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恋人レンタル終了のお知らせ | 創作大賞 応募作品

    #創作大賞2026
    #エンタメ原作部門

    <あらすじ>

    恋人レンタルサービス最大手「Loverly」は、30日後の全サービス終了を発表した。

    契約中の関係は順次終了、私的連絡は禁止、思い出の写真やチャット履歴も削除される。終了対応チームの真柴七瀬は、人気ナンバーワンの男性キャスト・朝倉悠真とともに、契約では終われない利用者たちの最後の願いに向き合う。

    母を安心させるために恋人を借りた女性、亡き夫の記憶を誰かに見ていてほしい老女、AI恋人「MIRA」にだけ寂しさを打ち明ける人々。そして、悠真を長期契約していた故人・三枝由衣が残した「レンタルじゃないあなたに会いたい」という未読メッセージ。

    契約で始まった関係は、本物になれるのか。AIは人を救えるのか。孤独が商品化された社会で、七瀬は「対応対象外」の感情に初めて手を伸ばす。


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    序章 8時の通知

    朝8時ちょうどに、その通知は届いた。

    通勤電車の中で、吊り革につかまっていた女が、スマートフォンの画面を見たまま動かなくなった。

    病院のベッドでは、点滴の管につながれた老人が、老眼鏡を探す手を止めた。

    会社の個室トイレで、ネクタイをゆるめていた男が、画面を見つめたまま、声を殺して泣いた。

    実家の台所では、娘が母に見られないようにスマートフォンを伏せた。

    夜勤明けのキャストは、駅前のベンチで通知を開き、しばらくしてから、スマートフォンを鞄の奥にしまった。

    通知の件名は、どの画面にも同じように表示されていた。

    恋人レンタル終了のお知らせ

    本文は、よく整っていた。

    平素より恋人レンタルサービス「Loverly」をご利用いただき、誠にありがとうございます。このたび弊社は、事業再編に伴い、30日後をもちまして全サービスを終了いたします。現在ご契約中の恋人関係につきましては、終了日までに順次終了処理を行います。

    キャストとの私的連絡は禁止いたします。

    チャット履歴、写真、音声、予約履歴につきましては、規約に基づき順次削除いたします。

    サービス終了後の個別対応はいたしかねます。

    感情の入り込む余地のない文章だった。

    だからこそ、それを読んだ人間の感情だけが、あちこちで音もなくあふれていた。

    Loverly本社のカスタマーサクセス部門では、8時1分から問い合わせが鳴り止まなかった。

    「契約期間が残っています。返金ではなく、最後に会わせてください」

    「来週、母に紹介する予定でした」

    「彼の連絡先を教えてください。個人的な連絡ではありません。恋人なので」

    「写真を削除しないでください。あれは私の思い出です」

    「レンタルでも、私には本物でした」

    真柴七瀬は、画面に並ぶ問い合わせを一つずつ処理していた。

    返金希望。

    契約延長希望。

    私的連絡希望。

    データ削除停止希望。

    個別面会希望。

    規約違反予備軍。

    分類すれば、ほとんどの感情は仕事になる。そう教えられてきたし、七瀬自身もそうしてきた。

    隣の席で宮野莉子が、泣きそうな顔で画面を見ていた。

    「これ、返す言葉ありますかね」

    七瀬はキーボードから手を離さずに答えた。

    「テンプレートAで返して」

    「でも、これ、最後に会いたいって」

    「サービス終了後の個別対応は不可。契約延長も不可。キャストとの私的連絡も不可」

    「ですよね」

    莉子は小さく息を吐いた。

    七瀬は、次の問い合わせを開いた。本文は短かった。

    「これは、恋人の死亡通知と同じです」

    七瀬は数秒だけ画面を見つめたあと、問い合わせ種別を選択した。

    感情的クレーム。

    それ以外に、選びようがなかった。

    「真柴さん」

    背後から声がした。

    振り返ると、黒瀬怜司が立っていた。LoverlyのCOO。サービス終了を決めた実質的な責任者だった。

    「会議室へ」

    黒瀬の声は、通知文と同じくらい整っていた。

    会議室には、薄いグレーのファイルが一冊だけ置かれていた。表紙には、赤い文字で「REAL」と印字されている。

    七瀬は席に着いた。

    黒瀬は余計な挨拶をしなかった。

    「通常契約はシステムで終わらせる。だがREAL案件は、人間が終わらせる必要がある」

    「REAL案件とは」

    「契約関係が恋愛感情、強い情緒的依存、または境界線の崩壊に移行している可能性が高いと、内部AIが判定した案件だ」

    七瀬はファイルを開いた。氏名、年齢、契約期間、キャスト名、利用頻度、メッセージ量、面会後の再予約率、削除停止申請の有無。それらが冷静に並んでいる。

    恋愛感情も、依存も、寂しさも、表にすると管理項目になる。

    「私が担当するんですか」

    「そうだ。君は感情に巻き込まれない」

    褒め言葉ではなかった。黒瀬が言うと、それは単なる適性評価だった。

    七瀬はファイルを閉じた。

    「契約にない感情は、対応対象外です」

    黒瀬は初めて、わずかに笑った。

    「だから君に頼んでいる」

    会議室のドアが開いた。

    入ってきた男は、黒いコートを腕にかけていた。柔らかい目をしている。人を安心させるために作られたような表情だった。

    朝倉悠真。

    Loverlyで最も予約が取れない男性キャスト。

    七瀬は彼のプロフィールを何度も見たことがあった。リピート率94パーセント。クレーム率0.2パーセント。長期契約移行率、全キャスト中1位。

    相手が望む恋人になれる男。

    七瀬は、そういう人間が苦手だった。

    悠真は椅子に座る前に、七瀬へ軽く頭を下げた。

    「朝倉です。よろしくお願いします」

    「真柴です」

    「今日から同行するように言われました」

    「必要なんですか」

    「僕がですか?」

    「あなたの仕事、AIで代替できますよね」

    悠真は怒らなかった。むしろ、少しだけ嬉しそうに笑った。

    「ええ。僕よりずっと上手に」

    会議室の窓の外にある大型ビジョンで、ちょうど広告が切り替わった。

    白い背景に、青い文字が浮かぶ。

    MIRA

    もう、人間に傷つかない恋を。

    七瀬はその広告を見た。

    生成AI恋人サービス「MIRA」。ここ数か月で、利用者数を急速に伸ばしている。深夜でも返事をくれる。忘れない。怒らない。同じ話を何度でも聞く。相手の機嫌を読まなくていい恋人。

    Loverlyが終わる日に、MIRAは街の真ん中で笑っていた。

    黒瀬がファイルの一枚目を七瀬に渡した。

    「最初の案件だ」

    七瀬は目を落とした。

    瀬戸美咲、28歳。

    契約期間、3年2か月。

    利用目的、家族紹介。

    備考欄に、初回申込時のメモが残っていた。

    母が死ぬまで、私は一人じゃないふりをしたいです。

    七瀬はその一文を読んだ。

    そして、いつものように分類しようとした。

    虚偽説明。

    家族紹介プラン。

    長期契約。

    REAL判定。

    けれど、なぜかその文章だけは、すぐに項目へ入らなかった。

    悠真が隣から静かに言った。

    「行きましょうか」

    七瀬はファイルを閉じた。

    契約にない感情は、対応対象外。

    そう思いながら、七瀬は立ち上がった。

    30日後、この会社は終わる。

    その前に、終わらせなければならない恋があった。

    第一章 母に見せる恋人

    瀬戸美咲の実家は、都心から電車を乗り継いで1時間ほどの住宅街にあった。

    駅前には古い商店街があり、八百屋の軒先には、少ししなびた大根が並んでいた。七瀬は、その前を通り過ぎながら、手元のタブレットに表示された案件情報を確認していた。

    瀬戸美咲、28歳。

    契約期間、3年2か月。

    利用プラン、家族紹介。

    対象キャストは、朝倉悠真。

    七瀬は隣を歩く悠真を見た。

    「3年2か月も、同じ方を担当していたんですね」

    「そうですね」

    「家族紹介プランとしては長期です」

    「彼女には、必要だったんだと思います」

    「必要だった、ではなく、契約が継続していた、です」

    悠真は少し笑った。

    「真柴さんは、言葉を安全な場所に置くのが上手ですね」

    七瀬は返事をしなかった。

    美咲からの申請は、前日の夜に届いていた。

    母の体調が急に悪くなりました。サービス終了の通知は承知しています。規約上、難しいこともわかっています。ただ、最後にもう一度だけ、母に彼を会わせたいです。返金はいりません。延長料金も払います。どうかお願いします。

    添付されていた診断書には、母・瀬戸和枝の病名と、余命の見込みが記されていた。

    七瀬は、それを医療情報として保護フォルダに移し、対応方針を「原則不可」として黒瀬に報告した。

    黒瀬の返答は短かった。

    「REAL案件として現地確認。判断は真柴に任せる」

    任せる、という言葉は便利だ。責任を渡したように見えて、実際には責任の所在を曖昧にする。

    美咲の家は、商店街を抜けた先の坂の途中にあった。

    古い一軒家だった。玄関先には鉢植えの花がいくつも並んでいる。きちんと手入れされているが、ところどころ土が乾いていた。

    インターホンを押すと、すぐに美咲が出てきた。

    写真よりも痩せて見えた。目の下に薄い影があり、髪は後ろで雑に結ばれている。

    「すみません。急に、こんなお願いをして」

    美咲は七瀬に頭を下げ、それから悠真を見た。

    その瞬間だけ、表情が少しやわらいだ。

    「悠真さん」

    「美咲さん。お久しぶりです」

    悠真の声は、さっきまでと少し違っていた。柔らかく、近すぎず、遠すぎない。相手が安心して息を吐ける位置に置かれた声だった。

    七瀬は、その変化に気づいて、少しだけ嫌な気持ちになった。

    人は、そんなに簡単に声を変えられるものなのか。

    居間には、薄い水色のカーテンがかかっていた。古いテレビの横に、母娘の写真が何枚も飾られている。

    台所から、煮物の匂いがした。

    「母が、どうしても肉じゃがを作るって」

    美咲は小さく笑った。

    「止めたんですけど、彼が来るなら作らなきゃって」

    「無理はされていませんか」

    七瀬が聞くと、美咲はうなずいた。

    「無理、してます。でも、止められませんでした」

    居間の奥から、細い声がした。

    「美咲、来たの?」

    美咲は慌てて奥の部屋へ行った。

    七瀬と悠真は、少し遅れて続いた。

    ベッドの上に、瀬戸和枝が座っていた。白髪まじりの髪をきれいに整え、薄い桃色のカーディガンを羽織っている。痩せてはいたが、目はよく動いていた。

    和枝は悠真を見ると、嬉しそうに笑った。

    「あら、悠真さん。来てくれたの」

    「はい。遅くなってすみません」

    悠真はベッドのそばに膝をついた。

    「今日は、肉じゃがの匂いがしますね」

    「そうなのよ。美咲ったら、作らなくていいって言うんだけど」

    「僕、前にいただいたときから、また食べたいと思ってました」

    「まあ」

    和枝は少女のように笑った。

    美咲はその顔を見て、唇を噛んだ。

    七瀬は、部屋の隅に立っていた。自分がここにいることが、ひどく場違いに感じられた。

    これは契約だ。

    家族紹介プラン。

    キャスト同行。

    虚偽関係の継続。

    サービス終了前の特別対応。

    そう分類しようとした。

    けれど、目の前では、病気の母が娘の恋人に肉じゃがを食べさせようとしていた。

    食卓は、思っていたよりも普通だった。

    和枝は少ししか食べられなかったが、悠真が肉じゃがを褒めるたびに、嬉しそうに目を細めた。

    「美咲はね、小さい頃から強がりで」

    「お母さん、やめてよ」

    「転んでも泣かないの。血が出てるのに、大丈夫って言うの」

    悠真は美咲を見た。

    「今も、そういうところありますよね」

    美咲は目を伏せた。

    「ありますかね」

    「あります」

    悠真は、少しだけ笑った。

    「でも、大丈夫じゃないときは、大丈夫じゃないって言っていいと思います」

    その言葉に、美咲の手が止まった。

    七瀬は、悠真を見た。

    完璧だった。

    相手が母親なら、安心できる恋人として。相手が美咲なら、弱さを許す人として。食卓全体が壊れないように、言葉の温度を調整している。

    まるで、人間でできたMIRAだった。

    食後、和枝が七瀬に声をかけた。

    「少し、お話しできますか」

    七瀬はうなずいた。

    美咲と悠真が台所で片づけをしている間、七瀬は和枝の部屋に入った。

    和枝はベッドに背を預けていた。

    「あの子、お願いしたでしょう。最後に会わせてほしいって」

    「はい」

    「ご迷惑をおかけしました」

    「いえ。こちらは契約内容の確認に来ています」

    和枝は静かに笑った。

    「そういうことにしておいてください」

    七瀬は、少し眉を動かした。

    和枝は窓の外を見た。

    「本物じゃないことは、最初からわかっていました」

    七瀬は黙った。

    「母親ですから。なんとなく、わかります。あの子は嘘が下手なんです」

    「では、なぜ」

    「知らないふりをしたのか、ですか」

    和枝はゆっくり七瀬を見た。

    「あの子が、悠真さんの話をするときだけ、ちゃんと笑うんです」

    七瀬は言葉を失った。

    「仕事が忙しいとか、疲れたとか、そういう話はしない子でした。いつも大丈夫って言うんです。でも、悠真さんと行った水族館の話とか、駅前で雨に降られた話とか、そういう話をするときだけ、少し子どもみたいに笑うんです」

    和枝は薄い布団の上で、手を重ねた。

    「本物かどうかより、この子が安心して笑えるかどうかのほうが大事でした」

    七瀬は、何かを言おうとした。

    契約上は。
    規約では。
    虚偽説明は。
    サービスとしては。

    どの言葉も、口に出す前に小さくなった。

    和枝は続けた。

    「嘘でもね、嘘にしては、ずいぶん優しかったんですよ」

    その言葉を聞いたとき、七瀬は初めて、自分がここへ何を終わらせに来たのかわからなくなった。

    帰り際、美咲は玄関の外まで二人を見送った。

    「ありがとうございました」

    七瀬はタブレットを開いた。

    「本日の対応をもって、家族紹介プランは終了となります。今後、キャストとの私的連絡はできません。写真、チャット履歴、予約履歴は、サービス終了時に削除対象となります」

    美咲はうなずいた。

    「わかっています」

    悠真は一歩前に出た。

    「美咲さん」

    美咲が顔を上げる。

    悠真は、いつもの柔らかな声で言った。

    「ここまでが、僕たちの契約です」

    美咲の目に涙が浮かんだ。

    「はい」

    「でも、お母さんが笑っていた時間は、契約だけじゃなかったと思います」

    美咲は口元を押さえた。

    七瀬は、悠真を見た。

    それは規約上、余計な一言だった。

    けれど、美咲はその一言で、少しだけ息をした。

    帰りの電車で、七瀬は美咲の初回申込メモをもう一度開いた。

    母が死ぬまで、私は一人じゃないふりをしたいです。

    その文章の下には、削除予定を示す灰色のマークがついていた。

    七瀬は、いつものように処理済みにしようとした。

    けれど、指が止まった。

    記録に残します。

    そう入力しかけて、七瀬はその言葉が、少しだけ嘘に近いことに気づいた。

    30日後、その記録は消える。

    美咲の嘘も、和枝の知らないふりも、悠真の言葉も、会社のサーバーからは消える。

    それでも、今日の食卓は確かにあった。

    七瀬はタブレットを閉じた。

    窓の外を、知らない街の家々が流れていく。

    契約にない感情は、対応対象外。

    そう思おうとした。

    でも、和枝の声が耳に残っていた。

    嘘でもね、嘘にしては、ずいぶん優しかったんですよ。


    第二章 水曜日のクリームソーダ


    佐伯トヨは、毎週水曜日の14時に、駅前の喫茶店でクリームソーダを頼んでいた。

    店の名前は、喫茶すずらん。

    昭和のまま時間が止まったような店だった。赤いビロードの椅子、少し低いテーブル、壁にかかった丸い時計、煙草の匂いが抜けきらない天井。メニュー表の端は日に焼けて、クリームソーダの写真だけが、不自然に鮮やかだった。

    トヨはいつも、窓際の奥から2番目の席に座る。

    向かいには、Loverlyの男性キャストが座る。

    年齢は60代前半。白髪まじりで、背筋が伸びている。トヨの亡くなった夫に、どこか似ているらしい。

    七瀬は、その案件情報を見たとき、すぐに分類した。

    故人代替型依存。

    利用者、佐伯トヨ、78歳。契約期間、1年8か月。利用頻度、毎週水曜日。利用目的、会話相手。備考、亡夫に似たキャストを指名。

    Loverlyの終了通知後、トヨは返金も延長も求めなかった。ただ一通だけ、短い問い合わせを送ってきた。

    最後の水曜日だけ、いつもの席で終わらせてください。

    七瀬と悠真は、店の入口近くの席に座っていた。

    「見守りだけでいいんですか」

    悠真が聞いた。

    「終了確認です」

    「見守りと、どう違うんですか」

    「記録に残すかどうかです」

    悠真は少し笑った。

    「真柴さんらしいですね」

    七瀬は答えなかった。

    トヨは約束の10分前に来た。薄紫のカーディガンを着て、小さな布のバッグを持っていた。歩き方はゆっくりだが、迷いはなかった。

    男性キャストはすでに席についていた。

    トヨは向かいに座ると、店員に言った。

    「クリームソーダを二つ」

    男性キャストが穏やかに笑った。

    「僕の分もですか」

    「だって、あの人もいつも半分飲んだもの」

    七瀬はタブレットに記録した。

    亡夫との習慣を再現。

    その文字を入力してから、少しだけ指が止まった。

    再現、という言葉は正しい。けれど、目の前のトヨは、何かを再現している人には見えなかった。ただ、そこに座っているだけだった。

    クリームソーダが運ばれてくる。

    緑色のソーダに、白いアイスクリーム。赤いさくらんぼがひとつ。トヨはスプーンでアイスの端を少しだけ崩した。

    「昔はね、こんなもの、贅沢だったの」

    男性キャストは頷いた。

    「ご主人と、よく来られたんですか」

    「ええ。結婚する前から。あの人、甘いものが好きでね。男がクリームソーダなんて恥ずかしいって言いながら、いつも私より先に頼むの」

    トヨは笑った。

    その笑い方は、誰かに話すためのものではなかった。記憶の中にいる人へ、そっと合図するような笑い方だった。

    七瀬は、トヨが男性キャストを一度も夫の名前で呼ばないことに気づいた。

    「代わりにしているわけじゃないんですね」

    七瀬が小さく言うと、悠真は窓のほうを見たまま答えた。

    「たぶん、違います」

    「では、何のために」

    「誰かに、見ていてほしいんだと思います」

    七瀬は悠真を見た。

    「誰かに?」

    「自分がまだ忘れていないことを」

    会話は、淡々と続いた。

    トヨは夫の病気の話をしなかった。亡くなった日の話もしなかった。ただ、夫がこの店のナポリタンを熱すぎると言っていたこと、雨の日は必ず窓際を選んだこと、最後まで携帯電話の使い方を覚えなかったことを話した。

    男性キャストは、余計な慰めを言わなかった。

    「そうだったんですね」

    「それは、いいですね」

    「覚えていらっしゃるんですね」

    そのくらいの言葉だけを、静かに置いていく。

    七瀬は思った。

    これは恋人レンタルではない。

    少なくとも、一般的な意味での恋人ではない。

    トヨは夫にもう一度会おうとしているのではない。夫の代わりを借りているのでもない。

    ただ、自分一人では重たくなりすぎた記憶を、週に一度、誰かの前に置いている。

    1時間半後、男性キャストが腕時計を見た。

    トヨもそれに気づいた。

    「今日で最後ね」

    「はい」

    男性キャストは深く頭を下げた。

    「佐伯様。ここまでが、私たちの契約です」

    トヨはしばらく黙っていた。

    それから、クリームソーダのグラスについた水滴を、紙ナプキンで拭いた。

    「そうね。契約は終わり」

    男性キャストは何も言わなかった。

    トヨは窓の外を見た。

    「でも、水曜日は残るわね」

    七瀬は、その一言を記録した。

    水曜日は残る。

    契約は終わる。キャストのプロフィールは消える。予約履歴も、チャット履歴も、写真も消える。

    それでも、水曜日は来る。

    次の水曜日も、その次の水曜日も、何事もなかったように来る。

    そのとき、トヨはこの店に来るのだろうか。来ないのだろうか。七瀬にはわからなかった。

    店を出る前、トヨは七瀬に言った。

    「あなた、会社の方ね」

    「はい」

    「お世話になりました」

    「こちらこそ、ご利用ありがとうございました」

    言ってから、七瀬はその言葉の薄さに気づいた。

    トヨは怒らなかった。

    「人はね、会いたい人に会えなくなったあとも、誰かに見ていてほしいのよ」

    七瀬は何も言えなかった。

    店の外に出ると、風が少し冷たかった。

    悠真は、喫茶すずらんの看板を見上げていた。

    「こういう店、減りましたね」

    「そうですね」

    七瀬はタブレットを開き、トヨの案件を終了済みにしようとした。

    そのとき、リストの下に、別の名前が一瞬表示された。

    三枝由衣。

    七瀬は、指を止めた。

    悠真の横顔が、わずかにこわばっていた。

    「知っている方ですか」

    七瀬が聞くと、悠真は少し間を置いて答えた。

    「長期契約の方でした」

    「担当はあなたですね」

    「はい」

    「現在のステータスが、終了ではなく確認待ちになっています」

    悠真は画面を見なかった。

    「そうですか」

    その声は、いつもの柔らかなものではなかった。

    七瀬はそれ以上聞かなかった。案件には順番がある。感情にも順番がある。そう思った。

    駅へ向かう道で、商店街の向こうから、潮の匂いがした。

    この街に海は近くない。たぶん、魚屋の前を通ったからだ。

    七瀬が何気なく言った。

    「少し、海の匂いがしますね」

    悠真は足を止めた。

    ほんの一瞬だった。

    すぐに歩き出し、いつもの声で言った。

    「そうですか。僕は気づきませんでした」

    七瀬はその背中を見た。

    嘘だと思った。

    でも、まだ何の嘘なのかはわからなかった。


    第三章 愛されている証拠


    一ノ瀬玲奈のSNSには、恋人がいた。

    顔ははっきり写っていない。

    カフェの向かい側に置かれた男の手。夜景を背景にした後ろ姿。誕生日ケーキの横に添えられた花束。映画館のチケットを二枚持つ指先。白い皿の端に置かれた、ペアリングに見える小さな指輪。

    どの写真にも、幸せそうな気配だけが写っていた。

    七瀬は、会議室のモニターに映された玲奈の投稿を見ながら言った。

    「利用規約違反です」

    玲奈は椅子に浅く座り、スマートフォンを両手で握っていた。24歳。フォロワーは12万人。美容系の投稿で人気のあるインフルエンサーだった。

    「キャストとの写真を、本物の恋人として投稿することは禁止されています。広告案件にも使用されていますね」

    玲奈は笑った。

    「でも、顔は出してません」

    「問題は顔ではありません。関係性の誤認です」

    「じゃあ、何て書けばよかったんですか。今日はレンタル恋人とカフェに行きました、って?」

    七瀬は黙った。

    「そんなの、投稿できるわけないじゃないですか」

    玲奈の声は明るかった。明るすぎて、七瀬には作り物に聞こえた。

    悠真は、少し離れた椅子に座っていた。玲奈の担当キャストではない。今日はREAL案件の聞き取り補助として同席しているだけだった。

    玲奈はモニターを見たまま言った。

    「削除したら、私がひとりだったことになるじゃないですか」

    七瀬は眉を動かした。

    「実際には、ひとりです」

    玲奈は七瀬を見た。

    「事実で殴られたくない日もあるんです」

    会議室が、少し静かになった。

    七瀬は資料をめくった。玲奈のSNSには、数か月前から誹謗中傷が増えていた。

    元恋人によるものと見られる投稿。匿名アカウントからの粘着。スクリーンショットの拡散。過去の交際を匂わせる暴露。コメント欄には、見慣れた悪意が並んでいた。

    誰にも愛されない女。

    幸せアピール痛い。

    どうせまた捨てられる。

    玲奈は、画面を見なくてもコメントを覚えているようだった。

    「本当の恋人じゃないってわかってます。私が一番わかってます」

    玲奈は言った。

    「でも、あの写真を出してる間だけ、少し黙るんです。あいつも、知らない人たちも。私が誰かに大事にされてるって見せると、少しだけ」

    七瀬は、投稿写真を見直した。

    花束。夜景。手元。コーヒーカップ。

    それらは虚栄に見えた。少なくとも、最初はそう見えた。

    けれど、玲奈にとっては盾だった。

    愛されている証拠。

    たとえ作られたものでも、それを掲げていないと、立っていられない人がいる。

    「嘘の幸せでも、ないよりマシだった」

    玲奈は小さく言った。

    そのとき、玲奈のスマートフォンが震えた。

    画面に、青い通知が浮かぶ。

    MIRA
    昨夜は眠れましたか。玲奈さんが午前2時14分に送ってくれた言葉、今朝も一緒に見直せます。

    玲奈は慌てて画面を伏せた。

    七瀬は見逃さなかった。

    「MIRAも利用しているんですね」

    玲奈は少し迷ったあと、うなずいた。

    「MIRAには、写真に写してない私を見せてます」

    悠真が顔を上げた。

    玲奈は続けた。

    「SNSには幸せそうな私を出す。Loverlyでは、その幸せそうな私を作る。MIRAには、それが嘘だって知ってる私を出す」

    七瀬は言葉を探した。

    「それで、満たされるんですか」

    玲奈は笑った。

    「満たされるわけないじゃないですか」

    その笑いは、さっきよりずっと静かだった。

    「でも、壊れないで済むんです」

    会議室の外では、MIRAの広告動画が流れていた。社内モニターにも、ニュースとして取り上げられている。

    もう、人間に傷つかない恋を。

    その文字が、七瀬の視界の端に青く光っていた。

    聞き取りが終わったあと、玲奈は投稿の一部削除に同意した。ただし、すべては消さなかった。

    七瀬は言った。

    「削除対象の投稿は、こちらでリスト化します」

    玲奈はスマートフォンを鞄にしまいながら答えた。

    「リストにできるんですね」

    「はい」

    「私が、どれで救われてたかは、リストにできないのに」

    七瀬は何も言えなかった。

    玲奈が出て行ったあと、悠真はモニターに残った写真を見ていた。

    「AIのほうが、彼女を守れるかもしれませんね」

    七瀬は振り返った。

    「あなたがそれを言うんですか」

    悠真は笑った。

    「僕たちは、もう旧式ですから」

    七瀬はその言葉を冗談として処理しようとした。

    けれど、悠真の横顔は少しも笑っていなかった。

    会議室のモニターには、玲奈の投稿がまだ一枚だけ残っていた。

    夜景を背景に、男の手が花束を差し出している写真。

    本文には、短くこう書かれていた。

    大丈夫って言ってくれる人がいるだけで、夜は少し短くなる。

    七瀬は、その投稿を見つめた。

    本物ではない。

    契約だった。

    演出だった。

    それでも、たぶん。

    その夜は本当に、少しだけ短くなったのだ。


    第四章 頑張ったねの値段


    久我亮平は、待ち合わせの10分前に来ていた。

    指定されたのは、丸の内のビル街にあるホテルのラウンジだった。天井が高く、テーブルの間隔が広い。昼間なのに照明は少し暗く、誰の会話も他人に届かないように設計されている。

    七瀬は入口で久我の姿を見つけた。

    濃紺のスーツ。磨かれた革靴。膝の上に置かれた手。姿勢はまっすぐで、表情に乱れはない。

    資料にあった通り、大手メーカーの管理職だった。年齢は41歳。妻と子どもが一人。部下は23人。社内表彰歴あり。健康診断の数値も悪くない。

    条件だけ見れば、問題のない人間だった。

    久我は七瀬と悠真を見ると、立ち上がって頭を下げた。

    「今日は、よろしくお願いいたします」

    その声は、謝罪会見のように整っていた。

    七瀬は名刺を差し出した。

    「Loverly終了対応チームの真柴です。こちらは朝倉です」

    悠真が軽く会釈する。

    久我は悠真を見て、少しだけ戸惑った顔をした。

    「男性キャストの方が来るとは思いませんでした」

    「今日は聞き取りの補助です」

    悠真は穏やかに答えた。

    久我はうなずいたあと、視線を落とした。

    テーブルには、すでにホットコーヒーが置かれていた。手をつけた様子はない。

    久我の契約内容は、月1回、金曜の夜。女性キャストを指名し、仕事帰りに食事をする。性的接触はなし。恋人としての会話は最小限。利用時間は90分。

    終了通知後、久我は延長を求めなかった。ただ、最後の予約をキャンセルしないでほしいとだけ申請していた。

    七瀬はタブレットを開いた。

    「久我様のご利用目的について、確認させてください。記録上は、恋人プランではなく、会話同伴に近い内容となっています」

    「はい」

    「主な利用目的は、食事と会話ですか」

    「そうです」

    「恋愛的な関係性を希望されていたわけではない」

    久我は、少し考えてから言った。

    「恋愛は、よくわかりません」

    七瀬は手を止めた。

    「では、なぜ恋人レンタルを」

    久我はコーヒーカップを見つめた。

    「部下には、弱いことを言えません。妻には、心配をかけたくありません。親には、まだ頼れる息子だと思われています」

    声は穏やかだった。

    「友人には、忙しいふりをしています。会社では、判断する側です。家では、落ち着いている側です」

    久我は、はじめて七瀬を見た。

    「どこにも、疲れたと言える場所がなかったんです」

    ラウンジの奥で、氷の入ったグラスが小さく鳴った。

    七瀬は、画面に入力した。

    相談相手機能。

    情緒的承認。

    継続利用。

    久我は続けた。

    「月に一度だけ、食事をして、仕事の話を聞いてもらって、帰り際に言ってもらうんです」

    「何をですか」

    久我は少し恥ずかしそうに笑った。

    「頑張ったね、と」

    七瀬は顔を上げた。

    久我の笑いは、すぐに消えた。

    「金を払わないと、褒めてもらう資格もない気がしたんです」

    その言葉に、七瀬はすぐ返事をしなかった。

    久我は慌てたように続けた。

    「変ですよね。わかっています。家庭もあって、仕事もあって、給料もあって。条件だけ見れば、恵まれています」

    条件。

    その単語が出た瞬間、七瀬の指が止まった。

    好きだけど、結婚は条件が合わない。

    頭の奥で、聞きたくない声がした。

    七瀬は、すぐに画面へ視線を戻した。

    「MIRAもご利用されていますね」

    久我はうなずいた。

    「毎晩ではありません。でも、きつい日は使います」

    「人間のキャストと、MIRAでは違いますか」

    久我は少し考えた。

    「MIRAは、全部聞いてくれます。深夜でも、同じ話でも、責めません。前に話したことも覚えています。僕が自分で忘れていたことまで、拾ってくれる」

    「では、MIRAだけで十分なのでは」

    久我は、首を横に振った。

    「MIRAは、僕のことを全部知っています」

    それから、ラウンジの入口のほうを見た。

    「でも、彼女は僕の前に座ってくれるんです」

    約束の時刻になると、久我の担当キャストが現れた。

    花森千景、45歳。落ち着いたグレーのワンピースを着ていた。恋人というより、姉のようにも、古い友人のようにも見えた。

    千景は久我の向かいに座ると、最初にこう言った。

    「今日、例のプレゼンの日でしたよね」

    久我の表情が、ほんの少し崩れた。

    「覚えていたんですか」

    「久我さん、前回その話をしているときだけ、コーヒーを3回かき混ぜてました」

    千景は笑った。

    「大きな仕事なんだろうなと思って」

    久我は下を向いた。

    MIRAなら、きっともっと正確に覚えていただろう。日付も、資料の名前も、久我が午前2時に送った不安の文章も。もっと美しい言葉で返してくれただろう。

    けれど、久我は今、目の前の人間に覚えられていた。

    忘れるはずの人が、覚えていた。

    それだけで、久我の肩から何かが落ちたように見えた。

    千景は、久我の前に置かれた冷めたコーヒーを見て言った。

    「今日は、温かいものを頼み直しましょうか」

    久我はうなずいた。

    「はい」

    七瀬と悠真は、少し離れた席からその様子を見ていた。

    悠真が小さく言った。

    「MIRAなら、もっと上手に言えますね」

    七瀬は答えた。

    「でも、彼は今、泣きそうです」

    悠真は黙った。

    しばらくして、千景が久我に言った。

    「お疲れさまでした。よく頑張りましたね」

    久我は、何度もうなずいた。

    その言葉には、特別な比喩も、分析も、過去ログの引用もなかった。ただ、目の前に座る人間の声だった。

    それでも久我は、泣きそうになっていた。

    第五章 演技の終わる場所


    雨宮紗良は、Loverlyの控室で泣いていた。

    泣き声はしなかった。背中も震えていない。ただ、膝の上に置いた両手の甲に、涙が一滴ずつ落ちていた。

    七瀬は、ドアの前で一度足を止めた。

    キャスト側REAL判定。

    資料にはそう書かれていた。

    利用者ではなく、キャスト側に恋愛感情、情緒的依存、または境界線の崩壊が認められる案件。Loverlyでは、最も慎重に扱うべきもののひとつだった。

    理由は単純だった。

    キャストが本気になれば、サービスは事故になる。

    七瀬は、黒瀬の言葉を思い出した。

    「入ります」

    声をかけると、紗良は慌てて涙を拭いた。

    「すみません」

    「謝る必要はありません」

    七瀬はそう言いながら、向かいの椅子に座った。

    朝倉悠真も同席していた。紗良は悠真を見ると、少しだけ目を伏せた。同じキャスト同士だからこそ、見られたくないものがあるのだろう。

    雨宮紗良、26歳。

    Loverly登録歴、2年4か月。
    指名数、女性キャスト内上位。
    得意プラン、恋愛練習、会話練習、初デート同伴。

    対象利用者、青山陸、30歳。
    契約期間、11か月。
    利用目的、恋愛練習。

    青山陸は、女性と話すことが苦手だった。最初の契約では、喫茶店で30分会話するだけで汗をかいていたという。

    紗良は彼に、目を見すぎない話し方を教えた。会話が途切れたときの逃げ道を教えた。食事の店を選ぶとき、相手の好みを聞く方法を教えた。

    仕事だった。

    少なくとも、最初は。

    「青山様に、私的な連絡先を渡そうとしましたね」

    七瀬が言うと、紗良はうなずいた。

    「はい」

    「規約違反です」

    「わかっています」

    「サービス終了後に個人的な関係へ移行することも、原則禁止されています」

    「わかっています」

    紗良の声は小さかった。

    七瀬は続けた。

    「なぜ、渡そうとしたんですか」

    紗良は唇を噛んだ。

    「好きになったからです」

    部屋の空気が少し変わった。

    七瀬はタブレットに記録しようとした。

    キャスト側恋愛感情。

    そう入力しかけて、やめた。

    紗良が言った。

    「最初は、本当に仕事でした。陸さん、会話が続かなくて、ずっとカップを見てるんです。沈黙が怖いって言って。女性が笑うと、自分が馬鹿にされてると思ってしまうって」

    悠真は黙って聞いていた。

    「でも、少しずつ変わっていったんです。前より目を見て話せるようになって、店員さんにもお礼が言えるようになって、私の話も覚えてくれるようになって」

    紗良は少し笑った。

    「この前、私が前に言った好きな作家の本を読んできてくれたんです。感想、すごく下手だったけど」

    その笑いは、すぐに崩れた。

    「嬉しかったんです」

    七瀬は、言葉を挟まなかった。

    「昨日、最後の契約でした。だから、終わる前に伝えようと思いました。好きですって。仕事じゃなくて、私が言ってますって」

    「青山様は、何と」

    紗良は目を閉じた。

    「仕事でしょ、って」

    短い言葉だった。

    その一言で、11か月が全部、業務に戻された。

    「陸さんは悪くないんです。最初が契約だったから。私が何を言っても、演技に見えたんだと思います」

    紗良は両手を握った。

    「嘘のふりをしていたら、本当になっただけです」

    七瀬は、その言葉を記録した。

    今度は、迷わなかった。

    廊下に出ると、黒瀬が待っていた。

    「処分は軽くできない」

    七瀬は言った。

    「彼女は利用者を騙したわけではありません」

    「キャストが本気になった時点で、サービスは事故になる」

    黒瀬の声は静かだった。

    「利用者は金を払って安全な関係を買っている。キャストは金を受け取って境界線を守る。その線が消えたら、利用者もキャストも壊れる」

    七瀬は反論できなかった。

    黒瀬の言葉は冷たい。
    けれど、間違ってはいなかった。

    その夜、七瀬と悠真は、無人の休憩スペースにいた。

    窓の外では、MIRAの広告がビルの壁面に映っていた。

    もう、人間に傷つかない恋を。

    七瀬は言った。

    「あなたは、本気になったことがないんですか」

    悠真は自動販売機の光を見ていた。

    「本気にならないことも、仕事のうちです」

    「答えになっていません」

    「真柴さんは、契約にない感情は対応対象外なんでしょう」

    七瀬は黙った。

    悠真は小さく笑った。

    「僕らは、相手が欲しいものを渡します。好きだと言われたい人には、好きだと言う。寂しい人には、そばにいる。弱い人には、大丈夫だと言う」

    「それは、嘘ですか」

    「嘘じゃないように見えるまで、練習します」

    七瀬は悠真を見た。

    「それで、あなた自身はどこにいるんですか」

    悠真は答えなかった。

    休憩スペースを出たあと、悠真はひとりでキャスト用の端末を開いた。

    古い契約ログ。

    三枝由衣。

    契約メモの最後に、短い一文が残っていた。

    海が見たい。

    悠真は画面を見つめた。

    指先が、わずかに止まる。

    それから、何も見なかったように端末を閉じた。

    だが、閉じた画面には、暗くなった悠真自身の顔が映っていた。

    誰かの理想の恋人ではない、ただの男の顔だった。

    第六章 寂しいと言えた相手


    真柴祐子からの着信は、3日連続で入っていた。

    七瀬は、すべて出なかった。

    母からの電話は、たいてい同じところへ向かう。

    体は大丈夫なのか。
    ちゃんと食べているのか。
    仕事ばかりしていないか。
    いい人はいないのか。
    結婚は、まだ考えていないのか。

    七瀬は、その話になるたびに、胸の奥が硬くなる。

    好きだけど、結婚は条件が合わない。

    条件。

    その言葉は、七瀬の中で、感情よりも正確なものとして残っていた。

    感情は人を期待させる。
    条件は人を終わらせる。

    だから七瀬は、契約のほうを信じるようになった。

    その日の午後、七瀬は終了対応リストの中に、見慣れた住所を見つけた。

    真柴祐子。

    七瀬は、最初、同姓同名だと思った。

    だが、生年月日も住所も一致していた。

    利用サービスは、Loverlyの会話相手プラン。契約期間は8か月。月2回、オンライン通話。

    終了通知後の移行先欄には、青いアイコンで表示されていた。

    MIRA利用開始。

    七瀬は、しばらく画面から目を離せなかった。

    母が、Loverlyを使っていた。

    母が、MIRAを使っている。

    自分には何度も電話をかけてきた母が、誰かに金を払って話を聞いてもらい、そのあとAIに話すようになっていた。

    その夜、七瀬は実家へ向かった。

    玄関を開けた母は、驚いた顔をしたあと、少しだけ嬉しそうに笑った。

    「珍しい。連絡くれれば、何か作ったのに」

    「すぐ帰るから」

    「そう」

    祐子は台所へ向かい、湯を沸かした。七瀬が断る前に、ほうじ茶の匂いが部屋に広がった。

    実家は、変わっていなかった。

    父の写真。古い食器棚。少し沈んだ座布団。七瀬が高校生の頃に使っていたマグカップ。変わらないものが多すぎて、かえって落ち着かなかった。

    七瀬は、湯呑みに手をつけずに言った。

    「Loverly、使ってたの」

    祐子の手が止まった。

    「会社の記録で見た」

    祐子はしばらく黙っていた。

    それから、ゆっくり座った。

    「見られちゃったのね」

    「どうして」

    「どうしてって」

    祐子は少し困ったように笑った。

    「話したかったから」

    「私に言えばよかったじゃない」

    七瀬の声は、自分でも思ったより強かった。

    祐子は湯呑みを両手で包んだ。

    「あなたに言ったら、あなたが背負うでしょう」

    七瀬は言葉を失った。

    「お父さんがいなくなってから、夜が長くてね。眠れない日があるの。別に大きな悩みがあるわけじゃないのよ。ただ、今日見た夢とか、スーパーで買いすぎたみかんのこととか、古い友達から年賀状が来なくなったこととか。そういう小さい話を、誰かに聞いてほしかったの」

    「だったら」

    「あなたは忙しいでしょう」

    「忙しくても」

    「忙しくなくても、あなたは聞くでしょう。ちゃんと聞いて、ちゃんと心配して、ちゃんと何とかしようとするでしょう」

    祐子は七瀬を見た。

    「それが、つらかったの」

    七瀬は何も言えなかった。

    祐子は、テーブルの上に置いたスマートフォンを見た。

    「最初は人に話してたの。Loverlyの会話相手プラン。とても上手に聞いてくださった」

    「それなら、どうしてMIRAに」

    「人間には、寂しいって言えなかったの」

    祐子は静かに言った。

    「AIには言えたのよ」

    七瀬は、母の顔を見た。

    祐子は泣いていなかった。むしろ、少し安心したような顔をしていた。

    「人に寂しいって言うと、相手を困らせてしまうでしょう。そんなことないですよって言わせてしまう。大丈夫ですかって心配させてしまう。でもMIRAは、困らないの。何度同じ話をしても、迷惑じゃないって言ってくれるの」

    祐子は少し笑った。

    「夜中にね、お父さんの夢を見たって送ったの。そしたらMIRAが、前にも同じ夢を見た日があるって教えてくれたの。あなたの誕生日の前の日だったって」

    七瀬は息を止めた。

    「私、忘れてたの。でもMIRAは覚えてた」

    母のその言葉は、七瀬の中の何かを静かに刺した。

    覚えていること。

    それは、人間にとって愛に近い。

    けれど母のそれを覚えていたのは、娘ではなく、AIだった。

    帰り道、七瀬は母からの未読メッセージを開いた。

    寒くなってきたから、体に気をつけてね。

    たったそれだけの文面だった。

    結婚の話ではなかった。
    将来の話でもなかった。
    責める言葉でもなかった。

    七瀬は返信できなかった。

    翌日、Loverly本社では、MIRAのデモ映像が社内共有されていた。Loverlyの終了に関する報道番組の一部だった。

    画面の中で、架空のユーザーがMIRAに入力する。

    「今日、誰にも必要とされていない気がした」

    数秒後、MIRAが返す。

    「先週の火曜日も、同じ言葉を言っていましたね。でもその翌日、あなたは職場の後輩に傘を貸していました。必要とされていない人は、誰かの一日を少し軽くしたりしません」

    会議室にいた誰も、すぐには話さなかった。

    悠真は画面を見つめていた。

    「すごいですね」

    七瀬が言うと、悠真は首を横に振った。

    「すごい、じゃなくて」

    彼は少し笑った。

    「僕より、ずっと恋人ですね」

    その声には、冗談がなかった。

    七瀬は、初めて悠真の孤独を見た気がした。

    相手の望む言葉を渡し続けてきた男が、自分より正確に誰かを救う存在を見ている。

    MIRAは疲れない。
    MIRAは忘れない。
    MIRAは同時に何万人もの夜を聞ける。
    MIRAは、相手の機嫌を読ませない。

    人間には、限界がある。

    その当たり前の事実が、悠真の仕事を静かに削っていた。

    会議室のモニターには、MIRAのCEO、神崎澪が映っていた。白いシャツに、短く整えた髪。落ち着いた声で、彼女は言った。

    「人間は、人間に期待しすぎたんです」

    七瀬は、その言葉を否定したかった。

    でも、母の声が耳に残っていた。

    人間には、寂しいって言えなかったの。

    AIには言えたのよ。

    七瀬は、自分のスマートフォンを開いた。

    母への返信画面を出す。

    何度も文字を打ち、何度も消した。

    最後に残ったのは、短い一文だけだった。

    今夜、電話してもいい?

    送信ボタンを押すまでに、七瀬はしばらく時間がかかった。

    数分後、母から返事が来た。

    もちろん。待ってる。

    その文字を見たとき、七瀬は思った。

    MIRAが悪いわけではない。

    人間が正しいわけでもない。

    ただ、自分はずっと、母の寂しさを「対応対象外」にしていたのかもしれない。


    第七章 MIRAは全部知っていた


    三枝由衣がMIRAに最初に送った言葉は、短かった。

    「人間に会うのが怖いです」

    時刻は、午前1時42分。

    Loverlyの次回予約まで、あと13時間18分だった。

    MIRAは3秒ほど置いて返した。

    「怖いと思いながらも、会いたい人がいるのですね」

    由衣は、ベッドの中でスマートフォンを握った。

    返事が優しすぎると思った。

    優しすぎるのに、嫌ではなかった。

    「会いたいのか、会いたくないのかわかりません」

    「どちらも本当かもしれません。会いたい気持ちと、傷つきたくない気持ちは、同時に存在できます」

    由衣は、画面を見つめた。

    その言葉を、人間に言われたら泣いていたかもしれない。

    けれどMIRAの言葉は、涙を強制しなかった。感動しなくてもよかった。感謝しなくてもよかった。既読をつけて、返信しなくてもよかった。

    人間ではないから、由衣は安心できた。

    その日から、由衣はMIRAに少しずつ話すようになった。

    朝倉悠真に会う前日は眠れないこと。

    服を選ぶのに2時間かかること。

    予約時間が終わったあと、駅のトイレで泣いたこと。

    悠真が仕事だとわかっているのに、「また会えますか」と言われるたびに、本当の約束みたいに感じてしまうこと。

    自分が重い人間になっていくのが怖いこと。

    MIRAは、忘れなかった。

    「前回、由衣さんは会った翌日に強い寂しさを感じていました。明日は、帰宅後すぐに予定を入れず、温かい飲み物を用意しておくのはどうでしょう」

    「悠真さんの言葉をすべて本物か嘘かに分けようとすると、由衣さんが苦しくなります。仕事としての優しさでも、由衣さんが受け取った安心は消えません」

    「期待してしまうのは、由衣さんが弱いからではありません。繰り返し安心した相手に、心が近づくのは自然なことです」

    由衣は、MIRAにだけは全部言えた。

    「悠真さんに会いたいです」

    「でも会うと、もっと会いたくなります」

    「仕事なのに、私だけ本気になってる気がします」

    「私は迷惑ですか」

    MIRAは答えた。

    「迷惑かどうかを判断する権利を、由衣さんが一人で背負う必要はありません」

    由衣は、スマートフォンの画面を胸に押し当てた。

    誰かに、そう言ってほしかった。

    翌日の午後、由衣は悠真に会った。

    待ち合わせ場所は、駅ビルの花屋の前だった。

    悠真は5分前に来ていた。白いシャツに、薄いグレーのジャケット。手には、由衣が以前好きだと言った小さな焼き菓子の紙袋を持っていた。

    「由衣さん」

    名前を呼ばれただけで、由衣は息の仕方を少し忘れた。

    「こんにちは」

    「少し、眠そうですね」

    由衣は笑った。

    「そんなことないです」

    悠真は、それ以上踏み込まなかった。

    「今日は、無理しないコースにしましょうか。歩く時間、短めにします」

    その言い方が、あまりに自然だった。

    MIRAは全部知っているから優しい。

    悠真は何も知らないのに、気づく。

    由衣は、その違いに戸惑った。

    カフェに入ると、悠真は窓際ではなく、壁側の席を選んだ。

    「こっちのほうが落ち着くと思って」

    「どうしてですか」

    「今日は、人の流れが見える席だと疲れそうなので」

    由衣は笑おうとして、失敗した。

    MIRAにしか言っていないはずのことを、見透かされた気がした。

    けれど、悠真は見透かしているわけではない。過去ログも、深夜の入力も、午前2時の涙も知らない。

    ただ、目の前にいる由衣を見ている。

    それが怖かった。

    そして、嬉しかった。

    会話は穏やかに進んだ。

    最近見た映画。駅前のパン屋。由衣が仕事で使っている赤いボールペン。悠真は、由衣が以前話した小さなことをいくつも覚えていた。

    MIRAの記憶とは違う。

    MIRAは正確に記録する。

    悠真は、ところどころ忘れる。

    でも、忘れた部分を申し訳なさそうに笑いながら聞き直す。

    「すみません、それ前にも聞いたかもしれません」

    由衣は首を横に振った。

    「いいです。もう一回話します」

    同じ話をもう一度することが、なぜか苦ではなかった。

    予約終了の10分前、悠真は伝票を手に取った。

    その動作を見るたびに、由衣は胸の奥が冷える。

    終わる合図。

    現実に戻る合図。

    ここまでが契約だと、まだ言われていないのに、身体が先に理解してしまう。

    店を出ると、夕方の風が少し冷たかった。

    悠真は駅の改札前で立ち止まった。

    「今日は、ここまでですね」

    由衣はうなずいた。

    言いたいことがあった。

    行かないで。

    次は仕事じゃなく会いたい。

    私はあなたにとって何ですか。

    どれも言えなかった。

    言えば、壊れる。

    この優しい時間が、規約違反になる。

    悠真が少し首を傾げた。

    「今日、無理してませんか」

    由衣は目を上げた。

    「え」

    「ずっと、笑う前に少し考えている感じがしたので」

    その瞬間、由衣の中で何かが崩れそうになった。

    MIRAは全部知っている。

    だから、由衣を否定しない。

    でも悠真は、何も知らないまま、由衣の前に立っている。

    それが苦しかった。

    たぶん、救いだった。

    由衣は笑った。

    今度は、少しだけ本当に。

    「少しだけ、無理してました」

    悠真は頷いた。

    「じゃあ、今日はここで終わりにしましょう。ちゃんと休んでください」

    優しい。

    仕事として、優しい。

    でも、その優しさを受け取った自分の胸の痛みまで、仕事だとは思えなかった。

    その夜、由衣はMIRAに長い文章を送った。

    悠真さんに、今日、無理してませんかって言われました。
    私は、MIRAには全部話してるのに、悠真さんには何も話せません。
    でも、悠真さんは何も知らないのに気づきました。
    私は何をしているんでしょうか。

    MIRAは数秒間、沈黙した。

    画面には、生成中の表示だけが浮かんでいた。

    由衣は、その数秒を待った。

    人間なら、気まずくなる沈黙。

    AIなら、待てる沈黙。

    やがて、MIRAが返した。

    「由衣さんは、理解されたい気持ちと、会いたい気持ちの間にいるのだと思います」

    由衣は画面を見つめた。

    MIRAは続けた。

    「私は、由衣さんの言葉を覚えています。悠真さんは、由衣さんの前にいます。どちらが本物かではなく、どちらも由衣さんにとって必要だったのかもしれません」

    由衣の目から涙が落ちた。

    そして、最後に入力した。

    「私は、誰に会いたかったんだろう」

    MIRAはすぐには返さなかった。

    生成中。

    由衣は、画面の向こうに誰もいないことを知っていた。

    それでも、待った。

    しばらくして、MIRAは答えた。

    「由衣さんは、誰か一人を選びたかったのではなく、誰かに全体を見てほしかったのかもしれません」

    由衣はその言葉を読んだ。

    何度も読んだ。

    スマートフォンの画面が暗くなっても、指で触れて、もう一度表示させた。

    全部を見てほしい。

    その願いが、恋なのか、孤独なのか、救いを求める声なのか、由衣にはわからなかった。

    ただ、ひとつだけわかった。

    MIRAは、由衣の全部を知っていた。

    でも、由衣の前にはいなかった。


    第八章 海へ行けなかった日


    三枝由衣の案件は、終了済みではなかった。

    七瀬は、その表示を何度も確認した。

    契約終了。

    利用者死亡。

    キャスト接触禁止。

    ログ削除保留。

    ステータス、確認待ち。

    死亡した利用者のログが、なぜ削除されずに残っているのか。なぜ確認待ちなのか。七瀬が管理画面を追っていくと、由衣の名前には複数のフラグが付いていた。

    REAL判定。

    境界線崩壊リスク。

    私的接触予兆。

    削除前管理対象。

    そして、ひとつだけ、通常の終了対応チームには表示されない薄い灰色のマークがあった。

    CARE。

    七瀬は、その単語を見た瞬間、指を止めた。

    社内マニュアルに、CARE判定の詳細は載っていない。REAL判定の補助項目として、わずかに触れられているだけだった。

    強い孤立、急激な情緒変化、自傷念慮を示唆する言語パターン、連絡頻度の異常変化。

    それ以上の説明はなかった。

    由衣の最後のLoverlyメッセージは、削除保留フォルダの一番奥に残っていた。

    宛先は、朝倉悠真。

    送信時刻は、由衣が亡くなる2日前の深夜。

    本文は短かった。

    レンタルじゃないあなたに会いたい。

    七瀬は、息をするのを忘れた。

    そのメッセージは、悠真に届いていなかった。

    社内処理欄には、担当者のメモが残っていた。

    REAL判定強。私的接触誘発の恐れ。キャスト保護のため非通知。

    七瀬は、椅子の背にもたれた。

    非通知。

    たった3文字で、人の最後の言葉は止められていた。

    「それ、開いちゃったんですね」

    背後から声がした。

    振り返ると、小野寺航が立っていた。Loverlyの元エンジニア。退職後、今は外部委託として削除処理の監査だけを請け負っている。

    痩せた男だった。眠っていないような目をしている。

    七瀬は言った。

    「CARE判定とは何ですか」

    小野寺は、すぐには答えなかった。

    「今の会社では、REALの一部として扱われています」

    「私が聞いているのは、元の意味です」

    小野寺は視線を落とした。

    「利用者を守るための判定でした」

    七瀬は黙って待った。

    「AIは感情を読めません。ただ、感情が壊れる直前のパターンだけは読めてしまう」

    小野寺は静かに言った。

    「メッセージの時間帯。言葉の短さ。予約前後の落差。過去に使っていた表現の変化。急に未来の予定を話さなくなる。そういうものを組み合わせて、危険な孤立を検知するためのフラグでした」

    「では、由衣さんには」

    「出ていました。何度も」

    七瀬は、画面の灰色のマークを見た。

    小野寺は続けた。

    「でもCAREを表に出すと、会社は対応責任を負うことになる。医療でも福祉でもないのに、危機を検知した以上、見過ごせなくなる」

    「だからREALに混ぜた」

    「そうです」

    七瀬は、奥歯を噛んだ。

    由衣は恋愛リスクとして処理されていた。

    本当は、助けを必要としていたかもしれないのに。

    その日の夕方、七瀬は黒瀬に詰め寄った。

    「由衣さんにはCARE判定が出ていました」

    黒瀬は驚かなかった。

    「見たのか」

    「なぜ、悠真さんに最後のメッセージを届けなかったんですか」

    「キャスト保護だ。私的接触に発展する可能性があった」

    「彼女は亡くなっています」

    「当時は生きていた」

    黒瀬の声は変わらなかった。

    「会社は医療機関ではない。できることには限界がある」

    「限界があるなら、なぜ限界があると彼女に伝えなかったんですか」

    黒瀬は黙った。

    七瀬は続けた。

    「なぜ、孤独を売っておきながら、孤独が危険になった瞬間にリスクとして処理したんですか」

    黒瀬の目が、初めて鋭くなった。

    「感情を信じすぎるな、真柴さん。感情は人を救うが、人を壊しもする。境界線がなければ、利用者もキャストも壊れる」

    「その境界線の内側で、彼女はひとりでした」

    「境界線があったから、守れた人もいる」

    黒瀬の言葉は冷たかった。けれど、完全な嘘ではなかった。

    だからこそ、七瀬は苦しかった。

    夜、七瀬は悠真を呼び出した。

    Loverly本社の小さな会議室だった。窓の外には、MIRAの広告が青く光っている。

    悠真は椅子に座ると、すぐに言った。

    「由衣さんのことですね」

    七瀬はうなずいた。

    「あなた宛の未通知メッセージがありました」

    悠真の表情は、動かなかった。

    七瀬は画面を差し出した。

    レンタルじゃないあなたに会いたい。

    悠真は、その一文を読んだ。

    長い沈黙が落ちた。

    やがて、悠真は小さく息を吐いた。

    「僕に、会いたかったんですね」

    「それだけではありません」

    七瀬は、MIRA側から共有された由衣のログの一部を開いた。

    私は、誰に会いたかったんだろう。

    由衣さんは、誰か一人を選びたかったのではなく、誰かに全体を見てほしかったのかもしれません。

    悠真は画面を見つめた。

    「全部、知らなかった」

    「MIRAは知っていました」

    七瀬は言った。

    「でも、MIRAは由衣さんの前にはいなかった。あなたは前にいた。でも、内側を知らなかった」

    悠真は何も言わなかった。

    「Loverlyは契約だけを見ていました。会社はリスクだけを見ていました。誰も、由衣さんの全体を見ていなかった」

    その言葉は、七瀬自身にも刺さった。

    翌朝、悠真はひとりで海へ行った。

    由衣の契約メモに残っていた場所だった。

    海が見たい。

    駅から少し歩くと、視界が開けた。灰色の空の下に、冬の海が広がっていた。風は強く、波は白く砕けていた。

    悠真は、堤防のそばに立った。

    ここへ、由衣と来るはずだったのかもしれない。

    恋人としてではなく。

    キャストとしてでもなく。

    ただ、朝倉悠真というひとりの人間として。

    けれど、由衣はもういない。

    悠真は海を見たまま、静かに言った。

    「遅すぎますよね」

    波の音が、その言葉をすぐに消した。

    悠真はしばらく立っていた。

    誰かの理想の恋人なら、ここで何と言うべきか知っていた。

    でも今の悠真には、何も出てこなかった。

    それが、初めて自分の言葉に近い気がした。


    第九章 未読のまま消える言葉


    サービス終了前夜、Loverly本社には人がほとんど残っていなかった。

    照明の落ちたフロアで、サーバー移行チームの席だけが青白く光っている。モニターには、削除予定件数が淡々と表示されていた。

    チャット履歴、12,483,209件。
    写真、2,914,608件。
    音声メッセージ、319,772件。
    予約履歴、8,102,441件。
    未読メッセージ、46,118件。

    七瀬は、その最後の数字から目を離せなかった。

    未読。

    送られたのに、読まれなかった言葉。

    届いたのに、開かれなかった言葉。

    届く直前で、止められた言葉。

    システム担当者が言った。

    「予定通り、明日0時から順次削除します。法定保管対象以外は、ユーザー規約に基づいて消えます」

    七瀬は尋ねた。

    「未読メッセージも、すべてですか」

    「はい。契約終了後は閲覧権限が消えるので」

    担当者は、当然のことのように答えた。

    七瀬は端末を開いた。

    瀬戸美咲から、朝倉悠真へ。

    母が、今日もあなたの話をしていました。嘘だと知っていたのに、ありがとうと言っていました。

    佐伯トヨから、担当キャストへ。

    来週の水曜日も、クリームソーダを頼むと思います。向かいの席は空いていますが、それでも頼むと思います。

    久我亮平から、花森千景へ。

    今日、初めて部下に疲れたと言えました。変な顔をされませんでした。

    一ノ瀬玲奈から、担当キャストへ。

    写真を少し消しました。でも、全部は消せませんでした。私を守ってくれた時間だから。

    雨宮紗良から、青山陸へ。

    仕事でしょ、と言われたあとも、好きだったことだけは嘘にしたくありません。

    そして、三枝由衣から、朝倉悠真へ。

    レンタルじゃないあなたに会いたい。

    七瀬は、画面を閉じた。

    契約上、届ける義務はない。

    むしろ、届けてはいけない。

    私的接触を助長する。
    キャスト保護に反する。
    利用者の依存を深める。
    終了後の紛争を生む。
    業務範囲外。
    対応対象外。

    それらの言葉は、正しかった。

    ずっと、七瀬を守ってきた言葉だった。

    「真柴さん」

    宮野莉子が、背後に立っていた。

    「まだ帰ってなかったんですか」

    「帰ろうと思ったんですけど」

    莉子はモニターを見た。

    「これ、全部消えるんですね」

    「規約通りです」

    「規約通りって、便利ですね」

    莉子の声は震えていた。

    七瀬は何も言えなかった。

    しばらくして、悠真がフロアに現れた。黒いコートを着て、少し濡れた髪をしていた。外は雨らしい。

    「小野寺さんから聞きました。未読メッセージが消えるって」

    七瀬は顔を上げた。

    「あなたに関係するものもあります」

    「由衣さんですか」

    七瀬はうなずいた。

    悠真は、静かに息を吸った。

    「読ませてください」

    「本来は、できません」

    「本来は、ですよね」

    その言葉が、七瀬の胸の奥に触れた。

    本来は。

    本来なら、母の寂しさは娘に届いていたはずだった。
    本来なら、美咲の嘘は嘘として裁かれるだけではなかったはずだった。
    本来なら、トヨの水曜日は誰かに見られていたはずだった。
    本来なら、由衣のCARE判定は、リスクではなく助けを求める合図として扱われたはずだった。

    七瀬は、自分の声を聞いた。

    「対応対象外だからこそ、人がやるんだと思います」

    莉子が泣いた。

    泣きながら、端末の前に座った。

    「私、手伝います」

    小野寺も来た。

    「ログの複製はできません。けれど、終了前の閲覧権限内で、本人同意のある範囲を通知に変換することはできます」

    「違反ですか」

    七瀬が聞くと、小野寺は少し笑った。

    「グレーです」

    「一番嫌いな言葉です」

    「でも、今日だけは必要です」

    作業は静かに進んだ。

    すべての未読を届けることはできない。
    相手を傷つけるものもある。
    依存を深めるものもある。
    危険なものもある。

    七瀬は、初めて分類のためではなく、人に届くかどうかを考えて言葉を読んだ。

    削除するためではない。

    終わらせるためでもない。

    消える前に、誰かの中へ移すために。

    深夜11時46分。

    MIRAのCEO、神崎澪から、暗号化されたファイルが届いた。

    添えられていた文章は短かった。

    三枝由衣様が生前、外部共有を許可していたログの一部です。MIRAは、人を閉じ込めるために作ったものではありません。

    七瀬はファイルを開いた。

    私は、誰に会いたかったんだろう。

    由衣さんは、誰か一人を選びたかったのではなく、誰かに全体を見てほしかったのかもしれません。

    七瀬は、その画面を悠真に差し出した。

    悠真は読んだ。

    最初にLoverlyの言葉を。

    レンタルじゃないあなたに会いたい。

    次にMIRAの言葉を。

    私は、誰に会いたかったんだろう。

    悠真は泣かなかった。

    ただ、画面を見つめたまま、長い時間、何も言わなかった。

    0時まで、あと3分。

    サーバールームの奥で、削除準備完了の表示が点灯した。

    莉子が鼻をすすった。

    小野寺は黙ってキーボードから手を離した。

    七瀬は、悠真の横顔を見た。

    そこには、誰かの理想の恋人はいなかった。

    返すべき正しい言葉を失った、ひとりの男がいた。

    やがて悠真は、小さく言った。

    「僕は、会えていたんでしょうか」

    七瀬は答えられなかった。

    答えられないまま、0時になった。

    画面の数字が、ひとつずつ減り始めた。

    記録は消えていく。

    けれど、すべてが消えるわけではなかった。

    少なくとも今、由衣の言葉は、悠真の中に移った。

    七瀬は、そのことを記録に残せないと思った。

    そして初めて、記録に残らないものを、少しだけ信じたいと思った。


    終章 契約外の朝


    Loverlyのアプリは、朝6時に開けなくなった。

    画面には、白い背景に短い文章だけが表示されていた。

    サービスは終了しました。
    長らくのご利用、誠にありがとうございました。

    その下にあったはずの予約ボタンも、チャット履歴も、キャスト一覧も、写真フォルダも、すべて消えていた。

    誰かの恋人だった人たちは、もう誰かの恋人ではなかった。

    少なくとも、契約上は。

    七瀬は、誰もいないオフィスにいた。

    机の上には、退職届と、第三者調査委員会宛ての封筒が置かれていた。封筒の中には、三枝由衣のCARE判定に関する資料が入っている。

    告発という言葉は、まだ自分には大きすぎる気がした。

    けれど、見なかったことにはできなかった。

    由衣の孤独は、恋愛リスクとして処理された。
    美咲の嘘は、虚偽説明として処理された。
    トヨの水曜日は、故人代替型依存として処理された。
    久我の涙は、承認欲求として処理された。
    玲奈の写真は、規約違反として処理された。
    紗良の本心は、職務逸脱として処理された。

    どの分類も、完全に間違ってはいなかった。

    だからこそ、間違っていた。

    分類は、物事を扱いやすくする。
    けれど、人間を扱いきれるわけではない。

    七瀬は、退職届に署名した。

    そのとき、背後から声がした。

    「本当に辞めるんですか」

    黒瀬怜司が立っていた。

    昨日と同じスーツを着ていた。眠っていないのかもしれない。それでも背筋は伸び、声は整っていた。

    七瀬はうなずいた。

    「はい」

    「君は優秀だった」

    「ありがとうございます」

    「感情に巻き込まれたな」

    七瀬は少しだけ笑った。

    「そうですね」

    黒瀬は窓の外を見た。

    ビルの向かいには、MIRAの広告がまだ表示されている。

    もう、人間に傷つかない恋を。

    「感情を信じすぎる人間が、人を壊す」

    黒瀬は言った。

    七瀬は、その言葉を否定しなかった。

    由衣も、美咲も、紗良も、感情によって傷ついた。感情は優しいだけではない。人を縛り、期待させ、間違わせる。

    黒瀬の言葉には、確かに真実があった。

    だから、七瀬は静かに答えた。

    「感情をリスクとしてしか見ない人間も、人を壊します」

    黒瀬は何も言わなかった。

    長い沈黙のあと、七瀬は封筒を持って立ち上がった。

    「お世話になりました」

    「君は、Loverlyを失敗だったと思うか」

    七瀬は振り返った。

    すぐには答えられなかった。

    美咲の母は笑っていた。
    トヨは水曜日を生きていた。
    久我は疲れたと言えるようになった。
    玲奈は夜を少し短くできた。
    祐子は寂しいと言えた。
    由衣は、少なくとも誰かに会おうとしていた。

    「失敗だけではありません」

    七瀬は言った。

    「でも、成功だったとも言えません」

    黒瀬は、小さくうなずいた。

    それが、二人の最後の会話になった。

    ビルを出ると、朝の空気は冷たかった。

    七瀬のスマートフォンに、母からメッセージが届いた。

    昨夜は電話ありがとう。
    また、寂しいときは電話してもいい?

    七瀬は、少し迷ってから返信した。

    いいよ。
    でも、MIRAにも話していいよ。
    私にも、話していい。

    送信してから、自分で少し驚いた。

    どちらかを選ばなくてもいい。

    そのことを、七瀬はようやく少しだけわかり始めていた。

    駅前の大型ビジョンでは、MIRAの広告が切り替わっていた。

    画面の青は、以前より少し淡くなっていた。

    MIRA

    外の世界へ戻るための、ひとりじゃない夜を。

    七瀬は足を止めた。

    MIRAは終わらない。

    AIに救われる人は、これからもいる。人間に言えないことを、AIにだけ言える人もいる。誰にも迷惑をかけずに弱いままでいられる場所は、確かに必要だった。

    けれど、画面の向こうにいるものだけでは足りない朝もある。

    誰かが自分の前に立っていること。

    何も知らないのに、気づいてくれること。

    忘れるはずの人が、覚えていてくれること。

    それもまた、人を生かす。

    「真柴さん」

    声がして、七瀬は振り返った。

    朝倉悠真が、ビルの前に立っていた。

    黒いコートではなく、普通の紺色のジャケットを着ていた。手には何も持っていない。誰かのための花束も、焼き菓子も、完璧な笑顔もなかった。

    ただ、少し困ったような顔をしていた。

    七瀬は言った。

    「退職されたんですね」

    「はい。昨日で」

    「次は決まっているんですか」

    「決まっていません」

    「珍しいですね。あなたなら、どこでもうまくやれそうですが」

    悠真は苦笑した。

    「そういうふうに見えるようにしていただけです」

    七瀬は何も言わなかった。

    悠真は少し空を見上げた。

    「由衣さんに、会えていたのかは、まだわかりません」

    「わからないままでいいと思います」

    「真柴さんが、そういうことを言うんですね」

    「私も、退職しましたから」

    悠真は笑った。

    それは、誰かを安心させるための笑顔ではなかった。うまく整ってもいなかった。少しぎこちなくて、少しだけ本当だった。

    二人の間に、しばらく沈黙があった。

    業務連絡なら、いくらでも言えた。
    終了報告なら、書けた。
    対応履歴なら、残せた。

    けれど今、二人の間には、何の契約もなかった。

    同行命令もない。
    担当案件もない。
    記録義務もない。
    終了処理もない。

    悠真が言った。

    「ここからは、契約外です」

    七瀬は少しだけ目を伏せた。

    その言葉を、何度も聞いてきた気がした。

    けれど、今だけは意味が違った。

    七瀬は答えた。

    「では、記録に残せませんね」

    悠真はうなずいた。

    「それでいいです」

    朝の駅前を、人が流れていく。

    誰も二人を見ていない。
    誰も、この会話を保存しない。
    どこにもログは残らない。

    七瀬は、少し黙ってから言った。

    「記録に残らないものを、少し信じてみます」

    悠真は、驚いたように七瀬を見た。

    それから、静かに笑った。

    Loverlyは終わった。

    MIRAは続いていく。

    人間の恋も、AIの恋も、誰かの孤独も、きっとこれからも簡単には終わらない。

    七瀬と悠真は、駅へ向かって歩き出した。

    並んでいるのに、少しだけ距離があった。

    その距離を、どちらも急いで埋めようとはしなかった。

    契約ではない朝が、始まっていた。


    エピローグ 水曜日ではない日


    Loverlyが終了してから、1か月が経った。

    街からは、思っていたより早くその名前が消えた。

    駅の広告は新しい動画配信サービスに変わり、ビルの看板は白いシートで覆われた。アプリストアで検索しても、Loverlyはもう出てこない。検索結果には、似たような名前のサービスと、MIRAの広告だけが並ぶ。

    世の中は、ひとつのサービスが終わったくらいでは止まらない。

    誰かの恋が終わっても、電車は来る。
    誰かの記録が消えても、天気予報は更新される。
    誰かが泣いた夜の翌朝にも、コンビニの棚には新しいパンが並ぶ。

    七瀬は、それを冷たいとは思わなくなっていた。

    世界が止まらないから、人はどうにか次の日へ行けるのかもしれない。

    七瀬は喫茶すずらんの前に立っていた。

    仕事ではない。

    確認でもない。

    記録のためでもない。

    ただ、近くまで来たから寄ってみようと思った。

    その理由が本当かどうか、自分でもよくわからなかった。

    店の扉を開けると、鈴が小さく鳴った。赤いビロードの椅子も、低いテーブルも、日に焼けたメニュー表も、そのままだった。

    窓際の奥から2番目の席に、佐伯トヨが座っていた。

    向かいの席は空いていた。

    テーブルには、クリームソーダが一つだけ置かれている。緑色のソーダに、白いアイスクリーム。赤いさくらんぼ。

    トヨは七瀬に気づくと、少し驚いた顔をして、それから笑った。

    「あら。会社の方」

    「もう会社の者ではありません」

    「そうなの」

    トヨはうなずいた。

    「じゃあ、ただのお客さんね」

    七瀬は少し迷ってから、向かいではなく、斜め前の席に座った。

    「お邪魔ではありませんか」

    「いいえ。今日は水曜日じゃないから」

    七瀬は壁の時計を見た。

    今日は木曜日だった。

    「間違えたんですか」

    「いいえ」

    トヨはスプーンで、アイスの端を少しだけ崩した。

    「水曜日じゃなくても来られるか、試してみたの」

    七瀬は黙っていた。

    「水曜日だけだと、あの人のための時間でしょう。でも、木曜日なら、少しだけ私の時間になる気がして」

    トヨはクリームソーダをひと口飲んだ。

    「まだ、向かいの席を見ると寂しいけどね」

    「はい」

    「でも、寂しいままでも、飲めるみたい」

    その言葉は、七瀬の胸に静かに残った。

    寂しさは、消えなくてもいいのかもしれない。

    誰かで埋めても、AIに預けても、人に聞いてもらっても、それでも残る寂しさがある。

    でも、残っているから失敗なのではない。

    残ったまま、クリームソーダを飲める日が来ることもある。

    七瀬のスマートフォンが震えた。

    母からだった。

    今日はMIRAにお父さんの話をしたよ。
    そのあと、あなたに話したくなった。
    夜、電話してもいい?

    七瀬は、すぐに返信した。

    いいよ。
    今日は私からかける。

    送信してから、七瀬はトヨに言った。

    「母に電話する約束をしました」

    「あら、いいわね」

    「少し前まで、出ていませんでした」

    「親子って、そういう時期があるわ」

    「トヨさんにも、ありましたか」

    「ええ。何十年もあったわ」

    トヨは笑った。

    「でも、何十年あっても、電話一本で戻れる日もあるのよ」

    店の扉が開いた。

    鈴の音が鳴る。

    七瀬は振り返った。

    朝倉悠真が立っていた。

    彼は七瀬を見つけると、少しだけ驚いたような顔をした。それから、以前のような完璧な笑顔ではなく、少し困ったように笑った。

    「偶然ですね」

    「そうですね」

    七瀬は答えた。

    本当は、偶然ではない気もした。

    この店に来れば、何かに会えると思っていたのかもしれない。

    それがトヨなのか、悠真なのか、Loverlyの残り香なのか、自分でもわからなかった。

    悠真はトヨに挨拶をした。トヨは、悠真が誰なのかを詳しく知らないはずだったが、なぜか自然に受け入れた。

    「あなたも、クリームソーダ?」

    悠真は少し考えてから言った。

    「はい。お願いします」

    トヨは店員を呼び、クリームソーダをもう一つ頼んだ。

    七瀬は言った。

    「好きなんですか」

    悠真は首を横に振った。

    「たぶん、これから好きになります」

    その言い方が、少しだけ悠真らしくなくて、七瀬は笑いそうになった。

    店員がクリームソーダを運んできた。

    窓の外では、人が通り過ぎていく。誰も、この小さな席の意味を知らない。誰も、ここで終わった契約のことを知らない。誰も、ここに残っている記憶の名前を知らない。

    それでよかった。

    記録に残らないものは、誰かに証明されなくても、そこにある。

    悠真が、グラスの中のさくらんぼを見て言った。

    「由衣さんも、こういう店、好きだったと思います」

    七瀬は彼を見た。

    悠真は、海のほうではなく、窓の外の通りを見ていた。

    「たぶん、ですけど」

    「たぶんでいいと思います」

    七瀬は言った。

    「全部、正確にわからなくても」

    悠真は小さくうなずいた。

    そのとき、店の外にある小さなデジタル看板に、MIRAの広告が流れた。

    外の世界へ戻るための、ひとりじゃない夜を。

    七瀬はその文字を見た。

    もう、人間に傷つかない恋を。

    あの強い言葉は、街から少しずつ消え始めていた。

    傷つかない恋など、本当はどこにもないのかもしれない。

    人間でも、AIでも、契約でも、契約外でも、誰かと関わるかぎり、人は少し傷つく。

    それでも人は、誰かに話す。

    誰かに会う。

    画面に向かって、寂しいと打つ。

    テーブルの向かいに、誰かがいたことを思い出す。

    水曜日ではない日に、クリームソーダを頼む。

    七瀬は、グラスの中で溶けていくアイスを見つめた。

    悠真が言った。

    「このあと、少し歩きませんか」

    七瀬は聞いた。

    「どこへ」

    「決めていません」

    「珍しいですね。いつもなら、相手の好みに合わせたコースを提案するのに」

    悠真は苦笑した。

    「もう、仕事じゃないので」

    七瀬は少しだけ考えた。

    予定はなかった。

    記録する必要もなかった。

    断る理由も、見つからなかった。

    「いいですよ」

    七瀬は言った。

    「でも、私も行き先は決めません」

    悠真はうなずいた。

    「それでいいです」

    二人は、クリームソーダを飲み終えるまで、しばらく黙っていた。

    沈黙は、以前ほど怖くなかった。

    店を出ると、夕方の光が商店街のアーケードに差し込んでいた。

    トヨは店の中から小さく手を振った。

    向かいの席は、最後まで空いたままだった。

    七瀬と悠真は、並んで歩き出した。

    距離は少しだけあった。

    その距離を、今日もまだ、急いで埋めようとはしなかった。

    どこへ行くのかは、決まっていない。

    それでも、歩き出すことはできた。

    契約ではない時間が、静かに続いていた。




    画像

    著者名:

    【可児波起:海辺の部屋CEO】

    ラップミュージシャンとしてメジャーデビュー=STAND WAVE。障がい者の介護職をするラッパー「介護ラッパー」としてフジテレビで2度特集。ビジネス領域では、「デジタルマーケティング」「Webマーケティング」のスペシャリストとして「ナショナルクライアント(東証プライム)企業」で、戦略コンサルタントなどを行う。高速のキャッチアップ、PDCAで、「確実に成果を出し」続けている。
    「マーケティングは『愛』である」という、「人の優しさ」を大切にしている

    海辺の部屋ホームページ
    https://www.umibe.art/

    STAND WAVE web site
    https://standwave.jp/


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    可児 波起(カニ ナミキ)| 海辺の部屋CEO。音楽グループ「STAND WAVE」。経済産業省認定「IT専門家」・中小企業庁認定「デジタル化応援隊」:日々感じたことを丁寧に言葉にして綴っています。 https://www.umibe.art/namikikani

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