくつもの内出血の花が咲いている。
まだ青く、小さく咲いた花は、まだ日の浅いものだろう。
この場所に来るたびに、目を閉じているだけの、眠っているという状態の、その確認を毎日するだけのことが、怖くて仕方がない。
そっと口づけでもしてみれば、何かのおとぎ話のようにして、彼女は目を覚ましてくれるだろうか。
24
「やめてよ」
病室と廊下とを隔てたドアの隙間から、声が漏れていた。
「そんな言い方、二度としないで」
「ごめんなさい、お母さんの言い方が少し悪かったのね」
重なる声が少し似ているせいか、彼女とお義母さんの声であることがわかった。
「でも、彼に言ってなかったってことは事実でしょう?」
その内容から察するに、僕に関する内容であることがわかった。
盗み聞きをするなんて、決してほめられたものじゃなく、すぐに立ち去ることが、正しいことと思えたけれど、一歩を踏み出すその勇気が僕にはなかった。
「普通の人なら、あれだけど……」
「普通って何が?」
「だって、彼の手……」
「手が何?」
「あなた翔ちゃんを、障がいのある人の子供にするつもりだったの?」
「だからやめてよ、そんな言い方しないで」
「だって事実でしょう。それに、彼ってまだ学生じゃないの? 就職は? 何処の会社か聞いてるの?」
お義母さんの問いかけに対して、彼女の沈黙という答えだけが、僕の耳には届いた。
「話し方を見ても、少し普通じゃないみたいだし、人と目も合わせられないような、おかしな話し方をしてるし、なんて言うか、少し普通じゃない」
「最低」
「何が?」
「聞こえなかった? 最低って言ったの」
「最低でも何でも、お母さんから見たら、彼はそう見える。それが正直な感想」
「普通じゃないとかもうやめてよ、そんな言い方しないで」
「あんたは、ただ、何ていうか、彼に同情してるだけなんじゃないの?」
彼女は何も答えない。
「人の心配なんてしてる場合じゃないじゃない。もう母親なんだから、しっかりしないと。しっかりしてないから、こんな……」
「こんなって何?」
「……」
「私がまた病気になったことと、彼のこととは関係ないから」
「……」
「お母さんにはきっと、一生わからないよ」
「何よ、わからないって」
「人が抱える傷みは、目に見えるものだけとは限らないんだよ……」
「……」
「彼には私が直接話すから、お母さんはもう何も言わないで。今日はもう帰って」
僕は病室を通り過ぎて、談話室に向かった。
十二階に位置する談話室からは、東扇島に浮かぶ工業地帯が見えた。空へと伸びたいくつもの煙突から、吐き出される白い煙が見える。筋となって、雲と同化するまで、その行方を見守った。
かつて煙だったものは空へと昇り、そのカタチを変え、違うものになれるのだろうか。
そのカタチさえ変えることができたなら、その人間も、別の人間へと、生まれ変われるのだろうか。
もしも僕が、普通であったならば、もっと上質な服を着て、普通の話し方ができて、好きな人の両親にも好感が持たれるような、人間になることができたのだろうか。
自分の足りなさが疎ましく、彼女に嘘をつかせることになった僕を、僕自身が、許すことができない。
*
久しぶりに夢を見た。
夢が夢とわかるまで、そう多くの時間はかからかなった。
夢の中の僕は、普通の人でいて、僕の隣にいる彼女も、普通の人だった。
僕の右手には、五本の指があって、普通の話し方をしていて、少しだけ小奇麗な格好をしている。
例えるならそう、スーツが似合うような、ユニクロにいたあの男性店員のような、清潔な男の人だ。
隣にいる彼女の胸には二つの膨らみがあって、顔色も良く、健康的に見える。
僕と彼女のあいだには、もう手を繋ぐ必要もないくらい大きくなった翔太がいて、彼女のことをママではなく、お母さんと呼んでいる。
翔太の背中には、少し窮屈になりはじめたランドセルがあって、学校から帰ってくると、それを放り出して、遊びに出かける。
彼女は溜息をつきながら、それを拾い上げ、底についた砂を、手で払っている。
僕はリビングで新聞紙を広げて、爪を切っている。
彼女は忙しなく、キッチンとリビングの往復を繰り返して、テーブの上に料理を並べている。
玄関のインターホンが鳴って、青年と可愛らしい女性が部屋へと入ってくる。
青年は隣にいる女性を、僕と彼女に紹介をして、僕らは少しぎこちない挨拶を交わし合っている。
天井から柔らかな光が落ちて、一組の男女が口づけを交わしている。
分娩室とランプのついた部屋の前の廊下で、青年はうろうろとしている。
部屋の中から元気な泣き声が聞こえてきて、僕らは安心して笑い合う。
小さな手で握られた人差し指を、なかなか解くことができずに、僕は彼女にたしなめられる。
僕と彼女には、シワや白いものが増えて、僕らの周りには、ゆっくりとした時間が流れている。
僕は彼女には順番を譲らずに、彼女が寂しい思いをしないように、長生きをする。
彼女が安心できるまで、安心して眠れるまで、ずっと隣にいる。
夢が夢であることに気づくまで、僕は夢の中にいる。
*
入院してからまだ日の浅いあの日、洗濯物を取りに訪れた僕に対して彼女は、
「どっちが病人だか、わからない顔をしてるね」と言った。
僕の強がりはとうに見破られていて、僕が見せる作り笑いも、既に見抜かれているような気がした。
日々、痩せ衰えていくだけの彼女に会うことが、正直苦痛になりはじめてもいた。
痩せていくというよりも、風船が萎んでいくような、その身体から命が抜けて落ちていき、小さくなっていく彼女に、どんな顔して会えばいいのかも、僕にはわからなくなっていた。
骨格があらわとなって、そのか細い骨に皮膚だけが貼り付いたような、やせ細ったその人に、僕は励まされている。
「また明日来るけど、何か足りないものはない?」という僕の質問に対して彼女は「笑顔」と応えた。
「絶望的に笑顔が枯渇してるしげちゃんにお見舞いに来られても、逆に心配になって仕方がない」と、彼女は笑って見せる。
「そんなに酷いかな、顔」
「酷いね、ムンクの叫びみたい。独りで不安や孤独を抱えたような顔してる」
スマホでムンクの叫びを検索すると、その画像が現れた。
「こんな顔?」
「そう、そんな顔」
「酷いね」
「でしょ」
笑いながら咳き込む彼女の背中をさすると、ぶかぶかの患者衣の隙間から、浮いた肋骨が見えた。
気遣いとは名ばかりの、優しさとは偽りの、その辛い現実から逃れるようにして、僕は目を背けた。
数時間の面会時間の中で、制限された時間の中で、僕らはたくさんの話をした。
話の中心はもちろん翔太のことになったけれど、出会った頃の、あの頃の懐かしい話もたくさんした。
夫婦でいた頃よりも夫婦になる前の、夫婦になる前よりも、その抱える後悔の少なかった日々を、僕は都合良く思い出し、浸かりながら生きていた。
「バルス」
また明日ねと、最後に手を握ったあの日、彼女はあの頃と同じ懐かしい言葉を呟き、笑いながら、僕を見送ってくれた。
25
「しゅっぱつ、ちんこ〜!」
翔太が今日も卑猥な言葉を口にしていた。
彼女の葬儀が済んだあとも、僕らの日常は何も変わらずに、翔太のちんこ〜の掛け声も何も変わらなかった。
翔太にとっての日常が変わりのないものならば、それが一番だと僕は思っていた。
彼女は今日も遺影の中で、その様子を笑顔で眺めていた。
咎める様子なんてさらさらなくて、息子の放送禁止用語を今日も寛容に受け止めていた。
そう寛容に、いや寛大に、確実に今日も受容していた。
六畳のリビングの片隅には、あの日から何も変わらずに、プラレールが建設されたままになっていた。
取り壊されもせず、彼女と翔太が作り続けたレールの上を、今日も三両編成の京浜東北線が走行していた。
翔太の視線は今日も、それを追いかけていた。
*
九月二十一日、雨。
インターホンのチャイムが来客を告げる。
液晶画面を確かめると、彼女の両親が映っている。
「今出ます」と、インターホン越しに短い挨拶をして、翔太にリュックを背負わせた。
エレベーターで一階まで降りて、エントランスで待つ彼女の両親に、翔太を託した。
別れる前に翔太とは軽いハグをして、頭を撫でて、その柔らかな髪の感触を最後に確かめた。
翔太は終始俯いていて、車の後部座席にお義母さんと乗り込んでいった。
お義父さんに頭を下げて、お願いしますと、頼りない言葉を絞り出す。
建物から離れていく車を見送りながら、傘の中で、必死に声を圧し殺した。
いい大人が泣くことなんて恥ずかしく、愚かな行いと忌み嫌ってはいたけれど、僕より幼くして母親との悲しい別れを経験した翔太の、その寂しさを想像するだけで、自然と涙が溢れた。
母との別れを経験したあの日、父が泣いていたのは、後悔の涙であり、僕のためでもあったのかもしれない。
寂しさには慣れた人間であると、悲しみにも慣れた人間であると、自分自身にさえ嘘をつき続けた僕は、行き場のない後悔に押し潰されそうになっている。
僕は翔太を手放したのと同時に、彼女との最後の繋がりも絶たれたような気がした。
*
中嶋くんへ
まずは嘘をついていたことを謝ります。
あの日、中嶋くんから渡された婚姻届は、実は提出していません。本当にごめんなさい。
突然こんなことを告白されても、意味がわからないよね。だから少しだけ説明をさせてください。
余命半年間の私の記録。
私には、そんなタイトルの動画を撮る気なんてさらさらないし、動画サイトにアップされ、見ず知らずの他人から同情や憐れみを買うぐらいなら、私は誰にも知られずに、ひっそりと猫のように死にたい。
自分の死をエンタメ化する気はないし、収益化して、同じ病に苦しむ人々の役に立てる人間であるとも思えない。
限れた人の中で、限られた人だけに、私の死を受け止めて、見送ってほしい。
そう思って今日まで、生きてきました。
こんな我儘な私だし、だから上手く伝えられるかどうかわからないし、そんな自信もないけれど、口では上手く説明できる気がしないので、あえて手紙を書くことにします。
この手紙が母から渡されているということは、そこにはもう、私も翔太もいないということです。
中嶋くんをひとりにして、酷いことをして、本当にごめんなさい。
こうなることが怖かったから、こうなることがどこかで予想できたから、婚姻届は結局出せずじまいでした。
本当にごめんなさい。
だから私たちは、正式には夫婦ではありません。
嘘をついてしまって、傷つけてしまって、本当にごめんなさい。
でもこの二年間、中嶋くんと過ごせた時間は、本当に幸せでした。
中嶋くんにプロポーズをされたあの日、私はまだ病気の中にいて、完治もしておらず、自分の将来が不透明で不安な日々を過ごしていました。
そんな私が中嶋くんからのプロポーズを受けていいものか、本当に毎日悩みました。
翔太もいるし、病気の私が、中嶋くんと結婚していいものなのか、中嶋くんと人生を歩んでいいものなのかを、本当に悩みました。
初めて中嶋くんとそういう関係になった時に、平らな胸の、大きな傷痕の残る私に対して、その不格好な傷痕に手を当てて、中嶋くん言ってくれたよね。
「ショートケーキの上の苺に特別な価値を見出す人が世の中にはいるけれど、そうではない人間も同じぐらいると思うし、僕はどちらかと言えば、苺よりも苺の下のスポンジケーキのほうが好きなので、スポンジケーキの上の苺はあっても無くてもいいものぐらいに思っていて、だから、苺という誰の目にもふれる分かりやすい果実がなくても、それを苺のショートケーキと認めない人がたとえいたとしても、僕にはちゃんと、そのケーキが苺のショートケーキであることはわかっているので、だから、好きになった気持ちは、永遠に変わらないと思います。人に見えるものだけが痛みではないし、人には見えない痛みがあることを、僕は知っているので」
あれ、だいぶ失礼な発言で意味不明だったけど、何か嬉しかったんだよね、不格好な私を受け入れてもらったような気がして。
そういう考え方をしてくれる人と、そういう他人の痛みにも寄り添えることができる人と、一緒に生きていけたら、どんなに幸せだろうと思ったし、何か、色々なものから救われた気がしたんだよね。
男女の仲というか、そういう関係性になること自体を、私はどこかで避けてるようなところもあったし、男の人と体を重ねることを、怖くも思っていたし。
だから、嬉しかったんだよね、あのだいぶ失礼な発言が。女として不完全な自分が、肯定されたような気がして。
だから、悩んで、悩んで、悩みぬいた挙句、自分の気持ちに嘘をつくことのできなかった私は、中嶋くんの優しさに寄りかかることにしました。
中嶋くんへの気持ちには正直になることを、と同時に、中嶋くんの人生には負担にならないようにすることを決めました。
もしも私の病気が完全寛解を迎えて、再発の恐れがなくなった時に、中嶋くんから渡された婚姻届は提出する予定でした。
結果として、中嶋くんには嘘をつくことになってしまったし、許されないことをしてしまったけれど、これは私が私自身に課した約束でした。
母には猛反対をされて、理解もされなかったけれど、最後は勝手な私の考えに付き合うことを決めてくれました。
私がいなくなったあとのことは、母にすべて話してあります。もちろん翔太のことも、両親に任せることにしています。
中嶋くんにはこれから、自分の人生を歩いていってほしいです。
妙に頑ななところがあり、責任感の強い中嶋くんだから、残された翔太を育てると言いかねないけど、これは母親として、親権者である私が出した結論です。
二年間、一緒に暮らせたこと、夫婦なようなものでいられたこと、本当に楽しかったです。
人生の最後に、楽しい時間をくれてありがとう。
人生の最後に、たくさんの幸せをくれてありがとう。
しげちゃん、幸せになってください。
そして、嘘つきな私を嫌ってください。
追伸
この運命は、障がいを抱えたあなたなら、きっと私を拒むことはしないだろうと、酷い企みをした私への、神様からの罰なのだと思います。
2022年7月18日 長島美和
*
正直になることのできなかった嘘つきな私は、彼に一つの嘘をついた。
それはとても我儘で、自分勝手なものだったけれど、私の弱さがつかせた、最低で最悪な、愚かな嘘だった。
26
駅から徒歩数十分の距離、駅前から続く大通りを左に折れて、中見世通りと呼ばれる通りを抜けて脇道に入ると、一件の古い焼き鳥屋がある。チェーン店の賑やかさとは異なり、店内にはカウンター席が数席しかないような、こじんまりとした店である。平日の夜には常連客ですべての席が埋まってしまうようなこの小さな店で、僕は約束の人を待っている。顔馴染みの客が数人入れ替わったあとに、横開きのドアがガラガラと音を立てて開き、一人の青年が入ってくる。客の背中と店の壁の間とを縫うようにして僕の隣へと辿り着いた青年に、すっと椅子を引いてやった。
「ご無沙汰してます」
久方ぶりの対面での挨拶を済ませると、席に着くなり青年は、キョロキョロと店内を見渡している。
カウンターの上には、メニュー表なんて小洒落たものはなくて、壁には達筆とは言えない店主のお手製の品書きが数枚貼られている。
「一年ぶりぐらいかな?」と、僕は青年に目を向ける。
この一年でまた少し大きくなり、逞しくなった気がする。
「何かすいません、なかなか時間も取れなくて。じいちゃんが入院したり、最近バイトも変わったりで、色々バタバタしてたんで」
青年は言い訳のようにして、その近況を報告した。
僕は青年の前にグラスを置いて、その半分あたりまでビールを注いだ。
グラスを鳴らすことを合図に、僕らは旧友のように軽口を交わし合った。
「お義父さんはその後どう?」
「この前、電話でも少しだけ話しましたけど、入院前より調子は良いみたいです」
「そう、なら良かった」
「何か、久しぶりに会っても全然変わらないっすね」
「ん?」
「しげさん、相変わらずで」
「相変わらず?」
「そう、相変わらず良い人というか。開口一番、俺のことよりも、じいちゃんのこと話してるし」
「そうかな」
「そうすっよ。ばあちゃんなんか、じいちゃんが入院してせいせいするって、友達と旅行に行ってたぐらいなんで」
「お義母さんらしいね、相変わらず逞しい」
遠い記憶の中の、お義母さんの気丈な姿を思い出した。
「彼女とはどう、最近、順調?」
「まあ普通です、でもまた喧嘩中ですけど。昨日も新しい部屋のことで、揉めたばかりなんで」
数ヶ月前にかかってきた電話の中でも、彼は同じような不満をこぼしていた気がする。
「でも喧嘩することは悪いことばかりではないと思うよ、お互いのガス抜きにもなるだろうし」
「そうすっかね?」
「そうだと思うよ、少なくとも彼女さんの不満には耳を傾けられているわけだし。聞く耳を持たない彼氏よりも、建設的な議論ができる」
「何すか、恋愛における建設的な議論って」
「恋愛においても建設的な議論は必要だと思うよ、信頼関係構築のためにはね」
「そんなもんすかね」
「そんなもんすよ」
空になったグラスに気づいた青年が、ビールを注いでくれた。
「何か、すいません。連絡したの俺のほうなのに、俺の話ばっかりで」
「別にいいよ、気にしなくて。聞いてるのはこっちのほうだし」
僕は皿の上のぼんじりを口へと運び、注がれたビールを一口、胃に流し込んだ。
「俺のことはあれですけど、しげさんのほうはどうなんすか?」
「何が?」
「結婚……、とか、そのへんの……」
「ないない、独身を謳歌中だから。この店を見つけたのもそのおかげだし」
青年は周囲を見渡しながら、
「まあ、いい店ではありますよね。少し狭い感じで、リラックスはあまりできない感じですけど」
木製の椅子の硬い背もたれに背中を預けた青年は、店主の目を気にして、少しだけ声のボリュームを抑えた。
「でもこの店で良かったの? もっと違う感じの店も知ってるけど」
「いや、こういう店のほうが良かったです。俺、人生初のサシ飲みは、しげさんとって決めてたんで」
青年の笑った顔に、懐かしいものを覚えた。
「おだてても何も出ないよ。白レバーぐらいしか」
僕は少々嬉しくなり、財布の紐を緩めて、店主に追加の注文をした。
「話を戻しますけど、結婚とか決まったら必ず言ってくださいね、その時はお祝いに、今度は俺が奢るんで」
「だから結婚なんてないから。それに今は、結婚がどうとかって時代でもないだろう?」
僕は自虐ともとれない強がりを見せる。
「その台詞、アラフォーのオジサンが言っても、何か寂しさしかないっすよ」
「そうかな」
「そうっすよ」
僕らは声を合わせて笑った。
*
夜空にぽっかりと、まんまるに膨らんだ風船のような月が、気持ちよさそうに浮かんでいる。
僕らが夜空に見る月の光は、月面で反射した太陽光だ。
その光が地球に届くまでの時間は、約1.2秒〜1.3秒といわれていて、僕らが夜空に見る月の姿は、1.3秒前の月の姿だ。
三歩前をふらふらと歩く、頼りない足取りで歩く青年の姿に、そう遠くない記憶の中にいる少年の姿を重ねていた。
十年前の、知らない電話番号の着信から始まった不思議な交流は、今もこうして続いている。
店をあとにしてから駅までの道中、千鳥足の青年は独り言のように、隣には誰もいないことのように、何の前触れもなく語り始めた。
「俺、実は母さんの病気のこと、知ってたんすよね。俺も五歳とか六歳とかだったから、完全には理解できてなかったですけど、母さんの病気のこと、ばあちゃんから聞かされてました。母さんが入院した理由をしげさんは風邪って説明してくれてましたけど、ばあちゃんからは聞いていて。何か難しいことを言われて、よく理解はできてはいなかったですけど、病気の説明をされて、死んでしまうかもしれないことを聞かされて、めちゃくちゃ悲しくなって泣いたのを覚えてます。でも、しげさんは最後まで病気のことを俺には言ってくれなくて。何でこの人は嘘をつくんだろうって不思議に思いましたけど、俺のためについてくれた嘘だったんですよね。だから、俺にはじいちゃんもばあちゃんもいて、育ててもらってたくさん感謝もしてるんですけど、しげさんにも同じくらい感謝をしてるんです。短い時間しか一緒にいられなかったですけど、ちゃんとしたお礼も言えてないですけど、母さんと三人で過ごした時間は、今でも少しだけ覚えてるし。だから上手く言えなくて、上手く伝えられてるのかどうかも分からないですけど、しげさんには母さんと同じぐらい幸せになってほしいです。母さんの幸せそうな顔を、俺はたくさん見てましたから」
悪酔いをして、排水溝に向かって盛大にゲロを吐き続ける青年と、それを介抱しながら泣き続ける泣き上戸なオジサンを見て、彼女は一体何を思うだろう。
僕はあの人以上にもう、人を好きになることはないけれど、また人を好きになれたなら、それはそれできっと、素敵なことに違いない。
翔太くんは先月、二十歳の誕生日を迎えた。
僕が長島さんと出会った時と同じ年齢となり、好きな人と暮らす部屋を探しているそうである。
了
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