
【文豪事件簿 #1】『坊っちゃん』に隠された10年の暗号――夏目漱石が仕掛けた「最も残酷な自傷行為」の真相
始めに
本記事は、AI(NotebookLMおよびGemini)
との対話を通じ、筆者の読書エピソード日記
(夏目漱石 坊ちゃん その1~最終回)と
歴史的資料を掛け合わせ、2026年の視点から
架空の登場人物フィクション、劇中劇の形式で
書き上げたものです。
古典を「今」の視点で読み解く楽しさが、
少しでも皆さんに伝われば幸いです。
【主な参考文献】
中根鏡子『漱石の思い出』(岩波文庫)
江藤淳『夏目漱石』(新潮選書)
夏目漱石『倫敦消息』『文学論』
長谷川櫂『子規と漱石』(角川ソフィア文庫)
加藤陽子『日露戦争――勝利のあとの誤算』(講談社現代新書)
『鹿鳴館の貴婦人』日本歴史学会(編)
あらすじ
小説家志望の藤城蓮は、夏目漱石の
『坊っちゃん』を題材にしたミステリーの
執筆に難航し、編集者の唯と共に恩師の
神崎教授らを訪ねます。
AIロボットも交えた白熱する議論の末、
一行は作中に隠された深淵へと
迫っていきます。
日露戦争後の「変質した日本」への違和感や、
下女・清に託された没落した江戸の誇り、
そして何より、悪役「赤シャツ」のモデルが
漱石自身であったという驚愕の事実に
辿り着きます。
本作は、留学による神経衰弱で家族を
傷つけた漱石が、自らの醜いエリート性を
「赤シャツ」に投影して殴り倒すことで
魂を浄化しようとした、
あまりにも残酷な「自己救済の自傷行為」
としての真相を解き明かす
劇中劇ミステリーです。
登場人物
藤城 蓮 (30)小説家志望、大手出版社を退社後
後輩の唯に仕事を頼っている
歴史オタク、不器用でまっすぐ
感情で動くタイプ
烏丸 唯 (28)大手出版社編集部員
蓮の大学の後輩、ロジカル派
歴史オタクの歴女 現実主義
蓮の才能を信じつつ厳しく批評
蓮の相棒的存在
神崎 幸治(53)大学教授 文学部重鎮
蓮と唯の恩師
包容力のあるロマンスグレー
歴史的、文学ファクトを提示
一ノ瀬純子(42)大学準教授 切り込み役
蓮と唯の恩師
知的で少々ドS、冷徹な見かけ
鋭い指摘で蓮の甘さを論破する
ARCH(アーチ)AIロボット 球体型
資料提示 ガジェット
教授の研究室にいるサポートAI
ホログラムで時代背景を
空間に映し出す
注釈:フロックコート
19世紀中頃から20世紀初頭(明治時代~大正初期)にかけて欧米や日本の上流階級の男性が
昼間に着用していた、最も格式高い「正礼装(フォーマルウェア スーツの上着(ジャケット)の着丈を膝まである長い裾
:大学予備門 明治初期に設立された、最高学府 東京大学へ進学するための官立(国立)の準備教育機関、当時、東大の講義は、外国人教師によって、英語、ドイツ語などの外国語で行われていた
普通の学校を出ただけでは全く講義についていけず、大学の講義を理解できる 語学力と一般教養を学ぶための前段階の学校として作られた
プロローグ:迷宮の入り口
僕は、藤城蓮、もう三十路になった。
少し前、勤めていた大手出版社を退職し、
念願だった小説家の道を歩み始めた。
生活費は、同じ出版社の同僚で、
大学サークルの後輩でもある、烏丸唯に
仕事を回してもらうのと、コンビニでの
バイトで何とかしのいでいる。
念願だった小説家の道だが、やはり甘くない。
唯には、お世話になりっぱなしで、
頭が上がらない。
今日は、以前から依頼されているミステリー
小説の原稿を催促され、待ち合わせの
喫茶店へと歩いている。
ああ、まだ、いや、まったく手掛けることが
できないでいる。
どうしたものかと思いながら、喫茶店の扉を
開けた。
「頼む、唯。あと一週間、いや、あと三日だけ
でも待ってくれ」
古びた喫茶店の片隅で、藤城 蓮(30)は、
琥珀色のコーヒーが
冷めていくのも構わずに深く頭を下げていた。
彼の手元にあるのは、書きかけの原稿用紙でも
最新のノートPCでもない。
手垢で黒ずみ、無数の付箋が乱雑に飛び出した、
夏目漱石の『坊っちゃん』の文庫本だ。
「先輩、その『あと三日だけ』を三カ月も
聞いています」
向かいに座る烏丸 唯(28)は、大手出版社の
文芸誌編集者としての冷ややかな眼差しを蓮に
突きつけた。
大学の文芸サークルの後輩でもある彼女は、
お気に入りのエチオピア産のカップを置き、
深くため息をつく。
「今回の企画は、令和の現代だからこそ
読みたい
『文豪の執筆動機を紐解くミステリー小説』
ですよ?」
「どこにでもある教科書の解説をなぞった
だけの記事じゃ、今どきの読者はお金を払って
くれません。
……で、何か新しい手がかりは?」
「完全に迷宮入りしたんだ。……漱石の家族
だよ」
蓮は頭を抱え、震える手で文庫本の冒頭を
指さし、机に放り出した。
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかり
している。
このあまりに有名な一行の背後には、漱石、
本名・金之助が、父母や兄弟から受けた
凄絶な拒絶が隠されているかもしれない。」
「『坊っちゃん』を何度も読み返しているう
ちに、どうしても不気味で仕方のない
キャラクターに行き当たった」
「下女の『清(きよ)』だよ。
……血の繋がりもないただの使用人が、
実の親からも見捨てられた悪太郎を、
なぜあそこまで盲目的に全肯定できる?」
「どんな悪さをしても
『あなたは気性がまっすぐだ』と褒めちぎり、
自分のお小遣いまで貢ぐんだ」
「リアリズムを重んじるはずの近代文学に
おいて、あまりにも不自然すぎる」
「まるで……誰かの強烈な『歪んだ願望』が
形を成して、そこに佇んでいるみたい
じゃないか、彼の家庭に『愛の居場所』が
1ミリもなかったことの裏返しじゃないかと
思うんだ」
「漱石の家族……歪んだ、願望」
唯の目が、わずかに動いた。
蓮は、テーブルに肩ひじをつき
「金之助は五男として生まれたけど、
高齢の両親から『この年で恥ずかしい』
と歓迎されなかった。
まるで、この喫茶店のコーヒーが
冷めていくように、
金之助の幼少期は生まれた時から、
冷え切っていたかもしれないよ」
「そういえばさ、この喫茶店のコーヒー……」
急に蓮の目が輝きだした。
「明治21年に上野にできた『可否茶館
(かひさかん)』を思い出すな。」
「あそこは鄭永慶(ていえいけい)という
人物が、若き知識人のために作った日本初の
本格喫茶店で、坪内逍遥や若き日の文豪たちが
集まる文化の梁山泊だったんだ。」
「ところが、実は経営難で数年で
潰れてしまうんだ。」
「永慶は失意のまま渡米し、最後はシアトルで
若くして亡くなる」
「当時の文化がいかに不安定で、
西洋化の波に翻弄されていたかを示す
象徴的な場所で、それに、鄭永慶の父親は
元々長崎の唐通事(通訳)の家系で、
幕末の動乱期には外国奉行の支配下で―」
「ちょっと先輩! 歴史オタクのスイッチを
急に入れないでください!
鄭永慶の家族史まで遡ったらキリが
ありません!
話しが大脱線してます!」
唯がピシャリと机を叩いた。
しかし、彼女は手元のタブレットに
いくつかのメモを走らせると、
不敵に微笑んだ。
「でも、今の先輩の着眼点は面白いです、
私たちの母校へ行きましょう。
神崎教授と一ノ瀬准教授を訪ねましょう。
あの文学部棟の最奥に鎮座する
『鉄壁の二人』なら、
漱石の精神の深淵を、歴史の裏側から
引きずり出してくれるかもしれません」
第1章:明治という「不協和音」と家族の肖像
母校である大学の、蔦の絡まるクラシックな
文学部棟。その最奥にある神崎教授の
研究室に、二人は滑り込んだ。
部屋の壁は床から天井まで古びた和書と洋書で
埋め尽くされ、独特の紙の匂いに満ち
球体AIロボットARCH(アーチ)の
静かな機鳴に包まれていた。
「やあ、藤城君、烏丸君。久しぶりだね
調子はどうかね?」
ロマンスグレーの髪をきれいに整えた
神崎教授が、温和な笑みを浮かべて
二人を迎えた。
そのデスクの隣では、眼鏡の奥で
鋭い知性を光らせる一ノ瀬准教授が、
優美な手つきでキーボードを叩いている。
「教授、助けてください。漱石が『坊っちゃん』
という国民的エンターテインメントに込めた
真の『毒』の正体が掴めないんです、
それは彼自身の『生い立ち』と深く繋がって
いる可能性があるんです」
蓮が切羽詰まった声で訴えると、
デスクの脇で待機していた球体型のAIロボット、
ARCH(アーチ)がポーンと軽快な
電子音を鳴らした。
『メイン・イシューを受理。
夏目漱石作『坊ちゃん』の執筆動機の推定・
関連する明治時代の背景情報の解析を開始。
関連する一次資料を空間にホログラムを
投影します』
ARCHのレンズから放たれた青白い光が、
研究室の空間に、明治時代のセピア色の新聞記事、
モノクロの写真、年表、夏目家の家系図を
空間に立体的に浮かび上がらせた。
「ふむ、三つ子の魂百まで、という視点だね」
神崎教授が穏やかに語り始めた。
「漱石・金之助は慶応3年、江戸が崩壊する
直前に名主の家に生まれた。だが、
明治維新は大政奉還によって、
夏目家から特権をすべて奪い去ったんだ。」
「こう考えるのはどうかな、彼は
『没落していく家』の中で、望まれぬ子として
誕生した。父・直克からは終生愛されず、
兄たちからも見下される」
「作中の『お前はとうてい出世はせん』と
いう兄の言葉は、金之助自身のむきだしの
トラウマそのもの……かもしれないね」
蓮の歴史オタクの血が騒ぎだす。
「薩長の新政府が江戸を破壊したように、
金之助の心もまた、古い家族制度の
崩壊の中で引き裂かれたんですね」
さらに、蓮は、
「大久保利通や西郷隆盛らが進めた
改革の影で、漱石の父のような旧時代の
権力者は、プライドだけを残して
零落していった。その苛立ちの矛先が、
末っ子の金之助に向かった
可能性はありませんか?」
「その可能性はあるわね」
一ノ瀬准教授が冷徹に割り込んだ。
そして、
「ARCH、若き日の金之助の行動記録を
表示して」
『了解、金之助は最初、建築家を志しました。
「日本に不朽の記念碑を残したい」
という希望だったとされています。けれど、
親友の米山保三に「地震国で建築物を
残しても意味がない。不朽の名声を残したい
なら文学をやれ」と言われ、英文学へ
転向したのです』
「建築家……。形に残る『居場所』を、
金之助は切望していたのかもしれないわね」
一ノ瀬准教授はタブレットを操作し、
さらに深堀りをする。
「でも、帝国大学と言う超エリート集団の
中で、彼はさらなる孤独に陥る」
「西洋の合理主義を学べば学ぶほど、
日本の浅薄な文明開化に対する嫌悪感が
首をもたげる。……自分もその『猿真似』の
システムの一部ではないかという恐怖。」
「この学生時代に抱いた『エリートへの帰属と
脱却の衝動』こそが、のちの赤シャツと
坊ちゃんの対立構造の原型だった……と
考えたら、どうかしら?」
蓮は、ハッとし、
「その可能性、大きいと思います。
エリートと言えば、どうしても気になるのが
これなんですよ」
蓮がホログラムに浮かぶ『坊ちゃん』の
テキストの一点を指さした。
「まず、僕が引っかかっているのは、
坊ちゃんの学歴とスペックです。彼は冒頭から
『親譲りの無鉄砲』だの『損ばかりしている』
だのと自称し、読者も彼を『元気で直情的な
バカ』だと思い込んでいます」
「しかし、彼は物理学校の(現在の東京理科
大学)を、それも留年もせずにストレートで
卒業している。」
「これは、当時の感覚だとどういう位置づけ
なんです?」
「ふん、いいところに気づいたじゃない」
一ノ瀬准教授が、キーボードを叩く優美な
手を止めて冷ややかに話し出した。
「多くの人間は文学を雰囲気で読み過ぎるのよ。
ARCH、当時の社会的・経済的ファクトを
表示しなさい」
『了解。明治時代中期、物理学校を卒業して
地方の中学校へ赴任した教師に提示された
月給は40円です。
当時の米一俵(60㎏)が約3円~4円。
この月の月給40円を現在の価値に
換算すると、初任給として月給約30万~
40万円、、実質的な年収換算で
500万~600万円相当の超エリート
待遇に該当します』
「ええっ……!?」
唯が思わず声を上げた。
「年収600万!?じゃあ坊ちゃんって、
ただの向こう見ずな暴れん坊じゃなくて、
国家が育成した超高給エリートじゃない
ですか!」
「その通りよ」
一ノ瀬が不敵に優美に微笑む。
「作中で彼は、松山の宿屋に到着するやいなや、
茶代(チップ)として5円……現代の価値で
3万~5万円もの大金をポンと出している」
「これは地方を完全に舐め切った、
金銭感覚の麻痺した『傲慢な東京のインテリ』
の仕業よ」
「でも、!」
蓮の歴史オタクの血が騒ぎ出す。
「当時の東京と地方の格差を考えるなら、
大政奉還から廃藩置県にいたる新政府の
強引な中央集権化が、背景にあります
よね!」
「薩長の名士たち……大久保利通や伊藤博文、
西郷隆盛らが作り上げた明治の新体制は、
江戸と言う古い共同体を徹底的に破壊した」
「廃藩置県で武士の身分を奪い、東京を
中心にした急激な西洋化を推し進めた。
だからこそ、東京の物理学校を出た
エリートは、地方から見れば
『文明開化の象徴』として神格化される
一方で、生々しい嫉妬の対象でも
あったはずだ」
「特に板垣退助の自由民権運動が盛んだった
高知や、この舞台である四国松山における
『官軍(新政府)』への反発は
根深くて……」
「そこ、歴史オタクの悪い癖。熱くなって
本筋から離れないの」
一ノ瀬准教授の鋭い声が、蓮の妄想を
切り裂いた。
「私たちは今、薩長政府の政治闘争の
歴史を議論しているんじゃないわ。
夏目金之助という一人の文学者の脳内を
解剖しているのよ。本筋に戻しなさい」
「す、すみません……」
蓮が小さくなると、神崎教授がフォローする
ように穏やかに口を開いた。
「いや、藤城君の言う時代背景もあながち
無関係ではないよ。大政奉還によって、
それまで江戸を牛耳っていた元旗本の
家系……つまり夏目家は、新政府の誕生と
ともに一気に没落の憂き目を見ることに
なった」
「漱石が生まれたのは、まさにその激動の
ただ中だ。つまり、世間が『文明開化』
『薩長万歳』と浮かれている裏で、
漱石の幼少期は『失われた江戸の栄光』の
残骸の中で始まったんだね」
「でも、どうしても気になるのが
これです」
蓮がホログラムを指さした。
「坊っちゃんは物理学校(現在の東京理科大学)
をストレートで卒業したエリートですよね。
月給40円――現在の価値で年収600万相当。
そんな超エリートが、なぜわざわざ地方で
『バカの皮』を被って暴れ回るんでしょうか?」
「ふふ、いい着眼点ね」
一ノ瀬准教授が手を止めた。
「でも、それを単なる『性格』として
片づけてしまうのは、少し勿体ないかも
しれないわ。
ARCH、当時の漱石のというか、坊ちゃんの
作中に置かれていた状況を表示して」
『了解。明治時代、東京の物理学校卒の
ステータスは極めて高く、地方の中学校から
すれば文明開化の象徴のような存在でした』
ARCHの投影したホログラムに、東京物理
学校や、学生たちの姿が映し出される。
「神崎教授の話しと重複するけど」
一ノ瀬が言葉を継ぐ。
「漱石の生家、夏目家は江戸の牛込界隈を
仕切る『名主(なぬし)』――旗本に準ずる
家系だった」
「それが大政奉還によって、薩長の新政府に
特権をすべて奪われた」
「世間が『文明開化だ』『薩長万歳だ』と
浮かれている最中、漱石の幼少期は
『失われた江戸の栄光』まさしく残骸の中で
始まざるを得なかった」
「そしてそれは、漱石の成長にはかり知れない
影響を与え、精神の育成に多大なる影響を
受けた結果の『バカの皮』の可能性があるわね」
「薩長、といえば!」
蓮が身を乗り出した。
「大久保利通や西郷隆盛、伊藤博文、木戸孝允
らが進めた大改革――版籍奉還から廃藩置県
への流れは、まさに武士から特権だけでなく
『職』と『土地』を奪う暴挙でしたよね!
家禄を処分された士族たちの不満が爆発して、
江藤新平の佐賀の乱や、西郷自身の
西南戦争へと繋がっていく」
「さらには板垣退助の自由民権運動だって、
薩長藩閥政治による権力独占に対する、
不平士族や豪農たちの怒りが背景に
あるわけです!」
「ちなみに、この舞台である四国松山の
中学校の初代校長には、旧土佐藩の
自由民権運動の闘士だった人物の影が
ちらついていて、当時の松山はまさに
新旧の価値観が激突する政治的火薬庫
で――」
「はい藤城君、ストップ。また地政学と内戦の
歴史話に脱線し始めてるわよ」
一ノ瀬准教授が冷たい声で遮った。
「私たちは藩閥政治の是非を議論しているん
じゃないの。夏目金之助という一人の
クリエイターの精神構造を推理しているの、
脱線を戻しなさい」
「す、すみません……」
再び蓮が小さくなると、
やはり、神崎教授が穏やかに引き取った。
「まあ、藤城君の言うことも一理あるよ。
断定はできないけれど、こんな考え方もできる」
「明治維新による徳川幕府の崩壊は、
単なる政治体制の移行ではなく、数百年続いた
『武家政治の価値観』そのものの完全な
圧殺だった」
「新政府が導入した西洋化の波は、日本人の
生活全般を激変させたんだ」
「それまでの着物からフロックコートや軍服へ
丁髷を落とした散切り頭、ランプの灯りと馬車
そして何より、経済活動のすべてが
『要領の良さと資本主義』で測られるよう
になった」
「昨日まで誇り高く生きていた江戸の旗本や
武士たちが、今日からは『時代遅れの敗北者』
として社会の底辺へ追いやられ、
代わりに薩長の新興名士たちが特権を握る」
「そんな不協和音のただ中で、漱石は
少年期を過ごした。さっきも言ったように
作中の『お前はとうてい出世はせん』
という実の兄の言葉は、まさに金之助自身の
剥き出しのトラウマそのものだろうね」
神崎教授はARCHが投影する、
フロックコートを着た明治の官吏たちの
写真を指差した。
「坊っちゃんは、高い知性を持ちながら、
あえて『感情』のままに暴れ回る」
「これはね、当時の政府が進めていた、
中身のない形式ばかりの近代化――
一ノ瀬君がよく言う『フロックコートを
着た狸』たちに対する、漱石なりの、あるいは
一つの『抵抗の試み』だったとも
考えられるんじゃないかな」
「漱石自身も、フロックコートを着て英文学を
講じる側だった。……でも、彼の心の中には、
薩長が作ったこの『新しい日本』に対する、
拭い去れない違和感があったのかもしれないね」
「抵抗の……試み」
蓮が呟いた。
「でも、先生。本当の闇は、坊っちゃんという
『理想』の裏側にある……かもしれないわ」
一ノ瀬がタブレットを操作する。
そこに映し出されたのは、夏目漱石の
年表に刻まれた、ある「10年のズレ」と、
ザルに入れられて売られかけた一人の赤子の
記録だった。
第2章:英国の闇と、狂気から生まれた文壇
神崎教授が淹れてくれた二杯目の紅茶が、
研究室に穏やかな湯気を立てていた。
しかし、ARCHが空中に映し出すホログラムは、
先ほどまでの活気ある東京の風景から一転し、
重苦しい灰色の霧に包まれたロンドンの
街並みへと切り替わった。
「坊っちゃんが『フロックコートを着た狸』
つまり中身のない近代化への反逆者かも
しれないと話したね」
神崎教授がカップを傾け、
ホログラムの中の漱石の年表を指差した。
「では、作者である夏目金之助自身は、
その近代化の荒波をどこで、どう浴びたのか。
それが明治33年(1900年)から始まる
イギリス留学だ」
「彼は国費留学生として、文明開化の本場へ
送り込まれたのさ。でも、そこは彼にとっての
『楽園』などではなかった……こう考えるのは
どうかな?」
『当時の資料および漱石の日記を抜粋します』
ARCHが低く機鳴を上げ、漱石がロンドンで
書き残した悲痛な叫びを空中に並べた。
《ロンドンに住むのは、倫敦(ロンドン)の
不潔な煤煙の中に、文字通り幽閉されるのと
同じだ》
《日本人は、西洋人から見れば猿の
ようなものだ》
「2年間の留学生活で漱石が得たものは、
最先端の英文学の知識……ではなかったかも
しれないわ」
一ノ瀬准教授が、冷たい溶けかけた氷のような
響きを含んだ声で継いだ。
「彼が得たのは、猛烈な孤独と、今で言う
重度のメンタルヘルスの悪化――神経衰弱よ。
あまりの引きこもりぶりに、日本政府には
『夏目発狂す』というデマに近い報告書まで
送られたんだから」
「西洋文明の圧倒的な『個』の強さと、
その裏にある冷酷な個人主義の闇を、
彼は一人で浴びすぎてしまったのよ。
藤城君、そんな男が帰国して最初に書こうと
したのが、この『坊っちゃん』なの」
「発狂の噂……」
蓮はゴクリと息を呑んだ。
「留学前の漱石は、松山や熊本で、
まだどこか『エリート教師』としての余裕が
あったはずです。でも、帰国後の彼は完全に
変わってしまった」
「大学で教鞭を執りながらも、常にイライラ
して家族に八つ当たりを繰り返す」
「さらに熊本時代、中根鏡子夫人とは神経質な
すれ違いを続け、夫人の流産や白川への身を
投げようとする自殺未遂事件まで起きている」
「金之助は狂乱する妻を看病しながら、
自らも精神の均衡を崩していった」
「その狂気とドロドロした精神状態から
逃れるために、主治医の勧めで書いたのが、
処女作『吾輩は猫である』であり、
この『坊っちゃん』なんですよね」
「その通り」
神崎教授が頷く。
「さらに、漱石・金之助の精神の変遷を語る
上で、絶対に外せない『太陽』がある」
神崎教授が集合写真を指さした。
その中心には、鋭い眼光を持つ若き俳人・
正岡子規がいた。
「大学予備門時代に出会った二人は、
まさに魂の双子だったんだ」
「何をやっても馴染めなかった金之助にとって
病魔に置かされながらもユーモアを
失わなかった子規は、唯一、自らの知性を
対等にぶつけ合える戦友だった……。
そう考えて見るのはどうかな」
「正岡子規!日清戦争の従軍記者として
血を吐きながら松山に戻ってきた。あの
激情の男ですね!」
蓮が興奮して身を乗り出す。
神崎教授が、ゆったりと話す。
「漱石は子規を下宿『愚陀仏庵』に居候させ、
52日間も同居した。……子規の生命力
あふれる『写生』の精神が、金之助の
冷え切った心に火を灯したのかもしれない。
でも、その太陽もすぐに去ってしまう」
「ええ。留学中に子規を亡くした金之助の
絶望は、私たちの想像を絶するものだった
でしょうね」
一ノ瀬准教授が静かに継いだ。
「ARCH、金之助の熊本時代の記録を。
金之助は熊本で中根鏡子と結婚するけれど、
ここから彼の『女性観』と『生活』は
凄惨なグラデーションを描き始めるわ」
『補足。中根鏡子は貴族院書記官長の娘。
神経質な金之助とは最初からすれ違いました』
『さらに熊本時代、鏡子夫人は流産を経験し、
白川へ身を投げようとする自殺未遂事件を
起こしています』
『金之助は狂乱する妻を抱きしめ、
看病しながら、自らも精神の均衡を崩して
いったのです』
神崎教授は、ひとつうなずき話し始めた。
「鏡子夫人……。作中の『マドンナ』が、
どこか冷徹で男たちのエゴを弄ぶように
描かれているのは、金之助自身が若い頃に
抱いた『西洋的でハイカラな近代女性』に
対する強烈な不信感の裏返し……かも
しれないよ、藤城君」
神崎教授の言葉に、蓮は激しくノートを
走らせた。
神崎教授は、さらに続けた。
「そして、いよいよ彼はイギリス留学という
名の『精神的監獄』へ向かう。……そこで
彼が見たのは、文明の本質ではなく、己の
魂が粉々に砕け散る音だったかもしれない」
ARCHのホログラムが不気味に赤く染まり
始めた。
神崎教授は、続けた。
「当時の日本は、急速な西洋化に伴い、人々の
生活行動もドラスティックに変化していた。
それまでの太陰暦から太陽暦への改定、
時間の概念の厳格化、義務教育の普及さ」
「人々は『国家の近代化』という巨大な歯車の
一部として機能することを求められ、精神的な
歪みを抱え始めていた時代でもある」
「そして当時の日本の文学界、いわゆる
『文壇』の流行も、漱石を追い詰めていた」
「当時はね、坪内逍遙の写実主義を経て、
人間の醜い本音や性愛をそのまま暴露する
『自然主義文学』が急速に台頭していた
時代だったんだ」
「島崎藤村の『破戒』や、田山花袋の『蒲団』
がまさにそれだね。文壇全体が
『これこそが真実だ、リアルだ』と
盛り上がっていた。でもね……」
「漱石はそれを激しく嫌った!」
蓮の歴史・文学オタクのギヤが、
ここで一気にトップに入った。
「自然主義の『人間の汚い部分を覗き見して
喜ぶような陰湿さ』が、江戸っ子気質の
金之助には我慢ならなかったんですよ!」
興奮しだした蓮は、止まらない。
「だから漱石は、親友の正岡子規が進めていた
『写生文』の精神を引き継いで、
もっとカラッとした、でも批評精神に富んだ
『余裕派』としての文学を立ち上げようとした。
……あ、そういえば正岡子規といえばさ!」
蓮が唯の方を向き、鼻息荒く語り出す。
「明治28年って日清戦争の年じゃないですか!
伊藤博文内閣の下で、日本が初めて大陸へ
進出した激動の年だ。子規は従軍記者として
遼東半島へ渡って、その帰りの船で血を吐いて
松山に戻ってきた」
「そこに漱石が自分の下宿『愚陀仏庵』に
子規を居候させて、52日間も同居して二人で
夜な夜な俳句や文学について語り明かした」
目を真っ赤にし、
さらにヒートアップする蓮。
「当時の松山は、まさに日清戦争の傷跡と、
新しい文学の産声が混ざり合うカオスな
空間だったはずで、実はあの連合艦隊の
秋山真之も、子規を通じて漱石と深い交流が」
「……つまり、バルチック艦隊を破るための
戦術の根底には、漱石文学の持つ
『大局的な俯瞰の視点』が影響を与えていた
可能性が微粒子レベルで存在していて、
日露戦争の日本海海戦は――」
「はい、そこ。妄想が日本海海戦まで
飛んでるわよ、烏丸ちゃん、その暴走特急を
止めなさい」
一ノ瀬准教授がため息をついた。
「先輩、ストップです! 坂の上の雲の話を
始めたら夜が明けます!
話がミリタリー方面に大脱線してますよ!」
唯が蓮の袖を引っ張って止めた。
しかし、唯もまたARCHの映し出す年表を
凝視し、ハッと顔を上げた。
「でも待って……日清戦争が明治28年。
で、さっき先生は『坊っちゃん』の舞台は
そこから10年も後ろにずれた『明治38年、
日露戦争の直後』に設定されているって
言いましたよね?」
唯の目が、歴史探偵のような鋭さを帯びる。
「明治28年と38年。この10年で、日本は
二つの巨大な戦争を経験した。
歴史好きとして言わせてもらうなら、
この10年で日本という国の『空気』は
180度変わっています! 日清戦争までは、
まだ『坂の上の雲』を目指す一途な国だった」
唯も蓮に劣らず歴史好きの歴女。
「でも、日露戦争に夥しい血と税金を
投じて勝った後の明治38年は、国民全体が
勝利に熱狂し、傲慢になり、その一方で
深刻な精神的疲弊に陥っていた」
唯の興奮状態は続く。
「……えっ、まさか漱石は、その
『変質してしまった日本』を撃ち抜くために
あえて舞台を10年後ろにずらした……
かもしれないってことですか?」
今度は唯の方が熱くなり、激しくぺんを
走らせ始めた。
「日露戦争の勝利によって、日本は名実ともに
『列強(エリート国家)』の仲間入りをした。
それって、作中で言うなら、ズル賢く立ち
回って勝利する『赤シャツ』の勝利そのもの
じゃないですか!」
「ふふ、二人揃って『歴史オタクの暴走』が
始まったわね」
「歴史好きのスイッチが入ると、揃って
ブーキモ(不気味に妄想)化するのね、
教授と私がいる前で勝手に完結しないで
ちょうだいね!」
蓮と唯は我に返って「すみません」と頭を
下げた。
一ノ瀬准教授が、わざとらしくため息を
つきながらも、どこか楽しそうに口角を上げた。
「ネジが外れたような二人の脱線だけど、
その推測はあながち的外れではないかも
しれないわ。日露戦争の勝利によって、
日本は名実ともに列強の仲間入りをした」
「確かに作中で言うなら、ズル賢く
立ち回って『勝ち組』として君臨する
赤シャツの勝利そのものね! 漱石はね、
当時の日本社会全体が『赤シャツ化』
していくのを、恐怖に近い感情で見つめていた
……こう考えるのはどうかしら?」
研究室の空気が一変した。
蓮と唯は、自分たちが愛してやまない歴史の
知識が、文豪の孤独な戦いとリンクした瞬間の
鳥肌に震えていた。
「うん、烏丸君の指摘は実に鋭い」
神崎教授が二人の脱線を優しく回収した。
「日露戦争後の明治38年。国家全体が
『エリート(赤シャツ)』の顔をし始めた
時代。その狂気の中で、漱石はあえて、
前時代的な、噓の付けない
『バカ(坊ちゃん)』を四国の松山に送り
込んだ」
「藤城君。いよいよ君が最初に問いかけた
最大の謎、老下女・清の
『不気味なほどの盲目的な愛』の解剖に
入ろうじゃないか」
「神崎先生の言う通りよ。役者は揃ったわ
夏目金之助の幼少期の家庭環境、および清の
モデルとなった歴史的ファクトを探るときね」
一ノ瀬が不敵に微笑む。
「そして、『赤シャツ』を倒すための刃を
研ぐ前に、『不気味だ』と言ったあの老婆、
清(きよ)の愛について、もっと残酷な事実を
見ておく必要があるわよ」
「ARCH、夏目金之助の出生記録と、清の
モデルとなった女性の背景を展開しなさい」
ARCHのレンズが不気味に明滅し、空間の
霧が晴れていく。
そこに浮かび上がったのは、明治の華やかな
文明開化の影に隠された、凄惨なまでの
「家族の崩壊」の記録であり、新宿の夜店の
喧騒と、古道具屋の店先に置かれた「ザル」の
映像が浮かび上がろうとしていた。
第3章:老下女・清と消えゆく江戸の誇り
ARCHのホログラムが、華やかな東京の
街並みを映し出した。
ガス灯が灯り、馬車が石畳を駆ける。
その中心にそびえ立つのは、
ルネサンス様式の壮麗な洋館――鹿鳴館だ。
ワルツを踊るドレス姿の女性たち、
フロックコートを着た男たち。
「……これ、明治政府が作り上げた、新しい
『特権階級』の肖像、ポートレート(写真)
ですよね!」
今度は唯が、吸い寄せられるように
ホログラムの前に歩み出た。
空間には、胸に幾つもの勲章を輝かせ、
フロックコートに身を包んだ男たちと、
最新のパリ・モードを纏った女性たちの姿が
浮かんでいる。
目を大きくしてホログラムを見つめる唯が
興奮しながら語る。
「公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵……。
大政奉還のあと、薩長の新政府は旧大名や公家、
そして自分たちの維新の功臣を『華族』という
絶対的な特権階級に祭り上げた」
「つまり、明治の文明開化の本質って、
徹底的な『新しい身分制度』の再構築だった、
歴史的に見れば、昨日までの足軽だった
人間が、今日からは『伯爵』と名乗って
日本の富を独占する。その一方で……」
蓮も興奮しながら割り込んできた。
「その一方で、江戸を支えていた元武士、
つまり『旗本』や『士族』たちは、
廃藩置県と秩禄処分で家禄を奪われ、
文字通り路頭に迷うことになった」
蓮が、唯の言葉を引き継ぐように拳を
握りしめた。
「夏目漱石の生家、夏目家はまさにその典型
元は江戸の牛込界隈を仕切る名主(旗本に
準ずる町奉行直属の役人)として栄華を誇って
いたのに、明治維新とともにその特権をすべて
失い、一気に没落していった」
勢いが止まらない、蓮。
「……あ、そういえばさ!当時の華族の
結婚狂騒曲というか、身分違いの恋愛を
めぐる文壇のスクラッチ(スキャンダル)…」
「はい、そこまで。二人とも、華族のドロドロ
したゴシップに脱線して目を輝かせないの
本筋に戻るのよ」
一ノ瀬准教授がパシッと冷たくタブレットの
ペンを弾いた。
蓮と唯は、「あ、はい、すみません」と
同時に一歩下がる。
「でも、二人が言った『華族と没落士族の格差』
こそが、あなたたちが『不気味だ』と言った
老下女・清の愛の正体なんだと思うわ!」
一ノ瀬准教授がタブレットを操作すると、
ARCHが華やかな宮廷生活のデータの裏側に、
暗く沈んだ影のような部分を拡大した。
そこには、新宿の夜店の喧騒を再現した
ホログラムが映し出されていた。
『資料を提示します。夏目漱石、本名・金之助は
慶応3年、江戸が崩壊する直前に、名主の家系の
八人目の末っ子として生まれました』
『しかし、高齢の両親にとって、家が没落して
いくなかでの望まぬ妊娠であり、金之助は
『恥かしい子』として扱われました。』
『彼は生後まもなく、新宿の夜店の古道具屋で、
ザルの中に並べられて売られかけていたところ
を、実の姉に泣きながら連れ戻されたという
記録が残されています』
「ザルの中の赤ん坊……」
唯が口元を押さえて絶句した。
ARCHがポーンと電子音を鳴らす。
『補足します。その後、金之助はすぐに別の
家へ里子に出されましたが、里親の夫婦仲は
最悪でした』
『彼は実の両親の愛も、養父母の愛も知らない
まま、実家に戻れば親を「おじさん、おばさん」
と呼ばされる孤独な幼少期を過ごしました』
『漱石には生涯、自分は誰からも望まれて
いないのではないかという、深い愛の
飢餓感がこびりついていたと推測されます』
神崎教授が痛ましげに目を細め、
静かに言葉を継いだ。
「そうした孤独のなかで、漱石が大人になり、
イギリス留学で神経衰弱のどん底まで
落ちたとき彼の心が必要としたのは、
何だったんだろうね」
「藤城君、これを踏まえて、もう一度
『坊っちゃん』の下女・清を見てごらん」
蓮はハッとして、付箋だらけの文庫本を
ひらいた。
親からも兄からも「ろくな者にならない」と
突き放された坊っちゃん。
三つ子の魂百まで、と言うけれど、彼の心には
『無条件に愛された記憶』という決定的な
パーツが欠落している。
それを、清だけが「あなたは気性がまっすぐな、
よいご気性だ」と、まるで神仏を拝むように
全肯定する。お小遣いを与え、将来は一緒の
屋敷に住もうと夢を語り続ける。
「清は……。清は、漱石が人生の途中でついに
出会えなかった、『理想の母性』という名の、
痛切な祈りの結晶だった」
「さらに言えば、漱石が人生で最も欲しかった
でも現実にはどこにもいなかった『幻の聖母』
でもあった」
「小説と言うキャンバスの中にだけ
作り上げた、自分を無条件で愛してくれる
存在だったということですか?」
「そう考えるのも、一つの自然な解釈だね。
でも、彼女の愛にはもう一つ、歴史的な重みが
隠されている……かもしれないよ」
神崎教授の言葉に、唯の「歴史オタク」の
スイッチが再び入った。
「清の身分……! 作中で清は徳川幕府に仕えた
『没落士族』の出身だと明言されていますよね。
明治維新によって薩長の新政府に誇りを奪われ、
家禄を失い、下女奉公に出ざるを得なくなった」
「足軽(薩長)がのさばる世の中になって
零落し、下女奉公に出された……清」
「新政府が作った『華族』という成金エリート
たちに、誇りを徹底的に踏みにじられた
没落士族、それが清の正体!」
「そんな彼女にとって、同じく江戸の誇り
旗本の血を引く坊っちゃんを『立派な人間だ』
と信じ抜くことは……!」
「そうよ」
一ノ瀬准教授が力強く引き取った。
「それはね、薩長政府が作った成金エリート
たちの新時代に対する、『失われた江戸の誇り
を取り戻すための、孤独な弔い合戦』
だったと言えるわね!」
「清にとって、坊っちゃんが『まっすぐ』で
あり続けることは、自分たちの正しさを
証明する唯一の希望だった」
「だからこそ、あのラストシーンが意味を
持ってくるの」
物語りの結末。清は亡くなり、坊ちゃんは
彼女を自分の菩提寺である小日向の養源寺に
埋葬する。
「だから清の墓は養源寺にある」という、
突き放したような、しかし、余韻に満ちた
あの一文。
「あの一文はね、孤独な文豪が、自分の魂の
母へ捧げた、血を吐くようなレクイエム
(鎮魂歌)だった…かもしれないのよ」
一ノ瀬の言葉が、研究室の空気に溶けていく。
唯の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「それから、神崎教授のご指摘通りなんだけど」
「作中、作中の『マドンナ』が、どこか冷酷で
男たちのエゴを弄ぶハイカラな近代女性として
描かれている」
「それは、金之助自身が抱いた精神的な、
明治維新・文明開化・西洋化の不信感の
裏返しというか、無意識から浮かび上がった
怒り見たいなものを感じるわ!」
『補足資料を提示します』
ARCHが音を鳴らし、漱石がイギリス留学から
帰国した直後の日記や、鏡子夫人の回想録を
空間に展開した。
そこには、国民的文豪のイメージからは程遠い
凄惨な家庭の記録が刻まれていた。
展開されたホログラムを見つめる、
一ノ瀬准教授。
「見て。帰国後の金之助は、猛烈な神経衰弱と
被害妄想に支配されていた」
「彼はね、家の中で激しいヒステリーを
起こし、妻を怒鳴りつけ、あろうことかまだ
幼い自分の子供たちを殴り飛ばしたのよ」
「鏡子夫人があまりの恐怖に、子供を連れて
実家へ避難しなければならなかったほどに」
「漱石が……自分の子供を?」
唯がどうにも信じられない声を漏らした。
それまで、じっとホログラムを見つめていた、
神崎教授。
「漱石は子供を憎んでいたわけではない、
むしろ、誰よりも真っ直ぐな愛情を
注ぎたかった、なのに、自分の中なの
制御不能な『怪物』が、最も守りたかった
はずの子供たちを傷つけてしまう」
「その自己嫌悪、その血を吐くような後悔が、
どれほど彼の魂を削ったか、想像できるかね?」
神崎教授が、眼鏡の奥の目を哀しげに細めた。
「だからこそ、彼は『坊ちゃん』を書いた…。
そう考えるのはどうだろう」
「自分の中の醜い狂気や暴力を、すべて
『竹を割ったような、子供のように真っ直ぐで
無鉄砲な男』の中に結晶化させることで、
自らの罪を浄化しようとした」
「作中で、坊ちゃんが宿直室でバッタ(いなご)
を入れられ、生徒たちと真っ向からぶつかる
あの瑞々しい描写」
「あれはね、漱石がかつて傷つけてしまった
自分の子供たちへ向けた、『お父さんは、
本当はお前たちと同じ目線で真っ直ぐに
生きたかったんだ』という、悲惨な謝罪の
メッセージでもあったかもしれない」
蓮の視界が、にじんだ。
不気味だと感じていた清の愛。
それは、里子に出された孤独な赤子が求めて
止まなかった『全肯定』であり、同時に、
自分が父親として与えられなかった
『理想の愛』への、絶望的な憧憬だった
のではないか?
「神崎先生、もう一つ聞いてもいいですか?」
蓮が顔を上げる。
「坊ちゃんと意気投合する山嵐。坊ちゃんとは
対照的に、ものすごく強くて、ゆるぎない
正義感を持っています。漱石にとって、
彼は単なる登場人物以上の存在だった……
そんな気がするんです」
すると、一ノ瀬准教授が、
「ふふ、鋭いわね」
一ノ瀬准教授がARCHに指示を送る。
ホログラムが切り替わり、一人の痩せた男の
肖像が浮かび上がった。
これまで何度も話しに出て来た、
正岡子規だった。
「山嵐のモデルの一人は渡辺嘉一だと
言われているけど、その精神的な柱になって
いたのは、間違いなく親友の正岡子規……
ではないかしら」
「金之助(漱石)にとって、病魔に冒され
ながらも豪快に笑い、文学を革新しようとした
子規は、自分には決して到達できない
『生命力の権化』だった」
「留学中に子規を亡くした漱石にとって、
山嵐というキャラクターは、失われた太陽
(子規)の面影を追い、自らを狂気の淵から
繋ぎ止めるための、唯一の防壁だったかも
しれないわね」
研究室に、静かな、しかし重厚な沈黙が流れる。
金之助(漱石)という一人の人間が辿った、
孤独、結婚の挫折、留学の狂気、
そして子供への暴力。
それらすべての負の感情を、「坊ちゃん」と
いう輝く正義で塗り替えようとした、
文豪の壮絶なプロセスが浮かび上がってきた。
「でもさ、先生!」 蓮が鼻をすすりながら、
ふとARCHの年表の別の箇所を指差した。
「薩長の新政府に反発する江戸っ子の
気概といえば、やっぱり、あの山嵐ですよ!」
「彼は会津出身。戊辰戦争で徹底的に叩かれた
会津の誇りを胸に、赤シャツみたいな
インテリに噛みつく」
「これって、当時の自由民権運動とか、
政府への不満が溜まっていた地方の空気が
反映されている……かもしれないですよね!」
「実は僕の調べでは、当時の松山中学の
近くには、旧松山藩の不平士族たちが集まる
秘密結社のようなものがあって」
「彼らは夜な夜な『山嵐』とあだ名される
ような、厳格で剛毅な男を中心に、
反政府運動のクーデターを計画していたと
いう裏設定が……!!」
「はい脱線禁止。歴史オタクの暴走はそこまで」
一ノ瀬准教授が冷たく遮った。
「……でも、藤城君。その山嵐という存在に
ついて、君は興味深い視点を持っているね」
神崎教授が眼鏡を押し上げた。
「山嵐は、坊っちゃんにとって最初こそ
『虫の好かない奴』だったが、やがて最も
信頼できる相棒となる」
「豪快で、正義感にあふれ、間違ったことには
文字通り『窓が振動するほどの大声』で怒る」
「もしかしたら漱石はね、神経衰弱で
ウジウジと思い悩む自分自身とは対極にある、
あの山嵐のような『剛毅で迷いのない強烈な
男性像』に、どこか深い憧れのようなものを
抱いていた可能性もある」
「山嵐の精神的な柱になっていたのは、
さっきも話に出た間違いなくあの若き日の
魂の双子――留学中に亡くした
親友・正岡子規の面影なんだろうね」
「自分には決して到達できない、
失われた太陽のような生命力の権化」
「自らを狂気の淵から繋ぎ止めるための
唯一の防壁として、彼は山嵐を、子規への
憧れをそこに託した、さっき話した通り
推理としては十分に魅力的だよ」
「山嵐への……憧れ」
蓮が呟いた。
「さあ、歴史オタクの暴走はそこまでにして、
鏡の中の悪魔を引っ張り出すわよ」
一ノ瀬が不敵に微笑む。
「藤城君。山嵐とともに、坊っちゃんが最後に
殴り倒した『赤シャツ』インテリの正体、
そこにはね、夏目漱石が仕掛けた、最も残酷な
罠が隠されている可能性がある」
神崎教授の目が、鋭い光を帯びた。
「いよいよ、このミステリーの核心だ。
鏡の中の悪魔が、姿を現そうとしているよ」
第4章:鏡の中の悪魔・赤シャツの告白
研究室の窓から見えるキャンパスの木々が、
夕闇に溶け始めていた。
自動調光された照明が一段落ち、ARCHの
ホログラムだけがセピア色の光を放っている。
空中に浮かび上がったのは、金縁の眼鏡をかけ、
仕立ての良いフロックコートを纏い、
琥珀のパイプを気だるげにくゆらせる一人の
男の肖像だった。
『坊ちゃん』における最大の悪役、教頭の
「赤シャツ」である。
「さあ、いよいよこの文学ミステリーの核心、
教頭『赤シャツ』の仮面を剥ぎ取るわよ」
一ノ瀬准教授がタブレットの画面をスワイプ
すると、赤シャツの周囲に彼の作中での
スペックが次々と文字となって踊り始めた。
「みんな、坊っちゃんの視点を通して
読んでいるから、彼を単なる『陰険な悪党』
だと断定しがちだけど……」
「こう考えるのはどうかしら? 彼は、
当時の明治社会における『完璧な勝者』の
プロトタイプだったんじゃないかって」
「完璧な勝者……」
蓮がその肖像を見つめ、呟く。
「そうよ。帝国大学(現在の東京大学)を
卒業した文学士。地方の中学校において、唯一
『フロックコート』を着用することを許された
特権階級の象徴」
「しかも、マドンナという地方一の美女を
めぐって、うらなり(古風な英語教師)を
狡猾な立ち回りで追い詰めていく」
「ねえ、これって、前に議論した『華族』や
新政府の権力者に、最も気に入られるタイプの
人間、当時の最先端の『勝ち組エリート』
そのものだと思わない?」
「勝ち組エリート……たしかに」
唯が腕を組み、同意するように頷いた。
「そうよ、唯ちゃんが言った『華族』や
新政府の権力者たちに、最も気に入れられる
タイプの人間、それが赤シャツよ」
「彼はね、薄っぺらな西洋の教養をひけらかし、
常に『教育の精神的専門』だの『品性の向上』
だのと綺麗ごとを並べる」
「その裏で、自分の手を汚さずに野だ
(画学教師)という腰巾着を使って噂話を
流させ、気に入らない人間を合法的に
左遷する」
「昨日までの身分制度が崩壊し、要領の良さと
学歴だけで出世できるようになった
明治新社会の『申し子』なのよ」
「うわぁ……生々しい」
唯が腕をさすった。
「現代の会社組織にも、全く同じタイプの
人間がいます。綺麗ごとばかり言って、裏で
人事権を握ってライバルを蹴落とす人」
すかさず、蓮が割り込んできた。
「でも、そんな赤シャツに対して、坊ちゃんは
山嵐と一緒に、最後に腰巾着の野だいこに
生卵をぶつけて殴り倒し、山嵐が赤シャツを
殴り倒しますよね!」
「あれは、読者にとって、最高のカタルシス
(快感)じゃないですか!」
唯も負けずに、割り込んでくる。
「現代の感覚で見ても、赤シャツは圧倒的な
高学歴キャリア組ですよね。……あ!
そういえば、帝国大学といえば!」
唯の「歴史オタク」のスイッチが、
ここで火を噴いた。
「明治19年の帝国大学令によって、東大は単なる
教育機関じゃなくて『国家の官吏を養成する
最高府』として位置づけられましたよね」
「西園寺公望や森有礼らが構想したあの
システム赤シャツはまさに、そのシステムの
頂点から降りてきたエリートなんです!」
「当時の松山の中学生からすれば、
彼は文明開化の化身であると同時に、逆らう
ことの許されない絶対的な『知の権威』
だったはずで……」
「それこそ、あの頃の山県有朋内閣が強めて
いた教育勅語の精神を、一番体現していたのは
赤シャツのほうだったんじゃないですか!?」
「さらに言えば、当時の文部省の高級官僚たち
の間では、フロックコートのボタンの掛け方
一つにまで、国家への忠誠を示すための厳格な
『暗号』が仕込まれていたという都市伝説が―」
「ちょっと、唯ちゃん。話が山県有朋のボタン
の掛け方まで飛んじゃってるわよ。妄想が
過ぎるわ、戻ってきなさい」
一ノ瀬が苦笑しながらも、蓮を促した。
「でも、藤城君。そんな『完璧な知性』を
持つはずの赤シャツが、なぜこれほどまでに
陰湿に描かれているんだと思う? 」
「彼が坊っちゃんと山嵐に、拳で殴り倒される
ラストシーン……。あれを単なる勧善懲悪の
快感として読み飛ばしてしまって、
いいのかしら?」
「それは……」
蓮は喉を鳴らした。
「坊っちゃんのような真っ直ぐな魂が、
嘘で塗り固められたエリート主義を破壊する
……というカタルシスじゃないんですか?」
「もし、夏目漱石がそんな底の浅い物語を
書くために、ロンドンで神経衰弱になるまで
悩んだのだとしたら、少し寂しい気が
しないかね?」
神崎教授が、穏やかだが重みのある声で
介入した。
「藤城君。君に、このミステリーを解くための
最も残酷な『証拠』を提示しよう。……
断定は避けるべきかもしれないが、作者本人の
言葉として、これ以上の重みを持つものはない
――ARCH、音声ログを」
『了解。夏目漱石が後年に残した、自身の
文学論および書簡からの記録を再生します』
ARCHのスピーカーから、少しかすれた、
しかし静かな知性を感じさせる男の合成音声が
響いた。
《――赤シャツの基となった特定の人物は、
私の周囲にはいない。しかし、強いてあの男の
モデルをあげるならば……それは、私自身だ》
「……!!」 蓮の身体が、電流が走ったように
硬直した。手元の文庫本が、指の隙間から
滑り落ちそうになる。
「漱石自身が、赤シャツ……?」
唯も目を見開いたまま絶句している。
「そう考えるのはどうかしら」
一ノ瀬が、二人の反応を楽しむように眼鏡の
ブリッジを押し上げた。
「夏目金之助の経歴を見てごらんなさい。
東大を首席クラスで卒業し、文部省の命を
受けてイギリスへ留学した、国家お墨付きの
超エリート」
「帰国後は東大で英文学を講じ、最先端の
西洋文学を誰よりも理解していた」
「フロックコートを着こなし、琥珀のパイプを
くゆらせ、西洋の最新文学を講じる……。
それって、作中で最も西洋化に染まり、教養を
武器にして他人を見下していた『赤シャツ』の
スペックと、完全に一致するじゃない」
「前にでたけど、金之助は学生時代、
最初建築家を志した「日本に不朽の記念碑を
残したい」という希望だったけれど、親友に
「地震国で建物を残しても意味がない。
不朽の名声を残したいなら文学をやれ」と
言われ英文学へ転向した」
「形に残る『自分の居場所』を、彼は切望して
いたのよ。でも、エリートの階段を上れば上る
ほど、彼の心は引き裂かれていった」
「漱石はね、藤城君」
神崎教授が、落とされた照明の中で静かに
語りかける。
「彼はロンドンで、西洋の個人主義の輝きと、
同時に個人主義の冷酷な本質を見てしまった」
「そして帰国後、世間を見渡せば、日本全体が
西洋の真似事をして『列強の仲間入りだ』と
浮かれている」
「自分自身もまた、その文明開化のシステムに
乗っかって、東大教授というエリートの座に
就いている」
「……彼はね、そんな『近代化という病』に
侵され、ズル賢く、要領よく立ち回っている
自分自身の存在に、猛烈な激しい吐き気を
催していたのかもしれないよ」
「自己……嫌悪」
蓮の頭の中で、バラバラだったピースが
急速に猛烈な勢いで組み合わさっていく。
「さらに、帰国後の過酷な現実を見てみなさい
もう一度、復習を兼ねていくわ」
一ノ瀬の言葉が、ナイフのように空間を
切り裂いた。
「金之助は猛烈な神経衰弱と被害妄想に
支配され、家の中で激しいヒステリーを
起こしては、まだ幼い自分の子供たちを
殴り飛ばした」
「鏡子夫人があまりの恐怖に、子供を連れて
実家へ避難しなければならなかったほどに」
「まだ、半信半疑です。漱石が自分の子供を、
なんて信じられなくて」
唯が絶句した。
「そう。けれどね、漱石は子供を憎んでいた
わけではない……。むしろ、誰よりも真っ直ぐ
な愛情を注ぎたかった」
「なのに、自分の中の制御不能な
『理性という怪物』が、最も守りたかった
はずの子供たちを傷つけてしまう」
神崎教授が、ゆっくりと話し出した。
「その血を吐くような後悔が、どれほど彼の
魂を削ったか、想像できるかね?」
神崎教授の問いに、蓮は言葉を失う。
「だからこそ、彼は『坊っちゃん』を書いた
自分の中の醜い狂気や暴力を、すべて
赤シャツという人形に詰め込んだ」
「そして、それを徹底的に殴り倒すための
『理想の自分』として、物理学校卒の知性を
持ちながらも、損を承知で嘘を許さない、
子供の頃の真っ直ぐな魂――『坊っちゃん』
を誕生させた」
「前に話した通り、作中で、坊っちゃんが
宿直室でバッタ(イナゴ)を入れられ、生徒たち
と真っ向からぶつかるあの瑞々しい描写」
「漱石がかつて傷つけてしまった自分の子供たち
へ向けた、『お父さんは、本当はお前たちと同じ
目線で真っ直ぐに生きたかったんだ』という、
悲痛な謝罪のメッセージでもあった」
「つまりこの小説は、文豪が自分自身の醜さを
殴り倒すために執筆した、あまりにも残酷な
『自己救済の自傷行為』だったと言っても過言
ではないだろう」
蓮がハッとして文庫本をめくる。
「作中、最後の夜襲の場面、山嵐は主犯である
赤シャツを拳骨で徹底的に殴りつけています」
「それにたいして、坊ちゃんが殴り倒し、卵を
叩きつけている相手は、赤シャツの影で腰巾着と
して立ち回っていた、画学教師の『野だ』な
んです!」
「その通りよ、藤城君」
一ノ瀬准教授がにこやかな顔つきになった。
「なぜ、坊ちゃん自身が赤シャツを殴らな
かったのか、もしかしたら漱石はね、
自分の最も醜い理性でもある赤シャツを、
自分の手で直接断罪することが不可能だと、
知っていたかもしれないわ」
ホログラムの中で、坊っちゃんが野だに卵を
ぶつけ拳を振りおろし、山嵐が赤シャツに
拳を振り下ろすシーンが、スローモーション
で再生される。
それは、大衆が喜ぶような勧善懲悪の
エンターテインメントなどではなかった。
狂気の淵にいた文豪が、自らの魂を浄化する
ために、自らを血まみれにして殴りつける儀式
(カタルシス)の映像だったのだ。
「自分自身を、殴る……」
蓮は、机の上の文庫本を震える手で
強く掴み直した。
「漱石は、そうまでしなければ、明治という
狂った新時代の中で、自分の『最後の良心』を
守れなかったんだ……」
「自分の中の赤シャツを殺すことでしか、
坊っちゃんという光を救えなかったんだ!」
「素晴らしい。完璧なロジックよ、藤城君」
一ノ瀬准教授が不敵に微笑む。
「これで、あなたの小説のプロットは
完成したわね、赤シャツ=漱石自身
この結論で、読者は大満足して涙を流すわ
さあ、執筆に戻りなさい」
「先輩! やりましたね!」
「この『自己救済の自傷行為』という結論を
ラストに持ってくれば、最高のクライマックス
になります!」
唯が興奮した様子で蓮の肩を叩く。
しかし。二人が歓喜に沸くその瞬間、
部屋の片隅で静かに腕を組んでいた神崎教授が、
眼鏡の奥の目を哀しげに細めた。
「……本当に、それで終わりにして、
いいのかね? 藤城君、烏丸君」
「え……?」 蓮と唯の動きが、ピタリと
止まった。
神崎教授はゆっくりと歩を進め、赤く明滅し
始めたARCHのパネルに手を触れた。
「赤シャツが漱石自身であり、それを
坊っちゃんが殴り倒す。確かに美しいドラマだ」
「だが、夏目漱石という男の絶望は、そんな
『小説の中の勝利』程度で癒えるほど、
生易しいものでは、なかったのではないかな」
教授の合図とともに、ARCHのホログラムが、
見たこともない血のように不吉な「数字」
へと反転を始めた。
「さあ、最後の扉を開けよう。この物語の
本当の『結末』――漱石が隠した、120年目の
大どんでん返しをね」
第5章:大どんでん返し・敗北者のレクイエム
神崎教授がARCHの操作パネルをさらに
深く叩くと、空間を埋め尽くしていた
セピア色の光が、一瞬にして夕日のような、
あるいは血のような赤へと反転した。
立体ホログラムが空間に映し出したのは、
殴り倒された赤シャツの惨めな姿……ではなく、
そこから始まる『坊っちゃん』の「本当の結末」
を告げる冷酷な記録群だった。
「二人は、赤シャツを殴り倒したところで、
この物語を『坊っちゃんの快勝』として完結
させようとしたね」
神崎教授の声が、夕闇の迫る研究室の中に低く、
しかし鋭く響く。
「だが、そんなふうに大団円として片付けて
しまうのは、もしかしたら少し楽観的すぎる
かもしれないよ」
「……ARCH、作中最後の数ページに隠された、
あまりにも残酷な『数字』を表示して」
『了解。物語最終盤の社会的・経済的データを
抽出します。赤シャツと野だを制裁したあと、
坊っちゃんと山嵐は、夜逃げ同然に松山を
去ります』
『山嵐の消息はその後、ぷっつりと途絶えて
不明。東京に戻った坊っちゃんは、
月給わずか“25円”の街鉄――つまり路面電車の
技術員となり、清を呼び寄せますが、間もなく
清は肺炎で死亡』
『坊っちゃんは彼女を養源寺に埋葬し、
物語は幕を閉じます』
「月給……25円」
蓮がその赤く染まった数字を凝視し、絶句した。
「そうよ、ARCHが出した給与袋を思い出して
ちょうだい」
一ノ瀬准教授が、腕を組んだまま、
どこか冷たい表情で、しかし哀しげな微笑を
浮かべて継いだ。
「東京の物理学校をストレートで卒業した
エリートだった坊っちゃんの、最初の月給は
40円(現在の年収600万相当)だった」
「それが、正義を貫いて上役を殴った結果、
職を失い、東京の片隅で月給25円――
現在の価値で言えば、何とかかんとか日々の
暮らしができる、いわゆる中流以下へ
転向したのよ」
「これが、夏目漱石の描きたかった
『勝利』だと、本当に言い切れるのかしら?」
「でも!」
蓮の歴史オタクのスイッチが、またもや
爆発を見せた。
「明治38年といえば、日本が大国ロシアに
勝利した直後です! 」
「児玉源太郎の卓越した満州軍戦略や、
東郷平八郎率いる連合艦隊が日本海海戦で
バルチック艦隊を殲滅した大勝利で、日本中が
日章旗を振って万歳三唱に沸き返っていた
ゴールドラッシュの時代ですよ!」
「伊藤博文が初代韓国統監に就任し、日本が
アジアの盟主として帝国主義の階段を一気に
駆け上がろうとしていた」
「一番ギラギラした栄光の時代に、
漱石はなぜ、こんなにも暗い『転落の物語』を
わざわざ書く必要があったんですか!? 」
「もしかして、この当時の日本海海戦で
使用された下瀬火薬の原料が、当時の経済を
逼迫させていたことへの当てつけで――」
「先輩、そこですよ!」
唯もまた、歴女オタクとしての
熱弁を振るう。
「日露戦争の勝利は、確かに表向きは輝かしい、
でもその裏では、乃木希典率いる第三軍が
旅順攻囲戦で膨大な戦死者を出し、国民は重い
軍事費と増税に喘いでいた」
「日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に
不満を持った民衆が、東京で『日比谷焼打事件』
を起こして戒厳令が敷かれたのも、
まさにこの明治38年です!」
「国家が『戦勝大国』としてエリートの仮面を
被る一方で、国民の生活は徹底的に困窮し、
精神的な余裕を失っていた」
「漱石の親友である正岡子規が日清戦争の
従軍で喀血したように、国家の暴走は常に
個人の魂を削り取っていく」
「もしかしたら、漱石は、その『勝利の熱狂』
の陰で、日本人の精神が決定的に、取り返しの
つかない形で変質してしまったことに気づいて
いた可能性もあるんじゃないですか!
察してください!」
「はい、そこ、妄想の列車が日比谷焼打事件と
旅順攻囲戦をノンストップで暴走しているわよ」
「二人とも歴史オタクのギヤをニュートラルに
戻しなさい」
一ノ瀬准教授が、少し呆れたように、
しかし二人の熱量を受け止めるように
温かく制した。
「でも、二人のその飛躍した脱線は、
もしかしたら文豪の絶望の核心に一番近づいて
いるかもしれないわね」
「赤シャツという男はね、いわば『明治という
新時代の成功者』の雛形だったのよ」
「帝国大学を出て、西洋の教養を武器にし、
狸校長のような事なかれ主義の権力者に
すり寄り、野だのような腰巾着を使って
世論をコントロールする」
「一方で、坊っちゃんやうらなり先生のように、
古き良き江戸の美徳を捨てきれない真っ直ぐな
人間は、新政府が作ったこの合理主義と建前の
システムのなかで、監視され、バッタを
入れられるような洗礼を受け、最終的には
排除されていくしかない」
「そんな冷酷な構造が、もしかしたらこの
作品の真意かもしれないのよ」
「排除の目……。そうか、だからあの最後の
乱闘シーンの描写が、あんなにも明瞭に
書き分けられているのか……!」
蓮がハッとして、文庫本の最終回を
貪るようにめくった。
「作中、最後の夜襲の場面。温泉帰りの
赤シャツと野だを、坊っちゃんと山嵐が
杉の木陰で待ち伏せする」
「そこで、山嵐は主犯である教頭の
『赤シャツ』を、窓が振動するほどの大声と
ともに拳骨で徹底的に殴りつけている」
「それに対して、坊っちゃんが殴り倒し、
生卵を顔面に叩きつけている相手は、
主犯ではなく、常に赤シャツの影で
腰巾着として立ち回っていた、画学教師の
『野だ』なんです!」
「その通りよ、藤城君」
一ノ瀬が頷き、ARCHが乱闘の記録を
ホログラムにして中空に浮かび上がらせた。
「なぜ、坊っちゃん自身が赤シャツを
殴らなかったのか」
「もしかしたら漱石はね、自分自身の最も醜い
理性である赤シャツを、自分の手で
直接断罪することを恐れた」
「あるいはそれが不可能だと知っていたのかも
しれないわ」
「赤シャツを真っ向から糾弾し、拳骨を
叩きつけることができるのは、会津の不屈の
誇りを持った、剛毅な理想の男性像である
『山嵐』だけでなければならなかった」
「漱石にとって、山嵐という存在は、
ウジウジと思いつめる自分には決して
到達できない、一種の『憧れの象徴』
だった」
「だからこそ、坊っちゃんは山嵐の背中を
追うようにして、その腰巾着である野だを
殴り、卵をぶつけることしかできなかった」
「でもね、そうやって二人がかりで天誅を
加えたにもかかわらず、システムの壁は
びくともしなかったのよ」
「じゃあ……じゃあ、あの天ぷらそばや団子の
騒動は何だったんですか!?」
唯が、混乱を隠せないまま頭を掻きむしった。
「坊ちゃんが松山に着いてすぐ、天ぷらそばを
4杯たべたとか、団子を2皿食べた、
温泉で泳いだっていうだけで、生徒たちに
黒板に書かれて大騒ぎされましたよね!」
「寝床にバッタ(イナゴ)を入れられる事件
だってそうです、あれって、ただの田舎の
中学生の可愛いイタズラじゃないんですか?」
「いいえ、あれは『洗礼』よ」
一ノ瀬の眼鏡の奥が、鋭く光る。
「新政府が作った、『理性(東京)』を
まとってやってきたエリート教師に対し、
地方の、前時代的な閉鎖的コミュニティが
仕掛けた、容赦のない監視と排除の目よ」
「つまりね、あの学校という空間そのものが、
明治という新時代の縮図だったの」
「事なかれ主義で保身に走る『狸(校長)』、
権力(華族)にすり寄り、綺麗ごとで周囲を
支配する『赤シャツ』」
「その赤シャツの腰巾着として立ち回る
『野だ(野だいこ)』」
「彼らが作った欺瞞に満ちたシステムの中で、
真っ直ぐな魂を持った人間は、徹底的に値踏み
され、監視され、追い詰められていくのよ」
「そんな……」
唯と蓮の額から、冷たい汗が流れ落ちた。
「そして最大の犠牲者が、あの心優しい
英語教師の『うらなり』だ」
神崎教授が、悲しげに年表を指さした。
「古き良き江戸の美徳を残したうらなりは、
マドンナという地方の利権(美徳)を
赤シャツに奪われ、延岡という最果ての
僻地に左遷される」
「彼を救おうとした正義感の『山嵐』も
また、赤シャツの陰謀にハメられて学校を
追放された」
「藤城君、君ならもう、漱石がこの10年の
ズレ(明治38年)に込めた、本当の『絶望』の
正体がわかるはずだ」
蓮の脳内で、すべての登場人物、すべての
事件が巨大な濁流となって渦巻いた。
大政奉還、華族の誕生、日露戦争の勝利、
西洋化という病(やまい)。
「そうか、……!」
蓮は、激しい衝撃に突き動かされるように
叫んだ。
「漱石が本当に絶望していたのは、
『赤シャツ(ずる賢い自分)』じゃない」
「正義や本音(坊ちゃん)を貫こうとすれば、
この明治という新時代では、敗北し、
社会の底辺へドロップアップるすしかないと
いう、残酷な現実そのものだったんだ!」
「うん、その説が最有力だね」
神崎教授が、ホログラムに映る老下女・清の
穏やかな遺影の写真を指差した。
「殴り倒された赤シャツと野だは、
その後どうなったと思うかね? 藤城君」
「彼らは傷が癒えれば、再び帝国大学卒の
肩書きを持って、あの松山の中学校に、
あるいは東京の文部省の椅子に座り続け、
新政府の官吏や華族の仲間入りをして、
勝ち組として生き続けた可能性が極めて高い」
「なぜなら、彼らはシステムを
味方にしているからだ」
「一方で、正義を貫いた坊っちゃんは、
新聞紙面で『無頼漢』『生意気なる某』と
書き立てられ、教育界から完全に追放された」
「そして、彼を無条件で全肯定してくれた
唯一の心の拠り所、清さえも、月給25円の
まあ清貧な生活のなかで、彼は守り切ることが
できずに死なせてしまったんだ」
研究室に、今度こそ逃げ場のない、
重苦しい静寂が降りてきた。
ホログラムの赤い光が、文豪の、
まるで世界そのもののシステムに絶望した
かのような、冷たい雨の中で佇むような
肖像写真を照らし出している。
「漱石はね、藤城君。自分の中の赤シャツを
殴り殺すことで、自らの魂を浄化しようとした」
「でも同時に、彼は静かに誰にも言わず
理解していたのかもしれない」
「この明治という、嘘と建前が支配する
近代国家のなかでは、坊っちゃんや山嵐のような
真っ直ぐな魂は、結局のところ敗北し、
ドロップアウトするしかないのだと」
神崎教授の言葉が、蓮の胸を容赦なく
締め付ける。
「『坊っちゃん』は、大衆が喜ぶような痛快な
復讐劇などではない」
「文明開化という名の巨大な怪物に敗北し、
社会の底辺へと追いやられていく、
文豪・夏目漱石の悲痛な『敗戦記』だった」
蓮は、手元にある『坊ちゃん』の文庫本を
見つめた。
120年間、日本人が「ああ面白かった」と
笑いながら読んできた物語の底には、
文明開化という名の怪物に敗北した男の、
血を吐くようなレクイエムが流れていたのだ。
「もしかしたら、これこそが120年目の真実の
姿なのかも、信じられなくてもね!」
一ノ瀬准教授の静かな言葉が、
夜の帳が下りた研究室の空気に、
静かに溶けていった。
エピローグ:120年後のバトン
研究室の窓の外は、いつの間にか完全な
夜帳(よばり)に包まれていた。
ARCHの放っていた血のような赤い
ホログラムが、ポーンという静かな電子音と
ともにゆっくりと消灯していく。
部屋に、いつもの落ち着いた暖色系の
明かりが戻ってきた。
「……書けます、唯。いや、僕にしか書けない
小説が、今、完全に形になりました」
藤城 蓮はゆっくりと顔を上げた。
その目には、先ほどまでの驚愕や絶望の影は
一切ない。
彼は手元にあるボロボロの、付箋だらけの
文庫本を、愛おしそうにそっとカバンに
しまった。
「漱石は確かに、真っ直ぐな人間が敗北する
時代に絶望していた」
「でも、だからこそ彼は、
月給25円の底辺に落ちてまでも、最後まで
自分の信念を曲げず、野だを殴り
清の墓を守り続けた『坊っちゃん』の姿を描き
切ることで、120年後の未来に生きる僕たちに、
ひとつのバトンを渡したんだと思います」
「社会の波にどれだけ飲み込まれても、
魂まで赤シャツに売り渡すな、って」
向かいに座る烏丸 唯が、そんな蓮の横顔を
見て、満足そうに深く微笑んだ。
彼女はタブレットの電源を落とし、優しく、
しかし確信に満ちた声で告げる。
「最高の『文豪ミステリー』になりますね、
先輩。……価格は、あえて強気の設定で
行きましょう」
「この『敗北のレクイエム』の真意に辿り
着いたとき、読者はそれ以上の価値を
受け取ってくれるはずです」
「ふふ、よくここまで辿り着いたわね、
藤城君」
一ノ瀬准教授が席を立ち、長時間の議論で
強張った身体を伸ばしながら、どこか
誇らしげに目を細めた。
「私たちは誰もが、この窮屈な社会で
生き延びるために、少しずつ『赤シャツ』の
仮面をつけていかざるを得ない、
嘘をつき、要領よく立ち回る」
「でもね、だからこそ、損ばかりしても
己の正義を曲げず嘘を許さなかった、
あの坊っちゃんの拳が、120年後の
私たちの胸に、今もこれほど熱く響くのよ」
「その通りだね」
神崎教授が頷く。
「文学とは、過去の死者が未来の生者へ
宛てた、時空を超える手紙なんだ」
「夏目金之助が、自らを殴りつけてまで
守り抜いた『真っ直ぐな気性』の種」
「それを現代にどう芽吹かせるかは、
君の筆に、そしてこれを受け取る読者の心に
委ねられているよ」
『解析セッションを終了します。
藤城様の執筆活動の成功を祈念いたします』
ARCHが球体の身体を小さく揺らし、
お辞儀をするように、
軽快なお祝いの音を鳴らした。
蓮と唯は、深く、深く頭を下げ、
夜の文学部棟を後にした。
キャンパスを歩く蓮の頭の中には、
すでに新しい原稿の、あまりにも鮮烈な
第一行目が、力強く鳴り響いていた。
結び:あなたの心の中の「坊っちゃん」へ
物語のラスト。清は亡くなり、坊っちゃんは
彼女を自分の菩提寺である小日向の養源寺に
埋葬します。
「だから清の墓は養源寺にある」という、
淡々とした突き放したような一文で物語は
静かに幕を閉じます。
私たちはみな、効率やコスパ、建前や要領の
良さを重んじる、現代という名の
「赤シャツの社会」を泳いでいます。
傷つかないために仮面を被り、
本音を殺して立ち回る日々。
しかし、ふとした瞬間に、あの損ばかりして
でも嘘を許さなかった、坊ちゃんの
「竹を割ったような」真っ直ぐな気性が、
無性に恋しくなることはありませんか?
夏目漱石が自らの醜さを殴り倒してまで、
血を吐くような思いで守り抜いた、
不器用で真っ直ぐな魂の種。
それは、この記事を読み終えたあなた自身の
心の中にも、確かに、
静かに眠っているはずです。
今こそ、あなた自身の心の中にいる
「坊っちゃん」を、呼び覚ましてみませんか。
あとがき
ついに、執筆も終わりました。
始めての小説の執筆で、興奮しながらの
執筆でした。
とは、言うものの、AI(NotebookLM、Gemini)
さんたちとの会話と言いますか、対話によって
でしたが。
思わず、漱石の深淵を垣間見たような
気もしました。
もともと、読書エピソード日記として、
夏目漱石の坊ちゃんを書いていたのも、
この、文豪の作品動機を探るという仮り題で、
小説を書いてみようかと思い立ったのが、
始まりでした。
中学時代に、この夏目漱石や太宰治、
芥川龍之介など文豪の本を読もう読もうと、
思いながらも、司馬遼太郎、山岡宗八、吉川英治、
山田風太郎、柴田錬三郎、などの小説や、
SF小説、宇宙物や古代物ばかり手に取って
いました。
念願かなって、ようやくこのような形で、
まずは、夏目漱石の坊ちゃんを読書でき、
さらに、動機を紐解くという小説も書けて、
感無量の気分です。
まあ、出来上がりは、第三者から見れば取るに
足りない事でしょう。
しかし、私自身は、これでもやはり
没頭三昧の日々でした。
また、次に挑戦していこうと思っています。
では、やはり、最後に
いやあ、読書って、noteって、執筆って、
本当にいいもんですね!
それでは、また