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Photo bynyakopan

自己責任という名の檻 ――令和世代の「選択の重圧」

    先日、氷河期世代について語る投稿を見かけた。
    「氷河期世代は自己責任世代と言われているが、今(投稿者)のほうが、選択肢がある分、自己責任を問われてしんどい」という内容だった。

    正直、私はこの投稿に笑ってしまった。

    なぜなら、私自身がその典型だったからだ。
    高倍率だった時に大学に必死で入り、大学院まで進んだ矢先、バブル崩壊。
    就職市場は一瞬で「どこにも入れない」地獄に反転した。
    努力して道を進んだ結果、「高卒で早く働き始めた人の方が、正解だった」という、笑うしかないオチがついた。

    しかし、笑いながら、同時に頭をよぎったことがある。
    人間にとって「選択肢の檻の中で、自己責任という真綿で首を絞められる精神の窒息」は、物理的に宿を失う危機と同じぐらいリアルに辛いものかもしれないーー。

    客観的に見れば、氷河期世代の地獄はシンプルだ。
    それまで「選べばどこかに入れる」だった就職市場が、わずか数年で「どこにも入れない」に反転した。
    それまでの楽観的な空気がガラッと変わった。
    人口の多い世代だったこともこれに拍車をかけた。
    今のように支援策はなかった。(というより、公的支援なんて思いつきもしないものだった)
    今日働かなければ明日食う飯がない状態にすぐに転がり落ちる。
    それなのに自己責任と言われる理不尽さ。

    しかし、逆に言えば「社会の仕組みが悪かった」と責任を外部に負わせることはできる。
    あの時はそんな余裕はなかったが、振り返ってみて、あの頃は酷かった、しかたなかった、という逃げ道が今になれば確かにある。

    一方で現在は、支援制度や選択肢が整っているぶん、「それでもうまくいかないなら、あなたの責任でしょう」という空気が強くなるのは確かだ。

    選択肢が整っているからこそ、
    「選べるはずなのに、なぜできないの?」
    という視線が生まれるし、それを実感していればこそ、自分が不甲斐なく感じられるだろう。

    支援があること自体は良いことなのに、
    その存在が、かえって個人の逃げ道を塞いでいる。

    ここまで考えて、もう30年ほど前の映画『ガタカ』を思い出した。

    遺伝子操作で完璧に設計された「上級人間」ジェロームは、恵まれた環境と才能を与えられながら、オリンピックで2位という結果に苛まされる。
    一方、生まれつきの「劣等遺伝子」を持つヴィンセントは、差別と偏見の塊のような社会で、宇宙飛行士になるという夢を不可能と宣告される。
    それでも彼は、血と汗と偽装を重ねて、閉ざされた門をこじ開けていく。
    映画が進むにつれ、ヴィンセントには希望を、ジェロームには絶望を感じる。

    恵まれた環境が、かえって人を追い詰めることもある。
    環境が整っているほど、
    「できて当然」という圧力は強くなる。
    その圧力は、真綿で首を絞められるように心を窒息させるのが想像できる。
    外部に多くを求めれば求めるほど、「応えてもらえない自分」や「応えてくれない世界」への失望が強くなるだろう。
    さらに、情報過多の今、周りが見えすぎることも苦しさを増す。

    システムをより良く改修したはずなのに、人間の心は思ってもみない他の苦しみで疲弊する。

    物理的に満たされていない人間は、精神的な充足など問題にできない。
    氷河期世代は、開いているドアを探すのに必死だった。
    しかし、その苦境だって、戦争を経験した世代の「いつ死ぬかわからない、人を殺さなくては殺される」という恐怖よりは、全然マシだと思う。
    でも、殺されたり殺したりするよりマシなんだから、働き口がないと嘆くのは贅沢だ、といわれても……と思う。

    戦争世代から見れば氷河期世代は恵まれている。
    氷河期世代から見れば今の若者は恵まれている。

    たぶんその比較にはあまり意味がない。

    おそらく、人は自分に課された苦しみしか実感できない。
    だから、世代間で話が通じないのだ。

    人はただ、置かれた環境の中でその時代なりの苦しみを、本人にとっては切実なものとして経験する。だから世代間で話が通じにくいのだろう。
    そんな時、私は視点をもっと遠くに飛ばしてみる。人類の長い歴史や、果てしない宇宙に思いを馳せる。そうすると、自分の苦境がミニチュアのように小さく見えてくる。他者や社会への期待を捨て、今あるリソースだけで未来を想像する余裕が生まれる。
    この世界で心の窒息から逃れるのは、一般的に「諦念」と呼ばれるものかもしれない。しかしこれに『足るを知る』という古い智慧を重ねるとき、私たちはようやく真綿の圧力から少し自由になれる。完璧を求めず、小さく前を向く。それが、どんな時代を生きる人間にも共通する、ささやかな救いなのだと思う。

     
     
    頭の中では世界を征服しているが、現実にはまだベッドの上にいる……

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