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冬を待ち、春を望む

    "冬来たりなば、春遠からじ" 

     その言葉を知ったのは高校生の頃だったか。
     中学時代は家出をし、尾崎豊に心を寄せ、と年相応に反抗期をしていた。冗談めいて「私は一歩間違えば院卒だった。大学院ではなく、少年院だ」と言うことがある。そうならなかったのは偶然だったのだろう。
     それから少し経ち高校生になり、文学や哲学に少し心寄せるようになった。そうしているうちに出会ったものの一つが、この文言だった。

     私は平成の世のある夏の日、北陸地方の金沢に生まれた。夏の生まれだからか寒いのは苦手で、まだ暑い方が好きだ。もっともここで言う「暑さ」は平成の半ばくらいまでの、最高気温が35℃程度に収まる暑さのことであり、今の「酷暑日」と名前のついた日のことではない。その頃は40℃の気温を想像すらしていなかったし出来なかっただろうが。

     北陸の冬は長い。11月頃から空はどんよりと曇り始め、海は青黒くなる。12月の半ばを過ぎれば湿った雪が降り始め、新幹線のなかった頃は文字通り雪に閉ざされる地方となっていた。路面は常に濡れ、路肩に泥で汚れた黒茶色の雪が積もり、空は決して晴れない。二週間は太陽を拝めない日々が続く。
     私はそんな冬が、あまり好きではない。降る雪が心地よく思えたことはあったが、それでも寒く、長い冬は気持ちや考えに暗さを与える。私の地元には西田幾多郎や鈴木大拙や泉鏡花という人物がいるが、いずれもどことなく推して知ることの出来る思想をしており、そういった文を書く。

     そんな私が高校生の頃に「冬が来たなら春は遠くない」と知った。過去の、しかも日本ではなくイギリスの詩人も春を望んでいたのだろうか。確かにイギリスも天気は良くなさそうだが、その言葉はどことなく、私の心に安寧を与えた。


    冬から春へのダイナミズム

     やがて私は同じ北陸でも隣の富山県へと進学した。冬は地元よりも寒く、雪も多い地方だ。北陸から出られないのだろうか、と気落ちしたこともあった。
     とはいえ親の強い希望と親族の縁のある地から、仮面浪人をしようとも思えなかった。どこへ行こうという希望もなかったから。
     そうして無気力に一年を終え、私は故郷に帰ろうと下宿先を出た。帰るのもかったるいな、と思っていた。

     そんな雪積もる二月の晴れた日に私の目に映ったのは、冬の立山連峰だった。

     冬の晴れた日は、日の光が乱反射して視界が眩くなる。ただでさえ白い雪は更に光り輝き、蒼い空はその鮮やかさを増す。そうして富山平野の奥に聳える山々は、雪の白さと空の蒼さを以て尚更存在感を増す。

     その時の私はどうしたものだろうか、何故か涙が出た。美しさ故か、一年間その姿に気付かなかった自分が情けなかった故か、わからない。今もなお富山の人々の信仰を集める山に、きっと魅入られたのだろう。
     私の地元から離れた所に白山があり、毎年白山比咩神社へ初詣しに行っていたものだが、これまでそんなことはなかった。魅入られるとは不思議なものだ。

     それからは富山県の春夏秋冬を巡るようになった。春のホタルイカと蜃気楼の見える海、五月末の祭り、梅雨の長い雨、夏の花火、秋の黒部峡谷、そして冬の立山連峰。そのすべてが愛おしく見えた。いつしか私の心は富山県を心の故郷と認識するようになった。

     富山県東部の黒部市に生地(いくじ)という町がある。富山市から見れば下道で一時間半ほどかかる町だ。そこと、黒部川を隔てて向こう側の入善という町では、立山の雪解け水が伏流水として流れてきて、湧水として湧き出ている。立山や黒部の山々に降り積もった雪が、春以降に冷たく清らかで豊かな水を与えているのだ。また、その土地に住む人々は生活用水としてそれを使っている。冬から春にかけての命の巡りを感じ、立山連峰への畏敬の念を感じた。雪の多い冬を迎えたら、水の豊かな春が来て、やがては秋の実りとなる。冬が来たら、春が待ち遠しく、春は遠くないと自らに言い聞かせる土地なのだと知った。

     それからなんとかして大学を卒業し、行くあても特にないので地元へと帰った。本当は富山県に残っていたかったのかもしれない。しかし時期も悪く、ちょうどいい就職先を見つけることは叶わなかった。


    冬の時代

     地元に戻ってからは職を転々とした。幼少の頃から私はなんとなく浮いている自覚はあった。しかしそれをまざまざと見せつけられては、何事にもやる気は出ないものだった。一人でドライブをしたり、風景を眺めることでしか自分を解放できる場所はなかった。元より友人関係は狭く深い方であったから、友人とたまに飲み歩き、キャンプへ行き、その一方で味気ない日常を過ごしていた。
     祖母がやっていた家のちょっとした家業を手伝い始め、その傍らでアルバイトをこなすような、長い長い日々だった。味気なく、どんよりとした気持ちで晴れを望む日々だった。

     ある時、祖母の知人の人づてで人手が足りないから働きに来てくれと言われたことがあった。市場の配送ドライバーだった。
     私は普通自動車免許(現在の準中型)のマニュアル免許は持っていたのでそれならばと応えた。
     市場なので朝は早く、昼も終わるのが早い仕事だった。その生活リズムは数少ない友人と遊ぶ機会を奪うこともあり、またその場自体が旧態依然とした場所であった。具体的に言えば、朝の早くから誰かが誰かを怒鳴り、誰かの家の前でアイドリングをし、大きな道では暴走めいたスピードで走ることを自慢する、といったところだ。
     流石にその場は辟易としたが、それでもドライバーという仕事の都合上、一人で車を運転している間は自由が利いた。次の配達先のことを頭の片隅に置きつつ車のラジオを聞き、仕事が済んだら何をしようか考え、流れてくる曲に「この曲懐かしいな」と独り言を漏らすような日々だった。

     それでも、入ってきた人はすぐに辞めるし、そもそも育てる気がない職場だった。地獄に仏でいい人もちらほらいたものの、新入りに非協力的な人も複数人いた。
     ある時たまたま私の虫の居所が悪く、そのうちの一人に論立てて言い返したら鳩が豆鉄砲を食ったようになり言い返してこなかった。その日以降、私に対する対応は腫物に触るかのようになった。普段高圧的なのに、言い返されたら対応からまるっきり変えたという事実が私を白けさせ、この職場を辞めようと決心させた。この場にいても私が責任を負わされるだけだ、となんとなく予感してしまった。

     引き止めはあったものの、コロナ禍もあり正当な理由となった。そもそも引き止めを真に受けていたならより消耗していたことだろう。コロナ禍における、私の長い冬だった。


    人災と震災 前

     しかしそれからしばらくたってから、その元勤務先のある人が祖母のもとを訪ねてきた。最初は特に気にしていなかったのだが、後日祖母は私にこう告げた。
     「この日にセミナーがあるから行ってこい」
     ああ、またか。と思った。実を言えば「この手のセミナー」へ行かされ、何かをさせられるというのはこの時に限ったことではなかった。その時点で三回目ほどになっていただろうか。祖母は知人からの「おいしい話」に目がない人だった。それで騙されて一時は怒ることはあるものの、その後は大概は「済んだことだし」で終わってしまう人だった。

     怪しげな話だとわかっていたものの時間があったので、その疑念を確信に変えるためにもそのセミナーに参加するためにわざわざ富山まで行った。
     夜の開催であるにもかかわらず、何故か元勤務先の人もいた。翌朝は当然仕事のはずなのだが。
     結局その尾っぽは掴んだものの、その時は話はそれ以上進展しなかったので何もしなかったし出来なかった。代わりにその日の帰宅時間が深夜0時を過ぎることとなってしまった。とんだ骨折り損だと思った。


    人災と震災 中

     やがて時は流れ新年を迎えた。その日は北陸の冬らしく「晴れ」ていた。我々北陸の人間は「曇っているが雨も雪も降っていない状態」のことを「晴れ」と呼ぶ。そういった日だった。
     元日からやることもないので、お酒をある程度飲み、自分の部屋で寝ていた。
     すると、ガタガタと音が聞こえ始め、積んであるものが崩れ落ちた。既に横になっている都合上、立ち上がることは出来なかった。それが落ち着き、「多分能登だろう。正月から大変だな」などと思いながら再び横になった。その前年及び更にその前年には能登で震度6弱程度の地震が起こっていたため、かなり暢気に構えていたのだ。
     しかしすぐさま、同等以上の揺れを感じた。流石にまずいことになっているな、と予感した。すぐに家族に叩き起こされ、周囲を確認した。防災無線からは「大地震です」との放送が流れた。これが後に「令和六年能登半島地震」と名付けられた地震の、金沢での様子だ。

     この地震は能登で甚大な被害をもたらしたが、加賀地方の金沢でも地割れが起き、家が傾き、屋根瓦が落ち、という被害があった。我が家にもその地震以降開かない扉ができ、瞬間的な強風で家が揺れるようになった。安心できる場所ではなくなったのだ。


    人災と震災 後

     そうした地震がある程度落ち着いた頃だ。先ほどの元勤務先の人が見知らぬ人を引き連れて我が家を訪れ、祖母と話をし出した。祖母はその時点で既に認知症の診断を受けていた。一人にさせると何をされるかわからない、と思った。その日はたまたま家に祖母と私しかいなかったので、私が同席する他なかった。
     「金を預けてくれたら単利いくらで増やせる。銀行だから安心してくれ。また、こういうことを他の人に紹介すればするだけ、あなたにも利益がある」というような内容だ。簡潔に言えば、マルチ商法である。
     祖母は確かに家業の都合上交友関係は広い方だった。それに目を付けたのだろう。祖母は「わからないけどやりたい」の一点張り。私がどれだけやめろと言っても、聞く耳は決して持たなかった。
     先方は何かしら書類を持っていたが、とりあえずその場では署名することだけは回避できた。そもそもその時点で祖母は自らの名前を書けたのだろうか、怪しかったと思うのだが。
     それでなんとかこの一件は終わったと思っていた。

     しかしある日祖母は家族に適当な嘘をついて家を抜け出し、元勤務先の人に拾ってもらいセミナーのある会場へ行き、言われるがままにサインし、現金を渡したのだ。
     めまいや吐き気のする気分だった。私がどれだけ言葉を尽くしても無駄だったのだ。徒労だったのだ。孫であり家族である私の言うことよりも、利益に目が行き他人の言うことを信用したのかと。
     すぐに警察に行き相談した。説明はしたものの、「それは家族の方が気をつけていただいて……」という風な対応だった。事件化して欲しいわけではなかったのでこれはこれで問題のない対応だと今も思っている。警察の文書に残して欲しかっただけなのだから。

     ここまでで2024年の6月までの話なのだが、その2024年という年はそれだけでは終わらなかった。


    結果としての、2024年という地獄

     夏が過ぎ、それでも半袖姿でいる方が快適な気候の頃、叔母が亡くなった。長く闘病をしていたし、「なるべく黙っていてほしい」と言っていたのを思い出すと、きっとこうした文を書くことを望んでもいない気はするのだが。
     叔母は私の母の妹に当たる人で、長らく家業を手伝っていた。祖母はまったく事務作業をする人ではなかったので叔母にすべて丸投げだった。
     どういうわけか、私の幼少の頃から私に気を遣っているようだった。就く職業がなく地元に帰ってきた私に向かって「何故帰ってきた」「こんなところから抜け出す機会だったのに」と言ってきたのをよく覚えている。果たして叔母に何が見えていたのか、何を感じたのか、それを知るすべは今はもうないのだが。

     叔母の葬儀が終わり、出てきたのは私に対するいとこたちからの恨みつらみだった。「何故お前は母を助けなかったのか」「何故お前は車に乗っているのだ」と。
     叔母は我慢強い人だった。決して弱音は吐かない人だった。それは叔母の子どもたちである、叔母と同居していたいとこたちもわかっているはずなのだが、家業の手伝いを何故しなかったのだと同居していない私が責められたのだ。謂れもない話に思えた。
     また、田舎であり家業に使っていた車を実質的に私の車として使っていたことにも文句を言われたのは腹立たしかった。田舎では車なしでは生活できない。また、いとこたちが家業を手伝ったわけではない。私が手伝い、私だけが責任だけ負う形であった。その間に彼らは結婚し、子供を産み、立派に生活している。彼らは彼らの人生を送っていたのだ。そこまで言われる筋合いはない、と強く思った。

     謂れもない恨みつらみにあまりに激怒した私は友人たちにも話を通し、文章を残し、やるべきことをリストアップし、そしてはたと気が付いた。
     「このままここにいて、いざ祖母が亡くなったら相続問題が絶対に発生する」と。
     果たして遺言書に何が書かれているやらわからないが、状況的に言えば何の権限もないのに責任を負うような形になるだろう。それは嫌だ。
     これは絶対に尾を引く話だと私は直感した。

     その頃のNHKの朝ドラは「虎に翼」。主題歌は星野源さんの、静かで気高い怒りと悲しみを湛える曲だった。私は毎朝主題歌に耳だけ貸していたが、年の末にふと検索したその歌詞の一部に、ひどく心を貫かれた。この年が地獄なら、この先に春はあるのだろうか、と。身を苛む苦しみの中祈り、願った一年であった。


    祖母と家族の冬

     祖母の認知症は、叔母が亡くなった頃から更に輪をかけてひどくなった。幻覚、幻聴、ものとられ妄想と、割とよくある症状だ。祖母は昔から割と家族をないがしろにしがちである。また、その娘である母はかなり神経質で怒りっぽい性格である。祖母とは同居していたのだが、家庭内で祖母と母との言い争いが毎日続く日々が始まった。
     祖母が一番信用していなかったのは母のことだったように見える。何がどこかへ行くたびに「とられた」「隠された」と言っていた。

     ある日、いつものように近所迷惑になる程度の大声で喧嘩をし、祖母が家を飛び出した。この時は私はいなかったので以下は伝聞になるのだが、こういった様子だったそうだ。

     しばらくすると近くの交番から駐在さんが複数人ぞろぞろと家に現れた。
     「『私死ぬげん』と言って交番に現れたので、話を聞くと喧嘩したと言われまして。どういった様子だったのかなと」
     そう言われて母は説明をした。
     「なるほど……。そういうことでしたか。仲良くしてくださいね。お母様にも同じようにはうちの(別の駐在さん)から言っておきますから。でも要介護1がついているんでしたら、そろそろ『然るべき場所』を利用するのを考えてみてはどうかと思います。何かあったらね、困りますからね」

     つまり、警察官にすら遠回しに「老人ホームに入れたらどうか」と言われた格好となった。確かに何か事件化しようものなら警察官の面倒事が増えてしまう。事件化しなくても家に警察官が来たということは調書も取られ、近くの交番に書類として残っているのだろう。そして認知症は回復が見込める病気ではないため、その日でこれなら、それ以降はどうなることか。
     母は我慢強く祖母の相手をしていたとは思う。正直私を含め、父や妹は「この人はいつになったら祖母を老人ホームに入れると決意するのだろうか」と思っていただろう。しかし、このことはきっかけとなったようだ。

     祖母とも施設の話をし、祖母から意地の悪い条件を言われるなどしたが、それでもなんとか合いそうなところを見つけた。施設を見つけたから行く準備をしてくれ、と私が言っても聞く耳を持たなかったが。
     そして夏のある日、祖母を施設に入所させた。その日は良かったのだが。

     その二日後。一仕事終えた父と母は気分転換に早朝から遠出をした。仲のいい両親だからよくあることだ。はいはい、と私は対応し、朝の自分の時間を過ごしていたのだが。突然、家の呼び鈴が鳴る。呼び鈴が鳴ると呼び鈴についているカメラが作動するのだが、そのカメラを見ると、映っていたのは祖母だった。
     これはおかしい。祖母はその時点ではおそらく家族の許可がなければ出られないはずなのだが。私は居留守を使った。それと同時に母から電話が鳴った。
     「迷子札(我が家ではスマートタグをそう呼んでいる)の情報を見たら祖母が施設にいないけど、家に帰って来てないか」
     玄関先で大声で「開けて」と叫んでいるのが聞こえる。割と二面性のある人物だが、いよいよそれも気にしている場合ではなくなったらしい。
     「これではどうしようもないから家に帰る」
     まぁそうだよな、と思った。

     ここからは伝聞になる。
     その後、祖母は近くの叔父(叔母の夫)の家に行き、たまたま叔父が家にいたので叔父が祖母を保護したらしい。叔父は能登の地震があって以降震災からの復旧工事に携わっている。そのために家にいないことも多いのだが、たまたま家にいたのは運がよかった、と言える。
     一方、母からの連絡を受け施設は大慌て。私が出かける準備をしていると施設の人が飛んできて「○○さんおられますか」と聞いてきた。スマートタグの情報を見ると叔父の家にいるな、とわかったのでそこまで道案内をし、その日は祖母と直接は会わなかった。
     父と母は数十km先からUターンしてきたようだ。気分転換が気分転換じゃなくなってしまっただろう。

     それ以降、祖母は「騙されて入れられた」と施設内で言って回っているらしい。家族としては「施設に入ってもらう」とは一か月以上前から言っていたのだが。要介護度は上がったものの、祖母は今も身体は元気にしている。


    後始末の冬

     祖母が施設に入った後、家業は開店休業となった。誰も何かがわかる人はいないのだ。なので、最低限の経理だけは私が担当することになった。法的に考えれば権限があるはずの先述のいとこたちは「私がやる」と誰一人終ぞ言ってこなかった。
     開店休業状態だったので割と簡単な作業ではあった。しかし気分は晴れない。いとこたちのことが頭の中にあり、このままでは私が相続の問題に関係してしまうからだろうと思った。

     この頃にはもう、心の内は決まっていた。地元を、家を出ると。

     そこで日を改め、状況整理を兼ねて知り合いの会計士さんに身の上話をしてみたところ、やはり私は法的には家業に関係がなく、情的にどうなのかな、という風な話に収まった。つまり、権限は何一つないのに責任を負い文句を言われる立場だということだ。これを外部から客観的に指摘してくれたので、私の心の荷が下りた。
     同時に虚無感もあった。私は家業を善意でやっていたのだろうが、どうして恨みを買うくらいには馬鹿馬鹿しいことをしていたのだろうかと。


    春を待ち望む

     その前後に、友人の誘いで関東へ旅行をした。久々の関東だ。私が私の用事で関東に来たのは15年程度は前の話になる。
     めぼしい移住先は既に見つけていたので、その視察を兼ねた旅行だった。

     たどり着いた先の一つがさいたま市の大宮駅。雑然としつつも私という個人を背景に紛れ込ませるにはいい街に見えた。この街では地元でいい思い出がなく、浮いていて、対人トラブルすらある「私」を知る人はいない。それがどうにも、心地よく思えた。金沢から新幹線で一本で行ける大都会でもあるが、私が老人になって北陸に帰るなら金沢ではなく富山に帰りたいものだ。
     この街で生きていこうと、関東での春の初め、北陸では桜がまだ咲かない頃に思ったのだ。

     しかし、すぐに移動というわけにはいかない。家にまつわる様々な伝達、身の回りの整理、私自身の住居と仕事の確保とやるべきことは多々ある。そのため、移住決行を今年の冬と決めた。このことは今は友人と先述の会計士以外の人には伝えていない。移住することでプラスになりたいわけではない。地元で背負ったマイナスを、一旦ゼロに戻したいのだ。もしその先が望めるなら、その時に望めばいいと考えている。
     厳しい時代や地獄という人生の冬を乗り越えた私が、実際の季節の、それもあまり好きではない冬を待ち望むことになろうとは。人生の地獄の冬、暗くどんよりとした北陸の冬から逃れ、関東平野の晴れて乾燥した冬にたどり着いた時、私の人生の春が始まるのだろうか。
     立山連峰にときめき、いつの日か富山に帰ると思っているように、私の心は死んでいない。人生の春に目覚める日が来るのだろう。私はその時を、心から望んでいる。


     
     

    犣

     
     
    「思考の棋譜」を書くライター志望。内省・メンタルヘルス・ゲーム・社会批評・エッセイについて書きます。「思考の棋譜」については固定記事をご参照ください。 感想、執筆依頼・相談などありましたらメッセージまで 質問箱: note.com/qa/unique_rhino7924

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