
【推薦辞退届】 | 創作大賞 ミステリー部門応募作品
<あらすじ>
10年前、青陵工業大学の学生だった久瀬航平は、田村製作所への推薦を突然失った。
理由は「推薦できない」という恩師・黒川の一言だけ。
時は流れ、大学創立80周年の記念誌で、同期の真鍋がその推薦を人生の転機として語っているのを知る。
黒川に呼び出され大学を訪れた久瀬は、資料室で「推薦辞退届」と失踪した黒川の痕跡を見つける。
署名は本物。だが、その意思は本当に久瀬のものだったのか。
書類に作られた人生をめぐる、社会派ミステリー。
第1章 記念誌
久瀬航平は、午前中、若手が引いた図面を見ていた。
寸法は合っている。
だが、そのまま加工に回せば、現場は少し嫌がる。
久瀬は赤鉛筆を手に取り、図面の端に小さく書き込んだ。
0.05広げる。
たったそれだけの数字だった。
けれど、その0.05で、刃物の入り方が変わる。
検査の通り方が変わる。
現場の作業者が、図面を見たときの顔も変わる。
図面の数字は、正しければいいわけではない。
現場で嫌われない数字にしなければならない。
久瀬は、そういう仕事を10年続けてきた。
地方の中堅機械メーカー。
古い加工機。
油の匂いが残る工場。
昼休みになると、休憩室のテレビから地元のニュースが流れる。
田村製作所ではない。
その事実を、久瀬は普段、ほとんど意識しない。
意識しないようにしている、という方が正しいのかもしれない。
若手の設計担当が、久瀬の机の横に立った。
「久瀬さん、ここ、やっぱり厳しいですか」
「厳しいというより、現場が嫌がる」
「嫌がる、ですか」
「数字は合ってる。でも、加工する人間が嫌がる数字ってあるんだよ」
若手は、わかったような、わからないような顔をした。
久瀬は図面を返した。
「加工担当に確認して。0.05広げられるなら、その方がいい」
「はい」
若手が戻っていく。
その背中を見ながら、久瀬は椅子にもたれた。
32歳。
大学を出てから10年。
久瀬は、この会社で設計をしている。
悪い仕事ではない。
むしろ、嫌いではなかった。
現場と話しながら図面を直すこと。
若手に、数字の意味を教えること。
加工機の音を聞きながら、部品が形になるのを見ること。
そういう時間は、確かに久瀬のものだった。
それでも、ときどき思う。
自分は、ここに来るはずだったのか。
その問いを、久瀬はいつも途中で止める。
考えても仕方がない。
10年前に、もう終わったことだ。
昼休みの少し前、会社のメールボックスに1通のメールが届いた。
件名は、
青陵工業大学 創立80周年記念誌 公開のお知らせ
だった。
久瀬は、しばらく画面を見ていた。
青陵工業大学。
その名前を見るのは久しぶりだった。
母校からの一斉送信だろう。
卒業生向けに、創立80周年記念誌の公開を知らせるものだった。
メール本文には、記念誌のURLが載っている。
久瀬は、すぐには開かなかった。
別に、見る必要はない。
そう思いながら、マウスの矢印は、リンクの上で止まっていた。
結局、久瀬はクリックした。
ブラウザが開き、青陵工業大学の校章が表示された。
創立80周年記念誌。
懐かしい校舎の写真。
新しく建て替えられた研究棟。
学長の挨拶。
卒業生からのメッセージ。
久瀬は、何気なくページを送った。
すると、ある見出しで手が止まった。
社会で活躍する卒業生たち
その中に、見覚えのある名前があった。
真鍋智成。
田村製作所 人事企画部門。
久瀬は、画面に顔を近づけた。
写真の中の真鍋は、スーツ姿で笑っていた。
学生時代より少し顔つきが丸くなっている。
だが、目元は変わっていなかった。
隣に、インタビュー本文がある。
久瀬は、その一文で止まった。
大学から推薦していただいたことが、私の人生の転機でした。
胸の奥で、何かが音を立てた気がした。
田村製作所。
久瀬は、その社名を10年間、なるべく遠くに置いてきた。
知らない会社ではない。
忘れた会社でもない。
忘れようとした会社だった。
10年前、久瀬は青陵工業大学機械工学科にいた。
黒川修一のゼミに所属していた。
成績は悪くなかった。
研究も、好きだった。
機械が好きで、工場が好きで、図面が好きだった。
田村製作所は、当時の久瀬にとって、ほとんど夢のような場所だった。
大手メーカー。
精密な設備。
現場と設計が近い工場。
大学推薦の枠は、ひとつだけ。
周囲は、久瀬が推薦されると思っていた。
久瀬自身も、そう思っていた。
思っていたというより、信じていた。
あの日の工場見学を、久瀬は今でも覚えている。
白いヘルメット。
油の匂い。
床を伝う振動。
整然と並んだ工作機械。
図面の線が、金属の部品に変わっていく場所。
黒川は、その工場の中で久瀬に言った。
「君は、こういう場所で生きる人間だ」
その言葉を聞いたとき、久瀬は、本当にそうなのだと思った。
自分は、こういう場所で生きる。
設計室と現場の間を行き来しながら、図面の数字を部品に変えていく。
そういう人間になる。
しかし、その後、田村製作所へ推薦されたのは、久瀬ではなかった。
真鍋智成だった。
久瀬は、黒川に理由を尋ねた。
研究室の前の廊下だった。
夕方で、窓の外は暗くなりかけていた。
廊下の蛍光灯が、少し青白く光っていた。
黒川は、久瀬の顔をまっすぐ見なかった。
ただ、低い声で言った。
「君は、推薦できない」
それだけだった。
久瀬は、その言葉を10年間持っていた。
君は、推薦できない。
何が足りなかったのか。
成績か。
研究か。
面接か。
人柄か。
黒川の評価か。
聞いても、黒川はそれ以上答えなかった。
久瀬も、やがて聞くのをやめた。
推薦されなかった。
ただそれだけが残った。
そして真鍋は、田村製作所へ行った。
久瀬は別の会社に入った。
悪い会社ではなかった。
自分なりに仕事も覚えた。
後輩もできた。
現場から名前を覚えられるようにもなった。
それでも、記念誌の画面にある一文は、久瀬の中で静かに刺さっていた。
大学から推薦していただいたことが、私の人生の転機でした。
転機。
真鍋にとっては、そうだったのだろう。
久瀬にとっても、そうだった。
ただし、逆の意味で。
久瀬はブラウザを閉じようとした。
そのとき、別のメールが届いた。
差出人を見て、久瀬の手が止まった。
黒川修一。
10年ぶりの名前だった。
件名は短かった。
10年前の推薦の件
久瀬は、しばらく開けなかった。
画面の右下に、メール通知だけが残っている。
黒川修一。
10年前の推薦の件。
その2つの言葉だけで、胸の奥が重くなる。
久瀬は、ゆっくりメールを開いた。
本文は短かった。
久瀬君
突然の連絡を許してほしい。
10年前の推薦の件で、君に話しておきたいことがある。
創立記念式典の日、大学に来られないか。
黒川修一
久瀬は、何度も読み返した。
話しておきたいこと。
10年前に言わなかったこと。
10年間、久瀬が聞けなかったこと。
いまさら聞いて、何が変わるのか。
そう思った。
何も変わらない。
田村製作所で働かなかった10年は戻らない。
真鍋が歩いてきた10年も消えない。
久瀬が今の会社で積んできた10年も、別のものにはならない。
それでも、久瀬は返信欄を開いた。
指が止まる。
行きます。
その3文字を打つだけなのに、思ったより時間がかかった。
久瀬は、送信ボタンを押した。
画面には、すぐに送信済みの表示が出た。
久瀬は椅子にもたれ、天井を見上げた。
工場の方から、機械の低い音が聞こえている。
10年前に終わったはずのことが、まだ終わっていない。
そのことを、久瀬はこのとき初めて認めた。
第2章 資料室
創立記念式典の日、青陵工業大学の正門には、白い案内板が立っていた。
青陵工業大学 創立80周年記念式典
その文字の下に、講堂への矢印が出ている。
久瀬航平は、正門の前で一度足を止めた。
10年ぶりだった。
校舎の配置は、大きくは変わっていない。
けれど、ところどころ新しくなっている。
正門脇の守衛室は改修されていた。
古かった掲示板は、液晶の案内板に変わっている。
学生たちは、久瀬がいた頃より少し静かに見えた。
知らない大学のようで、知っている大学でもあった。
講堂の方からは、人の声が聞こえてくる。
式典の受付が始まっているのだろう。
スーツ姿の卒業生。
名札を下げた職員。
来賓らしい年配の男たち。
久瀬は、その流れには入らなかった。
黒川修一からのメールには、講堂ではなく、旧4号館の資料室へ来てほしいと書かれていた。
久瀬は構内の奥へ向かった。
新しい研究棟の横を過ぎると、急に人が少なくなる。
記念式典のために整えられた通路から外れるにつれ、大学は少しずつ古い顔を見せ始めた。
旧4号館は、まだ残っていた。
外壁はくすみ、窓枠の塗装はところどころ剥がれている。
入口の横には、古い金属製のプレートがあった。
機械工学科 旧4号館
久瀬は、その文字を見た。
ここで何度も徹夜した。
実験で失敗して、黒川に叱られた。
廊下の端の自動販売機で、ぬるい缶コーヒーを買った。
10年前の記憶は、思っていたより簡単に戻ってきた。
久瀬は建物に入った。
床材の匂いが変わっていない。
古いワックスと、湿気と、紙の匂い。
大学の古い建物には、どこも似た匂いがある。
廊下の蛍光灯は、昼間なのに薄く光っていた。
壁には、過去の研究発表のポスターが何枚か残っている。
端が少し反り、テープの跡が黄ばんでいた。
黒川のメールには、こうあった。
旧4号館 2階 資料室
久瀬は階段を上がった。
2階の廊下は、講堂の周辺とは別の大学のように静かだった。
足音が、思ったより大きく響く。
資料室の扉は、廊下の奥にあった。
古い木製の扉。
小さなガラス窓。
その下に、資料室、と書かれたプレート。
久瀬は扉の前で止まった。
中から声はしない。
ノックをした。
返事はなかった。
「黒川先生」
久瀬は声をかけた。
やはり、返事はない。
少し迷ってから、取っ手に手をかけた。
鍵はかかっていなかった。
扉を開けると、古い紙の匂いが強くなった。
資料室は、思っていたより狭かった。
壁際にスチール棚が並んでいる。
古いファイル。
研究室の年度別資料。
卒業生名簿。
段ボール箱。
中央には、長机が1つ置かれていた。
その机の上に、黒川の鞄があった。
久瀬は、足を止めた。
黒い革の鞄。
黒川が昔から使っていたものに似ている。
机の上には、財布もあった。
眼鏡も置かれている。
久瀬は、ゆっくり近づいた。
財布。
眼鏡。
鞄。
どれも、黒川がどこかへ遠く行くなら置いていかないものに見えた。
しかし、黒川本人はいない。
久瀬は部屋の中を見回した。
窓は閉まっている。
棚の間にも、人はいない。
床に倒れているわけでもない。
ただ、黒川だけがいなかった。
机の椅子は、少し後ろへ引かれている。
誰かが立ち上がった直後のようだった。
久瀬は、黒川のコートを探した。
ない。
鞄も、財布も、眼鏡もある。
だが、コートは見当たらなかった。
久瀬の胸の奥に、嫌な重さが沈んだ。
黒川は、どこへ行ったのか。
机の上には、数枚の紙が置かれていた。
久瀬は、そのうちの1枚に目を止めた。
手紙だった。
黒川の字だった。
久瀬は、紙を手に取った。
久瀬君。
私は君に、10年前、本当のことを言わなかった。
あの推薦の件について、私には責任がある。
直接会って、君に謝らなければならない。
文章はそこで終わっていた。
いや、終わっていたのではない。
紙の下半分がなかった。
破れている。
きれいに切られたのではない。
途中で裂かれたように、紙の繊維が毛羽立っている。
久瀬は、手紙の破れ目を見つめた。
10年前、本当のことを言わなかった。
あの推薦の件について、私には責任がある。
直接会って、君に謝らなければならない。
久瀬は、息を止めていたことに気づいた。
黒川は、何を言おうとしていたのか。
何を、10年前に言わなかったのか。
机の上には、茶封筒が置かれていた。
表には、黒川の字でこう書かれている。
久瀬航平
田村製作所推薦関係
久瀬は、封筒を見たまま動けなかった。
田村製作所。
その文字だけで、胸の奥がざわつく。
封筒の口は開いていた。
久瀬は、中の書類を取り出した。
最初に出てきたのは、推薦状の控えだった。
青陵工業大学の書式。
宛先は田村製作所。
推薦対象者は、久瀬航平。
久瀬は、目を疑った。
推薦対象者。
久瀬航平。
書類の下には、黒川修一の署名がある。
本文に、こう書かれていた。
久瀬君は、私がこれまで見てきた学生の中で、もっとも推薦に値する人物である。
久瀬は、何度も読み返した。
もっとも推薦に値する人物。
黒川の字ではない。
大学の正式な書式に印字された文章だった。
だが、黒川が書いた推薦状の控えであることは、署名と日付でわかった。
久瀬は、書類を持つ手に力が入るのを感じた。
10年前、黒川は言った。
君は、推薦できない。
でも、ここには別の言葉がある。
もっとも推薦に値する人物である。
どちらが本当なのか。
いや、どちらも黒川の言葉なのだ。
それが、久瀬にはわからなかった。
封筒の中には、ほかにも古い書類が数枚入っていた。
だが、どれも完全には揃っていない。
コピーの一部。
控えの断片。
黒川が何かを集めようとしていた痕跡のように見えた。
久瀬は、封筒を机に置こうとして、裏面に何か書かれていることに気づいた。
小さな数字だった。
4-17-3
黒川の字だった。
久瀬は、その数字を見つめた。
4-17-3。
整理番号だろうか。
棚の番号か。
資料箱の場所か。
久瀬は、資料室の棚を見回した。
棚には、年度別のラベルが貼られている。
2014年度。
2015年度。
就職関係。
研究費関係。
学科会議資料。
しかし、4-17-3という棚番号は見当たらない。
ファイルの背表紙にも、似た番号はなかった。
久瀬は封筒の裏をもう一度見た。
4-17-3。
黒川は、なぜこの数字を残したのか。
久瀬は、資料室の中で立ち尽くした。
鞄がある。
財布がある。
眼鏡がある。
半分だけの手紙がある。
推薦状の控えがある。
意味のわからない数字がある。
そして、黒川はいない。
久瀬は、もう一度部屋の中を見回した。
どこかに隠れているような気配はない。
窓の外では、遠くの講堂へ向かう人の声がかすかに聞こえる。
大学は、創立80周年を祝う準備を続けている。
この部屋だけが、そこから切り離されていた。
久瀬は、手紙と推薦状を机の上に並べた。
10年前、本当のことを言わなかった。
もっとも推薦に値する人物である。
その2つの文の間に、久瀬の知らない10年が横たわっている気がした。
ポケットの中で、スマホが震えた。
式典受付からの一斉案内だった。
開始時刻が近づいていることを知らせる通知。
久瀬は画面を見ずに、震えが止まるのを待った。
黒川はどこへ行ったのか。
なぜ、鞄も財布も眼鏡も置いたままなのか。
なぜ、推薦状の控えをここに残したのか。
なぜ、手紙の下半分は破れているのか。
そして。
なぜ、10年前、黒川は久瀬に言ったのか。
君は、推薦できない。
久瀬は、資料室の扉の方を見た。
廊下の向こうから、人の気配はしない。
黒川だけが、いなかった。
第3章 川沿いのコート
翌朝、大学から電話があった。
久瀬航平は、会社へ向かう支度をしているところだった。
スマホの画面には、見慣れない番号が表示されている。
出るかどうか、一瞬迷った。
昨日の資料室のことが、まだ頭から離れていなかった。
黒川修一の鞄。
財布。
眼鏡。
半分だけの手紙。
推薦状の控え。
4-17-3。
そして、黒川本人の不在。
久瀬は電話に出た。
「久瀬様のお電話でよろしいでしょうか。青陵工業大学、事務局の者です」
硬い声だった。
「はい」
「黒川修一教授の件で、ご確認したいことがございます」
久瀬は、玄関先で動きを止めた。
「黒川先生が、見つかったんですか」
電話の向こうで、少し間があった。
「ご本人は、まだ確認できておりません」
その言い方が、嫌だった。
本人は、まだ。
まるで、本人以外の何かが見つかったような言い方だった。
「ただ、黒川教授のものと思われるコートが、大学裏手の川沿いで発見されました」
久瀬は、何も言えなかった。
昨日、資料室にあったものを思い出す。
鞄。
財布。
眼鏡。
そして、見当たらなかったコート。
「川沿い、ですか」
「はい。大学裏手の小川の遊歩道です。巡回中の職員が発見しました」
小川。
久瀬は、学生時代の記憶を探った。
旧4号館の裏を抜けると、細い川がある。
川といっても、水量は多くない。
雨が降ると濁り、晴れると底の石が見えるような小川だった。
その横に、遊歩道がある。
学生時代、久瀬はほとんど通らなかった。
「それで、先生は」
「現在、確認中です」
また、その言葉だった。
確認中。
何も言っていないようで、何かを隠しているようにも聞こえる。
「久瀬様には、昨日、資料室で黒川教授とお会いする予定だったとうかがっております。可能であれば、本日、大学へお越しいただけますでしょうか」
久瀬は、靴を履いたまま、玄関に立っていた。
会社へ行くはずだった。
午前中には、若手が加工担当に0.05の件を確認してくる。
その返事を見て、図面を戻す予定だった。
けれど、もうそのまま出社する気にはなれなかった。
「行きます」
久瀬は言った。
電話を切ったあと、会社に連絡を入れた。
体調不良ではない。
私用で午前休にするとだけ伝えた。
理由を詳しく言う気にはなれなかった。
青陵工業大学に着くと、昨日よりも構内は慌ただしかった。
式典は終わっていたが、まだ片付けが続いている。
講堂前では、職員が看板を外し、白いテントの脚を畳んでいた。
記念誌の余りが入った段ボール箱が、台車で運ばれていく。
祝典の残り香がある。
けれど、その明るさは、久瀬には遠かった。
大学の受付で名前を告げると、若い職員がすぐに奥へ連絡を入れた。
少しして、別の職員が現れた。
「久瀬様ですね。こちらへお願いします」
案内されたのは、昨日の資料室ではなく、事務棟の小さな応接室だった。
そこには、見知らぬ男がいた。
紺のスーツ。
きれいに整えられた髪。
柔らかいが、感情の読めない目。
男は立ち上がった。
「久瀬航平様ですね。キャリア支援部門の宮代仁と申します」
久瀬は名刺を受け取った。
宮代仁。
キャリア支援部門責任者。
その肩書きを見たとき、久瀬の中で、小さく何かが引っかかった。
就職課。
10年前の推薦。
田村製作所。
黒川の手紙。
それらと同じ場所に、この男はいる。
宮代は穏やかに言った。
「昨日は、黒川先生とお会いになる予定だったとうかがっております」
「はい」
「その際、先生はいらっしゃらなかった」
「資料室には、先生の鞄と財布と眼鏡がありました」
「はい。こちらでも確認しております」
宮代は、机の上の資料を整えた。
その動きは丁寧だった。
紙の端をそろえるだけなのに、無駄がない。
「黒川先生のコートが、今朝、大学裏手の川沿いで発見されました」
久瀬は、すでに電話で聞いていたはずなのに、改めて言われると胸が重くなった。
「先生は」
「現在、所在確認を続けています」
宮代は、死んだとも、生きているとも言わなかった。
ただ、所在確認。
その言葉の中に、大学としての距離があった。
「コートのポケットから、紙片が見つかりました」
宮代は、封筒からコピーを取り出した。
「原本は保全しています。こちらは確認用の写しです」
久瀬は、その紙を見た。
短い文だった。
この責任は私にある。私はもう戻れない。
黒川の字に見えた。
久瀬は、喉の奥が乾くのを感じた。
昨日の手紙が頭に浮かぶ。
私は君に、10年前、本当のことを言わなかった。
あの推薦の件について、私には責任がある。
直接会って、君に謝らなければならない。
責任。
私にある。
その言葉が、今度は別の形で目の前にあった。
「これは、先生が書いたものなんですか」
久瀬は聞いた。
宮代は、すぐには答えなかった。
「筆跡としては、黒川先生のものと見てよいのではないかと、関係者は話しています。ただし、正式な確認はこれからです」
慎重な言い方だった。
けれど、慎重な言い方ほど、方向だけは定めているように聞こえた。
黒川が責任を感じていた。
黒川はもう戻れないと書いた。
黒川のコートは川沿いにあった。
それらが、少しずつひとつの物語になっていく。
久瀬は、その物語に引き込まれそうになるのを感じた。
黒川は、10年前のことで責任を感じていた。
久瀬に謝ろうとした。
けれど、謝る前に姿を消した。
そう考えるのが、一番簡単だった。
簡単すぎた。
宮代は、久瀬の表情を見ていた。
「久瀬様にお聞きしたいのですが、黒川先生から、昨日の面談について、どのような説明を受けていましたか」
「10年前の推薦の件で、話しておきたいことがある、と」
「推薦の件、ですか」
宮代は繰り返した。
「はい」
「田村製作所への推薦のことでしょうか」
久瀬は、宮代の顔を見た。
「先生のメールには、そこまでは書かれていません。ただ、僕にはそういう意味だと思えました」
宮代はうなずいた。
「なるほど」
その言い方が、妙に落ち着いていた。
宮代は、机の上の資料をもう一度整えた。
「大学推薦というものは、学生の人生に大きく関わる制度です」
久瀬は黙っていた。
「だからこそ、大学としては、手続きと本人の意思を非常に重く見ます」
宮代は、そこで一度言葉を切った。
「大学推薦で最も大切なのは、本人の意思です」
その言葉は、静かだった。
責める響きもない。
説明の中に置かれた、当たり前の原則のようだった。
宮代は、そう言ってから、机の上の資料を整えた。
まるで、その言葉が確認済みの手続きであるかのようだった。
久瀬は、その言葉を聞きながら、なぜか居心地の悪さを覚えた。
本人の意思。
10年前、自分の意思はどこにあったのか。
田村製作所へ行きたいと思っていた。
工場見学でそう思った。
黒川にも、そう言われた。
しかし、推薦されたのは真鍋だった。
黒川は、君は推薦できない、と言った。
あのときの自分の意思は、どこで止まったのか。
宮代は、淡々と続けた。
「昨日、資料室でご覧になったものについて、確認させてください」
久瀬は、昨日見た手紙と推薦状のことを話した。
半分だけの手紙。
田村製作所推薦関係と書かれた封筒。
久瀬を推薦対象者とする推薦状の控え。
4-17-3という数字。
宮代は、メモを取りながら聞いていた。
「推薦状の控えをご覧になったのですね」
「はい」
「内容は覚えていますか」
久瀬は、口の中で少し迷った。
それでも言った。
「久瀬君は、私がこれまで見てきた学生の中で、もっとも推薦に値する人物である、と書かれていました」
宮代の手が、ほんの少し止まった。
だが、すぐにまた動いた。
「なるほど」
それだけだった。
久瀬は、宮代の反応を見ていた。
驚いたのか。
知っていたのか。
ただ、事務的に受け止めただけなのか。
わからなかった。
そのとき、応接室の扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、若い女性職員だった。
白いブラウスに、紺のカーディガン。
手には薄いファイルを抱えている。
宮代が顔を上げた。
「水野さん」
「すみません。確認中の資料について、少し」
水野と呼ばれた職員は、久瀬を見てから、宮代に視線を戻した。
「後ほどで構いませんか」
宮代は、一瞬だけ考えたように見えた。
「今は久瀬様からお話をうかがっています。あとにしてください」
「はい」
水野は頭を下げた。
だが、出ていく前に、久瀬の方をもう一度見た。
その視線は、ただの職員の挨拶には見えなかった。
何かを言いたがっている。
そんな目だった。
扉が閉まった。
宮代は、何事もなかったように話を続けた。
「黒川先生の所在については、大学としても確認を続けます」
「警察には」
久瀬は聞いた。
宮代は、少しだけ表情を硬くした。
「必要な連絡は行っています。ただ、現時点では大学内で確認すべき事項も多くあります」
現時点。
確認すべき事項。
宮代の言葉は、どれも間違っていない。
間違っていないからこそ、久瀬には少しずつ息苦しく感じられた。
しばらくして、聞き取りは終わった。
宮代は立ち上がった。
「ご協力ありがとうございました。何か新しいことがわかり次第、ご連絡いたします」
久瀬も立ち上がった。
応接室を出ると、廊下は静かだった。
式典翌日の片付けの音が、遠くから聞こえる。
段ボールを運ぶ音。
誰かが笑う声。
コピー機の低い音。
久瀬は、そのまま帰る気になれなかった。
旧4号館へ戻ろうかと思った。
しかし、昨日の資料室は、もう大学側が確認しているはずだった。
勝手に入れるとは思えない。
廊下の角を曲がったところで、声がした。
「久瀬さん」
振り向くと、さきほどの若い女性職員が立っていた。
水野葉月。
胸元の名札に、そう書かれている。
水野は周囲を見てから、少し声を落とした。
「突然すみません」
「何でしょうか」
水野は、手に持っていたファイルを胸の前で押さえた。
「昨日の資料室で見つかった書類について、確認していることがあります」
「推薦状のことですか」
水野は、すぐには答えなかった。
廊下の向こうを、職員が1人通り過ぎる。
水野は、その背中が見えなくなるのを待った。
それから言った。
「見ていただきたい書類があります」
久瀬は、水野を見た。
「僕に、ですか」
「はい」
水野の表情は硬かった。
「久瀬さんご本人でなければ、確認できないと思います」
久瀬は、宮代の言葉を思い出した。
大学推薦で最も大切なのは、本人の意思です。
その言葉が、まだ耳の奥に残っている。
久瀬は、水野にうなずいた。
「見せてください」
第4章 署名は本物
水野葉月に案内されたのは、事務棟の奥にある小さな資料整理室だった。
応接室よりも狭い。
壁際にはスチール棚が並び、年度別の保存箱が積まれている。
机の上には、古い書類を読み込むためのスキャナーが置かれていた。
水野は扉を閉めると、声を落とした。
「こちらです」
机の上のノートパソコンには、古い書類のスキャン画像が表示されていた。
画面には、青陵工業大学の書式が映っている。
上部に、書類名があった。
推薦辞退届
久瀬は、その文字を見たまま動かなかった。
「推薦、辞退届」
声に出すと、自分の声ではないように聞こえた。
水野はうなずいた。
「10年前の田村製作所推薦に関する書類です」
「僕の、ですか」
「はい」
水野は、画面を少し拡大した。
学生氏名。
学科。
希望企業名。
辞退理由。
そこに、久瀬航平の名前があった。
学科は、機械工学科。
企業名は、田村製作所。
理由欄には、短くこう書かれている。
一身上の都合により、推薦を辞退いたします。
久瀬は、画面を見つめた。
文字は事務的だった。
感情のない、どこにでもあるような文面だった。
だが、その一文が、10年分の重さを持ってそこにあった。
推薦を辞退いたします。
「僕は」
久瀬は言った。
「僕は、こんな書類を出していません」
水野は、すぐには答えなかった。
画面の下部を指した。
「ここを見てください」
久瀬は、言われたところを見た。
本人署名欄。
そこには、久瀬航平、と書かれていた。
久瀬の字だった。
少なくとも、そう見えた。
最後の「平」の横棒が、少しだけ右上がりになる癖。
「瀬」のさんずいが詰まる癖。
学生時代の自分の字と、よく似ている。
その横に、認印が押されていた。
久瀬、という印影。
久瀬は、画面に近づいた。
印影の右下が、少しかすれている。
学生時代に使っていた安い認印は、たしかにそういう欠け方をしていた。
「これは」
喉が詰まった。
「僕の字に見えます」
水野は静かに言った。
「はい」
「印鑑も、僕のものに見えます」
「はい」
「でも、出していません」
久瀬は、水野の方を見た。
「水野さん。僕は、田村製作所の推薦を辞退していません」
水野は、その言葉を聞いてから、ゆっくりうなずいた。
「そこを確認したかったんです」
「確認?」
「正式な確認手順はこれからです。ただ、まず久瀬さんご本人の記憶を確認したかったんです」
水野は、画面の右上を指した。
受付日。
6月17日。
受付時刻。
14:12。
受付担当。
宮代仁。
久瀬は、その3つを見た。
6月17日。
14:12。
宮代仁。
その時点では、まだ意味がつながらなかった。
ただ、宮代の名前だけが、妙に生々しかった。
ついさっき会った男。
机の上の資料を整えながら、本人の意思が大切だと言った男。
その名前が、10年前の推薦辞退届にあった。
「受付担当が、宮代さん」
「はい。当時、宮代部長は就職課の職員でした」
「就職課」
久瀬は小さく繰り返した。
「この書類は、どこに保管されていたんですか」
「就職課の過年度保存箱です。創立80周年記念事業の一環で、古い推薦関係書類を整理して電子化していました」
「それで、見つかった」
「はい」
水野は、少し言いにくそうに続けた。
「最初に違和感を持ったのは、推薦状の控えでした」
「昨日、資料室にあったものですか」
「はい。黒川先生の資料室で見つかった、久瀬さんを田村製作所へ推薦する推薦状の控えです」
水野は、別の画像を開いた。
そこには、第2章で久瀬が見た推薦状の控えが映っている。
久瀬君は、私がこれまで見てきた学生の中で、もっとも推薦に値する人物である。
水野は言った。
「この推薦状の控えと、推薦辞退届が同じ資料群の中で確認されました」
「同じ資料群」
「はい。田村製作所推薦関係として整理されていたものです」
久瀬は画面を見比べた。
推薦状。
推薦辞退届。
どちらにも、自分の名前がある。
片方では、もっとも推薦に値する人物。
片方では、一身上の都合により推薦を辞退。
同じ10年前の中に、正反対の書類が並んでいる。
「どういうことですか」
久瀬は聞いた。
水野は答えなかった。
いや、答えられないのだろう。
「私にも、まだわかりません」
水野は言った。
「ただ、この推薦辞退届については、久瀬さんご本人に確認しないといけないと思いました」
久瀬は、もう一度画面を見た。
自分の名前。
自分の印鑑。
自分が書いたように見える署名。
それなのに、自分の意思ではない。
「僕は、田村製作所に行きたかったんです」
久瀬は、気づくとそう言っていた。
水野は顔を上げた。
「はい」
「辞退なんて、するはずがない」
その言葉は、10年前の自分に向けたもののようでもあった。
田村製作所の工場。
白いヘルメット。
油の匂い。
黒川の声。
君は、こういう場所で生きる人間だ。
あの日、自分は確かに行きたいと思った。
その意思は、どこへ行ったのか。
水野は、机の引き出しから薄いファイルを取り出した。
「推薦辞退届の提出手続きについて、当時のマニュアルも確認しました」
「マニュアル」
「はい。大学推薦の決定後に、学生が推薦を辞退する場合の手続きです」
水野は、ファイルを開いた。
古いコピー用紙が数枚入っている。
上部に、就職課運用マニュアル、と印字されていた。
水野は該当箇所を指した。
「推薦辞退届は、本人が学生証を持って就職課窓口に来る必要があります」
久瀬は黙って聞いた。
「代理提出、郵送提出、後日処理は認められていません」
水野は、次の行を指した。
「受付担当者は、学生証により本人確認を行い、本人の目の前で受付印を押す」
さらに、その下。
「受付時刻は、本人確認を行った窓口来室時刻として記録する」
水野は顔を上げた。
「つまり、この14:12という時刻は、単なる入力時刻ではありません」
久瀬は、画面の時刻を見た。
14:12。
「その時刻に、僕が就職課の窓口に来ていたことになる」
「はい」
水野は小さくうなずいた。
「書類上は、そうなります」
書類上は。
その言葉が、久瀬の中で嫌な形に残った。
書類上は、自分が推薦を辞退した。
書類上は、自分が窓口に来た。
書類上は、自分の意思だった。
だが、久瀬には、その記憶がない。
記憶がないどころではない。
田村製作所に行きたいと思っていた。
推薦されると信じていた。
黒川にも期待されていた。
それなのに、書類は別のことを言っている。
「水野さん」
久瀬は言った。
「この書類は、原本なんですか」
「いま画面に出ているのは仮スキャンです。原本は保全手続き中です」
「原本を見れば、何かわかりますか」
「紙質や筆跡、印影などは、専門的に確認する必要があります」
水野は、言ってから少し口を閉じた。
「ただ、現時点で私が断定できることはありません」
「断定できない」
「はい。私は鑑定人ではありませんから」
水野の言い方は慎重だった。
その慎重さは、宮代の慎重さとは違っていた。
宮代の慎重さは、方向を決めたうえで言葉をぼかしているように聞こえた。
水野の慎重さは、わからないことを、わからないままにしているように聞こえた。
久瀬は、画面の署名欄を見た。
自分の名前。
自分の印。
本物に見える。
だからこそ、怖かった。
「この書類を、黒川先生は見たんですか」
久瀬は聞いた。
水野は少し迷った。
「昨日、黒川先生に確認をお願いしました」
「推薦辞退届を?」
「はい」
「先生は、何と」
水野は、視線を落とした。
「顔色を変えました」
久瀬は、息を止めた。
「それから、しばらく何も言いませんでした」
「何も?」
「はい。ですが、その後、久瀬さんに連絡すると言っていました」
久瀬は、第1章のメールを思い出した。
10年前の推薦の件で、君に話しておきたいことがある。
黒川は、この書類を見たあと、久瀬に連絡した。
そして、資料室で消えた。
久瀬は、推薦辞退届の画面を見た。
そこには、自分の名前がある。
自分の署名に見える文字がある。
自分の印鑑に見える印影がある。
それでも、自分はこの書類を知らない。
「もうひとつ、気になっていることがあります」
水野が言った。
「何ですか」
「推薦希望申請書です」
久瀬は、顔を上げた。
「推薦希望申請書」
「はい。学生が、どの企業への推薦を希望するかを大学に届け出る書類です」
久瀬は、ぼんやりと思い出した。
田村製作所。
推薦希望。
署名。
認印。
たしかに、書いた。
自分は田村製作所への推薦を希望すると、正式に申請したはずだった。
「僕は出しました」
久瀬は言った。
「田村製作所への推薦希望申請書を出した記憶があります」
水野は、静かにうなずいた。
「私も、それを探しました」
「ありましたか」
水野は首を横に振った。
「就職課保管分の原本が見当たりません」
久瀬は、言葉を失った。
「見当たらない?」
「はい。少なくとも、現在確認できている就職課の保存箱にはありません」
「推薦辞退届はあるのに」
「はい」
「推薦希望申請書はない」
「はい」
資料整理室の空気が、少し冷たくなったように感じた。
久瀬は、画面の推薦辞退届を見た。
自分は、田村製作所に行きたいと書いたはずだった。
その書類はない。
しかし、自分が田村製作所を辞退したことになっている書類はある。
「どういうことなんですか」
久瀬は聞いた。
水野は答えなかった。
答えられるはずがなかった。
ただ、静かに言った。
「だから、久瀬さんに確認したかったんです」
久瀬は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
画面の中で、推薦辞退届は何も語らない。
ただ、書類としてそこにある。
署名もある。
認印もある。
受付日もある。
受付時刻もある。
受付担当者もいる。
書類としては、整っている。
整いすぎている。
水野は、画面を閉じなかった。
久瀬も、目を逸らせなかった。
「水野さん」
「はい」
「この署名は」
久瀬は、言葉を探した。
「本物に見えます」
水野は、静かに言った。
「はい」
「でも、僕の意思じゃありません」
水野は、今度はすぐに答えなかった。
しばらくして、低い声で言った。
「その可能性を、確認する必要があります」
久瀬は、画面の中の自分の名前を見た。
10年前、自分は田村製作所に行きたいと思っていた。
だが、ここには別の自分がいる。
一身上の都合により、推薦を辞退いたします。
その自分は、久瀬の知らないところで、すでに10年前から存在していた。
久瀬は、初めて理解した。
自分は、推薦されなかったのではないのかもしれない。
自分は、推薦を降りたことにされていたのかもしれない。
画面の中の署名は、静かにそこにあった。
本物に見える。
だからこそ、嘘のようには見えなかった。
第5章 真鍋の影
水野葉月と別れたあと、久瀬航平はしばらく資料整理室の前に立っていた。
推薦辞退届。
その言葉が、頭の中に残っている。
推薦されなかったのではない。
推薦を降りたことにされていたのかもしれない。
そう考えるだけで、足元の床が少し傾くような感覚があった。
久瀬は、事務棟の廊下を歩いた。
どこへ向かうつもりだったのか、自分でもはっきりしなかった。
外へ出るべきなのか。
旧4号館へ戻るべきなのか。
それとも、もう一度宮代仁に話を聞くべきなのか。
しかし、今すぐ宮代の前に立っても、何を聞けばいいのかわからない。
書類には、自分の署名があった。
認印もあった。
受付時刻もあった。
受付担当者もいた。
書類としては、整っている。
整いすぎている。
久瀬は、廊下の窓から講堂の方を見た。
創立80周年記念式典の片付けは、まだ続いていた。
白いテント。
折りたたまれる椅子。
記念誌の入った段ボール。
来賓を見送る職員たち。
大学は、昨日まで祝っていた。
その祝典の下に、10年前の推薦辞退届が眠っていた。
久瀬は、建物の外に出た。
講堂前の広場には、まだ卒業生らしい人々が何人か残っている。
名刺を交換している男たち。
記念写真を撮る女たち。
学生スタッフに礼を言う年配の卒業生。
その中に、見覚えのある横顔があった。
真鍋智成。
久瀬は足を止めた。
真鍋は、記念誌の関係者らしき職員と話していた。
スーツ姿で、手には式典の紙袋を持っている。
昨日、記念誌の画面で見た写真より、実物の方が少し疲れて見えた。
職員が頭を下げて去ると、真鍋はスマホを取り出した。
誰かに電話をかけようとしている。
久瀬は、無意識に近づいていた。
「真鍋」
声をかけると、真鍋は肩を小さく揺らした。
振り向いた顔に、一瞬だけ遅れがあった。
驚いた顔を作るまでの、ほんの短い間。
「久瀬」
真鍋は名前を呼んだ。
「久しぶりだな」
「10年ぶりくらいか」
「そうだな」
会話は、そこで止まった。
久瀬は、真鍋の胸元の名札を見た。
田村製作所
真鍋智成
その文字は、記念誌の中で見たものよりも近かった。
「記念誌、読んだよ」
久瀬は言った。
真鍋の目がわずかに動いた。
「そうか」
「大学から推薦していただいたことが、人生の転機だったって」
真鍋は、少しだけ笑おうとした。
だが、笑いきれなかった。
「取材で聞かれたから、そう答えたんだ」
「嘘ではないだろ」
「それは、そうだ」
真鍋は視線を逸らした。
久瀬は言った。
「黒川先生のことは聞いたか」
「所在が確認できていないって話は、少し」
「コートが川沿いで見つかった」
真鍋は黙った。
「知ってたのか」
「そこまでは、知らない」
その答えは早かった。
早すぎるようにも聞こえた。
久瀬は、真鍋を見た。
「推薦状の控えを見た」
真鍋の顔から、少し色が抜けた。
「推薦状?」
「黒川先生が、僕を田村製作所へ推薦するために書いたものだ」
真鍋は何も言わなかった。
「そこには、こう書いてあった」
久瀬は、一語ずつ言った。
「久瀬君は、私がこれまで見てきた学生の中で、もっとも推薦に値する人物である」
真鍋は、広場の方を見た。
学生スタッフが、式典の看板を外している。
その音が、乾いた金属音として響いた。
「僕は、知らなかった」
真鍋は言った。
久瀬は、その言葉を聞いていた。
知らなかった。
本当にそうなのかもしれない。
けれど、真鍋の声には、何かが足りなかった。
「全部を?」
久瀬は聞いた。
真鍋は、すぐには答えなかった。
「全部、知っていたわけじゃない」
その言い方が、久瀬には引っかかった。
知らなかった、ではない。
全部は、知らなかった。
その間に、何かを置いているように聞こえた。
「じゃあ、何を知っていた」
真鍋は口を閉じた。
久瀬は続けた。
「僕が田村製作所を希望していたことは知っていたな」
「それは、学科の中で誰でも知っていた」
「黒川先生が、僕を評価していたことも」
「それも、知っていた」
「じゃあ、なぜ君が推薦された」
真鍋は、視線を久瀬に戻した。
「大学が決めたんだ」
「大学が?」
「推薦は、学生だけで決まるものじゃないだろ」
その言葉に、久瀬の胸の奥が冷えた。
学生だけで決まるものじゃない。
それは正しい。
大学推薦は、学生の希望だけで決まるものではない。
成績、研究、学科の判断、企業との関係。
いくつもの要素がある。
けれど、その正しさの中に、真鍋は身を隠しているように見えた。
「僕は、推薦を辞退したことになっていた」
久瀬は言った。
真鍋の表情が動いた。
「何の話だ」
「推薦辞退届があった。田村製作所への推薦を、僕が一身上の都合で辞退したという書類だ」
真鍋は、声を出さなかった。
「署名もある。認印もある。受付担当は宮代仁。6月17日14:12」
その時刻を口にしたとき、久瀬自身にも、まだその意味は完全にはつかめていなかった。
だが、真鍋の反応は見えた。
真鍋は、一瞬だけ目を伏せた。
「その書類のことは知らない」
「その書類のことは?」
「久瀬」
真鍋の声が少し低くなった。
「僕は、書類の処理に関わっていない」
「関わっていない」
「そうだ」
「じゃあ、何に関わった」
真鍋は唇を結んだ。
久瀬は、一歩近づいた。
「君は、何を知っていた」
真鍋は、広場の向こうを見た。
講堂の入口で、宮代仁が職員と話しているのが見えた。
遠目にも、宮代は落ち着いていた。
手元の資料を確認し、何かを指示している。
真鍋の視線が、そこに一瞬だけ向いた。
久瀬は見逃さなかった。
「宮代さんと話したのか」
「式典の関係で、少し」
「さっきも?」
真鍋は答えなかった。
その沈黙が、答えのようだった。
「真鍋」
久瀬は言った。
「何を相談していた」
「記念誌の件だ」
「記念誌?」
「田村製作所のインタビュー部分を、どう扱うか」
「なぜ、そんな相談を宮代さんにする」
「大学側の記念事業だからだ」
真鍋は早口になっていた。
「黒川先生の件がある。10年前の推薦の話が出ている。僕のインタビューがそのまま出ていると、余計な混乱を招くかもしれない。だから、確認しただけだ」
「余計な混乱」
久瀬は繰り返した。
真鍋は黙った。
その言葉もまた、正しかった。
大学にとっては、混乱なのだろう。
田村製作所にとっても、混乱なのだろう。
真鍋にとっても、混乱なのだろう。
だが、久瀬にとっては違う。
10年前から続いていたことが、ようやく表に出ようとしているだけだった。
真鍋の手の中で、スマホが震えた。
画面に表示された名前が、久瀬の目にも見えた。
宮代仁。
真鍋は、すぐに画面を伏せた。
「出ろよ」
久瀬は言った。
「ここで」
真鍋は、久瀬を見た。
「出ろ」
真鍋は、しばらくためらってから、通話ボタンを押した。
「はい」
声は小さかった。
久瀬には、相手の声は聞こえない。
ただ、真鍋の表情だけが見えた。
「今、久瀬と会っています」
沈黙。
「はい」
また沈黙。
真鍋は、少し目を伏せた。
「例の件、大丈夫なんですか」
久瀬の胸が、強く鳴った。
例の件。
真鍋は、すぐに言葉を続けた。
「いえ、黒川先生のこともありますし、記念誌の件も」
その声は、言い訳のように聞こえた。
真鍋は電話を切った。
久瀬は言った。
「例の件って何だ」
「記念誌のことだ」
「本当に?」
「そうだ」
「黒川先生のことも、推薦辞退届のことも、全部まとめて、記念誌のことか」
真鍋は答えなかった。
久瀬は、真鍋の顔を見ていた。
10年前、久瀬は真鍋を嫌っていたわけではなかった。
同じゼミではなかったが、同じ学科だった。
講義で隣になったこともある。
研究発表のあと、学食で一緒に飯を食べたこともある。
真鍋は、目立つ学生ではなかった。
成績も悪くない。
人当たりもよい。
だが、田村製作所の推薦枠については、久瀬の方が近いと誰もが思っていた。
それなのに、真鍋が行った。
当時、久瀬はその理由を知らなかった。
今も、まだ知らない。
ただ、真鍋が何かを避けていることだけはわかった。
「僕は、推薦を辞退していない」
久瀬は言った。
真鍋は小さく息を吸った。
「そう言われても、僕には」
「僕には?」
「僕には、どうしようもない」
その言葉に、久瀬は笑いそうになった。
笑えなかった。
「10年前も、そう思ったのか」
真鍋は眉を寄せた。
「何を」
「自分にはどうしようもない、と」
真鍋は答えなかった。
久瀬は言った。
「君は、本当に何も知らなかったのか」
真鍋は、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「全部を知っていたわけじゃない」
また同じ言葉だった。
久瀬は、その言葉の周囲にある空白を見ていた。
全部ではない。
でも、何かはあった。
真鍋はそれを、知っていたのかもしれない。
あるいは、知ろうとしなかったのかもしれない。
「僕は、書類のことは知らない」
真鍋は言った。
「推薦辞退届のことも、黒川先生の手紙のことも、知らない」
「じゃあ、何を知っている」
真鍋は、唇を噛んだ。
「田村製作所の推薦が決まったとき、少しおかしいとは思った」
久瀬は黙った。
真鍋は続けた。
「本当は、君だと思っていた。周りもそう言っていた。黒川先生も、君を評価していた」
「それで?」
「でも、大学が決めたことだと思った」
久瀬は、真鍋を見た。
「就職課が決めて、先生たちが認めたなら、自分が聞くことじゃないと思った」
その言葉は、終章で聞くはずの言葉の前触れだった。
まだ真鍋は、すべてを言っていない。
それでも、久瀬には十分だった。
真鍋は、何も知らなかったわけではない。
知ろうとしなかった。
「真鍋」
久瀬は言った。
「君は、その上に10年乗ってきたんだな」
真鍋の顔が強張った。
「久瀬」
「その書類を作ったのが君だと言ってるわけじゃない」
久瀬は言った。
「でも、何かおかしいと思ったまま、聞かなかったんだろ」
真鍋は、答えなかった。
広場の向こうで、宮代がこちらを見ているような気がした。
距離があるので、表情まではわからない。
しかし、久瀬には、宮代の視線がこの場に届いているように思えた。
真鍋は、紙袋を握り直した。
「これ以上、僕から話せることはない」
「話せることがないのか」
久瀬は聞いた。
「話したくないことがあるのか」
真鍋は、何も言わなかった。
そして、久瀬の横を通り過ぎた。
久瀬は追いかけなかった。
追いかけても、今の真鍋は同じ言葉を繰り返すだけだと思った。
全部を知っていたわけじゃない。
その言葉だけを残して、真鍋は講堂の方へ歩いていった。
久瀬は広場に立ったまま、スマホを取り出した。
水野に連絡すべきか迷った。
そのとき、スマホが震えた。
水野からだった。
メッセージには、短く書かれていた。
推薦辞退届の受付時刻について、確認したいことがあります。
6月17日14:12に、久瀬さんがどこにいたか、思い出せますか。
久瀬は、画面を見た。
6月17日。
14:12。
その数字を、頭の中で繰り返した。
6月17日。
14:12。
まだ、はっきりとは思い出せない。
しかし、その日付の奥に、何かが沈んでいる。
白いヘルメット。
油の匂い。
床を伝う振動。
久瀬は、息を止めた。
田村製作所。
あの日かもしれない。
久瀬は、水野に返信した。
確認したいことがあります。
田村製作所の工場見学記録を調べられますか。
送信してから、久瀬はもう一度、真鍋が去った方を見た。
真鍋の姿は、もう人の間に紛れて見えなかった。
ただ、宮代仁だけが、講堂前でまだ資料を整えていた。
第6章 6月17日14:12
6月17日。
14:12。
久瀬航平は、その数字を画面の上で見つめていた。
水野葉月からのメッセージは短かった。
推薦辞退届の受付時刻について、確認したいことがあります。
6月17日14:12に、久瀬さんがどこにいたか、思い出せますか。
久瀬は、何度も読み返した。
6月17日。
14:12。
推薦辞退届には、その時刻に久瀬が就職課の窓口へ来たことになっている。
本人が学生証を持って来る。
担当職員が本人確認をする。
本人の目の前で受付印を押す。
受付時刻は、窓口に来た時刻として記録される。
水野は、そう説明していた。
つまり、14:12は単なる入力時刻ではない。
その時間に、久瀬が大学の就職課にいたことになっている。
だが、久瀬の中で、その数字は別の場所へつながり始めていた。
白いヘルメット。
油の匂い。
床を伝う振動。
整然と並んだ工作機械。
田村製作所。
久瀬は、スマホを握ったまま立ち尽くした。
あの日だ。
6月17日。
田村製作所の工場見学。
黒川修一と一緒に行った日。
久瀬は、水野に返信した。
その日は、田村製作所の工場見学だったかもしれません。
黒川先生も一緒でした。
送信してから、久瀬は息を吐いた。
かもしれない、ではない。
ほとんど確信していた。
ただ、10年前の記憶だけでは足りない。
記憶は、書類に負ける。
この10年、久瀬はそれを思い知らされてきたのかもしれない。
数分後、水野から返信が来た。
資料整理室に戻れますか。
確認したい記録があります。
久瀬はすぐに向かった。
事務棟の廊下を戻る途中、講堂前の広場が見えた。
真鍋智成の姿は、もうなかった。
宮代仁も、さきほどの場所にはいない。
式典の片付けだけが続いている。
久瀬は資料整理室の前で足を止め、ノックした。
「どうぞ」
水野の声がした。
中に入ると、水野はノートパソコンの前に座っていた。
机の上には、推薦辞退届の仮スキャン画像と、就職課運用マニュアルのコピーが並んでいる。
水野は顔を上げた。
「来てくださってありがとうございます」
「思い出しました」
久瀬は椅子に座る前に言った。
「6月17日は、田村製作所の工場見学の日です」
水野は、ゆっくりうなずいた。
「黒川先生も一緒だったんですね」
「はい」
久瀬は、記憶をたどった。
「大学から何人かで行きました。機械工学科の学生と、黒川先生。田村製作所の人事の方に案内されて、工場を見学しました」
「時間は覚えていますか」
「正確には覚えていません。ただ、午後でした」
久瀬は、目を閉じた。
大学からバスで向かった。
正門前に集合した。
黒川が資料を持って立っていた。
田村製作所の受付で、来客カードを首にかけた。
白いヘルメットを渡された。
そのあと、工場に入った。
「見学中に、黒川先生が言ったんです」
久瀬はつぶやいた。
「君は、こういう場所で生きる人間だ、と」
水野は黙って聞いていた。
久瀬は目を開けた。
「その日だと思います」
「田村製作所に確認します」
水野は言った。
「もう照会を始めています」
「もう?」
「はい。推薦辞退届の受付時刻が気になった時点で、田村製作所の来客記録の有無を問い合わせました。正式な回答はまだですが、記録管理担当の方につないでもらっています」
水野はそう言って、画面を切り替えた。
メールの送信画面が見えた。
宛先は、田村製作所人事総務部。
件名は、
10年前の青陵工業大学工場見学記録について
水野は言った。
「記録が残っているかはわかりません。ただ、大手メーカーの場合、来客受付記録や入退館台帳が保管されている可能性があります」
「10年前でも?」
「会社によります」
水野はそこで言葉を切った。
「ただ、確認しないといけません」
その慎重な言い方に、久瀬はうなずいた。
希望ではない。
推測でもない。
確認。
水野は、その言葉を選んでいるように見えた。
数分後、ノートパソコンにメールの通知が出た。
水野が画面を見る。
「田村製作所からです」
久瀬は、背筋を伸ばした。
水野はメールを開いた。
差出人は、田村製作所 人事総務部 奥田美紀。
本文は、事務的だった。
青陵工業大学様
お問い合わせの件、当社受付システムの過年度保管データを確認いたしました。
2014年6月17日、青陵工業大学機械工学科の工場見学記録が確認できました。
当日の来訪者一覧および入退館時刻の抜粋を添付いたします。
田村製作所 人事総務部
奥田美紀
水野は、添付ファイルを開いた。
PDFだった。
田村製作所 来客受付記録
2014年6月17日
一覧の中に、青陵工業大学の文字があった。
団体名。
青陵工業大学 機械工学科 工場見学。
担当部署。
人事総務部。
来訪目的。
採用関連 工場見学。
水野は、一覧を拡大した。
久瀬は、画面に顔を近づけた。
そこに、自分の名前があった。
久瀬航平。
その下に、黒川修一。
ほかの学生の名前も並んでいる。
右側に、時刻が記録されていた。
入館 13:20
退館 16:05
久瀬は、しばらく声を出せなかった。
13:20。
16:05。
その間に、14:12がある。
水野も、しばらく黙っていた。
やがて、画面の別の位置を指した。
「ここです」
来訪者。
久瀬航平。
黒川修一教授同行。
入館 13:20。
退館 16:05。
水野は、推薦辞退届のスキャン画像を横に並べた。
受付日 6月17日。
受付時刻 14:12。
受付担当 宮代仁。
2つの画面が、並んで表示された。
片方では、久瀬は田村製作所にいる。
片方では、久瀬は青陵工業大学の就職課窓口にいる。
同じ日。
同じ時間帯。
同じ久瀬航平。
久瀬は、画面を見つめた。
「僕は」
声がかすれた。
「この時間、田村製作所にいた」
水野はうなずいた。
「記録上は、そうなります」
「記録上は」
久瀬は、その言葉を繰り返した。
さっきまで、書類上は久瀬が推薦を辞退したことになっていた。
だが今、別の記録がそこにある。
来客受付記録。
久瀬が田村製作所にいた記録。
水野は、就職課運用マニュアルをもう一度開いた。
「推薦辞退届は、本人が学生証を持って就職課窓口に来る必要があります」
久瀬は黙っていた。
「代理提出、郵送提出、後日処理は不可」
水野は、行を追うように読んだ。
「受付時刻は、本人確認を行った窓口来室時刻として記録する」
そして、推薦辞退届を指した。
「この14:12は、入力時刻ではなく、本人確認をした時刻です」
久瀬は、田村製作所の記録を見た。
13:20から16:05まで。
その間、久瀬は田村製作所の構内にいた。
黒川も一緒だった。
「無理ですね」
久瀬は言った。
「はい」
水野は短く答えた。
「僕は、14:12に就職課へ行けない」
「はい」
「推薦辞退届を、本人として提出できない」
水野は、ゆっくりうなずいた。
「少なくとも、この手続きどおりであれば、成立しません」
成立しない。
その言葉は、静かだった。
だが、久瀬の中では大きく響いた。
10年前、久瀬は自分が推薦されなかったのだと思っていた。
黒川に、君は推薦できないと言われた。
その理由を知らないまま、別の会社へ行った。
自分に何かが足りなかったのだと思い続けてきた。
けれど今、目の前の記録は別のことを示している。
久瀬は、自分で推薦を辞退してはいない。
少なくとも、6月17日14:12に就職課窓口で辞退届を提出することはできない。
久瀬は、急に立っていられなくなるような感覚を覚えた。
椅子の背に手を置く。
水野が心配そうに見た。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
久瀬は答えた。
大丈夫ではなかった。
だが、今は座り込むわけにはいかなかった。
「黒川先生も」
久瀬は言った。
水野が顔を上げる。
「黒川先生も、この時間、田村製作所にいたんですよね」
「はい。記録には、黒川修一教授同行とあります」
「なら、先生は知っていたはずです」
久瀬は、言いながら、自分の声が少し震えているのを感じた。
「僕が14:12に就職課へ行けないことを」
水野は、すぐには答えなかった。
「少なくとも、あの日、久瀬さんと田村製作所へ行っていたことは知っていたはずです」
「それなのに」
久瀬は言った。
「それなのに、先生は」
君は、推薦できない。
あの言葉が戻ってきた。
黒川は、なぜ何も言わなかったのか。
推薦辞退届を見せられたとしても、その日付と時刻を見れば気づけたはずだ。
あの日、自分と一緒に田村製作所にいた。
14:12に、久瀬が就職課窓口にいるはずがない。
黒川は、忘れていたのか。
それとも、思い出さないようにしたのか。
水野は、プリンターにPDFを送った。
小さな音を立てて、田村製作所の来客記録が印刷される。
水野はそれを手に取り、推薦辞退届の写しと並べた。
「この2つは、保全します」
「保全」
「はい。推薦辞退届の成立には、重大な疑義があります」
久瀬は、その言葉を聞いた。
重大な疑義。
それは、感情ではない。
怒りでもない。
手続きの言葉だった。
けれど、その手続きの言葉が、久瀬の10年に初めて穴を開けた。
自分が悪かったのではないのかもしれない。
自分が足りなかったのではないのかもしれない。
自分は、降りていないのかもしれない。
水野は、何かを考えるように画面を見ていた。
「久瀬さん」
「はい」
「この記録だけで、誰が何をしたかまではわかりません」
「わかっています」
「ただ、推薦辞退届が通常の本人提出として成立しないことは、かなり強く言えると思います」
久瀬はうなずいた。
「それで十分です」
十分ではなかった。
本当は、何も十分ではない。
誰が書類を作ったのか。
なぜ久瀬の署名があるのか。
なぜ推薦希望申請書は消えているのか。
黒川はなぜ黙ったのか。
宮代は何を知っているのか。
真鍋はどこまで知っていたのか。
何もわかっていない。
それでも、この1点だけは変わった。
久瀬は、14:12に就職課にはいなかった。
「水野さん」
久瀬は言った。
「推薦辞退届には、僕の署名があります」
「はい」
「印鑑も、僕のものに見えます」
「はい」
「でも、僕はその時刻、田村製作所にいました」
「はい」
久瀬は、画面の中の署名欄を見た。
本物に見える。
だが、提出できない。
この矛盾が、ようやく形を持ち始めていた。
「だとしたら」
久瀬は言った。
「この署名は、どこから来たんですか」
水野は、答えられなかった。
資料整理室の中が、静かになった。
スキャナーの電源ランプだけが、青く光っている。
久瀬は、ふと、第2章で見た封筒の裏を思い出した。
黒川の字で書かれた数字。
4-17-3。
あれは、何だったのか。
棚番号ではなかった。
資料室のラベルにもなかった。
けれど、黒川がわざわざ残した数字だった。
推薦状。
半分だけの手紙。
4-17-3。
黒川は、何かを残そうとしていた。
もしかすると、推薦辞退届の署名がどこから来たのか。
その答えも、どこかに残っているのかもしれない。
水野が言った。
「黒川先生の資料室にあった封筒に、数字が書かれていたんですよね」
久瀬は顔を上げた。
「4-17-3」
「はい」
「棚番号ではありませんでした」
「資料室の中には、該当する番号はなかったんですね」
「なかったと思います」
久瀬は、もう一度その数字を頭の中で転がした。
4-17-3。
4。
17。
3。
数字が、だんだん別の意味を帯びていく。
4号館。
17。
久瀬は、息を止めた。
旧4号館。
17号室。
「……ロッカー」
水野が聞き返した。
「ロッカー?」
久瀬は、立ち上がった。
「4-17-3」
声が、自分でも驚くほどはっきりしていた。
「旧4号館、17号室、3番ロッカー」
水野も立ち上がった。
「心当たりがあるんですか」
「あります」
久瀬は言った。
「学生の頃、僕が使っていたロッカーです」
田村製作所の来客記録。
推薦辞退届。
黒川の残した数字。
それらが、ようやく1本の線になり始めていた。
久瀬は、資料整理室の扉へ向かった。
「行きましょう」
水野は、推薦辞退届と来客記録の印刷をファイルに挟んだ。
「はい」
久瀬は、もう一度だけ画面を見た。
6月17日。
14:12。
受付担当 宮代仁。
その時刻に、自分は大学にはいなかった。
それだけは、もう揺らがない。
久瀬は資料整理室を出た。
廊下の向こうに、旧4号館へ続く通路が見えた。
10年前に閉じたと思っていた場所が、少しずつ開こうとしていた。
第7章 4-17-3
旧4号館へ向かう廊下は、昼間なのに薄暗かった。
久瀬航平の前を、水野葉月が歩いている。
水野の手には、推薦辞退届の写しと、田村製作所の来客受付記録が挟まれたファイルがあった。
6月17日。
14:12。
受付担当 宮代仁。
その時刻に、久瀬は大学にはいなかった。
田村製作所にいた。
入館 13:20。
退館 16:05。
黒川修一教授同行。
そこまでは、わかった。
推薦辞退届は、本人提出として成立しない。
だが、問題は残っている。
署名だった。
推薦辞退届の本人署名欄には、久瀬航平、と書かれていた。
久瀬の字に見えた。
認印も、学生時代に使っていたものに見えた。
出していない。
しかし、署名は本物に見える。
その矛盾の答えが、黒川の残した数字にあるのかもしれない。
4-17-3。
旧4号館。
17号室。
3番ロッカー。
久瀬は、階段を上がりながら言った。
「17号室は、まだ残っているんですか」
水野は振り返った。
「施設台帳では、旧4号館17号室は備品保管室になっています。以前は、学生用の準備室だったようです」
「僕らの頃は、実験準備室でした」
久瀬は、階段の踊り場で足を止めた。
「ロッカーが並んでいました。学年ごとに使う場所が決まっていて、僕は3番を使っていました」
「黒川先生は、それを知っていたんですね」
「たぶん」
久瀬は言った。
「先生は、そういうことを覚えている人でした」
言ってから、胸の奥が少し痛んだ。
そういうことを覚えている人だった。
それなのに、6月17日14:12のことは、思い出さなかったのか。
思い出さないようにしたのか。
2階の廊下に出ると、空気がさらに古くなった。
蛍光灯の光が、床に薄く落ちている。
壁には、外された掲示物の跡が四角く残っていた。
17号室は、廊下の奥にあった。
扉の上に、小さな番号札がある。
17
水野は、事務棟で借りてきた鍵束を取り出した。
「施設管理の方には、備品確認ということで許可を取りました」
「ありがとうございます」
「ただ、中にあるものを動かす場合は、記録を残します」
「はい」
水野は鍵を差し込んだ。
少し硬い音がして、鍵が回る。
扉を開けると、ほこりと古い鉄の匂いがした。
部屋の中は、備品置き場になっていた。
使われなくなった椅子。
折りたたみ机。
古いホワイトボード。
段ボール箱。
期限切れの掲示板。
その奥に、ロッカーが並んでいた。
灰色のスチールロッカー。
久瀬は、息を止めた。
まだ残っていた。
塗装は剥がれ、扉には小さなへこみがある。
番号札のいくつかは外れている。
それでも、久瀬にはわかった。
学生時代、何度も開けたロッカーだった。
水野が言った。
「3番は」
久瀬は、ゆっくり奥へ進んだ。
左から順に番号を追う。
1。
2。
3。
3番ロッカーの扉には、古い番号札が残っていた。
久瀬は、手を伸ばした。
取っ手に触れる。
冷たかった。
鍵はかかっていなかった。
少し力を入れると、扉が軋んだ音を立てて開いた。
中は空に見えた。
古い新聞紙が底に敷かれている。
隅に、錆びたクリップが落ちている。
背面には、古いテープの跡があった。
何もない。
久瀬は、一瞬、胸の奥が沈むのを感じた。
だが、水野が言った。
「底板、少し浮いていませんか」
久瀬は、ロッカーの下を見た。
たしかに、底板の右側がわずかに浮いている。
指をかけると、薄い板が持ち上がった。
その下に、茶封筒が入っていた。
久瀬は、息を止めた。
封筒は古かった。
紙は少し黄ばんでいる。
表には、黒川の字でこう書かれていた。
久瀬航平
田村製作所 推薦希望申請書 控
水野が、小さく息をのんだ。
久瀬は、封筒を取り出した。
手が少し震えていた。
「開けます」
水野はうなずいた。
「記録します」
水野はスマホで封筒の状態を撮影した。
部屋番号。
ロッカー番号。
封筒の表書き。
取り出した時刻。
その動きは、探偵のものではなかった。
職員のものだった。
記録を残す人の動きだった。
久瀬は封筒の口を開いた。
中には、1枚の書類が入っていた。
推薦希望申請書。
青陵工業大学の書式。
提出先は就職課。
写しの右上に、小さく「指導教官控」と押されている。
学生氏名。
久瀬航平。
学科。
機械工学科。
希望企業。
田村製作所。
提出日は、6月上旬。
そして、下部に本人署名欄があった。
久瀬航平。
認印。
久瀬は、その署名を見た瞬間、呼吸を忘れた。
これは、覚えている。
この書類は覚えている。
研究室で書いた。
黒川に確認され、就職課へ出すよう言われた。
田村製作所への推薦を希望します、と自分で書いた。
水野が静かに聞いた。
「久瀬さん。この書類に覚えはありますか」
「あります」
久瀬は答えた。
「僕が書きました」
声が震えていた。
「田村製作所に行きたいと書いた書類です」
水野は、推薦辞退届の写しをファイルから取り出した。
机がなかったので、折りたたみ椅子の上にファイルを置いた。
その上に、推薦希望申請書の控えを並べる。
左に、推薦希望申請書。
右に、推薦辞退届。
久瀬は、2つの署名欄を見た。
久瀬航平。
どちらにも、同じ名前がある。
水野は、慎重に言った。
「専門的な鑑定をしないと、断定はできません」
「はい」
「ただ」
水野は、2つの署名を指した。
「この署名の形は、非常によく似ています」
久瀬は見た。
最後の「平」の横棒。
少しだけ右上がりになっている。
「瀬」のさんずいが詰まっている。
「航」のつくりの払いが、途中で少し止まる。
似ている。
似ている、というより。
同じに見えた。
水野は、認印の部分を指した。
「印影も、右下のかすれ方が似ています」
推薦希望申請書の認印。
久瀬。
右下が少しかすれている。
推薦辞退届の認印。
久瀬。
同じ場所が、同じようにかすれている。
久瀬は、画面ではなく、紙を見ていた。
古い紙の色。
インクの濃さ。
署名欄の周囲だけ、推薦辞退届のスキャン画像でわずかに質感が違って見えたことを思い出す。
水野は、推薦辞退届の写しを少し拡大した。
「仮スキャンでは限界があります。原本を確認しないといけません」
「でも」
久瀬は言った。
「この署名は、ここから来たんですね」
水野は、すぐには答えなかった。
断定しない。
その姿勢を崩さない。
「可能性は高いと思います」
それだけ言った。
久瀬は、推薦希望申請書を見た。
そこには、確かに自分の意思があった。
田村製作所に行きたい。
そのために、署名した。
認印を押した。
その名前が、別の書類にある。
一身上の都合により、推薦を辞退いたします。
久瀬は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「僕は」
言葉が出にくかった。
「僕は、田村製作所に行きたいと書いたんです」
水野は、黙っていた。
「その名前が」
久瀬は、推薦辞退届を見た。
「行きません、に使われた」
水野は、目を伏せた。
ロッカーの中で、ほこりがゆっくり舞っていた。
古い部屋の窓から、午後の光が細く入っている。
久瀬は、推薦希望申請書の控えを両手で持った。
10年前、自分は確かに希望していた。
田村製作所へ行きたいと書いた。
その意思を提出した。
その書類の就職課保管分は、見当たらない。
しかし、黒川研究室側の指導教官控えが、ここに残っていた。
黒川は、これを残した。
なぜ、今まで出さなかったのか。
なぜ、10年前に言わなかったのか。
その問いは、まだ消えない。
しかし、この書類は、別のことを示している。
久瀬は、自分で降りたわけではない。
少なくとも、久瀬は田村製作所を希望していた。
その事実が、紙の上に残っている。
水野は、書類を傷つけないように透明なクリアファイルへ入れた。
「この控えも保全します」
「お願いします」
「就職課保管分の原本が見当たらないことも、記録します」
久瀬はうなずいた。
「黒川先生は」
水野が言った。
「この控えを、久瀬さんに見つけてほしかったんだと思います」
久瀬は、ロッカーの奥を見た。
そこにはもう何もない。
底板の下に隠されていた封筒。
黒川の字。
4-17-3。
黒川は、答えをここに置いていた。
だが、直接言わなかった。
また、言わなかった。
久瀬の中に、感謝とも怒りともつかない感情がわいた。
「先生は、ずるいですね」
久瀬はつぶやいた。
水野は何も言わなかった。
久瀬は、推薦辞退届の写しをもう一度見た。
署名は本物に見える。
認印も本物に見える。
だから、10年前、誰も止めなかったのかもしれない。
いや。
止められたはずの人はいた。
黒川。
6月17日14:12、久瀬が田村製作所にいたことを知っていた人。
それでも、踏み込まなかった人。
久瀬は、推薦希望申請書の控えから目を離せなかった。
「水野さん」
「はい」
「この推薦辞退届は、僕の署名を使っています」
水野は言った。
「そう見えます」
「でも、辞退の意思は僕のものじゃありません」
水野は、少し間を置いて言った。
「はい」
その返事は、断定ではなかった。
けれど、久瀬には十分だった。
推薦希望申請書の控え。
推薦辞退届。
田村製作所の来客記録。
3つが揃った。
久瀬は、自分が自分で降りたわけではないことを、初めて記録として見た。
そのとき、ふと、黒川の失踪メモが頭に浮かんだ。
この責任は私にある。私はもう戻れない。
黒川の字に見えた。
けれど。
久瀬は、手の中の推薦希望申請書を見た。
自分の署名も、本物に見えた。
だが、推薦辞退の意思は自分のものではなかった。
ならば。
筆跡が本物でも、意味まで本物とは限らない。
「水野さん」
久瀬は言った。
「黒川先生のメモも、同じかもしれません」
水野が顔を上げた。
「同じ?」
「僕の署名は、本物に見える。でも、推薦を辞退する意思は僕のものじゃない」
久瀬は、推薦辞退届の写しを見た。
「黒川先生のメモも、字は先生のものかもしれない。でも、あの意味で書いたものじゃないのかもしれない」
水野は、しばらく黙っていた。
その表情が変わった。
何かがつながった顔だった。
資料室に残された半分だけの手紙。
川沿いのコートから見つかったメモ。
この責任は私にある。
私はもう戻れない。
久瀬は、ようやく気づいた。
自分の署名だけではない。
黒川の言葉も、誰かに別の意味で使われたのかもしれない。
ロッカーの扉が、風もないのに小さく鳴った。
久瀬は、4-17-3の封筒を見た。
黒川は、ここまでたどれと言っていた。
その先に、もう1つの切り貼りされた意思がある。
久瀬は、水野に言った。
「資料室へ戻りましょう」
第8章 切り貼りされた言葉
旧4号館の資料室は、前に来たときよりも暗く見えた。
窓の外はまだ昼だった。
けれど、部屋の中には、時間が止まったような重さがある。
久瀬航平は、水野葉月と並んで資料室の前に立った。
扉には、大学事務局の封印テープが貼られている。
黒川修一の私物と、10年前の推薦関係書類が見つかった部屋。
いまは、誰でも入れる場所ではなくなっていた。
水野は、事務局に連絡を入れた。
「水野です。旧4号館資料室の再確認を行います。久瀬さんにも立ち会っていただきます」
電話の向こうで、何か確認する声が聞こえた。
水野は短く答えた。
「はい。黒川先生の手紙と、川沿いで見つかったメモの関係を確認します」
久瀬は、その言葉を聞いて、胸の奥が少し冷えるのを感じた。
黒川の手紙。
川沿いのメモ。
別々に見えていたものが、同じ場所へ近づいている。
水野は電話を切ると、封印テープを傷つけないように端を確認した。
「立ち入りの記録を残します」
「はい」
「中のものには、勝手に触れないでください。必要なものは、私が写真を撮って記録します」
水野の声は、いつもより少し硬かった。
久瀬はうなずいた。
資料室の鍵が開く。
扉が軋み、古い紙の匂いが流れてきた。
中は、最初に来たときと大きく変わっていなかった。
壁際のスチール棚。
古いファイル。
段ボール箱。
中央の長机。
机の上には、黒川の鞄がまだ置かれていた。
財布。
眼鏡。
茶封筒。
半分だけの手紙。
ただ、前に見たときよりも、すべてが記録の対象になっていた。
机の横には、仮の整理票が置かれている。
黒川修一教授 私物
発見場所 旧4号館2階資料室
発見日時
立会者
その文字を見て、久瀬は思った。
人の不在も、すぐに記録になる。
水野は手袋をつけ、机の上の手紙を確認した。
「これですね」
久瀬はうなずいた。
黒川の字。
久瀬君。
私は君に、10年前、本当のことを言わなかった。
あの推薦の件について、私には責任がある。
直接会って、君に謝らなければならない。
そこで紙は破れている。
下半分はない。
久瀬は、手紙の破れ目を見た。
紙の繊維が毛羽立っている。
まっすぐに切られたのではない。
途中で裂かれたような跡。
最初に見たときは、その破れ目が、ただ不気味に見えた。
今は違う。
そこから何かが抜き取られたように見える。
水野は、別の透明袋を取り出した。
中には、川沿いで見つかったメモのコピーが入っている。
原本は別に保全されているらしい。
コピーには、短い文が写っていた。
この責任は私にある。私はもう戻れない。
久瀬は、その文を見た。
責任。
戻れない。
初めて見たとき、その文は黒川の失踪を示すものに見えた。
黒川が責任を感じ、大学を去った。
もしかしたら、戻らないつもりで川沿いへ向かった。
そう読めた。
だが、いまは違う。
久瀬は、手紙の本文をもう一度読んだ。
私は君に、10年前、本当のことを言わなかった。
あの推薦の件について、私には責任がある。
直接会って、君に謝らなければならない。
黒川は、久瀬に会おうとしていた。
謝ろうとしていた。
少なくとも、この手紙の前半だけを読めば、そう見える。
消えようとしていたのではない。
水野は、手紙とメモのコピーを机の上に並べた。
左に、黒川の手紙。
右に、川沿いのメモ。
「文面だけを見ると、つながっているように見えます」
水野は言った。
「ただし、これだけでは断定できません」
「わかっています」
久瀬は答えた。
断定できない。
その言葉には、もう慣れ始めていた。
だが、断定できないことと、見えているものがないことは違う。
久瀬は、メモのコピーを見た。
この責任は私にある。
手紙には、こうあった。
あの推薦の件について、私には責任がある。
同じ意味の言葉。
同じ筆跡に見える線。
そして、メモの後半。
私はもう戻れない。
久瀬は、手紙の破れた下半分を見た。
黒川は、あの下半分に何を書いていたのか。
戻れない。
その言葉が、どこから来たのか。
久瀬は、推薦辞退届の署名欄を思い出した。
久瀬航平。
自分の署名に見える文字。
自分の認印に見える印影。
だが、それは推薦辞退の意思ではなかった。
田村製作所に行きたいと書いた署名が、田村製作所には行きませんという書類に使われた。
久瀬は言った。
「僕は、自分の署名で辞退したことにされた」
水野は、久瀬を見た。
久瀬は続けた。
「黒川先生は、自分の筆跡で戻れないことにされた」
資料室の中が静かになった。
古い蛍光灯が、小さく鳴っている。
水野は、すぐには答えなかった。
やがて、低い声で言った。
「同じ構造、ということですね」
「はい」
久瀬は、手紙とメモを見た。
「署名が本物でも、意思が本物とは限らない」
推薦辞退届。
推薦希望申請書。
黒川の手紙。
川沿いのメモ。
それぞれが、頭の中で重なっていく。
「筆跡が本物でも、意味まで本物とは限らない」
水野は、その言葉をメモに残した。
職員としての動きだった。
だが、その手は少しだけ止まっていた。
久瀬は、黒川の眼鏡を見た。
机の上に置かれたままの眼鏡。
鞄。
財布。
そこに黒川の生活の重さが残っている。
しかし、コートは川沿いにあった。
メモも、川沿いで見つかった。
黒川が自分で持っていったのか。
誰かが持ち出したのか。
久瀬にはまだわからない。
だが、ひとつだけわかることがある。
あのメモをそのまま読めば、黒川は自責で消えたように見える。
そう読ませたい人間がいたとすれば。
その人間は、10年前の推薦辞退届と同じことをしている。
本人の一部を使って、本人の意思を作る。
水野は、手紙の破れ目とメモの端を見比べていた。
「紙の種類は似ています」
「同じ紙ですか」
「断定はできません。原本同士を確認する必要があります」
水野はコピーの端を指した。
「ただ、メモの端にも、破れたような跡が写っています。手紙の下半分から破り取られた可能性はあります」
久瀬は、手紙の下半分がない空白を見た。
そこに、黒川の言葉があったはずだった。
久瀬に向けた言葉。
10年前に言わなかったこと。
それが、別の意味に使われた。
「黒川先生は、消えるつもりじゃなかった」
久瀬は言った。
水野は、慎重に答えた。
「少なくとも、この手紙の前半だけを見ると、久瀬さんに会おうとしていたように読めます」
「でも、メモだけを見れば、先生は戻れないと書いたように見える」
「はい」
「それを作った人間がいる」
水野は、すぐにはうなずかなかった。
「可能性があります」
その言い方は、やはり慎重だった。
だが、第4章のときとは違う。
水野の目にも、構造が見え始めていた。
水野は、机の上に並んだ書類を順に確認した。
推薦辞退届の写し。
田村製作所の来客受付記録。
推薦希望申請書の控え。
黒川の手紙。
川沿いのメモのコピー。
「この5つは、関連する資料としてまとめます」
「はい」
「ただ、黒川先生の所在がわからないままでは、まだ足りません」
久瀬はうなずいた。
黒川に聞かなければならない。
推薦辞退届を見たとき、なぜ黙ったのか。
10年前、なぜ久瀬に本当のことを言わなかったのか。
この手紙の下半分には何を書いたのか。
あのメモは、黒川がどんな意味で書いた言葉なのか。
そして。
黒川は、どこにいるのか。
久瀬は、机の上の黒川の鞄を見た。
「鞄の中は、確認されたんですか」
水野は少し迷った。
「大学側で確認はしています。ただ、私が直接、中身をすべて確認したわけではありません」
「もう一度、見られますか」
「理由が必要です」
「黒川先生が、どこへ行ったかの手がかりがあるかもしれません」
水野は、少し考えた。
それから、事務局へ電話を入れた。
「黒川先生の私物について、所在確認に関わる手がかりがないか、再確認します。久瀬さん立ち会いです。はい。中身は写真記録を残します」
電話を切ると、水野は黒川の鞄の前に立った。
「開けます」
久瀬はうなずいた。
水野は、鞄を開いた。
中には、古い手帳が入っていた。
式典資料。
大学の封筒。
鍵束。
小さな布袋。
財布や眼鏡は机の上に出されていたが、鞄の中はまだ黒川のものとして残っていた。
水野は、ひとつずつ写真を撮りながら取り出した。
古い手帳には、予定が細かく書き込まれている。
式典資料には、黒川の登壇予定が挟まれている。
大学の封筒には、講演用のメモが入っていた。
そして、小さな布袋。
水野は袋を開けた。
中に、古い鍵が入っていた。
金属のタグがついている。
青雲寮 2F 予備
久瀬は、その文字を見た。
「青雲寮」
水野がつぶやく。
「旧学生寮です。今はほとんど使われていません。閉鎖準備中の建物です」
久瀬は、資料室の窓の外を見た。
旧4号館の裏手。
川沿いへ続く道。
そのさらに向こう、坂の上に白い古い建物が見える。
最初に資料室へ来たときも、その建物は視界の端にあった。
だが、そのときは名前までは思い出せなかった。
それが、青雲寮だった。
「黒川先生は、そこにいるんでしょうか」
水野は答えなかった。
答えられるはずがない。
だが、鍵はここにある。
黒川の鞄の中に。
川沿いのコートではなく。
自責のメモではなく。
資料室に残された鞄の中に。
久瀬は、青雲寮の鍵を見つめた。
もし黒川が本当に消えるつもりだったなら、なぜこんな鍵を鞄に残したのか。
もし誰かが黒川を自責で消えたことにしたいなら、なぜこの鍵は残されたのか。
答えは、まだ出ない。
しかし、行く場所は決まった。
久瀬は言った。
「行ってみるしかありません」
水野は、鍵を透明袋に入れ、タグの文字を写真に撮った。
「立ち入りの確認を取ります」
「お願いします」
資料室の窓の外で、風が木の葉を揺らした。
講堂の方からは、まだ片付けの音が聞こえている。
大学は、昨日の祝典を片づけている。
その裏側で、10年前の言葉が少しずつ元の意味を取り戻し始めていた。
久瀬は、机の上に並んだ書類を見た。
推薦希望申請書。
推薦辞退届。
黒川の手紙。
失踪メモ。
どれも、誰かの言葉だった。
どれも、誰かの記録だった。
そして、そのいくつかは、本人の意思ではなかった。
久瀬は、青雲寮の方を見た。
黒川がそこにいるかどうかはわからない。
けれど、少なくとも、川沿いのメモだけを信じる理由はもうなかった。
第9章 青雲寮
青雲寮へ向かう道は、旧4号館の裏手から続いていた。
川沿いの遊歩道を少し歩き、坂道へ入る。
雨は上がっていたが、土の匂いはまだ濃かった。
木々の葉から、ときどき水滴が落ちる。
久瀬航平は、水野葉月の少し後ろを歩いていた。
水野は事務局と施設管理に連絡を入れ、青雲寮への立ち入り確認を取っていた。
手には、透明袋に入れた鍵がある。
青雲寮 2F 予備。
黒川修一の鞄から見つかった鍵。
川沿いで見つかったコートではなく、資料室に残された鞄の中にあった鍵。
そのことが、久瀬にはずっと引っかかっていた。
黒川が本当に自責で消えるつもりだったなら、なぜ鍵を鞄に残したのか。
誰かが黒川の意思を作ったのなら、なぜその鍵までは動かさなかったのか。
考えても、答えは出ない。
ただ、坂の上にある白い古い建物が、少しずつ近づいてくる。
青雲寮は、大学の表の顔から外れた場所にあった。
創立80周年の看板もない。
来賓を迎える花もない。
掃除された通路もない。
白い外壁はくすみ、ところどころ黒ずんでいる。
窓のいくつかには、内側からカーテンが閉められていた。
入口の横には、古い表札が残っている。
青雲寮
その文字は、雨を吸って少し滲んで見えた。
「ここ、まだ使われているんですか」
久瀬は聞いた。
水野は首を横に振った。
「ほとんど使われていません。以前は学生寮でしたが、今は閉鎖準備中です。一部の備品や古い資料が残っているだけだと聞いています」
「人は?」
「常駐者はいません」
水野は、入口の前で立ち止まった。
「ただ、施設管理の方によると、老朽化確認や備品整理で、職員が入ることはあるそうです」
久瀬は、建物を見上げた。
誰もいない建物。
黒川が隠れるには、都合がよすぎる場所だった。
けれど、久瀬はその考えをすぐに打ち消した。
隠れる。
その言葉には、まだ怒りが混じる。
黒川が生きていてほしいと思っている。
その一方で、生きているなら、説明しなければならないとも思っている。
死んでいてほしくはない。
だが、生きていれば許せるわけでもない。
久瀬は、その矛盾を抱えたまま、青雲寮の入口を見た。
水野が鍵を取り出した。
しかし、入口の扉に手をかけると、扉はわずかに動いた。
「開いています」
水野が言った。
鍵を使うまでもなかった。
久瀬は、扉の隙間から中を見た。
薄暗い玄関。
古い靴箱。
剥がれかけた掲示物。
床には、外から入った土の跡が薄く残っている。
水野は、入口の写真を撮った。
「記録します」
その声は小さかった。
2人は中に入った。
青雲寮の中は、外よりも冷えていた。
人の使っていない建物の匂いがする。
湿気。
古い木材。
閉じた空気。
玄関の掲示板には、古い注意書きが残っていた。
消灯時間 23:00
共用部の私物放置禁止
外泊時は管理人へ届け出ること
もう守る人のいない規則だった。
久瀬は、廊下の奥を見た。
薄い足跡がある。
乾ききっていない土が、廊下に点々と続いている。
水野も気づいた。
「最近、誰か入っていますね」
久瀬はうなずいた。
廊下の左手に、共用室らしい部屋があった。
中をのぞくと、古いテーブルと椅子が置かれている。
棚には、黄ばんだ雑誌が残っていた。
壁の時計は止まっている。
そのテーブルの上に、紙コップがあった。
白い紙コップ。
まだ新しい。
隣には、電気ポットが置かれている。
コンセントは抜かれていたが、ポットの蓋には水滴が残っていた。
水野が写真を撮った。
「誰かが使っています」
「黒川先生でしょうか」
「わかりません」
水野はそう答えた。
久瀬は、紙コップを見た。
ここに黒川がいたのかもしれない。
黒川は、この古い寮で何をしていたのか。
久瀬に会うための手紙を書き、資料室に証拠を残し、そしてここへ来たのか。
それとも、誰かに追い込まれてここへ来たのか。
廊下の奥に、階段があった。
水野は、透明袋に入った鍵のタグを確認した。
青雲寮 2F 予備。
「2階ですね」
久瀬はうなずいた。
階段を上がる。
木製の段が、小さく軋む。
1段上がるたびに、久瀬の胸の奥が重くなっていく。
黒川が生きていたら、最初に何を聞くべきか。
なぜ、10年前に言わなかったのか。
なぜ、推薦辞退届を見て黙ったのか。
なぜ、また逃げたのか。
聞きたいことはいくつもある。
だが、言葉はまだ形にならなかった。
2階の廊下は、1階よりさらに暗かった。
水野がスマホのライトをつける。
廊下の左右に、小さな部屋が並んでいる。
扉には、古い番号札がついていた。
201。
202。
203。
奥の部屋の扉だけ、少し開いていた。
そこから、かすかな物音がした。
久瀬は足を止めた。
水野も止まる。
物音は、紙が擦れるような音だった。
久瀬は、喉が乾くのを感じた。
「黒川先生」
声を出すと、廊下に響いた。
返事はない。
久瀬は、もう一度言った。
「先生。久瀬です」
少し間があった。
それから、奥の部屋の中から声がした。
「……来たのか」
久瀬は、目を閉じそうになった。
黒川の声だった。
弱っている。
かすれている。
それでも、確かに黒川の声だった。
水野が小さく息を吐いた。
久瀬は、扉の前まで進んだ。
「入ります」
返事はなかった。
久瀬は扉を押した。
部屋の中は、古い寮室だった。
小さな机。
鉄製のベッド。
丸椅子。
窓際に置かれた古いカーテン。
床には、資料の入った封筒がいくつか置かれている。
その奥に、黒川修一が座っていた。
上着は着ていない。
白いシャツの袖口が少し汚れている。
眼鏡はない。
髪は乱れていた。
第1章で記憶していた教授の姿より、ずっと小さく見えた。
黒川は、久瀬を見た。
「君なら、4-17-3に気づくと思った」
その第一声に、久瀬は怒りが湧くのを感じた。
安心より先に、怒りが来た。
「先生」
久瀬は言った。
「生きていたんですね」
黒川は目を伏せた。
「すまない」
「それを聞きに来たんじゃありません」
黒川は、何も言わなかった。
水野が一歩前に出た。
「黒川先生。大学では所在確認が続いています。川沿いで先生のコートが見つかっています」
黒川は顔を上げた。
「川沿い?」
その反応は、演技には見えなかった。
久瀬は見逃さなかった。
「先生のコートです」
黒川は、ゆっくり首を横に振った。
「私は、コートを資料室に置いてきた」
「自分で川沿いへは?」
「持っていっていない」
黒川の声はかすれていたが、はっきりしていた。
水野が記録するようにメモを取った。
久瀬は聞いた。
「あのメモは、先生が書いたものですか」
黒川は、少しだけ目を閉じた。
「字は、私のものだ」
久瀬の胸が重くなる。
だが、次の言葉を待った。
黒川は続けた。
「でも、あの意味で書いたものではない」
久瀬は、息を吐いた。
やはり。
「私は、あの言葉を、君に会うために書いた」
黒川は言った。
「消えるためではない」
水野が顔を上げた。
「久瀬さん宛ての手紙の一部ですか」
黒川はうなずいた。
「そうだ」
部屋の中に沈黙が落ちた。
久瀬は、資料室の机を思い出した。
半分だけの手紙。
川沿いのメモ。
責任。
戻れない。
黒川の言葉は、黒川の意思から切り離されていた。
久瀬は言った。
「先生は、ここに隠れていたんですか」
黒川は、答えるまでに時間がかかった。
「隠れていた」
その言葉を、自分で確かめるように言った。
「時間を置きたかった。誰にも見つからない場所で、考えたかった」
「考えるために、鞄も財布も眼鏡も置いて?」
黒川は黙った。
久瀬の声が少し強くなった。
「川沿いでコートが見つかって、大学は先生が自責で消えたと思っています」
「私は、そこまでは」
「そこまでは?」
久瀬は、黒川を見た。
「またですか」
黒川の顔が歪んだ。
「先生は、また逃げたんですか」
水野が久瀬を見る。
止めようとはしなかった。
黒川は、長く息を吐いた。
「私はまた逃げた」
その言葉は、部屋の中で重く落ちた。
「10年前も」
久瀬は言った。
黒川はうなずいた。
「そうだ」
久瀬の手が、無意識に握られる。
「先生は、僕を推薦していたんですか」
黒川は顔を上げた。
その目は、逃げなかった。
「私は、君を推薦した」
久瀬は、言葉を失った。
わかっていた。
推薦状を見た。
推薦希望申請書の控えも見た。
それでも、本人の口で聞くと、胸の奥が痛んだ。
黒川は続けた。
「推薦状も書いた。学科内でも、君を推薦する方向で進んでいた」
「なら、なぜ」
久瀬の声は低かった。
「なぜ、僕に『推薦できない』と言ったんですか」
黒川は、机の上に置かれた古い封筒を見た。
「推薦辞退届のコピーを見せられた」
「誰に」
黒川は、少しだけ間を置いた。
「当時の就職課からだ」
「宮代さんですか」
黒川は答えなかった。
その沈黙が、ほとんど答えだった。
久瀬は言った。
「そこには、僕の署名があった」
黒川はうなずいた。
「認印もあった。本人の意思で辞退したと説明された」
「信じたんですか」
黒川は、すぐには答えなかった。
「信じたかった」
久瀬は、黒川を見た。
「信じたかった?」
「疑えば、大きな問題になる。就職課だけでは済まない。学科も、推薦制度も、田村製作所との関係も巻き込む」
黒川の声は小さかった。
「私は、そこまで踏み込めなかった」
久瀬は、唇を噛んだ。
「6月17日14:12」
黒川の肩が、わずかに動いた。
「先生も、田村製作所にいましたよね」
黒川は目を閉じた。
「いた」
「僕と一緒に」
「いた」
「なら、僕がその時間に就職課へ行けないことは、先生が一番知っていたはずです」
黒川は黙っていた。
久瀬は言った。
「忘れていたんですか」
黒川は、ゆっくり首を横に振った。
「忘れていたわけではない」
久瀬は、黒川の言葉を待った。
黒川は、かすれた声で言った。
「思い出さないようにしたんだ」
部屋の空気が止まった。
思い出さないようにした。
それは、忘れたよりも悪い言葉だった。
久瀬は、怒鳴らなかった。
怒鳴れなかった。
黒川は、机の端を握っていた。
「私は、君を推薦した。だが、君を守らなかった」
久瀬は、その言葉を聞いた。
推薦した。
守らなかった。
2つの言葉が、別々の重さで胸に落ちてくる。
黒川は続けた。
「言えば、君の人生を壊すと思った」
久瀬は、思わず笑いそうになった。
笑いではなかった。
「言わなかったから、壊れたんです」
黒川は、目を伏せた。
「そうだ」
「僕は、10年間、自分が足りなかったんだと思っていました」
黒川は何も言わない。
「成績か。研究か。面接か。人柄か。何かが足りなかったから、推薦されなかったんだと思っていました」
久瀬の声は震えていた。
「先生がそう言ったからです」
黒川は、深く頭を下げた。
「すまない」
その謝罪は、あまりにも遅かった。
水野が静かに口を開いた。
「黒川先生。今、大学では、先生が10年前の推薦処理について責任を感じ、姿を消した可能性があるという見方が出ています」
黒川は顔を上げた。
「私が?」
「はい」
「それは違う」
黒川の声に、初めて少し力が戻った。
「私は、消えるつもりで手紙を書いたのではない」
水野はうなずいた。
「そのことを、先生ご自身の口で説明していただく必要があります」
黒川は黙った。
水野は続けた。
「今戻らなければ、先生の意思が、先生のいないところで作られます」
久瀬は、その言葉を聞いて、黒川を見た。
「また、僕の知らないところで、先生の意思が作られます」
黒川の顔が硬くなった。
久瀬は言った。
「先生。僕は、自分の署名で辞退したことにされました」
黒川は黙っている。
「先生は、自分の筆跡で戻れないことにされました」
久瀬は、静かに続けた。
「それを止めるには、先生が戻るしかありません」
黒川は、窓の方を見た。
古いカーテンの隙間から、外の光が細く入っている。
坂の下に、大学の建物が見えた。
創立80周年を祝った大学。
10年前の推薦辞退届を保管していた大学。
黒川が戻らずに済ませようとした大学。
黒川は、長い時間黙っていた。
やがて、言った。
「怖いな」
久瀬は何も言わなかった。
黒川は、自分の手を見た。
「10年前も、怖かった。今も怖い」
「はい」
「だが、今度は」
黒川は、ゆっくり立ち上がった。
足元が少しふらついた。
水野が支えようとしたが、黒川は手で制した。
「今度は、私の口で言う」
久瀬は、黒川を見た。
その言葉を、10年前に聞きたかったと思った。
だが、言わなかった。
まだ、言うべき場所ではなかった。
水野のスマホが震えた。
水野は画面を見て、表情を変えた。
「事務局からです」
短いメッセージを読んだあと、水野は言った。
「宮代部長が、黒川先生の所在不明について、説明方針をまとめています。式典関係者と一部役職者向けに、危機管理会議が開かれるそうです」
黒川の顔から血の気が引いた。
久瀬は聞いた。
「説明方針?」
水野は、画面を見たまま言った。
「黒川先生が、10年前の推薦処理について責任を感じて所在不明になった可能性がある、という方向のようです」
久瀬は、胸の中で何かが冷たくなるのを感じた。
やはり。
黒川の手紙から作られたメモ。
川沿いのコート。
自責で消えた教授。
その物語が、公式の言葉になろうとしている。
黒川は、椅子の背に手を置いていた。
久瀬は言った。
「先生」
黒川は顔を上げた。
「行きましょう」
黒川は、しばらく久瀬を見ていた。
それから、うなずいた。
「行こう」
水野は、青雲寮の鍵を確認し、部屋の状態を写真に残した。
黒川の所在を確認したことを事務局へ連絡した。
3人は、青雲寮を出た。
外の空気は、建物の中より少し暖かかった。
坂の下に、大学の校舎が見える。
講堂の方では、片付けの音がまだ続いていた。
大学は、何事もなかったように午後を進めている。
久瀬は、黒川の隣を歩いた。
10年前、黒川は久瀬を推薦した。
だが、守らなかった。
その事実は、消えない。
それでも今、黒川は戻ろうとしている。
久瀬は、そのことを許したわけではなかった。
ただ、これ以上、誰かの意思が誰かの書類に変えられるのを見たくなかった。
坂を下りながら、黒川が小さく言った。
「久瀬君」
久瀬は、前を向いたまま答えた。
「はい」
黒川は、少し間を置いた。
「私は、君を推薦した」
久瀬は歩き続けた。
「それは、会議室で言ってください」
黒川は黙った。
久瀬は続けた。
「僕にだけ言っても、もう足りません」
黒川は、静かにうなずいた。
「そうだな」
3人は、旧4号館へ向かって歩いた。
雨上がりの道に、青雲寮の白い建物が背後で小さくなっていく。
黒川は生きていた。
だが、それで終わりではなかった。
ようやく、黒川本人の口で、10年前のことを言わせる時間が来た。
第10章 危機管理会議
小会議室の空気は、冷えていた。
空調の温度が低いわけではない。
そこにいる人間たちが、誰も余計なことを話さないからだった。
長い机の上には、資料が並んでいる。
創立80周年記念式典の進行表。
記念誌の抜粋。
黒川修一の所在確認に関するメモ。
10年前の田村製作所推薦関係書類。
そして、表紙にこう書かれた資料。
黒川教授所在確認に関する暫定対応
その資料の前に、宮代仁が座っていた。
宮代は、いつものように落ち着いていた。
資料の端をそろえ、机上のペンをまっすぐ置き直している。
会議室には、事務局長、総務担当、広報担当、キャリア支援部門の職員が数名いた。
水野葉月の席もあったが、そこは空いている。
講堂の方からは、まだ片付けの音が聞こえていた。
遠くで台車の車輪が鳴っている。
大学は、式典の後処理をしている。
その裏で、別の後処理が始まろうとしていた。
宮代は、資料を開いた。
「現時点で、黒川教授ご本人の所在確認は継続中という扱いです」
広報担当がメモを取る。
「ただし、川沿いでコートが発見され、また、黒川教授の筆跡と見られるメモも確認されています」
宮代は、声を荒げない。
「内容から見て、黒川教授が10年前の推薦処理について、個人的に責任を感じていた可能性があります」
事務局長が眉を寄せた。
「個人的に、ですか」
「はい。もちろん、断定は避けるべきです」
宮代はすぐに言った。
「大学としては、黒川教授の判断を含めて、事実関係を慎重に確認する必要があります」
慎重。
事実関係。
確認。
どの言葉も正しい。
正しい言葉だけで、説明の向きが少しずつ決まっていく。
黒川が責任を感じていた。
黒川が戻れないと書いた。
黒川のコートが川沿いで見つかった。
その3つを並べれば、物語はできる。
黒川教授が、10年前の推薦処理に責任を感じ、大学を離れた。
宮代は、それを断定していない。
だが、その方向へ会議室全体を向けようとしていた。
広報担当が聞いた。
「式典関係者への説明は、どこまで出しますか」
宮代は、資料の次のページを開いた。
「必要最小限でよいでしょう。黒川教授の登壇取りやめについては、体調不良または都合により、と表現する。詳細は確認中とする」
「10年前の推薦処理については」
「現時点では触れない方がよいと思います」
宮代は、そこで少し間を置いた。
「ただ、外部から問い合わせがあった場合には、黒川教授個人の判断を含め、大学として確認中である、と説明するのが穏当です」
穏当。
その言葉が、会議室に落ちた。
誰も、すぐには反論しなかった。
そのとき、会議室の扉がノックされた。
総務担当が立ち上がる。
扉が開いた。
最初に入ってきたのは、水野葉月だった。
その後ろに、久瀬航平がいる。
そして、黒川修一が立っていた。
会議室の空気が止まった。
事務局長が立ち上がる。
「黒川先生」
広報担当が息をのむ。
宮代の指先が、資料の角を一瞬だけ強く押さえた。
それはほんの短い動きだった。
すぐに、いつもの穏やかな表情に戻る。
「黒川先生」
宮代は立ち上がった。
「ご無事で何よりです」
黒川は、宮代を見た。
顔色は悪い。
足元も少しふらついている。
それでも、自分の足で立っていた。
水野が言った。
「青雲寮で、黒川先生の所在を確認しました。施設管理と事務局には連絡済みです」
事務局長が黒川に椅子を勧めた。
黒川は座らなかった。
「私は、説明しなければならないことがあります」
その声は小さかった。
だが、会議室には十分に届いた。
宮代は静かに言った。
「もちろんです。ただ、先生もお疲れでしょう。まずは体調の確認を」
「その前に」
久瀬が口を開いた。
宮代の視線が、久瀬へ向いた。
「黒川先生の意思が、また作られようとしていました」
会議室が静かになる。
宮代は、表情を変えなかった。
「久瀬さん。どういう意味でしょうか」
「先生が10年前の推薦処理に責任を感じ、自責で姿を消した。そういう説明方針になろうとしていたのではありませんか」
宮代は、少しだけ首を傾けた。
「断定はしていません。あくまで可能性のひとつとして、慎重に確認している段階です」
「後ほどでは、先生の意思がまた作られます」
久瀬は言った。
その言葉に、黒川の肩が小さく動いた。
水野がファイルを開いた。
「確認していただきたい資料があります」
宮代が言った。
「水野さん。資料の取り扱いには注意してください。ここは正式な調査委員会ではありません」
「承知しています」
水野は答えた。
「ですので、断定ではなく、現時点で確認された記録として共有します」
水野は、机の上に2つのコピーを置いた。
ひとつは、黒川が久瀬に宛てて書いた手紙。
もうひとつは、川沿いで見つかったメモ。
水野は、まず手紙を読んだ。
「久瀬君。私は君に、10年前、本当のことを言わなかった。あの推薦の件について、私には責任がある。直接会って、君に謝らなければならない」
そこで紙は破れている。
次に、メモを示した。
「この責任は私にある。私はもう戻れない」
水野は言った。
「手紙の破れ目と、メモの端には、関係がある可能性があります。紙質や筆跡については、原本確認と専門的な鑑定が必要です」
宮代は言った。
「可能性、ですね」
「はい」
水野は答えた。
「ただ、黒川先生ご本人に確認できます」
会議室の全員が、黒川を見た。
黒川は、ゆっくり口を開いた。
「あの字は、私のものです」
誰も動かなかった。
黒川は続けた。
「しかし、あれは私が姿を消すために書いたものではありません」
広報担当のペンが止まった。
「久瀬君に会い、10年前の件を話すために書いた手紙の一部です」
事務局長が、低い声で聞いた。
「つまり、黒川先生が自責で戻れないと書いたものではない、ということですか」
「はい」
黒川は答えた。
「私は、消えるつもりであの言葉を書いたのではありません」
宮代は、黒川を見た。
「先生が10年前の件について責任を感じておられたこと自体は、事実ですね」
黒川は、一瞬黙った。
その沈黙に、宮代の言葉が入り込もうとする。
久瀬が言った。
「責任を感じていたことと、責任を感じて消えたことは違います」
宮代は久瀬を見た。
「もちろん、その点も確認が必要です」
「確認ではなく、いま先生本人が否定しました」
会議室に、また沈黙が落ちる。
水野は、次の資料を出した。
「10年前の推薦辞退届についても、確認が必要です」
宮代の表情は変わらなかった。
しかし、机の下で組まれた指が、わずかに固くなった。
水野は推薦辞退届の写しを置いた。
受付日 6月17日
受付時刻 14:12
受付担当 宮代仁
事務局長が、宮代を見た。
宮代は淡々と言った。
「当時、私は就職課の担当職員でした」
水野は、就職課運用マニュアルのコピーを置いた。
「当時の推薦辞退届の提出手続きです」
総務担当が身を乗り出す。
水野は該当箇所を指した。
「推薦辞退届は、本人が学生証を持って就職課窓口に来る必要があります。代理提出、郵送提出、後日処理は不可。受付時刻は、本人確認を行った窓口来室時刻として記録する」
総務担当がコピーを受け取り、確認した。
「年度は」
「2014年度の運用マニュアルです」
総務担当は、ページ下部の年度表示を見た。
「一致しています」
水野は、次の資料を出した。
田村製作所 来客受付記録
2014年6月17日
そこには、来訪者一覧がある。
青陵工業大学 機械工学科 工場見学。
久瀬航平。
黒川修一教授同行。
入館 13:20。
退館 16:05。
会議室の空気が変わった。
事務局長が、資料を見比べる。
総務担当も、顔を上げた。
水野は言った。
「6月17日14:12、久瀬さんは田村製作所の構内にいました」
宮代は、すぐに答えた。
「来客記録が、実際の滞在をどこまで正確に示しているかは確認が必要です。代表時刻や団体受付の可能性もあります」
水野は落ち着いていた。
「田村製作所人事総務部からの回答では、当社受付システムの過年度保管データとされています。入館と退館の記録です」
宮代は言った。
「それでも、当時の就職課側で時刻入力の誤りがあった可能性は否定できません」
「入力時刻ではありません」
水野は、マニュアルの該当箇所をもう一度示した。
「受付時刻は、本人確認を行った窓口来室時刻です」
久瀬が口を開いた。
「僕は、14:12に就職課には行けません」
宮代は久瀬を見た。
「久瀬さんの記憶だけで判断することはできません」
久瀬は、田村製作所の記録を指した。
「記憶だけではありません」
黒川も言った。
「私も、その日、久瀬君と田村製作所にいました」
宮代は、黒川を見る。
黒川は続けた。
「私は、あの日の工場見学に同行しました。久瀬君が14:12に就職課窓口へ行けるはずがありません」
事務局長が、深く息を吐いた。
宮代は、それでも崩れなかった。
「いずれにしても、不正と断定するのは危険です」
水野は言った。
「不正と断定しているのではありません」
そこで一度、言葉を切る。
「本人提出として成立しない、と言っています」
その言葉は、会議室に静かに置かれた。
宮代は、すぐには返せなかった。
やがて言った。
「それでも、署名と認印はどう説明するのですか」
久瀬は、その言葉を待っていた。
「説明できます」
水野が、透明なクリアファイルを出した。
旧4号館17号室3番ロッカーから見つかった書類。
推薦希望申請書 控。
右上に、指導教官控の印がある。
学生氏名 久瀬航平
学科 機械工学科
希望企業 田村製作所
提出日 6月上旬
本人署名 久瀬航平
認印
久瀬は、その書類を見た。
何度見ても、胸の奥が痛む。
それは、田村製作所へ行きたいと書いた自分の意思だった。
水野は説明した。
「就職課保管分の推薦希望申請書原本は、現時点で見つかっていません」
総務担当が確認する。
「保管箱にはないのですね」
「少なくとも、現在確認できている保存箱にはありません」
水野は続けた。
「一方で、黒川研究室側の指導教官控えが、旧4号館17号室3番ロッカーに残されていました」
事務局長が黒川を見る。
黒川は静かにうなずいた。
「私が残しました」
水野は、推薦希望申請書控えと推薦辞退届の写しを並べた。
「専門的な鑑定は必要です。ここでは断定しません」
そして、2つの署名欄を指した。
「ただ、署名の形、認印のかすれ方、署名欄周辺の見え方は、無関係には見えません」
総務担当が資料をのぞき込む。
「たしかに、印影のかすれ方が似ています」
広報担当も息をのんだ。
宮代は、何も言わなかった。
久瀬は、推薦希望申請書を見たまま言った。
「僕は、田村製作所に行きたいと書いた」
会議室の全員が久瀬を見る。
「その署名が、行きません、に使われた」
言葉にした瞬間、胸の奥が焼けるようだった。
だが、久瀬は続けた。
「僕は、推薦を辞退していません」
宮代は、低い声で言った。
「書類上は、久瀬さんの意思として処理されています」
久瀬は顔を上げた。
「書類上の意思を作ったのは、誰ですか」
宮代は黙った。
その沈黙が、会議室の中で長くなった。
やがて宮代は言った。
「それは、今後の調査で確認すべき事項です」
水野が言った。
「その調査方針を、宮代部長がまとめるのは不適切だと思います」
宮代の目が、水野へ向く。
「水野さん」
「少なくとも、宮代部長が説明方針を取りまとめる立場にいることは、適切ではないと思います」
会議室が静まり返った。
宮代は、穏やかな声を保とうとしていた。
「私は、組織として必要な対応を整理しているだけです」
久瀬は言った。
「10年前も、そうだったんですか」
宮代は答えない。
「組織として必要な対応を整理して、僕の意思を別のものにしたんですか」
「久瀬さん」
宮代の声が、少しだけ硬くなった。
「当時の状況を、現在の基準だけで判断するのは適切ではありません。大学推薦枠を維持することは、学生全体に関わる重要な課題でした」
黒川が、顔を上げた。
久瀬は、静かに言った。
「僕の意思は、基準の問題じゃありません」
宮代は黙る。
「僕は田村製作所に行きたいと書いた。その意思が、行きません、に変えられたんです」
黒川が、ゆっくり口を開いた。
「私は、久瀬君を推薦しました」
会議室の全員が、黒川を見る。
黒川は、両手を机の上に置いた。
「推薦状も書きました。その後、久瀬君の推薦辞退届のコピーを見せられました。本人の意思だと説明されました」
黒川の声は震えていた。
「私は疑いました。しかし、踏み込みませんでした」
久瀬は、黒川を見た。
黒川は、逃げなかった。
「私は、彼を推薦しました。しかし、私は彼を守らなかった」
その言葉のあと、会議室には誰の声もなかった。
宮代は、資料の表紙を見ていた。
黒川教授所在確認に関する暫定対応
その表紙は、もうさきほどとは違う意味に見えた。
水野は、最後にもう一度言った。
「黒川先生が自責で所在不明になった、という説明方針は、現時点の確認事項と矛盾します」
事務局長は、しばらく資料を見ていた。
それから、宮代ではなく総務担当に向かって言った。
「関係資料を保全してください」
総務担当がうなずく。
「はい。推薦辞退届の原本、推薦希望申請書控え、田村製作所の来客記録、黒川先生の手紙、川沿いのメモ、すべて保全対象にします」
「保存箱とスキャンデータのアクセス履歴も確認してください」
「承知しました」
事務局長は、次に広報担当を見た。
「黒川教授の所在は確認された。式典関係者には、それだけを必要最小限で共有します」
広報担当がうなずく。
「10年前の推薦処理については」
「確認中です」
事務局長は言った。
「ただし、推薦辞退届の成立には重大な疑義がある。関係書類を保全し、推薦希望申請書原本の所在も含めて調査する」
宮代が口を開いた。
「事務局長、それはまだ」
事務局長は、宮代を見た。
「宮代部長」
会議室の空気が変わった。
「この件について、あなたが説明方針を取りまとめることは、調査の公正性の観点から適切ではありません」
宮代は、表情を変えなかった。
「承知しました」
その声は、やはり穏やかだった。
けれど、初めて宮代の言葉が、会議室の中心から外れた。
事務局長は続けた。
「これは処分ではありません。調査の公正性を確保するための措置です」
「承知しました」
宮代はもう一度言った。
久瀬は、宮代を見ていた。
これで終わりではない。
宮代が裁かれたわけではない。
大学が謝ったわけでもない。
10年が戻るわけでもない。
だが、少なくとも、今日この場で宮代が作ろうとしていた説明方針は崩れた。
黒川が自責で消えたという話。
久瀬が自分で推薦を辞退したという話。
その2つは、もうそのままでは通らない。
会議室の外から、館内放送が聞こえた。
「まもなく、創立80周年記念式典関連行事の片付けを終了いたします。関係者の皆さまは、忘れ物のないようご確認ください」
その声は明るかった。
この会議室の重さとは、あまりにも合わなかった。
黒川は、椅子に座り込んだ。
水野がそばに立つ。
久瀬は、机の上の2枚の書類を見た。
推薦を希望した書類。
推薦を辞退したことにされた書類。
その間にあった10年を、誰もすぐには返せない。
大学が今日ここで久瀬に謝るわけではない。
宮代がこの場で裁かれるわけでもない。
真鍋が得たものが、すぐに消えるわけでもない。
10年は戻らない。
それでも、少なくとも今日。
久瀬が自分で降りたという話だけは、終わった。

著者名:
【可児波起:海辺の部屋CEO】
ラップミュージシャンとしてメジャーデビュー=STAND WAVE。障がい者の介護職をするラッパー「介護ラッパー」としてフジテレビで2度特集。ビジネス領域では、「デジタルマーケティング」「Webマーケティング」のスペシャリストとして「ナショナルクライアント(東証プライム)企業」で、戦略コンサルタントなどを行う。高速のキャッチアップ、PDCAで、「確実に成果を出し」続けている。
「マーケティングは『愛』である」という、「人の優しさ」を大切にしている
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