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七十一・三キログラム|創作大賞2026 ミステリー小説部門

    あらすじ

    親友・坪井が、施錠された自宅で死んでいた。侵入の痕跡はなく、事件は密室殺人として処理される。疑いはもう一人の親友・佐伯へと向かう。三人で過ごした学生時代、そして技術を巡る静かな断絶。悪意なき裏切りに傷ついた者と、かつての夢に縛られ続けた者。私は遺された床センサーの記録に触れ、そこに紛れ込んだ不可解な数値を見つける。七十一・三。それは二十年前、佐伯がシステムに密かに刻んだ、自分自身の痕跡だった。誰も気づかなかったはずの記録が、いま、死の意味を少しずつ書き換えていく。

    第一章 発見

    坪井の家に着いたのは、いつもより少し遅い時間だった。夕方に寄るはずが、仕事が長引いて、結局、日が落ちてからになった。住宅街の街灯は、この時間になるとまばらにしか点いておらず、坪井の家の門灯だけが、律儀に灯っていた。それも、坪井らしいと言えば坪井らしかった。

    この家に通うようになって、もう三年近くになる。最初は、猫を飼い始めた坪井が、餌のやり方を相談してきたのがきっかけだった。それが、いつの間にか、出張のたびに世話を頼まれる関係になっていた。「お前くらいしか、頼める相手がいない」と、坪井は笑いながら言った。冗談めかしていたが、たぶん本当のことだった。

    今回の出張は、三日間の予定だと聞いていた。今日が、ちょうどその三日目にあたる。行き先は聞かなかったし、聞く必要もないと思っていたが、戻っているとすれば、今日のはずだった。

    玄関のインターホンを押した。応答がなかった。二度押して、それでも同じだった。三度目を押そうとして、山岸は指を止めた。結局、山岸は預かっていた鍵を取り出し、それを鍵穴に差し込んだ。金属の冷たさが、いつもより強く指に残った気がした。

    三日前から、猫の世話を頼まれていた。一日に一度、山岸が餌をやりに来る。それだけの、単純な取り決めだった。取り決め自体は、ここ一年ほど、何度も繰り返されてきたことだった。

    玄関には、出張用の鞄がまだ置いてあった。使い込まれた、旅行用のキャリーケースだった。それを見た瞬間、山岸の中で、さっきの小さな引っかかりが、少しだけ形を持った。旅行の予定がある家の玄関には見えなかった。靴も、いつも履いている一足が、そのまま揃えて置かれていた。

    玄関脇の棚には、猫用のおやつが、箱買いしたままの状態で積まれていた。甘やかしすぎだと、山岸はいつも笑っていた。坪井は、それを否定したことが一度もなかった。

    戸を開けると、廊下の奥から、いつもと違う空気が流れてきた。坪井の家は、いつも生活の音がどこかに残っている家だった。テレビの音量が高めだったり、猫のためのおもちゃが床に転がっていたり、給湯器の作動音がかすかに聞こえていたり。今日は、それが全部止まっているような静けさだった。

    いつもなら、玄関を開けた瞬間に、猫が飛んでくる。今日は、その気配がなかった。呼んでみようかと思ったが、名前を呼ぶことすら、この静けさの中では、少し場違いに思えた。

    廊下は、家の中央を貫くように延びていて、突き当たりに居間、右手にキッチン、左手に書斎という間取りだった。床には、目立たない継ぎ目が等間隔に走っている。センサーの位置を示す線だと、以前坪井に教えられたことがあった。夜、電気を消して歩くと、その継ぎ目のところだけ、かすかに違う音がする、と坪井は言っていた。気のせいだと思っていたが、今思えば、あれは本当だったのかもしれない。

    「坪井、いるのか」

    声をかけたが、返事はなかった。声が、廊下の壁に吸われて消えるような感覚があった。もう一度呼ぼうとして、やめた。

    廊下を進み、キッチンの前を通り過ぎるとき、洗い物が一つ、水切りかごに残っているのが見えた。マグカップが一つだけ。誰かと一緒に過ごした形跡はなかった。

    居間の扉は、開いていた。

    坪井は、床の上に横になっていた。最初は、眠っているようにも見えた。昼寝でもしているような、力の抜けた姿勢だった。だが、その姿勢のまま、あまりに長く動いていないことが、部屋の空気からわかった。呼吸の気配がない部屋というのは、こんなにも静かなのか、と山岸はどこか遠くでそう思った。

    しばらく、動けなかった。坪井、と呼びかけようとして、声にならなかった。呼んでも意味がないことは、部屋に入った瞬間からわかっていた。時間の感覚が、その場だけ抜け落ちたようだった。壁の時計の音だけが、いやに大きく聞こえた。

    ようやく視線を動かせるようになったとき、山岸はまず窓に目をやった。施錠されていた。掃き出し窓のクレセント錠が、しっかりとかかっている。裏口も、確認するまでもなく閉まっているはずだった。この家の窓は、いつも坪井が几帳面に閉めて回るものだった。猫が出ないように、と本人が笑いながら言っていたのを覚えている。几帳面というより、少し過剰なくらいだった。夏でも、網戸だけにして寝るということを、坪井は一度もしなかった。

    足元に、何かが触れた。猫だった。黒い毛並みの、ごく普通の猫だった。キッチンの方から歩いてきて、山岸の足に一度体をこすりつけ、それから何事もなかったように、通路を戻っていった。床の継ぎ目に沿って、迷いのない足取りだった。

    山岸は、その継ぎ目の下にセンサーが埋まっていることを知っていた。坪井が得意げに説明してくれたことがあった。猫の体重と歩き方で、どの子が今どこにいるかがわかる、という話だった。猫は一匹しか飼っていないのに、坪井はいつも「どの子か」という言い方をした。

    その顔を、もう見ることができない。その事実だけが、ゆっくりと、輪郭を持ち始めていた。

    半年ほど前だったか、坪井がこの床のシステムを見せてくれた夜のことを、山岸はふいに思い出した。缶ビールを片手に、坪井は子供のようにタブレットの画面をこちらへ突き出した。

    「見ろよ、これ。歩幅と体重の組み合わせだけで、九割九分の精度で見分けられるんだ」

    「猫、一匹しかいないだろ」

    「将来のためだよ、将来の。増やすかもしれないし、それに――」

    坪井は、笑った。

    「これ、元は佐伯のアイデアだからな。あいつに感謝しないと」

    そう言って、坪井は、通りかかった猫を抱き上げた。嫌がるかと思ったが、猫は存外おとなしく、坪井の腕の中で丸くなった。

    「な、くろこ。お前もわかってるだろ。俺たちの発明品だって」

    猫に向かって話しかける坪井の姿が、あまりに馬鹿らしくて、山岸は思わず笑った。坪井も、それに合わせて笑った。あの夜、確かに笑い合っていた。それだけは、はっきりと覚えている。

    その時の山岸は、ただ相槌を打っただけだった。深く考えることもなかった。当たり前のように、坪井は佐伯の名前を口にしていた。忘れていたわけではなかったのだ、と山岸は今になって思う。ただ、その名前を出す場所を、坪井は間違え続けていただけだったのかもしれない。

    通報したのは、それからかなり後だった。何分経ったのか、山岸自身にもわからなかった。ポケットの中で、スマートフォンを探す手が、思ったより落ち着いていたことだけを覚えている。オペレーターの声に応じて、住所を口にしたとき、自分の声が、いつもと変わらないことに、かえって違和感を覚えた。

    警察が来るまでの時間、山岸は玄関の外で待った。中に戻る気にはなれなかった。夜風が、少し冷たくなっていた。辺りに動くものは何もなく、ただ、居間の窓の内側で、猫だけが時々横切った。何もかもいつも通りだというように、悠々とした足取りだった。

    誰かに連絡すべきだろうかと考えて、山岸は佐伯の番号を呼び出した。呼び出し音が、やけに長く感じられた。

    「もしもし」

    佐伯の声は、いつも通りだった。山岸は、うまく言葉を選べなかった。

    「坪井が、死んだ」

    電話の向こうで、しばらく沈黙があった。

    「……は?」

    「今、坪井の家にいる。警察を呼んだ」

    「待て、意味がわからない。事故か何かか」

    「わからない。とにかく、今は」

    それ以上、うまく説明できなかった。佐伯は、動揺した声で、何度か聞き返してきたが、山岸自身、答えられることがほとんどなかった。電話を切ったあとも、佐伯の驚いた声が、しばらく耳に残っていた。

    到着した警察官たちは、手際よく動いた。制服の警官が二人、少し遅れて私服の刑事が一人。部屋を写真に収め、坪井の体温や、部屋の温度を測っていった。誰も大きな声を出さなかった。大きく荒らされた様子はなかったが、小さな乱れがいくつか見つかった。座布団が一枚、部屋の隅まで滑っていた。棚の本も一冊、なぜか床に落ちている。テーブルの上のコップは倒れていなかったが、いつもの位置から少しだけずれていた。カレンダーには、来週の予定が、いくつか書き込まれていた。

    検視官らしき人物が、しゃがみ込んで坪井を確認したあと、立ち会っていた刑事に短く告げた。

    「死亡推定時刻は、二十三時から二十四時の間。それ以上は、解剖待ちですね」

    山岸は、その言葉を、少し離れた場所で聞いた。二十三時から二十四時。頭の中で、その数字だけが妙にはっきりと残った。自分が通報したのが、日付が変わる少し前だったことを思い出し、時間の近さに、あらためて背筋が冷たくなった。

    鑑識の一人が、施錠された窓を確認しながら、独り言のように言った。

    「完全に閉まってますね、これ」

    別の一人が、裏口も同じように確認して、頷いた。

    「玄関も、施錠されてたんですよね」

    制服の警官が、山岸に確認するように尋ねた。

    「はい。鍵を開けて入りました」

    その答えに、警官は小さくメモを取っただけだった。深い意味を求めているようには見えなかった。この時点では、まだ誰も、その施錠の意味を疑っていなかった。

    私服の刑事が、山岸の名前と連絡先を確認し、翌日、あらためて話を聞かせてほしいと告げた。淡々とした口調だったが、言葉の端々に、事務的な冷たさとは違う、慎重さのようなものがあった。

    返事をした記憶はある。何と言ったのかは、もう思い出せなかった。

    夜が更けていく中で、家の灯りだけが、いつまでも点いたままだった。玄関の門灯も、律儀に、変わらず灯っていた。

    床の継ぎ目の上を、猫が迷いなく歩いていく。

    「これ、全部記録されてるんだぜ」

    いつだったか、坪井がそう言って笑っていたのを、山岸はふと思い出した。その言葉が、なぜか、頭から離れなかった。ただ、猫が通路の奥で座り、こちらの様子をじっと見ていることに気づいていた。何を思っているのかは、当然、わからなかった。ただ、その視線だけが、部屋の中で唯一、いつも通りだった。

    第二章 捜査開始

    山岸が正式に事情を聞かれたのは、翌日だった。署の一室で、若い刑事が一人、向かいに座った。名刺には「桐山」とあった。前日、現場で山岸の名前と連絡先を確認していた、あの慎重な口調の刑事だった。

    署の中は、思っていたより静かだった。テレビドラマで見るような慌ただしさはなく、事務的な物音だけが、淡々と続いていた。案内された部屋も、殺風景な会議室のような場所だった。壁には、色褪せたポスターが一枚だけ貼られている。

    発見者としての事情聴取は、思っていたより短く終わった。鍵を預かっていた経緯、最後に坪井と話した日、猫の世話を頼まれた理由。事務的な質問が、順番に片づいていった。桐山は、メモを取りながらも、時折、山岸の表情を確かめるように視線を上げた。詰問というより、確認に近い聞き方だった。

    その後、坪井と佐伯、そして自分自身の関係について尋ねられた。

    学祭の頃からの三人の関係を話すのに、そう長くはかからなかった。話しながら、山岸は自分の説明が、あまりに整いすぎていることに気づいていた。何かを隠しているわけではなかった。ただ、二十年分の関係を、聴取の時間の中に収めることの不自然さだった。長い付き合いというのは、要約すると、いつも実際より軽く聞こえる。

    桐山は、それ以上深追いしなかった。ノートを閉じ、少し表情を緩めてから、こう続けた。

    「坪井さんの家のシステム、独特なものだったみたいですね」

    「猫の健康管理用の、床センサーです。学生の頃から、佐伯と二人で作っていたものが元になっています」

    「山岸さんも、当時から関わっていたんですか」

    「いえ。僕はただ、隣で見ていただけです」

    その答えに、桐山は小さく頷いた。何かを判断しているような間があった。

    かわりに、坪井の家に何度か通っていた技術者を紹介してくれた。猫のシステムを扱う会社の人間で、名刺には聞いたことのない社名が書かれていた。宮下、という名前だった。

    「坪井さんの生活を知ってる方の目も、借りたいので」

    桐山はそう言って、山岸を宮下に引き合わせた。私的な立場であることは、向こうも承知しているようだった。特に、断る理由はなかった。

    宮下は、会議室の隅に置かれた自分のノートパソコンを開き、坪井の家に設置されたセンサーの管理画面を見せてくれた。猫の名前と、色分けされた足跡の記録が、画面の中を静かに動いていた。

    画面の隅には、体重の推移を示すグラフもあった。ここ半年ほど、ゆるやかに右肩上がりになっている。坪井が、餌の量を少し増やしたと嬉しそうに話していたのを、山岸は思い出した。そんな些細な変化まで、この画面には記録されている。

    「これが、通常のダッシュボードです。猫が今どこにいるか、体重の変化はどうか、そういうのを見るための画面ですね」

    宮下の説明は、丁寧で、少し早口だった。坪井が生きていた頃の話し方に、どこか似ているような気がした。

    事件当夜、該当する時間帯を遡っても、人間を示すような表示はどこにもなかった。画面には、猫の足跡だけが、いつもと変わらない律動で、部屋から部屋へと動いていた。

    「この画面には、人の記録は出ないんですか」

    山岸が尋ねると、宮下は少し困ったような顔をした。

    「猫用ですからね。人間のデータは、正規化する対象に入っていません」

    「じゃあ、あの夜、人が動いていたとしても、これには映らない」

    「映らないというか……そもそも、拾うようにはなっていないので。猫の識別に必要な範囲でしか、データを整理していないんです」

    「それは、どのシステムでも同じなんですか」

    「基本的には。見守りシステムって、対象を絞り込むほど精度が上がるので、余計なものは、最初からスクリーニングする設計にするのが普通なんです」

    「鍵の管理も、これでやってるんですか」

    「ええ。玄関や窓の開け閉めも、猫が外に出ないための監視項目に入っています。管理者権限があれば、遠隔で施錠状態を変えることもできる仕組みですね。もっとも、うちの人間でも、そこまで使うことはほとんどありませんが」

    宮下は、そう言って、画面をもう一度、猫の足跡の表示に戻した。無邪気な動きが、また静かに続いていた。

    その言葉を、山岸はそのまま受け取った。宮下の口ぶりも、何かを隠しているようには見えなかった。むしろ、素朴なくらい、当たり前のこととして話していた。

    会議室を出るとき、桐山が廊下で声をかけてきた。

    「山岸さんは、しばらくこちらに協力していただくことになると思います。坪井さんと佐伯さんの、両方をよく知る方なので」

    「わかりました」

    「一つだけ、聞いてもいいですか」

    桐山は、少し言葉を選ぶようにしてから続けた。

    「佐伯さんとの関係は、今も良好ですか」

    その質問の意図を、山岸はすぐには測りかねた。

    「学生の頃からの、付き合いです。最近は、そう頻繁には会っていませんでしたが」

    「そうですか」

    桐山は、それ以上尋ねなかった。ただ、その一言だけが、山岸の中に小さく残った。

    署を出ると、坪井の家の近くまで足を延ばしてみた。門の前には、まだ規制線が張られたままだった。近所の住人らしき数人が、少し離れた場所で立ち話をしていた。

    「まさか、こんな静かな通りでねえ」

    「猫のことは、どうなるのかしらね」

    断片的に聞こえてくる会話には、悪意はなかった。ただ、他人事としての好奇心が、そこかしこに滲んでいた。地方紙の記者らしき人物が一人、家の外観を写真に収めていた。事件は、まだ大きくは報じられていなかったが、時間の問題だろうと山岸は思った。

    その光景を見ながら、山岸は、自分がすでに「当事者」と「野次馬」のどちらでもない、奇妙な位置に立たされていることに気づいた。発見者であり、関係者であり、それでいて、捜査そのものからは一歩離れた場所にいる。どちらの側からも、少しだけずれた場所だった。

    翌日、捜査の方針が決まったことを、山岸は桐山から聞かされた。会議そのものには、山岸は同席していない。桐山が、会議の内容をかいつまんで伝えてくれただけだった。

    外部からの侵入は認められない。窓、裏口、玄関、いずれにも不審な痕跡はない。ならば、内側の人間関係を洗う。捜査主任と思しき年配の刑事が、抑揚のない声でそう告げたらしい。

    「坪井氏の交友関係、金銭関係。特に、最近トラブルの気配があった人物を優先的に」

    その言葉のあと、何人かの名前が挙がったという。佐伯の名前も、そこに含まれていた。誰かが「学生時代からの発明のトラブルがあるようです」と付け加えたとき、室内の空気が、わずかに変わったらしい。それを、桐山は淡々と、伝聞として山岸に語った。反論する立場にはなかったし、反論するだけの材料もなかった。

    伝えたあと、桐山は少し言葉を選ぶようにして続けた。

    「気を悪くされたなら、すみません。捜査というのは、こういうものなので」

    「わかっています」

    わかっているつもりでも、名前が挙がったと聞かされるのは、想像していたより堪えた。

    通夜は、坪井が亡くなってから三日後だった。坪井の家族が用意した、こぢんまりとした式場だった。参列者は多くなかった。仕事関係の人間が数人、近所の住人らしき人が数人、あとは親族だけだった。

    佐伯は、最後列に一人で座っていた。山岸が近づいても、すぐには気づかなかったようだった。声をかけると、少し驚いた顔をして、それから小さく頭を下げた。

    「来てたのか」

    「お前もな」

    それだけの会話だった。並んで座ることはしなかった。焼香の順番が来るまで、二人はほとんど言葉を交わさなかった。

    喪主席には、坪井の姉が座っていた。憔悴した様子はあったが、参列者への対応は丁寧だった。山岸が焼香を終えて頭を下げると、姉は小さく会釈を返した。

    「弟がお世話になりました。猫のことも、いつも助かってるって言ってました」

    その言葉に、山岸はうまく返事ができなかった。世話をしていたのは自分のほうだったが、猫のいる時間をもらっていたのも、自分のほうだった。

    式が終わったあと、佐伯は先に会場を出ていた。山岸が外に出ると、駐車場の隅で、佐伯が一人、煙草も吸わずにただ立っているのが見えた。声をかけようとして、やめた。何を言えばいいのか、わからなかった。

    結局、二人は何も言わずに、別々の方向へ歩き出した。

    数日後、佐伯から電話があった。

    「猫、元気か」

    「元気だよ。お前が心配するとは思わなかった」

    「坪井が大事にしてたからな。それだけだ」

    それだけの用件だったはずなのに、電話は、思っていたより長く続いた。学祭の頃の話、坪井がよく失敗していた実験の話。佐伯は、いつもより饒舌だった。悲しみを紛らわせるためなのか、それとも別の理由なのか、山岸には判断がつかなかった。

    「今度、飯でも行くか。二人で」

    佐伯は、そう言って電話を切った。その声には、演技には見えない、ただの寂しさがあった。

    山岸は、しばらく携帯電話を見つめていた。この電話のあと、まさか自分が、この相手を調べる立場に回るとは、この時点ではまだ、想像もしていなかった。

    その夜、山岸は自宅に戻り、しばらく何もせずに座っていた。学祭の頃の写真が、どこかの箱にしまってあるはずだった。探そうとして、結局やめた。今探しても、何かが変わるわけではない。ただ、佐伯の顔を、久しぶりに思い出そうとしている自分に気づいた。駐車場で見た、あの一人で立っている姿が、なぜか頭から離れなかった。

    佐伯の名前が捜査で挙がっていることを思うと、山岸は、猫の通路のことが気になった。あの継ぎ目の下に、何が記録されていて、何が記録されていないのか——その境界線を、自分はまだ正確には知らなかった。

    窓の外では、いつも通りの夜が過ぎていった。事件からまだ数日しか経っていないことが、山岸には信じられなかった。時間の流れる速さと遅さが、その両方とも、自分の感覚とずれているように感じられた。

    第三章 関係者

    佐伯への聞き込みは、山岸も同席する形で行われた。私的な知人という立場が、そこでも使われた。桐山は、二人の間に流れる空気を確かめるように、最初はあまり質問をしなかった。

    桐山の車で向かう道中、会話はほとんどなかった。窓の外を流れる街並みを眺めながら、山岸は、これから会う相手が、自分にとってどういう存在なのかを、あらためて考えようとした。うまく言葉にならなかった。友人、というだけでは、足りない気がした。

    佐伯の自宅は、坪井の家から車で二十分ほどの、小さなマンションだった。学生時代からほとんど変わっていない、質素な部屋だった。壁際に、古い工具箱がいくつも積まれている。

    桐山は、まず当たり障りのない質問から始めた。仕事のこと、住まいのこと、事件を知った経緯。佐伯は、それぞれに淡々と答えていった。事件を知ったのは、あの夜、山岸からの電話だったという。

    「電話を受けたとき、何をしていましたか」

    「家で、夕食を済ませたあとでした。テレビをつけていたと思います」

    「驚かれましたか」

    「驚くも何も、最初は、何かの冗談だと思いました」

    その答え方に、不自然なところはなかった。むしろ、あまりに自然すぎるくらいだった。山岸は、その滑らかさを、以前から知っている佐伯らしいと思う自分と、そこに違和感を覚える自分との間で、揺れているのを感じた。

    佐伯は落ち着いていた。落ち着きすぎている、と言うほどでもなかった。事件当夜は自宅にいたと話し、その裏付けになるような記録も、いくつか持ち出してきた。スマートフォンの位置情報の履歴、近所のコンビニで買い物をしたレシート。特別に不自然な点はなかった。落ち着いた、いつもの佐伯の話し方だった。

    「坪井とは、最近はあまり」

    佐伯は、桐山の質問にそう答えた。

    「トラブルがあった、という話も聞いています」

    「トラブル、というほどのものかどうか」

    佐伯は、そこで初めて、少し言葉を濁した。桐山は、それ以上は追及せず、話題を変えた。長年の経験からくる間の取り方のように、山岸には見えた。

    聴取が終わったあと、桐山が電話を受けて席を外した。その隙に、佐伯は山岸にだけ、少し表情を緩めた。

    「学祭の頃を思い出すな、こういうの」

    その一言で、山岸の中で何かが動いた。動いたというより、古い引き出しが少し開いたような感覚だった。

    「聞かれることに、いちいち説明を用意しておくの、得意だったよな、お前」

    「そうだったか」

    佐伯は、曖昧に笑った。昔からそうだった。都合の悪い質問には、笑ってはぐらかす。それも、山岸にとってはよく知った佐伯の一面だった。

    あの頃、三人はまだ学生で、坪井の思いつきに佐伯が形を与えた。床に埋め込んだセンサーで、歩き方から個体を見分けるという展示は、佐伯の発案だった。坪井は、それを面白がって前に出た。人前で説明するのは、いつも坪井の役目だった。佐伯は、その後ろで配線をいじっているのが好きなタイプだった。

    展示の準備をしていたときのことを、山岸は今でもよく覚えている。深夜まで残って、佐伯がはんだごてを握っていた。坪井は、隣で寝落ちしながら、それでも時々目を覚まして口を出していた。三人の中で、山岸だけが手先が不器用で、いつも見ているだけだった。それでも、あの時間は嫌いではなかった。

    展示台の隅に、手書きの較正シートが一枚だけ残っていた。目盛りの合わない体重計に佐伯が自分から乗り、ペンを持ったまま、数字が落ち着くのを待っていた。「七十一・三」と、彼は声に出して読み上げてから、シートに書き込んだ。「機械に測らせるより、まず自分で測ったほうが早い」と、彼は笑いながら言っていた。

    山岸はその場面を、特別なものとしては覚えていなかった。ただ、佐伯が自分の体で何かを教え込んでいた、という感触だけが、記憶の底に残っていた。

    あの展示が、二十年後、坪井の家の床になるとは、当時の誰も考えもしなかった。

    玄関の開け閉めさえ、猫が外に出ないための監視項目として、最初の設計に含まれていたことを、山岸は聞いた覚えがあった。床だけでなく、家全体が、その延長で作られていた。あの頃の思いつきが、ここまで形になるとは、誰も想像していなかった。

    佐伯の名前は、坪井名義で出願された特許にも、その後の契約書にも、一度も載っていない。そのことを、山岸は後になって知った。坪井の家族の一人、坪井の姉にあたる女性を、初七日の相談で訪ねた際、世間話のついでのように話したことだった。

    「昔からの話だから、佐伯さんも今更とは思ってるでしょうけど」

    その言い方には、何かを軽くしようとする響きがあった。山岸は、それに相槌を打つだけで、深くは尋ねなかった。

    「弟も、悪気があったわけじゃないと思うんです。ただ、書類上の名前って、そういうものだから」

    姉はそう続けて、それ以上は語らなかった。山岸には、その「そういうものだから」という言い方が、妙に重く残った。

    その後、山岸は学祭時代の顧問だった教員にも、念のため話を聞きに行った。もう定年退職して久しい、小柄な老人だった。玄関先で、少し驚いたような顔をされた。

    「あの二人の展示のことは、よく覚えてますよ。表彰されたのは、確か坪井くんの名前でしたね。発表の壇上に立ったのが、彼だったから」

    「壇上に立ったのが、坪井だったから」

    「ええ。実際に手を動かしていたのが誰か、なんて、審査員はそこまで見ていませんから。壇上で喋った人間の名前が、記録には残る。よくあることです」

    老人は、それを特に悪いこととは思っていないようだった。ただの事実として、淡々と口にした。

    「佐伯は、それを気にしていましたか」

    「さあ。あの子は、あまり感情を表に出す方じゃなかったから。ただ、卒業のとき、少しだけ言ってましたね。『名前なんて、記録の都合だ』って」

    その言葉を、山岸は駅までの道すがら、何度も反芻した。名前なんて、記録の都合だ。当時は、負け惜しみのようにしか聞こえなかった言葉が、今は違う響きを持って耳に残った。

    金銭化の話が具体的に動き出したのは、去年のことだったらしい。坪井の名前だけが、契約書の上に残っていた。

    契約の相手先だという会社にも、山岸は念のため連絡を取ってみた。担当者は、電話越しに、少し戸惑いながらも応じてくれた。

    「坪井さんとは、去年の春頃からお話をさせていただいてました。すごく熱心な方でしたよ」

    「熱心、というのは」

    「打ち合わせのたびに、システムの改良点を持ってきてくださって。ペットの見守りだけじゃなく、いずれは介護分野にも展開できるはずだって、よくおっしゃってました」

    その話しぶりには、悪意も含みもなかった。ただ、坪井の未来への期待が、まっすぐに伝わってくるだけだった。

    「発案者について、何か伺っていますか」

    「発案者、ですか。契約上は、坪井さんお一人の名義でしたので、そこまでは……。ただ、そういえば一度だけ、『元々は、友人と一緒に考えたものなんです』とおっしゃっていたのは覚えています」

    「それについて、詳しくは」

    「いえ、それだけでした。特に、深い話には」

    電話を切ったあと、山岸は、しばらくその場から動けなかった。坪井は、佐伯のことを、忘れていたわけではなかった。ただ、契約という場では、その名前を出す機会が、結局最後までなかった。悪意ではなく、単なる巡り合わせの悪さだったのかもしれない。それが、かえって重く感じられた。

    その夜、山岸は帰り道で、学祭の頃の写真を思い出そうとした。佐伯がどんな顔で、あの較正シートに数字を書いていたか。うまく思い出せなかった。ただ、彼が笑っていたことだけは、確かだった。

    もう一人、当時の仲間に連絡を取ってみた。今は地方で働いているという、同じサークルにいた男だった。電話越しに、懐かしそうな声が返ってきた。

    「佐伯と坪井? ああ、あの二人は、いつも一緒だったよな。坪井が表に出て、佐伯が裏方で。役割分担がはっきりしてたっていうか」

    「不満そうにしてたことは」

    「うーん、なかったと思うけどな。ただ、卒業してしばらくしてから、一度だけ、佐伯が愚痴っぽく言ってたのを覚えてる。『あいつは、いつも美味しいところだけ持っていく』って。冗談めかしてたけど、あれ、半分は本気だったのかもな、今思えば」

    その言葉を聞きながら、山岸は、自分がいかに二人のことを知らなかったかを、あらためて思い知らされた気がした。同じ時間を過ごしていたはずなのに、見えていなかったものが、こんなにもある。

    駅までの道すがら、山岸はふと、桐山の質問の仕方を思い返していた。長年の経験からくる間の取り方、と自分では思ったが、あれは本当にただの経験なのだろうか。何かを確かめるために、あえて話題を変えたのではないか。そう考えると、あの短い聴取の時間が、また少し違う顔を見せた。

    第四章 行き詰まり

    佐伯のアリバイは、ダッシュボードの記録と矛盾しなかった。当夜、坪井の家の管理画面には、猫以外の動きは何も表示されていない。佐伯が別の場所にいたという証言も、いくつかの裏付けを伴っていた。近所のコンビニの防犯カメラ、遅くまで開いていた店の店員の記憶。どれも、決定的とまではいかないが、崩すには材料が足りなかった。

    桐山が見せてくれた防犯カメラの映像には、二十二時過ぎに、佐伯がレジで会計をしている姿が映っていた。時刻の表示は、はっきりしていた。ただ、その後、佐伯が自宅に戻ったかどうかまでは、映像には残っていない。コンビニから自宅までは、歩いて十分ほどの距離だった。

    通話記録にも、目立った不審な点はなかった。その夜、坪井から佐伯にかけた電話が一本、残っていただけだった。

    「気になるところではあります」

    桐山は言った。

    「ただ、通話の中身までは、こちらでも追えていません。キャリアに照会はかけましたが、それ以上の記録は残っていないので」

    内容までは、当然、わからない。

    「昔からの友人同士です。電話の一本くらいでは、何とも言えません」

    「この後の足取りは」

    「そこまでは。本人の申告だけです」

    桐山は、それを特に問題視していないようだった。裏が取れないというだけで、疑わしいという意味ではない。多くの人間のアリバイは、結局その程度のものだった。

    桐山を待つあいだ、会議室のドアが少しだけ開いていた。中から、誰かの声が漏れてきた。

    「動機はあるが、手段がない」

    その一言だけが、はっきりと聞こえた。手段がない、という言葉が、思っていたよりも重く響いた。動機は、山岸自身が誰よりもよく知っていた。それでも、手段がないと言われてしまえば、それ以上は進めない。

    代わりに、捜査の焦点は、しばらく別の方向に広がっていった。

    まず名前が挙がったのは、宮下だった。坪井の家のシステムを、隅々まで知っている人間として、当然の対象だった。

    「あの会社、経営はどうなんですか」

    桐山が、山岸にそう尋ねてきたことがあった。

    「そこまでは、聞いていません」

    「坪井さん、最近、他社への切り替えを検討してたらしいんです。宮下さんの会社にとっては、一番大きい顧客が離れる話ですよね」

    その情報に、山岸は少し驚いた。宮下からは、そんな話は一度も出ていなかった。

    「本当なんですか、それ」

    「坪井さんの知人の一人が、そう証言しています。ただ、宮下さん自身のアリバイは、はっきりしています。事件当夜は、家族と一緒に、実家に帰省していたそうで。裏付けも取れました」

    その説明を聞いて、山岸は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。同時に、坪井が会社を切り替えようとしていたという話が、なぜ宮下自身の口から出なかったのか、という小さな引っかかりも残った。おそらく、言いにくいことだったのだろう。それだけの話だと、山岸は自分を納得させた。

    次に、坪井の姉にも、一時的に目が向けられた。

    「坪井さん、去年、生命保険の受取人を、お姉さんに変更していたんです」

    桐山が、資料を見ながらそう言った。金額は、決して小さくはなかった。

    「それだけで、疑うんですか」

    「疑うというより、確認するだけです。手続き上、避けられないので」

    姉には、事件当夜、明確なアリバイがあった。子供の学校行事に参加していたことが、複数の証言で裏付けられていた。桐山は、それを確認すると、すぐにこの線から手を引いた。

    「保険金の話は、本人も、特に驚いていませんでした。『弟らしい律儀さです』と言っていましたよ」

    その言葉を聞いて、山岸は、通夜で見た姉の様子を思い出した。あの疲れた顔に、何か別の意図を読み取ろうとすること自体が、間違っているように思えた。

    もう一つ、桐山が気にしていた線があった。坪井が契約しようとしていた会社と競合する、別のメーカーの担当者だった。技術を安く買い叩こうとして断られ、電話で多少揉めたという話があるという。

    「事件当夜、その担当者の車らしきものが、坪井さんの家の近くで目撃されているという証言が、一件あります」

    その一報を聞いたとき、山岸の中で、何かがぐらりと揺れた。佐伯以外の答えが、初めて具体的な形を持った瞬間だった。

    だが、その車の目撃情報は、数日後、別の説明がついた。近所の別の家に来ていたリフォーム業者の車と、色や車種がたまたま似ていただけだった。担当者本人は事件当夜出張中で、裏付けも取れている。坪井との話が流れたことは認めていたが、恨みというより、単純にビジネス上の判断だったようだ。

    その報告を聞きながら、山岸は、坪井の別の一面を見た気がした。人の良さそうな坪井が、交渉の場では、意外と譲らない人間だったのかもしれない。それは、山岸の知っている坪井とは、少し違う輪郭だった。

    結局、この線も、二週間と経たずに立ち消えになった。宮下、姉、競合メーカー。どれも、疑いの形を一瞬だけ持ちながら、そのたびに崩れていった。残るのは、いつも同じ場所だった。

    二週間が過ぎても、捜査は同じ場所を回っているようだった。山岸は、坪井の家に何度か足を運んだ。猫の世話は、もう別の人間が担っていたが、山岸は理由をつけて通い続けた。理由は、正直に言えば、自分でもよくわからなかった。ただ、あの家では、何かがまだ終わっていないような気がした。

    仕事の合間に、山岸は個体識別センサーについて、自分でも調べてみた。専門的な論文までは手に負えなかったが、一般向けの解説記事はいくつか見つかった。歩行パターンによる識別は、もともと介護施設の見守りなどで使われてきた技術らしい。人間を対象にした技術が、坪井たちの手で、猫向けに応用されていた。順序が逆だったのかもしれない、とその時はまだ、単なる雑学として読み流していた。

    ある日、通路を歩く猫を眺めながら、山岸はふと、床の継ぎ目のことを考えた。

    センサーは、猫のために作られたものだった。それは間違いない。だが、あの夜の記録には、本当に人間の情報が一切残っていないのだろうか。残っていない、と誰もが言う。だが、それは「表示されていない」という意味であって、「記録されていない」という意味とは違うのではないか。

    その違いに、はっきりとした言葉を与えることは、まだできなかった。頭の中で、何かが少しずつ形を変えているのはわかったが、輪郭にはならなかった。宮下の言葉が、耳の奥で何度も繰り返された。猫用ですからね。人間のデータは、正規化する対象に入っていません。正規化する対象に、入っていない。それは、存在しないという意味だろうか。それとも、ただ、扱われていないという意味だろうか。

    一度、宮下に電話をかけてみたことがあった。

    「あの、前に見せてもらった画面なんですが、あれって、元になっているデータは、他にもあったりしますか」

    「元になっているデータ、ですか」

    宮下は、質問の意図をつかみかねたようだった。

    「猫用に整理する前の、生のデータというか」

    「ああ……あるにはありますけど、専門的すぎて、普通は見ないものですよ。診断用の、いわば裏方のデータなので」

    「見ることは、できますか」

    「できなくはないですが……何か、気になることでも?」

    山岸は、うまく答えられなかった。「気になることがある」と言うには、まだ何も形になっていなかった。

    「いえ、大丈夫です。また、何かあれば」

    そう言って、電話を切った。切ったあとで、もう少し粘って頼めばよかった、と思ったが、後の祭りだった。

    山岸は、坪井の書斎の棚にあった古いファイルを、もう一度借りて帰った。学祭の資料が、まだ残っているはずだった。棚を探るあいだ、猫がずっと足元にまとわりついていた。まるで、何かを催促するような素振りだった。

    自宅のマンションに戻ると、部屋の中は、いつも通り静かだった。この二週間、友人からの誘いを、何度か断っていた。理由を聞かれても、うまく説明できる気がしなかった。仕事も、最低限のことしか手についていない。誰かに、今の状況を話してみようかとも思ったが、話したところで、何がどう変わるわけでもなかった。

    その夜、自宅でファイルを広げながら、山岸は一人つぶやいた。

    「これ以上は、俺には無理だ」

    そう思う一方で、指はページをめくる手を止めなかった。無理だと思いながら続けてしまう。そういう性分だということを、山岸は自分でもよく知っていた。

    窓の外を、救急車のサイレンが遠く通り過ぎていった。自分とは関係のない音のはずなのに、しばらく、耳から離れなかった。この二週間で、そういう小さな物音に、いちいち反応するようになっていた自分に、山岸は気づいていた。

    第五章 違和感の輪郭

    学祭の資料は、思っていたより厚かった。企画書、配線図、そして手書きのメモ。佐伯の字だとわかるものが、いくつも挟まっていた。几帳面な字と、走り書きが、ページによって入り混じっていた。急いでいるときの佐伯の字は、右肩上がりになる癖がある。それも、山岸にとっては懐かしい発見だった。

    夜、自宅のテーブルに資料を広げ、山岸は一枚ずつ丁寧に読んでいった。配線図の余白に、坪井らしき字で「佐伯、天才かよ」と書き込まれているのを見つけて、思わず苦笑した。あの頃は、まだ何も歪んでいなかった。少なくとも、山岸の目にはそう見えていた。

    資料を抱えて駅に向かう途中、山岸は偶然、佐伯を見かけた。仕事帰りらしく、コンビニの袋を提げて、いつもと変わらない足取りで歩いていた。声をかけるべきか迷っているうちに、佐伯の方が気づいて、軽く手を上げた。

    「今日は、何してたんだ」

    「ちょっと、資料を借りに」

    それ以上は、話さなかった。佐伯も、深くは聞いてこなかった。

    「またな」

    佐伯は、それだけ言って、いつもの調子で歩いていった。何も変わっていないように見えた。その普段通りの後ろ姿を見送りながら、山岸は自分の中に、説明のつかない重さが生まれるのを感じた。

    その夜、桐山から電話があった。

    「そちらは、何か気づいたことはありますか」

    「まだ、何とも言えません。ただ、システムのことで、もう少し調べたいことがあって」

    「そうですか。こちらは、鑑識の再確認が終わりました」

    「何か、出ましたか」

    「いえ、それが。窓も、玄関も、裏口も、こじ開けられたような跡は、やっぱりどこにもありません。指紋も、坪井さんと、あなたのものだけ。もう一度、家中の建具を洗い直したんですが、収穫はなしです」

    「解剖の結果は、何か出ましたか」

    「目立った外傷はありませんでした。ただ、詳しい解剖で、右肩のあたりに、ごく薄い皮下出血が見つかったそうです。転倒するか、何かにぶつかった際にできたものだろう、と。持病があったかどうかは、まだ確認中ですが、心臓に急な負荷がかかった可能性がある、と言われています」

    桐山の声には、隠さない疲労があった。

    「侵入の形跡がないなら、内側の人間だと、あらためて思います。ただ、それだけでは、誰かを特定できるわけじゃないので」

    「そうですか」

    「山岸さんの方は、何か見えてきたら、遠慮なく言ってください。こちらも、正直、手詰まりです」

    桐山は、それ以上は踏み込んでこなかった。何かを察していたのかもしれないし、単に忙しかっただけかもしれない。山岸には、判断がつかなかった。

    電話を切ったあと、山岸は、鑑識が家中を洗い直したという事実を、しばらく考えていた。指紋も、争った跡も、何も出なかった。それでも、誰かが確かにあの部屋にいた。物理的な証拠がゼロだからこそ、あのRAWログという、目に見えない記録の重みが、あらためて浮かび上がってくるように思えた。

    資料を読み込むうち、電話で引き下がってしまったことが、やはり心残りだった。山岸は、今度は直接、宮下の会社を訪ねることにした。

    会社は、雑居ビルの三階にある、小さなオフィスだった。看板も控えめで、うっかりすると通り過ぎてしまいそうだった。この規模の会社が、坪井の家のシステムを一手に支えていたのかと思うと、山岸は少し意外な気がした。

    宮下は、資料に囲まれた小さなデスクで、山岸を迎えた。

    「わざわざ来ていただいて」

    「以前、電話でうまく聞けなかったことがあって」

    山岸は、以前見せてもらった管理画面のことを思い出し、今度は、猫用のダッシュボードではなく、システムそのものの仕組みについて尋ねた。

    「表示されない記録というのは、どこにあるんですか」

    宮下は少し驚いたようだったが、すぐに答えた。

    「RAWログのことですか。ありますよ。ダッシュボードは、それを猫用に整理し直したものなので」

    「整理される前の記録は、消えているわけじゃない」

    「消えてはいません。ただ、誰も見ないだけです」

    山岸は、その言葉を繰り返した。誰も見ないだけ。

    「他のお宅にも、同じようなシステムが入ってるんですか」

    「今は、うちで手掛けてるだけで十件ほどですね。ペットの見守りとして、口コミで少しずつ広がってきた感じです。坪井さんのお宅は、その中でも一番古い導入例なんですよ。言ってしまえば、うちの原点みたいなものです」

    宮下は、少し誇らしげにそう言った。坪井が、この会社にとってどれだけ大事な顧客だったかが、その口ぶりから伝わってきた。

    宮下は、パソコンの画面を切り替えながら続けた。

    「うちのシステムは、もともと坪井さんと佐伯さんが学生時代に作った試作機がベースになっています。私が入社する前からある、古いコードなんですよ。だから、正直、隅々まで把握できているかというと、怪しいところもあって」

    「怪しいところ、というのは」

    「たとえば、これです」

    宮下は、設定画面の一つを開いた。見慣れない項目が並んでいる。

    「メンテナンスモード、というのがあります。調整とか較正のときに使うモードです。事件のあった時期、ちょうど調整の予定が入っていたはずですよ。」

    「メンテナンスモードのときは、何が変わるんですか」

    「フィルタが外れるので、RAWにはむしろ全部残ります。人間の分も」

    山岸は、それを聞きながら、学祭のときの佐伯の言葉を思い出していた。

    機械に測らせるより、まず自分で測ったほうが早い。

    較正、という言葉が、急に別の重さを持ち始めた。あの頃も、今も、機械に何かを教え込むのは、結局は人間の役目だった。

    「その調整の予定というのは、誰が入れたものですか」

    「システムのログを見ればわかると思います。少々お待ちください」

    技術者が事件当夜の記録を確認すると言って席を外した数分間、山岸は動かずに待っていた。何かがつながりかけているのに、まだ形にならない感覚だった。窓の外を、通行人が二人、話しながら通り過ぎていった。ごく普通の午後だった。それが、今の自分の内側の緊張と、あまりにかけ離れているように思えた。

    デスクの上には、宮下が読みかけらしい、システムの古い設計書が置かれていた。表紙に手書きで「校内発表用・ver.0.3」とだけ書かれている。学祭の展示のために作られた、最初のバージョンだった。今の坪井の家のシステムが、あの頃の紙一枚の企画書から始まっていることが、あらためて実感として迫ってきた。

    断りを入れて、山岸は少しだけページをめくってみた。表紙の裏に、担当者の名前が二人分、並んで書かれていた。坪井の名前と、佐伯の名前。当時は、どちらが上でも下でもなかった。ただ並んでいるだけの、対等な表記だった。

    その並び方を、山岸はしばらく見つめていた。今の契約書の上には、この片方の名前しか残っていない。その落差が、紙一枚の重みとして、静かに伝わってきた。

    戻ってきた宮下は、資料を一枚、山岸の前に置いた。表情が、来たときより少し硬くなっていた。

    「その日、メンテナンスモードでした」

    山岸は、その一枚の紙を、しばらく見つめていた。文字自体は、何の変哲もない業務ログだった。それでも、その意味が、少しずつ、体の中に染み込んでくるのがわかった。

    「予定を入れたのは」

    「それが……ログ上は、システムの初期設定を作った、古い技術者アカウントになっていて。今も無効化されずに残っていたんです。正直、驚きました」

    「初期設定を作った人物というのは、わかるんですか」

    宮下は、画面をスクロールしながら、少し困ったように言った。

    「アカウント名自体は、開発時のハンドルネームみたいなものなので、これだけだと誰なのか、こちらでは特定できません。当時の担当者リストと突き合わせないと」

    「そのリストは、残っていますか」

    「探せば、あるとは思います。ただ、当時のことを知っている人間じゃないと、リストを見ても、誰が誰だか、わからないと思いますよ」

    宮下は、そう言って、少し申し訳なさそうにした。山岸は、それについて、それ以上は聞かなかった。ただ、頭の中では、すでに一つの可能性が、静かに形を持ち始めていた。

    宮下は、気まずそうに続けた。

    「昔のシステムを流用してるので、こういう古いアカウントが、消されずに残っていることは、たまにあるんです。うちみたいな小さい会社だと、棚卸しが追いつかなくて」

    「よくあることなんですね」

    「よくあるというか……あってはいけないことなんですが」

    その言葉に、宮下自身が一番戸惑っているようだった。山岸は、それ以上、宮下を追及する気にはなれなかった。彼のミスではなかった。誰のミスでもなかった、というべきかもしれない。ただ、古いものが、古いままそこに残っていた。それだけのことだった。

    会社を出ると、日はすでに傾いていた。駅までの道を歩きながら、山岸は、自分の中で何かが確定しつつあるのを感じていた。まだ、名前を口にする段階ではない。それでも、輪郭だけは、はっきりと見え始めていた。あの、当時の担当者リストと突き合わせる作業は、自分がやるべきだと、山岸は思った。学祭の資料なら、すでに手元にある。

    夕暮れの街を歩きながら、山岸は、自分がどちら側に立とうとしているのかを、あらためて考えた。友人としてか、それとも、真実を追う者としてか。その二つが、もはや分かちがたく重なっていることに、今更ながら気づかされた。

    第六章 RAWログ開示

    自宅に戻った山岸は、借りてきた学祭の資料と、当時の参加者名簿を並べて広げた。名簿には、展示ごとの担当者と、それぞれが使っていたハンドルネームが記載されていた。学生特有の、少し気取った名前が並んでいる。坪井のものはすぐに見つかった。佐伯のものも、一覧のかなり早い位置にあった。

    テーブルの下では、猫が丸くなって眠っていた。この作業を始めてから、ずっとそこにいる。まるで、結末を見届けようとしているかのようだった。もちろん、そんなはずはない。ただの偶然だと、山岸は自分に言い聞かせた。

    宮下が見せてくれたアカウント名の羅列を、頭の中でもう一度なぞる。文字の並び、数字の混じり方。似ている、というより、ほとんど同じだった。学生時代のハンドルネームを、そのまま拡張しただけの表記だった。

    確信はあった。だが、確信だけでは足りなかった。

    念のため、山岸は退職した顧問教員にも、もう一度電話をかけた。ハンドルネームの一覧を読み上げ、記憶と照合してもらうためだった。

    「ああ、これは佐伯くんのものですね。当時、みんな凝った名前をつけてましたが、彼のは、割とそのままだったので覚えています」

    電話の向こうで、老人は懐かしそうに答えた。何の疑いもない口調だった。その屈託のなさが、かえって山岸の中の確信を、動かしがたいものに変えていった。

    礼を言って電話を切ったあと、山岸はしばらく、名簿を眺めたまま動けなかった。確認は取れた。あとは、それを誰かに、正式な形で示すだけだった。それだけのことのはずなのに、指先が、なかなか次の行動に向かわなかった。

    翌日、山岸はもう一度、宮下の会社を訪れた。RAWログそのものを、直接見せてほしいと頼んだ。宮下は、少し迷う様子を見せたが、最終的には了承した。

    「本来は、こちらでも滅多に開かない画面なんですが」

    そう言いながら、宮下は端末を操作した。

    RAWログの画面は、猫用のダッシュボードとは似ていなかった。整えられていない数字の列が、時刻とともにただ並んでいるだけだった。体重、歩幅、間隔。フィルタのかからない生のデータは、見た目にも重かった。項目名も、開発者向けの略号のままで、素人にはとても読み解けるものではない。宮下が、隣で一つずつ意味を教えてくれなければ、山岸には何もわからなかっただろう。

    「警察の方には、これを見せなかったんですか」

    「一度、お見せしたことはあります。ただ、ダッシュボードの画面をひと通りご覧になって、それで十分ですと言われました。猫のための画面ですから、それ以上を求められることは、あまりないんです」

    宮下が、事件当夜の該当時間を絞り込んでくれた。

    二十三時二十七分に、玄関の解錠記録があった。歩行データと同じ列の中に、当たり前のように並んでいた。玄関の開閉も、猫が外に出ないための監視項目として、最初から記録の対象に入っていたのだった。

    「これ、玄関の記録ですよね」

    山岸が確認すると、宮下は頷いた。

    「はい。この家、玄関も同じシステムに組み込まれているので」

    その二分後、二十三時二十九分、居間の方向へ移動する記録。書斎の方向へ短く逸れたあと、二十三時三十四分、玄関へ戻る記録。そして、二十三時三十五分、再び玄関の施錠記録があった。解錠したときと同じ手順で、律儀に鍵をかけ直していったことになる。窓の操作記録は、どこにもなかった。

    コンビニでの会計から、この解錠までは、一時間ほどの間があった。徒歩では、いくらか厳しい時間だった。だが、佐伯の車を使えば、十分に足りる。あのマンションの駐車場に、古い車が一台停まっていたのを、山岸は思い出した。使われた形跡があるかどうかまでは、当然、覚えていなかった。

    数値の並びは、最初はただの雑音に見えた。猫にしては大きすぎる数字が、一定の律動で列の中に紛れている。山岸はそれを二度、三度と目でなぞった。

    七十一・三。

    見覚えのある数字だった。どこで、とすぐには思い出せない。ただ、初めて見た数字ではないという感触だけが先にあった。

    「歩幅のほうも、見てもらえますか」

    山岸が頼むと、宮下は隣の列を指した。

    「歩幅は、七十六センチ前後で安定してます。体重と組み合わせて、同一人物と判定されているみたいですね」

    「これも、猫の値としては」

    「あり得ないですね。猫の歩幅は、どんなに大きくても十数センチです」

    体重だけなら、まだ偶然という余地が残ったかもしれない。だが、体重と歩幅、二つの数値が同時に、しかも安定して繰り返されているとなれば、それはもう、単なる通行人の記録ではなかった。個体として、一貫した誰かが、そこを歩いていた証拠だった。同じ人間が、同じ足取りで、二度、その場所を歩いていた。それ以外の解釈は、もはや残っていなかった。

    古い資料の束を思い出したのは、その後だった。学祭の展示台に置かれた、手書きの較正シート。体重計に乗った佐伯が、自分でペンを走らせていた数字。

    そういえば、と山岸は思う。佐伯は、学生の頃から体型がほとんど変わらない男だった。付き合いが浅くなってからも、飲みの席で「相変わらず体づくりには五月蝿いんだ」と笑っていたのを、聞いた覚えがある。あの几帳面さが、こんな形で牙を剥くとは、当時の誰も思わなかっただろう。

    Ref-B。

    較正の基準は、機械が決めるものではない。人が、自分の体で測って教え込むものだった。

    「この、Ref-Bっていう項目、何のことかわかりますか」

    山岸が尋ねると、宮下は画面をスクロールし、少し考えてから答えた。

    「較正基準です。個体識別のアルゴリズムを組むとき、最初に基準となる歩行パターンを教え込む必要があって。その基準値のことを、社内ではそう呼んでいます」

    「もう少し、簡単に言うと」

    宮下は、少し考えてから、身振りを交えて説明し直した。

    「体重計を、玄関の床いっぱいに敷いたようなものです。最初に、誰かがその上を歩いて、『これが基準の歩き方です』と機械に教え込む。あとは、その基準とどれだけ近いかで、誰が歩いているかを判定するんです。今回のケースでは、その"最初に教えた人"が、佐伯さんだった。ただ、それだけのことです」

    その一言で、山岸の頭の中に、ようやく一枚の絵が像を結んだ。猫のための体重計だと思っていたものが、最初から、人間の足跡を測るために作られた床だった。猫と人間、その両方を、同じ基準で見分けられるように設計されていた。

    「誰の基準値かは」

    「登録した人物の名前が、本来は紐づいているはずなんですが……ここも、古い設定のままだと、名前ではなくラベルだけのことがあって」

    宮下は、Ref-Bの項目を開いた。ラベルには、山岸が名簿で見たのと同じハンドルネームが記載されていた。

    「そもそも、なんでこんな較正値が、今も生きてるんですか」

    山岸が尋ねると、宮下は少し考えてから言った。

    「個体識別って、一度学習させたパターンを、簡単には消せない設計になってるんです。消すと、識別の精度自体が落ちるので。だから、最初に教え込んだ基準は、余程のことがない限り、システムの奥で残り続けます」

    「余程のことというのは」

    「システムを丸ごと作り直すとか、そのくらいですね。普通は、そこまでしません」

    その説明を聞きながら、山岸は、あの学祭の日のことを、また思い出していた。機械に測らせるより、まず自分で測ったほうが早い。あの一言は、冗談でもなんでもなく、文字通りの意味だったのだ。佐伯は、自分の体を、あのときシステムの一部にした。そして、そのことを、たぶん忘れていなかった。

    山岸は画面から目を離さずに、しばらく黙っていた。

    これは、猫のログじゃない。

    最初から、人間も測る設計だったのだ。玄関も、通路も、体重も。坪井が「猫のため」と信じて疑わなかったこの家全体が、最初から、人を測るためのものでもあった。佐伯が、自分の手で、そう設計していたのだ。

    山岸は端末を閉じずに、隣の宮下を見た。

    「これは、猫のログじゃない」

    宮下は、その言葉の意味をすぐには測りかねたようだったが、画面を覗き込み、数字の並びをしばらく見ていた。それから、Ref-Bの列に指を止めた。

    「較正値と、完全に一致してますね」

    「較正した人間が誰か、記録は残っていますか」

    宮下は、ハンドルネームと名簿を見比べ、頷いた。それだけで、答えは十分だった。

    「間違いなければ……この人、当時の記録だと」

    宮下の声は、心なしか震えていた。自分たちの作ったシステムが、こんな形で意味を持つとは、想像もしていなかったのだろう。

    「言わなくて大丈夫です」

    山岸は、それだけ言って、資料を束ねた。名前を、他人の口から聞きたくなかった。自分で、確かめてから言いたかった。

    宮下は、しばらく何も言わずに、画面を閉じた。会社として、これからどう対応すべきか、頭を悩ませているようだった。それは、山岸の預かり知らないことだった。

    席を立つとき、窓の外はもう暗くなっていた。ダッシュボードには何も出ていない夜が、急に別の顔を見せていた。あの家の中で、猫だけが知っていたはずの夜が、今、初めて別の姿を現していた。

    会社を出てからも、山岸はしばらく歩く気になれず、近くのベンチに座った。頭の中では、答えはすでに出ていた。それでも、体のほうが、その答えを受け入れるのに時間を要しているようだった。

    これから自分がすることは、旧友を告発することだ。その事実の重さが、今さらのように圧しかかってきた。二十年来の付き合いを、たった一枚の数値の一致で終わらせようとしている。そのことに、迷いがないと言えば嘘になる。

    それでも、坪井の顔が、床の上で動かなくなっていたことを、山岸は忘れていなかった。忘れられるはずもなかった。

    駅までの帰り道、山岸は何度も、七十一・三、という数字を頭の中で繰り返した。数字自体には、何の感情もない。ただの記録だ。だが、その記録に、ようやく意味を与えられる人間が、自分しかいないのだということが、今はよくわかった。

    誰も見ないと思われていたデータの中に、確かに、あの日の佐伯がいた。

    その夜、山岸は桐山に電話をかけた。話すべきかどうか、まだ迷いはあったが、これ以上一人で抱えておける重さではなかった。

    事情を説明すると、桐山は、しばらく黙って聞いていた。

    「宮下さんの会社の記録、こちらでも正式に押収する形で確認させてください。個人の伝聞だけでは、証拠として弱いので」

    「わかっています」

    「山岸さんが、ここまで調べてくださったことには、感謝します。ただ、ここから先は、私たちの仕事です」

    その言葉には、労いと、線引きの両方が込められているように聞こえた。山岸は、素直にそれを受け入れた。

    電話を切ったあと、山岸はしばらく、部屋の暗がりを見つめていた。あとは、警察が動くのを待てばいい。それが、筋の通ったやり方だった。

    それでも、山岸の中には、まだ片づいていない何かが残っていた。それが何なのか、この時点ではまだ、はっきりとした形を持っていなかった。

    第七章 対峙と収束

    桐山に話した以上、あとは警察の仕事になる。それが、筋の通ったやり方だということはわかっていた。それでも、山岸の中に残っていた「片づいていない何か」の正体は、数日のうちに、はっきりとした形を持ち始めていた。

    佐伯に、直接会わなければならない。警察の手続きが動き出す前に。理由を、誰かに説明できる自信はなかった。ただ、二十年分の何かに対して、警察を通さずに向き合う責任があるように感じていた。

    思えば、自分はいつも、隣で見ているだけだった。学祭の展示も、二人の間にあったはずの確執も、坪井の契約の話も。見ているだけで、何一つ引き受けてこなかった。今度だけは、それで済ませたくなかった。

    佐伯の部屋を訪ねたのは、山岸ひとりだった。刑事を伴わなかったのは、自分の判断だった。

    マンションまでの道を歩きながら、山岸は、何度も引き返そうかと考えた。桐山に任せてしまえば、それで済むことだった。それでも、足は止まらなかった。エレベーターの中で、鏡に映る自分の顔が、思っていたより落ち着いているのを見て、少し驚いた。

    佐伯は、来訪を驚いた様子もなく迎えた。まるで、いつかこうなることを知っていたようだった。部屋には、以前訪れたときと同じ工具箱が、同じ場所に積まれていた。何も変わっていないように見えた。

    「珍しいな、一人で来るなんて」

    「少し、確認したいことがあって」

    佐伯は、いつものように、コーヒーを淹れようとした。山岸は、それを断った。断られたことに、佐伯は少し驚いたようだったが、それ以上は何も言わずに、向かいの椅子に座った。

    山岸は、資料を出さなかった。数字も、時刻も、口にしなかった。ただ、一つだけ尋ねた。

    「較正のとき、自分の体で測ったんだったな」

    佐伯は、しばらく窓の外を見ていた。長い沈黙だった。時計の音だけが、やけにはっきり聞こえた。

    「消したつもりはない」

    それだけ言って、また黙った。山岸は続きを待った。

    「鍵は要らなかった。あのシステムは、今も自分のアカウントを覚えていた」

    「入るときも、出るときも」

    「ああ。電話を切ったあと、スマホから遠隔で解錠した。出るときも、同じ方法で施錠し直した。合鍵なんて、最初から要らなかった」

    山岸は、それについては何も聞かなかった。聞かなくても、意味はわかった。

    「なんで、あの夜に行こうと思った」

    「頭に来たから、としか言えない。電話の声が、あんまり弾んでたから、余計に」

    「メンテナンスモードは、なぜ組んだ」

    佐伯は、少し間を置いてから答えた。

    「古いアカウントでログインした形跡自体は、消せない。だったら、正規の調整作業に見せかけた方が、まだましだと思った」

    「それが」

    「ああ。そのせいで、フィルタごと外れた。人の分まで、全部拾われた」

    佐伯は、そこで初めて、自嘲するように笑った。

    「わかっていて、それでもやった」

    笑ったというより、頬の力が抜けただけのようだった。

    「誰も見ないと思っていた。あれは猫のためのデータだ。診断用の、ただの塊だ。人が歩いた分の数字が混じっていたとしても、それを誰が意味あるものだと思う」

    「残っていたのが、Ref-Bだったから・・・」

    佐伯は顔を上げた。長い間、何も言わなかった。窓の外で、車が一台、通り過ぎる音がした。

    「あの数字を教え込んだのは、おまえ自身だ。だから、あの夜の記録は、最初から"自分だと"と名乗っていたようなものだった」

    「……そんなつもりでは」

    「なかったのだろうな」

    山岸はそれ以上、責める言葉を継がなかった。

    「棚の本が、床に落ちていたそうだ。座布団も、ずれていた」

    「……そうか」

    「争ったのか」

    「大きく争ったわけじゃない。言い合いになった。声が、大きくなった」

    佐伯は、そこで一度、言葉を切った。時計の音だけが、また間を埋めるように響いた。

    「坪井が、胸倉をつかんできた。頭に血が上ってるのが、わかった」

    「お前は」

    「振り払った。それだけだ。突き飛ばすつもりは、なかった」

    「坪井は」

    「よろけて、棚にぶつかった。肩からだったと思う。たいした勢いじゃなかった」

    佐伯は、そこで言葉を止めた。しばらくしてから、続けた。

    「それなのに、急に、様子がおかしくなった。息が、うまくできていないようだった」

    「それで」

    「何もしなかった。何もできなかった、と言うべきなのかもしれないが」

    「その後、書斎に寄ったな」

    佐伯は、少し驚いた顔をした。

    「……記録に、残ってたのか」

    「ああ」

    「電話を探した。誰か、呼べる相手がいないか、あいつの携帯を探した。見つからなくて、結局、諦めた」

    「なぜ、呼ばなかった」

    「わからない。頭が、動かなかった。気づいたときには、もう」

    その言い方には、言い訳をする響きがなかった。ただ、事実を、順番通りに並べているだけだった。

    佐伯は、そこで初めて、声を詰まらせた。

    「持病があったなんて、知らなかった。本当に、知らなかったんだ」

    山岸は、それ以上、その話を深く聞かなかった。聞いたところで、坪井は戻らない。

    「なんで、直接来た」

    佐伯が、ぽつりと尋ねた。

    「刑事を連れてきたほうが、早かっただろう」

    「わからない。ただ、そうしたかった」

    わからない、というのは半分、嘘だった。ずっと隣で見ているだけだった自分に、今度ばかりはそうさせたくなかった。ただ、それを言葉にする気にはなれなかった。

    その答えに、佐伯は小さく頷いた。納得したのか、諦めたのか、山岸にはわからなかった。

    「坪井は、お前のことを、いつも自慢げに話してたよ。床のセンサーのアイデアは、佐伯が考えたんだって」

    「知ってる」

    「知ってて、それでも」

    佐伯は、しばらく答えなかった。それから、ぽつりと言った。

    「盗まれた、とは思ってない。あれは、俺のアイデアってだけじゃなかった。俺たちの夢だったんだよ、本当は」

    その一言に、山岸は、あの夜のことを思い出した。缶ビール片手に猫を抱き上げて、坪井が笑いながら言っていた言葉。「な、くろこ。お前もわかってるだろ。俺たちの発明品だって」——あの言葉と、今の佐伯の言葉が、同じ場所から出ているように聞こえた。二人はきっと、最後まで同じ夢を見ていた。ただ、その夢の続きを、片方だけが歩き続けてしまっただけだった。

    佐伯は、それ以上何も言わず、窓の外にもう一度目をやった。

    「契約が決まったって聞いたのは、いつだった」

    その問いに、佐伯はようやく、短く答えた。

    「一週間前だ。あいつから、電話で聞いた。声が、弾んでた」

    それ以上、佐伯は語らなかった。語る必要もなかった。声が弾んでいた、というその一言だけで、山岸には十分すぎるほどだった。

    「事件のあった夜も、電話があったな」

    佐伯の肩が、かすかに動いた。

    「……知ってたのか」

    「通話記録に残ってた。中身までは、わからない」

    佐伯は、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。

    「電話をかけてきたのは、あいつの方だった。少し、酔っていたと思う。『今度、飲みに行こう』って。それだけなら、よかった」

    佐伯は、そこで言葉を切った。山岸は、続きを待った。

    「『お前のおかげだって、ちゃんと言っておいたから』って、笑いながら言われた」

    「言っておいた、というのは」

    「誰に言ったのかは、聞かなかった。聞く気にもなれなかった。二十年間、紙の上には一度も残らなかった名前が、また、あいつの気分だけで軽く扱われた気がした」

    「悪気は、なかったはずだ」

    「わかってる。あいつは本当に、それで十分だと思ってたんだろうな。だから、腹が立った」

    佐伯の声が、かすかに震えていた。

    「先生が、覚えてたよ。お前が卒業のとき、言ってたこと」

    佐伯は、怪訝な顔をした。

    「『名前なんて、記録の都合だ』って」

    その言葉に、佐伯の表情が、初めて崩れた。笑おうとして、うまく笑えなかったような顔だった。

    しばらく、佐伯は何も言わなかった。テーブルの上で、指先だけが、意味もなく動いていた。時計の音が、また大きくなったように感じられた。

    「そんなこと、言ったか」

    声が、少しかすれていた。

    「言ったらしい」

    佐伯は、うつむいて、片手で目のあたりを軽く覆った。泣いているようには見えなかった。ただ、顔をそのままの形で保っていられないだけのようだった。

    「覚えてないな……いや、覚えてないふりを、してたのかもな」

    それだけ言うと、佐伯は、また窓の外に目を戻した。目の縁が、少し赤くなっていた。それ以上、その話題に触れることはなかった。

    坪井の名前を、佐伯は一度も口にしなかった。名前を呼ぶことさえ、自分に許していないように見えた。

    しばらくの沈黙のあと、佐伯が、ぽつりと尋ねた。

    「これから、どうするんだ」

    「桐山さんに、話す」

    「そうか」

    佐伯は、それだけ言うと、立ち上がり、窓際まで歩いた。外を見るでもなく、ただそこに立っていた。

    「一つだけ、聞いていいか」

    「なんだ」

    「後悔してるか」

    佐伯は、しばらく答えなかった。長い沈黙のあと、振り返らずに言った。

    「わからない。ただ、あの夜のことは、何度も繰り返し覚えている。忘れられたら、楽だったんだろうけどな」

    その言葉には、弁解も懺悔もなかった。ただ、事実を述べているだけだった。山岸は、それ以上、何も聞かなかった。聞いたところで、答えが変わるとは思えなかった。

    「行くよ」

    「ああ」

    佐伯は、振り返らなかった。玄関を出るとき、山岸は一度だけ振り返った。佐伯は、まだ窓際に立ったままだった。その背中に、何か声をかけようとして、結局、何も言わずに戸を閉めた。

    数日後、桐山から連絡があった。任意同行に応じた佐伯が、取り調べで、ほぼ全面的に事実を認めたという。RAWログの解析結果と、玄関の解錠記録が、決定的な物証として扱われることになった。

    「ダッシュボードに出ない時点で、対象外だと判断しました」

    捜査班の一人が、資料を閉じながらそう言った。詫びるでもなく、事実として。

    山岸は頷いた。誰かの過失ではない。あのRAWログは、最初から人間のために作られた画面ではなかった。猫の健康データの中に埋もれた診断用の塊を、誰が最初から疑うだろう。

    「山岸さんが気づかなければ、たぶん、このまま迷宮入りだったと思います」

    桐山が、それだけ言った。褒め言葉のようでもあり、少し重い響きでもあった。

    見えなかったのではない。見る理由がなかっただけだ。

    その事実は、誰の責任でもない代わりに、誰の手柄でもなかった。ただ、山岸だけが、あの学祭の記憶を持っていたというだけのことだった。

    坪井の姉から連絡があったのは、事件の全容が明らかになってから、しばらく経ってのことだった。猫について、相談したいことがあるという。

    会って話すと、姉は、疲れの見える顔で言った。

    「うちでは、どうしても引き取れなくて。子供が小さくて、アレルギーもあるので」

    「それなら」

    「もしよければ、山岸さんに。弟も、それを一番望んだと思うので」

    その言葉に、山岸はすぐには答えられなかった。理由を、うまく説明できる自信がなかった。それでも、断るという選択肢は、最初から自分の中になかったことに気づいた。

    「わかりました。うちで、引き取ります」

    姉は、小さく頭を下げた。それ以上、多くを語らなかった。

    最後に、姉はぽつりと付け加えた。

    「弟、あなたと佐伯さんのこと、本当に大事にしてたんですよ。だから、こんなことになって……いまだに、うまく飲み込めていません」

    山岸も、うまく答えられなかった。飲み込めていないのは、自分も同じだった。

    猫を引き取ることになったのは、坪井の家族の誰もが、それぞれの事情で飼えなかったからだった。手続きは、思っていたより簡単だった。書類に判を押すだけで、あっけないほど簡単に、一つの命の行き先が決まった。

    引き取りに、最後にもう一度、坪井の家を訪ねた。家はすでに、売却の手続きが進められていた。門灯は、もう点いていなかった。誰も住まなくなった家の暗さが、あの夜と同じくらい、静かだった。

    家に戻ると、猫が通路を歩いていた。山岸の部屋には、センサーなどは埋まっていない。それでも、猫は迷わず、いつもの調子で歩いていた。

    もし、ここにもあの継ぎ目があったなら、この足取りも、迷いのない数字になっていたはずだった。今この瞬間も、どこかで、誰かの足跡が数字になって積まれているのかもしれない。誰も見ない場所で、誰かが意味を与えるまで、ただ積まれ続ける数字たち。

    山岸は靴を脱ぎ、その足音がどんな数字になるのかを、少しだけ考えた。答えの出ない問いだった。この部屋には、答えを出すための装置がない。

    猫が、通路の先で立ち止まり、こちらを見た。

    山岸は靴を脱ぎ終えるまで、その視線に応えなかった。

    窓の外は、もう暗くなっていた。どこかで、電車の音がした。いつもと変わらない、夜だった。


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    Marcus

     
     
    はじめまして。 このnoteには、AIのこと、ねこのこと、そして日々の小さな気づきを綴っています。 難しいことをやさしく、身近なことを少しだけ深く。そんな記事を書いています。 人とAIを、やさしい言葉でつなぐ。そんなnoteです。

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