
語彙が溶けて、馴染むように
本を読むことで語彙を増やす。
これまでそんな目的で本を読んだことはなかった。
というか、読んでも語彙が増えたなんて実感を得たことは無かった。
本を読むのは好きだけれど、私にとっては誰かが描いて作られた世界を覗いて、そこに浸る一つの手段に過ぎなかった。私の中で大事なのは空気感で、読んでいて根付いてくるのはリズム感で。使える語彙が増えるなんて考えたこともなかった。
増えてきたんだろうか。身に付けてきたんだろうか?物語を読んで、語彙を増やしてきたんだろうか。いまいちピンと来ない。
私は難しい言葉や言い回しを使うのが苦手だ。使いこなせないというか、なんとなくそれらしく真似ているだけのようにしかならない。自分の内側から出てきた言葉では無いから、かもしれない。
新しい言葉に出会ったとき、それが自分の中に溶け込んで、すっと馴染んではじめて、本当に自分の語彙の中に並ぶのかもしれない。ではこれまで読んだ本の中に、取り込めずその場で目でさらっただけの言葉や言い回しが、一体いくつあっただろう。
水と油のように分離しないで、自分にうまく溶け合う言葉は、それはきっと何が何でもというわけでは無くて、人や気質を選ぶのかもしれない。
こんな言葉で紡げないよと、誰かの書いた詩に感動しながら思う。
どうしたら、この人はこれまでどんな場所で、場面で、この言葉を、目線をものにして来たんだろう?
取り込もうと思って取り込んだわけでも、並べようと思ってどこか別の場所から選び取ったわけでもきっと無くて、ただ自分の内側にならんでいた言葉を掬い上げたに過ぎないのだ。どうしたら、こんな並びになるんだろう。人間的に何かが、決定的に自分と違う気がする。私の中にそんな言葉はない。し、そんな目線も持っていない。
じゃあ私は一体何を自分の内側から、取り出して並べられるんだろう?
言葉に限らない。絵画を見ても、音楽を聴いても、なんとなく、そんなことばかり考えてしまう。
――――――――
ふと、小さい頃から好きだった本を思い出して、ページをめくる。
どんな言葉が使われていたんだろうと、ざっと目を通すだけのつもりが、一瞬でそこに満ちる空気感に呑み込まれて、すらすらと文字を目で追ってしまう。
そこには、難しい言葉はほとんど見当たらない。大人も対象の文庫本だけれど、作者の先生は児童文学作家だから優しい語り口調で、どのシリーズも比較的平易なことばで綴られる。日常の中にファンタジーが織り込まれたような物語。登場人物の葛藤や喜びや、合わせて移ろう景色がそっと、あたたかく紡がれている。
読み始めた瞬間、不思議なくらい、文章が自分に馴染むのがわかった。
話の内容はなんとなくしか覚えていなかったけれど、何度も何度も反芻した文体だからなのか、水のようにすっと入ってくる。溶け込んでくる。
溶け込んでいる。
そこでふと、ああ、と納得した。
この先生の物語は、どうか世界が優しく、あたたかくあって欲しいと願うような空気に満ちていて、
それは私が、今も昔もずっと、心のどこかに秘めているものと似ている。
私は、自分を優しくなんかないと思う。
優しい人と言われることは度々あるけれど、本当はそんなことないと、後ろめたく思うことが増えるばかりだ。
ずるい部分や、暗く重く、冷たい部分を沢山抱えていて、それを人前に出さないように、見られないようにと必死なだけであって。誰しもそうかもしれないけれど、私も決して心根のまっすぐな、優しい、綺麗な人間なんかではない。そんな想いや後ろめたさが、常にどこかにある。
同時に、自分も世界も、常に優しくあればいいのにと、切実に願いたくなる気持ちも抱えている。それらは自分の中で相反する要素で、自分の至らない部分ばかり目につく時には、そんな祈りを掲げようとする自分が馬鹿らしく、恥ずかしく思えてきてしまう。同時に、こんな自分でも、本当は優しくありたいのだと、本当の本当はそう思っているのだということにまだ、一縷の望みを抱いて、自分もきっとまだ捨てた物じゃないはずだと、奮い立つような気持ちになることもある。
小さい頃から愛読していた物語の、その世界観や空気感に、少なからず影響を受けたような気はしていた。
私はあの本達から、難しい言葉たちを受け取ってはいない。もっと身近で、素朴で、でもあたたかい言葉や、気持ちや、世界の見え方を受け取っていた。
きっと、それが自分に溶け込んでいる。
自分がどんなにずるくても、本当に嫌な人間だと思えても、心の内を覗けば本当は優しくありたいと、世界が優しくあってほしいと思う自分がいる。そういう気持ちを与えてもらっていたのだ。そういう、祈るような想いや作風が自分に溶けて、馴染ませてもらうことができたから、どんなに重たく冷たい、或いは空虚な気持ちに満ちたときでも、人や世界を呪う気持ちにはならないのだ。嫌なものを目にしても、自分が信じられなくなりそうなときでも。そういう祈りや空気感としての優しさが自分に根付いているおかげで、全てを嫌わずに済んでいるのだろうと、思った。
分かりやすく物を伝えるために、語彙を増やすのは大事なことだと思う。けれど結局、言葉を辿った先、その根っこにあるのは自分の心で、気持ちだ。
格好つけたいから、見栄を張りたいからという気持ちで言葉を選んでも、きっと空っぽになってしまう。
逆にどんなに抽象的で、支離滅裂で、字面だけでは何を言っているのか全くわからないような言葉の並びでも、本当にその人の想いを辿って、掬い上げられた言葉なら、何故か感動してしまうし、何故か心に響いてくる。そう感じる瞬間が、作品が、結構沢山ある。
狙って緻密に作られたものにも良さはあると思うけれど、私が本当に納得のいく何かを形にするのであれば、きっと見かけにばかり囚われてはいけないんだろうと思う。言葉は一つのツールだ。その言葉の表面の光沢ではなくて、その言葉が連れてくる景色や感情が、本質で、目的で、本当に捉えるべきものなんじゃないかと思う。少なくとも、自分の表現として何かを行う際には。
使いこなす、というと簡単だけれど、大切なのは自分の内側にあるものを適切に、温度感や手触りを失わせずに、言葉にするための形態として、無理せずともその言葉を掬い上げられるかどうか、或いは浮かび上がってくるかどうか、なのではないか。
思えば子供のころから、それらしく見えること、自分がそれらしく紡ぎだせることにばかり楽しさや面白さを見出していた。
それではいつまでたっても、自分の表現なんて生まれてこないんだろうと思う。
描くこと、自分が「描ける」ということではなくて、自分が描きたいもの。
それをちゃんと捉えて、形にできるのは、多分まだずっと先だ。
でもいつか、胸を張って掲げられたら良いなと、思う。