
掌編小説『寿命リサイクル店』
午前九時、僕は最寄り駅のホームから会社へ最後の欠勤連絡をした。もう上司の嫌味を聞かなくて済む。晴れやかな気分だ。けれども、来週には僕の席に他の社員が座っているかもしれない。いや、そんなことはどうでもいい。ブラックコーヒーを飲み干して、缶をゴミ箱に投げ入れた。
身体だけでも出社しようと通った改札にまた戻ってきて、駅員に入場料を支払った。律儀に会釈をした僕はゆっくりと革靴を動かし、家と反対方向に歩き出した。
『あなたの寿命、買い取ります』
変なキャッチコピーのポスターに、思わず足を止めてしまった。電信柱に貼り付いたその紙には、電話番号と『この先右折』の文字。自然と僕は角を右へ曲がった。
『寿命リサイクル 御用の方はチャイムを鳴らしてください』
辿り着いたのは、ただの古い家。すりガラス付きのドアに、そう書いた紙が貼られている。本当にここが店なのか、僕の興味は恐怖を優に超えた。
――ピンポーン……
「……いらっしゃい」
店主の声は低かった。僕の顔を一瞬だけ見て、ドアを開けたまま奥へ進む。何故かこの店に入るところを他人に見られたくなくて、僕は辺りを見渡した。
「早く入りな。誰も見ちゃいない」
「あ、すみません……」
店主に急かされて、僕は玄関に入る。素朴な木の匂いが鼻に抜けた。
「それで? お前さんは、買い取りかね」
「買い取り……寿命の、ですか?」
「うちはそれしかやってないよ」
ぶっきらぼうだけど、面倒見が良さそうな人だ。僕は直感でそう思った。でも“寿命の買い取り”なんて、本当に出来るのだろうか?
「あの……」
「なんだい」
「僕の寿命、買い取ってもらえますか?」
「ああ。でも、買い取ったら絶対に取り消すことはできないよ。それでもよければね」
僕にはもう必要のないものだ。よく分からないけれど、ここで寿命を“リサイクル”してもらえるのなら、その方がきっと世の中の役に立つ。今朝飲んだあの缶コーヒーのように。
「リサイクルっていうのは……僕の寿命を、誰かに売るということですか」
「そうさ。お前さんの寿命を視るから、まずこの誓約書にサインしな」
目の前の机に、全部で十もの項目が書かれた誓約書を差し出された。そこには『一、寿命の売買について他言しないこと』と書いてある。どのみち、僕には他言する相手もいないのだから、関係ない話だ。
僕は誓約書を読んで『全項目に同意する』を選び、ボールペンでフルネームを書いた。
「お前さん、まだ若いな。三十代前半くらいか」
「はい……そうです」
「もう、いいのか」
「……充分です」
「ほう……寿命はな、あと五十はあるぞ」
「そ、そんなに……」
「本当に、買い取ってほしいか」
店主は静かに僕を見る。その目はひどく澄んでいた。僕の疲れ切った心の奥底を映し出すような、綺麗な色をしている。
どうして僕は、ここに来て揺らいでいるのだろう。明日になれば、僕は息をしていないはずだったのに。ビジネスバッグの中身は、昨夜必死に書いた遺書たちだ。ここまで準備しておいて、まだこの世で苦しみたいのか。
「なぁに、迷っているのか」
「い、いや……」
「迷うくらいなら、やめておきなさい」
「でも、僕は……」
「ここは年中無休。でもね、お前さんの寿命はあと五十しかない。その間にやれることをやって、迷わなくなったらまた来ればいい」
店主は立ち上がり、僕の身体をドアのほうへと押しやる。不思議と、それに抗わない自分がいた。まだ生きていたい訳ではないけれど、死にたくないことだけは分かった。
「もっと迷いなさい。それが生きるってことだ」