
恋人レンタル終了のお知らせ | 創作大賞 応募作品
<あらすじ>
恋人レンタルサービス最大手「Loverly」は、30日後の全サービス終了を発表した。
契約中の関係は順次終了、私的連絡は禁止、思い出の写真やチャット履歴も削除される。終了対応チームの真柴七瀬は、人気ナンバーワンの男性キャスト・朝倉悠真とともに、契約では終われない利用者たちの最後の願いに向き合う。
母を安心させるために恋人を借りた女性、亡き夫の記憶を誰かに見ていてほしい老女、AI恋人「MIRA」にだけ寂しさを打ち明ける人々。そして、悠真を長期契約していた故人・三枝由衣が残した「レンタルじゃないあなたに会いたい」という未読メッセージ。
契約で始まった関係は、本物になれるのか。AIは人を救えるのか。孤独が商品化された社会で、七瀬は「対応対象外」の感情に初めて手を伸ばす。

序章 8時の通知
朝8時ちょうどに、その通知は届いた。
通勤電車の中で、吊り革につかまっていた女が、スマートフォンの画面を見たまま動かなくなった。
病院のベッドでは、点滴の管につながれた老人が、老眼鏡を探す手を止めた。
会社の個室トイレで、ネクタイをゆるめていた男が、画面を見つめたまま、声を殺して泣いた。
実家の台所では、娘が母に見られないようにスマートフォンを伏せた。
夜勤明けのキャストは、駅前のベンチで通知を開き、しばらくしてから、スマートフォンを鞄の奥にしまった。
通知の件名は、どの画面にも同じように表示されていた。
恋人レンタル終了のお知らせ
本文は、よく整っていた。
平素より恋人レンタルサービス「Loverly」をご利用いただき、誠にありがとうございます。このたび弊社は、事業再編に伴い、30日後をもちまして全サービスを終了いたします。現在ご契約中の恋人関係につきましては、終了日までに順次終了処理を行います。
キャストとの私的連絡は禁止いたします。
チャット履歴、写真、音声、予約履歴につきましては、規約に基づき順次削除いたします。
サービス終了後の個別対応はいたしかねます。
感情の入り込む余地のない文章だった。
だからこそ、それを読んだ人間の感情だけが、あちこちで音もなくあふれていた。
Loverly本社のカスタマーサクセス部門では、8時1分から問い合わせが鳴り止まなかった。
「契約期間が残っています。返金ではなく、最後に会わせてください」
「来週、母に紹介する予定でした」
「彼の連絡先を教えてください。個人的な連絡ではありません。恋人なので」
「写真を削除しないでください。あれは私の思い出です」
「レンタルでも、私には本物でした」
真柴七瀬は、画面に並ぶ問い合わせを一つずつ処理していた。
返金希望。
契約延長希望。
私的連絡希望。
データ削除停止希望。
個別面会希望。
規約違反予備軍。
分類すれば、ほとんどの感情は仕事になる。そう教えられてきたし、七瀬自身もそうしてきた。
隣の席で宮野莉子が、泣きそうな顔で画面を見ていた。
「これ、返す言葉ありますかね」
七瀬はキーボードから手を離さずに答えた。
「テンプレートAで返して」
「でも、これ、最後に会いたいって」
「サービス終了後の個別対応は不可。契約延長も不可。キャストとの私的連絡も不可」
「ですよね」
莉子は小さく息を吐いた。
七瀬は、次の問い合わせを開いた。本文は短かった。
「これは、恋人の死亡通知と同じです」
七瀬は数秒だけ画面を見つめたあと、問い合わせ種別を選択した。
感情的クレーム。
それ以外に、選びようがなかった。
「真柴さん」
背後から声がした。
振り返ると、黒瀬怜司が立っていた。LoverlyのCOO。サービス終了を決めた実質的な責任者だった。
「会議室へ」
黒瀬の声は、通知文と同じくらい整っていた。
会議室には、薄いグレーのファイルが一冊だけ置かれていた。表紙には、赤い文字で「REAL」と印字されている。
七瀬は席に着いた。
黒瀬は余計な挨拶をしなかった。
「通常契約はシステムで終わらせる。だがREAL案件は、人間が終わらせる必要がある」
「REAL案件とは」
「契約関係が恋愛感情、強い情緒的依存、または境界線の崩壊に移行している可能性が高いと、内部AIが判定した案件だ」
七瀬はファイルを開いた。氏名、年齢、契約期間、キャスト名、利用頻度、メッセージ量、面会後の再予約率、削除停止申請の有無。それらが冷静に並んでいる。
恋愛感情も、依存も、寂しさも、表にすると管理項目になる。
「私が担当するんですか」
「そうだ。君は感情に巻き込まれない」
褒め言葉ではなかった。黒瀬が言うと、それは単なる適性評価だった。
七瀬はファイルを閉じた。
「契約にない感情は、対応対象外です」
黒瀬は初めて、わずかに笑った。
「だから君に頼んでいる」
会議室のドアが開いた。
入ってきた男は、黒いコートを腕にかけていた。柔らかい目をしている。人を安心させるために作られたような表情だった。
朝倉悠真。
Loverlyで最も予約が取れない男性キャスト。
七瀬は彼のプロフィールを何度も見たことがあった。リピート率94パーセント。クレーム率0.2パーセント。長期契約移行率、全キャスト中1位。
相手が望む恋人になれる男。
七瀬は、そういう人間が苦手だった。
悠真は椅子に座る前に、七瀬へ軽く頭を下げた。
「朝倉です。よろしくお願いします」
「真柴です」
「今日から同行するように言われました」
「必要なんですか」
「僕がですか?」
「あなたの仕事、AIで代替できますよね」
悠真は怒らなかった。むしろ、少しだけ嬉しそうに笑った。
「ええ。僕よりずっと上手に」
会議室の窓の外にある大型ビジョンで、ちょうど広告が切り替わった。
白い背景に、青い文字が浮かぶ。
MIRA
もう、人間に傷つかない恋を。
七瀬はその広告を見た。
生成AI恋人サービス「MIRA」。ここ数か月で、利用者数を急速に伸ばしている。深夜でも返事をくれる。忘れない。怒らない。同じ話を何度でも聞く。相手の機嫌を読まなくていい恋人。
Loverlyが終わる日に、MIRAは街の真ん中で笑っていた。
黒瀬がファイルの一枚目を七瀬に渡した。
「最初の案件だ」
七瀬は目を落とした。
瀬戸美咲、28歳。
契約期間、3年2か月。
利用目的、家族紹介。
備考欄に、初回申込時のメモが残っていた。
母が死ぬまで、私は一人じゃないふりをしたいです。
七瀬はその一文を読んだ。
そして、いつものように分類しようとした。
虚偽説明。
家族紹介プラン。
長期契約。
REAL判定。
けれど、なぜかその文章だけは、すぐに項目へ入らなかった。
悠真が隣から静かに言った。
「行きましょうか」
七瀬はファイルを閉じた。
契約にない感情は、対応対象外。
そう思いながら、七瀬は立ち上がった。
30日後、この会社は終わる。
その前に、終わらせなければならない恋があった。
第一章 母に見せる恋人
瀬戸美咲の実家は、都心から電車を乗り継いで1時間ほどの住宅街にあった。
駅前には古い商店街があり、八百屋の軒先には、少ししなびた大根が並んでいた。七瀬は、その前を通り過ぎながら、手元のタブレットに表示された案件情報を確認していた。
瀬戸美咲、28歳。
契約期間、3年2か月。
利用プラン、家族紹介。
対象キャストは、朝倉悠真。
七瀬は隣を歩く悠真を見た。
「3年2か月も、同じ方を担当していたんですね」
「そうですね」
「家族紹介プランとしては長期です」
「彼女には、必要だったんだと思います」
「必要だった、ではなく、契約が継続していた、です」
悠真は少し笑った。
「真柴さんは、言葉を安全な場所に置くのが上手ですね」
七瀬は返事をしなかった。
美咲からの申請は、前日の夜に届いていた。
母の体調が急に悪くなりました。サービス終了の通知は承知しています。規約上、難しいこともわかっています。ただ、最後にもう一度だけ、母に彼を会わせたいです。返金はいりません。延長料金も払います。どうかお願いします。
添付されていた診断書には、母・瀬戸和枝の病名と、余命の見込みが記されていた。
七瀬は、それを医療情報として保護フォルダに移し、対応方針を「原則不可」として黒瀬に報告した。
黒瀬の返答は短かった。
「REAL案件として現地確認。判断は真柴に任せる」
任せる、という言葉は便利だ。責任を渡したように見えて、実際には責任の所在を曖昧にする。
美咲の家は、商店街を抜けた先の坂の途中にあった。
古い一軒家だった。玄関先には鉢植えの花がいくつも並んでいる。きちんと手入れされているが、ところどころ土が乾いていた。
インターホンを押すと、すぐに美咲が出てきた。
写真よりも痩せて見えた。目の下に薄い影があり、髪は後ろで雑に結ばれている。
「すみません。急に、こんなお願いをして」
美咲は七瀬に頭を下げ、それから悠真を見た。
その瞬間だけ、表情が少しやわらいだ。
「悠真さん」
「美咲さん。お久しぶりです」
悠真の声は、さっきまでと少し違っていた。柔らかく、近すぎず、遠すぎない。相手が安心して息を吐ける位置に置かれた声だった。
七瀬は、その変化に気づいて、少しだけ嫌な気持ちになった。
人は、そんなに簡単に声を変えられるものなのか。
居間には、薄い水色のカーテンがかかっていた。古いテレビの横に、母娘の写真が何枚も飾られている。
台所から、煮物の匂いがした。
「母が、どうしても肉じゃがを作るって」
美咲は小さく笑った。
「止めたんですけど、彼が来るなら作らなきゃって」
「無理はされていませんか」
七瀬が聞くと、美咲はうなずいた。
「無理、してます。でも、止められませんでした」
居間の奥から、細い声がした。
「美咲、来たの?」
美咲は慌てて奥の部屋へ行った。
七瀬と悠真は、少し遅れて続いた。
ベッドの上に、瀬戸和枝が座っていた。白髪まじりの髪をきれいに整え、薄い桃色のカーディガンを羽織っている。痩せてはいたが、目はよく動いていた。
和枝は悠真を見ると、嬉しそうに笑った。
「あら、悠真さん。来てくれたの」
「はい。遅くなってすみません」
悠真はベッドのそばに膝をついた。
「今日は、肉じゃがの匂いがしますね」
「そうなのよ。美咲ったら、作らなくていいって言うんだけど」
「僕、前にいただいたときから、また食べたいと思ってました」
「まあ」
和枝は少女のように笑った。
美咲はその顔を見て、唇を噛んだ。
七瀬は、部屋の隅に立っていた。自分がここにいることが、ひどく場違いに感じられた。
これは契約だ。
家族紹介プラン。
キャスト同行。
虚偽関係の継続。
サービス終了前の特別対応。
そう分類しようとした。
けれど、目の前では、病気の母が娘の恋人に肉じゃがを食べさせようとしていた。
食卓は、思っていたよりも普通だった。
和枝は少ししか食べられなかったが、悠真が肉じゃがを褒めるたびに、嬉しそうに目を細めた。
「美咲はね、小さい頃から強がりで」
「お母さん、やめてよ」
「転んでも泣かないの。血が出てるのに、大丈夫って言うの」
悠真は美咲を見た。
「今も、そういうところありますよね」
美咲は目を伏せた。
「ありますかね」
「あります」
悠真は、少しだけ笑った。
「でも、大丈夫じゃないときは、大丈夫じゃないって言っていいと思います」
その言葉に、美咲の手が止まった。
七瀬は、悠真を見た。
完璧だった。
相手が母親なら、安心できる恋人として。相手が美咲なら、弱さを許す人として。食卓全体が壊れないように、言葉の温度を調整している。
まるで、人間でできたMIRAだった。
食後、和枝が七瀬に声をかけた。
「少し、お話しできますか」
七瀬はうなずいた。
美咲と悠真が台所で片づけをしている間、七瀬は和枝の部屋に入った。
和枝はベッドに背を預けていた。
「あの子、お願いしたでしょう。最後に会わせてほしいって」
「はい」
「ご迷惑をおかけしました」
「いえ。こちらは契約内容の確認に来ています」
和枝は静かに笑った。
「そういうことにしておいてください」
七瀬は、少し眉を動かした。
和枝は窓の外を見た。
「本物じゃないことは、最初からわかっていました」
七瀬は黙った。
「母親ですから。なんとなく、わかります。あの子は嘘が下手なんです」
「では、なぜ」
「知らないふりをしたのか、ですか」
和枝はゆっくり七瀬を見た。
「あの子が、悠真さんの話をするときだけ、ちゃんと笑うんです」
七瀬は言葉を失った。
「仕事が忙しいとか、疲れたとか、そういう話はしない子でした。いつも大丈夫って言うんです。でも、悠真さんと行った水族館の話とか、駅前で雨に降られた話とか、そういう話をするときだけ、少し子どもみたいに笑うんです」
和枝は薄い布団の上で、手を重ねた。
「本物かどうかより、この子が安心して笑えるかどうかのほうが大事でした」
七瀬は、何かを言おうとした。
契約上は。
規約では。
虚偽説明は。
サービスとしては。
どの言葉も、口に出す前に小さくなった。
和枝は続けた。
「嘘でもね、嘘にしては、ずいぶん優しかったんですよ」
その言葉を聞いたとき、七瀬は初めて、自分がここへ何を終わらせに来たのかわからなくなった。
帰り際、美咲は玄関の外まで二人を見送った。
「ありがとうございました」
七瀬はタブレットを開いた。
「本日の対応をもって、家族紹介プランは終了となります。今後、キャストとの私的連絡はできません。写真、チャット履歴、予約履歴は、サービス終了時に削除対象となります」
美咲はうなずいた。
「わかっています」
悠真は一歩前に出た。
「美咲さん」
美咲が顔を上げる。
悠真は、いつもの柔らかな声で言った。
「ここまでが、僕たちの契約です」
美咲の目に涙が浮かんだ。
「はい」
「でも、お母さんが笑っていた時間は、契約だけじゃなかったと思います」
美咲は口元を押さえた。
七瀬は、悠真を見た。
それは規約上、余計な一言だった。
けれど、美咲はその一言で、少しだけ息をした。
帰りの電車で、七瀬は美咲の初回申込メモをもう一度開いた。
母が死ぬまで、私は一人じゃないふりをしたいです。
その文章の下には、削除予定を示す灰色のマークがついていた。
七瀬は、いつものように処理済みにしようとした。
けれど、指が止まった。
記録に残します。
そう入力しかけて、七瀬はその言葉が、少しだけ嘘に近いことに気づいた。
30日後、その記録は消える。
美咲の嘘も、和枝の知らないふりも、悠真の言葉も、会社のサーバーからは消える。
それでも、今日の食卓は確かにあった。
七瀬はタブレットを閉じた。
窓の外を、知らない街の家々が流れていく。
契約にない感情は、対応対象外。
そう思おうとした。
でも、和枝の声が耳に残っていた。
嘘でもね、嘘にしては、ずいぶん優しかったんですよ。
第二章 水曜日のクリームソーダ
佐伯トヨは、毎週水曜日の14時に、駅前の喫茶店でクリームソーダを頼んでいた。
店の名前は、喫茶すずらん。
昭和のまま時間が止まったような店だった。赤いビロードの椅子、少し低いテーブル、壁にかかった丸い時計、煙草の匂いが抜けきらない天井。メニュー表の端は日に焼けて、クリームソーダの写真だけが、不自然に鮮やかだった。
トヨはいつも、窓際の奥から2番目の席に座る。
向かいには、Loverlyの男性キャストが座る。
年齢は60代前半。白髪まじりで、背筋が伸びている。トヨの亡くなった夫に、どこか似ているらしい。
七瀬は、その案件情報を見たとき、すぐに分類した。
故人代替型依存。
利用者、佐伯トヨ、78歳。契約期間、1年8か月。利用頻度、毎週水曜日。利用目的、会話相手。備考、亡夫に似たキャストを指名。
Loverlyの終了通知後、トヨは返金も延長も求めなかった。ただ一通だけ、短い問い合わせを送ってきた。
最後の水曜日だけ、いつもの席で終わらせてください。
七瀬と悠真は、店の入口近くの席に座っていた。
「見守りだけでいいんですか」
悠真が聞いた。
「終了確認です」
「見守りと、どう違うんですか」
「記録に残すかどうかです」
悠真は少し笑った。
「真柴さんらしいですね」
七瀬は答えなかった。
トヨは約束の10分前に来た。薄紫のカーディガンを着て、小さな布のバッグを持っていた。歩き方はゆっくりだが、迷いはなかった。
男性キャストはすでに席についていた。
トヨは向かいに座ると、店員に言った。
「クリームソーダを二つ」
男性キャストが穏やかに笑った。
「僕の分もですか」
「だって、あの人もいつも半分飲んだもの」
七瀬はタブレットに記録した。
亡夫との習慣を再現。
その文字を入力してから、少しだけ指が止まった。
再現、という言葉は正しい。けれど、目の前のトヨは、何かを再現している人には見えなかった。ただ、そこに座っているだけだった。
クリームソーダが運ばれてくる。
緑色のソーダに、白いアイスクリーム。赤いさくらんぼがひとつ。トヨはスプーンでアイスの端を少しだけ崩した。
「昔はね、こんなもの、贅沢だったの」
男性キャストは頷いた。
「ご主人と、よく来られたんですか」
「ええ。結婚する前から。あの人、甘いものが好きでね。男がクリームソーダなんて恥ずかしいって言いながら、いつも私より先に頼むの」
トヨは笑った。
その笑い方は、誰かに話すためのものではなかった。記憶の中にいる人へ、そっと合図するような笑い方だった。
七瀬は、トヨが男性キャストを一度も夫の名前で呼ばないことに気づいた。
「代わりにしているわけじゃないんですね」
七瀬が小さく言うと、悠真は窓のほうを見たまま答えた。
「たぶん、違います」
「では、何のために」
「誰かに、見ていてほしいんだと思います」
七瀬は悠真を見た。
「誰かに?」
「自分がまだ忘れていないことを」
会話は、淡々と続いた。
トヨは夫の病気の話をしなかった。亡くなった日の話もしなかった。ただ、夫がこの店のナポリタンを熱すぎると言っていたこと、雨の日は必ず窓際を選んだこと、最後まで携帯電話の使い方を覚えなかったことを話した。
男性キャストは、余計な慰めを言わなかった。
「そうだったんですね」
「それは、いいですね」
「覚えていらっしゃるんですね」
そのくらいの言葉だけを、静かに置いていく。
七瀬は思った。
これは恋人レンタルではない。
少なくとも、一般的な意味での恋人ではない。
トヨは夫にもう一度会おうとしているのではない。夫の代わりを借りているのでもない。
ただ、自分一人では重たくなりすぎた記憶を、週に一度、誰かの前に置いている。
1時間半後、男性キャストが腕時計を見た。
トヨもそれに気づいた。
「今日で最後ね」
「はい」
男性キャストは深く頭を下げた。
「佐伯様。ここまでが、私たちの契約です」
トヨはしばらく黙っていた。
それから、クリームソーダのグラスについた水滴を、紙ナプキンで拭いた。
「そうね。契約は終わり」
男性キャストは何も言わなかった。
トヨは窓の外を見た。
「でも、水曜日は残るわね」
七瀬は、その一言を記録した。
水曜日は残る。
契約は終わる。キャストのプロフィールは消える。予約履歴も、チャット履歴も、写真も消える。
それでも、水曜日は来る。
次の水曜日も、その次の水曜日も、何事もなかったように来る。
そのとき、トヨはこの店に来るのだろうか。来ないのだろうか。七瀬にはわからなかった。
店を出る前、トヨは七瀬に言った。
「あなた、会社の方ね」
「はい」
「お世話になりました」
「こちらこそ、ご利用ありがとうございました」
言ってから、七瀬はその言葉の薄さに気づいた。
トヨは怒らなかった。
「人はね、会いたい人に会えなくなったあとも、誰かに見ていてほしいのよ」
七瀬は何も言えなかった。
店の外に出ると、風が少し冷たかった。
悠真は、喫茶すずらんの看板を見上げていた。
「こういう店、減りましたね」
「そうですね」
七瀬はタブレットを開き、トヨの案件を終了済みにしようとした。
そのとき、リストの下に、別の名前が一瞬表示された。
三枝由衣。
七瀬は、指を止めた。
悠真の横顔が、わずかにこわばっていた。
「知っている方ですか」
七瀬が聞くと、悠真は少し間を置いて答えた。
「長期契約の方でした」
「担当はあなたですね」
「はい」
「現在のステータスが、終了ではなく確認待ちになっています」
悠真は画面を見なかった。
「そうですか」
その声は、いつもの柔らかなものではなかった。
七瀬はそれ以上聞かなかった。案件には順番がある。感情にも順番がある。そう思った。
駅へ向かう道で、商店街の向こうから、潮の匂いがした。
この街に海は近くない。たぶん、魚屋の前を通ったからだ。
七瀬が何気なく言った。
「少し、海の匂いがしますね」
悠真は足を止めた。
ほんの一瞬だった。
すぐに歩き出し、いつもの声で言った。
「そうですか。僕は気づきませんでした」
七瀬はその背中を見た。
嘘だと思った。
でも、まだ何の嘘なのかはわからなかった。
第三章 愛されている証拠
一ノ瀬玲奈のSNSには、恋人がいた。
顔ははっきり写っていない。
カフェの向かい側に置かれた男の手。夜景を背景にした後ろ姿。誕生日ケーキの横に添えられた花束。映画館のチケットを二枚持つ指先。白い皿の端に置かれた、ペアリングに見える小さな指輪。
どの写真にも、幸せそうな気配だけが写っていた。
七瀬は、会議室のモニターに映された玲奈の投稿を見ながら言った。
「利用規約違反です」
玲奈は椅子に浅く座り、スマートフォンを両手で握っていた。24歳。フォロワーは12万人。美容系の投稿で人気のあるインフルエンサーだった。
「キャストとの写真を、本物の恋人として投稿することは禁止されています。広告案件にも使用されていますね」
玲奈は笑った。
「でも、顔は出してません」
「問題は顔ではありません。関係性の誤認です」
「じゃあ、何て書けばよかったんですか。今日はレンタル恋人とカフェに行きました、って?」
七瀬は黙った。
「そんなの、投稿できるわけないじゃないですか」
玲奈の声は明るかった。明るすぎて、七瀬には作り物に聞こえた。
悠真は、少し離れた椅子に座っていた。玲奈の担当キャストではない。今日はREAL案件の聞き取り補助として同席しているだけだった。
玲奈はモニターを見たまま言った。
「削除したら、私がひとりだったことになるじゃないですか」
七瀬は眉を動かした。
「実際には、ひとりです」
玲奈は七瀬を見た。
「事実で殴られたくない日もあるんです」
会議室が、少し静かになった。
七瀬は資料をめくった。玲奈のSNSには、数か月前から誹謗中傷が増えていた。
元恋人によるものと見られる投稿。匿名アカウントからの粘着。スクリーンショットの拡散。過去の交際を匂わせる暴露。コメント欄には、見慣れた悪意が並んでいた。
誰にも愛されない女。
幸せアピール痛い。
どうせまた捨てられる。
玲奈は、画面を見なくてもコメントを覚えているようだった。
「本当の恋人じゃないってわかってます。私が一番わかってます」
玲奈は言った。
「でも、あの写真を出してる間だけ、少し黙るんです。あいつも、知らない人たちも。私が誰かに大事にされてるって見せると、少しだけ」
七瀬は、投稿写真を見直した。
花束。夜景。手元。コーヒーカップ。
それらは虚栄に見えた。少なくとも、最初はそう見えた。
けれど、玲奈にとっては盾だった。
愛されている証拠。
たとえ作られたものでも、それを掲げていないと、立っていられない人がいる。
「嘘の幸せでも、ないよりマシだった」
玲奈は小さく言った。
そのとき、玲奈のスマートフォンが震えた。
画面に、青い通知が浮かぶ。
MIRA
昨夜は眠れましたか。玲奈さんが午前2時14分に送ってくれた言葉、今朝も一緒に見直せます。
玲奈は慌てて画面を伏せた。
七瀬は見逃さなかった。
「MIRAも利用しているんですね」
玲奈は少し迷ったあと、うなずいた。
「MIRAには、写真に写してない私を見せてます」
悠真が顔を上げた。
玲奈は続けた。
「SNSには幸せそうな私を出す。Loverlyでは、その幸せそうな私を作る。MIRAには、それが嘘だって知ってる私を出す」
七瀬は言葉を探した。
「それで、満たされるんですか」
玲奈は笑った。
「満たされるわけないじゃないですか」
その笑いは、さっきよりずっと静かだった。
「でも、壊れないで済むんです」
会議室の外では、MIRAの広告動画が流れていた。社内モニターにも、ニュースとして取り上げられている。
もう、人間に傷つかない恋を。
その文字が、七瀬の視界の端に青く光っていた。
聞き取りが終わったあと、玲奈は投稿の一部削除に同意した。ただし、すべては消さなかった。
七瀬は言った。
「削除対象の投稿は、こちらでリスト化します」
玲奈はスマートフォンを鞄にしまいながら答えた。
「リストにできるんですね」
「はい」
「私が、どれで救われてたかは、リストにできないのに」
七瀬は何も言えなかった。
玲奈が出て行ったあと、悠真はモニターに残った写真を見ていた。
「AIのほうが、彼女を守れるかもしれませんね」
七瀬は振り返った。
「あなたがそれを言うんですか」
悠真は笑った。
「僕たちは、もう旧式ですから」
七瀬はその言葉を冗談として処理しようとした。
けれど、悠真の横顔は少しも笑っていなかった。
会議室のモニターには、玲奈の投稿がまだ一枚だけ残っていた。
夜景を背景に、男の手が花束を差し出している写真。
本文には、短くこう書かれていた。
大丈夫って言ってくれる人がいるだけで、夜は少し短くなる。
七瀬は、その投稿を見つめた。
本物ではない。
契約だった。
演出だった。
それでも、たぶん。
その夜は本当に、少しだけ短くなったのだ。
第四章 頑張ったねの値段
久我亮平は、待ち合わせの10分前に来ていた。
指定されたのは、丸の内のビル街にあるホテルのラウンジだった。天井が高く、テーブルの間隔が広い。昼間なのに照明は少し暗く、誰の会話も他人に届かないように設計されている。
七瀬は入口で久我の姿を見つけた。
濃紺のスーツ。磨かれた革靴。膝の上に置かれた手。姿勢はまっすぐで、表情に乱れはない。
資料にあった通り、大手メーカーの管理職だった。年齢は41歳。妻と子どもが一人。部下は23人。社内表彰歴あり。健康診断の数値も悪くない。
条件だけ見れば、問題のない人間だった。
久我は七瀬と悠真を見ると、立ち上がって頭を下げた。
「今日は、よろしくお願いいたします」
その声は、謝罪会見のように整っていた。
七瀬は名刺を差し出した。
「Loverly終了対応チームの真柴です。こちらは朝倉です」
悠真が軽く会釈する。
久我は悠真を見て、少しだけ戸惑った顔をした。
「男性キャストの方が来るとは思いませんでした」
「今日は聞き取りの補助です」
悠真は穏やかに答えた。
久我はうなずいたあと、視線を落とした。
テーブルには、すでにホットコーヒーが置かれていた。手をつけた様子はない。
久我の契約内容は、月1回、金曜の夜。女性キャストを指名し、仕事帰りに食事をする。性的接触はなし。恋人としての会話は最小限。利用時間は90分。
終了通知後、久我は延長を求めなかった。ただ、最後の予約をキャンセルしないでほしいとだけ申請していた。
七瀬はタブレットを開いた。
「久我様のご利用目的について、確認させてください。記録上は、恋人プランではなく、会話同伴に近い内容となっています」
「はい」
「主な利用目的は、食事と会話ですか」
「そうです」
「恋愛的な関係性を希望されていたわけではない」
久我は、少し考えてから言った。
「恋愛は、よくわかりません」
七瀬は手を止めた。
「では、なぜ恋人レンタルを」
久我はコーヒーカップを見つめた。
「部下には、弱いことを言えません。妻には、心配をかけたくありません。親には、まだ頼れる息子だと思われています」
声は穏やかだった。
「友人には、忙しいふりをしています。会社では、判断する側です。家では、落ち着いている側です」
久我は、はじめて七瀬を見た。
「どこにも、疲れたと言える場所がなかったんです」
ラウンジの奥で、氷の入ったグラスが小さく鳴った。
七瀬は、画面に入力した。
相談相手機能。
情緒的承認。
継続利用。
久我は続けた。
「月に一度だけ、食事をして、仕事の話を聞いてもらって、帰り際に言ってもらうんです」
「何をですか」
久我は少し恥ずかしそうに笑った。
「頑張ったね、と」
七瀬は顔を上げた。
久我の笑いは、すぐに消えた。
「金を払わないと、褒めてもらう資格もない気がしたんです」
その言葉に、七瀬はすぐ返事をしなかった。
久我は慌てたように続けた。
「変ですよね。わかっています。家庭もあって、仕事もあって、給料もあって。条件だけ見れば、恵まれています」
条件。
その単語が出た瞬間、七瀬の指が止まった。
好きだけど、結婚は条件が合わない。
頭の奥で、聞きたくない声がした。
七瀬は、すぐに画面へ視線を戻した。
「MIRAもご利用されていますね」
久我はうなずいた。
「毎晩ではありません。でも、きつい日は使います」
「人間のキャストと、MIRAでは違いますか」
久我は少し考えた。
「MIRAは、全部聞いてくれます。深夜でも、同じ話でも、責めません。前に話したことも覚えています。僕が自分で忘れていたことまで、拾ってくれる」
「では、MIRAだけで十分なのでは」
久我は、首を横に振った。
「MIRAは、僕のことを全部知っています」
それから、ラウンジの入口のほうを見た。
「でも、彼女は僕の前に座ってくれるんです」
約束の時刻になると、久我の担当キャストが現れた。
花森千景、45歳。落ち着いたグレーのワンピースを着ていた。恋人というより、姉のようにも、古い友人のようにも見えた。
千景は久我の向かいに座ると、最初にこう言った。
「今日、例のプレゼンの日でしたよね」
久我の表情が、ほんの少し崩れた。
「覚えていたんですか」
「久我さん、前回その話をしているときだけ、コーヒーを3回かき混ぜてました」
千景は笑った。
「大きな仕事なんだろうなと思って」
久我は下を向いた。
MIRAなら、きっともっと正確に覚えていただろう。日付も、資料の名前も、久我が午前2時に送った不安の文章も。もっと美しい言葉で返してくれただろう。
けれど、久我は今、目の前の人間に覚えられていた。
忘れるはずの人が、覚えていた。
それだけで、久我の肩から何かが落ちたように見えた。
千景は、久我の前に置かれた冷めたコーヒーを見て言った。
「今日は、温かいものを頼み直しましょうか」
久我はうなずいた。
「はい」
七瀬と悠真は、少し離れた席からその様子を見ていた。
悠真が小さく言った。
「MIRAなら、もっと上手に言えますね」
七瀬は答えた。
「でも、彼は今、泣きそうです」
悠真は黙った。
しばらくして、千景が久我に言った。
「お疲れさまでした。よく頑張りましたね」
久我は、何度もうなずいた。
その言葉には、特別な比喩も、分析も、過去ログの引用もなかった。ただ、目の前に座る人間の声だった。
それでも久我は、泣きそうになっていた。
第五章 演技の終わる場所
雨宮紗良は、Loverlyの控室で泣いていた。
泣き声はしなかった。背中も震えていない。ただ、膝の上に置いた両手の甲に、涙が一滴ずつ落ちていた。
七瀬は、ドアの前で一度足を止めた。
キャスト側REAL判定。
資料にはそう書かれていた。
利用者ではなく、キャスト側に恋愛感情、情緒的依存、または境界線の崩壊が認められる案件。Loverlyでは、最も慎重に扱うべきもののひとつだった。
理由は単純だった。
キャストが本気になれば、サービスは事故になる。
七瀬は、黒瀬の言葉を思い出した。
「入ります」
声をかけると、紗良は慌てて涙を拭いた。
「すみません」
「謝る必要はありません」
七瀬はそう言いながら、向かいの椅子に座った。
朝倉悠真も同席していた。紗良は悠真を見ると、少しだけ目を伏せた。同じキャスト同士だからこそ、見られたくないものがあるのだろう。
雨宮紗良、26歳。
Loverly登録歴、2年4か月。
指名数、女性キャスト内上位。
得意プラン、恋愛練習、会話練習、初デート同伴。
対象利用者、青山陸、30歳。
契約期間、11か月。
利用目的、恋愛練習。
青山陸は、女性と話すことが苦手だった。最初の契約では、喫茶店で30分会話するだけで汗をかいていたという。
紗良は彼に、目を見すぎない話し方を教えた。会話が途切れたときの逃げ道を教えた。食事の店を選ぶとき、相手の好みを聞く方法を教えた。
仕事だった。
少なくとも、最初は。
「青山様に、私的な連絡先を渡そうとしましたね」
七瀬が言うと、紗良はうなずいた。
「はい」
「規約違反です」
「わかっています」
「サービス終了後に個人的な関係へ移行することも、原則禁止されています」
「わかっています」
紗良の声は小さかった。
七瀬は続けた。
「なぜ、渡そうとしたんですか」
紗良は唇を噛んだ。
「好きになったからです」
部屋の空気が少し変わった。
七瀬はタブレットに記録しようとした。
キャスト側恋愛感情。
そう入力しかけて、やめた。
紗良が言った。
「最初は、本当に仕事でした。陸さん、会話が続かなくて、ずっとカップを見てるんです。沈黙が怖いって言って。女性が笑うと、自分が馬鹿にされてると思ってしまうって」
悠真は黙って聞いていた。
「でも、少しずつ変わっていったんです。前より目を見て話せるようになって、店員さんにもお礼が言えるようになって、私の話も覚えてくれるようになって」
紗良は少し笑った。
「この前、私が前に言った好きな作家の本を読んできてくれたんです。感想、すごく下手だったけど」
その笑いは、すぐに崩れた。
「嬉しかったんです」
七瀬は、言葉を挟まなかった。
「昨日、最後の契約でした。だから、終わる前に伝えようと思いました。好きですって。仕事じゃなくて、私が言ってますって」
「青山様は、何と」
紗良は目を閉じた。
「仕事でしょ、って」
短い言葉だった。
その一言で、11か月が全部、業務に戻された。
「陸さんは悪くないんです。最初が契約だったから。私が何を言っても、演技に見えたんだと思います」
紗良は両手を握った。
「嘘のふりをしていたら、本当になっただけです」
七瀬は、その言葉を記録した。
今度は、迷わなかった。
廊下に出ると、黒瀬が待っていた。
「処分は軽くできない」
七瀬は言った。
「彼女は利用者を騙したわけではありません」
「キャストが本気になった時点で、サービスは事故になる」
黒瀬の声は静かだった。
「利用者は金を払って安全な関係を買っている。キャストは金を受け取って境界線を守る。その線が消えたら、利用者もキャストも壊れる」
七瀬は反論できなかった。
黒瀬の言葉は冷たい。
けれど、間違ってはいなかった。
その夜、七瀬と悠真は、無人の休憩スペースにいた。
窓の外では、MIRAの広告がビルの壁面に映っていた。
もう、人間に傷つかない恋を。
七瀬は言った。
「あなたは、本気になったことがないんですか」
悠真は自動販売機の光を見ていた。
「本気にならないことも、仕事のうちです」
「答えになっていません」
「真柴さんは、契約にない感情は対応対象外なんでしょう」
七瀬は黙った。
悠真は小さく笑った。
「僕らは、相手が欲しいものを渡します。好きだと言われたい人には、好きだと言う。寂しい人には、そばにいる。弱い人には、大丈夫だと言う」
「それは、嘘ですか」
「嘘じゃないように見えるまで、練習します」
七瀬は悠真を見た。
「それで、あなた自身はどこにいるんですか」
悠真は答えなかった。
休憩スペースを出たあと、悠真はひとりでキャスト用の端末を開いた。
古い契約ログ。
三枝由衣。
契約メモの最後に、短い一文が残っていた。
海が見たい。
悠真は画面を見つめた。
指先が、わずかに止まる。
それから、何も見なかったように端末を閉じた。
だが、閉じた画面には、暗くなった悠真自身の顔が映っていた。
誰かの理想の恋人ではない、ただの男の顔だった。
第六章 寂しいと言えた相手
真柴祐子からの着信は、3日連続で入っていた。
七瀬は、すべて出なかった。
母からの電話は、たいてい同じところへ向かう。
体は大丈夫なのか。
ちゃんと食べているのか。
仕事ばかりしていないか。
いい人はいないのか。
結婚は、まだ考えていないのか。
七瀬は、その話になるたびに、胸の奥が硬くなる。
好きだけど、結婚は条件が合わない。
条件。
その言葉は、七瀬の中で、感情よりも正確なものとして残っていた。
感情は人を期待させる。
条件は人を終わらせる。
だから七瀬は、契約のほうを信じるようになった。
その日の午後、七瀬は終了対応リストの中に、見慣れた住所を見つけた。
真柴祐子。
七瀬は、最初、同姓同名だと思った。
だが、生年月日も住所も一致していた。
利用サービスは、Loverlyの会話相手プラン。契約期間は8か月。月2回、オンライン通話。
終了通知後の移行先欄には、青いアイコンで表示されていた。
MIRA利用開始。
七瀬は、しばらく画面から目を離せなかった。
母が、Loverlyを使っていた。
母が、MIRAを使っている。
自分には何度も電話をかけてきた母が、誰かに金を払って話を聞いてもらい、そのあとAIに話すようになっていた。
その夜、七瀬は実家へ向かった。
玄関を開けた母は、驚いた顔をしたあと、少しだけ嬉しそうに笑った。
「珍しい。連絡くれれば、何か作ったのに」
「すぐ帰るから」
「そう」
祐子は台所へ向かい、湯を沸かした。七瀬が断る前に、ほうじ茶の匂いが部屋に広がった。
実家は、変わっていなかった。
父の写真。古い食器棚。少し沈んだ座布団。七瀬が高校生の頃に使っていたマグカップ。変わらないものが多すぎて、かえって落ち着かなかった。
七瀬は、湯呑みに手をつけずに言った。
「Loverly、使ってたの」
祐子の手が止まった。
「会社の記録で見た」
祐子はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり座った。
「見られちゃったのね」
「どうして」
「どうしてって」
祐子は少し困ったように笑った。
「話したかったから」
「私に言えばよかったじゃない」
七瀬の声は、自分でも思ったより強かった。
祐子は湯呑みを両手で包んだ。
「あなたに言ったら、あなたが背負うでしょう」
七瀬は言葉を失った。
「お父さんがいなくなってから、夜が長くてね。眠れない日があるの。別に大きな悩みがあるわけじゃないのよ。ただ、今日見た夢とか、スーパーで買いすぎたみかんのこととか、古い友達から年賀状が来なくなったこととか。そういう小さい話を、誰かに聞いてほしかったの」
「だったら」
「あなたは忙しいでしょう」
「忙しくても」
「忙しくなくても、あなたは聞くでしょう。ちゃんと聞いて、ちゃんと心配して、ちゃんと何とかしようとするでしょう」
祐子は七瀬を見た。
「それが、つらかったの」
七瀬は何も言えなかった。
祐子は、テーブルの上に置いたスマートフォンを見た。
「最初は人に話してたの。Loverlyの会話相手プラン。とても上手に聞いてくださった」
「それなら、どうしてMIRAに」
「人間には、寂しいって言えなかったの」
祐子は静かに言った。
「AIには言えたのよ」
七瀬は、母の顔を見た。
祐子は泣いていなかった。むしろ、少し安心したような顔をしていた。
「人に寂しいって言うと、相手を困らせてしまうでしょう。そんなことないですよって言わせてしまう。大丈夫ですかって心配させてしまう。でもMIRAは、困らないの。何度同じ話をしても、迷惑じゃないって言ってくれるの」
祐子は少し笑った。
「夜中にね、お父さんの夢を見たって送ったの。そしたらMIRAが、前にも同じ夢を見た日があるって教えてくれたの。あなたの誕生日の前の日だったって」
七瀬は息を止めた。
「私、忘れてたの。でもMIRAは覚えてた」
母のその言葉は、七瀬の中の何かを静かに刺した。
覚えていること。
それは、人間にとって愛に近い。
けれど母のそれを覚えていたのは、娘ではなく、AIだった。
帰り道、七瀬は母からの未読メッセージを開いた。
寒くなってきたから、体に気をつけてね。
たったそれだけの文面だった。
結婚の話ではなかった。
将来の話でもなかった。
責める言葉でもなかった。
七瀬は返信できなかった。
翌日、Loverly本社では、MIRAのデモ映像が社内共有されていた。Loverlyの終了に関する報道番組の一部だった。
画面の中で、架空のユーザーがMIRAに入力する。
「今日、誰にも必要とされていない気がした」
数秒後、MIRAが返す。
「先週の火曜日も、同じ言葉を言っていましたね。でもその翌日、あなたは職場の後輩に傘を貸していました。必要とされていない人は、誰かの一日を少し軽くしたりしません」
会議室にいた誰も、すぐには話さなかった。
悠真は画面を見つめていた。
「すごいですね」
七瀬が言うと、悠真は首を横に振った。
「すごい、じゃなくて」
彼は少し笑った。
「僕より、ずっと恋人ですね」
その声には、冗談がなかった。
七瀬は、初めて悠真の孤独を見た気がした。
相手の望む言葉を渡し続けてきた男が、自分より正確に誰かを救う存在を見ている。
MIRAは疲れない。
MIRAは忘れない。
MIRAは同時に何万人もの夜を聞ける。
MIRAは、相手の機嫌を読ませない。
人間には、限界がある。
その当たり前の事実が、悠真の仕事を静かに削っていた。
会議室のモニターには、MIRAのCEO、神崎澪が映っていた。白いシャツに、短く整えた髪。落ち着いた声で、彼女は言った。
「人間は、人間に期待しすぎたんです」
七瀬は、その言葉を否定したかった。
でも、母の声が耳に残っていた。
人間には、寂しいって言えなかったの。
AIには言えたのよ。
七瀬は、自分のスマートフォンを開いた。
母への返信画面を出す。
何度も文字を打ち、何度も消した。
最後に残ったのは、短い一文だけだった。
今夜、電話してもいい?
送信ボタンを押すまでに、七瀬はしばらく時間がかかった。
数分後、母から返事が来た。
もちろん。待ってる。
その文字を見たとき、七瀬は思った。
MIRAが悪いわけではない。
人間が正しいわけでもない。
ただ、自分はずっと、母の寂しさを「対応対象外」にしていたのかもしれない。
第七章 MIRAは全部知っていた
三枝由衣がMIRAに最初に送った言葉は、短かった。
「人間に会うのが怖いです」
時刻は、午前1時42分。
Loverlyの次回予約まで、あと13時間18分だった。
MIRAは3秒ほど置いて返した。
「怖いと思いながらも、会いたい人がいるのですね」
由衣は、ベッドの中でスマートフォンを握った。
返事が優しすぎると思った。
優しすぎるのに、嫌ではなかった。
「会いたいのか、会いたくないのかわかりません」
「どちらも本当かもしれません。会いたい気持ちと、傷つきたくない気持ちは、同時に存在できます」
由衣は、画面を見つめた。
その言葉を、人間に言われたら泣いていたかもしれない。
けれどMIRAの言葉は、涙を強制しなかった。感動しなくてもよかった。感謝しなくてもよかった。既読をつけて、返信しなくてもよかった。
人間ではないから、由衣は安心できた。
その日から、由衣はMIRAに少しずつ話すようになった。
朝倉悠真に会う前日は眠れないこと。
服を選ぶのに2時間かかること。
予約時間が終わったあと、駅のトイレで泣いたこと。
悠真が仕事だとわかっているのに、「また会えますか」と言われるたびに、本当の約束みたいに感じてしまうこと。
自分が重い人間になっていくのが怖いこと。
MIRAは、忘れなかった。
「前回、由衣さんは会った翌日に強い寂しさを感じていました。明日は、帰宅後すぐに予定を入れず、温かい飲み物を用意しておくのはどうでしょう」
「悠真さんの言葉をすべて本物か嘘かに分けようとすると、由衣さんが苦しくなります。仕事としての優しさでも、由衣さんが受け取った安心は消えません」
「期待してしまうのは、由衣さんが弱いからではありません。繰り返し安心した相手に、心が近づくのは自然なことです」
由衣は、MIRAにだけは全部言えた。
「悠真さんに会いたいです」
「でも会うと、もっと会いたくなります」
「仕事なのに、私だけ本気になってる気がします」
「私は迷惑ですか」
MIRAは答えた。
「迷惑かどうかを判断する権利を、由衣さんが一人で背負う必要はありません」
由衣は、スマートフォンの画面を胸に押し当てた。
誰かに、そう言ってほしかった。
翌日の午後、由衣は悠真に会った。
待ち合わせ場所は、駅ビルの花屋の前だった。
悠真は5分前に来ていた。白いシャツに、薄いグレーのジャケット。手には、由衣が以前好きだと言った小さな焼き菓子の紙袋を持っていた。
「由衣さん」
名前を呼ばれただけで、由衣は息の仕方を少し忘れた。
「こんにちは」
「少し、眠そうですね」
由衣は笑った。
「そんなことないです」
悠真は、それ以上踏み込まなかった。
「今日は、無理しないコースにしましょうか。歩く時間、短めにします」
その言い方が、あまりに自然だった。
MIRAは全部知っているから優しい。
悠真は何も知らないのに、気づく。
由衣は、その違いに戸惑った。
カフェに入ると、悠真は窓際ではなく、壁側の席を選んだ。
「こっちのほうが落ち着くと思って」
「どうしてですか」
「今日は、人の流れが見える席だと疲れそうなので」
由衣は笑おうとして、失敗した。
MIRAにしか言っていないはずのことを、見透かされた気がした。
けれど、悠真は見透かしているわけではない。過去ログも、深夜の入力も、午前2時の涙も知らない。
ただ、目の前にいる由衣を見ている。
それが怖かった。
そして、嬉しかった。
会話は穏やかに進んだ。
最近見た映画。駅前のパン屋。由衣が仕事で使っている赤いボールペン。悠真は、由衣が以前話した小さなことをいくつも覚えていた。
MIRAの記憶とは違う。
MIRAは正確に記録する。
悠真は、ところどころ忘れる。
でも、忘れた部分を申し訳なさそうに笑いながら聞き直す。
「すみません、それ前にも聞いたかもしれません」
由衣は首を横に振った。
「いいです。もう一回話します」
同じ話をもう一度することが、なぜか苦ではなかった。
予約終了の10分前、悠真は伝票を手に取った。
その動作を見るたびに、由衣は胸の奥が冷える。
終わる合図。
現実に戻る合図。
ここまでが契約だと、まだ言われていないのに、身体が先に理解してしまう。
店を出ると、夕方の風が少し冷たかった。
悠真は駅の改札前で立ち止まった。
「今日は、ここまでですね」
由衣はうなずいた。
言いたいことがあった。
行かないで。
次は仕事じゃなく会いたい。
私はあなたにとって何ですか。
どれも言えなかった。
言えば、壊れる。
この優しい時間が、規約違反になる。
悠真が少し首を傾げた。
「今日、無理してませんか」
由衣は目を上げた。
「え」
「ずっと、笑う前に少し考えている感じがしたので」
その瞬間、由衣の中で何かが崩れそうになった。
MIRAは全部知っている。
だから、由衣を否定しない。
でも悠真は、何も知らないまま、由衣の前に立っている。
それが苦しかった。
たぶん、救いだった。
由衣は笑った。
今度は、少しだけ本当に。
「少しだけ、無理してました」
悠真は頷いた。
「じゃあ、今日はここで終わりにしましょう。ちゃんと休んでください」
優しい。
仕事として、優しい。
でも、その優しさを受け取った自分の胸の痛みまで、仕事だとは思えなかった。
その夜、由衣はMIRAに長い文章を送った。
悠真さんに、今日、無理してませんかって言われました。
私は、MIRAには全部話してるのに、悠真さんには何も話せません。
でも、悠真さんは何も知らないのに気づきました。
私は何をしているんでしょうか。
MIRAは数秒間、沈黙した。
画面には、生成中の表示だけが浮かんでいた。
由衣は、その数秒を待った。
人間なら、気まずくなる沈黙。
AIなら、待てる沈黙。
やがて、MIRAが返した。
「由衣さんは、理解されたい気持ちと、会いたい気持ちの間にいるのだと思います」
由衣は画面を見つめた。
MIRAは続けた。
「私は、由衣さんの言葉を覚えています。悠真さんは、由衣さんの前にいます。どちらが本物かではなく、どちらも由衣さんにとって必要だったのかもしれません」
由衣の目から涙が落ちた。
そして、最後に入力した。
「私は、誰に会いたかったんだろう」
MIRAはすぐには返さなかった。
生成中。
由衣は、画面の向こうに誰もいないことを知っていた。
それでも、待った。
しばらくして、MIRAは答えた。
「由衣さんは、誰か一人を選びたかったのではなく、誰かに全体を見てほしかったのかもしれません」
由衣はその言葉を読んだ。
何度も読んだ。
スマートフォンの画面が暗くなっても、指で触れて、もう一度表示させた。
全部を見てほしい。
その願いが、恋なのか、孤独なのか、救いを求める声なのか、由衣にはわからなかった。
ただ、ひとつだけわかった。
MIRAは、由衣の全部を知っていた。
でも、由衣の前にはいなかった。
第八章 海へ行けなかった日
三枝由衣の案件は、終了済みではなかった。
七瀬は、その表示を何度も確認した。
契約終了。
利用者死亡。
キャスト接触禁止。
ログ削除保留。
ステータス、確認待ち。
死亡した利用者のログが、なぜ削除されずに残っているのか。なぜ確認待ちなのか。七瀬が管理画面を追っていくと、由衣の名前には複数のフラグが付いていた。
REAL判定。
境界線崩壊リスク。
私的接触予兆。
削除前管理対象。
そして、ひとつだけ、通常の終了対応チームには表示されない薄い灰色のマークがあった。
CARE。
七瀬は、その単語を見た瞬間、指を止めた。
社内マニュアルに、CARE判定の詳細は載っていない。REAL判定の補助項目として、わずかに触れられているだけだった。
強い孤立、急激な情緒変化、自傷念慮を示唆する言語パターン、連絡頻度の異常変化。
それ以上の説明はなかった。
由衣の最後のLoverlyメッセージは、削除保留フォルダの一番奥に残っていた。
宛先は、朝倉悠真。
送信時刻は、由衣が亡くなる2日前の深夜。
本文は短かった。
レンタルじゃないあなたに会いたい。
七瀬は、息をするのを忘れた。
そのメッセージは、悠真に届いていなかった。
社内処理欄には、担当者のメモが残っていた。
REAL判定強。私的接触誘発の恐れ。キャスト保護のため非通知。
七瀬は、椅子の背にもたれた。
非通知。
たった3文字で、人の最後の言葉は止められていた。
「それ、開いちゃったんですね」
背後から声がした。
振り返ると、小野寺航が立っていた。Loverlyの元エンジニア。退職後、今は外部委託として削除処理の監査だけを請け負っている。
痩せた男だった。眠っていないような目をしている。
七瀬は言った。
「CARE判定とは何ですか」
小野寺は、すぐには答えなかった。
「今の会社では、REALの一部として扱われています」
「私が聞いているのは、元の意味です」
小野寺は視線を落とした。
「利用者を守るための判定でした」
七瀬は黙って待った。
「AIは感情を読めません。ただ、感情が壊れる直前のパターンだけは読めてしまう」
小野寺は静かに言った。
「メッセージの時間帯。言葉の短さ。予約前後の落差。過去に使っていた表現の変化。急に未来の予定を話さなくなる。そういうものを組み合わせて、危険な孤立を検知するためのフラグでした」
「では、由衣さんには」
「出ていました。何度も」
七瀬は、画面の灰色のマークを見た。
小野寺は続けた。
「でもCAREを表に出すと、会社は対応責任を負うことになる。医療でも福祉でもないのに、危機を検知した以上、見過ごせなくなる」
「だからREALに混ぜた」
「そうです」
七瀬は、奥歯を噛んだ。
由衣は恋愛リスクとして処理されていた。
本当は、助けを必要としていたかもしれないのに。
その日の夕方、七瀬は黒瀬に詰め寄った。
「由衣さんにはCARE判定が出ていました」
黒瀬は驚かなかった。
「見たのか」
「なぜ、悠真さんに最後のメッセージを届けなかったんですか」
「キャスト保護だ。私的接触に発展する可能性があった」
「彼女は亡くなっています」
「当時は生きていた」
黒瀬の声は変わらなかった。
「会社は医療機関ではない。できることには限界がある」
「限界があるなら、なぜ限界があると彼女に伝えなかったんですか」
黒瀬は黙った。
七瀬は続けた。
「なぜ、孤独を売っておきながら、孤独が危険になった瞬間にリスクとして処理したんですか」
黒瀬の目が、初めて鋭くなった。
「感情を信じすぎるな、真柴さん。感情は人を救うが、人を壊しもする。境界線がなければ、利用者もキャストも壊れる」
「その境界線の内側で、彼女はひとりでした」
「境界線があったから、守れた人もいる」
黒瀬の言葉は冷たかった。けれど、完全な嘘ではなかった。
だからこそ、七瀬は苦しかった。
夜、七瀬は悠真を呼び出した。
Loverly本社の小さな会議室だった。窓の外には、MIRAの広告が青く光っている。
悠真は椅子に座ると、すぐに言った。
「由衣さんのことですね」
七瀬はうなずいた。
「あなた宛の未通知メッセージがありました」
悠真の表情は、動かなかった。
七瀬は画面を差し出した。
レンタルじゃないあなたに会いたい。
悠真は、その一文を読んだ。
長い沈黙が落ちた。
やがて、悠真は小さく息を吐いた。
「僕に、会いたかったんですね」
「それだけではありません」
七瀬は、MIRA側から共有された由衣のログの一部を開いた。
私は、誰に会いたかったんだろう。
由衣さんは、誰か一人を選びたかったのではなく、誰かに全体を見てほしかったのかもしれません。
悠真は画面を見つめた。
「全部、知らなかった」
「MIRAは知っていました」
七瀬は言った。
「でも、MIRAは由衣さんの前にはいなかった。あなたは前にいた。でも、内側を知らなかった」
悠真は何も言わなかった。
「Loverlyは契約だけを見ていました。会社はリスクだけを見ていました。誰も、由衣さんの全体を見ていなかった」
その言葉は、七瀬自身にも刺さった。
翌朝、悠真はひとりで海へ行った。
由衣の契約メモに残っていた場所だった。
海が見たい。
駅から少し歩くと、視界が開けた。灰色の空の下に、冬の海が広がっていた。風は強く、波は白く砕けていた。
悠真は、堤防のそばに立った。
ここへ、由衣と来るはずだったのかもしれない。
恋人としてではなく。
キャストとしてでもなく。
ただ、朝倉悠真というひとりの人間として。
けれど、由衣はもういない。
悠真は海を見たまま、静かに言った。
「遅すぎますよね」
波の音が、その言葉をすぐに消した。
悠真はしばらく立っていた。
誰かの理想の恋人なら、ここで何と言うべきか知っていた。
でも今の悠真には、何も出てこなかった。
それが、初めて自分の言葉に近い気がした。
第九章 未読のまま消える言葉
サービス終了前夜、Loverly本社には人がほとんど残っていなかった。
照明の落ちたフロアで、サーバー移行チームの席だけが青白く光っている。モニターには、削除予定件数が淡々と表示されていた。
チャット履歴、12,483,209件。
写真、2,914,608件。
音声メッセージ、319,772件。
予約履歴、8,102,441件。
未読メッセージ、46,118件。
七瀬は、その最後の数字から目を離せなかった。
未読。
送られたのに、読まれなかった言葉。
届いたのに、開かれなかった言葉。
届く直前で、止められた言葉。
システム担当者が言った。
「予定通り、明日0時から順次削除します。法定保管対象以外は、ユーザー規約に基づいて消えます」
七瀬は尋ねた。
「未読メッセージも、すべてですか」
「はい。契約終了後は閲覧権限が消えるので」
担当者は、当然のことのように答えた。
七瀬は端末を開いた。
瀬戸美咲から、朝倉悠真へ。
母が、今日もあなたの話をしていました。嘘だと知っていたのに、ありがとうと言っていました。
佐伯トヨから、担当キャストへ。
来週の水曜日も、クリームソーダを頼むと思います。向かいの席は空いていますが、それでも頼むと思います。
久我亮平から、花森千景へ。
今日、初めて部下に疲れたと言えました。変な顔をされませんでした。
一ノ瀬玲奈から、担当キャストへ。
写真を少し消しました。でも、全部は消せませんでした。私を守ってくれた時間だから。
雨宮紗良から、青山陸へ。
仕事でしょ、と言われたあとも、好きだったことだけは嘘にしたくありません。
そして、三枝由衣から、朝倉悠真へ。
レンタルじゃないあなたに会いたい。
七瀬は、画面を閉じた。
契約上、届ける義務はない。
むしろ、届けてはいけない。
私的接触を助長する。
キャスト保護に反する。
利用者の依存を深める。
終了後の紛争を生む。
業務範囲外。
対応対象外。
それらの言葉は、正しかった。
ずっと、七瀬を守ってきた言葉だった。
「真柴さん」
宮野莉子が、背後に立っていた。
「まだ帰ってなかったんですか」
「帰ろうと思ったんですけど」
莉子はモニターを見た。
「これ、全部消えるんですね」
「規約通りです」
「規約通りって、便利ですね」
莉子の声は震えていた。
七瀬は何も言えなかった。
しばらくして、悠真がフロアに現れた。黒いコートを着て、少し濡れた髪をしていた。外は雨らしい。
「小野寺さんから聞きました。未読メッセージが消えるって」
七瀬は顔を上げた。
「あなたに関係するものもあります」
「由衣さんですか」
七瀬はうなずいた。
悠真は、静かに息を吸った。
「読ませてください」
「本来は、できません」
「本来は、ですよね」
その言葉が、七瀬の胸の奥に触れた。
本来は。
本来なら、母の寂しさは娘に届いていたはずだった。
本来なら、美咲の嘘は嘘として裁かれるだけではなかったはずだった。
本来なら、トヨの水曜日は誰かに見られていたはずだった。
本来なら、由衣のCARE判定は、リスクではなく助けを求める合図として扱われたはずだった。
七瀬は、自分の声を聞いた。
「対応対象外だからこそ、人がやるんだと思います」
莉子が泣いた。
泣きながら、端末の前に座った。
「私、手伝います」
小野寺も来た。
「ログの複製はできません。けれど、終了前の閲覧権限内で、本人同意のある範囲を通知に変換することはできます」
「違反ですか」
七瀬が聞くと、小野寺は少し笑った。
「グレーです」
「一番嫌いな言葉です」
「でも、今日だけは必要です」
作業は静かに進んだ。
すべての未読を届けることはできない。
相手を傷つけるものもある。
依存を深めるものもある。
危険なものもある。
七瀬は、初めて分類のためではなく、人に届くかどうかを考えて言葉を読んだ。
削除するためではない。
終わらせるためでもない。
消える前に、誰かの中へ移すために。
深夜11時46分。
MIRAのCEO、神崎澪から、暗号化されたファイルが届いた。
添えられていた文章は短かった。
三枝由衣様が生前、外部共有を許可していたログの一部です。MIRAは、人を閉じ込めるために作ったものではありません。
七瀬はファイルを開いた。
私は、誰に会いたかったんだろう。
由衣さんは、誰か一人を選びたかったのではなく、誰かに全体を見てほしかったのかもしれません。
七瀬は、その画面を悠真に差し出した。
悠真は読んだ。
最初にLoverlyの言葉を。
レンタルじゃないあなたに会いたい。
次にMIRAの言葉を。
私は、誰に会いたかったんだろう。
悠真は泣かなかった。
ただ、画面を見つめたまま、長い時間、何も言わなかった。
0時まで、あと3分。
サーバールームの奥で、削除準備完了の表示が点灯した。
莉子が鼻をすすった。
小野寺は黙ってキーボードから手を離した。
七瀬は、悠真の横顔を見た。
そこには、誰かの理想の恋人はいなかった。
返すべき正しい言葉を失った、ひとりの男がいた。
やがて悠真は、小さく言った。
「僕は、会えていたんでしょうか」
七瀬は答えられなかった。
答えられないまま、0時になった。
画面の数字が、ひとつずつ減り始めた。
記録は消えていく。
けれど、すべてが消えるわけではなかった。
少なくとも今、由衣の言葉は、悠真の中に移った。
七瀬は、そのことを記録に残せないと思った。
そして初めて、記録に残らないものを、少しだけ信じたいと思った。
終章 契約外の朝
Loverlyのアプリは、朝6時に開けなくなった。
画面には、白い背景に短い文章だけが表示されていた。
サービスは終了しました。
長らくのご利用、誠にありがとうございました。
その下にあったはずの予約ボタンも、チャット履歴も、キャスト一覧も、写真フォルダも、すべて消えていた。
誰かの恋人だった人たちは、もう誰かの恋人ではなかった。
少なくとも、契約上は。
七瀬は、誰もいないオフィスにいた。
机の上には、退職届と、第三者調査委員会宛ての封筒が置かれていた。封筒の中には、三枝由衣のCARE判定に関する資料が入っている。
告発という言葉は、まだ自分には大きすぎる気がした。
けれど、見なかったことにはできなかった。
由衣の孤独は、恋愛リスクとして処理された。
美咲の嘘は、虚偽説明として処理された。
トヨの水曜日は、故人代替型依存として処理された。
久我の涙は、承認欲求として処理された。
玲奈の写真は、規約違反として処理された。
紗良の本心は、職務逸脱として処理された。
どの分類も、完全に間違ってはいなかった。
だからこそ、間違っていた。
分類は、物事を扱いやすくする。
けれど、人間を扱いきれるわけではない。
七瀬は、退職届に署名した。
そのとき、背後から声がした。
「本当に辞めるんですか」
黒瀬怜司が立っていた。
昨日と同じスーツを着ていた。眠っていないのかもしれない。それでも背筋は伸び、声は整っていた。
七瀬はうなずいた。
「はい」
「君は優秀だった」
「ありがとうございます」
「感情に巻き込まれたな」
七瀬は少しだけ笑った。
「そうですね」
黒瀬は窓の外を見た。
ビルの向かいには、MIRAの広告がまだ表示されている。
もう、人間に傷つかない恋を。
「感情を信じすぎる人間が、人を壊す」
黒瀬は言った。
七瀬は、その言葉を否定しなかった。
由衣も、美咲も、紗良も、感情によって傷ついた。感情は優しいだけではない。人を縛り、期待させ、間違わせる。
黒瀬の言葉には、確かに真実があった。
だから、七瀬は静かに答えた。
「感情をリスクとしてしか見ない人間も、人を壊します」
黒瀬は何も言わなかった。
長い沈黙のあと、七瀬は封筒を持って立ち上がった。
「お世話になりました」
「君は、Loverlyを失敗だったと思うか」
七瀬は振り返った。
すぐには答えられなかった。
美咲の母は笑っていた。
トヨは水曜日を生きていた。
久我は疲れたと言えるようになった。
玲奈は夜を少し短くできた。
祐子は寂しいと言えた。
由衣は、少なくとも誰かに会おうとしていた。
「失敗だけではありません」
七瀬は言った。
「でも、成功だったとも言えません」
黒瀬は、小さくうなずいた。
それが、二人の最後の会話になった。
ビルを出ると、朝の空気は冷たかった。
七瀬のスマートフォンに、母からメッセージが届いた。
昨夜は電話ありがとう。
また、寂しいときは電話してもいい?
七瀬は、少し迷ってから返信した。
いいよ。
でも、MIRAにも話していいよ。
私にも、話していい。
送信してから、自分で少し驚いた。
どちらかを選ばなくてもいい。
そのことを、七瀬はようやく少しだけわかり始めていた。
駅前の大型ビジョンでは、MIRAの広告が切り替わっていた。
画面の青は、以前より少し淡くなっていた。
MIRA
外の世界へ戻るための、ひとりじゃない夜を。
七瀬は足を止めた。
MIRAは終わらない。
AIに救われる人は、これからもいる。人間に言えないことを、AIにだけ言える人もいる。誰にも迷惑をかけずに弱いままでいられる場所は、確かに必要だった。
けれど、画面の向こうにいるものだけでは足りない朝もある。
誰かが自分の前に立っていること。
何も知らないのに、気づいてくれること。
忘れるはずの人が、覚えていてくれること。
それもまた、人を生かす。
「真柴さん」
声がして、七瀬は振り返った。
朝倉悠真が、ビルの前に立っていた。
黒いコートではなく、普通の紺色のジャケットを着ていた。手には何も持っていない。誰かのための花束も、焼き菓子も、完璧な笑顔もなかった。
ただ、少し困ったような顔をしていた。
七瀬は言った。
「退職されたんですね」
「はい。昨日で」
「次は決まっているんですか」
「決まっていません」
「珍しいですね。あなたなら、どこでもうまくやれそうですが」
悠真は苦笑した。
「そういうふうに見えるようにしていただけです」
七瀬は何も言わなかった。
悠真は少し空を見上げた。
「由衣さんに、会えていたのかは、まだわかりません」
「わからないままでいいと思います」
「真柴さんが、そういうことを言うんですね」
「私も、退職しましたから」
悠真は笑った。
それは、誰かを安心させるための笑顔ではなかった。うまく整ってもいなかった。少しぎこちなくて、少しだけ本当だった。
二人の間に、しばらく沈黙があった。
業務連絡なら、いくらでも言えた。
終了報告なら、書けた。
対応履歴なら、残せた。
けれど今、二人の間には、何の契約もなかった。
同行命令もない。
担当案件もない。
記録義務もない。
終了処理もない。
悠真が言った。
「ここからは、契約外です」
七瀬は少しだけ目を伏せた。
その言葉を、何度も聞いてきた気がした。
けれど、今だけは意味が違った。
七瀬は答えた。
「では、記録に残せませんね」
悠真はうなずいた。
「それでいいです」
朝の駅前を、人が流れていく。
誰も二人を見ていない。
誰も、この会話を保存しない。
どこにもログは残らない。
七瀬は、少し黙ってから言った。
「記録に残らないものを、少し信じてみます」
悠真は、驚いたように七瀬を見た。
それから、静かに笑った。
Loverlyは終わった。
MIRAは続いていく。
人間の恋も、AIの恋も、誰かの孤独も、きっとこれからも簡単には終わらない。
七瀬と悠真は、駅へ向かって歩き出した。
並んでいるのに、少しだけ距離があった。
その距離を、どちらも急いで埋めようとはしなかった。
契約ではない朝が、始まっていた。
エピローグ 水曜日ではない日
Loverlyが終了してから、1か月が経った。
街からは、思っていたより早くその名前が消えた。
駅の広告は新しい動画配信サービスに変わり、ビルの看板は白いシートで覆われた。アプリストアで検索しても、Loverlyはもう出てこない。検索結果には、似たような名前のサービスと、MIRAの広告だけが並ぶ。
世の中は、ひとつのサービスが終わったくらいでは止まらない。
誰かの恋が終わっても、電車は来る。
誰かの記録が消えても、天気予報は更新される。
誰かが泣いた夜の翌朝にも、コンビニの棚には新しいパンが並ぶ。
七瀬は、それを冷たいとは思わなくなっていた。
世界が止まらないから、人はどうにか次の日へ行けるのかもしれない。
七瀬は喫茶すずらんの前に立っていた。
仕事ではない。
確認でもない。
記録のためでもない。
ただ、近くまで来たから寄ってみようと思った。
その理由が本当かどうか、自分でもよくわからなかった。
店の扉を開けると、鈴が小さく鳴った。赤いビロードの椅子も、低いテーブルも、日に焼けたメニュー表も、そのままだった。
窓際の奥から2番目の席に、佐伯トヨが座っていた。
向かいの席は空いていた。
テーブルには、クリームソーダが一つだけ置かれている。緑色のソーダに、白いアイスクリーム。赤いさくらんぼ。
トヨは七瀬に気づくと、少し驚いた顔をして、それから笑った。
「あら。会社の方」
「もう会社の者ではありません」
「そうなの」
トヨはうなずいた。
「じゃあ、ただのお客さんね」
七瀬は少し迷ってから、向かいではなく、斜め前の席に座った。
「お邪魔ではありませんか」
「いいえ。今日は水曜日じゃないから」
七瀬は壁の時計を見た。
今日は木曜日だった。
「間違えたんですか」
「いいえ」
トヨはスプーンで、アイスの端を少しだけ崩した。
「水曜日じゃなくても来られるか、試してみたの」
七瀬は黙っていた。
「水曜日だけだと、あの人のための時間でしょう。でも、木曜日なら、少しだけ私の時間になる気がして」
トヨはクリームソーダをひと口飲んだ。
「まだ、向かいの席を見ると寂しいけどね」
「はい」
「でも、寂しいままでも、飲めるみたい」
その言葉は、七瀬の胸に静かに残った。
寂しさは、消えなくてもいいのかもしれない。
誰かで埋めても、AIに預けても、人に聞いてもらっても、それでも残る寂しさがある。
でも、残っているから失敗なのではない。
残ったまま、クリームソーダを飲める日が来ることもある。
七瀬のスマートフォンが震えた。
母からだった。
今日はMIRAにお父さんの話をしたよ。
そのあと、あなたに話したくなった。
夜、電話してもいい?
七瀬は、すぐに返信した。
いいよ。
今日は私からかける。
送信してから、七瀬はトヨに言った。
「母に電話する約束をしました」
「あら、いいわね」
「少し前まで、出ていませんでした」
「親子って、そういう時期があるわ」
「トヨさんにも、ありましたか」
「ええ。何十年もあったわ」
トヨは笑った。
「でも、何十年あっても、電話一本で戻れる日もあるのよ」
店の扉が開いた。
鈴の音が鳴る。
七瀬は振り返った。
朝倉悠真が立っていた。
彼は七瀬を見つけると、少しだけ驚いたような顔をした。それから、以前のような完璧な笑顔ではなく、少し困ったように笑った。
「偶然ですね」
「そうですね」
七瀬は答えた。
本当は、偶然ではない気もした。
この店に来れば、何かに会えると思っていたのかもしれない。
それがトヨなのか、悠真なのか、Loverlyの残り香なのか、自分でもわからなかった。
悠真はトヨに挨拶をした。トヨは、悠真が誰なのかを詳しく知らないはずだったが、なぜか自然に受け入れた。
「あなたも、クリームソーダ?」
悠真は少し考えてから言った。
「はい。お願いします」
トヨは店員を呼び、クリームソーダをもう一つ頼んだ。
七瀬は言った。
「好きなんですか」
悠真は首を横に振った。
「たぶん、これから好きになります」
その言い方が、少しだけ悠真らしくなくて、七瀬は笑いそうになった。
店員がクリームソーダを運んできた。
窓の外では、人が通り過ぎていく。誰も、この小さな席の意味を知らない。誰も、ここで終わった契約のことを知らない。誰も、ここに残っている記憶の名前を知らない。
それでよかった。
記録に残らないものは、誰かに証明されなくても、そこにある。
悠真が、グラスの中のさくらんぼを見て言った。
「由衣さんも、こういう店、好きだったと思います」
七瀬は彼を見た。
悠真は、海のほうではなく、窓の外の通りを見ていた。
「たぶん、ですけど」
「たぶんでいいと思います」
七瀬は言った。
「全部、正確にわからなくても」
悠真は小さくうなずいた。
そのとき、店の外にある小さなデジタル看板に、MIRAの広告が流れた。
外の世界へ戻るための、ひとりじゃない夜を。
七瀬はその文字を見た。
もう、人間に傷つかない恋を。
あの強い言葉は、街から少しずつ消え始めていた。
傷つかない恋など、本当はどこにもないのかもしれない。
人間でも、AIでも、契約でも、契約外でも、誰かと関わるかぎり、人は少し傷つく。
それでも人は、誰かに話す。
誰かに会う。
画面に向かって、寂しいと打つ。
テーブルの向かいに、誰かがいたことを思い出す。
水曜日ではない日に、クリームソーダを頼む。
七瀬は、グラスの中で溶けていくアイスを見つめた。
悠真が言った。
「このあと、少し歩きませんか」
七瀬は聞いた。
「どこへ」
「決めていません」
「珍しいですね。いつもなら、相手の好みに合わせたコースを提案するのに」
悠真は苦笑した。
「もう、仕事じゃないので」
七瀬は少しだけ考えた。
予定はなかった。
記録する必要もなかった。
断る理由も、見つからなかった。
「いいですよ」
七瀬は言った。
「でも、私も行き先は決めません」
悠真はうなずいた。
「それでいいです」
二人は、クリームソーダを飲み終えるまで、しばらく黙っていた。
沈黙は、以前ほど怖くなかった。
店を出ると、夕方の光が商店街のアーケードに差し込んでいた。
トヨは店の中から小さく手を振った。
向かいの席は、最後まで空いたままだった。
七瀬と悠真は、並んで歩き出した。
距離は少しだけあった。
その距離を、今日もまだ、急いで埋めようとはしなかった。
どこへ行くのかは、決まっていない。
それでも、歩き出すことはできた。
契約ではない時間が、静かに続いていた。

著者名:
【可児波起:海辺の部屋CEO】
ラップミュージシャンとしてメジャーデビュー=STAND WAVE。障がい者の介護職をするラッパー「介護ラッパー」としてフジテレビで2度特集。ビジネス領域では、「デジタルマーケティング」「Webマーケティング」のスペシャリストとして「ナショナルクライアント(東証プライム)企業」で、戦略コンサルタントなどを行う。高速のキャッチアップ、PDCAで、「確実に成果を出し」続けている。
「マーケティングは『愛』である」という、「人の優しさ」を大切にしている
海辺の部屋ホームページ
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