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『恋リアで最後の恋をした』 カメラに映らなかった、七日間の恋。 | 創作大賞恋愛小説部門

    #創作大賞2026
    #恋愛小説部門

    <あらすじ>

    大学生の広瀬真帆は、いつも人の輪の端にいる女の子だった。人の気持ちにはよく気づくのに、自分の気持ちは後回しにしてしまう。そんな自分を変えたくて、恋愛リアリティショー『恋する七日間』に出演する。

    真帆は番組の中で瀬名颯太に惹かれるが、颯太と佐倉莉子の不安やすれ違いに気づき、二人の恋を支えてしまう。やがて真帆は、誰かの恋を進める便利な聞き役として扱われていることに傷つき、ADの高杉孝太郎に「私を使わないでください」と告げる。

    高杉は、自分が真帆を利用していたことに気づき、彼女を番組に残そうとする。しかし、真帆の優しさはいつもカメラの外で人を救ってしまい、テレビには映らない。さらに高杉は余命半年であることを真帆に明かす。

    最終告白で真帆は誰にも選ばれず、放送でもほとんど映らない。けれど、裏垢「カメラの外」によって、真帆の見えない優しさを見ていた人がいると知る。真帆は高杉に告白し、短い恋をする。高杉の死後、彼の進行ノートから、裏垢の正体が高杉だったとわかる。番組には残らなかった真帆の恋は、カメラの外に確かに残されていた。

    高杉に見つけられた真帆は、最後に友人たちとの写真で、自分から「切れないところ」に立つ。


    プロローグ そして真帆の旅も、ここで終了


    私の七日間は、六秒で終わった。

    正確に言うと、六秒と少し。

    画面の中の私は、白いワンピースを着て、海の見えるデッキに立っていた。風が強くて、前髪が何度も目にかかっている。たぶん緊張していたのだと思う。右手で髪を押さえたあと、すぐにその手を下ろして、何もなかったみたいに笑っていた。

    その笑い方を見て、私は少しだけ嫌になった。

    ああ、私、こういう時も笑うんだ。

    最終告白の日だった。

    恋愛リアリティショー『恋する七日間』。海辺のヴィラで、七日間だけ一緒に過ごして、最後に好きな人へ想いを伝える。そういう番組だった。

    私、広瀬真帆は、そこに出演していた。

    少なくとも、撮影中はそのつもりだった。

    白いデッキには、女子たちが横一列に並んでいた。私の隣には莉子ちゃんがいた。佐倉莉子ちゃん。誰が見ても可愛くて、カメラが向くと、その場の空気まで少し明るくなるような子だった。

    莉子ちゃんは、泣きそうな顔をしていた。

    でも、ちゃんと可愛かった。

    ずるいな、と思ったわけではない。たぶん、少しだけ思ったかもしれない。でも、それ以上に、よかったね、と思っていた。

    だって私は知っていた。

    莉子ちゃんが、カメラのないところで何度も不安そうにしていたこと。
    颯太くんの名前を出す時だけ、声が少し小さくなること。

    瀬名颯太くんが、莉子ちゃんの前ではいつもより少しだけ背筋を伸ばしていたことも知っていた。

    だから、颯太くんが莉子ちゃんの前に立った時、私は驚かなかった。

    驚かなかったのに、胸の奥は少し痛かった。

    「莉子」

    颯太くんが名前を呼んだ。

    莉子ちゃんの肩が、小さく揺れた。

    カメラが、二人に寄っていくのがわかった。スタッフさんたちの足音が、少しだけ遠ざかる。風の音。マイクが服の内側でこすれる音。誰かが息を飲む気配。

    恋リアの最終告白は、テレビで見ると綺麗だ。

    夕方の海。白い服。泣きそうな女の子。まっすぐに想いを伝える男の子。

    でも、実際の現場は少し違う。

    照明は眩しい。
    風は強い。
    髪は乱れる。
    スタッフさんの靴音が聞こえる。
    誰かが泣くまで、空気がじっと待っている感じがする。

    それでも、颯太くんの声はまっすぐだった。

    「俺は、莉子のことが好きです」

    莉子ちゃんは泣いた。

    私は、拍手した。

    好きだった人と、その人が選んだ女の子に向かって。

    手のひらが少し痛くなるまで、ちゃんと拍手した。止めたら、泣いてしまいそうだったから。

    颯太くんと莉子ちゃんが向き合っている間、私はずっと笑っていたと思う。

    よかった。

    本当に、そう思っていた。

    莉子ちゃんが報われてよかった。
    颯太くんがちゃんと言えてよかった。
    二人がすれ違わなくてよかった。

    でも、その「よかった」の奥に、ひとつだけ、しまいきれない気持ちが残っていた。

    私も、誰かに好きって言われたかった。

    たったそれだけだった。

    告白されたいとか、番組の主役になりたいとか、そんな大きなことではなかった。たぶん。

    ただ一度でいいから、私の名前を呼んでほしかった。

    「真帆」と。

    誰かの相談相手としてではなく、誰かの背中を押す人としてでもなく、ちゃんと私に向かって。

    でも、最終告白で私の名前は一度も呼ばれなかった。

    誰も、私の前には立たなかった。

    それでも番組は進んでいく。

    誰かが告白する。
    誰かが泣く。
    誰かが笑う。
    誰かが選ばれる。

    そのたびに、カメラが動く。

    私の前だけ、風が通り過ぎていく。

    撮影が終わったあと、スタッフさんが明るい声で言った。

    「皆さん、お疲れさまでした」

    出演者たちは泣きながら抱き合った。成立した二人は、少し照れた顔で並んでいた。スタッフさんたちは機材を片づけ始めていた。

    私は、莉子ちゃんに抱きつかれた。

    「真帆ちゃん、ありがとう。真帆ちゃんがいなかったら、私、無理だった」

    颯太くんにも言われた。

    「真帆が背中押してくれたから、言えた」

    私は笑った。

    「よかった」

    また、それしか言えなかった。

    家に帰って、放送日を待った。

    自分がどんなふうに映っているのか、怖かった。恥ずかしかった。でも、少しだけ楽しみでもあった。

    だって、七日間いたのだ。

    緊張して、笑って、泣きそうになって、誰かの話を聞いて、誰かの背中を押して、好きだった人を見送って、それでも最後までそこにいた。

    だから少しくらいは、映っていると思っていた。

    放送日の夜、スマホの画面で自分を探した。

    莉子ちゃんはたくさん映っていた。
    颯太くんもたくさん映っていた。
    美月ちゃんの強い言葉は、テロップ付きで使われていた。
    怜央くんの冗談には、効果音がついていた。

    私は、画面の端にいた。

    誰かの後ろ。
    ソファの端。
    キッチンの奥。
    莉子ちゃんに水を渡す手だけ。
    颯太くんの話を聞いている横顔だけ。

    何度か巻き戻して、画面の端を指で止めた。

    そこにいるのが自分だとわかるまで、少し時間がかかった。

    最終告白の場面も、颯太くんが莉子ちゃんを選んだところは、綺麗な音楽と一緒に長く流れた。莉子ちゃんの涙も、颯太くんの言葉も、夕方の海も、ちゃんと物語になっていた。

    私が拍手している場面は、一瞬だった。

    ナレーションが入った。

    「そして真帆の旅も、ここで終了」

    それだけだった。

    私は、スマホを持ったまま動けなかった。

    怒っていたわけではない。

    たぶん、怒るほど映っていなかった。

    悲しいというより、変な感じだった。

    あれ。

    私、いたよね。

    七日間、ちゃんといたよね。

    そう思った。

    恋リアに出て、誰にも選ばれない。
    そこまでは、まだわかる。

    でも、ほとんど映らないとは思っていなかった。

    私の七日間は、六秒で終わった。

    誰にも選ばれなかった上に、ほとんど映らなかった。

    それでも、あの七日間の中で、私はたしかに恋をした。

    ただ、その恋は、放送されなかった。

    第1章 私は端っこにいた


    そもそも私は、昔から端っこにいる方が楽だった。

    誰かにそう決められたわけではない。いじめられていたわけでもないし、友達がいなかったわけでもない。むしろ、私はたぶん、わりと普通に人と話せる方だったと思う。

    ただ、気づくと端にいた。

    四人で歩く時は、だいたい一番後ろになる。前の二人が楽しそうに話していると、そこに割って入るより、少し後ろで聞いている方が楽だった。

    誰かが歩くのを少し遅らせると、私は自然にその子に合わせた。靴ひもを結ぶ子がいれば立ち止まったし、スマホを見ながら歩いている子がいれば、ぶつからないように少しだけ横にずれた。

    別に、すごく優しい人間というわけではない。

    ただ、そうしている方が落ち着いた。

    後ろを歩いていると、みんなの顔が見える。

    楽しそうか。
    退屈しているか。
    無理して笑っているか。
    本当は帰りたそうか。

    そういうのが、わりと見える。

    だから私は、前を歩くより、後ろを歩く方が好きだった。

    好きだった、というより、楽だった。

    その日も私は、大学へ向かう道で、彩花たちの少し後ろを歩いていた。

    六月の終わりで、空気はもう夏みたいに重かった。駅からキャンパスまでの坂道は地味に長くて、日陰を選びながら歩いても、じわっと汗をかく。

    「ねえ真帆、聞いてる?」

    前を歩いていた宮園彩花が、急に振り返った。

    彩花は高校からの友達で、大学も同じだった。明るくて、思ったことをすぐ口にする。失礼なことも言うけれど、そのぶん嘘も少ない。

    私は少し早足で追いついた。

    「聞いてるよ」

    「絶対聞いてなかった顔してた」

    「聞いてた。昨日の夜、蓮くんから返信が来なくて、朝になって『寝てた』って来たけど、ストーリーは更新してたって話でしょ」

    「めちゃくちゃ聞いてるじゃん」

    彩花は大げさに目を丸くした。

    隣にいた友達の麻衣が笑う。

    「真帆って、聞いてない顔で全部聞いてるよね」

    「それ、ちょっと怖くない?」

    「怖くないよ。便利」

    「便利って何」

    私が言うと、彩花は私の肩を軽く叩いた。

    「で、どう思う?」

    「どうって?」

    「蓮。怒っていいやつ?」

    「怒ってもいいと思うけど、怒る前に一回聞いた方がいいかも」

    「なんて?」

    「『寝てたって言ってたけど、ストーリーは上がってたからちょっと寂しかった』くらい」

    彩花は顔をしかめた。

    「重くない?」

    「『なんで嘘ついたの?』よりは軽い」

    「それはそう」

    麻衣が感心したように言った。

    「真帆、恋愛相談だけはプロだよね」

    「だけは、って何」

    「だって彼氏いたことないじゃん」

    麻衣は悪気なく言った。

    私は笑った。

    「まあ、そうなんだけど」

    言われ慣れているはずなのに、少しだけ胸の奥が引っかかった。

    彼氏がいたことはない。

    でも、誰にも好かれたことがないわけではなかった。

    高校の時、同じ図書委員だった男の子に告白されたことがある。

    放課後の図書室だった。窓の外では野球部の声がしていて、私たちは返却された本を棚に戻していた。彼は、突然ではなく、たぶんずっと言うタイミングを探していたのだと思う。

    「広瀬さんのこと、好きです」

    そう言われた時、私は最初に「ありがとう」と言った。

    それから、なぜか何度も謝った。

    「ごめんね」
    「本当にごめん」
    「気持ちは嬉しいんだけど」
    「ごめん」

    彼は困ったように笑って、

    「謝らないで」

    と言った。

    その笑顔の方が、つらかった。

    私は彼のことが嫌いではなかった。むしろ、いい人だと思っていた。優しくて、静かで、返却本を分類する時に、背表紙の番号をきちんと揃える人だった。

    でも、その気持ちに同じだけのものを返せる自信がなかった。

    付き合ってみて、やっぱり違った時。
    その方が、もっと傷つける気がした。

    だから断った。

    そのあと、図書室で会うたびに気まずくなった。彼は最後まで優しかった。優しいまま、私から少しずつ離れていった。

    私は、それが怖かった。

    好きです、と言われることより、そのあとに誰かが傷つくことの方が、ずっと怖かった。

    大学に着くと、私たちはカフェテリアに入った。

    昼前のカフェテリアは、まだ席に余裕があった。窓際のテーブルに四人で座ることになり、私は自然に通路側の端の席に座った。

    「また端じゃん」

    彩花が言った。

    「え?」

    「真帆、いっつも端に座るよね」

    「そう?」

    「そうだよ。写真撮る時も端。歩く時も後ろ。飲み会でも入口側。なんか非常口みたいな位置にいる」

    麻衣が笑った。

    「非常口の女」

    「やめてよ」

    私も笑った。

    端の席は、落ち着く。

    誰かが通りたそうにしていたら、すぐ椅子を引ける。
    誰かの水が空になっていたら、取りに行きやすい。
    急に人数が増えても、席を詰めやすい。

    理由はいくらでもあった。

    でもたぶん、一番の理由は、真ん中に座ると落ち着かないからだった。

    真ん中は、見られる。

    端は、見られにくい。

    カフェテリアのテーブルで、彩花はまたスマホを出した。蓮くんとのLINE画面を私に見せてくる。

    「でさ、この返信どう思う?」

    私は画面をのぞき込んだ。

    蓮くんからの返信は短かった。

    『ごめん、寝落ちしてた』

    その下に、彩花がまだ送っていない文章が入力されている。

    『ストーリー見たんだけど』

    私は少し考えた。

    「それ送ると、責めてる感じになりそう」

    「責めてるもん」

    「うん。でも、責めたいっていうより、寂しかったんでしょ」

    彩花は口を閉じた。

    さっきまで怒っていた顔が、少しだけ子どもっぽくなる。

    「……まあ、そう」

    「じゃあ、それ言えばいいと思う」

    「寂しかったって?」

    「うん」

    「負けた感じしない?」

    「勝ち負けなの?」

    「恋愛って、半分くらい勝ち負けじゃない?」

    麻衣が横から言った。

    「わかる。先に好きって言った方が負けみたいなとこある」

    「え、そうなの?」

    私が聞くと、二人が同時にこっちを見た。

    「真帆はそういうとこだよ」

    彩花が言った。

    「どういうとこ?」

    「人の気持ちはめちゃくちゃ読めるのに、自分がそのゲームに入ると急に電源落ちる」

    「ゲームって」

    「恋愛ゲーム」

    「やったことないから」

    「だからだよ」

    彩花はスマホを伏せて、私をじっと見た。

    その顔は、さっきまでのふざけた感じとは少し違っていた。

    「真帆って、人の気持ちはわかるのに、自分の気持ちだけ全部後回しにするよね」

    私は笑おうとした。

    「そんなことないよ」

    「あるよ」

    彩花はすぐに言った。

    「真帆、誰かに告白されても、まず相手が傷つかない断り方考えるじゃん。自分がどう思ってるかより先に」

    「それは、傷つけたくないから」

    「うん。でもさ」

    彩花は少しだけ言いにくそうにした。

    「優しいだけじゃなくて、怖いのもあるんじゃない? 誰かを選んで、誰かに嫌われるのが」

    カフェテリアの音が、少し遠くなった。

    隣のテーブルで誰かが笑っている。食器が重なる音がする。券売機の前で、学生たちが列を作っている。

    私は紙コップの水を見た。表面に、天井の白い光が揺れていた。

    何か言い返したかった。

    でも、出てこなかった。

    「……そんなにひどい?」

    やっと出たのは、それだけだった。

    彩花は慌てて首を振った。

    「ひどいとかじゃなくて。真帆のこと嫌いで言ってるんじゃないよ」

    「わかってる」

    「真帆は優しいよ。ほんとに。でもさ、優しいのと、自分を消すのって、たぶん違うじゃん」

    自分を消す。

    そんな大げさな言葉、と思った。

    でもその時、さっき彩花に言われたことを思い出した。

    非常口みたいな位置にいる。

    ちょっと笑えたのに、笑えなかった。

    その日の帰り道、私は一人で駅へ向かっていた。

    夕方の坂道は、昼間より少しだけ風があった。学生たちが何人も前を歩いていて、私はまた自然にその後ろを歩いていた。

    スマホを開くと、彩花からメッセージが来ていた。

    『さっきの、言いすぎてたらごめん』

    私はすぐに返信した。

    『大丈夫』

    送ってから、少しだけ画面を見つめた。

    大丈夫。

    私はこの言葉をよく使う。

    本当に大丈夫な時もある。
    でも、そうじゃない時もある。

    というより、そうじゃない時ほど、先に出てくる気がする。

    駅のホームで電車を待っている間、何気なくSNSを開いた。

    流れてきた広告に、派手な文字が並んでいた。

    『恋する七日間』新シーズン出演者募集。

    海。
    白いヴィラ。
    笑っている男女。
    夕焼けのデッキ。

    その中に、こんな言葉があった。

    「この夏、人生でいちばん本気の恋をしませんか?」

    私は、すぐに画面をスクロールしようとした。

    でも、指が止まった。

    その下に、もう一文あった。

    「自分を変えたいあなたへ」

    電車がホームに入ってきた。風が髪を揺らす。ドアが開いて、人が降りて、人が乗っていく。

    私はその場で、広告を開いた。

    応募条件。
    撮影期間。
    未婚であること。
    恋人がいないこと。
    顔写真。
    自己PR。
    恋愛経験。

    恋愛経験の欄で、少し止まった。

    書けることが、ほとんどない。

    それなのに、なぜか画面を閉じられなかった。

    恋がしたいのかと聞かれたら、よくわからない。

    でも、変わりたいとは思った。

    誰かに選ばれる前に逃げるのを、やめたい。
    誰かの気持ちばかり見て、自分の気持ちをなかったことにするのを、やめたい。

    誰かを傷つけないまま生きることは、たぶんできない。

    だったらせめて、自分の気持ちをちゃんと持ってみたい。

    電車の中で、私は応募フォームに名前を入れた。

    広瀬真帆。

    年齢。
    大学名。
    連絡先。
    趣味。
    自己PR。

    自己PRの欄で、また止まった。

    自分のいいところ。

    そう言われると、何も出てこない。

    少し考えてから、こう書いた。

    「人の話を聞くのは、得意だと思います。」

    書いてから、少しだけ嫌になった。

    またそれか、と思った。

    でも消せなかった。

    最後に顔写真を選んだ。友達と撮った写真の中で、私は端にいた。少し見切れていたので、指で拡大して、自分の顔が入るように切り取った。

    それでも、画面の中の私は少し端に寄っていた。

    応募ボタンの上で、親指が止まった。

    本当に出るの?

    そんな声が、頭の中で聞こえた。

    無理じゃない?

    そうも思った。

    でも、彩花の声が重なった。

    自分の気持ちだけ全部後回しにするよね。

    私は息を吸って、応募ボタンを押した。

    送信完了。

    画面に、その四文字が出た。

    怖くなった。

    すぐに取り消したくなった。

    でも、取り消し方を探す前に、電車が大きく揺れた。私はつり革をつかみ直した。

    窓に映った私は、やっぱり少し端にいた。

    それでも、その日は画面を閉じなかった。

    第2章 清楚系でいけるね


    応募ボタンを押した時点で、半分くらいは終わった気でいた。

    少なくとも私は、あの電車の中で少しだけ変われたような気がしていた。応募フォームに名前を入れて、顔写真を添付して、自己PRに「人の話を聞くのは、得意だと思います」と書いた。

    それだけで、今までの自分より少し前に出た気がした。

    だから、まさか本当に通るとは思っていなかった。

    通知が届いたのは、応募してから二週間後の夜だった。

    お風呂から出て、髪をタオルで拭きながらスマホを見たら、知らないアドレスからメールが届いていた。

    件名は、

    『恋する七日間』新シーズン出演選考結果のご連絡

    だった。

    その文字を見た瞬間、心臓が一回だけ変な動きをした。

    落ちたんだ、と思った。

    というより、落ちていてほしかったのかもしれない。

    でもメールを開くと、最初の方にこう書いてあった。

    広瀬真帆様

    このたびは『恋する七日間』新シーズン出演者募集にご応募いただき、誠にありがとうございました。

    厳正なる選考の結果、広瀬様には次回選考を兼ねた事前撮影にご参加いただきたく、ご連絡いたしました。

    私は、濡れた髪のまましばらく画面を見ていた。

    通ってしまった。

    最初に思ったのは、それだった。

    嬉しい、より先に、怖い。

    怖い、より少し遅れて、嬉しい。

    その順番だった。

    すぐ彩花にスクリーンショットを送ると、十秒くらいで電話がかかってきた。

    「え、やば!」

    出た瞬間、彩花の声が耳に刺さった。

    「真帆、恋リア出るの?」

    「まだ出るって決まったわけじゃないよ。事前撮影だって」

    「いや、ほぼ出るやつじゃん」

    「わかんないって」

    「絶対見る!」

    「見ないで」

    「見る。いや、見るの恥ずいか。いやでも見る。てか録画する」

    「やめて」

    彩花は電話の向こうで勝手に盛り上がっていた。

    「真帆が恋リアかあ。すごいじゃん」

    「すごいのかな」

    「すごいよ。だって真帆、写真撮る時も端に逃げるのに」

    「それはもういいから」

    「でもさ、ほんとに出たら変わるかもよ」

    その言葉で、私は少し黙った。

    変わる。

    そのために応募したはずだった。

    でも、いざ本当に番組の方から手を伸ばされると、変わりたい気持ちより、変わったあとに戻れない怖さの方が大きくなった。

    「真帆?」

    「うん」

    「大丈夫?」

    「大丈夫」

    言ってから、自分で少し笑いそうになった。

    また出た。

    大丈夫。

    彩花もそれに気づいたのか、電話の向こうで少しだけ黙った。

    「まあ、無理はしないでよ」

    「うん」

    「でも、ちょっとだけ頑張ってきな」

    「ちょっとだけ?」

    「真帆は全部頑張ると倒れるから、ちょっとだけ」

    彩花のそういうところは、少しずるい。

    重いことを軽く言う。

    だから、私は笑えた。

    事前撮影の日、私はいつもより一時間早く目が覚めた。

    指定された場所は、都内の撮影スタジオだった。何度も乗り換えを調べて、地図アプリで駅からの道を確認して、集合時間の三十分前には最寄り駅に着いた。

    早すぎると思ったけれど、遅れるよりはいい。

    スタジオは、表から見ると普通の灰色のビルだった。テレビで見るような華やかさはない。入口に小さな看板が出ていて、そこに『恋する七日間』と印刷された紙が貼ってあった。

    その紙を見た時、急に実感が来た。

    本当にあるんだ。

    番組は、画面の中だけにあるものだと思っていた。でも当たり前だけど、画面の外には入口があって、受付があって、エレベーターがあって、スタッフさんがいて、コードが床を這っている。

    中に入ると、知らない人たちが慌ただしく動いていた。

    黒い服を着たスタッフさん。
    大きなライト。
    壁際に並んだ衣装ラック。
    メイク道具の匂い。
    床に貼られた黄色いテープ。
    誰かの名前が書かれた紙コップ。

    「あ、広瀬真帆さんですか?」

    受付にいた女性スタッフが、私の顔を見る前に名前を呼んだ。

    「あ、はい」

    知らない人が自分の名前を知っている。

    それが、少し変な感じだった。

    「お待ちしてました。こちらにお願いします」

    お待ちしてました。

    その言葉に、私は少し緊張した。

    大学でも、バイト先でも、私はだいたい誰かの後ろにいる。名前を呼ばれるとしても、出席確認とか、シフトの確認とか、そういう時だ。

    ここでは、私の名前が最初から紙に書かれている。

    広瀬真帆。

    その四文字が、急に自分のものではないみたいに見えた。

    メイク室に案内されると、鏡の前に座らされた。

    大きな鏡の周りには丸いライトが並んでいて、座っただけで顔の細かいところまで見えてしまう。私は思わず姿勢を正した。

    「広瀬さん、肌きれいですね」

    ヘアメイクの女性が、私の顔を見て言った。

    「え、そんなことないです」

    「ありますよ。ファンデ薄くて大丈夫そう」

    「はあ」

    どう返せばいいかわからなくて、変な声が出た。

    「目も印象あるから、あんまり濃くしない方がいいかも。髪も、巻きすぎないでさらっといきましょう」

    「お願いします」

    自分の顔について、目の前で誰かが相談している。

    それが落ち着かなかった。

    でも、嫌ではなかった。

    下地を塗られて、まぶたに色を乗せられて、髪を整えられていく。鏡の中の私は、少しずつ知っている自分から離れていった。

    いつもの私より、肌が明るい。
    目が大きく見える。
    髪がさらさらしている。
    唇に色がある。

    すごい、と思った。

    同時に、落ち着かない、と思った。

    鏡の中の私は、私なのに、私よりずっとちゃんとしていた。

    後ろを通った男性スタッフが、鏡越しに私を見て言った。

    「広瀬さん、いいですね。清楚系でいけるね」

    別の女性スタッフが衣装ラックを見ながら言う。

    「守ってあげたい感じありますよね。白とか淡い色が合いそう」

    清楚系。

    守ってあげたい感じ。

    私は、曖昧に笑った。

    褒められているのだと思う。

    たぶん。

    実際、嬉しくないわけではなかった。

    清楚、と言われたことはあまりない。守ってあげたい、と面と向かって言われたこともない。少なくとも、自分からそう見られたいと思ったことはなかった。

    でも、そう言われた瞬間、私の上に薄い透明なフィルムみたいなものが一枚かかった気がした。

    広瀬真帆。

    その上に、清楚系、守ってあげたい感じ、という付箋を貼られたみたいだった。

    「広瀬さん、水飲んでます?」

    横から声がした。

    振り向くと、ペットボトルの水を何本も抱えた男の人が立っていた。黒いTシャツに、黒いパンツ。首からスタッフパスを下げていて、片耳にインカムをつけている。年齢は、私より少し上くらいに見えた。

    「あ、いえ」

    「ライト当たると、思ったより乾くんで」

    そう言って、一本差し出してくれた。

    「ありがとうございます」

    受け取ると、彼は少しだけ笑った。

    「無理に清楚系やらなくてもいいと思いますよ」

    手が止まった。

    「聞こえてました?」

    「ADなんで、だいたい聞こえちゃうんです」

    彼はそう言って、すぐに横を向いた。

    「はい、すみません。今行きます」

    インカムに返事をして、走りかける。でもその前に、私の方を見て言った。

    「高杉です。今日、広瀬さん周りちょこちょこつきます。何かあったら呼んでください」

    「あ、はい。よろしくお願いします」

    「こちらこそ。すみません、バタバタで」

    高杉さんは軽く頭を下げて、今度こそ小走りで廊下の方へ消えていった。

    無理に清楚系やらなくてもいい。

    その言葉は、少しだけ嬉しかった。

    私が何か言う前に、気づいてくれた気がしたから。

    でも同時に、高杉さんもスタッフなのだと思った。

    私を「広瀬さん」と呼ぶ声は優しかったけれど、その手には進行表があった。インカムからは誰かの指示が飛んでいる。彼は私と話している間も、視線の端で時計を見ていた。

    私を見ている。

    でも、私だけを見ているわけではない。

    そのあと、事前インタビューの撮影が始まった。

    白い壁の前に椅子が置かれ、その正面にカメラがあった。カメラの横にはスタッフさんが何人か座っていて、手元の紙を見ながら質問をしてくる。

    「広瀬さん、恋愛経験は?」

    いきなりだった。

    「えっと……付き合ったことは、ないです」

    言った瞬間、スタッフさんの一人が小さくうなずいた。

    「いいですね」

    いいんだ。

    思わずそう思った。

    付き合ったことがないのは、私にとって少し恥ずかしいことだった。人に言うと、「え、意外」とか「もったいない」とか「理想高いの?」とか、いろんな言葉が返ってくる。

    でもここでは、いいですね、と言われる。

    「初恋感ありますね」

    別のスタッフが言った。

    初恋感。

    また、新しい付箋が増えた。

    「どんな人がタイプですか?」

    「タイプ……」

    私は少し考えた。

    好きなタイプ。

    雑誌や動画でよく見る質問なのに、自分が聞かれると急に難しい。

    「ちゃんと話を聞いてくれる人、ですかね」

    答えてから、また少し嫌になった。

    聞く、聞いてくれる。

    私の言葉は、いつもそこに戻ってくる。

    「今回、どうして応募したんですか?」

    これは、少しだけ答えられる気がした。

    「自分を変えたいと思ったからです」

    「どう変わりたいですか?」

    カメラのレンズが、まっすぐこっちを向いている。

    私は、膝の上で指を組んだ。

    「いつも、誰かの話を聞く側になることが多くて」

    「はい」

    「それが嫌なわけじゃないんですけど……でも、自分の気持ちを言うのが下手で」

    言葉を選びながら話した。

    間違えたくなかった。
    でも、綺麗に話しすぎても嘘になる気がした。

    「誰かを好きになるとか、誰かに好きって言うとか、そういうことから逃げてきた気がして」

    スタッフさんが、静かにうなずいている。

    「だから、今回は逃げないでいたいです」

    言ってから、顔が熱くなった。

    自分で言った言葉なのに、誰かに聞かれていると思うと恥ずかしい。

    「いいですね」

    また、誰かが言った。

    さっきとは違う意味の「いいですね」なのかもしれない。

    でも私は少しだけ、怖くなった。

    自分の恥ずかしいところ。
    自分が嫌だと思っているところ。
    人に見せたくないところ。

    そういうものが、ここでは少し喜ばれる。

    それが、変だった。

    カメラの前で話していると、話せば話すほど、自分が軽く切り分けられていくような気がした。

    恋愛経験なし。
    清楚系。
    守ってあげたい。
    自分を変えたい。
    聞き役。

    それは全部、嘘ではない。

    嘘ではないから、余計に変だった。

    撮影が一度止まり、スタッフさんたちが確認をしている間、私は椅子に座ったままペットボトルの水を飲んだ。

    さっき高杉さんにもらった水だった。

    廊下の方で、誰かが高杉さんを呼んでいる。

    「高杉、香盤どこ?」

    「すみません、今出します」

    「広瀬さんの次、コメント撮り追加できる?」

    「確認します」

    高杉さんの声は、あちこちから聞こえた。

    走っている。
    謝っている。
    何かを探している。
    誰かに水を渡している。

    少しして、彼が私の近くを通った。

    手には自分用らしい水があった。立ち止まると、ポケットから小さな白い錠剤を出して、慣れた感じで口に入れた。

    私が見ていることに気づいたのか、高杉さんはボトルの口を閉めながら笑った。

    「ただの胃薬です。AD、胃が荒れるんで」

    「あ……大変なんですね」

    「大変です。夢のある仕事っぽく見えて、胃にはあんまり夢がないです」

    私は少し笑った。

    高杉さんも笑って、またすぐに呼ばれて走っていった。

    その背中を見送りながら、私は水のラベルを指でなぞった。

    この人は、ずっと動いている。

    さっきまで私の言葉を聞いてくれていたのに、もう次の段取りに入っている。

    それが少し寂しいような、当たり前のような、不思議な感じだった。

    事前撮影の最後に、私はモニターで自分の映像を見せられた。

    「確認だけお願いします」

    そこに映っていた私は、白いブラウスを着て、少し緊張した顔で座っていた。

    でも、思っていたより悪くなかった。

    髪は綺麗に整っていて、目元はいつもより明るく見えた。話す時に少し視線が泳いでいるけれど、それもたぶん、番組の中では初々しく見えるのかもしれない。

    「いいですね」

    スタッフさんが言った。

    「清楚系、かなりハマりそう」

    私は笑った。

    「ありがとうございます」

    そう言うしかなかった。

    モニターの中の私は、ちゃんと恋リアの出演者に見えた。

    今まで端っこにいた私が、白い壁の前でライトを浴びて、カメラに向かって話している。

    それは少し嬉しかった。

    嬉しかったからこそ、怖かった。

    画面の中の私は、ちゃんと恋リアの女の子に見えた。

    だからこそ、少し怖かった。

    第3章 可愛いっぽいんだけど、なんかなぁ


    収録初日の海は、画面で見るよりずっと明るかった。

    車を降りた瞬間、潮の匂いがした。風が強くて、せっかく整えてもらった髪がすぐに頬へかかる。スタッフさんに案内されながら坂を下りると、白い壁のヴィラが見えた。

    大きな窓。
    海の見えるデッキ。
    白いソファ。
    観葉植物。
    テーブルの上に置かれた貝殻の飾り。

    全部が、ちゃんと恋リアだった。

    すごい、と思った。

    でも、そのすぐあとに、少しだけ別のことも思った。

    ここで恋をするんだ。

    そして、ここで恋をするように撮られるんだ。

    ヴィラの中に入ると、リビングの隅に小さなカメラがあった。壁の上の方にも、黒い丸い機械がついている。最初は照明かと思ったけれど、たぶんカメラだった。

    見られている。

    そう思うと、急に歩き方がわからなくなった。

    「広瀬さん、こちらで少し待機お願いします」

    スタッフさんに言われて、私はリビングの端にあるソファに座った。

    端だった。

    自分で選んだわけではない。たぶん。空いていたから座っただけだ。でも、座ってから、また端だ、と思った。

    膝の上で手をそろえる。

    窓の外では、海が光っていた。

    「おはようございます」

    明るい声がして、顔を上げた。

    入ってきた女の子を見た瞬間、あ、と思った。

    佐倉莉子ちゃんだった。

    事前に番組側から、出演者の名前だけは聞かされていた。でも写真は見ていなかった。だから初対面だった。

    莉子ちゃんは、白いノースリーブのブラウスに、淡いブルーのスカートを合わせていた。髪はゆるく巻かれていて、耳元の小さなピアスが光っている。メイクは濃くないのに、全部がちゃんとしていた。

    可愛い人は、朝から可愛い。

    そんな変なことを思った。

    「真帆ちゃん?」

    莉子ちゃんは私を見ると、ぱっと笑った。

    「はい。広瀬真帆です」

    「莉子です。よろしくね」

    「よろしくお願いします」

    「敬語じゃなくていいよ。同い年でしょ?」

    「あ、うん。よろしく」

    莉子ちゃんは私の隣に座った。距離が近い。でも、不思議と嫌ではなかった。香水なのかシャンプーなのか、少し甘い匂いがした。

    「緊張するね」

    莉子ちゃんが小さな声で言った。

    「うん。すごく」

    「よかった。私だけじゃなかった」

    そう言って笑う顔も、やっぱり可愛かった。

    少し遅れて、黒川美月ちゃんが来た。

    美月ちゃんは、ベージュのシャツに黒いパンツで、莉子ちゃんとは違う種類の綺麗さがあった。落ち着いていて、歩き方がまっすぐだった。部屋に入ってすぐ、カメラの位置を一瞬だけ見た気がした。

    「あ、美月です。よろしく」

    声も落ち着いていた。

    「よろしくお願いします」

    私が頭を下げると、美月ちゃんは少し笑った。

    「緊張してる?」

    「してる」

    「最初はみんなそうだよ」

    その言い方が、もう何回かこういう場所に来たことがある人みたいだった。

    次に入ってきたのは、片桐怜央くんだった。

    「おはようございまーす。うわ、すご。海近っ」

    怜央くんは入ってくるなり、窓の外を見て笑った。明るくて、声がよく通る。シャツの袖を少しまくっていて、腕時計も靴も、ちゃんと選ばれている感じがした。

    「片桐怜央です。怜央でいいです」

    莉子ちゃんが笑う。

    「めっちゃ慣れてない?」

    「いやいや、全然。緊張で足震えてる」

    「絶対嘘」

    「バレた?」

    みんなが笑った。

    私も笑った。

    場が少しだけ柔らかくなった。

    怜央くんは私の方を見た。

    「真帆ちゃん、大学生?」

    「うん」

    「なんか真面目そう」

    「え」

    「いい意味で。ノート綺麗そう」

    「あ、たぶん綺麗かも」

    「ほら、当たった」

    悪気はなさそうだった。

    たぶん、怜央くんは人との距離を早く詰めるのがうまい。軽く分類して、軽く笑いにする。そういう人なのだと思った。

    最後に入ってきたのが、瀬名颯太くんだった。

    「遅くなりました。すみません」

    別に遅刻ではないはずなのに、颯太くんはそう言って入ってきた。

    白いTシャツに、薄いグレーのシャツ。背が高くて、でも威圧感はなかった。笑う時、目元が少し下がる。

    私は立ち上がろうとして、膝の上に置いていた自己紹介カードを落とした。

    「あ」

    カードが床に滑る。

    颯太くんが、それを拾ってくれた。

    「これ、たぶん大事なやつ」

    「あ、ありがとう」

    「広瀬真帆さん?」

    カードに書いてある名前を見て、颯太くんが言った。

    自分の名前を男の人の声で呼ばれると、少しだけ変な感じがした。

    「うん。真帆で大丈夫」

    「俺、颯太。よろしく」

    「よろしく」

    颯太くんはそれ以上、何か特別なことを言ったわけではない。

    でも、声がやわらかかった。

    人を焦らせない話し方をする人だと思った。

    全員がそろうと、リビングで自己紹介の撮影が始まった。

    「それでは皆さん、順番に簡単な自己紹介をお願いします」

    スタッフさんの声が聞こえた。

    カメラが回っている。

    そう思うと、喉が少し乾いた。

    莉子ちゃんは、明るく笑って話した。

    「佐倉莉子です。大学二年生です。恋愛は……わりとすぐ好きになっちゃうタイプかもしれないです」

    怜央くんがすぐに言う。

    「それ言って大丈夫?」

    「え、ダメ?」

    「いや、モテそうだなって」

    「それはどうだろう」

    莉子ちゃんは笑う。

    カメラが、ちゃんと莉子ちゃんを見ている気がした。

    次に美月ちゃんが話した。

    「黒川美月です。恋愛では、たぶん駆け引きしちゃう方です。でも今回は、できればちゃんと素直になりたいです」

    短いのに、印象に残る。

    怜央くんは笑いを取った。

    「片桐怜央です。恋愛経験は、そこそこです。そこそこってどこからどこまでかわかんないですけど」

    みんなが笑う。

    颯太くんは、自然だった。

    「瀬名颯太です。こういう場所、正直めちゃくちゃ緊張してます。でも、ちゃんと相手のことを知ってから好きになりたいなと思って来ました」

    ちゃんと相手のことを知ってから。

    その言葉を聞いて、私は少しだけ顔を上げた。

    それから、私の番になった。

    視線が集まる。

    カメラの赤いランプが、こちらを向いている。

    「広瀬真帆です。大学二年生です」

    声が少し硬かった。

    「恋愛経験は、あまりないんですけど……」

    あまりない、という言い方をしてから、嘘ではないけど、ほとんどないと同じだなと思った。

    「自分を変えたいと思って、参加しました」

    スタッフさんがうなずいている。

    事前撮影の時にも、似たようなことを言った気がした。

    自分を変えたい子。

    その言葉の中に、自分から少しずつ入っていっている感じがした。

    自己紹介が終わると、最初のフリータイムになった。

    リビング、デッキ、キッチン。好きな場所で話していいと言われた。

    最初に場を動かしたのは、怜央くんだった。

    「とりあえず海見に行かない?」

    「行きたい!」

    莉子ちゃんがすぐに立ち上がる。

    美月ちゃんも立った。

    颯太くんが私を見た。

    「真帆も行く?」

    その言い方が自然で、少し安心した。

    「あ、うん」

    みんなでデッキへ出た。

    海が近かった。風が強くて、莉子ちゃんが髪を押さえる。颯太くんが、さりげなく窓側の重い扉を支えていた。そういう小さな動きが、自然にできる人だった。

    怜央くんはすぐに話題を作る。

    「みんな、第一印象とかもう決まった?」

    「早くない?」

    美月ちゃんが笑う。

    「いや、でも恋リアってスピード大事でしょ」

    「怜央くん、めっちゃ恋リアわかってるじゃん」

    莉子ちゃんが言うと、怜央くんはカメラの方を見ないで笑った。

    「見すぎてるからね」

    私は、その会話を少し後ろで聞いていた。

    みんな、画面の中に立つのがうまい。

    話すタイミング。
    笑うタイミング。
    相手を見る角度。
    少し黙る間。

    全部が、私より自然に見えた。

    私はたぶん、普通に会話はできる。

    でも、撮られながら恋をする、ということがまだよくわからなかった。

    夕方、第一印象カードを書く時間になった。

    スタッフさんから小さなカードを渡された。

    「今日一日で一番話してみたいと思った相手へ、メッセージを書いてください」

    男女それぞれ、相手にカードを渡すらしい。

    私は、少し迷ってから颯太くんの名前を書いた。

    理由は、大きなものではない。

    落としたカードを拾ってくれた。
    話し方がやわらかかった。
    「ちゃんと相手のことを知ってから好きになりたい」と言っていた。

    それだけ。

    でも、それだけで十分な気がした。

    カードには、短く書いた。

    「もう少し話してみたいです。真帆」

    書いてから、少し恥ずかしくなった。

    男子から女子へのカードが配られる時間になった時、私は期待しないようにしていた。

    初日だし。
    まだ全然話せていないし。
    莉子ちゃんも美月ちゃんもいるし。

    そう思っていた。

    でも、スタッフさんがカードを配っていく間、心臓は少し早かった。

    莉子ちゃんの前に、一枚。
    もう一枚。

    莉子ちゃんは「え、うそ」と小さく言って、顔を赤くした。

    美月ちゃんにも一枚届いた。

    私は、膝の上で手を重ねた。

    まだ、かもしれない。

    最後のスタッフさんが、カードを持たずに部屋を出ていった。

    私の前には、何もなかった。

    何もないテーブルは、思っていたより広く見えた。

    「真帆ちゃん、これどうしよう、めっちゃ緊張する」

    莉子ちゃんが、カードを胸元に抱えながら私に言った。

    私は笑った。

    「すごいね」

    「全然すごくないよ。どう返せばいいかわかんない」

    「でも、嬉しいでしょ」

    「……うん」

    莉子ちゃんは、照れたように笑った。

    よかったね、と思った。

    本当に思った。

    でも、私の前には何もなかった。

    初日だし。

    そう思った。

    まだ初日だし。

    もう一度、そう思った。

    夜になって、撮影はいったん休憩になった。

    出演者たちはそれぞれ部屋へ戻ったり、スタッフさんに呼ばれたりしていた。私は水を取りにキッチンへ向かった。

    廊下の途中で、男子部屋の扉が少し開いていた。

    中から笑い声が聞こえる。

    通り過ぎようとした時、怜央くんの声がした。

    「真帆ちゃん、可愛いっぽいんだけど……なんかなぁ」

    足が止まった。

    誰かが笑った。

    「なんかなぁって何だよ」

    怜央くんが、少し困ったように続ける。

    「いや、悪い意味じゃなくて。いい子そうなんだけど、恋リアっぽくないっていうか」

    それ以上は聞かなかった。

    聞きたくなかった。

    私は足音を立てないように、その場を離れた。

    可愛いっぽい。

    なんかなぁ。

    いい子そう。

    恋リアっぽくない。

    言葉のひとつひとつが、軽かった。

    軽いから、余計にどこに置けばいいかわからなかった。

    怒るほど悪口ではない。
    泣くほどひどい言葉でもない。

    でも、胸の中のどこかに、小さく引っかかった。

    外のデッキに出ると、夜の海はほとんど見えなかった。昼間あんなに明るかったのに、暗くなると、ただ音だけが大きい。

    私は手すりのそばに立った。

    風が冷たい。

    「広瀬さん」

    声がして振り向くと、高杉さんがいた。

    片手にペットボトルの水を持っている。

    「水、飲んでます?」

    またそれだ、と思った。

    でも少し安心もした。

    「大丈夫です」

    そう言って笑った。

    高杉さんは、ペットボトルを差し出したまま、少しだけ私を見た。

    「大丈夫じゃない時の“大丈夫です”ですね」

    胸の奥が、変なふうに動いた。

    「……なんでわかるんですか」

    「ADなんで」

    「それ、理由になります?」

    「なります。だいたいの“大丈夫です”は、大丈夫じゃない時に出るんで」

    私はペットボトルを受け取った。

    指先が少し冷たくなっていたので、ボトルの冷たさがよくわからなかった。

    「聞こえました?」

    高杉さんが言った。

    私は何も言えなかった。

    「すみません。部屋の扉、ちゃんと閉めさせます」

    「いえ、別に」

    また、笑おうとした。

    「本当に、大丈夫です」

    高杉さんは困ったように笑った。

    「二回目の大丈夫は、もっと怪しいです」

    少しだけ笑ってしまった。

    笑うつもりはなかったのに。

    その時、インカムから声が漏れた。

    「高杉、次の段取り確認」

    「はい、今行きます」

    高杉さんは返事をして、走り出そうとした。

    でも、一瞬だけ止まった。

    ほんの一瞬。

    胸のあたりに手を当てて、息を飲むような顔をした。

    「高杉さん?」

    私が声をかけると、高杉さんはすぐに笑った。

    「寝不足です」

    「大丈夫ですか?」

    「大丈夫です。ADなんで」

    そう言って、軽く手を振る。

    それから今度こそ、リビングの方へ走っていった。

    大丈夫。

    その言葉は、私のより少し軽く聞こえた。

    でも、軽いから本当だとは限らない。

    私は水のペットボトルを持ったまま、しばらくデッキに立っていた。

    部屋へ戻る途中、リビング脇の開いた扉の向こうから、スタッフさんたちの声が聞こえた。

    本当は、すぐに通り過ぎるつもりだった。

    でも、自分の名前が聞こえた。

    「広瀬どう?」

    低い声だった。たぶん、ディレクターの人だと思う。

    少し間があって、高杉さんの声がした。

    「広瀬さん、聞き役として使えると思います」

    私は、動けなくなった。

    「女子側の本音、引き出せそう?」

    「はい。本人が前に出るタイプじゃないので、周りが話しやすいと思います」

    「なるほどね」

    「場を荒らすタイプではないです」

    会話は続いていた。

    でも、そこから先はあまり入ってこなかった。

    聞き役として使える。

    さっきまで、私の「大丈夫」を見抜いてくれた人の声だった。

    水を渡してくれた人の声だった。

    無理に清楚系やらなくてもいいと言ってくれた人の声だった。

    その同じ声が、私を使えると言っていた。

    番組なのだから、当たり前だと思った。

    私は出演者で、あの人はスタッフだ。

    使えるかどうかを考えるのは、たぶん仕事だ。

    そう思った。

    思おうとした。

    でも、手の中のペットボトルが、少しだけ重くなった。

    私は廊下の端に立ったまま、誰にも見つからないように息を吸った。

    水のペットボトルが、手の中で少しぬるくなっていた。

    第4章 恋の火種を消す女の子


    二日目の朝、恋リアのヴィラは思っていたより生活感があった。

    昨日はあんなに白くて、眩しくて、全部が番組のセットみたいに見えたのに、朝になると少し違った。

    ソファの端に誰かが置いたままのブランケット。
    テーブルの上の飲みかけの水。
    キッチンに並んだ紙皿。
    昨夜の撮影で使ったらしい花瓶が、少しだけ端に寄せられている。

    完璧に見えた場所にも、ちゃんと朝が来るのだと思った。

    私は、誰よりも早くキッチンにいた。

    早く起きた、というより、寝ていられなかった。昨日の夜、怜央くんの言葉と、高杉さんの言葉が頭の中で何度も戻ってきた。

    可愛いっぽいんだけど、なんかなぁ。

    聞き役として使えると思います。

    どちらも、たぶん悪意ではない。

    悪意ではないから、余計にどこに置けばいいかわからなかった。

    冷蔵庫を開けると、スタッフさんが用意してくれていた卵やサラダ、ヨーグルトが入っていた。パンはかごに入っている。コーヒーメーカーの横には、使い方を書いた紙が貼ってあった。

    私はその紙を読んで、コーヒーを淹れる準備を始めた。

    何かしている方が、落ち着く。

    座って誰かを待っていると、自分がどう見えているか気になってしまう。何かをしていれば、少なくともそこにいる理由ができる。

    卵を取り出していると、後ろから声がした。

    「早いね」

    振り向くと、颯太くんが立っていた。

    髪は昨日より少しだけ寝ぐせが残っていて、白いTシャツの上に薄いパーカーを羽織っている。昨日より、少し普通の人に見えた。

    「あ、おはよう」

    「おはよう。何してるの?」

    「コーヒー、淹れようかなって」

    「助かる。俺、こういう機械、地味に苦手」

    颯太くんはコーヒーメーカーの前に立って、貼り紙をのぞき込んだ。

    「ボタン多くない?」

    「二個しかないよ」

    「二個でも迷う時あるじゃん」

    少し笑ってしまった。

    颯太くんは、昨日の自己紹介の時よりも力が抜けていた。カメラがまだ本格的に回っていない朝だからかもしれない。

    私はマグカップを二つ出した。

    「ブラックでいい?」

    「うん。ありがとう」

    「苦いの大丈夫?」

    「大丈夫。たぶん」

    「たぶん?」

    「本当は、ちょっと砂糖入れたい」

    私は砂糖のスティックを一本渡した。

    颯太くんは少し照れたように笑った。

    「助かります」

    その笑い方が、昨日カードを拾ってくれた時と同じで、胸の奥が少しだけゆるんだ。

    コーヒーが落ちる音が、キッチンに小さく響く。

    「昨日、疲れたね」

    颯太くんが言った。

    「うん」

    「カメラあると、何話していいかわかんなくなる」

    「颯太くんでも?」

    「俺でも、って何」

    「なんか、自然に話せる人に見えたから」

    颯太くんは少し困ったように笑った。

    「それ、よく言われる」

    「そうなんだ」

    「爽やかとか、話しやすいとか、いい人そうとか」

    「いいことじゃないの?」

    「まあ、悪いことじゃないんだけど」

    颯太くんは、コーヒーの湯気を見ながら言った。

    「俺、爽やかって言われるけど、それ以外ないんだよ。中身空っぽなの、バレたくない」

    思っていたより低い声だった。

    私は返事ができなかった。

    颯太くんは、すぐに笑った。

    「あ、ごめん。朝から重いね」

    「重くないよ」

    「ほんと?」

    「うん」

    私はマグカップを颯太くんの前に置いた。

    「中身空っぽな人は、自分のこと空っぽかもって言わない気がする」

    颯太くんは、少し驚いた顔をした。

    それから、困ったように笑った。

    「真帆って、そういうこと言うんだ」

    「どういうこと?」

    「ちゃんと聞いてから、言う感じ」

    胸の中が少しあたたかくなった。

    ちゃんと聞いてから。

    それは、嬉しい言葉のはずだった。

    でも同時に、昨日の夜の高杉さんの声が戻ってきた。

    聞き役として使えると思います。

    私はマグカップを持ち直した。

    「莉子ちゃんと、昨日けっこう話してたよね」

    自分で言ってから、少しだけ後悔した。

    でも颯太くんは気づいていないみたいだった。

    「うん。莉子ちゃん、すごいよね」

    「すごい?」

    「可愛いし、明るいし、ちゃんと場を作れる感じする」

    「わかる」

    「でも、俺が行っていいのかなって思う」

    「どうして?」

    「だって、莉子ちゃん人気ありそうだし」

    颯太くんは砂糖を入れたコーヒーを、ゆっくりかき混ぜた。

    「俺みたいなのが行っても、無難な人が来たなって思われそう」

    「そんなことないと思うけど」

    「真帆は優しいから、そう言うじゃん」

    そう言われると、言葉が少し詰まった。

    優しいから。

    その言葉は便利だった。

    言われると、何も返せなくなる。

    でも、颯太くんの声には、私を軽く扱う感じはなかった。自分を笑っているようで、本当は少し怖がっている声だった。

    だから、私は言った。

    「莉子ちゃん、たぶん、ちゃんと見てくれる人の方が嬉しいと思う」

    「そうかな」

    「うん」

    颯太くんは少しだけ黙った。

    「真帆は、莉子ちゃんと仲いいの?」

    「昨日会ったばっかりだけど」

    「あ、そっか」

    「でも、いい子だと思う」

    「だよね」

    颯太くんは、少し安心したように笑った。

    その顔を見て、私は胸の奥が小さく痛むのを感じた。

    もう少し話したいです。

    昨日、自分がカードに書いた言葉を思い出した。

    あのカードは、颯太くんに届いているはずだった。

    でも、颯太くんはそのことには触れなかった。

    触れない理由が、わからなかった。

    気づいていないのかもしれない。
    気づいていて、触れないのかもしれない。
    もしかしたら、誰から来たカードか、わかっていないのかもしれない。

    私は、それを聞けなかった。

    朝食の時間になると、みんなが少しずつリビングに集まってきた。

    莉子ちゃんは、昨日より少し眠そうだった。髪は綺麗に整っているのに、目元だけ少し重そうに見えた。

    「おはよう」

    「おはよう」

    私は莉子ちゃんにコーヒーを渡した。

    「ありがとう。真帆ちゃん、朝からできる女じゃん」

    「全然。紙に書いてある通りにやっただけ」

    「それができるのがすごいんだよ」

    莉子ちゃんは笑った。

    その笑顔はいつも通り可愛かったけれど、昨日カードをもらった時の明るさとは少し違って見えた。

    午前中の撮影が始まる前、私は洗面所で手を洗っていた。

    鏡の前では、莉子ちゃんがリップを塗り直していた。カメラはない。少なくとも、私には見えなかった。

    莉子ちゃんは鏡越しに私を見た。

    「真帆ちゃんって、落ち着いてるよね」

    「え、全然」

    「落ち着いてるよ。私、昨日からずっと浮いてる感じする」

    「莉子ちゃんは、ちゃんと馴染んでるように見える」

    「馴染んでるように見せてるだけ」

    莉子ちゃんは笑った。

    でもその笑い方は、リビングで見せるものより少し薄かった。

    「昨日、カード来てたよね」

    私が言うと、莉子ちゃんはリップのキャップを閉めた。

    「うん」

    「すごいね」

    「すごいのかな」

    莉子ちゃんは鏡の中の自分を見たまま言った。

    「嬉しいはずなんだけどね。普通に嬉しいんだけど」

    「うん」

    「でも、なんか怖くなった」

    「怖い?」

    莉子ちゃんは少しだけ黙った。

    それから、小さな声で言った。

    「可愛いって言われるの、嬉しいはずなのに、たまに中身いらないって言われてるみたいでしんどい」

    私は、鏡の中の莉子ちゃんを見た。

    莉子ちゃんは綺麗だった。

    リップを塗り直した唇も、ゆるく巻かれた髪も、少し伏せたまつ毛も、全部がちゃんと可愛かった。

    でも今、その可愛さが莉子ちゃんを少し苦しめているように見えた。

    「そんなこと、ないと思う」

    私が言うと、莉子ちゃんは少し笑った。

    「真帆ちゃんはそう言ってくれると思った」

    「ほんとにそう思うよ」

    「うん。ありがとう」

    莉子ちゃんはリップをポーチにしまった。

    「颯太くんってさ」

    名前が出た瞬間、私は少しだけ息を止めた。

    「ちゃんと見てくれてる感じするんだよね」

    「うん」

    「でも私、可愛いって思われて終わるの怖い」

    鏡の中で、莉子ちゃんが私を見た。

    「颯太くんも、私のことそう見てるのかな」

    私はすぐには答えられなかった。

    朝のキッチンの颯太くんを思い出した。

    莉子ちゃん、すごいよね。
    可愛いし、明るいし、ちゃんと場を作れる感じする。
    でも、俺が行っていいのかなって思う。

    颯太くんは、莉子ちゃんをちゃんと見ていないわけではなかった。

    でも、莉子ちゃんが怖がっていることまでは、まだ知らない。

    莉子ちゃんも、颯太くんが怖がっていることを知らない。

    二人とも、お互いを見ているのに、少しずつ違う方を向いている。

    私はタオルで手を拭いた。

    「颯太くん、莉子ちゃんのこと、ちゃんと見てると思う」

    「ほんと?」

    「うん」

    「真帆ちゃん、そういうのわかるの?」

    「わかるというか……」

    私は少し迷った。

    「颯太くんも、自分に自信なさそうだったから」

    「颯太くんが?」

    莉子ちゃんは本当に驚いた顔をした。

    「うん」

    「全然そう見えない」

    「そう見えないようにしてるのかも」

    莉子ちゃんは、少し考えるように鏡を見た。

    そこへスタッフさんの声がした。

    「佐倉さん、広瀬さん、そろそろお願いします」

    「あ、はい」

    莉子ちゃんはいつもの笑顔に戻った。

    戻した、という方が近かったかもしれない。

    昼の撮影は、リビングとデッキを使ったグループトークだった。

    スタッフさんは「自由に話してください」と言うけれど、完全に自由ではなかった。なんとなく座る場所が作られていて、なんとなく話題が置かれていて、なんとなくカメラが向く方向があった。

    莉子ちゃんは、颯太くんを少し気にしている。

    颯太くんも、莉子ちゃんを気にしている。

    見ていれば、わかった。

    でも、二人はなかなか隣にならなかった。

    怜央くんが莉子ちゃんに話しかける。
    美月ちゃんが颯太くんに質問する。
    スタッフさんが「じゃあ、次はこっちで話してみましょうか」と声をかける。

    少しずつ、二人の距離が近づきそうで近づかない。

    本当に偶然なのかもしれない。

    でも、偶然にしては、うまくすれ違いが起きる。

    莉子ちゃんは、だんだん不安そうになった。

    颯太くんは、何度か莉子ちゃんの方を見た。でも声をかけるタイミングを逃しているようだった。

    私は、ソファの端でそれを見ていた。

    また端だった。

    高杉さんが近づいてきた。

    手には進行表がある。

    「広瀬さん、ちょっといいですか」

    「はい」

    「莉子さん、少し不安そうなので、近くにいてもらえますか。広瀬さんだと話しやすそうなので」

    話しやすそう。

    聞き役として使える。

    昨日の言葉が、また胸の中に戻ってきた。

    でも莉子ちゃんを見ると、膝の上で手をぎゅっと握っていた。

    私はうなずいた。

    「わかりました」

    高杉さんは少しだけほっとした顔をした。

    「助かります」

    助かります。

    その言葉は、悪い言葉ではない。

    でも、少しだけ重かった。

    私は莉子ちゃんの隣に座った。

    「大丈夫?」

    自分で言ってから、少し苦笑いした。

    私も同じ言葉ばかり使う。

    莉子ちゃんは小さく首を振った。

    「大丈夫じゃないかも」

    そう言えるの、すごいなと思った。

    「颯太くん、全然こっち来ないね」

    莉子ちゃんが言った。

    「見てるよ」

    「え?」

    「颯太くん、ちゃんと見てたよ」

    莉子ちゃんの目が少し揺れた。

    「ほんと?」

    「うん。たぶん、タイミング探してる」

    「私、待ってていいのかな」

    「うん」

    言いながら、胸の奥が少し痛んだ。

    私は何をしているんだろう。

    そう思った。

    でも、莉子ちゃんの不安そうな顔を見たら、言わない方がいいとは思えなかった。

    その少し後、私はキッチンで水を取ろうとしていた颯太くんに会った。

    颯太くんは、ペットボトルを開けながらデッキの方を見ていた。莉子ちゃんが怜央くんと話しているのが見える。

    「行かないの?」

    私が聞くと、颯太くんは少し驚いた。

    「何が?」

    「莉子ちゃん」

    「いや、怜央と話してるし」

    「待ってると思う」

    「え?」

    私は少しだけ迷った。

    言わなくてもいい。

    言わない方がいい。

    だって、私は颯太くんともう少し話したかった。昨日、そうカードに書いた。朝も少し話せて、嬉しかった。

    それでも、言ってしまった。

    「莉子ちゃん、たぶん待ってるよ」

    颯太くんは、私を見た。

    「そうかな」

    「うん」

    「俺が行っても、大丈夫かな」

    また、大丈夫。

    みんな、その言葉を使う。

    私は笑った。

    「大丈夫だと思う」

    颯太くんは少しだけ息を吐いた。

    「真帆って、すごいね」

    「何が?」

    「人の気持ち、よく見てる」

    その言葉は嬉しいはずだった。

    でも、少しだけ苦かった。

    颯太くんはペットボトルを置いた。

    「ありがとう」

    そう言って、莉子ちゃんの方へ歩いていった。

    私は、その背中を見送った。

    莉子ちゃんが颯太くんに気づく。
    少し驚く。
    それから、ぱっと表情が明るくなる。

    颯太くんは何か言った。
    莉子ちゃんが笑った。
    少しだけ泣きそうな顔をした。

    カメラが、二人に寄っていく。

    スタッフさんたちの動きが、少しだけ速くなった。

    私は、キッチンの端に立っていた。

    よかった。

    本当に、そう思った。

    莉子ちゃんが不安なままじゃなくてよかった。
    颯太くんが声をかけられてよかった。
    二人が、ちゃんと話せてよかった。

    でも、テーブルの上に置いた私の手は、少し冷たかった。

    「もう少し話してみたいです。真帆」

    昨日書いたカードの文字が、急に頭に浮かんだ。

    颯太くんは、あのカードを読んだのだろうか。

    読んだとして、誰からだと思ったのだろう。

    そんなことを考えている自分が、少し嫌だった。

    夕方近くまで撮影は続いた。

    颯太くんと莉子ちゃんは、デッキの端に並んで座って話していた。距離は、朝よりずっと近かった。莉子ちゃんは何度か笑って、何度か真剣な顔をした。颯太くんは、相づちを打ちながら、ちゃんと莉子ちゃんの方を向いていた。

    ちゃんと見ている。

    私が莉子ちゃんに言った通りだった。

    言った通りになって、よかった。

    よかったはずだった。

    片づけの時間になって、私はキッチンに残った紙コップをまとめていた。出演者がやることではないのかもしれない。でも、手を動かしていたかった。

    リビングの向こう側で、スタッフさんたちが小さく話していた。

    全部を聞こうとしたわけではない。

    でも、声は途切れ途切れに届いた。

    「真帆はいい子なんだけどな」

    ディレクターの門脇さんの声だった。

    私は紙コップを重ねる手を止めた。

    誰かの足音が重なって、次の言葉は少しぼやけた。

    「……火種を消すんだよ」

    火種。

    その言葉だけが、変に残った。

    火種って、何だろう。

    私が、何を消したのだろう。

    颯太くんと莉子ちゃんが笑っているのを見て、よかったと思った。

    本当に思った。

    それなのに、胸の奥で、何かが静かに消えた気がした。

    第5章 私を使わないでください


    「真帆ちゃん、ちょっと聞いてもらっていい?」

    この言葉を、その日だけで何度聞いただろう。

    三日目の朝、最初に言ったのは莉子ちゃんだった。

    朝食のあと、リビングの窓際で、莉子ちゃんは紙コップのカフェラテを両手で包んでいた。今日は少し風が強くて、窓の外の海が昨日より白く見える。

    「颯太くん、昨日のあと、どう思ってたかな」

    莉子ちゃんは、カフェラテの表面を見ながら言った。

    「どうって?」

    「私、変なこと言ってなかったかなって」

    「変なこと?」

    「なんか、ちゃんと見てほしいみたいなこと。重かったかな」

    私は首を振った。

    「重くないと思う」

    「ほんと?」

    「うん。颯太くん、ちゃんと聞いてたよ」

    莉子ちゃんは、少しだけ安心した顔をした。

    「真帆ちゃんがそう言うなら、ちょっと安心する」

    そう言われると、胸の奥が少しだけあたたかくなった。

    頼られるのは、嫌いではない。

    誰かが不安そうな顔をしていて、自分の言葉で少し楽になるなら、それは嬉しい。

    嬉しいはずだった。

    でも、その少し後、颯太くんにも同じようなことを言われた。

    「真帆、ちょっといい?」

    キッチンで水を取っている時だった。

    颯太くんは、ペットボトルを開けながら、少し言いにくそうに笑った。

    「莉子ちゃん、昨日どうだった?」

    「どうって?」

    「俺、ちゃんと話せてたかな」

    私は、手に持っていたコップを流しに置いた。

    「話せてたと思う」

    「ほんと?」

    「うん」

    「真帆って話しやすいからさ。俺、莉子のことどう思う?」

    その言葉で、少しだけ息が止まった。

    話しやすい。

    聞き役として使える。

    頭の中で、別の声が重なる。

    でも、颯太くんは悪気のない顔をしていた。むしろ、真剣だった。私を信頼してくれているのだと思った。

    それなのに、胸の奥が小さく痛んだ。

    「莉子ちゃんは……」

    私は少し考えた。

    「ちゃんと見てほしい子だと思う」

    「うん」

    「だから、颯太くんが本当に気になってるなら、ちゃんと話した方がいいと思う」

    言いながら、自分の声がどこか遠く聞こえた。

    颯太くんはうなずいた。

    「そっか。ありがとう」

    その「ありがとう」は優しかった。

    優しいから、余計に苦しかった。

    私は、昨日のカードを思い出した。

    もう少し話してみたいです。真帆。

    あのカードは、たぶん颯太くんのどこかにある。
    でも今、颯太くんは私に、莉子ちゃんのことを聞いている。

    「真帆ちゃん、ちょっと来て」

    次に呼んだのは怜央くんだった。

    デッキの近くで、美月ちゃんと何か話していたらしい。怜央くんはいつものように笑っていたけれど、目だけ少し困っていた。

    「美月ちゃん、俺のこと怒ってる?」

    「知らないよ」

    「いや、さっきちょっと空気変になったじゃん」

    「何言ったの?」

    「別に。『美月ちゃんって、恋愛でも勝ちに行きそう』って言っただけ」

    私は思わず黙った。

    「それは、怒るかも」

    「え、そんなに?」

    怜央くんは本気で驚いているようだった。

    「悪口じゃないじゃん。強そうって意味で」

    「でも、美月ちゃんがそう言われたいかは別じゃない?」

    「うわ、そういうことか」

    怜央くんは頭をかいた。

    「真帆ちゃん、すごいな。通訳みたい」

    通訳。

    また、新しい言葉が増えた。

    昼の撮影が始まる前、高杉さんにも声をかけられた。

    「広瀬さん、少しお願いしてもいいですか」

    私は反射的に返事をした。

    「はい」

    「このあと、リビングで全員トークなんですけど、少し空気が固くなったら、一回莉子さんに話を振ってもらえると助かります」

    助かります。

    その言葉は、もう何度も聞いた気がした。

    「莉子さん、広瀬さんがいると話しやすそうなので」

    高杉さんは、いつものように忙しそうだった。

    片手には進行表。片耳にはインカム。もう片方の手には、誰かに渡すための水が二本。

    私の顔を見ている。
    でも、私の後ろにある進行も見ている。

    私はうなずいた。

    「わかりました」

    そう答えたあと、自分の口が先に動いたような気がした。

    全員トークは、思っていた通り少しぎこちなかった。

    颯太くんと莉子ちゃんは、昨日より近くに座っている。怜央くんは場を明るくしようとしている。美月ちゃんは笑っているけれど、少しだけ距離を取っている。

    「昨日、誰が一番印象変わった?」

    スタッフさんの声が、カメラの外から飛んだ。

    怜央くんがすぐに答える。

    「美月ちゃんかな」

    美月ちゃんが少し眉を上げた。

    「どう変わったの?」

    「最初クール系かと思ったけど、意外と熱そう」

    「それ、褒めてる?」

    「めっちゃ褒めてる」

    「雑」

    空気が少し止まった。

    怜央くんは笑ってごまかそうとしたけれど、美月ちゃんは笑わなかった。

    カメラが、少し寄った気がした。

    高杉さんが、リビングの端から私を見た。

    ほんの少しだけ、目で合図された。

    入れますか。

    そう言われた気がした。

    私は、膝の上の手を握った。

    入らなくてもいい。

    私が何か言わなくても、この空気はこの空気として進むのかもしれない。番組的には、その方がいいのかもしれない。

    でも、美月ちゃんは怒っているというより、少し傷ついているように見えた。

    怜央くんは、自分が何を踏んだのかわからなくて困っている。

    私は、口を開いてしまった。

    「美月ちゃん、たぶん怜央くんが嫌なんじゃなくて、ちゃんと聞いてほしかったんだと思う」

    全員の視線が、私に向いた。

    自分でも驚いた。

    美月ちゃんが、少しだけ目を細める。

    「……そうかも」

    怜央くんが美月ちゃんを見る。

    「ごめん。俺、言い方軽かった」

    美月ちゃんはすぐには答えなかった。

    でも、少ししてから言った。

    「軽いのは知ってる」

    「え、それ許されてる?」

    「まだわかんない」

    みんなが少し笑った。

    止まりかけた空気が、また動き出す。

    よかった。

    そう思った。

    でも、カメラが美月ちゃんから少し引いた気がした。

    撮影の合間、美月ちゃんが私の横に来た。

    「真帆ちゃんってさ」

    「うん」

    「そんな人のことばっかりしてたらテレビ映んないよ」

    私は笑おうとした。

    「別に、映りたいわけじゃないし」

    美月ちゃんは、すぐには笑わなかった。

    「ほんとに?」

    その一言に、返事が詰まった。

    本当に?

    私は本当に、映りたくないのだろうか。

    恋リアに応募した。
    事前撮影でメイクされて、少し嬉しかった。
    自己紹介もした。
    第一印象カードも書いた。
    颯太くんと、もう少し話してみたいと思った。

    それなのに、映りたいわけじゃない、なんて。

    本当なのだろうか。

    美月ちゃんは、リビングの奥で話している莉子ちゃんと颯太くんを見た。

    「恋リアって、いい子選手権じゃないから」

    声は冷たく聞こえた。

    でも、意地悪ではなかった。

    「真帆ちゃんがやってること、普通にすごいと思うよ」

    「すごくないよ」

    「すごいよ。みんな、真帆ちゃんに話すと落ち着くじゃん」

    私は黙った。

    「でも、ここではそれ、誰かの見せ場を作ってるだけになる」

    美月ちゃんは、私を見た。

    「真帆ちゃん自身の見せ場にはならない」

    胸の奥が、ぎゅっと小さくなった。

    美月ちゃんの言葉は、刃物みたいに鋭くはなかった。もっと普通の温度で、普通に刺さった。

    だから、抜き方がわからなかった。

    午後の撮影でも、私は何度も呼ばれた。

    莉子ちゃんが不安そうにすると、隣に座った。
    颯太くんが迷っていると、話を聞いた。
    怜央くんが美月ちゃんとの距離を測りかねていると、言葉を選んだ。
    美月ちゃんが黙ると、無理に聞き出さないようにした。

    ひとつひとつは、たいしたことではない。

    誰かに水を渡す。
    話題を変える。
    少し笑う。
    相づちを打つ。
    「大丈夫?」と聞く。
    「無理しなくていいよ」と言う。

    それだけ。

    でも、それだけが積み重なると、自分がどこにいるのかわからなくなった。

    私は出演者なのか。
    友達なのか。
    スタッフさんの手伝いなのか。

    リビングの端で、また高杉さんに呼ばれた。

    「広瀬さん」

    私は振り向いた。

    高杉さんは少し疲れた顔をしていた。目の下に、昨日より濃い影がある。

    「今日、すごく助かってます」

    私は何も言わなかった。

    「広瀬さんがいると、現場が助かります」

    その瞬間、胸の奥で何かが音を立てた気がした。

    大きな音ではなかった。

    本当に小さな音。

    でも、確かに何かが切れた。

    聞き役として使えると思います。

    莉子さん、少し不安そうなので、近くにいてもらえますか。

    広瀬さんだと話しやすそうなので。

    助かります。

    現場が助かります。

    私は、恋リアに出たはずだった。

    白いヴィラに来て、自己紹介をして、第一印象カードを書いて、好きになれるかもしれない人を見つけて、緊張して、傷ついて、それでもここにいた。

    誰かのために水を渡すために来たわけではない。

    誰かの気持ちを通訳するために来たわけではない。

    誰かの恋を進めるために来たわけではない。

    私は、口を開いた。

    「高杉さん」

    声が思ったより小さかった。

    高杉さんが、進行表から顔を上げる。

    「はい」

    「私、恋リアに出たんです」

    高杉さんは、すぐには意味がわからないようだった。

    「え?」

    私は指先が震えていることに気づいた。

    でも、止められなかった。

    「誰かの恋を成立させるために来たんじゃありません」

    高杉さんの顔から、少しずつ表情が消えた。

    「広瀬さん、あの」

    「便利だからって、私を使わないでください」

    言った。

    言ってしまった。

    でも、もう止まらなかった。

    「私、みんなの話を聞くのが嫌なわけじゃないです」

    声が震えた。

    「莉子ちゃんが不安そうだったら、放っておけないし、颯太くんが困ってたら、聞いてしまうし、美月ちゃんが傷ついてたら、気づいてしまうんです」

    自分でも、何を言っているのかわからなくなりそうだった。

    でも、言葉は出てきた。

    「でも、それを、便利だからって使わないでください」

    高杉さんは、何も言わなかった。

    私は一度、息を吸った。

    胸が痛い。

    でも、まだ残っている言葉があった。

    ずっと、ずっと奥にあった言葉。

    「私は端っこが好きなんじゃない」

    言った瞬間、自分で少し驚いた。

    高杉さんも、動かなかった。

    「邪魔になりたくなかっただけです」

    言い終わったあと、リビングの音が遠くなった。

    誰かの笑い声。
    スタッフさんの足音。
    インカムの小さな声。
    海の音。

    全部が、少し離れたところにあるみたいだった。

    高杉さんは、進行表を握ったまま黙っていた。

    「すみま……」

    そう言いかけて、止まった。

    たぶん、軽く謝れば済むことではないと気づいたのだと思う。

    私は、高杉さんの顔を見ていられなかった。

    怒鳴ったわけではない。

    強く言えたわけでもない。

    ただ、もう口を閉じていられなかった。

    私はその場を離れた。

    背中を向けたあと、膝が少し震えていることに気づいた。

    言えた、とは思わなかった。

    ただ、もう飲み込めなかった。

    第6章 映らない人同士の休憩


    「よく言った」と思えるような性格なら、たぶん楽だった。

    昨日の夜、私は高杉さんに言った。

    私、恋リアに出たんです。

    誰かの恋を成立させるために来たんじゃありません。

    便利だからって、私を使わないでください。

    私は端っこが好きなんじゃない。邪魔になりたくなかっただけです。

    何度も頭の中で再生された。

    そのたびに、胸の奥がきゅっと縮んだ。

    言わなければよかった、とは思わなかった。

    でも、言ってよかった、とも思えなかった。

    朝のヴィラは、いつも通り明るかった。窓の外の海は光っていて、スタッフさんたちは早くから機材を動かしている。莉子ちゃんはメイク室に呼ばれて、怜央くんはキッチンで昨日の残りのパンを勝手に食べようとして怒られていた。

    何も変わっていないように見えた。

    でも私は、スタッフさんの足音が近づくたびに、少しだけ体が固くなった。

    面倒な出演者だと思われたかもしれない。

    空気を悪くしたと思われたかもしれない。

    高杉さんに、ひどいことを言ったのかもしれない。

    リビングの向こうで、高杉さんの声がした。

    「すみません、今確認します」

    反射的にそちらを見て、すぐに目をそらした。

    高杉さんは、いつも通り走っていた。片耳にインカムをつけて、進行表を持って、誰かに頭を下げている。

    でも、私の方は見なかった。

    見なかったのか、見られなかったのかは、わからなかった。

    「真帆ちゃん」

    莉子ちゃんが隣に来た。

    「今日、ちょっと元気ない?」

    「え」

    「顔。なんか、寝不足?」

    私はいつものように言いかけた。

    大丈夫。

    でも、その言葉が喉の手前で止まった。

    「……ちょっと眠いだけ」

    そう言うと、莉子ちゃんは少しだけ目を丸くした。

    「そっか。無理しないでね」

    「うん」

    大丈夫と言わなかっただけで、何か大きく変わったわけではない。

    でも、いつもの言葉を飲み込んだ口の中は、少しだけ変な感じがした。

    午前中の撮影は、昨日より短かった。

    その代わり、午後に大きな企画があると聞かされた。

    リビングに全員が集められると、スタッフさんが明るい声で言った。

    「今日は、このあとペアデートに行ってもらいます」

    莉子ちゃんが小さく息を吸った。

    怜央くんがすぐに反応する。

    「来た、恋リアっぽいやつ」

    スタッフさんが続ける。

    「男子メンバーから、今一番話したい女子メンバーを一人誘ってください。誘われた女子は、その男子と二人で外出になります」

    心臓が、少しだけ速くなった。

    颯太くんに誘われるとは思っていなかった。

    颯太くんが莉子ちゃんを誘うことくらい、もうわかっていた。

    それでも、もしかしたら、という気持ちがゼロではなかった。

    颯太くんじゃなくても、誰かが私の名前を呼ぶかもしれない。

    そんな期待をしている自分に気づいて、少し恥ずかしくなった。

    でも、期待しないようにするほど、どこかで期待していることがわかった。

    最初に動いたのは颯太くんだった。

    颯太くんは少し緊張した顔で、莉子ちゃんの前に立った。

    「莉子ちゃん。今日、よかったら一緒に行きたいです」

    莉子ちゃんの顔が、ぱっと明るくなる。

    「はい。行きたいです」

    みんなが拍手した。

    私も拍手した。

    ちゃんと、した。

    次に怜央くんが美月ちゃんを誘った。

    「昨日、ちょっとちゃんと話せてなかったから。今日、話したいです」

    美月ちゃんは少しだけ考えてから、

    「いいよ」

    と言った。

    怜央くんが大げさに胸をなで下ろして、みんなが笑った。

    他の男子も、それぞれ女子を誘っていく。

    名前が呼ばれる。
    誰かが笑う。
    誰かが照れる。
    スタッフさんが移動の準備を進める。

    私の名前は、呼ばれなかった。

    最後のペアが決まったあと、スタッフさんがこちらを見た。

    「広瀬さんは、今回は待機でお願いします」

    待機。

    その言葉は、思っていたより軽い声で言われた。

    「はい」

    私は答えた。

    大丈夫です、とは言わなかった。

    言わなかったけれど、何かが楽になるわけでもなかった。

    莉子ちゃんが近づいてきた。

    「真帆ちゃん、ごめんね」

    「なんで謝るの」

    私は笑った。

    「楽しんできて」

    「うん……ありがとう」

    莉子ちゃんは少し迷うように私を見て、それから颯太くんの方へ行った。

    颯太くんも一瞬こちらを見た。

    何か言いかけたように見えた。

    でも、スタッフさんに呼ばれて、そのまま外へ向かった。

    美月ちゃんは、出発前に私のそばを通った。

    「真帆ちゃん」

    「うん」

    美月ちゃんは少しだけ口を開いて、でも何も言わなかった。

    代わりに、

    「あとで」

    と言った。

    「うん」

    怜央くんは、いつもの調子で手を振った。

    「お土産買ってくるわ」

    「いらないよ」

    「じゃあ写真撮ってくる」

    「それも別に」

    「冷たいな」

    怜央くんが笑って、美月ちゃんに「早く」と言われながら出ていく。

    みんなが出発すると、ヴィラは急に静かになった。

    さっきまでリビングにあった声が、全部外へ出ていったみたいだった。

    カメラも、スタッフさんも、少なくなった。

    恋リアの中心が、別の場所へ移動したのだと思った。

    私は、リビングのソファに座った。

    いつものように端に座ろうとして、少しだけ迷った。

    真ん中寄りのクッションが空いている。

    そこに座っても、誰も何も言わない。

    でも、結局、私は端に座った。

    まだ、そこが一番落ち着いた。

    テーブルの上には、さっきまで誰かが飲んでいた水が残っている。窓の外では、スタッフさんが車を見送っていた。遠くから、莉子ちゃんの笑い声が一瞬だけ聞こえた気がした。

    私は膝の上で手を組んだ。

    することがなかった。

    誰かの話を聞くこともない。
    誰かに水を渡すこともない。
    空気を丸くする必要もない。

    それなのに、楽ではなかった。

    役割がないと、自分の置き場所がわからなかった。

    しばらくして、後ろから声がした。

    「広瀬さん」

    体が少し固くなった。

    振り向くと、高杉さんが立っていた。

    手には進行表を持っていなかった。インカムはつけているけれど、片耳から少し外している。

    「少しだけ、いいですか」

    私はうなずいた。

    「はい」

    高杉さんは、ソファの少し離れた場所に立ったまま、しばらく言葉を探しているようだった。

    「昨日のこと、すみませんでした」

    私は何も言わなかった。

    高杉さんは、視線を少し落とした。

    「俺、使ってました」

    その言葉で、胸の奥が少し動いた。

    「広瀬さんが助けてくれるから、助かるって思ってました。場が荒れそうな時、広瀬さんが入ってくれると丸くなるし、莉子さんも颯太さんも話しやすそうで」

    高杉さんは、そこで一度止まった。

    「それを、当たり前みたいにしてました」

    リビングの外から、スタッフさんの声が遠く聞こえた。

    高杉さんは続けた。

    「そんなつもりじゃなかった、って言おうと思えば言えるんですけど」

    少し苦そうに笑った。

    「でも、それで済ませたらだめだと思いました」

    私は、膝の上の手を見た。

    いつもの私なら、たぶん言っていた。

    大丈夫です。

    気にしてません。

    私も言いすぎました。

    そうやって、相手が楽になる言葉を探していたと思う。

    でも、昨日言った言葉をなかったことにしたくなかった。

    まだ、痛かった。

    「まだ」

    声が少しかすれた。

    高杉さんが顔を上げる。

    「まだ、どう返せばいいかわからないです」

    言ったあと、心臓が少し速くなった。

    こんな返事でいいのかわからなかった。

    でも、高杉さんはうなずいた。

    「はい」

    短い返事だった。

    「それでいいです」

    それでいい。

    そう言われて、少しだけ息がしやすくなった。

    沈黙が落ちた。

    謝られたからといって、急に何かが戻るわけではない。

    怒ったことが消えるわけでもない。
    使われていた感じが消えるわけでもない。
    誰にも誘われなかったことが、なかったことになるわけでもない。

    高杉さんが、少しだけ窓の外を見た。

    「自販機、行きませんか」

    「え?」

    「缶コーヒーくらいなら、五分で戻れます」

    「今、撮影中じゃないんですか」

    「デート組は外です。広瀬さんは待機で」

    待機。

    またその言葉が出た。

    高杉さんは、すぐに言い直した。

    「あ、すみません」

    少し慌てた顔だった。

    「そういう意味じゃなくて」

    私は少しだけ笑った。

    「わかってます」

    高杉さんは、ほっとしたように息を吐いた。

    「俺も、五分だけならたぶん怒られません」

    「たぶんなんですか」

    「ADなんで、だいたい怒られます」

    その言い方が少しおかしくて、私はまた少し笑った。

    ヴィラの外へ出ると、海風が思ったより強かった。

    自販機は、ヴィラの裏手にあった。表側の白いデッキや大きな窓とは違って、裏手にはスタッフ用の折りたたみ椅子や、使っていないケーブルの箱が置かれている。

    ここは、画面に映らない場所なのだと思った。

    高杉さんは自販機の前に立った。

    「コーヒーでいいですか」

    「はい」

    「甘いやつ?」

    「どっちでも」

    「どっちでもが一番困るやつです」

    高杉さんは少し迷って、微糖の缶コーヒーを二本買った。

    一本を私に渡す。

    「ありがとうございます」

    「こちらこそ。付き合わせてすみません」

    高杉さんは自分の缶を持ち、プルタブに指をかけた。

    その時、手が少し震えた。

    本当に少しだった。

    でも、缶の金属が小さく鳴った。

    私はそれを見てしまった。

    高杉さんは一度手を離し、もう一度開けようとした。

    今度は開いた。

    「あの」

    私が声をかけると、高杉さんは缶に口をつける前に笑った。

    「寒いだけです」

    海風は強かった。

    でも、そこまで寒くはなかった。

    私は何か言おうとして、やめた。

    胃薬。
    寝不足。
    寒いだけ。

    言葉だけが、頭の中で小さく並んだ。

    でも、今ここで聞いていいことなのかわからなかった。

    高杉さんは、自販機の横の低い塀に軽く寄りかかった。

    「映らない人同士、休憩しましょうか」

    少しふざけたような言い方だった。

    私は缶コーヒーを両手で持った。

    「高杉さんはスタッフじゃないですか」

    「スタッフも、基本映らないんで」

    「でも、映らないのが仕事ですよね」

    「そうですね」

    高杉さんは、缶コーヒーを見た。

    「そうなんですけど」

    そこで少しだけ黙った。

    風で、近くに置かれたビニール袋が小さく鳴った。

    「映らないからって、いないことにはならないです」

    私は、高杉さんを見た。

    高杉さんは海の方を見ていた。正確には、海はここからはほとんど見えない。白いヴィラの壁の向こうに、音だけがある。

    「すみません。なんか、偉そうでしたね」

    高杉さんが苦笑した。

    「いえ」

    私は缶のふちに指をかけた。

    「ちょっと、嬉しかったです」

    言ってから、少し恥ずかしくなった。

    高杉さんは驚いたようにこちらを見た。

    でも、すぐに何かを言うことはしなかった。

    それが、少しありがたかった。

    私は缶コーヒーを飲んだ。

    思ったより甘かった。

    微糖なのに、ちゃんと甘い。

    高杉さんが言った。

    「作られた恋って、言われることあるんです」

    「恋リアが?」

    「はい」

    高杉さんは缶を両手で持ち替えた。

    「台本あるんでしょ、とか。どうせ編集でしょ、とか」

    「実際、編集はありますよね」

    「あります」

    高杉さんはすぐに認めた。

    「めちゃくちゃあります。撮れたものしか使えないし、順番を入れ替えることもあるし、強く見せることもあります」

    私は高杉さんを見た。

    高杉さんは、言葉を選ぶように少しゆっくり話した。

    「でも、全部が嘘だとは思えなくて」

    風が吹いた。

    缶を持つ手が、またほんの少しだけ揺れた。

    「カメラの前でも、誰かを好きになる瞬間は、本物だと思いたいんです」

    その声は、いつもの「ADなんで」と言う時より少し低かった。

    私は何も言えなかった。

    高杉さんが、なぜそこまで恋リアを信じたいのかはわからない。

    でも、その言葉は、進行表を持ったスタッフの言葉というより、一人の人の言葉に聞こえた。

    「だから、俺」

    高杉さんは一度、言葉を止めた。

    「広瀬さんのことも、ちゃんと見てたつもりでした」

    私は、缶を持つ手に少し力を入れた。

    「でも、見てたつもりで、使ってました」

    高杉さんは、私を見た。

    「本当にすみません」

    今度の謝罪は、さっきより少し短かった。

    短い分、逃げ場がなかった。

    私はすぐには答えなかった。

    缶コーヒーの甘さが、口の中に残っている。

    「許します、って」

    私は言った。

    「今すぐ言える感じではないです」

    「はい」

    「でも」

    高杉さんが、少しだけ顔を上げた。

    「謝ってくれて、よかったです」

    それが、今言える精一杯だった。

    高杉さんは、深くうなずいた。

    「ありがとうございます」

    ありがとうございます。

    そう言われるのは少し変だった。

    でも、嫌ではなかった。

    五分はたぶん、とっくに過ぎていた。

    インカムから、高杉さんを呼ぶ声がした。

    「高杉、戻れる?」

    高杉さんは慌ててインカムを直した。

    「はい、すみません。すぐ戻ります」

    やっぱり怒られている。

    私は少し笑った。

    「だいたい怒られるんですね」

    「はい。予想通りです」

    高杉さんも少し笑った。

    ヴィラへ戻る道で、私は空になった缶を持って歩いた。

    表側のデッキでは、もう次の準備が始まっていた。デート組が帰ってくれば、またカメラが回る。莉子ちゃんは颯太くんと何を話したのだろう。颯太くんは、莉子ちゃんにどんな顔を向けたのだろう。

    私は、誰にも誘われなかった。

    それは変わらない。

    待機だったことも、変わらない。

    でも、映らない裏手の自販機で、缶コーヒーを飲んだ。

    高杉さんが謝った。
    私は、すぐには許せないと言った。
    それでも、少しだけ笑った。

    誰にも誘われなかった午後が、少しだけ違う形で残った。

    第7章 番組が優しくなりすぎる


    ペアデートから帰ってきた人たちは、みんな少しだけ番組の中の人になっていた。

    最初に戻ってきたのは、怜央くんと美月ちゃんだった。

    怜央くんは玄関に入ってくるなり、

    「ただいま。美月ちゃん、意外と歩くの速い」

    と言った。

    美月ちゃんはサンダルを脱ぎながら、

    「怜央が遅いだけ」

    と返した。

    でも、その声は昨日より少しだけやわらかかった。

    怜央くんは笑っていた。美月ちゃんも、呆れたようにしながら、ちゃんと怜央くんの方を見ていた。

    少し進んだんだ、と思った。

    次に帰ってきた颯太くんと莉子ちゃんは、もっとわかりやすかった。

    莉子ちゃんは玄関を入ってすぐ、私を見つけると小さく手を振った。

    「真帆ちゃん、ただいま」

    「おかえり」

    颯太くんは莉子ちゃんの少し後ろに立っていた。二人の距離は、出かける前より近かった。

    「どうだった?」

    私が聞くと、莉子ちゃんは一瞬颯太くんを見て、それから照れたように笑った。

    「楽しかった」

    「よかったね」

    「うん。颯太くん、今日すごくちゃんと話してくれた」

    颯太くんが少し慌てる。

    「それ、俺が普段ちゃんと話してないみたいじゃない?」

    「そうじゃなくて」

    莉子ちゃんは笑った。

    その笑い方が、昨日より少し安心しているように見えた。

    颯太くんも笑っていた。

    私は、よかったと思った。

    本当に。

    でも同時に、私の知らない時間が、二人の間に増えたのだと思った。

    海辺のカフェ。
    移動中の車。
    二人だけで見た景色。
    私の知らない会話。

    番組の中で、ちゃんと残る時間。

    その日の夜、リビングはペアデートの話で少し浮いていた。

    「美月ちゃん、カフェでめっちゃ真面目な話してさ」

    怜央くんが言う。

    「それ言う?」

    美月ちゃんが睨む。

    「いや、いい意味で。俺、ちょっと反省したもん」

    「本当に?」

    「本当に。俺、軽いの便利に使いすぎてるなって」

    美月ちゃんは少し驚いた顔をした。

    「それ自分で言えるんだ」

    「俺だって成長するし」

    「三日で?」

    「恋リアだから」

    みんなが笑った。

    カメラが二人に寄る。

    莉子ちゃんと颯太くんも、ソファの反対側で話していた。

    「莉子ちゃん、あの店のケーキ全部見てたよね」

    「だって全部おいしそうだったんだもん」

    「でも結局、俺が頼んだやつ半分食べたよね」

    「だめだった?」

    「全然」

    颯太くんの声は、朝のキッチンで私に話した時より、少しだけ自然だった。

    莉子ちゃんの前で、力が抜けている。

    それを見て、胸の奥が少し痛んだ。

    痛んだけれど、目をそらすほどではなかった。

    私は、リビングの端で、みんなの話を聞いていた。

    莉子ちゃんが不安そうに言葉を探すと、少しだけ相づちを入れる。
    怜央くんの冗談が行きすぎそうになると、少し笑って話題を変える。
    美月ちゃんが黙りすぎると、無理に聞かずに間を置く。

    誰に頼まれたわけでもない。

    でも、気づくとそうしていた。

    高杉さんは、リビングの外側に立っていた。

    目が合った。

    以前なら、そこで「助かります」と言われたかもしれない。

    でも高杉さんは、何も言わなかった。

    ただ、小さく会釈をした。

    私も、少しだけ頭を下げた。

    それだけだった。

    次の日も、撮影は進んだ。

    颯太くんと莉子ちゃんの時間が増えた。二人で朝食を作る場面。デッキで海を見ながら話す場面。莉子ちゃんが少し拗ねて、颯太くんが慌てる場面。

    怜央くんと美月ちゃんも、少しずつ番組の中に形ができていった。

    軽い男の子と、簡単には笑わない女の子。

    怜央くんが冗談を言う。
    美月ちゃんが冷たく返す。
    でも、最後には少し笑う。

    そういう関係に、カメラが寄っていく。

    私は、その周りにいた。

    ちゃんといた。

    リビングにも、キッチンにも、デッキにもいた。

    でも、カメラは私の少し隣を通り過ぎていく。

    莉子ちゃんが話し始めると、カメラが動く。
    颯太くんが黙ると、カメラが寄る。
    美月ちゃんが少し笑うと、スタッフさんが息をひそめる。
    怜央くんが言いすぎた時には、もう一台のカメラが近づく。

    私が話している時、途中で別の場所から誰かの声がすると、カメラはそちらへ向いた。

    それはたぶん、仕方のないことだった。

    私の話は、いつも誰かの話の続きだった。

    誰かが不安になって、私が聞く。
    誰かが言葉に詰まって、私が少しだけ手伝う。
    誰かが怒る前に、私が気づく。

    そのたびに、場は少し穏やかになる。

    でも、穏やかになった場面は、あまりカメラに残らなかった。

    昼過ぎ、莉子ちゃんが少し不安そうな顔をしていた。

    颯太くんが美月ちゃんと、デッキの隅で話していたからだ。

    二人は別に楽しそうにしていたわけではない。むしろ、少し真面目な顔だった。颯太くんは何かを相談しているように見えた。

    でも莉子ちゃんからは、距離だけが見えている。

    「真帆ちゃん」

    莉子ちゃんが、小さな声で私を呼んだ。

    「颯太くん、美月ちゃんと何話してるんだろ」

    私はデッキの方を見た。

    美月ちゃんが、颯太くんに何かを言っている。颯太くんは真剣にうなずいていた。

    たぶん、莉子ちゃんのことだと思った。

    根拠はなかった。

    でも、颯太くんの目が何度か莉子ちゃんの方を見ていたから。

    「たぶん、美月ちゃんに相談してるだけだと思う」

    私が言うと、莉子ちゃんは少しだけ眉を下げた。

    「相談?」

    「うん。莉子ちゃんのこと」

    「ほんとに?」

    「たぶん」

    たぶん、ばかりだった。

    でも莉子ちゃんは、その言葉で少し息を吐いた。

    「そっか」

    そのあと、私はキッチンへ行くふりをして、デッキの近くを通った。

    颯太くんが一人になったタイミングで、声をかけた。

    「颯太くん」

    「ん?」

    「莉子ちゃん、少し不安そうだったよ」

    颯太くんの表情が変わった。

    「え、ほんと?」

    「うん」

    「俺、美月ちゃんに相談してただけなんだけど」

    「それ、莉子ちゃんは知らないから」

    「あ……そっか」

    颯太くんはすぐに莉子ちゃんの方を見た。

    「ありがとう」

    そう言って、莉子ちゃんの方へ歩いていく。

    私は、その背中を見送った。

    まただ、と思った。

    誰かに頼まれたわけではない。

    高杉さんにも、スタッフさんにも、何も言われていない。

    それなのに、私は動いていた。

    莉子ちゃんが傷つく前に。
    颯太くんがすれ違う前に。
    番組が何かを撮る前に。

    私は、勝手に火を消してしまう。

    そう思った瞬間、前に聞いた門脇さんの声が戻ってきた。

    火種を消すんだよ。

    火種。

    私は、何を守っているのだろう。

    莉子ちゃんと颯太くんは、デッキの端で向かい合って話し始めた。莉子ちゃんは最初少し不安そうだったけれど、颯太くんが何かを説明すると、ゆっくり笑った。

    カメラが二人に寄る。

    でも、その前の部分は、たぶん撮れていない。

    莉子ちゃんが不安になる前に、私は声をかけた。
    颯太くんが迷う前に、私は伝えた。
    二人が大きくすれ違う前に、私はほどいてしまった。

    よかった。

    そう思った。

    でも、何かを消した感じもあった。

    その様子を、高杉さんが少し離れた場所から見ていた。

    私と目が合うと、高杉さんは何か言いかけた。

    でも、言わなかった。

    代わりに、持っていた進行表の端に、何かを書き込んだ。

    撮影が止まったあと、高杉さんはしばらくそのメモを見ていた。

    その顔が、少しだけ苦しそうに見えた。

    ⸻

    スタッフ用の小さな部屋には、空の紙コップと、使いかけのテープと、開いたままのノートパソコンが置かれていた。

    外ではまだ、出演者たちの笑い声が聞こえている。

    高杉は、進行表を握ったまま、門脇の前に立っていた。

    「門脇さん」

    「何」

    門脇はモニターから目を離さなかった。

    「広瀬さんの動き、もう少し残せませんか」

    門脇は少しだけ眉を動かした。

    「真帆?」

    「はい」

    「どの動き」

    高杉は言葉に詰まりかけた。

    でも、言った。

    「今日も、莉子さんと瀬名さんがすれ違いそうになったところ、広瀬さんが気づいてました。昨日も、美月さんと怜央さんの空気を戻してました。広瀬さんがいるから、関係が壊れずに進んでるところがあります」

    門脇は、そこでようやく高杉を見た。

    「真帆は悪くない。むしろ、いい動きをしてる」

    高杉は少しだけ顔を上げた。

    でも、門脇の声は続いた。

    「でもあいつは、いつもカメラのないところで揉め事を解決してくる」

    高杉は黙った。

    「結果だけあって、過程が撮れてない」

    門脇はモニターを指した。

    そこには、莉子と颯太がデッキで笑っている映像が映っていた。

    「ここだけ見たら、二人が勝手に仲直りしたように見える。真帆が間に入ったことは、画として残ってない」

    「でも、実際には広瀬さんが」

    「実際には、な」

    門脇は遮らなかった。

    ただ、短く言った。

    「テレビは、起きたことじゃなくて、撮れたことしか使えない」

    部屋の中が、少し静かになった。

    外の笑い声だけが遠く聞こえる。

    「真帆が悪いんじゃない。むしろ現場ではありがたい。でも、テレビ的には弱い」

    「弱い、ですか」

    「弱い」

    門脇ははっきり言った。

    「泣く前に慰める。揉める前にほどく。言い合いになる前に丸くする。あいつがいると、番組が優しくなりすぎる」

    高杉は、進行表を握る手に力を入れた。

    「優しいのは、悪いことじゃないと思います」

    「悪くないよ」

    門脇はすぐに言った。

    「悪くない。人としてはな」

    その言い方に、怒りはなかった。

    門脇は冷たいのではなく、ただ別のものを見ていた。

    「でも番組は、葛藤が映らないと物語にならない。誰かが迷って、間違えて、泣いて、それでも選ぶ。その過程がいる」

    「広瀬さんは、その過程を作ってます」

    「現場ではな」

    また同じ言葉だった。

    現場では。

    「高杉、お前が言ってるのは、現場にいた人間の感想だ」

    高杉は何も言えなかった。

    門脇はモニターに視線を戻した。

    「視聴者が見るのは、画面だ」

    その言葉は、正しかった。

    正しいから、苦しかった。

    高杉は、なおも言おうとした。

    「でも、広瀬さんがいなかったら、瀬名さんと莉子さんは――」

    門脇が、高杉を見た。

    「その瞬間、撮れてたか?」

    高杉は口を閉じた。

    撮れていなかった。

    莉子が不安そうにしていた時、カメラは美月と怜央を撮っていた。
    颯太に真帆が声をかけた時、音声は拾っていても、画はキッチンの奥だった。
    美月と怜央の空気を真帆が戻した時も、真帆はソファの端にいた。

    起きていた。

    でも、撮れていなかった。

    門脇はため息をついた。

    「真帆をもっと映したいなら、真帆自身が動かないと無理だ」

    「動いてます」

    「誰かのためにはな」

    高杉は、何も返せなかった。

    「高杉」

    門脇の声が少しだけやわらかくなった。

    「お前が真帆を気にしてるのはわかる。でも、気にしてるだけじゃ編集には残せない」

    気にしている。

    その言葉に、高杉は少しだけ反応した。

    でも、門脇はそれ以上触れなかった。

    「撮れたものを持ってこい。そしたら使う」

    それは、たぶん門脇なりの譲歩だった。

    でも、高杉にはわかっていた。

    真帆が本当に動く瞬間は、いつもカメラが間に合わない場所にある。

    揉める前。
    泣く前。
    言葉が刺さる前。

    人が傷つく一歩手前。

    そこに真帆はいる。

    そしてテレビは、その一歩手前をなかなか撮れない。

    高杉は、小さく頭を下げた。

    「わかりました」

    本当は、わかりたくなかった。

    でも、反論できなかった。

    ⸻

    その夜、高杉はスタッフ用の机の前に座っていた。

    みんなが撤収準備をしている中で、進行ノートを開いた。

    ページの端には、初日に書いたメモが残っていた。

    広瀬、聞き役として使える。

    その文字を見て、高杉はしばらく動けなかった。

    自分の字だった。

    間違いなく、自分が書いた字だった。

    現場を回すために。
    番組を成立させるために。
    誰がどう動くかを考えるために。

    その時は、ただのメモだった。

    でも今は、違って見えた。

    高杉はペンを持った。

    指先に少し力が入りにくかった。

    息を吐いて、もう一度持ち直す。

    そして、その下に小さく書き足した。

    違う。
    俺はこの人を使ってしまった。

    書き終えた文字は、いつもより少しだけ歪んでいた。

    第8章 好きになられないまま終わる方が、俺はもっとつらいです


    高杉さんの「大丈夫です」は、私の「大丈夫」とよく似ていた。

    撮影が進むにつれて、それが少しずつわかるようになった。

    「高杉、大丈夫?」

    スタッフさんにそう聞かれるたび、高杉さんはいつもの顔で笑った。

    「大丈夫です。ADなんで」

    その言い方は軽かった。

    軽くて、明るくて、少しだけ雑で、聞いた人がそれ以上踏み込まなくて済むようにできていた。

    私も、たぶん同じように言ってきたのだと思う。

    大丈夫。

    その一言を出せば、相手は少し安心する。会話はそこで止まる。深く聞かれない。自分も、それ以上説明しなくて済む。

    だから、高杉さんの「大丈夫です」が本当ではないことは、少しずつわかっていた。

    その日の午後、高杉さんは何度も水を飲んでいた。

    いつもなら出演者に配る側なのに、今日は自分のペットボトルを何度も口に運んでいた。インカムへの返事も、ほんの少し遅れる。スタッフさんに呼ばれて走り出す前に、一瞬だけ足を止める。

    でも、すぐに笑う。

    「すみません、今行きます」

    そう言って、また動く。

    私はリビングの端から、それを見ていた。

    颯太くんと莉子ちゃんは、デッキで話していた。カメラは二人に向いている。怜央くんと美月ちゃんはキッチンで何かを言い合っていて、そこにも別のカメラがついていた。

    私は、特に呼ばれていなかった。

    だから、高杉さんの動きがよく見えた。

    見えてしまった。

    撮影が一度止まった時、高杉さんが進行表を落とした。

    紙の束が床に散らばる。

    「あ、すみません」

    高杉さんはすぐにしゃがんで拾おうとした。

    でも、その手が一瞬止まった。

    指先が、紙の端をうまくつかめていなかった。

    私は立ち上がって、近づいた。

    「手伝います」

    「あ、すみません。大丈夫です」

    またそれだった。

    私は床に落ちた紙を拾いながら、高杉さんを見た。

    額に、薄く汗がにじんでいる。

    外は涼しかった。ヴィラの中も、冷房が効いている。

    汗をかくほどではなかった。

    「高杉さん」

    「はい?」

    「その“大丈夫です”」

    言いかけて、少し迷った。

    でも、言った。

    「私がよく使うやつと、同じ音がします」

    高杉さんは、紙を拾う手を止めた。

    一瞬だけ、笑わなかった。

    でもすぐに、いつもの顔に戻った。

    「じゃあ、信用できないやつですね」

    「はい」

    「正直ですね」

    「高杉さんほどじゃないです」

    「俺、正直ですか?」

    「ごまかすのが下手です」

    高杉さんは、小さく笑った。

    その笑い方は、いつもの軽さより少し薄かった。

    「AD、基本ごまかしながら走ってるんですけどね」

    「それ、よくないと思います」

    「ですよね」

    そう言いながら、高杉さんは立ち上がろうとした。

    その時だった。

    高杉さんの体が、少しだけ傾いた。

    ほんの少し。

    でも私は、見逃せなかった。

    高杉さんはすぐに壁へ手をついた。進行表を胸に抱えるようにして、息を整えている。

    「高杉さん」

    「大丈夫です」

    「大丈夫じゃないですよね」

    自分でも驚くくらい、声がはっきり出た。

    高杉さんは、今度は笑えなかった。

    インカムから声がした。

    「高杉、次の段取り確認できる?」

    高杉さんは片手でインカムを押さえた。

    「すみません、二分だけ外します」

    それだけ言って、インカムを耳から外した。

    私たちは、ヴィラの裏手に出た。

    前に缶コーヒーを買った自販機の少し先に、コンクリートの低い階段があった。画面に映る白いデッキとは違って、そこにはケーブルをまとめた箱や、使い終わった紙コップの袋が置かれていた。

    海は見えない。

    でも、音だけは聞こえた。

    高杉さんは階段の一段目に座った。

    私は少し離れて立っていた。

    「戻らなくていいんですか」

    私が聞くと、高杉さんは苦笑した。

    「本当は戻った方がいいです」

    「じゃあ」

    「でも、戻ったら怒られそうなので」

    「もう怒られてますよね」

    「そうですね」

    少しだけ沈黙があった。

    私は、高杉さんの手を見た。

    指先がまだ少し震えていた。

    ふと、初めて会った日のことを思い出した。

    小さな白い錠剤を、水で飲み込んでいた高杉さん。

    ただの胃薬です。

    収録初日の夜、デッキで胸に手を当てていたことも。

    寝不足です。

    前に自販機で缶コーヒーを開ける手が震えていたことも。

    寒いだけです。

    全部、少しずつ変だった。

    でも私は、変だと思いながら、そのたびに引き下がった。

    聞いてはいけないことのような気がしたから。

    「高杉さん」

    「はい」

    「胃薬も、寝不足も、寒いだけも」

    高杉さんは、何も言わなかった。

    「全部、違いますよね」

    風が吹いた。

    自販機の横に置かれていた空き缶入れの袋が、かさっと鳴った。

    高杉さんは、しばらく黙っていた。

    それから、ゆっくり息を吐いた。

    「半年くらいです」

    私は、最初、意味がわからなかった。

    「何がですか」

    高杉さんは少し困ったように笑った。

    その笑い方が、今までで一番下手だった。

    「残ってる時間です」

    音が、一度遠くなった。

    海の音も、ヴィラの中の声も、スタッフさんの足音も、全部少し遠くなる。

    半年。

    その数字だけが、変に近かった。

    「医者には、そう言われてます」

    高杉さんの声は静かだった。

    「病名を聞いても、たぶん広瀬さん、困ると思うので。俺もまだ、うまく説明できないですし」

    私は何か言おうとした。

    でも、言葉が出てこなかった。

    半年。

    半年後。

    今が夏なら、冬になる前か、冬の途中か。

    そんな変な計算だけが頭の中で動いた。

    「それ」

    やっと出た声は、かすれていた。

    「私に言っていいことなんですか」

    高杉さんは、少しだけ目を伏せた。

    「本当は、言わない方がいいと思います」

    「じゃあ、なんで」

    「隠せてないからです」

    高杉さんは、私を見た。

    「広瀬さんには、もう“大丈夫です”って言っても通じなそうだったので」

    胸の奥が痛くなった。

    通じない。

    それは、少し前なら嬉しかったかもしれない。

    私だけが気づけた、みたいに思えたかもしれない。

    でも今は、そんなふうには思えなかった。

    気づいてしまったことが、重かった。

    「いつからですか」

    聞いていいのかわからないまま、聞いていた。

    「ちゃんとわかったのは、番組が始まる少し前です」

    「じゃあ、なんで」

    また同じことを聞いていた。

    「なんで、現場にいるんですか」

    高杉さんは、階段に肘を置いた。

    「家にいる方が、しんどかったからです」

    その答えは、思っていたものと違った。

    「何もしないで、自分の残り時間だけ数えてると、たぶん本当にだめになるので」

    高杉さんは、海の音がする方を見た。

    「ここにいると、誰かが誰かを好きになるところを見られるんです」

    私は何も言えなかった。

    「作られた恋って言われても、編集されても、それでも、誰かが誰かの方を見る瞬間はあるじゃないですか」

    前に聞いた言葉を思い出した。

    カメラの前でも、誰かを好きになる瞬間は、本物だと思いたいんです。

    高杉さんは、その続きを話しているみたいだった。

    「それを見てると、まだ世界に自分の知らない続きがある気がするんです」

    高杉さんは、少し笑った。

    「すみません。重いですね」

    私は首を振った。

    でも、何を言えばいいかわからなかった。

    半年。

    その数字が、私と高杉さんの間に置かれている。

    さっきまでそこには、気まずさとか、謝罪とか、缶コーヒーとか、そういうものがあったはずなのに。

    今は、半年だけがあった。

    「私」

    声が震えた。

    「知らない方がよかったかもしれません」

    言った瞬間、高杉さんは少しだけ目を伏せた。

    私は慌てた。

    「違います。そういう意味じゃなくて」

    でも、何が違うのかわからなかった。

    知ったら、どうしていいかわからなくなる。

    近くにいたら、気づいてしまう。
    気づいたら、心配してしまう。
    心配したら、たぶんもっと見てしまう。

    もっと見たら。

    好きになってしまうかもしれない。

    そう思った瞬間、怖くなった。

    「これ以上」

    私は、自分の声を聞いていた。

    「近づかない方がいい気がします」

    高杉さんは、何も言わなかった。

    私は続けた。

    「だって、私が何か思っても、高杉さんの負担になるだけかもしれないし」

    言葉がうまくまとまらない。

    「残りの時間があるなら、もっと大事な人と過ごした方がいいかもしれないし」

    「広瀬さん」

    高杉さんの声は、静かだった。

    「それ、俺のためですか」

    私は答えられなかった。

    高杉さんは、少しだけ息を吸った。

    「それとも、広瀬さんが傷つきたくないからですか」

    胸の奥を、まっすぐ押された気がした。

    責められているわけではない。

    高杉さんの声は、むしろやさしかった。

    でも、そのやさしさで逃げ道がなくなった。

    私は、高杉さんを見られなかった。

    「私、そういうの、わからないです」

    「はい」

    「誰かを好きになるとか、好きって言うとか、そういうの、ちゃんとしたことがなくて」

    「はい」

    「相手を傷つけたくないって思うんです。でも、たぶんそれだけじゃなくて」

    図書室の匂いを、急に思い出した。

    返却された本。
    窓の外の野球部の声。
    図書委員の男の子の、困ったような笑顔。

    謝らないで。

    あの時、彼はそう言った。

    私は何度も謝った。傷つけたくなかったから。

    でも本当は、誰かの気持ちを受け取るのが怖かったのかもしれない。
    選ぶことも、選ばないことも、どちらも怖かったのかもしれない。

    「また」

    私は言った。

    「逃げようとしてるのかもしれません」

    高杉さんは、少しだけ目を細めた。

    「好きになられないまま終わる方が、俺はもっとつらいです」

    その言葉は、静かだった。

    大きな告白みたいではなかった。

    でも、逃げていた場所に、まっすぐ届いた。

    私は顔を上げた。

    高杉さんは、私を見ていた。

    「俺がこうだから、誰にも近づかないでおこうとか、好きになられない方がいいとか、そういうふうにされる方が、俺はつらいです」

    「でも」

    「はい」

    「好きになったら、失うじゃないですか」

    言ってから、喉の奥が熱くなった。

    初めて、そこを言ってしまった。

    高杉さんは、少しだけ黙った。

    それから言った。

    「失います」

    ごまかさなかった。

    「たぶん」

    その正直さが、ひどいと思った。

    でも、嘘を言われるよりずっとよかった。

    「でも、最初からなかったことにされるのとは、違うと思います」

    なかったこと。

    その言葉で、胸の奥がきしんだ。

    私は、恋リアの中で何度もそれを感じていた。

    いたのに、いなかったみたいにされること。
    好きだったのに、恋にならなかったみたいにされること。
    傷ついたのに、傷つく場面すらなかったことになること。

    高杉さんは、静かに続けた。

    「広瀬さんが誰かを好きになるかどうかは、広瀬さんのものです。俺が決めることじゃないです」

    「はい」

    「でも、俺のためって顔で、先に消さないでください」

    先に消す。

    それは、私がずっとしてきたことだったのかもしれない。

    相手が傷つく前に。
    自分が傷つく前に。
    恋になる前に。
    誰かに選ばれる前に。

    先に、自分で消す。

    私は、しばらく何も言えなかった。

    高杉さんは、ゆっくり立ち上がった。

    少しふらついたけれど、今度は壁に手をつかなかった。

    「すみません。そろそろ戻らないと、本当に怒られます」

    いつもの言い方に戻そうとしていた。

    でも、完全には戻っていなかった。

    私は、高杉さんを止めなかった。

    でも、距離を取るとも言えなかった。

    「高杉さん」

    「はい」

    「まだ、どうしたらいいかわかりません」

    「はい」

    「でも」

    私は息を吸った。

    「知らなかったことにはしません」

    高杉さんは、少しだけ笑った。

    「それで十分です」

    前にも似たような言葉を聞いた。

    でも、今は少し違って聞こえた。

    高杉さんはインカムを耳に戻した。

    「すみません、戻ります」

    そう言って、ヴィラの方へ歩いていく。

    その背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。

    私はその場に残った。

    海は見えない。

    音だけが聞こえる。

    半年という数字は、まだ頭の中にあった。

    高杉さんの残り時間。
    私が逃げようとしたこと。
    好きになる前に、先に消そうとしたこと。

    知らなかったことにはできないものが、また一つ増えた。

    第9章 ちゃんと負けたかった


    最終告白の日の朝、ヴィラは少しだけ静かだった。

    誰かが大きな声で笑っているわけでもないのに、空気が重いわけでもない。ただ、みんながそれぞれ、自分の中に何かを持っている感じがした。

    莉子ちゃんは、朝食のパンを半分だけ残した。

    「食べないの?」

    私が聞くと、莉子ちゃんは小さく笑った。

    「緊張して、入らない」

    「莉子ちゃんでも緊張するんだ」

    「するよ。めちゃくちゃする」

    そう言って、紙コップの水を少しだけ飲む。

    颯太くんは、キッチンの方で怜央くんと何か話していた。笑っているけれど、いつもより少し背筋が伸びている。莉子ちゃんの方を見て、すぐに目をそらした。

    私は、それを見てしまった。

    颯太くんは、たぶん今日、莉子ちゃんを選ぶ。

    もう、わかっていた。

    それなのに、胸の奥のどこかで、まだ小さなものが消えずに残っていた。

    もしかしたら。

    ほんの少しだけ。

    誰かが、私の名前を呼んでくれるかもしれない。

    そう思ってしまう自分がいた。

    リビングの端で水を飲んでいると、高杉さんが近づいてきた。

    手には、いつものペットボトルがあった。

    「水、飲んでます?」

    私は自分の手元を見せた。

    「飲んでます」

    「本当に?」

    「本当に」

    高杉さんは少しだけ笑った。

    「それならよかったです」

    それだけ言って、すぐに行こうとした。

    でも、一歩だけ進んで止まった。

    何か言いたそうだった。

    私は、その横顔を見た。

    高杉さんは、言わなかった。

    言わない方を選んだのだと思った。

    「高杉さん」

    呼ぶと、高杉さんが振り返った。

    「はい」

    「大丈夫です」

    自分で言ってから、少しだけおかしくなった。

    高杉さんも気づいたのか、少し眉を上げた。

    「それ、信用していいやつですか」

    「今日は、たぶん」

    「たぶんですか」

    「本当に大丈夫かは、終わってみないとわからないので」

    高杉さんは、少しだけまじめな顔になった。

    「そうですね」

    それから、いつもの軽さに戻すみたいに言った。

    「水、足りなくなったら言ってください」

    「はい」

    高杉さんは今度こそ、スタッフさんたちの方へ戻っていった。

    背中を見送りながら、私はペットボトルを握り直した。

    高杉さんの残り時間を、私は知っている。

    そのことは、最終告白の朝にも、ちゃんとそこにあった。

    でも、今日の私は、別のことでも胸がいっぱいだった。

    恋リアが終わる。

    七日間が終わる。

    私はこの場所で、何を残せたのだろう。

    昼前、女子はそれぞれ白い服に着替えた。

    私の衣装は、白いワンピースだった。

    鏡の前に立つと、そこにはちゃんと恋リアの女の子が映っていた。

    髪は綺麗に巻かれている。
    肌もいつもより明るい。
    目元も少しだけ華やかで、リップにもちゃんと色がある。

    事前撮影の日、白い壁の前でモニターに映った自分を見て、少し怖くなったことを思い出した。

    画面の中の私は、ちゃんと恋リアの女の子に見えた。

    今日も、そう見えた。

    それなのに、その中にいる感じがしなかった。

    莉子ちゃんが隣で、何度も髪を直していた。

    「変じゃない?」

    「全然」

    「ほんとに?」

    「ほんとに。可愛い」

    莉子ちゃんは、泣きそうな顔で笑った。

    「真帆ちゃん、私、大丈夫かな」

    私は少しだけ息を吸った。

    大丈夫。

    その言葉を簡単に渡すのは、もう少し怖かった。

    「大丈夫、って言いたいけど」

    莉子ちゃんが私を見る。

    「颯太くんは、ちゃんと莉子ちゃんを見てると思う」

    莉子ちゃんの目が揺れた。

    「真帆ちゃんがいたから、ここまで来られた」

    その言葉は、嬉しかった。

    嬉しかったのに、胸が痛かった。

    私は笑った。

    「そんなことないよ」

    「あるよ」

    莉子ちゃんは首を振った。

    「私、真帆ちゃんがいなかったら、たぶん途中で全部変なふうに考えてた」

    「それは、莉子ちゃんがちゃんと頑張ったからだよ」

    「でも、真帆ちゃんが聞いてくれた」

    聞いてくれた。

    その言葉が、やさしく刺さる。

    私は莉子ちゃんを嫌いになれなかった。

    むしろ、好きだった。

    颯太くんが莉子ちゃんを選ぶことも、たぶん正しいと思っていた。

    それでも、正しいことが痛くないわけではなかった。

    最終告白は、海の見えるデッキで行われた。

    風が強かった。

    白い服は、テレビで見ると綺麗なのだと思う。でも実際には、風で裾が揺れる。髪が口元にかかる。照明は眩しい。スタッフさんたちの靴音が、板の上で小さく響く。

    女子たちは横一列に並んだ。

    私は端の方に立っていた。

    また端だ、と思った。

    でも今日は、自分から真ん中に行けるほど強くもなかった。

    カメラが動く。

    スタッフさんが合図を出す。

    男子たちが少し離れた場所に立っている。

    颯太くんは、まっすぐ前を見ていた。

    その視線の先にいるのが私ではないことを、私はもう知っていた。

    それでも、名前が呼ばれる直前の空気は苦しかった。

    誰かの名前が呼ばれる。

    そのたびに、空気が動く。

    颯太くんが一歩前に出た。

    莉子ちゃんの肩が、少しだけ揺れた。

    「莉子」

    その声を聞いた瞬間、胸の奥が静かに沈んだ。

    わかっていた。

    わかっていたのに、ちゃんと痛かった。

    颯太くんは莉子ちゃんの前に立った。

    「俺は、莉子のことが好きです」

    莉子ちゃんは泣いた。

    その涙は綺麗だった。

    綺麗、なんて思うのは変かもしれない。でも、本当にそう見えた。

    ずっと可愛いと言われることに苦しんでいた莉子ちゃんが、今はちゃんと一人の人として、颯太くんの前に立っていた。

    颯太くんも、いつもの爽やかな顔ではなかった。

    少し怖そうで、少し頼りなくて、それでもちゃんと言っていた。

    よかった。

    本当にそう思った。

    私は拍手した。

    手のひらが少し痛くなるくらい、ちゃんと拍手した。

    莉子ちゃんが報われてよかった。
    颯太くんが言えてよかった。
    二人がすれ違ったまま終わらなくてよかった。

    それは全部、本当だった。

    でも、その全部の奥に、別の気持ちもあった。

    私も、名前を呼ばれたかった。

    颯太くんに、というより。

    誰かに。

    恋リアの中で、ちゃんと私に向かって。

    颯太くんと莉子ちゃんの告白が終わったあとも、最終告白は続いた。

    怜央くんは美月ちゃんの前に立った。

    美月ちゃんは最初、少しだけ笑って、

    「ちゃんと言える?」

    と言った。

    怜央くんは、

    「言うよ。さすがに」

    と答えた。

    二人のやり取りに、少しだけ笑いが起きた。

    そのあと、怜央くんはいつもより真面目な顔で、美月ちゃんに気持ちを伝えた。

    美月ちゃんはすぐに泣かなかった。

    でも、目元が少しだけ赤くなっていた。

    他の出演者たちも、それぞれ名前を呼ばれたり、呼ばれなかったりした。

    私はずっとそこに立っていた。

    風が髪を揺らす。

    白い靴の中で、足の指が少し痛い。

    マイクが服の内側で小さく擦れる。

    誰かが泣く。
    誰かが笑う。
    誰かが選ぶ。
    誰かが選ばれる。

    私の名前は、最後まで呼ばれなかった。

    誰も、私の前には立たなかった。

    終わったのだと思った。

    でも、不思議なくらい涙は出なかった。

    泣くには、少し形が足りなかった。

    ちゃんと告白して、ちゃんと振られたなら、泣けたのかもしれない。

    でも私は、何も言っていない。

    誰にも言われていない。

    何も始まっていないみたいな顔で、終わった。

    スタッフさんが明るい声で言った。

    「皆さん、お疲れさまでした」

    緊張していた空気が、一気にほどけた。

    出演者たちが抱き合う。

    莉子ちゃんが、泣きながら私に抱きついてきた。

    「真帆ちゃん、ありがとう。真帆ちゃんがいなかったら、私、無理だった」

    私は背中に手を回した。

    「よかったね」

    「ほんとに、ありがとう」

    颯太くんも近づいてきた。

    「真帆が背中押してくれたから、言えた」

    私は笑った。

    「よかった」

    また、それしか言えなかった。

    颯太くんは少しだけ申し訳なさそうな顔をした。

    その顔を見て、私は逆に笑わなきゃと思った。

    「莉子ちゃんのこと、大事にしてね」

    「うん」

    颯太くんは、まじめにうなずいた。

    そのまじめさに、また胸が痛くなる。

    少し離れたところで、高杉さんがこちらを見ていた。

    目が合った。

    高杉さんは、何か言いたそうだった。

    でもその時、

    「高杉、撤収こっち」

    とスタッフさんに呼ばれた。

    高杉さんは一瞬だけ迷って、それから頭を下げるようにして、機材の方へ走っていった。

    私は、その背中を見送った。

    恋リアの七日間は、そうやって終わった。

    放送日までの時間は、変に長かった。

    収録が終わって日常に戻ると、大学の教室も、駅のホームも、コンビニの明かりも、全部少しだけ平らに見えた。

    でも、スマホの中には番組公式の予告が流れてくる。

    『ついに最終告白』
    『涙の結末』
    『七日間の恋が終わる』

    莉子ちゃんと颯太くんの映像が使われていた。

    怜央くんと美月ちゃんの言い合いも入っていた。

    私は、一瞬だけ映った。

    白い服の端。

    巻き戻して、止めて、やっと自分だとわかるくらいだった。

    放送日の夜、私は部屋でスマホを握っていた。

    本当は見たくなかった。

    でも、見ないでいられるほど強くもなかった。

    番組が始まると、オープニングには莉子ちゃんの笑顔があった。颯太くんが海辺で笑うカットがあり、美月ちゃんが強い目で誰かを見るカットがあり、怜央くんの冗談にテロップがついた。

    私は、画面の端にいた。

    リビングの奥。
    キッチンの端。
    デッキの隅。
    莉子ちゃんの横でうなずく横顔。
    誰かに水を渡している手。

    私が颯太くんにカードを書いたことは、ほとんど触れられなかった。

    颯太くんと莉子ちゃんのすれ違いは、綺麗な物語になっていた。

    莉子ちゃんが不安そうにする場面。
    颯太くんが迷う場面。
    デートで距離が近づく場面。
    最終告白で颯太くんが莉子ちゃんを選ぶ場面。

    ちゃんと、恋になっていた。

    美月ちゃんと怜央くんの関係も、わかりやすく編集されていた。

    軽い怜央くん。
    それを冷たく返す美月ちゃん。
    でも少しずつ本音が見えていく二人。

    こちらも、ちゃんと物語になっていた。

    私がいたはずの場所は、ほとんど残っていなかった。

    私が聞いた莉子ちゃんの本音。
    颯太くんに伝えた小さな言葉。
    美月ちゃんと怜央くんの間で言ったこと。
    高杉さんと裏手で飲んだ缶コーヒー。

    そんなものは、画面にはなかった。

    最終告白の場面になった。

    颯太くんが莉子ちゃんを選ぶところは、夕方の海と音楽で、とても綺麗に流れた。

    莉子ちゃんの涙も、颯太くんの言葉も、ちゃんと時間をかけて映された。

    私は拍手していた。

    一瞬だけ。

    ナレーションが入った。

    「そして真帆の旅も、ここで終了」

    それだけだった。

    私は、スマホを持ったまま動けなかった。

    怒るほど映っていなかった。

    悲しいというより、変な感じだった。

    あれ。

    私、いたよね。

    七日間、ちゃんといたよね。

    放送が終わっても、しばらく画面を閉じられなかった。

    それから、してはいけないとわかっていることをした。

    検索した。

    『恋する七日間 真帆』

    すぐには、ほとんど何も出てこなかった。

    『恋リア 真帆』

    少しだけ出た。

    真帆ちゃん、いい子そうだったけど影薄かったな

    指が止まった。

    次の投稿を見た。

    真帆って誰だっけ? 白いワンピの子?

    その下には、颯太くんと莉子ちゃんの成立を喜ぶ投稿がたくさん並んでいた。

    颯太と莉子、普通に泣いた
    莉子ちゃん可愛すぎ
    美月と怜央の空気感すき

    さらにスクロールすると、こんな投稿があった。

    真帆ちゃん、出演者というよりスタッフみたいだった

    私は、そこでスマホを伏せた。

    見なければよかった。

    でも、見てしまった。

    スタッフみたいだった。

    それはたぶん、悪口ではない。

    悪口ではない言葉ほど、どう傷つけばいいのかわからない。

    少しして、スマホが震えた。

    高杉さんからだった。

    『見ましたか』

    私はしばらく返せなかった。

    見ました。

    それだけ打って、消した。

    大丈夫です。

    そう打ちかけて、消した。

    結局、こう送った。

    『少しだけ、話せますか』

    返信はすぐに来た。

    『はい』

    その夜、私は駅前の小さな広場で高杉さんに会った。

    収録のヴィラでも、海でもない。

    コンビニの明かりがあって、バス停があって、酔った会社員が通り過ぎていく普通の場所だった。

    高杉さんは黒いパーカーを着ていた。

    スタッフパスも、インカムもない。

    それだけで、少し別の人みたいに見えた。

    「すみません」

    最初に高杉さんが言った。

    私は首を振った。

    「高杉さんが謝ることじゃないです」

    「でも」

    「番組だから」

    そう言ってから、自分で嫌になった。

    門脇さんの言葉を思い出す。

    テレビは、起きたことじゃなくて、撮れたことしか使えない。

    わかっている。

    わかっているから、余計につらい。

    高杉さんは、すぐには何も言わなかった。

    その沈黙がありがたかった。

    私は広場のベンチに座った。

    高杉さんは少し離れて座った。

    「私」

    声が震えた。

    「ちゃんと負けたかったです」

    高杉さんは、こちらを見た。

    私は前を向いたまま続けた。

    「告白して振られるとか、泣いて終わるとか、そういうのがよかった」

    駅前の信号が青に変わる音がした。

    人が何人か横断歩道を渡っていく。

    「何も始まってないみたいに終わるのが、一番つらいです」

    言ってから、胸の奥が熱くなった。

    最終告白の時には出なかった涙が、今になって少しだけ出そうになった。

    「私、颯太くんのこと、好きだったのかもしれません」

    初めて、ちゃんと言った気がした。

    「でも、ちゃんと好きになる前に、莉子ちゃんの方へ押しました」

    高杉さんは黙って聞いていた。

    「莉子ちゃんが悪いわけじゃないです。颯太くんも悪くないです。二人がうまくいってよかったって、本当に思ってます」

    本当に。

    それだけは、嘘にしたくなかった。

    「でも、私の気持ちは、どこにも残らなかった」

    高杉さんの手が、膝の上で少しだけ動いた。

    でも、何も言わなかった。

    私は続けた。

    「誰かに選ばれなかったのは、仕方ないです。でも、私がそこにいたことまで、なかったみたいになるのは」

    言葉が詰まった。

    「つらいです」

    高杉さんは、長い間黙っていた。

    それから、静かに言った。

    「俺は、見てました」

    顔を上げると、高杉さんはまっすぐこちらを見ていた。

    「広瀬さんが、莉子さんの話を聞いてたことも。瀬名さんに声をかけたことも。美月さんと怜央さんの空気を戻したことも」

    高杉さんは少し息を吸った。

    「ちゃんと、見てました」

    その言葉は、すぐに私を救うほど強くはなかった。

    でも、胸の奥のどこかに、静かに置かれた。

    「でも、映ってなかったです」

    私が言うと、高杉さんはうなずいた。

    「はい」

    ごまかさなかった。

    「それが、悔しいです」

    その声は、私のためだけではなく、高杉さん自身にも向いているように聞こえた。

    その夜は、それ以上長く話さなかった。

    高杉さんの体調も気になったし、私も何を言えばいいかわからなかった。

    別れ際、高杉さんは言った。

    「帰ったら、水、飲んでください」

    私は少し笑った。

    「そこは変わらないんですね」

    「はい。そこは大事なので」

    高杉さんも少し笑った。

    家に帰ってから、私はまたスマホを開いた。

    もう検索しない方がいいとわかっていた。

    でも、指が勝手に動いた。

    『恋する七日間 真帆』

    新しい投稿は、ほとんどなかった。

    少しだけスクロールした時、見慣れないアカウントが出てきた。

    表示名は、

    カメラの外

    だった。

    アイコンは、何も設定されていないデフォルト画像。

    IDは、@camera_no_soto。

    フォローは一人だけ。番組公式アカウント。

    フォロワーは十四人。ほとんどが鍵のついたアカウントだった。

    投稿数は少なかった。

    最初の投稿に、目が止まった。

    画面の端にいる人ほど、誰かをよく見ていることがある。
    #恋する七日間

    指が止まった。

    その言葉を、どこかで見た気がした。

    私は次の投稿を開いた。

    誰かが泣く前に、隣に座った人がいた。
    でもカメラは、泣いた後しか追えなかった。
    #恋する七日間

    息が止まった。

    さらに下へスクロールする。

    恋を進めた人が、恋をしていなかったわけじゃない。
    #恋する七日間

    画面が少しにじんだ。

    私はスマホを持つ手に力を入れた。

    もう一つ、投稿があった。

    ちゃんと映らなかっただけで、そこにいなかったわけじゃない。
    #恋する七日間

    涙が落ちた。

    最終告白では泣けなかった。

    放送でも泣けなかった。

    颯太くんと莉子ちゃんを見ても、私は拍手して、笑って、よかったと言った。

    でも、この知らないアカウントの言葉を読んだ時、涙が出た。

    これは、私のことだ。

    そう思った。

    でも、誰が書いたのかはわからない。

    番組を見た誰かかもしれない。
    現場にいた誰かかもしれない。
    ただの偶然かもしれない。

    それでも、私はスマホを閉じられなかった。

    誰にも選ばれなかった夜に、私は初めて、見つけられた気がした。

    第10章 恋リアで最後の恋をした


    放送が終わっても、私の恋リアは終わらなかった。

    番組公式の投稿は、少しずつ落ち着いていった。

    最終告白の切り抜き。
    莉子ちゃんと颯太くんの成立報告。
    美月ちゃんと怜央くんの名場面まとめ。
    出演者たちのオフショット。

    最初の数日は、タイムラインを開くたびに何かが流れてきた。

    莉子ちゃんと颯太くんは、思っていた通り人気だった。二人が並んで笑っている写真には、たくさんのコメントがついていた。

    「お似合い」
    「ずっと見てたかった」
    「莉子ちゃん幸せになって」
    「颯太、ちゃんと男見せた」

    美月ちゃんと怜央くんも、別の意味で話題になっていた。

    「この二人の空気感好き」
    「美月ちゃんのツッコミ最高」
    「怜央、最後ちゃんとしてて泣いた」

    私は、たまに映る集合写真の端にいた。

    それでも、自分を探してしまう。

    探して、見つけて、少しだけ疲れる。

    番組は終わったのに、私はまだ画面の端で自分を探していた。

    その代わり、私は何度も「カメラの外」を開くようになった。

    表示名は、カメラの外。

    アイコンは、何も設定されていないまま。
    フォローは番組公式だけ。
    フォロワーは十四人から十五人になったり、また十四人に戻ったりしていた。

    投稿は、毎日増えるわけではなかった。

    でも、忘れた頃に一つ増えた。

    誰かの恋を応援した人が、自分の恋を諦めていい理由にはならない。
    #恋する七日間

    その投稿を見た時、私はスマホを持ったまましばらく動けなかった。

    私のことだ。

    そう思った。

    でも同時に、それは思い込みかもしれないとも思った。

    番組を見た誰かが、勝手にそう感じただけかもしれない。
    私以外にも、そう見えた人がいたのかもしれない。
    ただの偶然かもしれない。

    それでも、何度も読んでしまう。

    誰かの恋を応援した人が、自分の恋を諦めていい理由にはならない。

    高杉さんの声に、少し似ている気がした。

    俺は、見てました。

    あの駅前の広場で、高杉さんはそう言った。

    ちゃんと、見てました。

    映っていなかったことは否定しなかった。
    でも、見ていたことだけは、まっすぐ言った。

    私は、その言葉を何度も思い出した。

    大学の講義中にも。
    駅のホームでも。
    コンビニで水を買う時にも。

    水を手に取るたび、高杉さんの顔が浮かんだ。

    水、飲んでます?

    最初は、スタッフさんの言葉だった。

    でも、いつの間にか、それは高杉さんの言葉になっていた。

    ある日の昼休み、彩花が私の顔をのぞき込んできた。

    「真帆、最近ずっと考えごとしてない?」

    私は学食のテーブルで、紙コップの水を見ていた。

    「そんなことないよ」

    「あるよ。真帆の“そんなことない”は、だいたいそんなことある」

    「それ、前にも言われた気がする」

    「言ったかも」

    彩花は向かいの席に座った。

    「恋リア、終わったのにまだ終わってない顔してる」

    私は少し黙った。

    彩花には、番組でどんな編集になったかは話した。
    誰にも選ばれなかったことも、少しだけ話した。
    でも高杉さんの余命のことは、話していない。

    話していいことではないと思った。

    だから、言えることは限られていた。

    「好きになったら、たぶん傷つくってわかってる人がいる」

    彩花の箸が止まった。

    「恋リアの人?」

    「うん」

    「颯太くん?」

    私は首を振った。

    「違う」

    彩花は少しだけ目を丸くした。

    「え、違うんだ」

    「うん」

    「スタッフさん?」

    私は返事をしなかった。

    彩花は、それ以上そこを聞かなかった。

    こういう時、彩花は意外と優しい。

    少しの沈黙のあと、彩花は言った。

    「傷つかない恋ってあるの?」

    私は顔を上げた。

    「え?」

    「好きになったら傷つくかもって、それはそうじゃん。好きなんだから」

    「でも、最初から傷つくってわかってたら」

    「わかってなくても傷つく時は傷つくよ」

    彩花は、当たり前みたいに言った。

    「真帆ってさ、傷つけないようにしてる顔で、ずっと自分を後回しにするよね」

    私は何も言えなかった。

    人の気持ちはわかるのに、自分の気持ちだけ全部後回しにするよね。

    彩花はストローでアイスティーをかき混ぜた。

    「でも、それって相手のためだけじゃないんでしょ」

    胸の奥が少し痛んだ。

    高杉さんにも似たようなことを言われた。

    それ、俺のためですか。
    それとも、広瀬さんが傷つきたくないからですか。

    私は、逃げる時の自分の顔を、少しずつ見せられている気がした。

    彩花は私を見た。

    「今度は、誰かの恋じゃなくて、自分の恋なんじゃないの」

    言い方は軽かった。

    でも、その言葉は軽くなかった。

    私は紙コップの水を見た。

    表面に、学食の白い光が揺れている。

    「怖いよ」

    やっと出た声は、小さかった。

    彩花はすぐに茶化さなかった。

    「うん」

    「好きになったら、失うかもしれない」

    「うん」

    「でも、好きになる前に消すのも、もう嫌だ」

    言ってから、胸の奥が少し熱くなった。

    彩花は少し笑った。

    「じゃあ、答え出てるじゃん」

    「出てるのかな」

    「出てるよ。真帆は、答え出てるのに、提出するのが遅いタイプ」

    「レポートみたいに言わないで」

    「恋愛レポート」

    「最悪」

    二人で少し笑った。

    笑ったあと、私はスマホを開いた。

    高杉さんとのトーク画面を開く。

    最後のやり取りは、三日前だった。

    『水、飲んでください』

    『飲みました』

    『えらいです』

    『子ども扱いですか』

    『AD扱いです』

    意味がわからなくて、少し笑った会話。

    その下に、新しい文字を打った。

    『少しだけ会えますか』

    送信するまで、指が何度も止まった。

    でも、送った。

    返信は、すぐには来なかった。

    一時間。
    二時間。
    夕方。

    講義が終わって、駅へ向かう途中でスマホが震えた。

    『はい』

    それだけだった。

    少し遅れて、もう一通。

    『海、行きますか』

    私はその画面を見て、胸の奥が小さく鳴った。

    次の日、私は海沿いの遊歩道で高杉さんを待っていた。

    恋リアのヴィラからは少し離れた場所だった。

    同じ海なのに、番組で見た海とは少し違って見える。白いデッキも、照明も、スタッフさんの靴音もない。散歩している人がいて、犬を連れたおじいさんがいて、制服の高校生たちが自転車で通り過ぎていく。

    普通の海だった。

    でも、風の匂いだけは少し似ていた。

    私はコンビニの袋を持っていた。

    中には、水のペットボトルが二本入っている。

    高杉さんは、約束の時間より少し遅れて来た。

    黒いキャップをかぶって、薄い上着を着ていた。前より少し痩せた気がした。顔色もよくない。

    でも、私を見つけると、いつものように少し笑った。

    「すみません、遅れました」

    「大丈夫です」

    言ってから、二人で少しだけ黙った。

    「今のは?」

    高杉さんが聞く。

    「たぶん、信用していいやつです」

    「たぶんなんですね」

    「はい」

    私はコンビニの袋から、水を一本取り出した。

    「水、飲んでます?」

    高杉さんは、少し驚いた顔をした。

    それから、困ったように笑った。

    「それ、俺の台詞です」

    「今日は、私が持ってきました」

    差し出すと、高杉さんはゆっくり受け取った。

    「ありがとうございます」

    ペットボトルを開ける手は、少しだけ慎重だった。

    私はその手を見た。

    前なら、見てはいけないと思って目をそらしたかもしれない。

    でも今日は、そらさなかった。

    高杉さんは水を一口飲んだ。

    「ちゃんと冷たいですね」

    「コンビニで買ったので」

    「助かります」

    その「助かります」は、前とは違って聞こえた。

    私は海の方を見た。

    波は穏やかだった。

    言うことは決めていたはずなのに、いざ高杉さんの隣に立つと、言葉が遠くなる。

    高杉さんは急かさなかった。

    ただ、ペットボトルを持って、隣にいた。

    その静けさが、逆に逃げ道をなくした。

    「私」

    声が少し震えた。

    高杉さんがこちらを見る。

    「はい」

    「まだ怖いです」

    「はい」

    「好きになったら失うって、わかってます」

    高杉さんは、ごまかさずにうなずいた。

    「はい」

    「でも、好きになる前に消す方が、もっと嫌です」

    自分で言って、胸の奥が熱くなった。

    波の音がする。

    風が髪を揺らす。

    私は、ペットボトルを握った。

    「私、今度は誰かの恋を応援するんじゃなくて、自分の恋をします」

    高杉さんの表情が、少しだけ変わった。

    私は逃げずに見た。

    「高杉さんが好きです」

    言った。

    言えた。

    その瞬間、何かが大きく変わったわけではなかった。

    海はそのままだった。
    風もそのままだった。
    遠くで犬が吠えた。

    でも、私の中で、ずっと端に置いていたものが、初めて真ん中に出てきた気がした。

    高杉さんは、すぐには何も言わなかった。

    困ったようにも、泣きそうにも見えた。

    でも、ちゃんと私を見ていた。

    「ちゃんと、聞きました」

    最初に言ったのは、それだった。

    私は少し笑いそうになった。

    この人らしいと思った。

    高杉さんは、ペットボトルを両手で持った。

    「俺も、広瀬さんが好きです」

    胸の奥が、ゆっくり痛くなった。

    嬉しいのに、痛かった。

    高杉さんは続けた。

    「残せる時間は、少ないです」

    「知ってます」

    「それでも?」

    私はうなずいた。

    「それでも、知らなかったことにはしません」

    高杉さんは少しだけ目を伏せた。

    それから、笑った。

    「広瀬さん、強くなりましたね」

    「強くはないです」

    「じゃあ」

    「逃げない練習中です」

    高杉さんは、小さく笑った。

    「それ、いいですね」

    それから私たちは、海沿いを少し歩いた。

    恋人みたいだったのかは、よくわからない。

    手はつながなかった。

    写真も撮らなかった。

    ただ、水を飲みながら、ゆっくり歩いた。

    途中で高杉さんが少し疲れて、ベンチに座った。

    私は隣に座った。

    「無理しないでください」

    「大丈夫です」

    高杉さんが言う。

    私は横目で見た。

    高杉さんはすぐに訂正した。

    「今のは、あんまり信用できないやつです」

    「わかりました」

    「怒らないんですか」

    「怒る体力、もったいないので」

    「それは助かります」

    また「助かります」と言って、二人で少し笑った。

    短い時間だった。

    でも、その短い時間の中で、私は初めて、誰かの隣に自分の気持ちを持ったまま座っていた。

    誰かの相談を聞くためではなく。
    誰かの背中を押すためでもなく。
    誰かの恋を進めるためでもなく。

    自分の恋として。

    その日から、高杉さんとの連絡は少しずつ変わった。

    毎日長く話したわけではない。

    むしろ、短いメッセージが多かった。

    『水、飲みました』

    『えらいです』

    『高杉さんも飲んでください』

    『飲みました』

    『本当に?』

    『たぶん』

    『信用できないやつですね』

    そんなやり取り。

    高杉さんの返信は、少しずつ遅くなった。

    一日空くこともあった。
    二日空くこともあった。

    そのたびに、私はスマホを何度も見た。

    怖かった。

    でも、最初からなかったことにする方が、もっと怖かった。

    高杉さんは、たまにこう送ってきた。

    『今日は少しきついです』

    その一文を見た時、私は泣きそうになった。

    大丈夫です、ではなかったから。

    本当のことを、少しだけ送ってくれた気がしたから。

    私は返信した。

    『水、飲めそうですか』

    少しして、

    『少し飲みます』

    と返ってきた。

    それだけで、その日は何とか眠れた。

    それから、さらに少しして。

    高杉さんからの返信が途切れた。

    最初の一日は、待った。

    二日目、短く送った。

    『大丈夫ですか』

    送ってから、すぐに打ち直したくなった。

    大丈夫ではないかもしれない人に、大丈夫ですかと聞くことの頼りなさを、私は知っている。

    でも、他に言葉がなかった。

    返信は来なかった。

    三日目の夕方、知らない番号から電話がかかってきた。

    手が、すぐに冷たくなった。

    「広瀬真帆さんでいらっしゃいますか」

    女性の声だった。

    「はい」

    「孝太郎の母です」

    その瞬間、体のどこかが静かになった。

    声は続いていた。

    丁寧で、落ち着いていて、でも少し震えていた。

    私は何度か「はい」と言った。

    それ以外、何を言ったのかあまり覚えていない。

    電話を切ったあと、私は部屋の床に座っていた。

    手にはスマホがあった。

    机の上には、昨日買った水のペットボトルがあった。

    まだ開けていなかった。

    高杉さんは、亡くなった。

    その言葉を頭の中で言ってみても、意味が追いつかなかった。

    亡くなった。

    いない。

    もう返信は来ない。

    水を飲んだか聞いても、返ってこない。

    大丈夫です、も、たぶん、も、ADなんで、も。

    もう聞けない。

    涙はすぐには出なかった。

    ただ、部屋の音が全部遠くなった。

    冷蔵庫の音。
    外を走る車の音。
    スマホを握る自分の指の感覚。

    全部が、少しずつ遅れて届いた。

    お通夜の日、私は黒い服を着た。

    会場は、駅から少し歩いた場所にあった。

    入口に高杉孝太郎という名前が出ていた。

    その文字を見た時、胸の奥がぎゅっと縮んだ。

    高杉さんにも、下の名前があった。

    当たり前のことなのに、そんなことを思った。

    遺影の高杉さんは、笑っていた。

    スタッフパスも、インカムもない。

    少し照れたような、でもやわらかい笑顔だった。

    私は焼香の作法がちゃんとできているのかわからないまま、前へ進んだ。

    手が震えた。

    遺影を見ても、まだうまくわからなかった。

    ついこの前、海沿いのベンチで水を飲んでいた人が、写真の中にいる。

    そのことが、頭の中でつながらなかった。

    帰ろうとした時、女性に声をかけられた。

    「広瀬真帆さんですか」

    私は振り向いた。

    高杉さんに少し目元が似ている人だった。

    「はい」

    「孝太郎の母です。高杉美佐江と申します」

    私は慌てて頭を下げた。

    「このたびは」

    言葉が途中で止まった。

    何を言えばいいのかわからなかった。

    美佐江さんは、ゆっくり首を振った。

    「来てくださって、ありがとうございます」

    その声で、胸が痛くなった。

    美佐江さんは、手に持っていた紙袋を少し持ち直した。

    「孝太郎が、あなたに渡してほしいって言っていました」

    そう言って、私に一冊のノートを差し出した。

    黒い表紙の、少し角が丸くなったノート。

    見覚えがあった。

    高杉さんがいつも持っていた進行ノートだった。

    私は、すぐに受け取れなかった。

    「私に、ですか」

    「はい」

    美佐江さんは小さくうなずいた。

    「あの子、仕事のことはあまり家で話さなかったんですけど」

    少しだけ、困ったように笑った。

    「あなたの名前は、何度か聞きました」

    胸の奥が熱くなった。

    美佐江さんは、それ以上は言わなかった。

    高杉さんが何を思っていたかも、どんなふうに私のことを話していたかも、説明しなかった。

    ただ、ノートを私に渡した。

    私は両手で受け取った。

    「ありがとうございます」

    声が震えた。

    美佐江さんは、静かに頭を下げた。

    その夜、私は部屋で進行ノートを開いた。

    黒い表紙を触ると、少しざらざらしていた。

    何度も開かれて、角が柔らかくなっている。

    最初のページには、出演者の名前が並んでいた。

    佐倉莉子。
    瀬名颯太。
    黒川美月。
    片桐怜央。
    広瀬真帆。

    私の名前があった。

    その下には、細かい字で予定が書かれている。

    集合時間。
    移動時間。
    水、二十四本。
    予備マイク。
    衣装確認。
    香盤変更注意。

    高杉さんの仕事の字だった。

    ページをめくる。

    ところどころに、出演者ごとのメモがあった。

    莉子、表情が崩れる前に休憩。
    颯太、緊張すると早口。
    美月、黙っている時ほど考えている。
    怜央、軽口のあと必ず相手を見る。

    そして、私の名前。

    広瀬、聞き役として使える。

    息が止まった。

    その言葉は、前にも聞いた。

    廊下の端で、私はこの言葉に傷ついた。

    使える。

    私は恋リアに出たのに。
    誰かの恋を成立させるために来たんじゃないのに。

    ページの下には、別の字が書き足されていた。

    違う。
    俺はこの人を使ってしまった。

    その文字は、少し歪んでいた。

    私はノートを閉じそうになって、でも閉じなかった。

    ページをめくる。

    撮影中のメモが続く。

    真帆、莉子の不安に先に気づく。
    カメラ、颯太側。撮れてない。

    真帆、怜央の言葉をやわらげる。
    美月、表情戻る。
    でも画は弱い。

    真帆は恋をしていないんじゃない。
    恋が誰かを傷つける前に、自分が傷ついている。

    そこで、涙が一つ落ちた。

    ノートの端に、小さな丸い跡ができた。

    さらにページをめくる。

    画面の端。
    でも一番よく人を見ている。

    私は、スマホを取り出した。

    手が震えていた。

    「カメラの外」を開く。

    投稿を探す。

    画面の端にいる人ほど、誰かをよく見ていることがある。
    #恋する七日間

    同じだった。

    同じではない。

    でも、同じ場所から出た言葉だった。

    私はノートに戻る。

    莉子が泣く前、真帆が隣に座った。
    カメラは間に合わなかった。

    スマホの投稿。

    誰かが泣く前に、隣に座った人がいた。
    でもカメラは、泣いた後しか追えなかった。
    #恋する七日間

    息がうまく吸えなかった。

    ノートをめくる。

    颯太を莉子の方へ押した。
    たぶん、自分の気持ちごと。

    スマホの投稿。

    恋を進めた人が、恋をしていなかったわけじゃない。
    #恋する七日間

    もう、わかった。

    「カメラの外」は、高杉さんだった。

    高杉さんは、番組で私を残せなかった。

    門脇さんに言われた通り、撮れていないものは使えなかった。

    テレビは、起きたことじゃなくて、撮れたことしか使えない。

    だから高杉さんは、カメラの外に書いた。

    画面の端にいた私を。
    泣く前に隣に座った私を。
    誰かの恋を進めながら、自分の気持ちも抱えていた私を。
    ちゃんと映らなかっただけで、そこにいた私を。

    私は、声を出さずに泣いた。

    高杉さんは、見ていた。

    本当に、見ていた。

    「俺は、見てました」

    あの駅前での言葉が、ノートの中で何度も返ってきた。

    見ていただけじゃない。

    残そうとしてくれていた。

    番組では残せなかったから。

    カメラの外で。

    ノートの最後の方に、短いメモがあった。

    放送後、広瀬に言われた。
    ちゃんと負けたかった、と。

    その下に、少し間を空けて書かれていた。

    ちゃんと負けられなかった人。
    でも、恋をしていなかった人ではない。

    私は、そのページを何度も読んだ。

    何度読んでも、涙で文字が揺れた。

    番組の中では、私は誰にも選ばれなかった。

    最終告白で名前を呼ばれなかった。
    放送でも、ほとんど映らなかった。
    私の七日間は、六秒で終わった。

    でも、あの七日間がなければ、高杉さんには出会えなかった。

    誰かの恋を応援するだけだった私が、自分の恋をすると決めることもなかった。

    私は恋リアで、最後の恋をしたのだと思う。

    高杉さんにとって、本当に最後の恋だったのかもしれない。

    私にとっては、誰かの恋ばかり見ていた自分を終わらせる恋だった。

    スマホの画面には、「カメラの外」の投稿がまだ開かれていた。

    ちゃんと映らなかっただけで、そこにいなかったわけじゃない。
    #恋する七日間

    私はノートを胸に抱いた。

    カメラの外に、私の恋は残っていた。

    エピローグ 今日は、切れないところに立つ


    夏の終わりの大学は、少しだけ知らない場所みたいだった。

    同じ坂道。
    同じ校舎。
    同じカフェテリア。
    同じ自動販売機。

    何も変わっていないはずなのに、空の色だけが少し高くなっていて、日差しの中に夏の終わりの匂いが混ざっていた。

    私は、彩花たちの少し後ろを歩いていた。

    前を歩く彩花が、何かを大げさに話している。麻衣が笑って、もう一人の友達がスマホを見ながら相づちを打っている。

    私はその少し後ろで、みんなの背中を見ていた。

    誰かが歩くのを少し遅らせれば、自然に合わせる。
    誰かの声が小さくなれば、少しだけ耳を向ける。
    誰かが無理して笑えば、たぶん気づく。

    そこは、あまり変わっていなかった。

    私は、急に別の人間になったわけではない。

    人の顔色は、今でも見てしまう。
    端の方にいると、今でも少し落ち着く。
    大丈夫じゃない人の「大丈夫」は、今でも少しわかる。

    でも、それと、自分を消すことは同じではないのだと、少しだけわかるようになった。

    バッグの中には、高杉さんの進行ノートが入っていた。

    毎日持ち歩くには、少し重い。

    それでも今日は、なんとなく置いてこられなかった。

    ノートが入っている方の肩だけ、バッグが少し下がる。歩くたびに、重さが小さく揺れる。

    その重さは、悲しいだけではなかった。

    「真帆」

    前を歩いていた彩花が振り返った。

    「聞いてる?」

    「聞いてるよ」

    「絶対聞いてなかった顔してた」

    「聞いてた。麻衣が、夏休み明けからちゃんと授業出るって言ったけど、もう一限を一回休んだ話でしょ」

    麻衣が振り返った。

    「聞いてるじゃん」

    「しかも正確」

    彩花は笑った。

    「真帆、最近ちょっと顔変わったよね」

    「顔?」

    「なんか、前よりぼーっとしてない」

    「それ、褒めてる?」

    「たぶん」

    「たぶんなんだ」

    彩花は、少しだけ私の顔を見た。

    ふざけた顔をしていたけれど、その奥に、聞きすぎない優しさがあった。

    彩花は、高杉さんのことを全部は知らない。

    私も、全部を話してはいない。

    でも、何かがあったことは知っている。
    私が何かを持って帰ってきたことも、たぶん知っている。

    それでも彩花は、必要以上に聞かなかった。

    「ねえ」

    麻衣がスマホを掲げた。

    「なんか今日、みんなちゃんといるし、写真撮らない?」

    「ちゃんといるって何」

    彩花が笑う。

    「いや、夏休み明け一発目っぽいやつ」

    「一発目、もう何日か前だけど」

    「細かいこと言わない」

    麻衣は中庭の方を指した。

    芝生の上に、夏の終わりの光が落ちていた。木の影が少しだけ伸びていて、ベンチには何人かの学生が座っている。

    「ここで撮ろ」

    「いいよ」

    彩花がすぐに言った。

    友達がスマホをスタンド代わりにベンチへ立てかける。角度を調整して、タイマーを設定する。

    「はい、並んで」

    そう言われると、私は自然に端へ行こうとした。

    何も考えずに。

    昔からそうだった。

    写真を撮る時は、端。
    集合写真では、端。
    少し見切れても、まあいいかと思う場所。

    端にいると、誰かの邪魔をしなくて済む。

    そう思っていた。

    でも、その一歩を踏み出した時、自分で気づいた。

    また端に行こうとしている。

    彩花が、すぐに言った。

    「真帆、そこだとまた切れるよ」

    その声は軽かった。

    ただの写真の場所取りの注意だった。

    でも、私の中では、少し違う音で響いた。

    切れる。

    画面の端。
    白いワンピースの端。
    放送で一瞬だけ映った自分。
    誰かの横顔の奥にいた自分。
    カメラの外に残されていた自分。

    私は少し笑った。

    「今日は、切れないところに立つ」

    彩花が一瞬、目を丸くした。

    それから、何も言わずに少しだけ場所を空けた。

    私は真ん中には行かなかった。

    そこは彩花が似合う場所だったし、麻衣がふざけた顔で立っているのも、その隣の方が自然だった。

    私は、端の少し内側に立った。

    端ではある。

    でも、切れない場所。

    肩が誰かの肩と少し触れる。
    画面の中に、ちゃんと入る位置。

    「いくよー」

    麻衣がスマホのタイマーを押して、走って戻ってきた。

    「三、二、一」

    誰かが笑った。

    彩花が少しふざけた顔をして、麻衣がそれを見て吹き出して、私はその横で笑った。

    シャッター音が鳴った。

    スマホを取りに行った麻衣が、画面をのぞき込む。

    「いいじゃん」

    彩花も見る。

    「真帆、ちゃんと写ってる」

    私は画面を見た。

    そこに、私がいた。

    端の少し内側。

    大きく目立つわけではない。
    中心にいるわけでもない。
    でも、ちゃんといる。

    肩も、髪も、笑っている顔も、切れていない。

    それだけのことだった。

    たった、それだけ。

    でも私は、少しだけ息がしやすくなった。

    「送るね」

    麻衣が言った。

    すぐにスマホが震える。

    写真が届いた。

    私はそれを開いて、しばらく見ていた。

    画面の中の私は、ちゃんと笑っていた。

    無理に笑っている顔ではなかった。

    誰かのために作った顔でもなかった。

    ただ、その場にいて、写っている顔だった。

    その日の帰り道、私は駅のホームで写真を投稿した。

    文章は、少しだけ迷った。

    長い言葉はいらない気がした。

    高杉さんなら、何て書くだろう。

    そう思ってから、首を振った。

    これは、高杉さんの投稿ではない。

    私の投稿だ。

    私は、短く書いた。

    夏の終わり。ちゃんと写った。

    投稿ボタンを押す。

    すぐに彩花からいいねがついた。

    そのあと、麻衣からも。

    私はスマホを閉じて、ホームの向こう側を見た。

    夕方の空は、少しだけ薄い青だった。

    バッグの中で、進行ノートの重さが静かにあった。

    高杉さんはいない。

    それは変わらない。

    会いたいと思っても会えない。
    水を飲んだか聞いても、返事はない。
    大丈夫です、も、ADなんで、も、もう聞けない。

    でも、いなかったことにはならない。

    高杉さんが見てくれたことも。
    私が好きだと言えたことも。
    恋リアで誰にも選ばれなかったことも。
    カメラの外に残っていたことも。

    全部、なかったことにはならない。

    電車がホームに入ってきた。

    風が髪を揺らす。

    窓に映った私は、やっぱり少し端にいた。

    でも、もう見切れてはいなかった。

    端っこでも、もう見切れてはいなかった。


    <あとがき>

    この物語は、最初はとても王道の恋愛小説を書くつもりで始まりました。
    恋愛リアリティショー。海辺のヴィラ。七日間の共同生活。最終告白。誰かを好きになり、誰かに選ばれる物語。

    けれど、書いているうちに、どうしても別の記憶が混ざってきました。

    高校生の頃、私はとんねるずさんの番組『ねるとん紅鯨団』の高校生大会に出演したことがあります。男子と女子が集まり、最後に男子が女子へ告白する、当時の代表的な恋愛バラエティ番組でした。

    私はオーディションにギターを持って行き、自己紹介でも自分の歌を歌いました。ありがたいことに、放送ではたくさん映してもらい、スタジオでもいじってもらいました。

    でも、その現場には、ほとんど映らなかった女の子たちもいました。

    フリータイムでは確かにそこにいて、誰かと話して、笑って、緊張して、たぶん少し期待もしていたはずです。けれど、最後の告白に絡まなければ、放送ではほとんど存在しなかったことになる。

    テレビは、現場で起きたことをそのまま映すわけではありません。

    最後の面白さから逆算して、物語になる部分だけが残されます。だから、そこにいたのに映らなかった人がいる。時間を過ごしたのに、なかったことのように消えてしまう人がいる。

    主人公の真帆を「七日間いたのに、放送では6秒しか映らなかった人」にしたのは、たぶんその記憶があったからです。

    これは、恋に勝つ物語ではありません。
    誰かに選ばれる物語でもありません。

    映らなかった人が、それでも確かにそこにいたこと。
    誰かの恋を支えた人にも、自分の恋があったこと。
    そして、画面の外でその人を見ていた誰かがいたこと。

    そんな物語を書きたかったのだと思います。

    王道の恋愛小説を書こうとして始めたはずなのに、気づけば、自分の中に残っていた『ねるとん紅鯨団』の記憶や、映らなかった人たちへの想像が、濃く溶け込んでいました。

    だからこれは、恋愛リアリティショーの物語でありながら、カメラに映らなかった人たちの物語でもあります。

    画面には残らなくても、そこにいた人がいる。
    誰かに選ばれなくても、確かに恋をしていた人がいる。

    そのことだけは、消したくありませんでした。

    読んでくださって、本当にありがとうございました。


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    著者名:

    【可児波起:海辺の部屋CEO】

    ラップミュージシャンとしてメジャーデビュー=STAND WAVE。障がい者の介護職をするラッパー「介護ラッパー」としてフジテレビで2度特集。ビジネス領域では、「デジタルマーケティング」「Webマーケティング」のスペシャリストとして「ナショナルクライアント(東証プライム)企業」で、戦略コンサルタントなどを行う。高速のキャッチアップ、PDCAで、「確実に成果を出し」続けている。
    「マーケティングは『愛』である」という、「人の優しさ」を大切にしている

    海辺の部屋ホームページ
    https://www.umibe.art/

    STAND WAVE web site
    https://standwave.jp/

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    可児 波起(カニ ナミキ)| 海辺の部屋CEO。音楽グループ「STAND WAVE」。経済産業省認定「IT専門家」・中小企業庁認定「デジタル化応援隊」:日々感じたことを丁寧に言葉にして綴っています。 https://www.umibe.art/namikikani

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