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Photo byrich_otter743

水平線

    私が育った家の玄関には、高さが180センチを超える大きな鉄柵の門扉があった。

    開閉のたびにギイィと重苦しい音を立てて、内側には、これまた重々しい「かんぬき錠」が下されている。

    外側からでも指を差し込めば簡単に開けられるが、柵の間隔が真ん中へいくほどだんだん狭くなっていて、幼児だった私の短い指では到底、届かない。


    ある日、姉に誘われて、自転車の荷台に乗せてもらい、駅前まで一緒に出かけたことがあった。
    構ってもらえたことがとても嬉しくて、私は子犬のようにはしゃいでいた。

    ところが駅に着くと偶然、懐かしい友だちに出会って、姉はおしゃべりに夢中になってしまう。

    予想外の再会が、よほど嬉しかったのだろう。
    だから、連れてきた幼い妹を疎ましく思ったのかもしれない。

    「あんたは、先に帰ってなっ!」
    とキツく言って、放り投げるように家の鍵を渡された。


    幼児ながら早熟だった私は、徒歩約20分の道のりを覚えていて、一人でも家まで帰ることができた。

    だからちょっとした冒険気分で私は、一軒一軒の表札を見たり、道端の雑草や、田畑でキラキラ光って揺れているビニール紐なんかを眺めながら家へと向かった。

    そうして家に着いて、私はようやく気付く。

    姉の細くて長い指で中央付近に差し込まれた「かんぬき錠」に、私の手では、どうやっても届かない。門扉が開けられないのだ。

    見上げるほどの、大きくて重い鉄柵の門扉。
    玄関ドアの鍵を持っていても、これでは中へ入れない。


    この瞬間、私の心の奥底に、時限爆弾はセットされた。

    閉ざされた門扉は、中へ入ることを決して許さない「拒絶の象徴」だ。
    そして誰かの、激しい怒りや罵声は「恐怖体験のはじまりの合図」となる。

    時限爆弾は時を経て、二十代の半ばになってから、ドカンッ!と爆発した。
    キイワードは「帰って!」。

    激高した姉から、そう怒鳴りつけられた時、トラウマの再演が起こったのだろう。

    私は、うつ病の沼に転がり落ちた。
    掴むところもなく、足をかける場所もない、深くて暗い沼に。

    それから私は、長い闘病生活に入ることになった。


    「今、あなたは何歳ですか?」
    と、カウンセラーが問う。
    「自分一人では生活できない、幼児ですか?」

    「いいえ、違います」
    私は、しっかりと顔を上げて答える。
    「私は自分で、必要な衣食住を賄えるし、幼児ではありません」


    「今、ここは、危険ですか?」
    「いいえ、ここは、安全です」


    「今、もしも、家の鉄の門扉が開かなければ、あなたはどうしますか?」
    ——スマホで検索して、業者さんを呼びます。
    ——時間がかかりそうなら、その間、カフェでお茶しながら待つこともできます。
    ——あぁ、何なら、どこか素敵なホテルに泊まって、ついでにのんびりするのもいいですね。

    カウンセラーは
    「それ、素敵じゃないですか!」
    と笑った。


    いい歳の大人になった私は今、他の誰かから「帰れっ!」と怒鳴られるような状況には、そうそうならない。

    それでもやはり身近な人や、たとえ見知らぬ他人であっても、誰かが怒っていたり、怒鳴っているシーンを目にすると今でも、軽いパニック発作を起こして冷静な思考が難しくなる。

    けれども私は、それが「トラウマ反応」という名の、単なる亡霊であることを知っている。

    誰かの不機嫌や、怒りに巻き込まれることのないように、自分で自分を護ることもできる。

    逃げればいいのだ。
    おっと、避難というべきか。


    人は誰だって、様々なトラウマを抱えて生きている。

    そのトラウマに真正面から向き合って、医療者と共に、克服を目指したほうがいい場合もあるだろう。

    あるいは痛みを糧に変えて、トラウマと生涯、共に、勇敢に生きていくことを選択する人もいるだろう。



    水平線の向こうは断崖絶壁になっていて、滝のようにザーザーと海水が流れ落ち、船も魚も何もかも、落下してしまうと信じている人は、もういない。

    水平線の向こうにも同じように、ゆったりと海水を湛えた大海原が続き、その先には、まだ見ぬどこかの島や大陸へと繋がっているのだ。

    私たちは、それを知っている。
    たとえ見えなくても、ちゃんと知っているのだ。


    水平線が光る朝に
    あなたの希望が崩れ落ちて
    風に飛ばされる欠片に
    誰かが綺麗と呟いてる

    悲しい声で歌いながら
    いつしか海に流れ着いて 光って
    あなたはそれを見るでしょう

    水平線 / back number


     
     

    ちえ

     
     
    機能不全家庭で育ちました。エッセイ、小説、たまに俳句。回復の道標として、綴っていきます。

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