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お兄ちゃんとママ そしてアタシ 【後編】〜難病ALSで余命宣告されたママの微笑みとお兄ちゃんのまなざし〜

    十文字 海香  じゅうもんじ うみか

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門


    ここから親戚とのさらにしんどい戦いが始まった

    父が亡くなった後、これからはママもほっとして
    お兄ちゃんと2人でのんびりできる
    アタシもつっぱっていた全身の力がスーッと抜けた
    そうしたら今までの父の悪行さえ仕方がなかったかなと思えてきた

    父は第2次世界大戦で徴兵され、戦地で
    過酷な経験をしながらも生きて帰った
    様々な思いが抜けず平和な日常になじめなくなったのだろう
    父が戦争の話をすることはなかった

    父は暑い夏の終戦記念日に
    TV中継を観ていた私にポツリと言った
    「戦争はやるからには勝たなければならなかった」
    まだ小学生の子供だったアタシは
    父はアタシたちと違う恐ろしい世界を見た人なんだ
    父がもっと怖くなったことを思い出した

    父の死で少しセンチメンタルになったことが
    吹っ飛ぶような親戚との戦いが始まった
    アタシは思いもよらぬ必殺パンチを
    ボディーにくらってダウンした

    お兄ちゃんが電話で慌ている
    お父さんが亡くなっていろいろ手続きをしていたら
    今、住んでいるウチ(家)の土地の半分は
    まだおばあちゃんの名義のままだった
    おばあちゃんの名義変更にはおばあちゃんの子供
    おじさん、おばさん(父の実弟のおじさん1人、実妹のおばさん2人)の
    承諾が必要だから電話でお願いしたんだ

    そしたらびっくりだよ。 おばあちゃんの子供である
    私たちの権利だから法定通り
    土地の価格分の3000万を払え、払ったら名義変更してやるとさ

    お兄ちゃんの電話を聞いてアタシは
    体中が砂になって崩れていくような感覚になった
    なぜ、どうして!
    これからママとお兄ちゃんが穏やかな 暮らしができるはずなのに
    3000万払えだとは....

    お兄ちゃんどうしよう 3000万なんてアタシ持っていないよ
    この家を売らなくちゃお金作れないよね
    なんでお父さんはおばあちゃんと名義を半分ずつにしたんだよ
    お兄ちゃんとアタシに面倒なこと残して死ぬなよ

    そうなんだよ、なぜ半分ずつにしたのか調べてみたら
    最初は全部お父さんの名義だったんだ
    その後、おばさん連中が名義の半分を
    おばあちゃんにしないのはおかしい
    おばあちゃんが頑張って買った土地があったから
    今の家が買えたんだろう、だからおばあちゃんにも権利がある
    と言い出したらしい
    お父さんもうるさい弟、妹と争うのは面倒だと思ったのか
    名義の半分をおばあちゃんに戻す、変更をしたようだ

    ママがしょんぼりとしながら
    お父さんは私には何も言ってくれなかったから知らなかった
    ごめんね。ママがしっかりしていなくて

    お母さんは気にしなくていいよ、大丈夫だよ
    オレがなんとかするから
    (アタシはほっとした。お兄ちゃんは優しい)

    一度、おじさん、おばさんを集めて直に話をして
    名義変更をお願いしてみようか
    只でというわけにはいかないから
    1人につき50万、3人で150万で
    名義変更の手数料としてどうですか?と 話をしよう

    アタシは戦う気が満々となった
    そうだね、わかった。まずは手紙を作るね
    名義変更の手数料として50万でお願いします
    じかに話したいから 横浜のホテルに来て欲しいとね

    横浜の老舗のホテルの会議室に
    おばさん2人(夫付き、ボンクラも来た)、 おじさん1人の5人が集まった
    揃いも揃って苦々しい顔つきでイヤな予感だ

    お兄ちゃんが名義変更のお願いをゆっくりと丁寧に話始めたが
    すぐにボンクラがこの失礼な手紙はなんだ 、50万では納得しない
    法定通りの金額をもらうのは当然と言い出した
    こいつらには丁寧にお願いしても 無駄だと思ったアタシは
    「おじさん、おばさん、いい加減に〜(しろ)」と
    怒りをぶつけかけたとき、またお兄ちゃんの”待った”が入った
    (相撲の行司さんか、お兄ちゃん!)

    わかりました。これだけ僕たちがお願いしても
    承知していただけないのなら
    これからは弁護士を立てて裁判所で話をいたしましょう
    今日はもうお帰りください。遠いところありがとうございました
    (ひゃあ。お兄ちゃん冷静でいいね)
    ここですぐ帰らせたかったのに
    チーズケーキと紅茶があることを忘れずお召し上がりになった
    皿ごと食っちゃうような勢いで、お品がない

    全員が帰った後、ボンクラではない、もう一人のおじさんが戻ってきた
    いかにも自分は味方だよという雰囲気を醸し出していた
    ごめんね。僕は役に立たなくって
    このおじさんは父の妹おばさんの夫でママのおじさんでもある
    ちょっと頼りになるかなーと思ったが
    ママの妹のチャキチャキの江戸っ子おばさんが
    このおじさんがいい加減なやつで大嫌いと言っていた
    この優しいふりが怪しい

    お兄ちゃんはこのおじさんにありがとうございますと
    言葉を返していたけど、怪しいと思い
    それからは注意して接した

    そしてアタシとお兄ちゃんもチーズケーキと紅茶をお上品にいただき
    これからのことやママの身体が心配など少し話をしてから家に帰った

    ママが心配そうな顔でどうだった?と
    お兄ちゃんに聞いた

    予想通りだよ、オレたちを子供扱いでバカにしているから
    オレたちで話をしても無駄だから弁護士を立てて
    裁判所で話をしましょうと言って 帰ってもらったよ

    ママは弁護士、裁判所と聞いてもっと心配になったようだ

    このことがママとアタシの体にダメージを与えた
    まずアタシが重度の鬱病になった
    ママとお兄ちゃんの体の心配
    父の死や親戚との裁判沙汰、仕事の重圧、
    そして訳ありの恋模様などなど
    山ほどの原因があった

    1ヶ月で10キロ痩せ、毎日 眠れず、食事も液体だけ
    それでも 会社は休まず毎日出社した。ますます悪化してしまった
    ゾンビがボロボロの体を引きずっているように

    アタシは死ぬだろう
    お兄ちゃんは覚悟していた
    アタシも死ぬことばかり考えていた
    親戚ども全員を「必殺の仕事をする人」に頼んで 始末し、
    名義変更を片付けて
    ママとお兄ちゃんの穏やかな日常生活を見てから死んでやろうと
    力を振り絞った
    (これが鬱病を悪化させた、力なんかもう 出ないのに
    参ったと言って休まなければ 治らないのに
    アタシはカスカスの力を振り絞ってしまった)

    弁護士を立てて何回か打ち合わせをした
    (お兄ちゃんが仕切ってくれた)
    親戚もボンクラの知り合いだとかの
    弁護士を立てていた。

    弁護士は見るからに具合が悪そうな私に
    お兄さんと海でも見に行ってゆっくりしたらと言った
    (できないんだよ。ゆっくりが)
    アタシは海を見たら飛び込みます
    でも元水泳選手ですから泳げてしまうので
    途中の岩に頭を打ち付けて死にますと伝えた

    弁護士は少し慌ていた。アタシが死んでしまう前に
    案件を片付けようと思ったのか?
    ホテルでの会合から1年後の裁判所で
    一人につき150万、合計450万を支払うことで 名義変更を承諾させた
    弁護士の手数料や経費などで 総額600万円ほどのお金が出て行った
    全部お兄ちゃんが払ってくれた

    お兄ちゃんは600万円であの人たちと 縁が切れるなら安いもんだ
    これで名義変更ができる、
    名義は オレとお母さんとおまえの3分割にしようと思うけどいいかな
    (お兄ちゃんは本当にいい人だ)

    名義はお兄ちゃんだけでいいよ、家を継ぐってことは大変なことで
    お兄ちゃんにお任せして悪いけどアタシの名義にしないで
    ママはどうしたい?ママが思ったことをお兄ちゃんに言ってあげて
    ママもお兄ちゃんの名義にしてと言った

    ここでお兄ちゃんとアタシは
    久々にマジで笑った裁判所での出来事をママにした

    お兄ちゃん、450万を現金で用意するって言ってたから
    普通は100万の束が4つであと50万も束でまとめると思うでしょう
    裁判所に行くとき大きな紙袋をお兄ちゃんが
    これを持ってとアタシに渡すのよ

    中を見たら一万円札が軽い感じのクシャクシャで
    こんもりとふんわりと紙袋いっぱいに入っていたの
    お兄ちゃんこの1万円札、ピン札じゃないけどどうしたの
    大丈夫?アタシはちょっと心配になってお兄ちゃんに聞いた

    何かさ、ピン札で渡すのもシャクだから
    軽くクシャクシャにして、マットレスの下に 敷き詰めて寝てやった
    そしたら朝、いい感じにさらにクシャクシャになったというわけさ
    裁判所では今朝までお金をかき集めてきましたから
    こんな紙袋に剥き出しのお金を入れて失礼しますと言って
    あいつら親戚に見せてから、裁判所の職員に渡すつもりさ

    お兄ちゃん、さすが!面白すぎる!
    どんな反応するか、見てやるぞ。アタシは何だかワクワクした

    あいつらが紙袋の中を見て、それから職員がお金を数え出したら
    あいつら5人がギンギラギンになって、クシャクシャになった
    一万円札を職員に任せず 一緒に数え出しただろ
    指舐めながら数えているおばさんに、もう一度数え直してるおじさん
    今まではそれなりの普通の親戚付き合いをしてたし、
    あいつらの方が大金持ちなのにもらえるものは何でももらう
    オレ達からお金をもらうのは当然というあの態度
    450万はオレ達には大きなお金だけど、450万ごとき、いや金額に
    関わらずお金で品性を失いたくないと思ったよ
    お金って怖いね。取り憑かれちゃダメだね

    ママは笑いもせずにおっとりと大変だったのね
    おつかれさまとお兄ちゃんに声をかけた
    やはりママは品がいい

    裁判が終わったのに、アタシの鬱病は悪化した
    ママとお兄ちゃんの穏やかな日常が戻った
    もうこれでアタシのやることはないと
    力がスーッと抜けて空っぽになった
    お兄ちゃんとママが買い物に出かけた
    その日は天気がいいゆったりした土曜日だった
    アタシは今日、死のうと思った
    何だか安心して心がスッキリしていたから
    用意したロープをクビにかけた時
    アタシは微笑んでいる自分に良かったねと声をかけた
    死ぬってこんなに静かな気持ちになれるんだ...

    ここでつまらないドラマの嘘のようなタイミングで
    お兄ちゃんが大声で
    ”ただいまー”と帰ってきた
    ”ただいまー”と言われちゃ
    ”お帰りなさい”と返すしかなかった
    アタシはまだ死んじゃいけないのね
    鬱病だけど生きていくのね

    ママの体がどんどんおかしくなって行った
    アルバイトだったけど長年勤めた会社も退社した
    声が出にくく、話し方がスムーズにいかない
    食べ物が喉に詰まる、食べ物が鼻の方に入っていく
    重いものが持てない
    お兄ちゃんはママに寄り添い、できることは何でもしていた
    針治療や体に良い水や食べ物、軽い運動の手助け
    夜間でも定期的に訪問してくれる訪問看護ヘルパーさんの手配
    考えられること、できることはすべてしていた

    ママのすぐ下の妹のおばちゃんが心配して
    しばらくはおばちゃんの家にいて、そこから病院でしっかりと診てもらおうと言ってくれた 。その病院はママの妹(末っ子)がパーキンソン病で
    通院している脳神経内科がしっかりとした 病院だった
    お兄ちゃんもアタシもママは脳梗塞の後遺症で
    リハビリすれば 回復すると思っていたけど

    ママは筋萎縮性側索硬化症/球麻痺
    (きんいしゅくせいそくさくこうかしょう/きゅうまひ)
    と診断された
    『ALS』が通称。英語3文字で表す『ALS』では簡単すぎる難病だった

    ※「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」の意味
    英語名:amyotrophic lateral sclerosis
        (アミオトロフィック ラテラール スクレローシス)

    • AAmyotrophic):筋肉が縮むこと(筋萎縮)。一般にこの病気が「アミトロ」と呼ばれるのはここから来ています。

    • LLateral):側部を意味します。脳から下りてくる神経の束(錐体路)が、脊髄の左右の側面(側索という場所)を通ることから来ています。

    • SSclerosis):壊れたあとが硬くなって働かなくなる(硬化)という意味です。

    • (※一般社団法人日本ALS協会ホームページより引用)

    ママは口、喉からダメージを受けるALS「球麻痺」 だったから
    だんだんと喋れなくなり飲み物、食べ物が 口から取れなくなった
    ママは入院して胃に栄養となる流動物や水分を管からいれる
    胃瘻の手術をした。

    ママはお兄ちゃんのいる家に帰ってきた
    胃瘻だったけど手足はまだ動かすことが できた
    平日の昼夜はお兄ちゃんと訪問介護のヘルパーさんが介護
    金曜日夜から日曜日は私の介護で何とか家で暮らした
    アタシはママの病気を知ってから、鬱病が悪化し続けた

    なんでママの大変な時に心と体がどんよりとしているんだ。情けない
    ママを父のそばに置かないでアタシと暮らして  
    いれば病気にならなかったのでは?  
    アタシのちょっと訳ありの恋模様を話したからストレスになった?  
    この恋模様を伝えた時ママは
    ”その人はあなたのところには絶対にこない人よ、よく考えてね”
    ことさら冷静にアタシに言った

    お兄ちゃんはアタシのことまで心配した
    無理して金曜日から日曜日の夜まで帰ってこなくて いいよ
    お前の体が壊れるよ
    会社を辞めてお母さんのそばにいたいって 言ってたよな
    会社は辞めるなよ 、自分の好きな仕事だろ、続けろよ
    お前が会社を辞めてお母さんのそばにいるって 言ったら
    お母さんは喜ばないよ。お母さんの喜ばないことはするなよ
    (涙出る。お兄ちゃん、ありがとう)

    ママも私のことを心配していた
    毎週、ベッドのシーツやカバーを取り替えて
    洗濯することやママの入浴の手伝いをするぐらいしか
    できないアタシをママは心配した、体が大変でしょう
    毎週、こんなにきれいにしてくれなくてもいいのよ
    声にならないけど一生懸命に声を出そうとして伝えてくれた
    (すごいね、ママって)
    喉が麻痺して食事ができないママの前で
    アタシは食事ができなかった。食事の時間になると食べなさい
    ママが手で合図する、最初はママが食べられないのに
    目の前で食事をするのをためらった
    お兄ちゃんはいつものように食事作り
    いつものようにママに座ってもらい
    いつものように1日の出来事を話しながら食事をしていた

    ママは いつものどおりにしてほしかったことを
    お兄ちゃんはわかっていた
    アタシも石を飲み込むようだけど
    いつものようにママとお兄ちゃんに話しかけながら食事をした

    ママは美味しいものが大好きで食事時間は
    お兄ちゃんと一緒に料理したり楽しく過ごしていた
    今は口から食べることも水を飲むこともできない
    それはどんなことなのか、どんな気持ちになるのか
    ママだけが知っている.....

    ママは自分がどんな状態でも辛いしぐさを見せなかった
    子供のお兄ちゃんとアタシが心配なのね
    そしてどんな状態でもママは母親でいてくれたのね

    ママの病気ALS「球麻痺」は止まらなかった
    今度の入院でまた退院はできるのか
    アタシはお兄ちゃんとの日常生活を続けてあげたかった

    入院してすぐママとお兄ちゃんとアタシは主治医の先生に呼ばれ
    ママはあと半年ぐらいで呼吸ができなくなると伝えられた
    それはママの命の期限だった
    病室に戻ってアタシは何かママに伝えなくては
    でも言葉なんかで何を伝えられる…

    ”あと10年ぐらいは生きたかった”
    ママが声にならないけど気持ちを伝えてくれた
    アタシはその言葉を聞いて、そうだね。10年なんかじゃなくて
    アタシが先に死ぬからママに看取って欲しい
    いつまでも生きていてと言いそうになった
    お兄ちゃんはアタシが大泣きするのを察知し
    いつものように「待った」と目線で合図した

    ”お母さん、あと10年生きたいのはわかるよ
    でもごめん、これは順番だから、一番年を取っているお母さんが
    オレたちより先に 死ぬのは順番だから
    今、もし俺たちが お母さんより先に死んだらどうする ”
    (ママは激しく首を横に振った)
    ”お母さん、子供が先に死ぬのは嫌だろう。だから順番なんだよ”
    (お兄ちゃん、順番なんてひどいと思ったけど すごいことを言う)
    アタシはお兄ちゃんの言葉を聞いた後、やはり大泣きした

    ママはそれから一度も命の期限について
    話をすることはなかった
    病室でお兄ちゃんといつものように競馬の予想をし
    TV中継を観て、当たり↑ハズレ↓を楽しんでいた

    どんどん具合が悪くなってTVも観られなくなった頃
    いつもならアタシをにっこりとして迎えてくれるのに
    その日は心配そうな申し訳なさそうな顔をしてメモを差し出した
    「何があってもすぐにきてください」か細い文字が綴られていた

    ママはお兄ちゃんの消防士の仕事が大変なことを知っているので
    アタシだけに少しだけ 心細さを知らせてくれた
    アタシはママが一番大事だもん、ママのそばにすぐくるよ
    心配しないで、絶対だよ。 アタシは泣かなかった
    気の強いアタシをママに見せた

    先生や看護師さんが病室に来ると
    声も出ない、食事も水さえも飲めない、体は動かないのに
    目をキラキラさせて、にっこりと微笑んでいた
    ママの笑顔は素敵だった

    ママの微笑みを見て アタシは鬱病を受け入れようと
    心に変化が起こった
    これからのアタシはママが望むこと
    アタシができることをたくさんしたいと思った
    ママに苦しくて辛いだろうと
    そんなありきたりの言葉をかけることはもう、できない
    今、ママに起きていることはママにしか、わからない
    アタシの想像(苦しくて辛いだろう)なんか
    ママに失礼だ

    あいかわらずお兄ちゃんには、まいったなあ
    ママのことをよく見てる

    看護師さんがお母さんの体勢をかえるため
    寝返りをさせてくれるだろ
    そのとき髪が乱れてる時があるんだ
    おまえが、気がついたときに直してあげて
    オレはさすがに女の人の髪は直せないよ

    ごめんね、お兄ちゃん、気づかなくて
    アタシがママをちゃんとキレイにするよ
    それから鬱病も受け入れて生きていくよ
    ママとお兄ちゃんにできることがあれば
    なんでもしたいから言ってよね

    ああ、無理すんなよ できることから
    少しずつでいいからな
    (ははは、ドラマの熱血先生みたいなセリフっぽいよ)

    そんな夏の終わり頃
    病室の窓に絵のような空が広がった
    雲のすきまからいくすじもいくすじもの光が海にそそいでた
    ”ママ、空がきれいだよ。”
    透明なほどの体になって目を閉じているママに
    (そのとき)を告げているような光だった
    ”ママ、空がきれいだよ”
    ママは気付いているのか もっと透明になっていった。
    アタシはママの手を握って少し眠った

    それからアタシはママをキレイにすることが
    今、アタシだけができることだと思った
    ママは病院にいても美しく、きちんとしていたいと
    願っていたと思うから

    グレーヘアをつやつや整えた
    寝返りを打っても乱れないように工夫したヘアスタイル
    手や足、体全体のどこもツルツルのお肌になるよう
    バラの香りのボディローションを塗る
    顔は蒸しタオルで柔らかくして古い角質を取ってから
    もっちりしたお肌になるよう化粧水、乳液、クリームを塗る
    眉毛や生毛を取ってから薄めの上品なお化粧する
    歯磨きはできないからお口の中をガーゼで拭き取り
    歯石もとる
    手足の爪は短く整え、ヤスリで表面をツルツルにする
    パジャマもズボンだけ代えられて 上下揃っていない時は
    必ず上下を揃えて整えた

    ママは素敵なもの、センスの良いものを持っていた
    シャツからワンピース、コート、バッグ、アクセサリー、靴と
    どれ一つもとってもさりげないけど上品で可愛いものばかりだ
    (東京育ちのママは違うわ〜とアタシは感心しきりだった)

    だからごめんね。ママの具合が悪くなって
    本当に悪くなって個室に入ることになった 時
    アタシはママに一番似合うワンピースと 靴とバッグを持って行ったの
    退院するためじゃなかったの
    どんなことが あってもママはキレイでいて欲しかった
    お兄ちゃんにはできないこと、アタシにしかできないことだけど
    アタシはひどい、ママの最後の装いを準備していた

    ママが死んでしまった

    ママが旅立ちのお着替えをする時、アタシは
    花模様のジョーゼットのワンピースを看護師さんに渡した
    看護師さんは目を丸くして”素敵なワンピースですね!”と褒めてくれたの
    私は悲しいのに嬉しくなってしまい
    ”ママはおしゃれさんだったんです。いつも素敵な
    お洋服をきていましたから”
    でもアタシはひどいね、準備していて ごめんね、ごめんね、ごめんね
    ごめんね ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね ごめんね、ごめんね
    ごめんね、ごめんね 、アタシしかできないことが
    ママの最後の装いを準備することだった
    アタシは悪魔だ 悪魔だ 悪魔だ 悪魔だ 悪魔だ 悪魔だ 悪魔だ
    お兄ちゃんは静かな顔でママを見つめていた

    ママとお兄ちゃんとアタシは家に戻った
    お兄ちゃんとアタシはママのそばで旅立ちの日まで 眠った
    そしていつものように食事をして、競馬中継を観て、ママに話しかけた

    お兄ちゃんはママをキレイにして旅立って欲しいと
    ベッドに横たわっているママにお化粧を
    施してくれるスペシャリストを頼んだ
    アタシはママが知らない人に触れられるのは嫌だったが
    お化粧のスペシャリストが静かに丁寧に
    ママにお化粧をしてくれるのを見て安心した
    ママはにっこりとした微笑みを浮かべもっと美しくなった
    お兄ちゃんが消防署から帰ってきて
    ”お帰りなさい”と迎えている時のように......

    ママが旅立つための迎えの車がきた
    車に乗せられて家を離れたとき お兄ちゃんが子供のときの
    写真のように大泣きした
    お兄ちゃんが泣いたのをそれからは一度も見ていない

    白い箱に横たわっているママをお花と一緒に
    アタシとお揃いだった
    何枚もの大きなスカーフでふんわりと包んだ
    世界一素敵なスカーフを造っているフランスの会社の
    スカーフは美しく微笑んでいるママにぴったりだった

    それからママのお骨は父のお墓には納めなかった
    ママのお父さんとお母さんのお墓に納めた
    ママの妹が父と一緒のお墓に入りたくないよね
    ママと話をしたことはないけどきっとそうだよね
    気持ちがわかるからと...
    お兄ちゃんとアタシはママの妹のおばちゃんの
    心遣いがありがたかった
    お兄ちゃんはママの妹とすべての儀式をすませてくれた

    ママのアルバイト仲間にはママの旅立ちを知らせてなかった
    旅立ちの儀式が終わったタイミングで
    ママの病気を心配してくれていた仲の良かったおばさまから電話があった
    お兄ちゃんがママが亡くなったことを伝えた
    数日後、6人のバイト仲間がママにお別れをするために来てくれた
    ママは天使と薔薇で縁取られたフレームに入って
    おばさま達を迎えた

    おばさま達はママの顔を見るなり声を上げて泣いた
    ママはこの写真のようにいつもにっこりとして
    控えめだけど楽しそうに仕事をしていた
    ボーリングが上手で旅行も必ず参加して楽しんでいたことを話してくれた
    ランチは骨付きチキンをみんなで 「ケンタのフラチン」と名付けて
    買いに行き、美味しそうに食べていたそうだ
    おばさま達がはしゃいでいる、同窓会みたいだ
    アタシはママの作った小物入れのポーチをテーブルに山積みにして
    ママが病気療養中に作ったポーチです
    お好きなものをお持ちくださいと促した
    おばさま達は”素敵、かわいい” ”うわ、どれにしよう” ”迷っちゃう”
    まるで女子高校生みたいだった 。ママ良かったね、おばさま達喜んでいたよ
    おばさま達は気に入ったポーチをそれぞれ抱え
    名残惜しそうにママを見ていた
    帰るとき、ママの名前を呼んで
    ”バイバイまたね”と手を振った

    アタシもママがカギ編みで作ってくれた 118個(!)のバラのモチーフで
    つながっているカーディガンを着ていた。ママが腱鞘炎になった
    最期の大作。こんな素敵な洋服はどこにもない。いつまでも大事にするね

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    ママが死んだことは これからは言えない
    だってお兄ちゃんはママが長い旅行に行ったと思っているから

    ママが長い旅行に旅立ってから1ヶ月後の12月だった
    葉山にあるホテルのレストランで海を眺めたかった
    お兄ちゃんと車で出かけた 

    ”何だかデートみたいだね”
    ”そうだな、兄妹なのにデートしてるカップルと思われるだろうな”
    ”嫌そうじゃん。大丈夫。外では名前で呼ぶからさ”
    ”名前で呼ぶにしても、さあーんって 変なトーンで呼ぶな。普通にしろよ” ”うるさいなあ。じゃあ。お兄ちゃああーんって 呼ぶよ”
    ”お兄ちゃんはやめろ。恋人がいない兄妹がデートしてるって思われるのも
     嫌だ。お兄ちゃんだけはやめろ”
    ”はい。はい。恋人がいない悲しい兄妹ってばれるのはいやだよね〜

    海が右にみえるゆるやかなカーブが過ぎると
    ホテルへの入り口が見えるはずだ

    ”お兄ちゃん、ママとよく海に来てたよね、シラスとか買ってきたよね”
    ”うん。クーラーボックス積んでさ、生きのいいままで持って帰ったよ”
    ”ママ、喜んでたね”
    ”喜んでたかどうかわかんないけど、ほらそう話すこともないから‥
    オレが砂浜でトレーニングで走ると、お母さんは貝を 拾ったり
    ふらふら散歩してたけどね。 脳梗塞のリハビリになるかと思ってさ
    連れてきたんだ。その帰りにシラスや魚を買って帰ってきたわけ
    晩めしのおかずになるしね”

    その時、空には雲のすきまからいくすじもいくすじもの
    光が海にそそいでいた
    ”お兄ちゃん、ほらきれいだよ”
    それはママの病室でみた空と同じだった
    お兄ちゃんには病室で見たことを伝えられなかった
    光のすじがきれいであってもお兄ちゃんの大好きなママが
    いないことは変わらないから

    その光のすじは天使の梯子というらしい
    ママはたどったのだろうか
    梯子を軽やかに 足を運んでいたのだろうか

    葉山のホテルに着いた。お兄ちゃんは大好きな葉山牛のランチを
    食べながら、ママと海岸にきた話の続きをしてくれた
    ”お母さんを海岸にほっぽっといて、オレはランニングしてた
     お母さんは付き合わされてヒマだったろうな”
    ”ママは嬉しかったと思うよ、ママはお兄ちゃんが大好きだもんね”
    ”ところでさ、おまえ1度もナイフとフォークを置いてないぞ”
    ”たまに置いてから、話をしたら”
    ”ソースが口の端についている”
    お兄ちゃんは食事のマナーに厳しい
    お兄ちゃんはナイフとフォークをさりげなく使い
    肉をキレイに切りソースを残さずつけている
    お兄ちゃんとの食事はほどよい緊張感があって、楽しいよ
    恋人がいない悲しい兄妹だけどママの話を
    したいから、また一緒に出かけよう

    帰りの車の中で 、子供のように泣きたくなった
    お兄ちゃんは42歳、あたしは1つ下
    いつの間にか、だいぶ大人になっていたけど
    ママがいない、ママがいない、ママがいないよ!
    二人だけになってママがいないお兄ちゃんとアタシ
    これから二人ぼっちで どうしたらいいの......

    それから二人ぼっちのお兄ちゃんとアタシに
    ちょこちょこと事件が起こった

    お兄ちゃんが古かった実家のお墓を立派に改装した
    父が入っている実家のお墓だ
    アタシは実家のお墓なんて何も気にしてなかったけど
    お兄ちゃんは墓石から敷地の囲いから何から何まで
    美しいお墓にしてくれた

    その新しくなったお墓に裁判沙汰になって
    縁を切ったつもりだった親戚一同が卒塔婆を立てていた
    お兄ちゃんはどうしたものかと1週間考えてアタシに電話した
    お兄ちゃんはオレに一言、供養したいから 卒塔婆を立てると言ってくれれば 縁は切ったといえ承諾したのに 一言の断りもなく
    供養されるのはやはり嫌だ。納得できない 
    (お兄ちゃんはあいかわらずいい人だ)

    アタシは絶対許せないから卒塔婆を引っこ抜いて
    送り返してやろうといい、キレイに包み
    宅配便で手紙も添えて送った
    わたくしどものお墓に家長(お兄ちゃんのこと)に
    断りもなく供養されることは承諾できません
    今後は承諾なく供養はしないでください

    なぜ、送り返したのかお兄ちゃんの考えを伝えるため
    手紙を添えた。理解はできないだろうけどね

    宅配便を送り返した直後、お兄ちゃんが いいのかなあ
    送り返すのもひどいことだよな とポツリと言った
    アタシはアタシが悪魔であることを
    またまた 思い知らされたような気がしてお兄ちゃんに絡んだ
    お兄ちゃんはどうしたかったのよ! アタシがやったことが悪いなら
    お兄ちゃんが やりたいようにやればよかったじゃん
    何もしないで1週間も悩んでから
    アタシに どうしようかって相談するな!
    アタシは悪魔だよ、アタシは悪魔だよ、確かに悪魔だよ

    お兄ちゃんは泣きながら怒ったアタシの頭を
    ポンポンしてごめん、おまえがひどいわけじゃないよ
    あいつらが一言オレに言ってくれれば
    こんな面倒なことしなくてもいいのにと思っただけだよ
    (頭をポンポンされて機嫌が良くなったアタシ)

    ママが旅立って10年後にアタシはママに話していた
    恋模様を終わりにした
    さすがにママが”この子はいつまでも何やっているの”
    と気づかせてくれたのか、恋模様は終わった

    60歳になったお兄ちゃんは実家を売ってマンションに移ることにした
    1軒屋は一人ではメンテナンスが大変だった
    家は時間がかからず売却できることになり、ほっとしたのも束の間
    不動産会社から土地の一部の名義がまだおばあちゃんのままで
    このままでは売却ができないと連絡が入った

    お兄ちゃんとアタシはさすがに力が抜けた
    20年前の親戚との裁判沙汰が蘇った
    また直接、親戚と話をしてストレスになることだけは避けたかった
    名義変更の依頼からすべての手続きを弁護士に任せ
    何とか名義変更が終わった

    縁を切って、もう一生会うこともないと思った親戚に
    20年も経ってからまた関わることになった
    人生は本当に何が起こるかわからない
    アタシとお兄ちゃんはつくづく思い知らされた

    お兄ちゃんは新しい住まいをすぐに決めて
    実家の売却の手続きも引越しも淡々と済ませた
    新しい住まいのそばには大きな公園があり、
    横浜駅までバスですぐに行けるマンションだ
    横浜生まれのアタシは横浜駅が近いことがうれしかった
    ママが旅立ちから帰ってきたら毎日、横浜でランチしよう
    ママの大好きなピザを食べたいね

    あれ、いつの間にかお兄ちゃんは69歳になっていた
    アタシは67歳でパーキンソン病と鬱病の治療中だ
    難病のパーキンソン病と診断されてから7年がすぎた

    完治しない難病でもできることは何でもしようと
    60歳からスポーツジムに通いヨガやピラティス
    マシーンで体を鍛えている
    手や脳が衰えないためにネックレス、ブローチなどの
    アクセサリーづくりを見よう見まねで始めた
    これが天才的な出来栄えでイケてる。アタシは「やればできる子」
    だったと自画自賛している
    美しいものを作るママのセンスを受け継いでいるということか

    パーキンソン病にならなかったらスポーツジムもアクセサリーづくりも
    興味がなかったと思う
    病気になっても新しく始められること、できることはあるのね
    でもこれは強がりだ

    病気にはなりたくなかった....

    アタシはパーキンソン病になってジタバタしている
    ママのようににっこり微笑むことはできない
    お兄ちゃんにもう死ぬかもと飽きるほど伝える
    お兄ちゃんは死ぬ、死ぬと言って 死んだ奴は見たことがない
    順番に死ぬから まずオレから死ぬよ、心配するな
    お前が先に死ぬとオレは困る、何もできないからね

    お兄ちゃん、ママにも言っていた、順番に死ぬって
    この順番は変えてほしいな
    アタシはお兄ちゃんがそばにいるところで、静かに逝きたい

    体がじわじわ動かなくなる夜にアタシは眠れない
    ママがALS「球麻痺」のとき、夜はどんな気持ちだったのか
    誰にも言わなかった。ママにしか、わからない
    ママのそばでもっと一緒に眠りたかった

    怖がりでジタバタしているアタシは
    67歳でも子供のままだった 
    お兄ちゃんは子供の時も今も変わらない
    まなざしでアタシを見ている

    まだ人生は続く。何が起こるかわからない
    とにかく、面白がって楽しむしかない          
    終わりもわからない、未来へ続く

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